★ 星涼み ―詩を聴かせて― ★
<オープニング>

 じわりじわりと夏の暑さが身体の中にまで浸透してくる。耳に響くのは、やかましい程のセミ達の合唱。ただでさえじめりとしていて暑いのに、余計に暑くなってしまう、銀幕市の夏。
 鎮国の神殿も例外に漏れず、暑さに晒されている。
「……暑い。暑い。あつい……――」
「……」
「……あつい。あづい……」
 いつもの鎮国の神殿にある書庫の受付で、涼しげな顔をして本のページを捲っているホーディス・ラストニアと、その横で受付のカウンターに突っ伏しながらぶつぶつと同じ単語を呟いているリーシェ・ラストニアがそこにはいた。
「……あつい」
「……リーシェ。ここは書庫です。少しは口を塞いだらどうですか」
 先程から延々と数秒おきに繰り返される呟きに、ホーディスが本から顔を上げて眉を潜めた。リーシェの呟きを止めたければ魔法を使えば良いのだが、あまり身体を冷やすのは良くない、と最近は使っていないようだ。
 そんな事もあって、いつもは鉄仮面のごとく無表情なリーシェが、その言葉にむ、と口を拗ねたように捻らせる。
「だって、暑い……」
 どうやら暑さには弱いらしいリーシェは、再び呟くと、ばたり、ともう一度突っ伏してそのまま動かなくなった。
 その姿を見てホーディスは、ひとつため息をついて本を開こうとする。そして、そのままの姿勢で数秒間、固まっていた。
「……そうだ、良いことを思いつきました」
「……え?」
 不意に何か思いついたらしいホーディスがばたんと本をカウンターの上に置いて立ち上がった。そのまま玄関ホールへと向かう。
 リーシェがゆっくりと視線を瞬かせている前で、玄関ホールの中央に立ったホーディスはてい、とばかりに腕を一振りしていた。

 途端に、ぼん、という何かが爆発するような音と共に、玄関ホールだった場所は、何故かせせらぎがさらさらと流れる音がする、森の中の一帯へと様変わりしていたのである。明らかに玄関ホールよりも広くなっている気がする。どこからこんな空間を持ってきたのだろうか。
 リーシェは驚きながらその場へ足を踏み入れると、身体に纏わりついていた熱気は嘘のように消え、涼しいが、冷房とやらのように暴力的ではない、そよ風が頬を撫でていくことに気が付いた。
 空を見上げてみると、そこにはぽつぽつと生えている木々の隙間から見える闇の空。闇を満点の輝きの星が彩っている。
「さ、リーシェも手伝ってくださいな」
 ホーディスの言葉に振り向くと、彼は手に酒が入った瓶を持っていた。おそらく白ワインか何かだろう。
「手伝えって、一体何をするんだ?」
 戸惑いながらのリーシェの言葉に、ホーディスはにっこりと笑った。
「本当の夜が来るまでの間、ここで星涼みとしゃれ込むのもオツでしょう?」
「……そうだな」
 リーシェもその提案に微笑んだ。その瞬間、ホーディスの背後で何かちらりと光るのをリーシェは見たのだが、何かが星の光に反射したのか、玄関ホールの向こう側で従者達が何かをしているんだな、と思い、気に留めることはなく、ホーディスを手伝う為に動き出した。
 ――そして、神殿の門のところに、こんな貼り紙がされているのであった。

 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 星涼みへのお誘い
 
 暑くて過ごしにくい日々を送っているあなたに、ひと時の安らぎをお送り致します。
 興味がおありの方は、是非神殿内にお越し下さい。冷たい飲み物からアルコールが入ったものまで、様々に取り揃えてお待ちしております。ご一緒に星を眺めながら、癒しのひと時を過ごしませんか?

 尚、星涼みへお越しの方は、何かしらひとつ、物語をお聞かせ下さると幸いです。
 神殿管理人 ホーディス、リーシェ・ラストニア

 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


種別名シナリオ 管理番号690
クリエイター志芽 凛(wzab7994)
クリエイターコメント こんにちは、そしてはじめまして。

 今回は、神殿内に突如出現した夜の森に、皆様をご招待させて頂こうと思います。暑い夏の中ですので、是非涼しいひと時をお過ごし下さい。
 尚、星涼みの際に、是非おひとつ、何らかの「物語」をお聞かせ下さい。物語の内容は創作のお話でも、怪談でも、自分の過去のお話でも、ここで起こった出来事、何でも構いません。
 また、その不思議な空間、神殿内で星涼みの際にやってみたい事など、是非ご提案をお願いします。
 あ、ちなみに森の中ですので、何か出てくるかもしれませんので、お気をつけ下さい。
 尚、スケジュールの都合上、日数を上乗せさせて頂きます。ご了承下さい。

 それでは、よろしくお願い致します。

参加者
簪(cwsd9810) ムービースター 男 28歳 簪売り&情報屋
二階堂 美樹(cuhw6225) ムービーファン 女 24歳 科学捜査官
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
京秋(cuyy7330) ムービースター 男 38歳 探偵、影狩り
トリシャ・ホイットニー(cmbf3466) エキストラ 女 30歳 女優
<ノベル>

 ゆるりと風が吹いていくその道をひとりの青年が歩いていた。銀幕市に満ちている暑さに、ほんの僅かに顔の表情を歪めながらも、その歩みを止めることは無い。背中に背負っている笈を軽く揺すって背負い直し、歩みを続けている。
 そんな彼の視界に、ひとりの女性がなにやら門と思しき場所に、ぺたぺたと紙を貼っている光景が、映し出された。
「……なんでしょう?」
 銀幕市の日常では、普通の家に貼り紙をするような光景は見られない筈である。彼はそう思考を巡らせると、ゆっくりと彼女へと近付いていった。
「……どうも」
 女性に向かって、一歩、二歩、踏み込んだところで、彼の訪れに気がついたらしい彼女は顔をこちらに向け、小さく会釈した。彼もそれに合わせて会釈する。
「こんにちは。今日は暑いですね」
「……ああ」
「ふふ。それは一体何なのですか?」
 青年は警戒心を解くかのように微笑んで、そして問いかけた。彼女は首を傾けてその紙に目を戻すと、小さく、お知らせだ、と呟いた。
「……これから星涼みをやると、兄が」
「星涼み、ですか。……楽しそうですね。どんな場所でやるのですか?」
「森の中、だな。森の、せせらぎが流れている開けた場所だ」
 彼は、女性の言葉を聞きながらその貼り紙に目を通す。そこには、彼にとって興味深い内容が記されていた。少しばかり、暑さで項垂れていた脳内に風が吹き込まれていくのを感じる。
「……これには、あちきも参加させて頂いてもよろしいのでしょうか?」
 彼の質問に、彼女はしばし彼を見つめた後、僅かに唇の端を上げた。
「ああ。勿論だ。名前を伺っておこうか。ああ、私はリーシェと言う。この貼り紙にある名前の片方だ」
「あちきは簪と申します。どうぞよしなにして下さいな」
 青年、簪はそう言って、微笑む。

 *

 神殿に突如出現した森の中に、ホーディスが両手一杯に敷布のようなものを抱えて歩き回っていた。珍しく、魔法を多用せずに準備をしているようである。そんな中、入り口の方面と思しき場所からガサガサと音を立ててひとりの女性が歩いてきた。彼女は新たに創られた空間を見て、賑やかな歓声を上げた。
「うわあ、ホントに別世界ね」
「これはこれは、いらっしゃいませ。まだ準備が完了してませし人が集まっていないので、とりあえず座ってお待ちください」
 その女性――二階堂 美樹は、ホーディスが差し出した、一見するとビニールのようだが、シルクのようにさわり心地の良い敷布に、あら、どうも、と呟きながら腰を下ろした。
 周りは木々に覆われ、星明かりの下では足下がおぼつかない程の暗さだが、何故だか安心感を覚える暗さである。
 空を見上げれば、この近辺では、最近滅多に見ることが出来なくなってしまった星空が幾重にも、広がっている。それは眩しい程の、光。
「よろしければ、お使いくださいな」 
 ホーディスがそう呟きながら歩いてきて、カンテラのようなものを美樹の傍にちょこんと置いた。
 そうしている内に、再びこの神殿に来客が訪れたようで、ブーツの硬い足音が神殿内に響いている。
 がさがさと、上から垂れている枝を腕で払いのけるようにして現れたのは、シャノン・ヴォルムスだ。
 彼は些か外の暑さに辟易したように、顔の表情を歪めていた。
「こんにちは、ようこそお越しくださいました」
 ホーディスがにこにこと歩み寄って敷布を渡すのを黙って受け取り、シャノンは真顔でまじまじとホーディスの顔を眺めていた。何か自分の顔についているのかと首を傾げるホーディスに、シャノンはぼそりと呟く。
「門の前でリーシェに聞いてきたのだが……、ホーディスが金に絡んで無さそうな事を企画しているのが驚きだな、ある意味で」
「……確かにそういえば、今回はそちらの方面から企画したのでは無いので、忘れていましたね」
 ホーディスは思い出したように首を傾け、微笑んだ。
「まあ、楽しませて貰うとするか。……最近少し忙しかったからな。少し落ち着けるのはありがたい」
「ええ。是非ゆっくり涼んでいってください」
 ホーディスはそう言って微笑むと、また準備の為か、奥へと消えていった。それを見送ったシャノンは、美樹に軽く会釈しながら、丁度木の影となっていて、過ごしやすそうな場所を探して、そしてそこに腰を下ろした。
 再び神殿の入り口から、今度は華やかとも取れる雰囲気の歓声が聞こえた。がさり、と枝葉が音を立てる。
 トリシャ・ホイットニーが、彼女にしかない、独特ともいえる、幾つかの人格を混ぜ合わせた中で、一番彼女らしい、華美な雰囲気を纏わせて現れる。
「あらびっくり、本当に涼しいわね」
 美樹がくるりと振り返って彼女の姿を視界に認めると、にこやかに声を掛けた。
「あなたもお客さんね。こんにちは。やっぱりあの貼り紙を見てここに?」
「ええ。そんなところよ」
 トリシャは頷くと、そこにいる二人と同じように、辺りを見回してその場の雰囲気を確かめ、そして空を見上げた。そこにはやはり、幾重もの星が瞬いている。
「ふふ。素敵なところね。気に入ったわ」
 トリシャがそう呟くと同じくらいに、新たに二つの足音がその場に、今度は手に、ネットに入れられた大きなスイカを抱えた簪と、リーシェが現れる。
「思っていたよりも集まったな。……なかなか楽しい星涼みになりそうだ」
「ええ。楽しみですね」
 簪はにこやかに言い、せせらぎを見つけると、そこにそっとネットに入ったスイカを沈めていた。せせらぎのほとりに立つ木々に、スイカが流されないように紐で括りつける。
 幾分賑やかになった中、ホーディスが再びいくつかのグラスなどを手に戻ってくる。
「皆さん、ようこそおいでくださいました。……敷布で大丈夫ですか。もし椅子がよろしい方がいらっしゃるようでしたら、おっしゃってくださいね」
「……うーん、どうしようかしら」
 トリシャが首を傾けて悩む隣で、ホーディスは敷布を簪に手渡す。簪は笈を彼の隣に下ろして、そして自分も腰を下ろした。
「星涼みに参加されるのは、このくらいですかね?」
 簪の言葉に、ホーディスはうーん、と唸ると、入り口に目を向けた。
「……まだおひとり、いらっしゃるみたいですね」
 その言葉と同時に、がさり、と足音がまたひとつ響く。そこからひっそりと現れたのは、京秋だった。
 彼のモラクルの中の右目と、左目が細められる。独特の色彩の瞳が、楽しそうな光を帯びた。
「やれ――夜を創り出すとは、中々洒落ているね」
 ここの夏は暑くて堪らない、と不平零しながらホーディスに挨拶をしているが、彼の顔には一滴の汗も見当たらず、決して暑そうには見えないのだ。
「私もお邪魔しても良いかな?」
「ええ。是非とも」
 彼は微笑むと、皆の顔を見回し、では、と口にした。

「――そろそろ、星涼みを始めましょうか」


 * * *


 ホーディスがそう言うと共に、やや散らばって座っている彼等の中心部分に、木で出来た荒い仕上がりのテーブルが現れた。彼らが座っている態勢を考慮してか、普通のテーブルより低めである。
 その上に、色々とお酒の瓶や皿を手にしているリーシェが、それらを並べていった。テーブルの上に、様々な種類の瓶が並べられる。ワインやウイスキーの他、カクテルの瓶など、色とりどりの瓶が並べられ、きゅうりやトマトなどの野菜を簡単に切って盛り付けたサラダや、チーズなどが盛られた皿も置かれていく。
 美樹がグラスを手にとって、お酒の瓶を吟味しながらそういえば、と疑問を口にした。
「そういえば、門の前の貼り紙には『何かひとつ、物語をお聞かせ下さると幸いです』ってあったじゃない? あれってどういうことなのかしら?」
 ホーディスはグラスを全員に渡していきながら、その疑問に答えた。
「――そうですね、趣向を説明しようと思います。いや、趣向という程のものではないのですが。ここは自然以外の文明などの人の手はほとんど加えられていない場所です。この静かな場所で、皆様のお話をお聞き出来たら素敵だな、と思いまして」
「……ということは、話す内容は何でもいいのか?」
「そうですね。少し早い夜の中で、皆で涼みながら物語を語り合う……というのも、またオツなものじゃないですか」
 シャノンの問いに、ホーディスはにこりと笑んだ。
「……それもそうだな」
 シャノンはグラスを軽く振る仕草をして、肩を竦めた。
「確かに、面白いひとときになりそうだね」
 京秋もそう呟いて、口の端を上げる。グラスには、黄金色の液体が注がれていた。
「そういう事ですので。……よろしければ、お話をお聞かせ願えますか?」
 ホーディスはひとつ頷いて、両手を広げるような仕草を見せた。
 すると、今までグラスにお酒を注ぐ音や、周りの人々と話し合うさざめきが消え、その場にしばしの沈黙が訪れる。沈黙があっても、完全な静寂になる訳では無く、木々の葉がそよぐ音などが響き、心地よい沈黙の音でもあった。
 その沈黙をしばし味わった後、それを初めに破ったのはトリシャだった。簡素な木の椅子に座り、ロゼのワインが入ったグラスを揺らしながら、微笑む。
「そうね。この場に合うかどうか、は分からないけれど。……私が最初にお話しても良いのかしら?」
「ええ。是非ともお願いします」
 物語が始まるのを待っていたかのように、皆が座っている横にちょこんと置かれているカンテラに、橙の灯がぼっ、と小さな音を立てて点った。
 トリシャはそれを見届けると、ひとつ優雅に笑んだ。その笑みは、先程までの笑みとはどこか印象を違うものようだ。見る者をハッとさせる何かがあるように感じる。

 *

「これは、とある世界の起源のお話。――この世界が無かった頃――」
 トリシャの話にあわせてか、それとも彼等の気のせいなのか、ゆっくりと辺りの明るさが磨り減っていく。

「この世界がまだ無かった頃、天は二つの卵を産んだ。……ひとつはとても大きい卵だった。もうひとつはその大きな卵の中に入る、小さな卵だった」
 脳裏に浮かぶのは、この世のどの卵よりも巨大な卵と、そしてその中にひっそりとおさまって浮かんでいる、小さな卵の姿。
 大きな卵は、白いのか、灰色なのか分からない色合いをしていて、光によってその色合いをひっそりと変えている。――それくらいに、大きな卵なのだ。

「大きな卵は、羊水の海で揺られ、孵る時をゆっくりと待っていたの。小さな卵もまた同じように、大きな卵の海に抱かれ、孵る時を今か今かと待っていた」
 ぷかりぷかりと、青のようだけれども、それ以外の色にも見える不思議な海に揺られる大きな卵。そしてその中にたゆたう海が羊水の海の動きに合わせて揺れ、小さな卵もとぷんと揺れる。

「――それから何年も何年も経った。先に孵ったのは、大きい卵ではなく、小さな卵だったの」
 大きな卵の羊水に浮かぶ小さな卵に、ぴしぴしと音がして、幾つもの亀裂が入る。
「小さな卵の殻を打ち破ってそこから出てきたのは、――ドラゴンだった」
 小さな卵の殻の一部が吹き飛んで、そこから黒い頭を覗かせる。まだ乾ききっていない羽を伸ばし、元気良く鳴くその姿。

「孵ったドラゴンは、暫くは大きい卵が孵るのを待っていたのだけど、大きい卵は孵る気配を見せなかった。どんどん空腹になって、そして我慢が出来なくなって、大きい卵の中身を食べてしまったの」
 永遠に孵ることが無くなり輝きを失った大きな卵と、反対に栄養を得て、その体中に活力を漲らせるドラゴン。
「大きな卵の中身を食べたドラゴンは、今度は自由を求めて力強く羽ばたいた。けれども、大きな卵の殻はとても硬くて、彼には割ることが出来なかったの」
 外への自由を求めて飛び立つドラゴン。その羽を精一杯羽ばたかせて、大きな卵の殻へとぶつかるが、今の彼の力ではその殻を打ち破ることは出来ない。
「だから。やがてそのドラゴンも力尽きて、死んでしまう。その体がね、後のとある大陸のもととなるのよ」
 力尽きたドラゴンが、羊水の海へとまっさかさまに落ちて、激しい水しぶきを上げていく。やがてゆっくりと水面に浮かび上がる、死したドラゴンの姿。

「――と、まあこんなところかしら?」
 トリシャがまた先程の彼女とは違ったかのような、不思議な表情を浮かべてグラスを傾けると、一挙にその場に明るさが戻る。今までまるで全てのものがその吐息を潜めていたかのように、葉がざわめく音やせせらぎの音が響いて、彼らは皆その音に我に返った。
 誰からか、拍手の音が響いて、その小さな広場にそれぞれ手を叩く音が響く。
「……不思議なお話ですね」
 簪がにこやかに述べて、すいすいとお酒が入った器を口へと運んだ。先程からほぼ同じペースを保って呑み続けているのをさりげなく近くに座っていたシャノンは目に留めている。
「……ひとつ聞くが、その酒は、アルコールは入っているのか?」
「ええ。日本酒ですから、それなりに含まれているとは思いますよ、呑みます?」
 さらりと答えられたその言葉に、シャノンは口に運ぼうとしたグラスの手を止めた。
「……いや、まだあるから。それにしても、結構強いんだな」
 簪はその言葉に、ただにこやかに笑みを返すのみだ。
「素晴らしい、さすが女優さんだね。見せて貰った話術には感心させられるばかりだよ」
「ふふ。それほどでも」
 京秋の賛美の言葉に、にっこりとまた違う女性の印象を持たせる笑みで返すトリシャ。京秋は、持っていたグラスをテーブルの上にそっと置く。
「では、次は私が語らせて頂こうかね。この夜の空間は、私にはとても居心地がよくて、気分が良いからね」
 そう言って、京秋は微笑を浮かべた。


 * * *


 夜の風が、そよそよと森の木々の間を抜けて音を立てる。ざわり、ざわり。その中、京秋は静かに口を開いた。
「……ギリシア神話の一節なんだがね……。ギリシアのテッサリアという国の王に、コロニスという美しい娘がいたんだ」
 お城の庭で優雅に佇むひとりの女性。ふわりと風にたなびく髪も、影が落ちるほど長い睫も、どこをとっても美しい、娘。
 彼女の周りは、何もかもが明るく感じる事が出来るような気がしていた。

「その頃、世界の国々を旅している神がいたんだ。神の名は、――アポロン」
 光に満ちた、太陽神アポロン。彼は、その活力に溢れた肉体を存分に生かし、あちこちを歩いて回っていたのだ。
「アポロンが、その国を訪れた時、二人は恋に落ちたのだ」
 王城の庭に足を踏み入れるアポロン。庭では、コロニスがアポロンの到来に気がつく事無く、花と戯れている。その光景は一枚の絵のようで。
 思わずその光景に見惚れてしまったアポロンの足下で、じゃり、と砂が踏まれる音が響く。その音で、誰かが来訪していることに気がついたコロニスの瞳がこちらを向き。
 ――二人の視線は、そこで止まる。

「恋人となったコロニスに、アポロンは銀色の羽を持ち、人間の言葉も理解するという利口な鴉を使いとして与えたのだ。鴉は二つの世界を行き来しては、アポロンにコロニスの様子を伝えていた」
 鴉はコロニスとアポロン、人間界と天上界を光を煌いて羽ばたいていく。部屋でゆっくりと過ごすコロニスの下で羽をしばし休め、そして天上界へ帰り、アポロンに彼女の様子を伝える。
 鴉を通じて二人の愛は深まり、しばしゆっくりと時は流れていた。

「……だがある時、鴉がコロニスの下へやってくると、その時たまたまコロニスは、鴉の見知らぬ男と親しげに話していたのだ」
 いつものようにばさりと羽を広げ、コロニスの所へ飛んできた鴉。だが鴉は、普段見たことの無い男と親しげに何事かを会話していた。
 それを見た鴉は、余程動揺したに違いない。
「鴉は天上界に慌てて帰ると、アポロンにその事を告げたのだ。アポロンはその話を聞いて怒り狂い、弓を手にしたのだ。そして」
 京秋はそこまで告げると、瞼を少しの間、閉じた。
 アポロンは怒りに任せて矢をつがえ、弓を引き絞る。ぴん、と弦が動く音と同時に矢は飛び。人外の力で飛ばされた矢は空を切り裂き、そしてコロニスの目前へと迫っていく――。

「矢でその胸を射抜かれたコロニスは、天を仰いで、自分とアポロンの子供だけは助けてくれ、と哀願すると、そのまま息絶えたそうだ」
 ばたりと地に倒れ伏すコロニス。地面に染み込んでいくどす黒い血。死してもその美しさを失わなかったコロニスを見て、アポロンは自分の過ちに気がつく。弓を持つその手は、後悔に震えて――。
「アポロンは鴉があいまいな告げ口をした罰として、鴉の持つ人の言葉を取り上げられ、そして美しい銀色の羽を醜い黒へと変えてしまったそうだ」
 京秋はそれで鴉の話は終わりだ、と呟くと、テーブルの上のグラスを取り上げた。
 まるで森もその話を聞いているかのように、森の木々がざわめきを取り戻すのを聞きながら、彼はぼそりと呟く。
「私はこの話を読む度に、聞く度にいつも思うのだよ。……この鴉は何か罪を犯したのか、とね」
 そう呟きながら、彼のまるで闇のような、影のような雰囲気が一層濃くなっていくのを周りにいる者達は感じていた。
「この鴉は、主君のために、見たままを伝えただけなのではないのか。――それに対して、永劫償えぬ罰を与えるなど、酷ではないのだろうか――と、いつも思うのだよ」
 淡々と紡がれるその言葉。だが誰かからの答えを求めている訳ではないのか、彼の瞳は、誰をも映していないようだった。
 だからだろうか、その場は、ただ沈黙によって、支配されていた。京秋がグラスを傾ける僅かな音が響いている。

 皆がじっとその問いを反芻している中、突如どこからか人魂のような光がちらりと煌いて、そして消えていった。


 * * *


 その場は丁度、静寂に包まれた空間であったので、皆がその光に気がついた。
「――何かしら、あれ。気になるわね」
 美樹が一番に立ち上がり、躊躇い無くグラスをテーブルの上に置くと、今まで大人しく座っていた反動からか、元気にその光が発せられたと思しき場所に向かって歩き出した。
「おいおい……ひとりじゃ危ないぞ」
 シャノンが美樹の行動を危なく思い、グラスを置くと彼女の後を追う。今まで物語を語っていた京秋も、ひとつ呟きを残して、そっと二人の後を追っていた。
「――淑女になにかあったら大変だからね」
 あっという間に三人が森の木々へ紛れて姿が見えなくなる。それを呆気に取られて見送っていた簪は、そういえば、とホーディスに問いかけた。
「そういえば、この森はどこかの森なのですか? それとも貴方が作り出したのでしょうか?」
 ホーディスは自分でもここがどこなのか理解していなかったようで、そうでしたね、と辺りをきょろきょろと見回し、ここがどこなのかを把握しようとしているらしかった。
「――私自身でも、よく分かっていませんでしたが……この森は幼い頃に過ごした森に似たような気がします……」
「……そういえば、そんな感じだな」
 リーシェも、ホーディスの言葉に、ハッとしたようにせせらぎを見渡して、ひとつ頷いた。どうやら彼女も、ホーディスに言われるまでここがどこであるか、気に留めていなかったらしい。
 そして二人は同時に同じ事を考えていたらしく、お互いの顔を見合わせて呟いた。
「そういえば……昔、誰かに言われた事がありましたね……」
「そうだな」
「それは、なんて?」
 光が見えても、他の人達にお任せ状態で椅子に座ったままのトリシャが問う。
「確か……この森の奥深くに足を踏み入れてはいけない、とかそんな内容だったような気がします」
「……あのお三方は行ってしまわれましたが……大丈夫なのでしょうか?」
 簪の言葉に、その場は一瞬凍りついた。

 *

 会場が凍り付いている頃、森の幾分奥の方では、美樹を先頭にずんずんと進んでいた。すぐに何らかの尻尾が掴めると思っていた美樹だったが、どれだけ歩いても、今のところ何も出ないことに、顔の表情を曇らせている。
「それにしても……何も出ないわね。光があったのだから、もっと何かが見えるかと思ったのに」
「……」
 美樹のどこか不満そうな声音に、シャノンは無言で肩を竦めながらやや後方へ視線をやった。そこには、京秋が二人について、音も無く歩いてくる。
 シャノンは夜の世界に住むヴァンパイアだ。そこで起こっている事は、全て視界に捉える事が出来た。
 京秋の背中には、大きな漆黒の翼が広がっていた。だがそれは影にも似たものなので、この夜の空間の中では、恐らく美樹の目には捉える事は出来ないだろう。
 時々小さな気配と同時に、四方から動物に似た、だが明らかに漆黒の気配を纏わせた異形な魔物が現れているのだが、美樹は気がついていない。
 シャノンもその身体で敏感に感じ取り、銃のホルスターに手を掛けているが、実際にそれを抜いて銃弾を放ってはいなかった。
 後ろからついてくる京秋が、その影の翼で気配を感じさせずに、魔物を包み込むように翼で取り囲み、そしてぐしゃり、と小さな音を立ててそれらを潰していたからだ。
「……いいのか?」
 シャノンは京秋に静かに問うが、京秋は肯定の意味を示してか、ただ笑っただけだった。だから美樹が少し勘違いをしたようで、拳を振り上げながら叫ぶ。
「ぜんっぜん良くないわよ! さっきの光は何だったか突き詰めなきゃ、落ち着いてお酒なんて飲めやしないじゃない……って、何かしら、あれ?」
 叫びながらもがさがさと枝を掻き分けて前に進んでいた美樹は、目の前に出現したものに目を奪われていた。

 そこは彼らが初めにいた空間と似た、少しだけ開けた広場のような場所で、その中央に泉のようなものがあった。そんなに大きなものでは無い。
 自然に湧き出たものかと思って見てみると、隣に石造りの不思議な仕掛けがあって、ちょろちょろと水が流れ出している。どうやら少し離れた所を流れているせせらぎから水を引いて作られているようだ。
「……何だこれは、泉か?」
 美樹に追いついたシャノンが、肩の辺りを手で払ってくっついてきた葉を落としながら呟いた。
「そうみたい。だけどこの辺り、別にどこも光ってないわ。さっきまでの光はどうなったのかしら」
 美樹が腰に手をあててぼやくと同時に、翼を背中に仕舞いこんだ京秋が二人に追いつく。
「ほう……これはまた不思議な泉だね」
 京秋がふむ、と顔に手をやりながら泉を覗き込むと、不意に泉の一部が光を帯びた。
「……?」
 シャノンが再びホルスターに手をかけ、美樹が身構える。京秋が少し身を引いて泉を見つめる中、泉の一部は、サッカーボールくらいの大きさの光の珠は、水面から浮かび上がった。
 それを眺めている三人の脳裏に、不思議な光景が浮かび上がる。

 脳裏には、小さな子供が二人と、子供の母だろうか、女性が子供の手を引いて泉へ向かっている所だった。母親が子供に、今日は特別よ、と笑いかけながら泉のほとりに腰を下ろす。ひとりの子供――二人とも髪が長いので、男女の区別がつきにくい――は母親と一緒に腰を下ろして、母親が開く本を覗き込み、もうひとりの子供が彼等の周りを踊るようにくるくると飛んで遊んでいた。
 恐らくどこの家庭にでもある、平凡な、だが幸福な日常のカケラ。だが三人の脳裏には、それが幸福そうには感じられなかった。何故か。

 その光景は、そこで脳裏からぷつんと途切れた。彼らの前に浮かんでいた光の珠も、同時に消える。
「……今のは何だったのかしら……」
 美樹は今までの不思議な出来事に、首を傾げた周りの二人を見回した。京秋も、シャノンも、考え込むような表情を浮かべているようであった。
「……まあ、この場所から推測すると、恐らくあの二人の小さい頃の出来事なんだろうな」
 あの子供達は、銀髪に紫色の目をしていたからな。そう呟いたシャノンの同調するかのように、京秋も頷いた。
「もしかしたら、――この泉は何らかの能力で、泉の記憶を蓄える事が出来るのかもしれないな」
 この世にある全てのものに歴史があるように。この泉にも何かを記憶する力があって、それの一部分が光となって浮かび上がってくるのかもしれない。
 京秋がそう考察したのを知ってか知らずか、再び泉から、光の珠がぽおんと昇って、そして水面に浮かんだ。
 彼等の脳裏に、再び不思議な情景が浮かび上がる。
 
 幾分成長した子供が二人だけで、泉の傍に佇んでいた。成長したお陰か、今度は男女の区別がはっきりとついている。
 女の子が、私は頭が良くないから、代わりに強くなる。強くなって、王国の兵士達を纏め上げる役になるんだ、と呟いた。男の子はその言葉に驚きの表情を浮かべて、どうして、ど小さく問うていた。
 女の子は、しばらく口ごもって、小さく呟いた。だって私は女だから。いつかどこかの国の嫁へと嫁がされるだろう。それに……。そこまで言って、再び口ごもる。男の子がどうして、ど尋ねるのにも答えず、ぷいと顔を背けて、泉に手を浸していた。

 情景は、また唐突にそこで途切れた。再び光の珠は消える。
「……また、さっきと同じ事が起こったわね」
「ああ。――ひとまず、光は何か害を成すものではないようだと分かった事だし、何をするまでもないだろう」
「そうだね。戻ろうか」
 ひとまず戻ることにした三人は、元来た道をとぼとぼと歩き出した。二人は夜目が利くので道が分からなくなる、という事はなかったし、遠くの方で、カンテラの灯りがほんの僅かだが漏れてくるのが、美樹にも見えた。
「――少しだけ、彼等の記憶を覗き見してしまって悪い気がするな」
 京秋が、まったく悪いとは思っていない調子で、いたずらっぽく呟いていた。美樹は、そうね、と呟くと、少しだけ歩みを止めて、空を見上げた。
 森の木々の隙間から、零れるように星の光が見える。
「――どうした?」
「うん? いや、小さい頃の記憶かあ、って思ってね」
 ふと、星空を見て、これが流星群だったら良いのにな、という考えが込み上げてきた。
 天体望遠鏡から、幾つも星を眺めた、少女時代。
 ――そういえば、あの時の夢は、宇宙飛行士だった。
「三人とも! 大丈夫か?」
 美樹の耳に、がさがさと枝を掻き分ける音とが届いて、視線を戻すと、そこには三人の安否を心配して追いかけてきたらしいリーシェの姿が現れた。


 * * *


 三人と迎えにいったひとりが無事に帰ってくると、ひっそりとした雰囲気になっていたその空間は、たちまち賑やかになった。
 ――美樹がホーディスに詰め寄ったからである。
「ねえ、さっきあの光を追いかけていったら不思議な泉に辿り着いたんだけど、あれって何なの?」
「――はい? 泉ですか?」
 ホーディスは美樹の勢いにやや押されそうになりながら、首を傾げる。美樹はそうよ、泉よ、と食って掛かった。
「石造りの仕掛けで人工的に作られたみたいな泉があったのよ。あれって何か……知らない?」
 美樹は知らない、の部分を覚えてない? と言おうとしたのだが、すんでの所で思い留まって言い直した。
 何故だか、あまりあの記憶の事は口にしない方が良いと感じたからだ。
「ああ……まあ、この森は、実体化する前は、この神殿の周りを取り囲んでおりましてね。だからそう言ったものも作られていたんですよ、確か」
 ははは、と仮名を発音するようにホーディスは笑うと、何か飲みますか、はぐらかすように首を傾けた。
「……何かカクテルでないかしら」
 美樹はまだどこか納得いかないような表情だったが、ぼそりと呟いてグラスを差し出す。
 ええ、ありますよ、とグラスを受け取ったホーディスがテーブルの上に瓶を並べていく。

 穏やかな時が過ぎていく中、唐突に簪が声を上げた。
「そうでした、そうでした。――すっかり忘れてましたが、笈の中に浴衣があるんですよ。お姉さん方、どうです? ひとつ浴衣でも着てみませんかね?」
 簪はそう言いながら、隣に置いていた笈のふたを開くと、中から浴衣を取り出す。
 トリシャがその浴衣に魅かれた様子で、椅子から立ち上がって簪の近くへと寄ってきた。
「あら、面白そうね」
「……あら、ほんとね。折角だからちょっと着てみたいわね」
 美樹も寄ってきて、簪が広げて見せた浴衣を眺めている。
「髪の長いお嬢さん方は、折角ですから髪も結ってみませんか?」
 簪はさらにひょいひょいと笈の中から、幾つ物装飾品を取り出した。どれも彼が扱っているとあって、清楚で控えめながらも、美しく仕上がったものばかりだ。
「何でも揃ってるのね。……私くらいの髪の長さでも、お団子ぐらいなら出来るかしら」
「ふふ。きっと大丈夫かと思いますよ。ささ、お二方ならきっとこれと、……これや、これがお似合いになるのではないかと」
 簪はにこにこと笑むと、二人に浴衣を渡した。トリシャはそれを受け取りながら、少々困ったかのような表情を見せる。
「私、あんまり浴衣って着たことないから、上手く着れるかしら……」
「大丈夫よ。私も手伝うわ。よければ一緒に着ましょ?」
 美樹はそう言って笑うと、ずらりと並んだ装飾品を眺めながら、どれにしようか思案しているようだった。
「それじゃあ、どこか空いてる部屋に案内しよう」
 自分のグラスをテーブルの上に置いたリーシェに、簪がにこにこと浴衣を差し出した。
「え……」
「折角ですから、リーシェさんも着てみませんか?」
 戸惑うリーシェを後押しするかのように、ぽん、と美樹が彼女の肩を叩いた。
「そうよ。折角なんだから、皆で着飾った方が良いって」
「はあ……それなら……」
 リーシェはどこか釈然としない表情のまま浴衣を受け取ると、二人を案内しながら森の外へと姿を消していった。リーシェに続いて、二人も森の外へと姿を消す。
 それを見送りながら、簪はふと思いついたかのようにごそごそと笈の中を探っていた。
「そうでした、男物の浴衣もあるんですよ。旦那さん、お兄さん方も宜しければどうですか? 皆さん浴衣で星涼みも中々素敵なもんだと思いますよ」
 そう言いながら、笈の中から幾つかの浴衣を取り出してみせた。
「おやおや、なかなか面白い展開になってきたようだね」
 京秋がくすりと笑いながら、並べられた浴衣を覗き込んだ。シャノンも隣に来て、それを覗き込む。
「浴衣で星涼みか……。銀幕市らしくて、なかなか面白くなりそうだな」
「この機会に女性陣に合わせて私達が浴衣を着るのも良いですね」
 そんなこんなで、その場に残っていた三人もそれぞれ、浴衣に手を伸ばすのだった。

 *

 しばらくの後、先に着替え終わった男性陣が女性陣が着替え終わるのを待っていると、からん、からんと下駄の音が森の中に響いて、ひょっこりと彼女達が姿を現した。
「着替え終わったわよ……って、あなた達もいつの間にか着替えてたのね」
 美樹がどこからか手にした団扇をぱたぱたと仰ぎながら、下駄の音を響かせて歩いてきた。
 彼女は茄子紫の地に、石楠花が散りばめられているものだ。髪は結われ、小さなお団子に、ちょこんと青色の花の簪で飾られていた。
「やっぱり浴衣は日本人が着ると一番映えるわよね。私が着こなすのは難しいわ」
 美樹の後ろから、浴衣を着付けたトリシャが現れる。そんな彼女の浴衣は、髪の毛に合わせたのか、アイボリーの地に、万寿菊の花があしらわれている。髪は無造作に上げられていて、止められているが、無造作な故に残されている後れ毛が、何とも艶かしさを醸し出している。
「そんな事はありませんよ。流石女優さんですね。良くお似合いです」
 簪が、彼女らを眺めながらにこにこと微笑んでいる。
 彼女達の後ろからこそっと入ってきたリーシェは、淡いグレーの地に、ベリー系の大柄撫子があしらわれた浴衣を着ていた。慣れない下駄のせいか、木の根につまづいて転びそうになる。
「う、わっ」
「おっと。大丈夫かな」
 転びそうになった彼女に、京秋がすかさず手を伸ばして助けた。
「た、助かった……」
 リーシェがお礼を述べつつ、京秋に視線を移す。彼も一分の隙もなく浴衣を着こなしていた。濃紺の地に、図案化された白いトンボが描かれているものだ。
「皆が浴衣を着たからか、何だかぐっと星涼みらしい雰囲気になったな」
 シャノンも誰からか渡された団扇をぱたぱたと揺らしていた。ちなみに彼も、濃い青の地に縦に風を表す白い線が幾つもあしらわれ、そして所々に小さく図案化された燕が待っている浴衣を纏っていた。
 薄い茶の地に鯉があしらわれた浴衣を着ているホーディスが、ふふ、と笑む。
「ますます素敵なひとときになりそうですね」
 ホーディスは皆に新しいグラスや器を渡して回っていた。各々が、もとの位置に戻ったり、新たな場所を見つけてそこに腰を下ろしたりしていた。
 せせらぎの近くでは、美樹が手ごろな岩に腰を下ろし、浴衣が濡れないように気をつけながら素足をせせらぎの流れに浸していた。
「さて、素敵な浴衣を提供した簪は、一体どのような物語を披露してくれるのかしら?」
 再び椅子に腰を下ろしたトリシャは、グラスを手に優雅に笑んだ。彼女の言葉に、簪はふふ、と短く笑う。
「あちきのは短いお話ですがね……」
 彼はそう前置きすると、口を開いた。夜空に、彼の声音が溶け込む。

 *

「……小さな小さな坊ちゃんがおりました。それはとても小さなぼっちゃんで、小さなお屋敷のお嬢さんに、米粒のような椅子の上、大きくなる日を今か今かと待ち望んでいらしゃいました」
 簪は一旦そこで言葉を切った。静寂に満たされたその場に、せせらぎの音が大きく響く。一呼吸おいて、彼は静かにその物語をしめくくった。

「――ですが、その米粒のような椅子が頑丈であったなら、もっとこのお話も続いたでしょうね」

 これでおしまいですね、と呟いて物語をしめくくる。その短いお話に、京秋が面白そうな表情を見せた。
「本当に短いお話だね。これは一体どんな時に使われたのかな」
「……話をせがむ子供をはぐらかす為のお話ですからね」
「なるほど……だから短いのだね」
 ふむ、と頷いてグラスを傾ける京秋。せせらぎに足を浸していた美樹が、簪の方へと振り向いて問いかけた。
「ねえねえ、最後の言葉は一体どんな意味を持ってるの?」
 美樹の問いに、簪は小さく微笑する。
「どうぞ、ご自由に想像してみてくださいな。……そういえば、美樹さんのお話もまだでしたね。よろしければ、お聞かせ下さいな」
「そうねえ……」
 美樹はぽつりと呟くと、せせらぎの隙間から広がっている星空を見上げて、しばし思案しているようであった。
 そしてせせらぎに目を戻すと、そこの光景に目を細めて、小さく笑った。
「このせせらぎって……こうして見てると、まるで天の川みたいよね」
 確かにせせらぎには、まるで鏡のように空の光が映りこみ、眺める角度によっては空にある川のようにも見える。
「よし、決めたわ」
 美樹は心を決めたかのようにひとつ頷くと、素足を引き上げて、くるりと皆の方を振り向いた。


 * * *


 美樹はすう、と息をひとつ吸い込むと、心持ち空を見上げるようにしながら、物語を語り始めた。

「――むかし、瓊という土地にね、月を愛でた仲の良い老夫婦がいたの」
 夜、家の近くで、澄み切った空気の中、空にぽかりと浮かぶ、一組の夫婦。とても仲睦まじい様子で、そっと寄り添っている。
「だけどね、妻の伯陽は、夫の遊子よりも先に、九十九歳で死んでしまうの」
 いなくなった妻を嘆く遊子。毎晩、屋敷の窓から見える月を見ては、妻のことを、妻と過ごした日々のことを思い出して悲嘆にくれていた。

「ある夜ね、ひとつの星が彼の前を横切って、それに妻が乗っているのを遊子は見たのよ。まあ、有り体に言えば、妻は星になったのね」
 星になった妻の姿を見た遊子は、それから自分も早く天に召されたいと願い、とうとう百三歳で天に召されたのだ。

「遊子は念願叶って、天に昇って星になることが出来たんだけど、そこで悲劇が起きたの。あろうことか、伯陽とは天の川を隔てて対岸に来てしまったの。その川では、帝釈天という偉い人が水浴びをする場所だから、二人が逢おうと思っても、渡る事は許されない」
 流れる川を渡りさえすれば、やっとのことで逢うことが出来るのに、天の川に隔てられて逢う事が出来ない。川岸で、途方にくれる二人。
「ただ、年に一度、七月七日だけは、帝釈天が水浴びをしないから、渡ることが出来たの。こうして二人は、七月七日にだけ逢うようになったんだけど……」

 美樹はそこまで語ると、唐突に口を閉ざした。
「……?」
 周りの皆は、唐突に何事かを考え込んでいるらしい美樹の様子を訝しげに伺う中、美樹の脳内では、唐突に沸き起こった考えで一杯だった。

 ――どうして、どうして。

「どうして、帝釈天のオヤジは水浴びごときで、その川を渡ることを禁止したのかしら……」
「……は?」
 トリシャが美樹の言葉にぽかりと口を開く。
「そうよ、あのオヤジは、どうして水浴び如きでこれほどまでに深い愛の邪魔をしてるのかしら……! 水浴び如きで愛の邪魔なんかするんじゃないわよ!」
 美樹は、そうよ、それにと呟くと、急に立ち上がり、隣に居た簪に詰め寄った。
「それに、共に星になるほど互いを愛していたのに、どうして水浴びオヤジ如きを蹴散らせなかったのかしら! それほど愛しているのなら、ここは水浴びオヤジを突破しなくちゃ駄目じゃない!」
「……え、はあ、その……」
 簪がどう答えるか悩んでいる間にも、美樹の憤りは高まっていた。
 彼女の脳内では、いつの間にか、老人だった夫婦が、若いカップルの、ドラマチックな恋の話へと美化されていく。いや、老人の話もドラマチック――いや、ロマンチックであることには間違いないのだが。
「ねえ!」
「はい!」
 美樹はがしりと簪の襟を掴んだ。簪は襟をつかまれ、どうしていいか分からずに困ったような表情を浮かべている。
「やっぱり、相手が例えば――、そうね神様で、絶対的なもので、そういう状況になったら、やっぱり後先考えずに、なんていうのはドラマチック過ぎるのかしら。どう思う?」
「うーん……どうなんでしょうねえ」
 熱く語られ、曖昧に返す簪。美樹の語りの熱は冷める事無く、しばらく熱く続いていた。
 そんな中、ひと際、天に散らばる星は明るく輝いている。


 * * *


「……最後は、俺か」
 しばらくして、美樹のヒートアップしていた語りが一段落すると、のんびりとグラスを傾けていたシャノンは、物語を語る順番が自分に巡ってきた事に気がついた。
「そうなるな。是非ともお聞かせ願いたいところだ」
 斜向かいからの京秋の言葉に僅かに口の端を上げると、彼は静かに語り始めた。

「……とある世界で、幸福という星を掴み取ろうとした男がいた。男は確かに一度は、掴み取った筈のそれを悪意あるものによって 失った」
 それは、正に白い光から、暗黒の闇への転落。たった一瞬で、彼は闇へと戻ってしまう。
 闇の中に佇むその姿は、どことなく頼りなげで、そして永久に――孤独を感じさせるようなものだった。
「男は、悲嘆に暮れながらも――星が男に言った言葉を守るために、暗闇にも似た世界で生き続けた。男は、自分は決して星を掴むことは出来ないのだろう、とその世界で生きながら諦観の念を抱いていた……」
 黒の世界の中で、ぬるりと血に塗れた両手。どこか悲観を感じさせるその表情は消える事無く、常に浮かんでいた。

「そんな中、……ある日男は不思議な魔法によって、別の世界へと導かれた。そこは、自分が永遠に生きていかねばならないと諦めを持って生きていた、暗黒の世界よりも温かい、優しい世界だった。男はその優しい世界に触れて、もう一度星を掴み取ろうと決意した」
 淡々と紡がれる物語。男は、不思議な、様々な色に彩られた世界に降り立って、何も分からず辺りを見回している。そこに差し伸べられる、幾つもの手。そこに悪意は無く、ただ、ただ優しいだけの手。彼はそれを取り、少しずつ癒されていく。
「男は星を掴み取ろうとしたが、また失ってしまうのでは……という恐怖に押し潰されそうにもなっていた。それでも男は、星を掴み取ろうと、揺ぎ無い信念を持って……男には似つかわしくない程の大きさで、そして強く輝く星を掴み取った」
 それは、闇に生きる彼の立ち姿さえ、明るい光の世界へと引き摺りだしてしまうような、そんな強さの光。どこまでも暖かく、強く、優しい光。

「男はそして誓う。――いつか、魔法が解けてしまうその瞬間までは、この星を手放さないように守り抜きたい、そして精一杯愛したいと」

 シャノンはそこまで語ると、ひとつ息を吐いた。手持ち無沙汰に持っていたグラスの中身を口に運ぶ。
「……お話と言うには、少々退屈なものだろうが、ひとまずこんなところだ」
「そんな事はありませんよ。今日聞かせて頂いたどのお話も、とても楽しく聞かせて頂きましたから」
 ホーディスはそう言って、静かにグラスを傾けた。シャノンは僅かに口の端を上げる。
「……まあ、ともかく銀幕市での出会いにも感謝しているし、破壊魔なリーシェや、守銭奴なホーディスに出会えた事を個人的に嬉しく思う」
「……それはありがたいな。私もだ」
 新たに小料理が乗った皿を運んできたリーシェが、口の端を上げて呟き、ホーディスはふふ、と微笑んでいた。
「――ええ。私も、皆様ともこうしてお会いできているこの奇跡が、とても嬉しいです。こんなに陽の当たる生活が出来るとは、思っていませんでしたからね」
 そより、と葉が月光に照らされて、彼等の間を飛んでいく。
 ――その場にいる誰もが、微笑みを浮かべていた。


 * * *


「そういえば……。今は蛍の季節でしたか?」
 簪がぽつりと呟いた時、せせらぎのほとりには、星明かりではない、不思議な光がそよそよと舞っていた。
「あら、ほんとね。蛍はこういった綺麗な流れの所でしか見られないのよね」
 美樹がふわふわと舞い始めた蛍の光に歓声を上げながら、せせらぎまで歩いていった。
「浴衣で蛍を眺めることが出来るなんて……なかなか風流なものじゃないか」
 京秋が、右目のモラクルを上げながら、笑みを浮かべる。
「ほんとね」
「……蛍、か」
 シャノンがぽつりと呟いて、団扇でぱたりと蛍へ向けて仰いでみている隣で、トリシャが楽しそうに笑みを浮かべながら、空へと舞い上がる蛍を眺めていた。
 美樹は、せせらぎのほとりにある石に腰掛けて、蛍を手の上に乗せようと苦心していた。
「うーん、なかなか難しいなあ……」
 捕まえようとしても、蛍はふわりふわりと空へ昇ってしまう。それを追いかけて空を見たとき、不意に夜空の星がひとつ、煌いていた。
 それは瞬間に輝いて、そして尾を引いて消え去ってしまう。それでも、美樹の心には印象深く残っていた。
「あ、流れ星だ! また流れないかしら」
「どうでしょうねえ」
 ふふ、と笑いながら、簪はせせらぎに浸して冷やしておいたスイカを取り出した。
「ささ、そろそろスイカでも食べませんか?」
「ふふ、甘くて美味しいと良いんだけど」
 簪がテーブルにスイカを運び、トリシャが興味深そうにそれを追う。
 その光景を振り返って見ようとした、京秋の視界の端に、森の向こう側が、赤く染まっているのが映りこんだ。
「これはこれは。どうやらあちらの世界でも、もうすぐ夜の帳が降りるようですね」
「そうですね……今度は外に出て、星涼みの続きでもしましょうか」

 ――蛍が森の中を優雅に舞う中、ゆっくりと銀幕市では陽が沈み、本当の夜が訪れようとしていた。

クリエイターコメント 大変お待たせ致しました。ノベルをお届けさせて頂きます。

 皆様から素敵な物語を頂き、とても楽しく描かせて頂きました。これから外で星涼みの続きをするのかどうか――それは皆様のご想像にお任せさせて頂きます。
 皆様のプレイングにより、途中から浴衣を着ることになったり、光のもとへずんずん探索して頂いたりする事となりました。戦闘を入れるかどうか、悩んだのですが、落ち着いたトーンに仕上げたい、という想いもありまして、こそっと闘って頂いております。お疲れ様でした。

 それではご参加、誠にありがとうございました! またいつか、銀幕市のどこかで、お会い出来ますことを願って。
公開日時2008-09-07(日) 20:20
感想メールはこちらから