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<ノベル>
0.神(深)淵
血まみれになったあの部屋を、彼女は今も覚えている。
その日は水曜日。
週末には、息子は六歳になるはずだった。
夫と相談して、息子が一番喜ぶプレゼントを皆で買いにいこうと、その日だけは絶対に休みを取ろうと約束し、家族でとても楽しみにしていた。
タッキーノ・ファミリーとの戦い――そう、それはもう戦いだった――は激化しており、彼女が身を置くニューヨーク市警の被害も、ゆっくりと、しかし確実に大きくなって来ていた。
そんな中、署で一番の射撃の腕とタフさで、彼女は市内を駆け回っていた。
あの危険な組織を野放しにはしておけないし、そのために善良な市民が犠牲になることも耐え難い。それが彼女の信念であり、行動理念であり、人々の生活を守る警察官としての誇りでもあった。
帰宅は遅くなることが多かったが、しかし、夫と子どもは、彼女の気持ちを理解し、いつも温かく、力強く彼女を励まし、元気付けてくれた。
だからこそ彼女は、あの獰悪な場で、自分を見失うことなく戦い続けることが出来たのだ。
そう、家族が彼女の土台に、根本にいてくれたから。
――家族。
その言葉を脳裏に思い浮かべるだけで、胸が痛み、目や鼻が熱くなる。
それは、もう戻らない温かいものの名前だ。
二度と出会うことの出来ないものの、名前だ。
それはあの日、あまりにも儚く失われた。
否……奪われたのだ。
その日は比較的早く帰れたので、皆で食べようと、近所のケーキ屋でシュークリームを買った。家族全員、そこのシュークリームの大ファンだったからだ。
きっとふたりとも喜ぶだろうと思いつつドアを開け、ただいま、と言おうとした瞬間、血臭に気づいた。
嗅ぎ慣れた、生々しい、寒々しい臭いだった。
惨劇を半ば予想しつつ、リビングへ入ると、そこにはもう、彼女の夫と息子はいなかった。
それを『いた』と表現するには、あまりにも彼らは変わり果てていた。
タッキーノ・ファミリーは逆らうものに容赦しない。
そしてその邪悪な牙は、本人以外の誰かにも容赦なく向けられるのだ。
それを、思い知らされた。
あの日の自分がどんなことを思ったのか、彼女は、実はよく覚えていない。
叫んだのか、泣いたのか、悲鳴を上げたのか、覚えていない。
ただ、その日から、彼女の命の輝きが急速に失われたことだけは事実だ。
そして、病が恐るべき速さで彼女を蝕んでいったことと。
今、彼女は、深い深い絶望の淵にいる。
失ったものは多く、戻らないものは多く、果たすべき責務は多く、そして彼女には死が近づいている。
自分が闇を覗く時、闇もまた自分を覗いている、と言ったのは、どこの哲学者だっただろうか。それならば、自分が絶望を覗く時、絶望もまた自分を覗いているのだろうか。
――その時、絶望は、今の彼女をどう見ているのだろうか。
そして、彼女の神は、今の彼女を、どう思っているのだろうか。
答えなど出るはずもなく、彼女はただ立ち尽くすのみだ。
黒々と、蕩々と、殷々と、尽きることなくあふれ零れ落ちる、深遠なる苦悩の前に。
1.神(深)意
ランドルフ・トラウトは、人気のない廃ビル郡を黙って見上げていた。
「マフィア……ですか」
彼は森の女王に話を聞いてここへ来た。
アリスという女刑事を、何とかして助けることができないだろうかと思ってここへ来た。
そして、タッキーノ・ファミリーとやらが、この街の人間を傷つけぬようにと。
――結局、世の中で一番怖いのは人間だ。
特に、群れて悪をなす人間ほど性質が悪く、恐ろしいものはない。
数で武装した人間は、時に、普段決して見せないような残虐性をあらわにする。
「……警戒は、必要でしょうね……」
つぶやき、ランドルフは、徐々に騒がしさと冷ややかな殺意とを増してゆく、薄汚れた廃ビル郡に足を踏み入れた。
天を指してそびえ立つコンクリートの建造物たちは、すでにすっかり古びて終焉を待つばかりで、路地のあちこちにゴミや得体の知れないガラクタが転がっていて、そんな中を吹き抜けるビル風に、打ち捨てられた空き缶が、間の抜けた音を立てて転がってゆく。
奇妙に寒々しい光景だった。
「これは……覚醒も、考えておかなくては……」
食人鬼としての彼の感覚は人間のそれを遥かに凌駕している。
その感覚が、危険を告げている。タッキーノ・ファミリーの兵隊たちが集いつつあるというビルのひとつに近づくにつれ、そこに、半端ではない数の人間が集まってきていることが判るのだ。
中には、相当な訓練を積んできたと判る人種もかなり含まれている。
森の女王の依頼を受けたのが自分だけだとは思わないが――何せあの女王陛下は妙なところでヒトとのつながりを持っている――、少なくとも仲間と呼べる存在と合流できていない現状では、彼ひとりでは少々骨が折れそうだ。
「とはいえ」
つぶやき、歩を進める。
「放っては、おけません」
依頼を受けたから、というだけではなく。
来栖香介(クルス・キョウスケ)は、ぶらぶらと散歩を楽しんでいた。
実際には、心配性のマネージャーから逃れて自由を満喫していた、というのが正しく、香介が気懸かりなあまりつい世話を焼いてしまうマネージャー氏の心痛は周囲からすれば察するに余りあるのだが、その辺りは香介にはどうでもいいことだ。
「……ん?」
何か、音が聞こえたような気がして香介は背後を振り返った。
「気の所為、か……?」
この辺りは香介の遊び場だ。
会社の倒産などで経営者管理者が去って、遺棄されたに等しいビルの群は、様々な闇とガラクタを含んでわだかまり、香介に心地よい混沌をもたらしてくれる。
ここは、銀幕市に魔法がかかる前から、香介の庭だった。
「しかし……今日は、びっくりするほど人がいねーな。何か、あったのか?」
銀幕市以外で警察官に職務質問されれば言い逃れ出来ないような類いのものを常に多数所持しておきながら、それ以外のものに関しては、ごくごくわずかな小銭と、家の鍵(それすら忘れることも多い)くらいしか所持していない香介だ。
携帯電話はマネージャーにGPS機能をつけられた時点でほとんど持ち歩かなくなった。
そのため、実はこの辺りにマフィアが集結していることも、戦闘が始まりそうだということも、対策課が付近の住民を避難させ、この近辺への立ち入りを禁じていることも、香介はまったく知らない。
「……何か、妙な感じだな」
しかし、まったく知らないくせに、彼の、音楽と戦闘に関して『だけ』は異様に鋭く発揮される勘は、
「オレ好みの空気が、充満してる」
この近辺で何か厄介ごとが発生しているという事実を、しっかりと嗅ぎ当てていた。
「ふーん……」
繊細で中性的な美貌に猛々しい笑みを浮かべて周囲を見渡す。
ちゃり、と、手の中でナイフが踊った。
「ああ……あっちか。退屈してたとこだし、ちょっと、行ってみっかな」
長い黒髪とコートとをなびかせ、香介は悠然と歩き出す。
どこまでも楽しげな笑みが、唇を彩っていた。
キュキュもまた、森の女王レーギーナから依頼を受けたひとりだ。
彼女は人間ではない。
ふわふわした、可愛らしいピンク色の触手を持つモンスターで、出身映画ではいわゆる敵側、しかも雑魚と呼ばれる類いの『やられ役』だ。
魔物が何故、と、驚く人間はいるかもしれないが、彼女らモンスターにも情はある。
彼女は魔王を敬愛しているし、仲間の魔物たちを分け隔てなく愛している。人間だって、別に――銀幕市に実体化してからは特に――、仲間殺しの残虐で残忍な、憎むべき生き物だとは思っていない。
彼女らが、姿かたちが人間とは違うだけで、人間と同じような、家族愛や同胞愛を持った存在であることに変わりはなく、そのためキュキュが、家族を殺され、自分も病に蝕まれてまで仇を追うアリスに助力をと考えたとして、何らおかしなことではないのだ。
「まずは、アリス様を見つけなくては……」
出来る限り触手を隠しつつ、キュキュは問題のビル群へと急ぐ。
「安全を確保しなくちゃ」
マフィアともなれば、様々な手を用いて攻撃を加えてくるだろう。
キュキュは魔物なので、正直、銃弾ごときで死ぬほどやわではないが、アリスはそうはいかない。アリスもまたものすごい回復力を有していると聞いたものの、弾丸が心臓を貫けば、生きてはいられないだろう。
だから、彼女と合流したら、まずは、補助系魔法を使ってアリスに危険が及ばないようにするつもりだった。
様々な物理攻撃無効化魔法を持つキュキュだが、残念ながらそれらをすべて、一度に使うことは出来ない。本来、重ねがけが出来ない魔法なのだ。
しかし今回はそれでは不味いだろうと、森の女王に相談すると、女王は娘のひとりに命じて、時間層をずらすマジックアイテム、小洒落たピンブローチのかたちをしたそれを作らせた。
これに様々な無効化魔法を打ち込み、アリスに身に着けさせることで、必要に応じた効果がピンブローチから放たれるという寸法だ。
「これなら、物理攻撃に関しては、アリス様を間違いなくお守りすることが出来ます」
その内に、マフィアたちをどうにかしてしまおう、というのがキュキュの算段だった。
「……生きていただかなくては」
死は誰にでも訪れる終焉だ。
だからこそ、生は尊い。
それを、アリスには、まっとうしてほしいと思うのだ。
アリスは目を開けた。
どうやら、少し眠っていたらしい。
時刻は、正午前といったところだろうか。
奴らを待つための時間ではあったが、こんな場所で膝を抱えて眠ったにもかかわらず、それは多少なりと休息になったらしく、体力は回復していたし、先日撃たれた足の傷はもうすっかり塞がって、痛みなど前からなかったかのようになっていた。
我ながら人間離れしたタフさだと――それをタフで済ませてしまっていいのかも、少々疑問だ――思うが、だからこそ奴らを追い続けることが出来るのだ、そういう設定を付加してくれた制作者たちには感謝している。
――もちろん、その他の、彼女の絶望を創り出したのもまた彼らだと、心の奥底では判っているけれど。
コンクリートの壁の隙間から、一際大きく一際古い廃ビルの、もとは駐車場であったらしい空間を見つめる。
感情のない冷えた目が、すっと細められた。
「……あと、少し……」
マフィアたちはぞくぞくと集まってきているようだった。
彼女は自分が銀幕市に実体化した、いわばこの世界に間借りしている存在であることを理解しているが、好き勝手にやってきたタッキーノ・ファミリーにとってそれは、どうでもいい瑣事に過ぎないのだろう。
彼らにとって大切なのは力がすべて、強者がすべてだということ。ならば恐らく彼らは、銀幕市を、映画と同じ、自分たちの住みやすい世界にするつもりでいる。
だからこそ、下っ端から結構な上役まで、次々と、物騒な武器を手に、こうして集まって来ているのだ。
無論、彼らを付け狙うアリスの存在に留意していないということはないだろうし、彼女が連中から奪ったものを取り返そうと躍起になっているのも事実だが、今日こうして集まっているのは、アリスを迎え撃つためだけでは断じてない。
何故ならアリスはたったひとりしかおらず、また、応援のあてがあるわけでもないのだ。おまけに彼らは、アリスの命がもうあまり長くないことも知っている。
不利な状況であるという事実は、誰にも覆し得ないだろう。
――それでも。
「見守っていて、どうか……」
つぶやき、アリスは拳銃を引き抜いた。
タッキーノ・ファミリーのドン、ジョルジオ・ティランノが駐車場に入ってくるのが見えた。
背こそそれほど高くないが、堂々とした体躯の男だ。
彼は周囲を数人の男に守らせながら、鋭く光る眼差しで、集結したマフィアたちを見つめている。
「わたしは、わたしの神が導くままにいきましょう」
彼らを野放しにすれば、この、不思議に満ちた街も、間違いなく映画の中と同じ道を辿る。
アリスにはそれが耐え難い。
自分と同じ哀しみを味わうものが増える、それだけは阻止しなくてはならない。そう思ってここに来た。
復讐よりもまず、市民を守る警官としての誇りが、アリスを危険のただ中へと向かわせた。それだけのことなのだ。
ジョルジオが大きな身振り手振りでマフィアたちを鼓舞している。
――アリスは、拳銃を手に、ゆっくりと移動を始めた。
2.神(震)撼
銃声が幾重にも聞こえ始めた時、理月(アカツキ)はちょうど、その廃ビル群周辺を散歩していた。
否、正直なところ、散歩の帰りに近道をしようと余計なことを考えた所為で迷い込んだのだ。
「傭兵が迷子とか、カッコ悪すぎる……」
ぼやき、周囲を見渡す。
先日友人たちとともに不思議なムービーハザード空間に迷い込み、散々怪我をした理月の全身はまたしても包帯だらけだ。
そんな、包帯姿もそろそろデフォルトになりそうな彼が、メインストリートへの道を誰かに尋ねようにも、周囲にあまりにも人通りが少ないことに首を傾げた時、銃声は聞こえた。
じきにそれは、ただの銃声などではなく、ほとんど、轟音へと変わって行く。
「!」
彼はこの周囲に敷かれた戒厳令を知らない。
銃火器について詳しくもない。
しかし、誰かが誰かと戦っていることは判る。
「……」
理月は別にお節介なタチではない。
進んで、嬉々として事件に首を突っ込むタイプでもない。
彼が引き受け、また間に入る事件は、皆、理月自身が、我が身を省みて、何とかしたい、何とかしなくてはならないと思ったものばかりだ。
その時の理月の足が、自然と銃声の聞こえた方角に向いたのは、そこに含まれた何かを、彼の魂が感じ取ったからなのかもしれなかった。
「何だ、ありゃ」
現場まで小走りで数分。
到着してみて、理月は思わず漏らしていた。
「一対……何百人だ」
廃ビルと駐車場と廃ビル、その間で戦いは行われていた。
彼がいるのは、ちょうど二点の中間から、百メートルばかり離れた路地の影だ。
理月の眼前では、黒服の、断じてカタギではありえない雰囲気を持った男たちが、怒声に満ちた空間の中、廃ビルの陰や自動車を盾に、向こう側の廃ビルを銃撃している。黒服の何人かは、味方の援護射撃を受けながら廃ビルへの侵入を試みているようだった。
雨霰のごとく降り注ぐ銃弾で、向こう側の廃ビルは壁のあちこちが抉り取られ、また凹んでいた。
しかし理月が思わず漏らした言葉は、彼らに向けられたものではなかった。
「……すげぇな、あの姐さん」
理月の目は、ビルの陰に身を潜める、金茶の髪の、細身の女の姿を捉えていた。
そう、黒服の、軽く百人は超えるだろう男たちは、たったひとりの女に、執拗な銃撃を加えているのだ。そして、それだけの数がいながら未だに彼女を討ち取ることが出来ておらず、また、彼女が時おり返すたった一発の銃弾で、次々とフィルムに戻ってゆく。
彼に銃は判らない。
だが、彼女の持つ気迫と覚悟は判る。
彼女の、青い青い目を時おりかすめる、底なしの虚無と悼みもまた。
――どちらに手助けに入るべきか、など、判りきっていた。
例え彼女がそれを望んでいなくても、理月に、彼女を放っておくことは出来ない。
折しも、黒服たちは、じりじりと女への包囲網を狭めているところだった。
あれ以上、あの場所で身を隠して戦い続けることは、得策ではない。
理月は腰から『白竜王(ハクリュウオウ)』を引き抜いて深呼吸をした。
刀が銃に太刀打ちできるものか、と、現代物のムービースターたちは嘲笑うかもしれない。
「腐っても、斬り込み隊員だからな」
呟き、地面を蹴る。
――彼の初速は、時速180km。
一番基本の速度でも、時速70kmをキープする。
その彼が、横から、白刃とともに突っ込めば。
「なッ、何だっ……新手か!?」
「風……じゃねぇ、何だコイツ!?」
「は、速……!」
「しッ、しまった……!?」
「うわあぁッ、シルヴィオッ!」
現代物映画出身のムービースター、中でも実体化したばかりの連中は、銀幕市での『常識』が身についておらず、そのため、ファンタジー映画から実体化した規格外の身体能力や不可思議な現象に弱い。
彼らは、颶風とともに横から突っ込んできた理月が『白竜王』を揮って舞うたびに、いくつものフィルムとなってアスファルトの地面に転がった。
彼が陣を駆け抜けて行ったことで、黒服たちは目に見えて乱れ、攻撃の手は間違いなく緩んだ。
「悪ぃな、別にあんたたちに恨みがあるわけじゃあねぇんだ」
理月はその足で、女を包囲しようとしている男たちを蹴倒し、また殴り斃しつつ、こちらの様子を伺っていた女のもとへ素早く辿り着き、
「あなたは、一体……」
戸惑っているようでもある彼女の手首を掴むと、
「いいから行くぞ、ここじゃいずれ囲まれちまう」
それだけ言って、彼女の手を引っ張った。
彼女はひどく驚いた表情をしていたが、理月の手を振り払うことはなく、黙って、彼とともに走り出した。待て、と誰かが怒鳴ったが、それに従ってやる義理も義務もない。
走りながら、理月は気づいていた。
無言のまま理月に連れられて走る女から漂ってくる、その匂いに。
――理月にも馴染みの深いそれは、絶望という名の暗黒を含んだ死の臭いだった。
夜乃日黄泉(ヨノ・ヒヨミ)は探し人の姿を目にしてにっこりと笑った。
廃ビルの一角、日の射さない、薄暗い、入り組んで汚れた位置。
「よかった、まだ無事のようね」
彼女は偶然立ち寄ったカフェ『楽園』でアリス・ドゥオーキンのことを聞き、放ってはおけないと思ってここへ来た。
森の女王から、わずかばかりアリスの話を聞いて、日黄泉は、彼女の振り返らない強い意志に感銘を受けたのだ。生きる姿勢と意志の強さ、その気迫に、少しでも助力をと願ってここにいる。
「隣にいるあれは誰かしら? あら……素敵な殿方だこと」
日黄泉が首を傾げるとおり、眼だけが白銀という漆黒の姿に純白の包帯という対照的な出で立ちの、どこからどう見ても百戦錬磨の武人としか思えない気配と、鋭角的かつ峻烈な雰囲気を持った男は、アリスを守るように、彼女のすぐ隣に佇んでいた。
日黄泉が彼を警戒しなかったのは、アリスに対する殺気が感じられなかったのと、よく見ると、鋭い銀眼が、穏やかで理知的な光を含んでいることが判ったからだ。
男は、シャープで凛冽な、いわゆる飛び抜けた美形という奴だったが、アリスの言葉にわずかばかり頬を緩める表情は、彼の中身を丸ごと示すかのように、静かで温かかった。
「そこの姐さん、何か用があるのかい? 別に取って食いやしねぇから、出て来いよ。見つめられると恥ずかしいじゃねぇか」
その彼から唐突に声がかかり、気づかれていることに気づいていた日黄泉は、微笑とともにふたりへと近づいた。
「ただものじゃないわね、貴方。私は気配を抑えていたし、背後からしか近づかなかったのに」
「ただものじゃねぇかどうかはさておき、俺たちは、基本的に、背後から近づくものには気づきやすいからな。一番おっかねぇだろ、背中からって。あんただって、そうじゃねぇの?」
「ふふ、ええ……そうね」
「で? 敵じゃねぇのは判るが、あんたは何だ?」
「私は日黄泉、夜乃日黄泉。彼女はアリスね? 私はレーギーナ陛下の依頼を受けてここに来たの」
「なるほど、やっぱ、アリスを助けたのは女王か。あんな破天こ……じゃなくてすげぇのが、そうそういるわけがねぇもんな。ああ、俺は理月、傭兵だ。通りかかったのは偶然だが、多勢に無勢を放っておくわけにはいかねぇと思って、お節介を焼いた。……共闘は可能かい?」
「ええ、もちろん」
艶めいたウィンクを理月と名乗った傭兵に送ったのち、日黄泉は、強い感情の伺えない――いや、それは奥へと沈んでいるだけのことなのかもしれない――青眼で自分を見つめているアリスのもとへと歩み寄る。
「初めまして、アリス・ドゥオーキン。私はヒヨミというの、どうぞよろしく」
言うと、アリスは少し戸惑ったように日黄泉を見つめた。
日黄泉もまた、アリスの真っ青な目を見つめ返す。
同時に、アリスが、それほど深くはないものの、傷をいくつか受けていることにも気づく。恐らく、マフィアとの戦いで受けたのだろう。
「よろしく、と言いたいところだけれど、あなたは、何故……?」
日黄泉は明るい笑みを浮かべた。
「頼まれたの。あなたを助けて、全部見届けてって」
「そう……でも、わたしは、お礼を差し上げることも出来ないのに」
「仕事だと思って受けたのじゃないわ。私が、貴方を、見届けたいと思ったからよ。この際、私が何者でも、誰でもいいでしょう? 私は貴方の力になりたいの、敵ではないことは確かなのだから、この際利用したらいいのよ」
きっぱりと、意志を滲ませて日黄泉が言うと、アリスは不思議そうに何度か瞬きしたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、かすかに……ほんのかすかに微笑み、小さく頷いただけだ。
日黄泉は満足げに笑う。
「では、早速、始めましょうか。理月、相手の規模は、どうかしら」
「ざっと見た限りじゃ、今のとこ150人くらいかな。一割は斃したが、多分、まだ全員揃っちゃいねぇんじゃねぇかと思う。アリス、そもそもの、タッキーノ・ファミリーの規模はどうなんだ」
「タッキーノ・ファミリーのsgobbone(ズゴッボーネ、働き蜂)は常時二百人を超えていたと思うけれど、彼らはマフィアやギャング同士の抗争でも忙しかったから、常に数は変動していて、正確には把握しきれていなかった。ただ、」
「ただ?」
「……気懸かりなのは、ragno(ラーニョ、蜘蛛)とscorpione(スコルピオーネ、蠍)と呼ばれていた、ふたりの戦闘部隊長が、まだどこにも姿を顕していないこと」
「そいつらは、出来るの?」
「強いわ、とても。銃を使わずにヒトを殺すすべに長けていた。私の……」
「? 私の、どうした?」
「……いいえ、なんでもない」
不自然なアリスの様子に首を傾げつつも、
「つまり、そいつらが実体化していて、タッキーノ・ファミリーと合流したら、不味いことになるわけか」
理月がそう言うと、アリスが頷く。
「彼らは各自、自分たち専用の兵隊を連れている。もしも全員が実体化したとしたら、それだけで80から100にはなると思う」
「そりゃ面倒だな。各個、撃破していくに越したこたねぇや」
「そうね、あまり派手に街を壊すわけにも行かないから、連中を分断して、少しずつ始末していくのが一番でしょうね」
言って、日黄泉は、ホルスターから拳銃を引き抜いた。
コルト・キングコブラの4インチ・シルバー・モデルは、日黄泉が敬愛するマスターの若かりし頃の愛銃だ。
これとともにある時、彼女には、常にマスターの深い心が寄り添っている。それだけで、彼女は強く、鋭くなれる。
「……こんな風に」
言うなり、狙いを定めて引鉄を引く。
たぁん、という高らかな音がして、アリスの居場所を今まさに発見し、本隊に連絡しようとしていた黒服の男の眉間に穴が空く。
倒れたマフィアがフィルムに戻るよりも早く、
「お見事」
ヒュウ、と理月が口笛を吹いた。
と、そこへ、何か硬いものを金属の棒のようなもので殴るような鈍い音と、低い呻き声がして、
「こっちにも一匹隠れてんぞ? 油断すんなよな」
中性的な美声とともに、黒髪に赤い目の美麗な青年が物陰から姿を現す。右手には鉄パイプ、引き摺っているのは、頭に大きな瘤をこしらえて眼を回しているマフィアの男だ。
彼に見覚えがあったのだろう、理月が不思議そうに瞬きをした。
「来栖。なんであんた、こんなとこに」
「そういうあんたはどーなんだよ、理月さん?」
「……道に迷ってここに入り込んで、んでアリスと会った」
「似たよーなもんかな。散歩してたら銃声が聞こえたから、音を頼りにこっち来た。しかし傭兵でも道に迷うんだな」
「放っといてくれ、好きで迷ったんじゃねぇや。危ねぇから一般人は帰れ、っつって聞くようなタマじゃあねぇし、そもそも一般人でもねぇか。貴重な戦力確保、ってとこだな」
「おう、もちろん問答無用で参加させてもらうさ。それに、この辺はオレの秘密の遊び場だ、抜け道とか色々知ってるぜ」
「は、そりゃあいい。あー、そんなわけで、アリス、日黄泉。こいつは来栖香介、ムービーファンだがどうもスターなんじゃねぇかって疑われてる戦い上手だ。この際だから戦力に組み込んじまおう」
「普通にムービーファンだっつーの」
文言の一部に文句がついたが、アリスにこの場から逃げるつもりがない以上、味方はどれだけ多くいても悪いということはない。
「私は夜乃日黄泉よ、よろしくね香介」
日黄泉が艶笑とともに名乗り、アリスが小さく会釈をする。
その時、ガラクタの一角ががさりと音を立て、
「……!」
全員が臨戦態勢を取りかけた、が。
「あ、あのぉ……」
響いたのは、可愛らしい少女の声だった。
そこから危険も敵意も感じられず、一同、顔を見合わせる。
3.神(心)猿
「お話中、申し訳ありません。あの、その……森の女王レーギーナ様から依頼を受けて参りました、キュキュと申します……」
ガラクタの影から姿を現したのは、ピンクの髪を可愛らしくまとめ、クラシカルなメイド服に身を包んだ少女だった。
キュキュと名乗った彼女は、小柄で細身の、おとなしそうな印象の少女だったが、その中で異様なのは、頭に触角のような二本の触手と、背中の肩甲骨辺りに羽のような四本の触手がついていることだろうが、しかし、その触手はおどろおどろしい、汚らしい印象が一切なく、可愛らしい薄桃色で、手触りまでがよさそうに見えてしまう。
アリスは、現代映画出身のムービースターで、実体化してからあまり日が経っていないので、まさにファンタジー映画出身、といった出で立ちのキュキュには少し驚かされたが、彼女が、レーギーナから依頼されて、と言ったので、警戒する気にはなれなかった。
そして、彼ら彼女らのような、自分たちの世界とは一線を画したムービースターたちならば、映画の中のように、タッキーノ・ファミリーの手にかかってあっけなく命を落とすことはないだろうとも思う。
それゆえに、アリスは、孤独な戦いを一時なりと忘れ、差し伸べられた手を素直に取ることが出来た。
「そう……どうも、ありがとう。レーギーナさんには、お礼を言わなくては……」
レーギーナは、アリスがこの銀幕市に実体化して初めて出会った、他の映画出身のムービースターだ。名前を知ったのは、ヒヨミが同じことを言い、アカツキがああやっぱり、と言った時だったが。
命を救われておきながら、何も出来ないまま足早に立ち去ってしまったのに、あの神々しいほど美しい女性は、そんなアリスを案じ、こうして守り手を寄越してくれたのだ。
それをアリスは、何と不思議な世界だろうかと思い、同時に、神の采配に感謝する。ここならば、もしかしたら、さがしものが見つかるかもしれない、とも思う。
「最後の最後まで生き切ること、私はそれを何より尊く思います。僭越ながらアリス様の願いのお手伝いをするため参りました。あの……さがしもののことは、私、判りませんけれど、少しでもお手伝いできればと思いますので、どうぞよろしくお願いします」
ぺこり、と頭を下げるキュキュは、触手がふわふわと動いていることを勘定に入れても、充分に微笑ましく可愛らしかった。
「探し物? って、何だ?」
初耳だったらしいアカツキが首を傾げる。
「わたしの拳銃を預けられる何かと、わたしの神が導く終焉と。わたしはそのふたつを探し続けている。映画の中でも、今、このときにも」
それでも、具体的なことは、なるべく言わない。
映画の中で、味方がどんどん少なくなっていったあとも、マフィアたちとのかかわりを恐れずに手を差し伸べてくれる人々にも、巻き込みたくないがゆえにそうしてきたように。
そう、彼女がそれを言ったことで、この親切な、真摯な人たちに迷惑がかかっては困るのだ。本音を言えば、アリスは、これ以上誰にも傷ついてほしくはないし、誰も死なせたくはないのだから。
案の定、いまいち意味が判らなかったらしく、アカツキは――その隣のキョウスケもだ――不思議そうな表情をし、
「そっか、よく判らねぇけど、手伝えることがあったら言ってくれ」
それだけ言って、周囲の警戒に戻る。
ヒヨミとキョウスケが、地の利を活かしてタッキーノ・ファミリーを翻弄し、各個撃破していくのにもっとも有用な手段、戦法について話し合いを始めると、キュキュは懐から流麗なデザインのピンブローチを取り出し、それをアリスに手渡した。
一体なんだろう、と思ったが、ブローチに何か、揺らめくような力を感じ、キュキュに説明を求める。
「……これは……?」
「斬属性・打撃属性・刺属性・飛び道具無効の魔法がかけてあります。どうぞ、お持ちくださいませ。きっとアリス様のお役に立つことと存じます」
「でも、他の皆さんの分は。あなただって、危険に晒されるのに」
「私、これでも誇り高き魔王陛下にお仕えする魔物でございます。金属の武器ごときに容易く殺されるほどやわではございませんし、あちらの方々は、銀幕市でも有数の猛者ばかり。問題はございません」
「……そう、なの……」
そこに、信頼めいた自信を感じ取り、それ以上強くは言えなくなって、アリスはキュキュの言うまま、襟元にピンブローチを取り付けた。
何がどれだけ変わったと、はっきりとは言い切れないが、なるほど確かに、ほんの少し、身体が軽くなったような気がする。
それは魔法とやらの効果ではなく、周囲に人が、敵でも、すぐに死んでしまう善き弱き隣人でもない人たちがいるからかもしれなかったが。
――それで、アリスは、まだ、迷っている。
人を殺すことに、ではない。
自分がもうじき死ぬことに、でもない。
今までは、拳銃を預けることが出来れば、神の導くままに、すぐにでも死ねると思っていた。すぐにでも、あの愛しい家族が待つ場所へ旅立てると思っていた。
だが、今は、そのことに迷っている。
本当にそれだけでいいのかと、見届ける必要があるのは自分なのではないだろうかと。
――答えは、まだ、出ないけれど。
不意に、アカツキが、ヒヨミが、キョウスケが、そしてキュキュが、全身を緊張させた。
それと同時に膨れ上がるのは、複数の殺気だ。
「見つけたぞ、アリス・ドゥオーキン!」
「仲間が一緒か……まァいい、覚悟しやがれ!」
「『あれ』の在り処、吐いてもらうぞ!」
三方向、東と西と南から、大体七、八人ずつで固まった黒服の男たちが、めいめいの武器を手にこちらを狙っている。
彼らは訓練された兵隊だ、その動作は的確で無駄がなかった。
しかし。
今アリスを守る人々は、更に速く、強かった。
刀を携えたアカツキが、風のような速さで突っ込んでゆく。その速度は比喩でなく風を髣髴とさせ、あまりの速さに狙いが定められず、男のひとりが狼狽した声を上げたのが聞こえた。それを嘲笑うように美しい白刃が舞うと、まるで喜劇のような滑稽さで、男たちの首が空を舞った。
コルト・キングコブラの4インチ・シルバー・モデルを構えたヒヨミが、躊躇いのない手つきで引鉄を引くたびに、男たちの眉間に黒い穴が空き、血が噴出し、そしてフィルムが生まれた。
一体何をどれだけ隠し持っているのか、楽しげに笑ったキョウスケが、黒いコートの内側から投擲用のナイフを数本引き抜き、マフィアの殺し屋でもこうは行くまい、という熟練の手つきで投げつける。鋭く空気を裂いて飛んだそれらは、狙い過たず、男たちの首筋や関節に突き刺さり、彼らを的確に戦闘不能に陥れた。
アリスもまたそれに気づくと同時に拳銃をホルスターから抜き、慣れた手つきで引鉄を引いていた。
ばたばたと倒れてゆく、タッキーノ・ファミリーの働き蜂たち。
しかし、今度は、北側のガラクタの向こうから、二十人近い働き蜂たちが、こちら目がけて走って来るのが見えた。武装は充実しているようで、手にサブマシンガンを持っている者もいる。
とはいえアリスは、あまり焦ってはいなかった。
そもそも、あの惨い事件以降、激しい感情をあらわにすることが極端に少なくなってしまった彼女だが、それを抜きにしても、彼女らの元の世界から鑑みれば荒唐無稽と表現するしかないような守護者たちがここにいるのだ、焦りや恐怖を覚える必要性を毛の先ほども感じない。
案の定、
「その方を傷つけさせるわけには参りません」
大人しい、楚々とした風情で、しかし断固とした意志を持って言ったキュキュが、下半身をすべて触手へと変形させ、こちらへ向かって来ようとし、また銃をぶっ放そうとした連中のうち十人ばかりを、その可愛らしいピンク色の触手でもって、身動きも出来ないほどに絡め取ってしまった。
「もちろん、今のアリス様には、ほとんどの攻撃が効きませんけど」
まさかこの場にそんなモンスターがいるとは思わず、こんな攻撃を受けるとは思ってもみなかったのだろう、触手に捕らわれた男たちが魂消るような悲鳴を上げる。
彼らは、バリバリの現代物出身の、現実のみを見据えて生きるマフィアだけに、人間ならばどんな強面が相手でも恐れず立ち向かうが、こういう、常識を覆すような存在には弱いのだ。
「な、なな、なんなんだコイツっ!? ば、化け物っ!!」
「く、くそ……離れねぇっ、何て馬鹿力だ……!」
男たちがもがいてももがいても触手は外れなかった。
更に、必死で振りほどこうと抗う男たちの背後にアカツキとキョウスケとが音もなく回り込み、手刀でもって彼らの首筋を一撃し、あっという間に戦闘不能に陥らせてしまう。
そしてふたりが、残った、十人ばかりの黒服に得物を向けようとし、ヒヨミがその援護をすべく銃を構えた時、廃ビルの上の方で、ゴウン、という鈍い音がした。
一瞬遅れて、バラバラとコンクリート片が降ってくる。
働き蜂たちがギョッとなって一瞬動きを止めたのに対して、守り手たちは微動だにせず、むしろ顔を見合わせると一歩退いた。
まるでこれから何が起きるか予測がついているようだ、と思ったアリスの勘は当たった。
唐突に、廃ビルの屋上から、大きな影が降ってきた。
それは少し大きかったものの、間違いなく人間のかたちをしていた。
それはアスファルトをへこませながら着地するや、空気を唸らせて腕を振り上げ、その場にいた十人もの男たちを次々に跳ね飛ばすと、ビルの壁やアスファルトに叩きつけて、あっさりと昏倒させてしまった。
恐ろしい勢いで叩きつけられたことが判るのは、壁やアスファルトが凹んでいるからだが、盛大に伸びてはいるものの、働き蜂たちは死んではいないようだ。
止めを刺すつもりもないが。
あっという間に働き蜂たちをのしてしまった人物、身の丈二メートルにも及ぼうかという禿頭の巨漢は、しかしアリスたちに向き直るや、
「驚かせてすみません、怪しいものではありません。どうか警戒せずに話を聞いてください」
などと、非常に申し訳なさそうに告げた。
ビルの屋上から降ってきた時点で充分怪しいのだが、彼の口調が真摯だったので、アリスは、眉無し四白眼にスキンヘッド、顎髭といった、典型的な悪人面の彼を、職業柄という意味だけではなく、恐ろしいとは思わなかった。
凶悪な四白眼が、申し訳なさそうに身を縮める男の中では、案外可愛らしく思えることが判った所為もあるかもしれない。
「知ってるわ、ランドルフ・トラウトでしょう。心優しき巨漢。まさに言葉通り、ね」
くすりと笑ったヒヨミが言い、
「噂にゃ聞いてる。あの、きれーなドクターがいる病院での、何とかいう事件にも関わったんだろ、確か」
「へえ、噂どおりでっけーな。で、噂どおり悪人面だ」
アカツキとキョウスケが口々に言う。
特に後者、なにやらひどいことを言ったような気がしなくもないが、ランドルフと呼ばれた巨漢はそこには頓着せず、ホッとしたように息を吐いた。
「あなたも、女王陛下から依頼を受けて来たの?」
「ええ……そうなんです。と、いうことは、あなた方も……?」
「俺とクルスは巻き込まれたっつーか、現場にいて首突っ込んだ方だけどな。ああ、俺はアカツキだ、よろしく」
「そうですか。私のことはドルフと呼んで下さい」
言ったランドルフが、アリスを見つめる。
「……?」
アリスが首を傾げると、彼は、何故かひどく辛そうに、哀しそうに微笑んだ。顔の怖さは、あまり気にならなかった。
「私に出来ることは、何でもします。私は、アリスさん。あなたに、生きて欲しいと思ってここに来ました」
告げられた言葉は、真摯で、真っ直ぐだ。
「……」
アリスは、ランドルフを見上げたまま沈黙する。
心の中で、妄念がざわめく。
これを制御することは、やはり、難しい。
「ですが」
アリスのそんな様子をいたわるように見つめながら、ランドルフが続ける。
「ここは把握されてしまったようですよ。道すがら、タッキーノ・ファミリーの兵隊たちの『声』を拾ってきましたが、皆、この周囲を目指しています。まだ、完全には発見されていないようですが、それも時間の問題でしょう」
「あら、そうなの。それは困ったわね、どうしようかしら?」
まったく困ってはいない様子でヒヨミが言うと、
「どーせアリスは逃げる気ねーんだろ? だったら、オレにひとつ考えがある。――どうだ、ノるか?」
キョウスケが、にやり、と笑った。
視線が彼に集中する。
4.神(真)価
香介の案は、こうだ。
彼にとってこのエリアは庭同然。
この、今彼らがいる廃ビルも、香介が、何年も前から遊び場にしていた、勝手知ったる場所なのだ。建物内部の配置、クセや通路のあり方など、すべて頭に入っている。
だからそれを最大限に活かし、タッキーノ・ファミリーの連中がここへ到着する前に、内部に幾つも罠を仕掛けておき、追い込まれたフリをして彼らを中へ誘い入れ、それらを駆使して各個撃破してゆく、というのが、香介が出した作戦だった。
それは満場一致で可決され、彼らは、七階建てのビルのあちこちに、来栖香介謹製の罠を仕掛けて回った。
守るべき対象が逃げることをよしとしていない以上、今の彼らに大切なのは、退路を確保することではなく、アリスの行く道を少しでも安全にすること、つまり、ひとりでも多くの『壁』を排除する清掃活動だ。
香介は活き活きと、まさに水を得た魚のように、一階から七階までを縦横無尽に駆け回っていた。
ランドルフが、マフィアたちはまだ完全にはこの場所を補足し切れておらず、彼らの到着には少し時間がかかりそうだと言っているのもあって、香介のトラップは、ますますバリエーション豊かに、かつ、えげつなくなってゆく。
「このビルな、そんなに規模がでかくねーだろ? なんか、もとは、小ぢんまりした、でも洒落たファッションブランドのショップが一階につき各一店ずつ入ってたらしいんだわ」
ビルは、大まかに言えば、縦20メートル×横20メートルの正方形だ。
商品が陳列しやすいよう、また、外からも小洒落て見えるよう、内部に余計な壁をほとんど作らず、代わりに、何本もの柱、真四角のそれで建物全体が支えられている。この構造は、一階から七階までほぼ変わらない。
それは、つまり、柱と空間の位置関係を把握しさえすれば、仕掛けるトラップによっては、侵入者の動きや進路そのものをコントロール出来てしまうということだ。
「景気が悪くなってビル全体が倒産したのが四年か五年前だったな。この辺り、相次いで経営者がビルを手放したもんで、一気に閑散としたんだよな」
不況によって運営が立ち行かなくなり、経営者たち、ショップの人々が撤退したあとのここは、怪しげな連中が投棄していった、金属やコンクリートや木材などの廃棄物、どこでどう使われていたのかもよく判らない大きなガラクタなどが乱立する、特大の粗大ゴミ置き場となっている。
それらのゴミを動かし、一定の法則に従って積み上げ、様々なトラップを仕掛けて回ったあと、砂や埃がうっすらと積もった床を木切れで引っ掻いて作ったマップを指し示しつつ、香介は他の面々と作戦の最終確認を行っていた。
「連中がこう入ってきたら、オレはこっちのトラップを発動させるから、あんたたちはこっちとこっちから、トラップで捌き切れなかった連中の始末を頼むわ」
「OK、判ったわ。それで、押されているフリをして、連中を次の罠に誘い込めばいいのでしょう?」
「そーいうこった。あんたたちがそうそうそそっかしいとは思わねーけど、罠の位置を間違えんなよ。オレは、『鼠捕り』通路に入るのはあいつらだけだと思って操作すっからな、巻き込まれても知らねーぞ」
「あー、まぁ、そん時はドルフに助けてもらうわ。よろしくな」
「……巻き込まれる前提で話をされても困るのですが……いえ、勿論、その時にはお助けしますがね」
「オレは基本、罠操作しながら近づいてきたのの始末に回る」
「俺と日黄泉とドルフは遊撃な」
「では、私はアリス様の護衛を。私は幸い丈夫ですし、いざとなれば、盾や囮になることも出来ます。それに、タッキーノ・ファミリーの皆様は、どうやら、触手やモンスターには不慣れのご様子ですから、威嚇などを行ってみるのも手かもしれません」
「おう、頼むぜ、キュキュ。あ、ついでに」
「はい、どうなさいましたか、理月様」
「あとでその触手触らせてくれ。何か可愛い」
「え、あ、はい……?」
「真顔過ぎてこえーぞ、理月さん。あんたってホントに……」
「ん、どした」
「……いや、何でもねーよ。言っても無駄な気がしてきたし」
動物と名のつくものには過剰なまでに反応し、いつも思う存分キャラを崩壊させる理月が、今回は、(完全な動物というわけでは決してないが)キュキュのふわふわ触手に食指を動かしたのを見て香介は呆れたものの、
「……そろそろの、ようですね」
ランドルフの小さなつぶやきに、表情を引き締めて頷いた。
濃い、強い殺気が、複数、このビルを包囲しつつあるのが判る。
顔を見合わせて頷いたランドルフ、理月、日黄泉が音もなく動き、階下へと移動した。
いきなり二階から始めると警戒されかねないので、まず初めは、一階部分で適当に戦闘を行い、タッキーノ・ファミリーの連中に、『逃げ場を失ってここへ陣取ったものの、分が悪いと見て内部へ逃げ込み、上へ上へと逃げてゆく』ことを印象付ける必要がある。
下へ向かった三人は、それぞれに百戦錬磨の達人たちだ、適当に、不利っぽく演技を取り混ぜて戦う、というのは難しいかもしれないが、そこは、連中を殲滅出来るかどうかのキモだ、精々名優ぶりをはっきしてもらうしかない。
「さーて、奴ら、どう出るかな……?」
楽しげにつぶやく香介の隣で、アリスは、キュキュに傷を癒されている。
協力者たちばかりに迷惑はかけられないと、アリスもまた最前列で戦うことを願ったが、彼女の最終目標が、タッキーノ・ファミリーのトップ、ジョルジオ・ティランノである以上、そして彼女が病に身を蝕まれている以上、最後まで体力は温存しておいた方がいい、ということで、彼女は常に上階で待機することになっていた。
常に最前線で戦ってきた女刑事には、それが、ありがたくもあると同時に納得行かなくもあるのだろう、当惑したように、自分の手を取り、あちこちに出来た傷を検分するキュキュを見つめている。
「……わたしばかりが、こんな、」
「気に病まれる必要性はございませんよ、アリス様。私たちは、皆、それと望んでここにいるのですから」
「でも、やっぱり、その……魔法での、治療は。わたしが延命治療を拒んでいることを知っているでしょう」
「しかしこの傷は、病ではございません。軽視して、この場を切り抜けられないようでは、アリス様ご自身がお困りになるでしょう。私は魔物ですから、正直、神の何たるかは判りかねますが、それでも、貴方の神は、この傷で死ねとは仰いませんでしょう。貴方の神が指し示されるように生き切るためにも、どうか、お受けくださいませ」
多少造形に魔物的なものが混じるものの、全体的には可憐な少女に、真摯な言葉と表情でそう言われて、更に突っぱねられる人間はいないだろう。
アリスは胸を突かれたような表情をしてから、苦笑し、小さく頷いた。
微笑んだキュキュが回復魔法を展開させ、アリスの傷を癒してゆく。
ふたりの周囲を、ふわり、と、黄金の光が浮かび上がる。
その光が触れると、アリスの身体に刻まれていた幾つもの傷は、まるで夢か幻だったとでもいうように、滑らかに、すうっと消えていった。
アリスが驚いた顔で自分の身体のあちこちを観察している。
「本当は、貴方の心の傷まで癒すことが出来ればよかったのですが」
途中、誰にともなくこぼされた、その、哀しげな、小さな小さな呟きを聞いたのは、恐らく、香介だけだっただろう。
「なあ、アリスさん」
「……?」
「こんな時にする質問じゃねーかもしんねーけど」
香介が興味を惹かれたのは、彼女にその生き方を選ばせた、彼女の『神』だった。
香介には、時おり、益体もないと自嘲しつつ、神や信仰について考え込む一瞬がある。
香介もまた、その名を持つモノとともに長い時間を生きてきたからだ。
――しかし、香介の神は、彼を縛っただけだった。
力にも、救いにも、癒しにもならなかった。
ただ香介を歪ませ、虚ろにし、どうしようもない運命を押し付けただけで、 香介の神は、彼の心において、彼の平和や平穏や幸いのために存在していたわけではなかった。
しかし、アリスは、その神に導かれた終焉を求めてここにいるという。
その神がどんなものなのか、唐突に、気まぐれで、しかし強く、知りたいと思ったのだ。
「あんたの神さまって、何だ?」
問われたアリスは、こんな時に、などとは言わず、また、先ほどの曖昧な物言いを続けるかと思ったが、一瞬何かを深く考え込んだあと、
「わたしの神は無為。わたしの神は流れ。わたしの神は、わたしが帰結するこの世界と、運命そのもの」
静かに、きっぱりとそう言った。
はぐらかし続ける面倒を厭ったのか、それとも、話すことで楽にと思ったのか、初めて真正面から尋ねたのが香介だったからなのか、理由は判らない。判らないが、その答えは、香介の心にも響いた。
どこかの絶対神と答えられるより強く、深く。
「あんた、クリスチャンじゃねーの?」
「ええ、そう、――あの日までは。でも、決して敬虔な信徒ではなかったし、これからも、そうはならないと思う」
「は、そりゃそうだろうな。今のあんたの神は、あんたにとって十全か?」
詳しい事情は知らないが、依頼を受けてここに来た面々に聞いた限りでは、彼女は、マフィアに家族を惨殺され、自らも重い病を患って、余命幾許もない状態なのだという。
その彼女が無心に神を信じ、祈り、それでもすべてを甘受し感謝するのか、それとも、違う平安を別の場所に見つけるのかは、半々の確率ではないかと香介は思う。
かの唯一絶対なる神は、そこに神として『在る』だけで、敬虔であろうがなかろうが、どんなに懇願し嘆願しすべてを捧げて祈ろうが、地上を這いずる命のひとつである一個の人間の願いなど、容易く叶えてはくれないのだ。
神とは、結局、そういうものだろうと思う。
ただ、人間が勝手に、神に、その力に、振り回され踊らされるだけのことなのだ。
少なくとも、香介にとっての『神』への価値観は、そういうものだ。
それゆえの香介の問いに、アリスは緩やかな悼みを含んだ微笑を浮かべ、彼を真っ直ぐに見つめて、
「ええ。この身を蝕む病と、虚無と絶望は確かなこと。それはもう、消せはしないでしょう。けれど、自分の行く末を見つめることで、少なくとも、今のわたしは安らいで、心は凪いでいられる。かの絶対なる神には、出来なかったことだわ」
そう、きっぱりと断じた。
香介の薄い唇が、深い笑みを刻み込む。
「……そっか」
香介は、コートの内側の投擲用ナイフの残数を確かめると同時に、友人から譲り受けた【明熾星(アカシボシ)】という名の短剣を引き抜いた。
炎のような真紅の刃が、わずかな光を受けて煌めく。
「その神さまが、あんたに、行き着くとこまで行け、って言ってる?」
「ええ。それが、わたしのさがすもののひとつ」
「なら」
「え?」
「それ、探すの、手伝ってやるよ」
香介はにやりと笑った。
「最後まで、あんたに、つきあう」
誓約のようでもあるそれに、アリスが首を傾げる。
「……でも、何故、」
「ああ、手伝う理由、か? 面白そうだから、だぜ? ……オレは暴れたいだけさ、他に理由なんて、ねーよ」
内心を隠して嘯く香介に、アリスは真っ青な目を向け、そして微笑んだ。
「……ええ、ありがとう」
香介の中の『何か』を悟ったと思しき青い目に、理解と共感を感じ、彼は肩をすくめる。
自分の命にも、他人の命にも、興味も執着もない。
けれど、今回ばかりはすべて見届けたいと、切に思う。
――階下では、戦闘が始まっているようだった。
5.神(侵)攻
数と銃火器で武装したタッキーノ・ファミリーは少々厄介だったが、それでも、異世界物だろうが現代物だろうが、ファンタジー寄りと称するのが相応しい映画出身の三人からすれば、それほど面倒な相手でもなかった。
厄介、というのも、彼らを適当に相手取りつつ、『不利を悟って上階へ追い込まれて行く』という役柄を見事演じ切らなくてはならないからであって、決して、戦闘が、という意味ではないのだ。
「さァて……どうやって追い込まれるかね。何なら俺、弾の一発くらい喰らってもいいけど」
ランドルフがその怪力でもって設置した、あちこちに廃棄されていた何台もの自動車を、バリケード代わりに階段付近に積み上げ、その背後に身を隠して向こうの様子を伺いつつ、理月がなんでもない風に言う。
ランドルフがその物言いに苦笑した。
「それは確かに、向こうの油断を誘うという意味では有効なのでしょうが、さらりとそういう言葉が出てくるところがすごいですね。撃たれれば痛いでしょうに」
「ん、そうかな? まぁ、怪我なら慣れてるからなぁ。急所を外して撃たれるくらいのことは出来るし」
「ええ、現に、今も何か傷を負っておられるようですし。無茶はしないでくださいよ、ここで終わりではないのですから」
「ああ……まぁ、そりゃそうだ」
「こういうのはどう?」
「ん?」
「私たち、別に、こんなバリケードがなくても戦えるけど、彼らはきっと、これがなくなるなり壊れるなりすれば、チャンスだと思うでしょう。それを利用して、」
「ははあ、上に逃げる、か。悪くねぇな」
「そうですね、では、そのように。むしろ、バリケードが壊れやすいよう、こちらからも何か力を加えてやる必要があるかもしれませんね」
「そうね、奴らが何かぶっ放してくるのを見計らって、私のこれでそれらしく爆発させてもいいわよ」
言った日黄泉が、小振りの手榴弾を掌に転がしてみせる。
乱暴ではあるが適当な手段であることも確かで、日黄泉のその提案にランドルフと理月が頷いた。
その時、バリケード用の廃棄自動車に、銃弾が打ち込まれた。
甲高い、耳障りな音がする。
三人は顔を見合わせ、笑みを交わした。
「んじゃ、適当に数を削りつつ、頃合を見計らって撤退、だな」
「ええ。理月、あなた、刀使いですもんね、どうせ突っ込むつもりなんでしょう? 気をつけてね」
「ん、まぁ、働き蜂とかいう連中程度の弾なら、当たる気はしねぇしな」
「ないとは思うけど、私のが当たったらごめんなさいね?」
「……いや、それは、出来れば勘弁してもらいてぇんだが……」
「そうね、気をつける。後味が悪いものね。ランドルフ、あなたはどうするの?」
「私も基本は理月さんと同じですね」
「そう、でも、ふたりで最前線に出て、バリケードが爆発した程度で撤退、というのもおかしな話よね」
「ああ……そうですかね。では、幸いこの辺りにはガラクタが散乱していますから、それを投げつけて向こうの撹乱を狙いましょうか」
ふむ、と考えたランドルフが、周囲に転がっていたコンクリート片を拾い上げるのを見計らって、理月が臨戦態勢に入る。
日黄泉は拳銃を無造作に構えた。
「じゃあ……行こうか」
なんでもない風情で告げ、理月が薄汚れた床を蹴る。
働き蜂たちは、徐々に数を増やしてきているようだった。
そこから四十分後。
ランドルフが子どもの頭程度のサイズをもったコンクリート片を投擲してマフィアたちを混乱させ――何せ彼の怪力から発せられる石片はちょっとした弾丸並の威力がある――、その混乱に乗じて突っ込んだ理月が『白竜王』を揮って働き蜂たちの首や腕や足を落として回り、更に日黄泉のコルト・キングコブラが畳み掛ける、という連係プレーを幾らか続けて相手の数を減らしたあと、わざと腕に弾丸をかすらせた理月がバリケードへと撤退し、雨霰のように降り注ぐ銃弾とのタイミングを見計らった日黄泉が廃棄自動車の盾を爆発させると、案の定、マフィアたちは活気付いた。
それを確認して、三人は、山のようなトラップであふれた上階へと撤退する。
このビルには階段がひとつしかなく、また、エレベーターエスカレーターの類いは閉鎖されて久しい。
マフィアたちは、彼らを追って来ようと思ったら、何が何でもこの階段をあがらねばならず、結果、香介が張り巡らせた蜘蛛の巣のような罠にかからざるを得ないのだ。
「えげつねぇ話だよな」
階段を駆け上がりながらの理月の呟きに、ランドルフが苦笑して頷いた。
香介が仕掛けた罠は、喰らえば命を落とすような容赦のないものも中には含まれていて、これまでに様々な修羅場を潜り抜けてきたはずのムービースターたちですら、正直、少し呆れた。
「あれで、『何の変哲もない』ムービーファンってんだから、世の中絶対におかしい」
理月がしみじみ言うと、ランドルフと日黄泉がかすかに笑う。
ふたりも、同じことを思っているだろう。
二階へと駆け込んだ三人は、罠の配置とそれが発動する角度、そしてその範囲とを念頭に置きつつ物陰に身を潜ませる。
訓練されてはいるが、気配を読むことが出来るほどの手練れでもない働き蜂たちが、無粋な邪魔者を、聞くに堪えない悪口雑言でもって罵りながら階段を上がってくるのが聞こえる。
かすかに笑い、ランドルフは隣の理月を見る。
理月の銀眼が、同じくランドルフを見、そして細められた。
向こう側の柱の影から、日黄泉がウィンクを寄越すのが見えた。
――働き蜂がどやどやと二階へ踏み込んで来る。
香介は、このフロアの一番奥でそれを感じているはずだ。
シャープに研ぎ澄まされた三つの気配と、猛々しくはあるが洗練されてはいない殺意、その違いが判らないほど、彼は不慣れではない。
きっと香介には、最初に二階に上がってきた第一陣、全部で二十七人の働き蜂が、全員階段を上り終え、その区画に入り込んだ瞬間が、手に取るように判っただろう。
最後のひとりが、『そこ』をくぐった。
先頭の男は、ガラクタに邪魔されてなかなか進めずにいる。
「おい、ぐだぐだしてんじゃねぇ、早く――……」
後方のとがった声は、すべてかたちにはならなかった。
くんっ。
ワイヤーが引かれる。
薄暗い室内で、『それら』が倒れて来ることを察知出来た人間は、働き蜂の中にはいなかった。
強く引き絞られて張られたワイヤーは、巻き取られると同時に、勢いよく『それら』を落下させた。
ガラクタの檻に阻まれて身動きできずにいた人々のちょうど真上に倒れるように計算された『それら』は、ランドルフがその怪力でもって設置した、一本が数十kgもある鉄骨だった。
がら、ら、あぁ、ん。
鉄塊がコンクリートを打つ鈍い音、肉がひしゃげる生々しい音。
十本以上の鉄骨が、いちどきに倒れこんで来たのだ。
避けられたものはいなかった。
幸いにも足や腕を押し潰されるだけで済んだ者もいたが、彼らは、鉄骨から逃れられずにいる間に、三人によって仕留められていた。
ここが、罠だらけの危険な空間だと知られるわけには行かないのだ。
「……まったくもって、敵には回したくない男ね。どこでこんな技術を仕込んできたのかしら」
日黄泉の呆れたような呟きに、ランドルフと理月が苦笑して頷く。
――階下からは、また、働き蜂たちが上がってくる気配がする。
主要な戦力を誘き寄せて壊滅させ、最終的にはタッキーノ・ファミリーのドン、ジョルジオ・ティランノを、屋上へと『招待』しなくてはならない。
「行きましょう、次のトラップに。まだ、数を圧倒的に減らせたとは言い難い」
「そうだな、地味に削るしかねぇか。それにあいつ、短気そうだから、俺たちが遅れたら巻き添えに発動させそうだ」
「言えてるわ。それから、アリスの様子も、心配だしね」
それぞれに状況を見極めつつ、次なるエリアへと足早に進む。
第二陣が到着した、気配がした。
6.神(津)々
アリスの様子がおかしいことに気づいたのはキュキュだった。
香介はトラップを発動させることに、また、幸いにも罠を回避出来た働き蜂が、一定のルートを辿ってこちらへ進んでくるのを――無論、そう進むようにルートを設定したのは香介だが――排除することに忙しく、とてもそれどころではないか、もしくは、気づいていても自分に出来ることはないとすべてキュキュに任せているかのどちらかだろう。
「アリス様、どうなさいました」
そっと背中をさすりながらキュキュが問うと、床にしゃがみ込み、自分で自分の身体を抱きかかえるようにして震えていたアリスは、蒼白な顔色で首を横に振った。
「発作、の、ような……もの、だから……」
「発作、ですか。それは、あなたを蝕む病気の……?」
「詳しく、は、知らな……い、けれど、きっと、そう、なんでしょう」
肩を上下させ、震え、咳き込みながらアリスが頷く。
キュキュは魔物だけに、人間の罹る病などとは無縁だが、この世界に実体化して、癌とは凄まじい苦しみをもたらすものだと聞いていた。
アリスのこれが正しくその病によるものなのかは判らないものの、彼女が苦しんでいることははっきりと判る。あまりにも痛ましい様子に、何とかしたいと思ったものの、病を癒す類いの回復魔法をアリスが拒むので、キュキュはわずかに痛みを和らげる魔法を使うことしか出来なかった。
手の平で、アリスの背を撫で続けることしか出来なかった。
「苦しいですか。何か、私に出来ることは」
問いかけても、アリスは首を横に振るばかりだ。
人の心など、キュキュにはどうしようもない。
魔物の身で、傷つき壊れかけた心を癒すことなど、出来るはずもない。
「私に、もっと、何か出来れば」
それでも、家族という一番大切なものを失い、死んで行く我が身を抱えたままで、なおなすべきことのために歩みを止めぬアリスの、その道を、わずかなりと照らせればとも思うのだ。
「いいえ……キュキュさん」
自分は無力だとうなだれるキュキュにかけられた声は、ほんの少し穏やかさを取り戻していた。
面を上げたアリスは、思わずギョッとするほど蒼白な顔色をしていたが、しかしその表情は穏やかで、静かだった。
「この流れの果てに、独りで最期を迎えるつもりでここに来た。今やわたしにとって死は親しき隣人、恐れるつもりも、厭うつもりもない」
いっそ、晴れやかですらある表情で、
「けれど、今のこの時、わたしの傍にはあなたたちがいる。この流れのすべてを神と呼ぶのなら、わたしは、わたしの神に感謝しましょう。あなたたちに感謝するのと同じくらいに」
血の気を失った唇に、無垢な笑みを浮かべて、アリスが言う。
キュキュは胸を衝かれる思いがした。
死に瀕しても、怨み言ではなく感謝の言葉を紡げる、人間という生き物の強さを垣間見る。
――フロアの中央辺りで、銃声と爆音と悲鳴が響いた。
今、彼女らがいるのは七階。
マフィアたちはランドルフと理月と日黄泉によって翻弄され、巧みに誘い込まれて、香介の凶悪極まりない罠によって刻々と数を減らしていた。
恐らく、もう、何かが決定的におかしいことに、マフィアたちも気づいているだろう。アリスと、アリスを守る面々が、追い込まれて逃げているわけではないことに、勘付いているだろう。
しかし、気づいていてなお、追って来なくてはならないような、何かとてつもなく重大なものを、アリスは抱えているのだ。
「――……ジョルジオが、来ました」
いつの間にか、待機場所には、全員が戻って来ていた。
アリスの仇の名を告げ、彼女の蒼白な顔色を目にして痛ましげな表情をしたのはランドルフだ。ここでの戦いが始まってもう二時間は経つはずだが、彼の強靭な肉体のどこからも疲れは伺えない。
「今、二階から三階にかけての階段を上がって来ています。残った働き蜂はおよそ三十人、全員がジョルジオを護衛し、また周囲を警戒しながら上階を目指しています。しかしながら、周囲、半径五百メートルに、もう、同じ人種の気配は感じません」
未だ座り込んだままのアリスに、日黄泉が手を差し伸べた。
凄腕美人エージェントは、長時間の戦闘にも、その美貌を欠片ほども曇らせてはいない。
「奴ら、警戒しながら進んでくるようだから、屋上に辿り着くには時間がかかると思うわ。屋上で、少し休憩しましょう。さすがに、美味しいお茶やお菓子はないけれど」
アリスを立ち上がらせながら、日黄泉が、不安も焦燥も迷いも感じさせない、明るく美しい笑みを見せると、アリスもまた小さく笑い、頷く。
「残った働き蜂も、全部、俺たちが何とかする。あとはあんたの好きにやんな、アリス。俺には神の何たるかなんて判らねぇけど、それであんたが充足を得られるってんなら、手伝いのひとつやふたつ、厭う気はねぇよ」
銃火器で武装した男たちを刀一本で翻弄し、プレミア・フィルムの山を築きながら、息ひとつ乱れていない理月が、鋭い銀眼の中に紛れもない誠を滲ませて告げる。
ちらりとその目をよぎる共感の光は、彼もまた、過去に何か大切なものを奪われて来たからだろうか。
「さーて……んじゃ、行くか。最後の仕上げだ、気合入れてな。っつか、最後くらい暴れさせろよ、トラップばっか扱ってっとストレス溜まる」
神秘的なほどに赤い刃を持つ短剣を手に、香介がにやりと笑うと、皆、銘々に頷いて歩き出す。
ランドルフたち遊撃担当三人が先んじたのは、万が一にも誰かが先回りしていないかどうか確認するため、香介が殿(しんがり)に陣取ったのは、気の早い誰かが何かを仕掛けてきた時に対応するため。
この場にいる全員が、何も言わずとも、自分で自分のなすべき仕事を理解して動いていた。
キュキュもまた、自分の立ち位置をまっとうすべく、アリスに寄り添うように、いざとなればいつでも盾になれるように、彼女の隣に立って歩き出す。
そこへ、
「なあ、アリス」
背後からかかった静かな声は、香介以外に在り得ない。
「……?」
立ち止まり、振り返ったアリスが、目だけで続きを促すと、
「また、馬鹿馬鹿しい質問、するけど」
どこか悪戯っぽい、それでいて何故か確信めいた響きで、
「神さまはどこにいると思う?」
赤瞳の青年はそう問うた。
アリスの唇を、微笑がかすめる。
やはり、悪戯っぽい、確信めいた光とともに。
「今、この場所に、わたしたちが触れる世界のすべてに」
答えは簡潔で、迷いなく澄んでいた。
香介が笑う。
彼の笑みもまたどこか無垢だった。
「……そりゃ、悪くねーな」
「ええ」
交わされる言葉、笑みの端々に、理解と共感の色彩が滲む。
一挙手一投足から、確信が湧きいずる。
その光景を、キュキュは、神々しいとすら思った。
7.神(信)頼
タッキーノ・ファミリーの最後の生き残りたちが屋上に辿り着いたのは、そこから三十分が経過してからのことだった。
タッキーノ・ファミリーの働き蜂は、今の銀幕市に名を馳せる、神がかった手練れたちほどの実力は持たないものの、皆が均一に訓練された精鋭ばかりだ。それゆえに、アリスの故郷である映画世界は、大きな被害を被ることになったのだ。
そして、彼らの大半は賢明ではないが職務に忠実で、一途だ。
特に、自分たちの敵を叩き潰すという仕事に関しては、どこまでも執念深く食いつき、職務をまっとうしようとする。
そんな働き蜂たちが、すでに、三十ばかりしか残ってはいないのだ、トップであるジョルジオにせよ、生き残った働き蜂にせよ、屋上に一個中隊くらい待ち受けていると思っていたかもしれない。
その真偽は定かではないが、少なくとも、かなり警戒しながら進んだために、彼らの到着に時間がかかったのだろうことは明白だ。
――彼らは最初、屋上へと続くドアを薄く開け、様子を伺っているようだった。
無論、ドアを開けた瞬間、強力な銃火器で蜂の巣にされてはたまらないと、誰だって思うだろうし、そうならないように警戒するだろう。特に、下階に広がるトラップを目にしてきたのなら尚更だ。
しかし、彼らは、彼らが想像するような大軍を、閑散としたコンクリートの、抜けるように青い空に彩られたそこに見出すことは出来なかっただろう。
屋上の中央に佇んで、ほんの少し開いた扉を見つめているのは、彼らのターゲットであるアリス・ドゥオーキンを初めとして、わずか六人だけだ。
油断はせずとも勢いづいた働き蜂たちが、物騒な得物を手にドアから雪崩れ込んだのも、当然といえば当然かもしれない。
今の一瞬で、彼らは、自分たちの仲間がなすすべもなく倒されて行ったのは、あの、数々のトラップのお陰であって、数という武器のためではない、と、単純に思い込んだことだろう。
事実香介が仕込んだ数々のトラップには、それだけの性能が秘められていたのだから。
それゆえに、何故彼ら六人が、有利だったはずの形勢を捨ててまでわざわざ屋上で待っていたのかというそこには頓着することなく、優越感をあらわにしたジョルジオ・ティランノが、
「アリス・ドゥオーキンは殺すな、『あれ』の場所を吐かせる必要がある。生きてさえいれば五体満足でなくとも構わん。それ以外の連中は、生まれてきたことを後悔するような苦しみと恐怖を与えてやれ。――全員、始末しろ」
そう命じたのも、当然といえば当然なのだった。
だが、しかし、
「飛び道具はすべて、無効化されております。どうぞ皆様、ご存分に」
働き蜂たちが拳銃やマシンガンを構える中、まったく動じていないキュキュが静かにそう告げるや否や、
「ま、当たる気はねぇけどな」
白銀の刃を煌めかせて駆け抜けて行った漆黒の傭兵が、
「っつか、あの程度で勝った気になるとか、ありえねーダサさじゃね?」
真紅の短剣を片手に、口笛でも吹きそうな気軽さで走り出したムービースター疑惑保持者が、
「浅い連中ね、本当に。数しか見ず、個々の実力を測ることも出来ないのだから」
両手に拳銃を携えた凄腕美人エージェントが、颶風のごとき勢いで突っ込み、それぞれに舞うだけで、戦局は一気に傾いた。
『白竜王』が、【明熾星】が、コルト・キングコブラが閃くたびに、コンクリートの床には、次々と、滑稽なほど呆気なく、プレミア・フィルムが転がり落ちてゆく。
「なっ……」
ジョルジオが色をなくす。
ランドルフもまた、じっとしてはいなかった。
巨体に似合わぬ俊敏さで、働き蜂のただ中に跳び込むと、たくましい腕を一閃させ、銃火器を手にした男たちを殴り倒し、脱落させてゆく。
「な……何だ、何なんだ、こいつらっ!?」
ひとりの働き蜂の叫びは、恐らく、タッキーノ・ファミリーの残党すべての胸中を代弁していただろう。
しかし、その彼も、すぐランドルフに首根っこを掴み上げられて壁に投げつけられ、顔面を粉砕されて昏倒することになった。
わざわざ止めを刺す冷酷さはランドルフにはないが、少なくとも彼らは、アリスが目的を遂げるまでは目覚めまい。
「く、くそ……!」
タッキーノ・ファミリーのトップ、ジョルジオ・ティランノがたったひとりになるのに要した時間は、彼らが屋上に上がって来てからわずかに数分間のことだった。
アリスの守護者たちは、皆、得物をめいめいに収め、アリスと、ジョルジオとを交互に見つめている。
アリスはまだ『発作』が完全には治まっていないらしく――何せ、本来ならば出歩いていいような状況ではないのだ――、顔色は蒼白だったし、ひとりで立ってはいるものの足取りは覚束ず、ランドルフをハラハラさせはしたが、
「こんなところで、この俺が……ッ!」
吼えると同時に自分に銃口を向けたジョルジオが引鉄を引くよりも速く、素早く構えた拳銃で、彼の右手と左大腿とを撃ち抜いた。それだけの胆力は、残されていたのだ。
たん、たぁん。
銃声はどこか物哀しかった。
「……!!」
病に蝕まれたこの状態でもアリスの腕は確かで、銃弾は狙い過たずジョルジオを貫いた。
彼は吹っ飛び、獣じみた呻き声を上げて床を転がる。
すぐに、じわじわと血溜まりが出来てゆく。
彼の手から離れた拳銃が、カラカラと乾いた音を立てて滑っていったのを見送ったあと、アリスが、冷ややかな憎しみと殺意とを込めた目で彼を見下ろし、ジョルジオの頭に銃口を向けた。
やれ、殺せと囃し立てる声はなかったが、同時に、止めろ、殺すなと諌める言葉もなかった。
彼らは理解している。
罪を購うのに、命をもってするしかない場合が、厳然として存在することに。
ランドルフは理解している。
他者を殺した者は、他者によって己が殺されることも覚悟せねばならないと。
――彼自身が、その業を負って生きているから。
アリスが、ジョルジオを殺して楽になれるというのなら、そしてどうしても仇を取るというのなら、ランドルフにそれを止めるつもりも、その権利もなかったが、業の塊のようなこの男を殺すことで、むしろ苦悩は深まるのではないかと、そんなことを彼は心配していた。
本当の救いなど、どこにあるのか、ランドルフに判るはずもない。
否、この場に集った誰もが、答えられはしないだろう。
だからランドルフは、銃口をジョルジオに向けたままのアリスが、
「……この男を殺した時、わたしの旅は終わるのかしら。わたしの神は、ならばもうここで止まれと告げるのかしら」
小さくそう呟いた時、思わず一歩踏み出していた。
「アリスさん」
彼女が真に憎んでいるものは何なのだろうか。
タッキーノ・ファミリーが憎くないということは決してないだろう。
彼らはあまりに殺しすぎ、傷つけすぎ、奪いすぎた。
けれど、大切なものを失った時、人間がもっとも根本的に憎悪するのは、それを守れなかった自分自身ではないかとランドルフは思うのだ。
その苦悩を抱いて彼女はここへ辿り着き、仇であるジョルジオ・ティランノを追い詰めるに至って、迷っている。
ランドルフは言わずにはいられなかった。
願わずにはいられなかった。
「私は自分の世界で、大切な人たちの人生を砕きました」
アリスがランドルフを見る。
――ジョルジオは、傷が深すぎて、身動きも出来ずにいるようだった。
「アリスさん、あなたの生き方、命のありように敬意を表します。自分という道筋を辿って行くあなたのありようを、尊いと思います」
「いいえ……そんなに立派なものではないわ、きっと」
「そうかもしれません。私には、主観という判断基準以外ありませんから。ですが、アリスさん、私は、あなたに生きて欲しいのです。その男は罰せられるべきでしょう、あなたたちの世界の在り方で」
「ええ」
「しかしそのために、あなたが更に苦しむ姿は見たくない」
「……」
「私は人殺しです。取り返しのつかぬ罪を犯してなお、ここにいます」
ランドルフに神は判らない。
彼にこんな運命を強いた神など、どうでもいい。
ただ、アリスが微笑みを持って語るような、ありのままを指し示す『流れ』が、彼にここで、かくあり、かく生きよと命じてランドルフを実体化させたのならば、それをまっとうすることは悪くないだろうとも思う。
「しかし、ここは銀幕市です。この街で、私は私の在り方を模索している。そのために与えられた日々なのかもしれません。苦しみもありますが、喜びもあります。――許されてはいけないのだとは、思わないことにしました。ここに来たことに意味があるのならば、そのひとつひとつに償いが込められているのかも知れない」
ランドルフは、アリスに生きて欲しかった。
「生きてみませんか、アリスさん」
「……」
「あなたの終焉は、きっと、この場所ではないんです。もっと先に、何かがあるはずなんです。それを確かめるためにも、私は、貴方に生きて欲しい」
きっと、この場に集った皆が、そう思っているはずだった。
そこへ、
「……俺には」
ぽつりと言葉をこぼしたのは理月だ。
「あんたが何を抱えているのかは判んねぇよ。詮索する気もねぇ。でも、この町に助けられたひとりとして、分かち合えるものがあればとも思う」
彼の言葉に、日黄泉とキュキュが頷く。
理月の銀眼が、アリスを見つめた。
静かに凪いだ光がよぎる。
「ずっと考えてたんだ、何か出来ねぇかって。……あんたが嫌じゃなきゃ、預かってやるよ、その拳銃って奴。それで、あんたが、少しでも肩の荷を降ろせるんなら」
彼の物言いもまた真摯で、そして、その内側にわだかまる深い哀しみの存在を感じさせた。
アリスが、自分の掌の拳銃を見下ろし、
「わたしは……」
呟いて、瞑目する。
「わたしの神が導く終焉は、ここだろうと思って来た」
ジョルジオが弱々しく呻き、身じろぎをした。
しかし彼女は、もう、彼を見てはいなかった。
「けれど、ここであなたたちに出会ったのは――……ランドルフさんが言うように、もっと先の何かを見ろと、そう言われているからなのかしら」
夏空めいた目が開かれる。
そこには、静かな、強い確信が――それは、気力と呼ぶべきものだったかもしれない――宿っていた。
紅もささない唇を、無垢な笑みがかすめる。
「理月さん」
「ん」
「お願いしても、いい?」
「ああ」
「忘れられるとも、吹っ切れるとも思わない、けれど」
理月が手を差し出すと、アリスが、その手の平に、自分の拳銃をそっと載せる。
「ここが、銀幕市という新しい場所だというのなら、違う何かを見ることも、許されるのかもしれない」
「……ああ、勿論だ」
理月が確信を込めて頷き、預かった拳銃を、落ちないようにベルトに挟む。アリスはそれを、何か神聖な儀式でも目にしているかのように見守った。
「皆さん」
そして、微笑む。
「――……ありがとう」
復讐を、憎しみを、哀しみを、死を。
苦悩は人を常にその道に駆り立てる。
しかし、本当のことを言えば、先に旅立った大切な人々が、遺された誰かに望むのは、その人の幸せと平安、それだけなのだろうとランドルフは思う。愛するとは、愛されるとは、そういうことなのだろうと。
アリスはきっと、そのことに気づけるだろう。
少なくとも、この魔法が銀幕市に続く限り。
「よかった……」
ランドルフは胸を撫で下ろしていた。
日黄泉とキュキュが顔を見合わせて微笑を交し、香介と理月は手の平と手の平とを軽く打ち合わせた。
呻き声を上げながら転がる男の姿すら気にならない、安堵にも似た空気が流れた。
――その時。
「そう簡単にハッピー・エンドを迎えさせるわけには行かないのよねぇ」
冷ややかな愉悦に満ちた声が唐突に響き、
「……みっともないことになっているな、ボス」
低く重みのある声が響くと同時に、風を切って飛来したワイヤーが、アリスの身体を雁字搦めに絡め取った。
ほんの一瞬のことだった。
気配ひとつ感じない登場に、誰もが思わず、立ち尽くした。
8.神(深)化
それはまるで蜘蛛の糸のようにアリスを捕らえ、身動きを完全に封じて、
「ア、」
ランドルフが彼女を助けようとするよりも早く、彼女の身体はドアへと引き摺られ、引き寄せられてしまう。
「アリス・ドゥオーキン、確保……っと。『あれ』はどこなの? 何て訊いても、答えやしないでしょうけどね」
ドアの傍には、背の高い、冷酷な雰囲気を持った美女と、
「ならば身体に訊くまでだ、そのまま連れ帰れ」
鍛え上げられた肉体に、勝利のためならばどんな手でも使う人間特有の毒を滲ませた、厳つい顔つきの男の姿がある。
「ラーニョ、スコルピオーネ……」
ラーニョが放ち、また操ったワイヤーに絡め取られながらアリスがつぶやいた。その声に反応したのか、ジョルジオが呻きながら顔を上げる。
「お、お前たち……」
「ハァイ、ボス。遅れてごめんなさいね、事態を理解するのと子蜘蛛たちを収集するのに手間取っちゃって」
「なかなか面白いことになっているようじゃないか。興味深い街だ」
「そんな、ことは、いい、は……早く、俺を助けろ……!」
出血で意識が朦朧としているのだろう、舌が回らないのか、途切れ途切れにジョルジオが命じる。
組織のトップが私兵に自分の救出を命じることは、当然の、おかしな命令ではなかったはずだった。
しかしふたりは、ほぼ同時に肩をすくめただけで、屋上の中央付近に転がる彼を助けようと、こちらへ近寄ってくることはなかった。
ジョルジオの顔が歪む。
ラーニョが場違いなほど明るく笑った。
「だって、ボスを助けに入ったら、アタシたちまでやられちゃうじゃない。どこからどう見ても化け物クラスよ、そいつら?」
「……あとで救出してやる、しばらく囚われておけ」
主従関係と言っても絶対的なものではないのか、仮にも上司であるはずのジョルジオに、スコルピオーネは冷酷に告げ、アリスの首筋に当てた指先で、周辺を捻るような仕草をした。
「……!」
それだけで、アリスの身体はぐったりと力を失う。
――キュキュの魔法は、物理攻撃の大半を防ぐが、絞める、圧力をかけるなどの方法に対しては、無力だ。
「そこのお前たち」
スコルピオーネが、アリスを担ぎ上げながら、動くに動けず歯噛みする五人を指差す。
「そいつは預ける、生かしておけ。この女が奪ったものと一緒に持って来い、こいつと引き換えだ」
「取引の日時は指定するわ、それまで大人しく待っててちょうだい」
ラーニョがウィンクをしてみせた。
「……動かないほうが賢明だぞ、俺は指一本でこの女を殺せる」
「そういうこと。大丈夫、取引までは殺さずにおいてあげるから、心配しないで」
めいめいに告げたふたりが踵を返す。
五人は動けない。
ふたりがドアをくぐる。
バタン、という音とともに、ドアが閉められた。
まるで、無慈悲な断絶のようだ、と、誰もが思った。
――こうして、アリスは囚われた。
なすすべもなく見送るしかなかった人々の心に、深い無念を刻み付けて。
取引の日を告げる手紙が対策課に届くのは、そこから数日のあと。
アリスが理月に預けた拳銃から、組織の極秘情報と思われる膨大なテキストや映像その他が入ったマイクロSDカードが発見された、その次の日のことだった。
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クリエイターコメント | 大変お待たせいたしました、シナリオのお届けに上がりました。
皆様の素敵な、真摯なプレイングに感謝すると同時に、少々後味の悪い終わり方、いえ、この場合は続き方でしょうか、完全に完結できなかったことを伏してお詫び申し上げます。
アリスは生きることを望みました。それは、皆様のお心のお陰であり、皆様がそう望んでくださった結果です。それゆえに、きっとアリスは、どんな局面であっても、最後まで生きようと足掻くことでしょう。
このシナリオは、残照Vol.2へと続きます。 機会がありましたら、どうぞ、アリスの行く末と、彼女の戦いの結末とを、再度見届けてくださればと思います。
それでは、お届けが遅くなりまして大変申し訳ありませんでした。少しでも楽しんでいただければ幸いです。
読んでくださったこと、励ましのお言葉に感謝しつつ、また、次なるシナリオでお会いいたしましょう。
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公開日時 | 2007-10-12(金) 23:40 |
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