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<ノベル>
もし自分が同じ立場だったらという仮定に立って相手の心情を推し量るのは何も特異なことではないだろう。
(……同じような思いを抱くかも、ね)
そして、その方法で思考した吾妻宗主はそんな結論に至ったのだった。
自分が映画で演じた役が実体化したら、そしてその役が何かしらの災厄をもたらしたら。俳優ではない人間にとってそんな状況はあくまで想像の世界の出来事だ。だからこそ――経験という名の実感を得ることができないからこそ、安易に早川の思考を否定することはできないし、してはいけない。
今の早川は疲れているのかも知れない。それに、彼はどうやら独特なものの考え方をする人間のようだ。早川が抱いている思いをすべて聞いてみたいし、彼に告げたいこともある。
「それは?」
銀幕市立中央病院の一角、早川巧が眠る病室で準備を整えながら、香玖耶・アリシエートが首を傾げていた。彼女の瞳は刀冴の手の中の水晶玉に向けられている。
「ああ、夢の中で使おうと思ってな。守役に言って捜させた」
以前古民家で香玖耶と食事をともにしたことがある刀冴は親しみのこもった笑みを返す。「正確には、捜させたのはこの水晶の中のもの……ってとこなんだが」
清流のように透き通った水晶玉が大きな掌の中で涼しげな音を立てる。その中に何かが封じ込めてあることを感覚的に悟ったのだろう、香玖耶はアメジストのような瞳でしげしげと玉を見つめた。
「羨ましいもんだな」
「は?」
「その水晶玉が羨ましいって言ったのさ。綺麗なお嬢さんにそんなふうに見つめてもらえるなんてね」
イェルク・イグナティという名の翼人が片腕で香玖耶を抱き寄せ、挨拶代わりのキスを頬に落とした。といっても色欲を感じさせぬさりげないしぐさだったから、香玖耶も香玖耶で目をぱちくりさせている。
「近くで見ると更に綺麗な目だ。ああ、もちろん目以外も美しいけれど。この紫……ええと、こっちの世界ではラベンダーっていうんだっけ? あの紫の花に似てるね」
「ラベンダー……ね」
何か思い出すところがあったのだろうか、香玖耶は微苦笑を浮かべて短く礼を言っただけだった。
そんな四人から少し離れた所で、リゲイル・ジブリールだけがうつむいている。大粒の瞳は複雑な色を浮かべ、長い睫毛の下で沈黙しているだけだ。
(心配だけど……でも)
早川が眠ったまま目覚めないと聞いた時は驚いた。しかしバレンタインの一件がどうしても頭から離れない。リザという名の友人に早川がなした仕打ちを忘れることなどできない。
だからといって眠り続けていても良いなどとは思わない。早川には妻と子もいる。家族のためにも早く目を覚ましてほしいと願ってリゲイルはこの場所に来た。
「皆さん、お待たせいたしました」
ミダスからもたらされたニュクスの薔薇を手にした植村直紀が姿を現した。準備は良いかという植村の問いに四人はめいめいに肯きを返す。
リゲイルだけが答えずに、イェルクの腕にそっと触れた。
「ん。どうしたい、可愛らしいお嬢さん」
「……ちょっといいですか」
気さくな笑みにほんの少し気持ちがほぐれたが、それでもわだかまりは消えない。
「早川さんのことなんですけど……その……わたし、バレンタインの時、一方的に怒って文句言っちゃったから」
リゲイルと一緒にリザの枕元に居合わせたイェルクは「ああ」と曖昧な相槌を打った。
「もしかして早川さんを傷つけたり悩ませたりしてしまったのかなって、それで……」
多感な少女の声はアンプのボリュームを絞るように消え入ってしまう。
あの時のリゲイルを支配していたのは早川に対する憤りだけだった。どんな理由があろうと早川の仕打ちに納得することはできないが、一方的に怒りをぶつけてしまったことは小さなしこりとなって胸に居座っている。早川に尋ねなければ分からないことではあるだろうが、一人で抱え込んでいては落ち込む一方だし、あの時一緒にいたイェルクに聞いてほしかった。
小さく唇を噛んでうつむいてしまったリゲイルの肩を抱き、美しい赤毛に唇を寄せてイェルクはくすりと笑う。
「気にしているなら謝れば良いのさ。もし間違いだと思うなら、間違いを正す機会が巡って来たと思って自分の想いを早川に伝えればいい」
女の子らしい悩みだと微笑ましく思いながらも、イェルクは「ただ」とかすかに苦笑して言葉を継いだ。
「文句を言われた程度でへこむような奴なら、そもそもあんな真似はしないんじゃないかと俺は思うけどな」
そう――早川はリザを殺そうとしたのだ。
(その汚れた手で愛する家族の元に胸を張って帰れるのか?)
火にくべられた薔薇の煙を見据えながら、イェルクはここには眠り続ける早川に真っ向から問いを突き付ける。
(そこまで思い詰めた原因をじっくり聞きたいもんだが……さて、どうなるかね)
五つの視線と想いを受けながら薔薇は溶けていく。炎に舐められ、緩慢に身をよじらせながら。
薔薇の煙を吸って意識が遠のいたと思ったら、次の瞬間には黄昏のような中途半端な薄闇の中にいた。ここが早川の夢の中なのか。映画館のような巨大なスクリーンだけが点在する、このひどく中途半端な闇が。
(時間はかけられねえ)
真っ先に動いたのは刀冴だった。瞳孔が白金色へと変じ、清冽な風が渦巻く。
覚醒領域。未知の領域での探索と索敵を最も合理的に行い得る方法だろう。目覚めた後にあの反動は顕れるだろうが、そんなものは躊躇う理由になどなりはしない。
「刀冴さん」
刀冴の瞳の中で瞬く銀色の光に気付いたリゲイルがかすかに不安の色を浮かべるが、刀冴は「大丈夫だ」と笑ってリゲイルの頭を撫でた。刀冴の手の下でリゲイルも小さく肯く。刀冴が大丈夫だと言うならきっと大丈夫なのだ。
「理を導く七つの星々。知性の水を担いし石よ、我らに加護を――」
不意に響くイェルクの詠唱。それに従うように現れた橙色の光が五人を包み込む。紅の宝石の首飾りの中から取り出された小さな石がイェルクの手の中で温かな色の光を放っていた。
「精神を強化する作用がある。このメンバーなら必要ないかも知れないが、ま、備えあれば何とやらってな」
「ありがとう。確かに、何が起こるか分からないものね。夢の中なんだから……」
薄い灰色の中におぼろげに浮かぶスクリーンを視界の端に捉えながら、香玖耶は半ば無意識のうちに胸のロザリオに触れていた。
「あれは……絹かな」
同じくスクリーンを気にしていた宗主がぽつりと呟いた。「普通のスクリーンとは違うようだけど」
「宗主兄様」
「うん、分かってる。一人で動いたりはしないよ。ちょっと気になっただけ――」
リゲイルの声に穏やかに振り返った宗主であったが、その言葉が最後まで続くことはなかった。
スクリーンに気を取られていたのはほんの数秒だったのに、先程までそこにいた筈の四人の姿が、まるで嘘のように消え失せていたのだ。
「みんな?」
いらえはない。
緑色の目が静かに、しかし油断なく周囲を見渡す。まんべんなく広がる薄い闇。ぽつりぽつりと点在するスクリーン。そよとも動かぬ風景の中、宗主だけがその場にぽつりと取り残されていた。
(やっぱり絹に似てる。それに……少し目が粗い)
スクリーンはまるで手織りの反物のようだった。遠目には分からなかったが、近付いて目を凝らしてみれば織り目の不規則さがはっきりと見てとれる。
スクリーンを検分する宗主の肩の上でバッキーがすんすんと鼻をうごめかせている。
「……ラダ?」
かと思うと、ピュアスノーのバッキーは梅干しを食べた人間のようにきゅっと顔をしかめ、宗主の髪の毛の中にすごすごと退散してしまった。
カタカタカタ。
映写機が回る音を聞いた気がした。
『絵? 描かないよ』
不意に耳朶を打ったその声にすっと肝が冷えた気がした。
聞き慣れている筈なのにひどく違和感のあるその声は――他でもない吾妻宗主自身の声。
カタカタカタ。
時折テレビで見かける古い記録映像のようだ。ぼやけ、痙攣しながら、ようやくスクリーンの上で像を結んだのは宗主の姿だった。いつもの銘柄の煙草をふかし、長い髪をいつものように緩くひと束ねにした吾妻宗主であった。
『絵なんか描くわけないじゃないか。だって、何にもならないだろ』
ああ、それでも。
緑色の目に銀色の髪、華奢で繊細な白い指、中性的な面立ち、細身で長身の体。何もかもが吾妻宗主であるのに、スクリーンに映るその男は宗主では有り得ない。
『夢なんか見たってしょうがないよ。現実を見なきゃ、さ』
釉薬のような色をした唇に浮かぶ微笑は廃れ、歪み、ひどく卑屈で、乾き切っていて。
目を背けたくなるような姿であるのに、スクリーンの外の宗主は微動だにせぬまま己の姿を見つめている。
宗主と同じ煙草を吸い、耳には宗主が愛用しているのと同じ蝶のピアスを着け、スクリーンの中の男は観客に向かって淡々と絵を、夢を否定する。艶めかしささえ感じさせる形で組まれた脚が時折無機質に痙攣し、小さな虫のような黒い線や点が整った面の上を無遠慮に這いずっていく。まるで古いフィルムでも映写されているかのように。
それでも宗主は動かない。
ただ黙って、苦い表情のまま、スクリーンの中に投影された己の姿を見据えている。
『要は無駄なのさ。そうだろ?』
「……違うよ」
スクリーンの外側で、穏やかな緑眼がゆるゆると細められた。
「こんなのは、俺じゃない」
それは静かな、しかし断固とした否定の言葉。
それが合図にでもなったのだろうか、スクリーンの映像は唐突に途切れ、宗主によく似た宗主でない男はぶつりと姿を消した。
(何が起こるか分からないっていうのはこういうことか……)
暗転したスクリーンに触れようとした手が不意に凍りついたように止まる。
虫である。丸々と太った、人間の赤子ほどの大きさの白い芋虫である。
体中に棘を生やした芋虫がスクリーンの後ろで待ち構えていて、宗主の手が伸びてきた瞬間にスクリーンを食い破ったのだ。
「――――――!」
まさに電光石火であった。この虫は不吉だと本能で察した宗主の脚が鋭角の軌跡を描いて振り下ろされる。狙い過たず虫の体にめり込んだ足の裏にぐにゃりという嫌な手ごたえを感じた。腐肉を踏みつけるとこんな感触があるのだろうかという不気味な想像がちらと脳裏をよぎった。
醜悪な虫は緑色の内容物をはみ出させながらびちびちとのた打っていたが、すぐに動かなくなって砂へと化す。
(今の……棘がなければ蚕に似ていた気がするけど)
ちょうど同じ頃、自分以外の四人も独りきりでこのスクリーンと向き合っていたことを宗主はまだ知らない。
カタカタカタ。
回る、回る。映写機は回る。
「宗主兄様?」
リゲイルもまた、曖昧な闇の中にぽつねんと佇んでいた。
「刀冴さん。イェルクさん……香玖耶さん」
答えるのは沈黙だけだ。大きなバッキーだけがリゲイルに寄り添っている。
「……早川さん。いるんですか?」
バッキー以外の力を持たないリゲイルに早川の居所を探り当てることは難しいが、声は届くと信じたい。
「戻って来てください。目を覚まして。お願い……」
リザの一件に納得することはできないけれど、それでも。
しかし――というよりは、やはりというべきだろうか。リゲイルの声は灰色の闇に吸い込まれ、消えていくだけだ。
代わりに、無機質な音が静寂の中で震える。
音の元を探るように視線を巡らせたリゲイルはひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。
スクリーンが。少し離れた所にあった筈のスクリーンが、いつの間にか目の前にまで接近していた。まるで映画館の最前列の席に座っているかのように。
(映画館、って)
薄い寒気がそわそわと背筋を這い上がった。
映画。銀幕市に来てからは一度も観ていないもの。
『ただの自販機やんか』
呆れを含んだ少年の声。スクリーンの中で苦笑いしているのは狐面を額の上に押し上げた赤マフラーの少年。彼と一緒に自動販売機の前に立ち、大きな瞳を更に大きくしてしきりに首をかしげている髪の長いリゲイル・ジブリール。
(漆く――)
『でも、これどうやって使うの? カード入れる所が……あ、分かった、ここに入れるんでしょ?』
現金の使い方を知らず、カードを所有してはいても持ち歩いていないリゲイルは紙幣の挿入口を見つけ、得意そうに胸を張ってみせる。
『ちゃう、ちゃう。これはな、ここにこう……』
『え、なんで、なんで? なんでこれでジュースが出てくるの?』
慣れた手つきで硬貨を投入して缶ジュースを買ってみせる少年に、スクリーンの中のリゲイル・ジブリールは目をぱちくりさせている。ある意味ではリゲイルよりも現代社会に馴染んでいるムービースターの少年は苦笑いしつつ、温かな瞳でリゲイルの頭に手を置いた。大きな――リゲイルに比べれば、という意味だが――手の下で、長い赤毛の少女はくすぐったそうに微笑む。
『んー。いい気持ち』
『お嬢は晴れが好きやんなあ』
『うん。ずーっとずーっと晴れがいい。あ、ねえねえ、次はあれ』
『引っ張らんといてや』
スクリーンの中は晴天の街だ。何の変哲もない青空の下、いつもの街を歩きながら他愛もない言葉を交わす二人。ころころとせわしなく表情を変えるリゲイル・ジブリール、彼女に腕を引かれて苦笑しながらも抗おうとはしない忍の少年。
古い記録映像のように時折乱れながら映されるそれは何気ない日常のひとコマ。それなのに、どうしてこんなにも鼻の奥がツンとするのだろう?
分かっている。頭では分かっている。
それでも……有無を言わさずシネマの最前列に座らされて、彼はもういないのだと、もう二度と会うことはできないのだという事実をスクリーンに容赦なく大写しにされて、誰が眉ひとつ動かさずにいられようか。
彼の笑顔を直視できなくて思わず目を逸らしたリゲイルに、意地の悪いスクリーンが更に追い打ちをかける。
緩やかなオルゴールの音色。郷愁を否応なく、しかし優しく揺さぶるそれはまるで子守唄のようで。
『リガ、リガ。叔父さんが来てくれたわよ』
スクリーンの中で微笑む女性の声も、顔を背けたリゲイルの瞳を震わせるには充分すぎて。
ああ――それは、遥か彼方、霧の向こうにありながらも、決して薄れることはないかつての記憶。
変わり者でマイペースの父。娘には甘い母親。たまに遊びに来る父の弟はまだ大学生だ。たくさんの愛情と笑顔に囲まれ、金銭的にも何不自由ない暮らしを送っていた、二度とは戻れぬあの頃の日々。
カタカタカタ。
カタカタカタ。
無表情に回り続ける映写機。淡々と展開される五歳以前の記憶。父親、母親、そして叔父。大切な人たちの腕の中で幸せを絵に描いたような笑みを浮かべるリゲイル・ジブリールの前で、バッキーを抱いたリゲイルはかすかに唇を震わせる。この日々が長くは続かぬと知っているから。豪雨に見舞われたあの日にこれが全て奪われるのだと今のリゲイルは知っているから。
狐面の少年と笑い合っていた髪の長い少女も、家族に抱かれた幼子も、何も知らない。何も知らないからああやって笑っていられるのかも知れない。それを見つめる十五歳のリゲイルだけが息を呑み、速まる鼓動を懸命に抑えつけながらスクリーンの前で立ち尽くしている。
抱き締めたいほど愛しい記憶だ。夢で会えたらと思うこともある。それでもまだ、幸せな記憶として浸れるような思い出に昇華されてはいない。
誰のせいにもしない。誰かのせいだなんて思わない。ただ会いたくて、会いたくて、だけどもう会えなくて。分かっているけれど、会いたくて……御しがたい感情が次々に溢れて、多感な少女の胸はすぐにいっぱいになってしまう。
けれど、消えようのない悲しみを突きつけられて尚、一番大事なことはちゃんと判っている。
比べようもないほど幸福であるのだと。あの少年と出会えなかったことよりも、他の親の下に生まれることよりも。
だから――胸を切り裂かれるような記憶を見せつけられて少し揺らぎはしたけれど、決して迷いはしなかった。
「ありがとう」
そして、スクリーンを真っ直ぐに見詰めてそう告げた。「あなたたちと出会えて、わたしは幸せです」
大写しにされた画像と音声が壊れたテレビ画面のように乱れ、ぶつりと途切れる。
危険を察知して飛び出したバッキーが、スクリーンの後ろでリゲイルを待ち構えていた不気味な虫をぱくりとひと呑みにした。
カタカタカタ。
意地の悪い映写機は回る。
『半端者。こんな奴がどうしてあの方に……』
『人間でも天人でもねえくせに』
『てめぇなんぞ生まれて来なきゃ良かったんだ』
『殺すのも面倒だ。おーい、誰かこのゴミを始末してくれよ』
『立てオラ! 不要物ならせめて俺たちを楽しませてみろや!』
嘲笑。侮蔑。暴力。否定。
恐怖。苦痛。悲嘆。絶望。
『人間でも天人でもねえくせに』
アア……ソノ通リダ。
『生まれて来なきゃ良かったんだ』
ソレモソノ通リナノカ?
ソウカ。ソレナラ、コイツラノ言ッテルコトハ全部事実ナノカ。
「………………」
守役が率いる剣武隊の隊員数名――守役の愛情を一身に受ける刀冴に嫉妬していたらしい――に誘拐されて痛めつけられる過去の自分を、スクリーンの外の刀冴は無言で見詰めている。
一緒に夢の中に来た筈の四人とはいつの間にかはぐれてしまった。覚醒領域を維持している今の状態なら彼ら彼女らをたやすく探し当てることができたかも知れないが、スクリーンの前から動くことはできなかった。
古ぼけた映画のように、乱れ、痙攣し、震えながら流れ続けるかつての記憶。屈強かつ勇猛な武人である刀冴も、当時はわずか十二歳、外見で言えば八〜九歳の子供に過ぎなかった。本格的に剣の鍛錬を始める前であったし、世界最高峰の殺戮集団と呼ばれる剣武隊の隊員に抵抗する術などある筈がなかった。
体は死ぬ寸前まで痛めつけられた。心は壊れる寸前まで踏みにじられた。蹴られ、殴られ、刺され、絞められ、自分という存在そのものを完膚なきまでに否定された。
「………………」
否、もしかすると、心はいったん粉々に砕けてしまったのかも知れない。
凛と背筋を伸ばし、胸を張ったままの刀冴の前で、スクリーンの映像は無表情に切り替わる。
床に伏し、うなされ続ける幼い刀冴。心配した守役自身が運んできた食事を拒み、無理やり口に運べば吐き戻し、つじつまの合わないことを口走る刀冴。守役と、心配して様子を見に来た祖母の前で昏睡状態に陥る刀冴……。
守役に救出された後も数か月間はそんな状態が続いた。周囲のケアもあって後に回復することができたが、こちらの世界で言う心的外傷後ストレス症候群、いわゆるPTSDに陥っていたのかも知れない。天人の気高い姫君であった祖母は人間の血を持つ刀冴に対してよそよそしい態度を取り続けたが、さすがにこの時は何度か顔を見せた。祖母を嫌いきれない複雑な思いが今も胸に居座っているのはそれが理由であるだろう。
自分の奥底に『仄暗い場所』が刻みつけられた経緯をこれでもかというほどつぶさに映し出されて、スクリーンの前の刀冴は軽く瞑目する。
家族を失って天人の国に移り住んだ刀冴は、この事件がきっかけとなって人間の世界へ戻る決意を固める。そして祖国を取り戻す戦いに身を投じ、青狼軍の将軍としてその名を轟かせることになるのは周知の通りだ。
「でも、まァ……」
やがて刀冴の唇に浮かんだのは諦観めいた複雑な苦笑であった。
「今更、なァ?」
それはあるいは甘受、自己肯定であったのかも知れない。
祖母が家族になってくれなかった事実と共に、この光景が自分を形作ったことに変わりはない。今も自分の中に凝る虚ろに変わりはない。それでも、沢山の思いを沢山の人々が注いでくれたから、守られる喜びと守る喜びを知っているから刀冴は躊躇せずに進むし、進んでいける。
カタカタカタ。
静かに目を開いた刀冴の前でスクリーンの映像が再び切り替わる。
雪。戦禍。倒れる家族。冷たくなっていく家族の手を、震えながら懸命に温める六歳の刀冴。六歳といっても、外見でいえば三歳程度に過ぎぬ。そしてそんな幼子を遺して逝くことを詫びつつも、家族たちの顔に浮かぶのは誇りと充足と感謝で。
ありがとう。楽しかった。大好き。家族はそんな言葉を遺して斃れていく。思えば、これが刀冴の底にわだかまる虚ろな絶望や突き抜けた諦観を形作る発端となった光景なのかも知れない。
「ありがとよ」
だが――愛しげに目を細めた刀冴は、誰にともなくそんな台詞を口にするのだ。
「懐かしい顔見せてくれて」
家族が死んだことにはもはや納得しているし、誇りにすら感じている。二度とは会えぬ彼ら彼女らの顔を見られたことがただ嬉しい。
だから、刀冴は目にも留まらぬ速さで深紅の大剣を抜き放ち、スクリーンを真っ二つに切り裂いた。
袈裟掛けに崩れ落ちる白と、同じく真っ二つにされた棘だらけの芋虫。赤ん坊ほどの大きさの醜悪な蚕は粘着質の糸と体液を撒き散らしながら砂へと変じて消えていく。
「悪ィが、俺は繭にはならねえ。他を当たってくれ」
スクリーンの後ろにこの虫が潜んでいたことに気付かぬ刀冴ではない。
「ま、ここに入ってきた五人の中にゃテメェに取り込まれるような奴はいねえだろうがな」
回る、回る。カタカタと回る。
望まぬものを探り当てて見せつけ、嘲笑おうとでもしているのだろうか。
薔薇の煙を吸ってここに入り込んだ時からスクリーンの存在には気付いていた。薄墨のように広がる闇の中を香玖耶は慎重に進む。はぐれた四人のことは心配だが、あの四人なら自分たちで何とかするだろうとも思っている。
ならば合流するまでの間に早川の意識を少しでも探りたい。この空間には早川の気配が満ちている。早川の夢の中なのだから当然と言えば当然かも知れない。
「早川さん、聞こえる?」
凛とした声が薄闇の中に響く。
「聞こえるなら、あなたの声を聞かせて」
人の想いを繋ぎゆく者として、香玖耶・アリシエートという一人の存在として、まずは早川の思いを静かに聞きたい。そうしなければ何も始まらない。
(ああ……ジャーナルでよく見る顔ですね。アリシエートさん、でしたか)
そして、エルーカたる香玖耶の能力は早川の声を確かに掴んだのだ。
「香玖耶でいいわ。初めまして、よね。今、銀幕市ではあなたみたいに眠り込んだまま目を覚まさない人たちがたくさんいるの」
(眠り込んだまま? ああ……そうなんですか。僕は眠っているのですか)
他人事のような冷めた言い方に香玖耶はかすかに眉根を寄せる。
「あなたが関わった事件、ジャーナルで読んだわ」
(それで、僕に言いたいことがあるからここに来てくれたと?)
「そうじゃないの。ううん……伝えたいことはあるけど、まずはあなたの考えを聞かせてくれない?」
薄闇が身じろぎをした気がした。まるで醒めた息を吐くかのように。
(今更付け足すことはありません。恐らく、あなた方が事前に収集した情報以上のことはありはしませんよ)
「ジャーナルに書いてあった通りと思っていいってこと?」
(ええ)
「じゃあ」
突き放すことこそしないものの、積極的に受け入れようとする気配は感じられない。それでも香玖耶は粘り強く言葉を重ねた。
「銀幕市の混乱を“魔法がなければ起こるはずのなかった災厄”って言うけど、それは少し違うんじゃないかしら。魔法なんかなくたって、映画は……映画だけじゃないわね。“夢”全般かしら。フィクションとかメディアとか、そういうものは元々希望も絶望も持ち合わせていると思うの」
いらえはない。しかし声は届いていると信じている。
作り手にとっては虚構である映画も、受け手の中で虚構を超える事がある。良い意味でも悪い意味でも生き方を変える程の衝撃を与えることがある、それが映画という名の夢ではないのか。希望が人を輝かせる反面、メディアやフィクションに溺れた人間が引き起こす事件も決して少なくはない。
「俳優を続けていればいずれ向き合わなきゃいけないことよ。この街の魔法は分かりやすくそれを示しただけ……魔法がかかる前から夢は二つの側面を抱えてる。希望だけの甘いものじゃない筈よ」
(素晴らしい演説ですね。だけど頭の悪い僕には論点のすり替え、あるいはこじつけにしか聞こえない。それに、僕は夢の受け手のことだけを話しているわけじゃありませんよ)
薄い闇が苦笑いでもするかのようにさざめいた。
(現実に引きずり出された夢自身の歪みや苦悩は? それも“魔法が掛かる前から夢が抱えている正と負の側面”ですか?)
早川がくつと唇の端を歪める気配がはっきりと感じられて、刹那、香玖耶は口をつぐんだ。
「待って……待って。実体化してしまった悪夢に対しては夢と夢を見た人々が懸命に守ろうとしているの、苦しむ人がわずかでも少なくなるように。及ばないところもあるけれど、それは分かって――」
(自分たちはこんなに努力している、だから認めて、責めないで……と?)
揚げ足とりでしかない皮肉はまるで拒絶の証のよう。
――空気が温度を下げた、気がした。
香玖耶の瞳が揺れた。何をどこで間違ったのだろう。何が早川を頑なにさせてしまったのだろう?
(知った顔で理屈をこねたいのなら、事の本質を正確に把握してからにしてもらえませんか……)
それっきり、まるでテレビの電源を切るように早川の気配はぶつりと途切れた。
代わりに視界いっぱいに広がる白。それは絹という繊維に似て、不吉な光沢を放っている。
そう。ずっと気になっていたあのスクリーンが、いつのまにか眼前にまで迫ってきていた。
カタカタカタ。
映写機が回るその音がなぜか不吉の前兆に思えて――どうしようもなく不安になって、身を固くする。
カタカタカタ。
ああ、まるで古い映画のよう。映像は不安定で、揺らめき、ノイズが走っているというのに、その色だけはやけに鮮烈に香玖耶の網膜を刺激するのだ。
白を彩るのは、朱。あの少年から勢いよく噴き上がった、血潮という名の、残酷なまでに真っ赤な色彩。
「――――――」
彼は斃れる。カグヤであった頃の香玖耶が受ける筈だった恐怖と悪意の矛先を代わりに受けて、目の前で呆気なく崩れ落ちる。
夢にまで見た。何度も何度も見た。それでも、この光景に慣れる日は永遠に来ないだろう。
眩暈がしそうだ。夢の中でまで夢を見ている。けれどこの夢は現実の香玖耶をも震わせ、打ちのめし、激しい後悔と悲嘆と絶望を連れてくる。
所詮映像だ。顔を背けてしまえばいい。それができないのなら目を閉じてしまえばいい。たったそれだけのことでこの光景を見ずに済むというのに、瞬きすらできず……唯一のよすがであるかのようにロザリオを握り締め、その場にへたり込む。
それでも香玖耶は変わったのだ。
今の香玖耶は恐慌に陥ることも慟哭することもなく彼を見つめることができる。感情の奔流は未だに激しくこの身をと心を苛むが、最期の瞬間に、彼がわずかに微笑んでいたことに気付くことができたから。
「……馬鹿よ。お互いに」
やりきれない泣き笑いで顔をくしゃくしゃにしつつ、スクリーンの中で、朱にまみれた彼の首からこぼれ落ちるロザリオの軌跡を目で追う。
互いを案じ、互いの“幸せ”を互いに勝手に定義し、すれ違って、あげく喪った。誰よりも幸せを願っていたけれど、互いに“幸せ”の形を決めつけてしまっていた。もしもっと彼を信じていたら。もっと自分を信じていたら……結末は変わっていたのだろうか。例え変わらずとも、この身を焼くほどの後悔はなかったのだろうか。
今の早川にも似たようなことが言えるから、黙って帰ることはできない。
ムービースターに対する早川の想いはまるで親のよう。子が最も幸せになる方法を考え、それがうまくいかなければ悲嘆に暮れてしまう。親が用意した最良の道でなくとも、子は子なりの幸せを、在り方を、結末を、自分なりに見つけていけるというのに。
親が思った通りの幸福を辿らなければ泣き顔ばかりになるのだろうか。どんな道を進んだって泣くことはある。同じように、どんな道を辿っても笑う日はきっと来る。
相手を案じる気持ちは尊いが、幸せの形を決めつけるべきではない。
『俺はさ……おまえを、守れたか?』
スクリーンの中で微笑んだ少年の声が優しく鼓膜を揺らす。
命を喪う彼を抱き締めるようにロザリオを抱き締め、香玖耶はしばし瞑目する。
(私は……実体化したから、一番大切なことに気付けたのよ)
銀幕市に実体化してから得た出来事が過去と向き合う勇気をくれた。彼の最期が凄烈過ぎて心の奥底に沈めてしまっていた大切な記憶を呼び起こすことができた。
早川の言う通り、夢には負の面もあるだろう。しかし負の面があっても決して正の面が翳るわけではない。夢を愛し、希望を持つ人が数多存在するからこそスターはこんなにも存在感を持って実体化したのだ。
香玖耶がロザリオから手を離した時、スクリーンの中で事切れた彼の体を不意に何者かが食い破った。否、獰猛な顎を振りかざしてスクリーンの後ろから“それ”が躍り出たのだ。
それは芋虫だった。毒蛾の幼虫のように、醜悪な棘を体中に生やした蚕のような芋虫だった。
「やっ……何よこれ!」
香玖耶の鞭が唸り、芋虫は形容しがたい悲鳴を上げて弾け飛ぶ。
グロテスクな内容物を撒き散らしながら痙攣した虫の姿に両手で顔を覆う香玖耶の姿は、いつもの明るさを取り戻していた。
――口では早川の想いを聞きたいと言いつつその実彼の心に寄り添うことをしなかった自分こそが彼の想いの本質を決めつけていることには気付けないままだったけれど。
カタカタカタ。
回る、回る、乾いた音を立てて。
繭に身を委ねる者などいないのに、映写機は無言で回り続ける。
如何なる絶望にも折れぬ勇気を誓い、如何なる苦難も刺し穿つ覚悟を構える槍の騎士。
如何なる辛苦をも乗り越える信念を誓い、如何なる苦難を射て貫く覚悟を番える弓の騎士。
如何なる時も明日に誠実であれと誓い、如何なる苦難も斬り払う覚悟を抱く剣の騎士。
カタカタカタ。
槍の騎士の体に弓の騎士が放った矢が突き刺さり、剣の騎士が弓の騎士を斬り伏せる。
強靭な肉体に矢を受けて斃れる騎士の名はイェルク・イグナティ。
カタカタカタ。
古いフィルムでも映写されているかのよう。時折痙攣し、ノイズを這わせながら淡々と情景が展開されていく。
スクリーンの外のイェルクは皮が破れそうなほど強く唇を噛み、映画の中で自身が垣間見てしまった“未来”を真っ向から睨みつけていた。
イェルクが見たそれは予知夢。未来視には避けられる未来と避けられない未来があると言われているが、予知夢で見る未来は運命という名の不可避の未来。
前後の繋がりは分からないが、自分が弓の騎士に、弓の騎士が剣の騎士に殺される情景だけは違えようもないほどはっきりと見てしまった。目を覚ましてしまえば内容を忘れてしまうのが夢であろうに、その予知夢だけはいつまでも脳裏にこびりついてイェルクを苛み続けている。
スクリーンの中のイェルクは寝床から飛び起き、嫌な汗にじっとりと濡れた体を抱えて浅い呼吸を繰り返している。朝になれば二人の騎士とまた顔を合わせることになるだろう。いつものように振る舞わなければいけない。大らかで陽気で女好きで、二人の妻を何よりも愛するイェルク・イグナティでいなければならない。
『……認めない』
未だ明け切らぬ闇に沈む寝室で、己が腕をきつく抱いたイェルクは独り呟く。
「変えられない未来なんてあってたまるか」
ぎりと奥歯を鳴らし、呻くように低く押し出された声はどちらのイェルクのものであったのだろうか。
当事者が未来を知れば、予定調和が崩れてさらなる悲劇が引き起こされると言われている。従って、予知夢を他者に――特に当事者に話すことは絶対の禁忌だ。だから誰にも明かすことはできない。イェルクはあの予知夢が見せた“未来”を独りきりで抱えて運命に挑んでいる。
一族の中でも抜きん出た星見の才能を見込まれているイェルクだが、未来を垣間見ることや堅苦しい決まり事に縛られることを嫌ったため、修行に打ち込むことはなかった。そんな自分は占者としては未熟だ。だから、未熟者が見た予知夢が“確定した未来”などである筈がないのだと、自分に懸命にそう言い聞かせ続けている。
「ああ、そうだ。俺は未熟だ」
唇を噛み締めた歯が皮を突き破り、肉の感触と錆びた鉄の味が口の中にじわりと広がる。握り締めた拳がかすかに震えている。それは憤りであったのか、あるいは別の感情であったのか。
「未熟モンが見た未来なんか認めてたまるか!」
如何なる絶望にも折れぬ勇気を誓う騎士は、如何なる苦難も刺し穿つための槍を渾身の力で投じた。
その名はコエルス。眼前に立ち塞がるどんな盾にも決して屈することのない槍。
全長2メートルを超える槍は後ろに身を潜めていた蚕ごとスクリーンを貫き、大写しにされた映像を打ち壊した。
「……未来は変わるんだ」
砂へと変じて消えた虫を低く見据えるイェルクの肩はわずかに上下していた。「予想もできない事態だって起こり得るんだから」
そう、例えばイェルク・イグナティという映画の登場人物がこの銀幕市に実体化したように。
「おう。ここにいたか」
聞き覚えの声に気付いて振り返ると、そこには刀冴が立っていた。リゲイルに香玖耶、宗主の姿も見える。四人とも無事であるらしいことを見取ってイェルクは安堵した。
全員がこうして心を保っていられるのはイェルクの呪術のおかげのみではないだろう。五人とも、触れてほしくない場所を意地悪にほじくられただけで己を失うような者たちではない。
「きみも何か見たのかい?」
探るでもなく問い詰めるでもなく、ただそう尋ねるだけの宗主にイェルクは小さく肩をすくめて応じた。
「もしかして、嫌なものを見せられませんでしたか?」
「お、心配してくれるのかい? 嬉しいね」
心配そうに目を上げるリゲイルにイェルクは陽気な笑みを返した。「可愛らしいお嬢さんの顔を見ればヤなことなんか吹っ飛ぶってもんさ。もちろんこちらのお嬢さんもね」
リゲイルの髪にキスを落とし、あまつさえさりげなく香玖耶の肩を抱こうとするイェルクの横顔からは彼が抱えているしこりの重さは読み取れないだろう。
香玖耶にアプローチしようとしていたイェルクは宗主の視線に気付いてふと手を止める。
何だと目だけで問うと、宗主は自分の下唇を指先でちょんと示してみせた。イェルクの唇に何か付いているとでも伝えるかのように。スクリーンの前で唇を噛み締めた時に切ってしまったことを思い出し、イェルクは慌てて下唇を巻き込んだ。
(……やっぱりただ者じゃないな、こいつ)
尋ねることもせず、他の面子に気付かれないように指摘してくれたのはイェルクの心情を慮ってのことなのだろうか。イェルクが突きつけられた映像の内容をこの男が知っている筈がないのに。
イェルクの心情に気付いているのかいないのか、宗主は穏やかに、しかしほんの少し悪戯っぽく微笑んでみせただけだった。
カタカタカタ。
映写機が回り、スクリーンがたゆたう。
大きな繭の傍らで、蚕に棘を生やしたような姿の虫がするすると糸を吐き出している。
絹に似たそれは繭の上にゆるゆると降り積もり、こちら側とあちら側をゆっくりと、確実に隔てて行く。繭の中で眠る男は一体どんな夢を見ているのか。
カタカタカタ。
どこにあるとも知れぬ映写機は止まらない。
早川の居場所を示してくれる親切な案内板や標識などあるわけがない。しかし、覚醒領域を展開している上に、夢の精霊や眠りの精霊の力を借りることができる刀冴がいる。早川と早川を捉える何者かを探し出すことはそれほど難しくないだろう。
「あの虫、見たか?」
「スクリーンの後ろにいた芋虫のこと?」
刀冴の問いに、香玖耶は気味が悪そうに眉を顰めた。
「わたしたちを待ち伏せしていたみたいだった……」
「意地の悪い虫だよな。嫌なモンを見せつけて動揺させた隙に取って食ってしまおうってころか?」
「かもな。もし早川を捕えてるのがあの虫の親玉みてぇなヤツだとしたら……説得は通じねえだろう」
いざとなれば問答無用で虫を倒して早川を助けるという刀冴の言葉に四人とも浅く肯いた。
「あの虫、棘がなければ蚕みたいだった」
唯一スクリーンに触れた宗主が自分の手を見下ろしながら呟いた。すべすべとした絹のような感触が今も指先に残っている。
「絹って蚕の繭からとるんだよね。あのスクリーン、近くで見ると少し目が粗かった……手作りの織物みたいだったよ。もしあの虫がスクリーンを作ったんだとしたら」
「繭と同じ材料でできてるってことか? それなら――」
「早川さんを閉じ込めている繭は……スクリーンそのもの」
足を止めて声を震わせたリゲイルに、他の面々も無言で視線を交わした。あのスクリーンに四方を囲まれて閉じ込められているようなものだ。早川が何を見せつけられているのかなど、容易に想像がつく。
「夢の中で悪夢にうなされるなんて」
悪趣味ね、と香玖耶は小さく呟いた。ここに集まった者は幸い繭に捕われなかったが、心を常に強く持っていられる者ばかりとは限らない。弱さと強さ、矛盾するふたつの相を持つのが人間の心であることを、永き時を生きるエルーカは誰よりも知っている。
「待て。止まれ」
先頭を行く刀冴が鋭く警告の声を発した。
「……来るぞ」
告げられるでもなく香玖耶は鞭を抜き、イェルクは槍を握り、宗主は自然体で身構えた。
――薄い闇の奥からずるずると這い出てきた3メートルほどのそれを蚕と呼んでもいいのだろうか。毛虫のほうがよほど上品だとまで思えるほど醜い棘に覆われている。まるでそれは奇形の肉芽、あるいは病に侵された木の幹にできる醜悪な瘤のようだ。しかし体は不気味なまでに白く滑らかで、棘さえなければまさに蚕であった。
そして、その奥には、虫よりも更に一回り大きな白い繭がうずくまっている。
「ねえ刀冴さん、最初に早川さんを助けられない? どうにか繭を破って……」
「……どうかな。荒っぽい真似はしねえほうがいい」
繭の中の気配を注意深く探っていた刀冴はリゲイルの問いに軽く眼を眇めた。「どうやら、繭と癒着……いや、半ば同化してるみてえだぜ」
「そいつはちょっと厄介だな」
イェルクは軽く舌打ちした。槍では早川ごと刺し貫いてしまうかも知れないため、呪術で繭を乾燥させて壊そうと考えていたのだが……。繭と早川が一体化しているのならそれも難しくなる。
「何にしても、この虫をどうにかしないと繭には近付けないみたいだね。仲間もいるみたいだし」
柔らかな声を残して銀の色彩が閃く。
最初に動いたのは、巨大な虫の尻から小さな芋虫がうぞうぞと這い出しているのをいち早く見てとった宗主であった。
まるで産卵のような光景だ。親虫の体内から這い出た小ぶりな虫たちは糸を引くような粘液に包まれ、団子虫のように丸まっている。ぼとぼとと産み落とされた彼らは生まれたてのヤギのように震えながら体を伸ばし、ぬらぬらと光る体を緩慢に収縮させながら五人を目指して這いずってくる。
「ラダ。今は隠れてて」
宗主の肩の上のバッキーは長い銀髪の下にもぞもぞと潜り込んだ。安心させるようにラダの頭をひと撫でし、美しい男は醜悪な群れの中に身を躍らせた。
まるでタップダンスでも踊っているかのようだ。タタン、タン、タンとリズミカルに靴の踵を打ち鳴らしてのろまな蚕をかわす宗主の面も涼やかさを崩さない。しなやかな体は流れるように、しかしシャープに虫の間を舞う。気味の悪い虫の中にある宗主の姿は場違いなほど優雅で、色香すら感じさせる風情を纏わせている。そして、見透かしたようなタイミングで繰り出される蹴撃の何と鋭く、美しいこと!
蝶のように舞い蜂のように刺す。そんな身のこなしに一瞬見とれそうになった香玖耶であったが、目の前で体をくねらせる虫の姿ですぐに現実に引き戻された。
「気持ち悪い――なんて言ってられないわよね!」
宗主のステップと競演するように、黒いウィップが唸りを上げて縦横無尽に駆け巡る。宗主の足に叩き落とされ、香玖耶の鞭に弾かれた異形の芋虫がラダの腹におさまっていく光景の中にリゲイルのバッキーも加わった。戦闘力を持たないリゲイルの頼みはサニーデイのバッキーだけである。あるじの腕の中からゴムまりのように飛び出した大きなバッキーは弱った虫たちを次々に腹におさめていく。親玉に比べれば小さい虫だから、ある程度の数は消化できるのかも知れない。
「あ、銀ちゃん、危ない――」
「おっと、危ないのはお嬢さんだぜ!」
バッキーを気にかけるあまり注意が散漫になっていたリゲイルの背後に虫が迫るより早く翼人が飛来する。あ、と声を上げた時には、リゲイルの軽い体はイェルクの腕の中に抱きかかえられていた。
「自分の身にも気をつけてくれないかな。何せお嬢さんが怪我をしたら悲しむ人間がたくさんいるんだ、この俺を筆頭にね」
俗にお姫様だっこと呼ばれる体勢でリゲイルを抱いたまま――そして、よく回る口もとどまるところを知らないまま――、火の紋様が刻まれた石を用いて呪術を発動させる。『勇気の火』に焼かれた虫は醜く悶えながら消し炭へと化した。
「あ、ありがとうございます」
「女の子ならにっこり笑って“ありがと”でいいんだよ。ほっぺにキスしてくれれば尚良しかな。とりあえず、これは助け賃ってことで」
さりげなくリゲイルの腰やヒップにタッチするあたりはイェルクの生来の性格なのだろうか。
「よせって」
刀冴がからかうように笑った。「リゲイルの恋人に蜂の巣にされるぞ。おっかねえくらいの無表情でな」
「と、刀冴さん!」
「はは、いいねえ。恋する女は美しいってなぁ普遍かつ不変の真理だ」
体を触られてもきょとんとするだけだったのに、恋人の名が出た途端に頬を染めるリゲイルにイェルクは陽気に笑った。
「そんじゃま、俺は可愛い女の子を守るナイトってとこかな。雑魚はこっちで引き受けた」
鍛えられた肩に槍を担いで小型の虫の群れに向き直り、イェルクは刀冴を振り返ってニィと笑ってみせた。
「そっちの親玉は任せるぜ。あんたなら平気だろ?」
「おう」
悪童のような笑みに闊達な笑顔を返し、刀冴は愛剣【明緋星】を抜き放った。
糸を吐こうが毒を出そうが、刀冴にとってはただ大きいだけの芋虫だ。動きも鈍いし、目をつぶっていても倒せるだろう。
鈍重な芋虫は動こうとしない。緩慢に糸を吐き出しながら刀冴の隙を窺っている。もっとも、この程度の相手に刀冴が隙を見せる筈はないけれど。
「早川、っていったか」
繭そのものと化した早川に声が届くかどうかは分からない。だが、黙っていることなどできる筈がない。
「見せてぇものがあるんだ。出て来てくれねえか」
繭は動かない。いらえの代わりであるかのように、生白く巨大な虫だけがゆらゆらと頭を振る。こうして間近で相対してみても目らしき器官は見当たらない。それでも、虫の顔も不気味な糸を紡ぐ口も精確に刀冴に向けられている。
早川を繭に閉じ込めて、めくらの虫は何を思う。
「ねえ、答えなくてもいいから聞いて」
不気味な虫たちを鞭で打ち払いながら、先程早川に拒絶された香玖耶が刀冴に続く。早川の心は頑なに凝り固まっているのかも知れない。この目のない虫と同じように、真に大切なものを見出すこともできずに。
「私たちの力だけで安全に繭を壊すのは難しいのよ。だけどあなた自身が脱出したいと思うなら手伝うから」
「一人で閉じこもって不幸に酔いたいだけならよそでやれ。実際には何も傷付いていないのに、何を苦しむ」
リゲイルを庇いながら次々と虫を退け、厳しい態度で臨むのはイェルクだ。もっとも、辛辣な言葉を投げかけながらもこの場に赴いたのはイェルクなりに思うところがあったからなのだろう。
「前にあんたは彼女を……リザを殺そうとしたじゃないか。そこまで思いつめたのはなぜだ?」
「何を求めているのか、聞かせてくれませんか。今起こっている全ての事は貴方だけの現実じゃない。一人で責任に悩む事なんかないのに」
貴方を理解したいのだと、髪の一筋すら乱さずに立ち回る宗主が穏やかに告げる。
一人は孤独だ。一人きりで繭の中にこもっていては見えるものも見えなくなる。抱いている思いが複雑であればあるほど様々な立ち位置からの意見が必要だ。そうすれば答えも見つかるかも知れない。
早川が何をどう話しても彼の考え方を理解し、整理し、彼にとって今最も必要な言葉を探したい。反論や指摘は態度を硬化させかねないからというよりは、宗主の生来の性格によるアプローチだろう。
「宗主兄様の言う通りです。一人だけで責任を感じないで」
そもそも責任などというものが真実存在するのかどうかも分からない。だが、もし責任があるのだとしたら、それは早川一人が負うべきものなどではないとリゲイルは思う。
「責任があるとしたら……責任が誰かにあるとしたら、きっと夢を見た人全員なんだと思います。実体化して苦しんでるムービースターが居ることは痛いほど判ってます。――でも」
知らず、リゲイルの声が震える。「だからこそ、そのスター達を苦しみから救えるのはきっとムービーファンやエキストラなんです」
「そうよ。それにあなたは夢の担い手だもの。魔法が覚めた後に夢と夢見る人を守って欲しい。夢を解し夢を与える側に立つ人こそ、夢に溺れたり夢に囚われたりする人を理解できる筈よ。魔法が解けた後の世界にはそういう人こそ必要なのよ」
この魔法が終焉を迎えた後に香玖耶たちがどうなるかは分からないが、映画の中から“実体化”したスター達が魔法が消えた後の銀幕市を見届けることは恐らく難しいだろう。だからこそ、夢の持つ負の側面を見つめることのできる作り手に、魔法が解けた後の世界を見つめてほしい。
「貴方の出演作品であっても、映画となった時点で貴方の手を離れるのだと思います。人々の共有財産になる……とでも言えばいいのかな。この世界で歪んでしまった偶像の現実に心を侵されずに、気を強く持ってください。人々はきっと貴方の作品の本当の姿を覚えている筈だから」
宗主自身も早川の出演作品をいくつも鑑賞したことがある。メディアや人伝を通してという意味であるが、早川巧という俳優の人となりも少しは知っているつもりだ。
メディアを通して見る早川は物静かだが、俳優という職に対してひどく誠実な男だった。そんな彼だからこそ銀幕市の現状を目の当たりにして揺らいでしまったのかも知れないと今は思える。
「俺も貴方に伝えたいことがあります。どうしても貴方の前で、貴方の目を見て直接言いたい。だから出て来てくれませんか」
「夢だからっていつも良い夢でなければならないなんてことはないと思うんです。良い夢と悪い夢があって……二つあってきっと正しい状態なんです。だから、もし悪夢を生み出したとしても、誰が悪いわけじゃなくて――うまく言えないけれど、悪夢を望んでいる人だってきっと居ます。ホラー映画や悲劇の物語だってたくさんあるじゃないですか」
(次元が違います)
薄闇の中でただたゆたっているだけだった早川の意識が、リゲイルの言葉にようやく反応した。
(スクリーンの中に留まっている限り、悪夢も“娯楽”だから……でしょう? 虚構の物語であることを前提にしていれば悪夢や悲劇もなにがしかの糧になるから、でしょう?)
「いちいち粗探しをするのも結構だがな」
口をつぐんでしまったリゲイルに代わって答えたのは、黙って芋虫と対峙していた刀冴だった。
「言いてえことがあるなら出て来て言ったらどうだ。あんたにはあんたの思いがあるんだろうが、人の言うことをみんな拒絶して閉じこもってるばかりで何になる? もっとも、それがあんたの選んだ答えだってェんなら仕方ねえだろうが――」
醜悪な芋虫の前で深紅の色が煌めく。
一閃したのは【明緋星】。
「その前にこいつを見てくれ。そのままでもよく見えるように、繭に……繭の中にも映し込んでやる」
真っ二つに断ち落とされためくらの異形には目もくれず、覚醒領域を展開したままの刀冴の口の中で呪文らしきものが紡がれる。
彼の手の中でしゃらしゃらと音を立てていた水晶玉が溶け、封じ込められていたものが清らかな湧水のようにこぼれ出す。
巨大な繭はスクリーン代わり。ああ、そこに映し出されるのは、早川を捕えているものとは正反対のものばかり。
早川が演じた役に救われた。元気づけられた。幸せを分けてもらった……。代わる代わる現れる銀幕市民たちは皆一様に早川への感謝や激励、応援の言葉を口にして笑顔を見せるのだ。
「刀冴さん、これ、いつの間に」
「アイツに言って捜させた」
リゲイルの問いに刀冴は守役の名を挙げて答えた。「時間もそんなになかったからどうかと思ったが……それでもこんだけ見つかったんだ」
刀冴と同じくムービースターである守役は銀幕市から出ることができない。だから、ここに投影されている人々は全員が銀幕市民である。
それでも――この街の中だけですら、早川に対して笑顔を向ける者がこれだけいるのだ。
早川の苦悩を否定する気はない。だが、反対の事例がたくさんあることもまた事実であることを、双方が真実であることを知ってほしい。
「あんた、どんな物事にもいい面と悪い面があるって自分で言ってたじゃねえか。いいことも悪いこともあるなんてのはどこの世界でも同じだろ。映画のあんたが誰かを不幸せにした? だったら現実のあんたはどうなんだよ? 誰も不幸にしてねぇ、誰も泣かしてねぇなんて言えねぇだろ?」
刀冴の言葉は断罪や糾弾というよりもどこか苦笑めいた大らかさを含んでいた。あたかも惑う幼子の手を引いて諭してやっているかのように。
「あなたが演じた役が……あなたが生み出したスターたちが幸せを望む力を信じて、見守って欲しいの。悲劇にしか見えない結末でも、そこに至るまでの過程にきっと幸せはある筈だから」
泣き顔ばかりなどでは決してないと、銀幕市に実体化したスターの一人として、自分のように生きられる者ばかりではないと――実体化したこと自体に苦しんでいるスターもたくさんいると知って尚、香玖耶は切なる言葉を紡ぐ。
「見たでしょう。あなたが生み出した夢に希望をもらった人たちは確かにいるのよ。自分が造り出した夢を嘆かないで。今まで自分が信じてきたものを信じ続けて。ねえ……」
繭の中に閉じこもった早川に言葉は届いているのだろうか。届いていると信じたい。
その時、薄闇がかすかにさざめいたのは何の前兆であったのだろう。
それは蠢動――あるいは胎動のようで。寒気が背筋を這い上がるような感覚に見舞われ、五人は一様に顔を見合わせた。
ぴきり。
白く頑なな繭に初めて入った亀裂は、脱出の意志であったのだろうか。
しかし次の瞬間、獰猛な風が繭から飛び出し、五人の髪の毛を、着衣を、無遠慮に弄ぶ。
「まさか」
真っ先に可能性に気付いたのは虫の正体を指摘した宗主だ。
あの虫は蚕。蚕は蛾の幼虫。ならば、蚕の繭から出てくるのは――?
「リゲイル、下がれ!」
刀冴が警告を発するまでもなく、片腕でリゲイルを抱いたイェルクが宙へと羽ばたく。宗主のバッキーは荒々しく乱れる銀髪の中にぴゅっと隠れてしまった。香玖耶は一歩も引かない。顔の前に腕をかざし、荒れ狂う風を真っ向から見据える。
「……羽化」
その言葉を発したのは誰であっただろう。
粘着質の白い糸を全身に纏わせて、腐葉土の色をした翅を背に生やした早川が虚ろに繭から飛び上がった。
宗主はかすかに唇を噛んだ。あの虫が蚕に似ていることは早い段階で気付いていた。ならば、蚕が作った繭がどんな意味を持つのか、もっと考えを巡らせることもできた筈だ。
腐った色の翅を背負わされ、蛾へと化した早川はぼんやりと虚空を見つめるだけだ。涙すら流していない。生気を失った顔は土気色で、彼が危うい状態にあることは誰もが容易に察していた。
「あの翅も早川さんと同化してるの?」
香玖耶は暴風の中で声を張り上げた。そうでもしなければ会話などできそうにない。
「……いや。違う」
歪んだ蛾から目を逸らさず、気配を探りながら刀冴が答える。「あの翅は後付けのモンだ。翅さえ落とせばまだ何とかなりそうだぜ」
「なら簡単よ」
香玖耶の鞭が唸り、左側の翅を絡め取る。そのまま手首をしならせて鞭を引くと翅はあっさりもげ、早川の体がぐらりとかしぐ。やったか。誰もがそう思ったが、それはすぐにぬか喜びに取って代わる。
ぐずぐずずぶずぶと音を立てて翅が再生したのだ。まるで削ぎ残された悪性腫瘍が伸張するように。それも、先程までよりも一回り大きな翅が。
香玖耶は思わず両手を口で覆って後ずさった。気味が悪い、その一言に尽きる。腐った肉が沸くような音を立てて再生した翅はひどくアンバランスで、異形の翅を背負わされた早川は体の平衡を保つこともできずにぐらぐらと揺れ続けている。
「……あの翅」
リゲイルは虫が苦手だ。それでも、いま目を逸らすわけにはいかない。醜悪な蛾の姿を懸命に見つめながら、イェルクの腕の中で華奢な体を震わせる。
「無理矢理くっつけられたように見えませんか? だからあんなにバランスが……」
繭と同化したのは自分の意志かも知れないが、恐らくここまでは望んでいなかった筈だ。きっとあの虫につけ込まれ、脱出しようとした時には既に引きずり込まれていた。誰に問うでもなく、リゲイルは直感的にそう理解していた。
「もしかして、全部の翅を同時に落とさないと何度でも再生するってことなのかな」
腐った蛾からぼたぼたと滴り落ちるのは鱗粉か何かなのだろうか。風にあおられて鈍重に舞い上がるそれを吸い込まぬよう、腕で鼻と口を塞ぎながら宗主は眉を顰める。
(上に逃げられたんじゃ俺の蹴りは届かない。できるとしたら――)
刀冴とイェルクと香玖耶しかいない。
宗主の考えが通じたのかどうか、最前列に立ったままの刀冴は【明緋星】に手をかけて頭上を振り仰いだ。夏空の色をした視線の先にいるのはイェルクだ。
「なあ。そのデカい槍なら斬撃にも使えるだろ? 俺の剣とあんたの槍で左右から同時に叩っ斬るってのはどうだ?」
「いいね」
陽気な笑みを閃かせて降り立ったイェルクは香玖耶にリゲイルを預けた。
「私も――」
戦力になれると言いかけた香玖耶であったが、唇にイェルクの指を押し当てられて続きを呑み込んだ。
「強い女性は素敵だが、綺麗なお嬢さんがあんな汚いモンに触るこたぁない」
イェルクは悪戯っぽい笑みを残して香玖耶の唇から指を離す。「汚れ役は野郎の仕事さ。ま、“汚れ”の意味がちょっと違うけどな」
病んだ蛾の前で凛と背を伸ばした青狼将軍の隣に、大きな槍を携えた翼人が並んだ。
「早川には当てるなよ」
槍を構えたイェルクの横顔をちらりと見やった後で、刀冴は己の言葉に軽く苦笑を付け加えた。
「……って、んなことわざわざ言う必要ねぇか、あんたなら」
「はは、嬉しいね、その言葉」
「上から一気に断ち落とす。俺は右側を狙う」
「じゃ、俺は左ってことで」
合図など必要ない。双頭の武人は同時に地を蹴り、一対の疾風となって蛾に殺到する。
「夢を見せる者が夢に答えを求めてどうする」
巨大な翼を羽ばたかせ、イェルクが吼える。「罪の意識を感じるなら罪滅ぼしを考えればいい。どうすればいいのか解らないなら、今は考えるのをやめて俳優を辞めればいい。それで自分で答えを見つけられたらまた俳優業に復帰すればいい、それだけだろうが!」
イェルクの言葉は届いているのか。蛾の翅に絡め取られた早川は焦点の合わぬ瞳を向けてくるだけだ。
「真面目すぎるみてぇだな、あんたは」
深紅の大剣を大上段に振りかぶり、高々と跳躍する刀冴の姿はしなやかな狼そのものだ。「幸不幸を片方の事実だけで語ることなんかできねぇよ。どっちとも真実なんだからな」
歪んだ蛾の姿を眼下におさめ、青と琥珀の視線が刹那交叉する。
次の瞬間――美しい黒髪が、青い刺青が、屈強な背中に刻まれた炎の紋様が、薄い紅茶色の翼が。二人が纏う色彩のすべてが、美しい残像を描いて迅雷のごとく雪崩れ落ちた。
【明緋星】は右の翅を、コエルスは左の翅を。完璧に息を合わせた二人の得物が巨大な蛾の翅を早川の背から綺麗に断ち落とす。
そして、木の葉のように落下する早川の体は、素早く走り込んだ宗主がしっかりと受け止めた。
「……う」
「早川さん!」
宗主の腕の中で呻いた早川にリゲイルがまろぶように駆け寄る。かと思うと紫色の光が早川の体を包み込んだ。イェルクが石を使って発動させた回復の呪術だ。
「よう、色男」
イェルクは未だ焦点の定まらぬ早川の前にしゃがみ込んだ。「覚えてるか、俺の顔」
緩慢に動かした視線をイェルクの顔の上で止め、早川は小さく肯いた。どうやら話をすることはできるらしい。
「……うっすらと」
そして、ごくりと動いた喉が掠れた声を絞り出す。「聞こえていました。おぼろげに……あなたたちの声が」
「なら話は早い。あんた、どうしてここまで思いつめた?」
イェルクの問いに答える前に、早川の目が順々に一同の顔を見つめた。ジャーナルに隅から隅まで目を通しているとあって、面識はなくとも顔と名前くらいは知っていたのかも知れない。
「リザ、さんが……」
「リザさんが?」
咳込むように尋ねたのはリゲイルだ。
「バレンタインの前に、リザさんに……尋ねたんです。あなたは幸せですか、と」
早川の言葉にイェルクの眉がぴくりと動く。
「彼女は言っていました。虚構とか現実とか、難しいことはよく分からない……と」
だけど、といったん言葉を切って早川はかすかに目を伏せる。「自分は稲葉のいる世界のほうがいい、と」
――その事実に即座に返答できるだけの言葉を持つ者はこの場にはいなかった。
「……あんた、この前はそんなこと言ってなかっただろう」
「言ったら聞いてくれたんですか? 僕への非難と怒りで凝り固まっていたあの時のあなたたちが」
「イェルクさん、やめて!」
早川の胸倉を掴みかけたイェルクをリゲイルの悲鳴が制する。冷めた色の目をどろりと向けてくる早川にイェルクは舌打ちしたが、美少女に止められたとあっては手を出すわけにはいかない。
(リザさんのことは、他に共存方法はあったと思うけど……)
宗主の緑色の瞳は愁いを含んでかすかに濡れていた。(そんな理由があったとはね)
早川のしたことが正しいと直ちに肯くことはできない。だが……理由なくしたことではなかったということは分かる。
「……だけど」
苦さに似た切なさに胸を締め付けられつつ、香玖耶は小さく唇を噛む。「あなたたちが創り出した夢に希望をもらった人は確かにいるのよ。さっき見たでしょう、刀冴さんの水晶玉。人々が夢に向けた笑顔は心からのものばかりだったでしょう? あなたたち夢の作り手は、確かに人々に笑顔や希望を届けていたんだから」
それを忘れないで欲しい。皆に与えた笑顔を思い出してほしい。香玖耶の願いはそれだけだ。
「夢の担い手として苦しいなら今は観客になれ。夢を運んだ責任を感じるなら、銀幕市に起きている良い事も悪い事も全部自分の目で見て、覚えていろ。それで全て終わった後に、何が正しかったのか、何が間違っていたのか……ゆっくり考えればいい。それが出来るのはいずれ消えてしまう俺らスターじゃない。あんたら人間なんだよ」
イェルクの言葉に対するいらえはない。ぼんやりと見上げてくるだけの早川の額を軽く手で弾き、大らかな翼人は大きく伸びをするようにして立ち上がった。
「俺が人間ならそうするね。ま、後は好きにしな」
バレンタインの一件ではイェルクの言葉はこの男には正確には伝わらなかった。だが今はきちんと伝わったと信じたいし、信じさせてほしい。
「夢の魔法は確かにこの街を変え、歪めたんだろう」
覚醒領域を収束させた刀冴も愛剣を鞘に収めて呟いた。心身が鉛と化したかのような倦怠感がじわじわと滲み出してくるが、知ったことではない。
「魔法がかからなければ良かったって思いと、魔法がかかって良かったって思い……両方がこの街には存在するし、どっちも正しいんだ」
「………………」
「あんた自身が言ってただろ、物事には良い面と悪い面があるって。それと同じさ」
対策課で早川の話を聞いた時、刀冴は故郷の鍛冶師のことを思い出していた。その鍛冶師は自分の鍛えた剣を使った辻斬りが十数人の命を奪ったことを知り、苦悩の果てに命を断った。自分の作り出した剣のせいで人が殺されたのだと。
それでも鍛冶師の鍛えた剣は誰かを守ったし、誰かの大切な人を守った。それは早川も同じことだろう。
「早川さんが出演された作品、いくつも観ました」
体を起こせるよう早川の背中を支え、手を取って宗主は静かに言葉をかけた。「だから、これだけは貴方の顔を見て直接言いたかった」
怪訝そうな早川の眼差しを緩やかに受け止め、宗主は穏やかに、しかしごくごく自然な微笑をこぼす。
「俺も、貴方の作品のファンです」
――早川の唇がかすかに震え、歪んだ。
その表情が何を意味するのか、この場にいた誰もが容易に推察することができただろう。
「……っ」
宗主の腕の中で早川は体を丸め、小刻みに肩を震わせる。泣きじゃくる幼子をあやすように、早川の背の上を宗主のしなやかな手がそっと往復した。
「夢を失望させんなよ? あんたは夢の担い手なんだからさ」
とイェルクが晴れやかに笑い、それに応じた早川が顔を上げた時だった。
ぐらりと足許が揺れ、視界が歪む。
早川の目覚めが近いのだと悟るよりも早く、全員の意識は急速に引き上げられ、唐突に現実へと帰還した。
サニーデイのバッキーを抱き締め、リゲイルは小さく息を吸った。
こんこん。病室のドアに、ノックをふたつ。
「はい。どうぞ」
中から聞こえてくる早川の声は静かで、滑らかだ。見舞い客でも来ているのだろうか、椅子を動かすような物音とともに、リゲイルが手をかけるよりも早くドアが開いていた。
「……宗主兄様」
「あ、リゲイルちゃん」
顔を出したのは宗主だった。その肩の上に乗っているバッキーが両手を広げ、何とも形容しがたい複雑な表情をしてリゲイルを出迎える。きょとんとしたリゲイルに宗主は「気にしないで」とかすかに苦笑してみせた。
「リゲイルちゃんも早川さんのお見舞いに? ああ……俺は飲み物でも買ってくるね」
何となく事情を察してくれたのだろうか、宗主はそう言い残して病室を後にした。さりげない気遣いに感謝しつつ宗主の背中を見送り――相変わらず奇妙な表情で宗主の肩に仁王立ちになっているバッキーが気にならぬわけではなかったが――、リゲイルは「失礼します」と断ってから病室へと足を踏み入れた。
「リゲイルさん。その節はご迷惑を……。それに、お世話になりました」
宗主と雑談でもしていたのだろう。ベッドの上に半身を起こした早川はリゲイルに小さく頭を下げた。リゲイルは慌ててかぶりを振り、大きなバッキーを抱いたままそっとベッドへと歩み寄る。
早川の頬はこけ、腕には点滴の針が差し込まれているが、顔色は悪くない。しばらく静養すれば回復するだろう。
「……戻って来てくれて、良かったです」
ようやく押し出された言葉に早川はきょとんとしたが、すぐに「はは」と苦笑めいた笑みを漏らした。
「優しいんですね。あなたの大切な友人をあんな目に遭わせた男ですよ、僕は」
「それは……それは。確かに納得はできません。それでも……」
バッキーを抱く手を幾度も組み替えながら懸命に言葉を探すリゲイルを早川の目が不思議そうに見つめている。
「あの時。……バレンタインの時」
やがてリゲイルは真っ直ぐに目を上げて早川の顔を見た。「わたしが一方的に文句を言ったせいで悩ませたんじゃないかってずっと思ってて。――ごめんなさい」
言えた。ずっと引っかかっていたことがようやく言えた。詫びるや否や頭を下げてしまったから、早川がどんな顔をしていたかまでは確かめられなかったけれど。
「――やめてください」
数秒の沈黙の後、穏やかな声が頭上から降ってきた。「あなたたちを怒らせるだけのことをしたのは僕なんですから」
顔を上げると、そこには困ったように眉尻を下げた早川の顔があった。
「こちらこそ申し訳ありません。リゲイルさんたちにも、もちろんリザさんにも」
「あ、寝ててください」
立ち上がって詫びようとする早川を慌てて押しとどめ、リゲイルはそっと彼の顔をうかがった。
早川に尋ねてみたいことがある。しかし、早川に尋ねて確かめられることなのだろうか?
「どうかしましたか?」
「あ……いいえ。何でもないです」
――リザさんに会いに来たのは本当に稲葉先生なんですか?
華奢な喉を塞ぐその問いはついに言葉になることはなく、リゲイルは小さく微笑んだだけだった。
さりげなく自動販売機に寄りかかった宗主は、立ち去るリゲイルの姿を確認してから紅茶の空き缶をゴミ箱に落とした。
「うん。上手だよ、ラダ」
相変わらず珍妙な顔で両手を広げてみせるバッキー(ディスペアーの真似をしているらしい)を苦笑とともに撫でてやり、ナースセンターから借りた車椅子を押して早川の病室へと戻る。
「早川さん。気分がいいようなら散歩にでも行ってみませんか」
「そうですね。ありがとうございます……ああ、自分でこげますから」
「点滴中の人は腕を動かさないでください」
車椅子を自分で動かそうとする早川を制して宗主が後ろに回った。
「まずは院内を一回りしてみましょう」
「ええ」
「のぞみちゃんの病室は特別棟だから行けないけれど」
さりげなく落とした台詞に、早川の肩がぴくりと震えるのが見てとれた。
――美原のぞみの存在を知った早川は、彼女に会うためにこの病院を訪れたことがあったという。
(のぞみちゃんに関して何を思ったんだろう?)
宗主だけがその点に着目していた。宗主だけがそんな疑問を抱いていた。
きいきいと、車椅子のホイールだけがかすかに軋みを漏らす。昼下がりの中央病院は平穏な喧噪に包まれていた。外は晴天だ。磨き上げられた窓ガラスから差し込む太陽は柔らかく、暖かい。
「……パンドラの箱」
「え?」
「パンドラの箱の中に最後に残ったもの、ご存じですか?」
「希望、でしょう? 諸説はあるようですが」
怪訝そうに首をかしげた宗主の肩で、緩く束ねた銀髪がさらりと音を立てる。
「決して開けてはいけない箱を開け、様々な災いが飛び出し……最後に残ったのが希望だった。この街に最後に残されている“希望”がのぞみさんなのだとしたら――なんて」
早川は小さく苦笑して宗主を振り仰いだ。「さすがに考えすぎですよね」
宗主は答えなかったが、考えすぎだと笑う気にはなれなかった。
昼下がりの病院は相変わらず静かで、穏やかな空気と時間だけが流れている。
順調な回復を見せた早川はその後間もなく退院することができた。俳優・早川巧の活動休止宣言がちょっとした話題になったのはそこから更に数週間後のことである。
「映画から離れることで見えてきたり、見つめ直せたりするものもあると思うんです。答えが見つかったらきっとまた戻って来ます。――皆さんが僕に向けてくださった気持ちや笑顔は忘れられませんから」
(了)
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クリエイターコメント | ご参加、ご拝読、ありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-03-14(土) 18:20 |
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