★ 【魔滅の絵画】アジュール・タトゥ・ラプソディ ★
<オープニング>

 私は一匹の蝶でした。
 柔らかな木漏れ日の僅かに降り注ぐ、苔生した大樹の森に私は住んでいました。
 朝日の昇る頃、ゆっくりと羽を広げて森の中へと飛び立ち、湿った枯木の窪みに溜まった朝露を飲みました。細長い日の光が森の入口に差し始める頃、私は鳥や花の姿をしたカマキリに見つからないよう気を付けながら、森の奥深くへと羽ばたきました。
 いつから其処へ通うようになったのか、よく覚えていません。
 森の奥深くには、青々しい草木に囲まれた小さな泉が在りました。泉には一人の美しい少女が住んでいました。
 兎や鹿や蜻蛉や甲虫、あらゆる生き物達が泉の水を飲みに訪れていました。生き物の囀りに少女は目を覚まし、優しい笑みを浮かべて、その白くて細い手を差し延べました。
 彼女の笑顔を目にする度、私は何故か胸が苦しくなりました。
 泉に住む少女は、この地に生きる命を育む存在でした。生き物は皆、彼女の水を求めて泉へやってきました。
 どうして毎日のように私は此処へ通い続けるのか、自分でも分かりません。命の力が欲しいと思った事は有りませんでしたが、私の体はその力を求めていたのでしょうか。
 私が生み落とされた時に受け継いだ記憶なのか、それとも私の命が蝶に変わるずっとずっと前から……いや、私の命が蝶以外の何かであった事が在ったのか、それすら分かりません。
 ただ、彼女に会いたいと。ずっと彼女の傍に居たいと、そう思うのです。
 空腹を満たすのとも、沈み逝く夕焼けを見つめるのとも違うこの感情を、人間の言葉で何と呼べば良いのでしょうか。


 深い深い森の奥、大樹の根本の小さな泉に、一人の少女が住んでいた。少女は母から人間の姿を受け継ぎ、父からは精霊の血を受け継いだ。流れる水は命の源。水が永遠の輪廻を繰り返す以上、少女の命も永遠の運命(さだめ)を生き続ける。神聖な森に住まう全ての命を分け隔てなく育みながら。
 穢れを知らない、清浄な水がある限り。
 ある日、森の奥に迷い込んでしまったのか、羽化したばかりの一匹の青い蝶が少女の元へ訪れる。
 少女の儚げな美しさに、蝶は一目で恋をした。それからというもの、蝶は毎日のように泉へ通うようになる。
 しかし二人の生きる時間はあまりに違いすぎた。小さな昆虫でしかない彼の寿命は、刹那の如く過ぎ去っていく。蝶は思った。永遠を共に出来ずとも、せめてこの小さな身体が、彼女を護れるものであれば良かったのに、と。
 青い蝶はやがて天に召される。転生の門へ辿りついた時、蝶は門番に一つの願いを唱えた。
「私を人間にして下さい。大きな身体も、腕も、声もある、人間に」
 彼の残りの魂の数と引き換えに、門番は蝶の願いを叶えた。人間の姿に生まれ変わった蝶は、喜びを胸にあの森へと帰る。
 そして少女と蝶は、再び出会った。
 しかし、人間になった彼が誰なのか分からず、少女は驚いて泉を逃げ出してしまう。
 精霊の力を失った森は、やがて静かに枯れ果てた。
                         <鱧田のメモ帳 ムービー原作より>



 *貴方はこの世界を彩る青になりなさい。姫を救い出す、清浄な青色に*


 薄青い空が広がっていた。なんて落ち着く色だろう。
 もしかしたら自分は、本当は空から生まれた生き物なのではないか、と奇妙な空想が脳裏を過ぎってから、男はふと我に返った。

 ――此処は。

 ぎこちなく首を傾けて周囲を見回し、男は目を丸くする。
 薄青い優しげな空の下に、不気味に並ぶ威圧的な四角い箱。地上に幾つも生えている石の棒の天辺から、黒い糸が上空に張り巡らされている。まるで蜘蛛の巣みたいで、何処にも逃げられぬよう囲われているように思えた。

 ――此処は、何処なんだ。

 雨上がりの黒いアスファルトの上に、一人の若い男が立ち竦んでいた。物珍しそうに……いや、おっかなびっくりと言った感じで、銀幕市の現代的な町並みを凝視していた。彼に気付いた人間が居たら、「新しくやってきたムービースターか」と思っただろう。

 ――僕は何故、こんな所に居るのだろうか。

 通り過ぎていくダンプカーの臭いに顔を顰め、男は俯いた。と、近くの水溜まりが目に入り、途端に何かを思い出したような表情を作る。そこに映っていたのは、若い人間の男の顔。

 ――僕は……そうだ。僕は人間になれたんだ。
 ……森は。森は何処だ。

「かえらないと」
 男はぼそりと呟いた。

 ――彼女に会いに。早く森へ。
 ――ああ……あそこか。

 視界の端に杵間山の山並みを見つけ、ふらふらと歩き出そうとしたその背中に……静かに声が投げ掛けられた。
「――幼虫は、やがて羽化し、鮮烈なる青を刻み付ける為に飛び立つのか――」
 背後に人の影が射した。男はぼんやりとした表情で振り返る。
「……愛しい姫君の元へ。果たされずとも、何度も、何度も。来世に換わろうとも」
「………?」
 不可解な、意味のよく分からない言葉を呟き、男の背後にその人物は佇んでいた。
「白い世界でしょう? そして、酷く汚れた世界だ。此処に堕とされた貴方の愛しい姫君は、何とも可哀相に」
「……彼女を、知っているのか」
 男の問い掛けにそっと薄い笑みを浮かべて見せるだけ。反応を肯定と取ったのか、男は縋るような眼差しで彼を見つめる。
「彼女は貴方を待っているでしょう……ですが、貴方がどなたか分からないかもしれませんね。その姿では……」
 彼の言葉に男は俯いた。
「では、貴方がどなたか一目で解るよう、『おまじない』を描いてあげましょう――とっておきのアートをね」
「……おまじない?」
 ええ、と優しげに頷き、首を傾げる彼に……煤の匂いのする男は、そっと何事かを耳打ちした。

 *

 辺り一帯は濃密な霧の中に。揺らめく純白の闇の中、一人の少女が立ち竦んでいる。
 豊かで艶やかな髪はびっしょりと水を含み、蛾や羽蟻、甲虫や蜘蛛、ありとあらゆる虫達が、まるで樹液を吸うように少女の髪に集まっていた。しかし少しずつ、少女の髪から虫達が剥がれ落ち、はらはらと天空へと舞い上がっていく。
 ひらひら。ふわふわ、と。
 時折きらりと光を反射して、透き通った昆虫の翅が、千切れた脚が、沢山の死骸となった虫達が雪の結晶や花吹雪のように――残酷にも幻想的に、天に召されていった。
「やめて……」
 か細い少女の声が、散り散りになって消えていく虫達を悲しんでいる。少女は酷く怯えた様子で、霧の向こうに居る何者かを見つめた。
「会いたかったさ。とても会いたかった」
「あ、あなたは……?」
 霧の奥から現れたのは、頬に大きな青い蝶の絵が施された、見知らぬ若い男の姿。
 男が片手を振るい上げると、視界を覆う霧が大きく波打ち、少女の周りに集った虫達が更に塵と化していく。
「お願い、殺さないで……」
「図々しくも貴女の水を飲みに来た虫共だ。みんな死んでしまえばいい」
 蝶の男は口角を上げて口元を笑みの形に歪める。
「この世界はあまりにも汚れている……空気は侵され、水は淀み、腐臭で満ちている。この世界は貴女を生かしてはくれない…」
「わ、わたしは……」
「だから、僕が貴女の居場所を作ろう。もう僕は非力じゃない。僕のこの手で――虫だけじゃない、全てをだ。貴女を穢す毒の全てを、何もかも消し去ろう」
「やめて!」
 悲痛な面持ちで、少女は何度も首を横に振った。
「わたし、そんな事して欲しくない……!」
 しかし、無情にも男は片手を翳し――命を吸い取る死の霧を操り、再び小さな虫達の命を奪い始めた。
「いや、いやぁ………!」
 砂をにじるような微かな断末魔が少女の心を締め付ける。耐え兼ねた少女は、ついにその場から逃げ出した。

「貴女の為だなんて言わない。これは僕のエゴだ。貴女に生きてほしい、僕の為の――」
 通り過ぎていく一匹の蛾を見つけ、手を伸ばしてざりりと握り潰した。
「……汚れた生き物共め。皆纏めて殺してやる。殺してやる……」
 膨れつつある殺意の衝動に胸を押さえながら、彼はゆっくりと歩き出した。
 やがてその感情に自らの全てを焼かれる事になろうなどと、彼が知る由も無いだろう。
「殺してやる……」
 何の為に命を奪うのか――その信念さえも、『呪いの絵画』に無惨に食い殺されていく事に。
 きっと彼にはもう、誰の言葉も届かない。

 ――私は、ただ、彼女に、生きて、ほし……かった。

 *

「ねぇ、アリア」
 肌寒い昼間の公園をのんびりと歩き、その怪物は『独り言』を呟き始めた。
「アリア。生きるとは、何だろう?」
 金とも紫ともつかぬ不思議な色の髪が風に靡く。迷宮の主アリアは、おもむろに公園樹の葉を千切って遊びながら銀幕市の風景を眺めた。神話に登場する女神や妖精を彷彿とさせる容姿で、幼い顔立ちに似つかわしくないしなやかな女性の体型が、一層異質な美しさを際立たせていたが――彼女の腰から下の半身は、なんと巨大な蜘蛛の姿をしていた。
 公園に遊びに来ていた子供達は、始めは泣き喚いたり腰を抜かしたり銘々に驚きを全身で表現していたものの、アリアが危害を加えない怪物だと分かると、興味津々近付いたり話し掛けてくるようになった。
 実の所アリアは『肉食』なので、100%危害を加えないかと言うと保障は出来ないのだが(下半身の蜘蛛は子供達を見る度に水晶のような涎を垂らしている)、それは誰にも内緒である。ちなみに人間社会で生きると決めた現在は、スーパーで安売りされた牛肉や豚肉を主食としている。
「生きるとは何だと思う?」
 ねえアリア、とアリアは自らの半身に問い掛けた。蜘蛛のアリアは口元をわしゃわしゃと動かし、ウゴゥゥゥと不気味な咆哮を上げた。

 いきるとは したいことをすること

「したい事……」
 公園樹の葉を引っ張り、アリアは首を傾げる。
「ご飯を食べる事、寝る事、これは生きる事?」

 それも いきること
 でも

「……でも?」
 前脚を忙しなく動かし、蜘蛛のアリアは喉をごくんと鳴らして諭すように呟く。

 もっと ちがう
 したいから すること
 わたしは ありあのためにいきている

「……そう。アリアは賢くて優しいんだね…」
 アリアが笑みを浮かべて頭を撫でると、彼女はもぐもぐと咀嚼しながら嬉しそうにグゥゥウ、と唸った。
「……と言うか、さっきから何を食べてるの?」
 口元を動かしている彼女に気付いて覗き込むと、蜘蛛のアリアは地面を歩いている何かを前脚で捕え、おやつ、と呟いてその口へと運んだ。
「おやつって……」
 カサカサ、カサ。
 はっとしてアリアは周囲を見渡した。

 飛び交う銀色の羽。
 耳元で鳴るむず痒い羽音。
 折り重なるか細い脚。
 この時ようやく気付いた。辺り一帯は唐突に――あらゆる虫の大群に覆い尽くされていた。

 おやつ

 公園中を逃げ回る子供達の悲鳴を他所に、蜘蛛のアリアは美味しそうにコオロギを頬張った。

 ――逃ゲロ。逃ゲロ。命ヲ吸イ取ラレルゾ。命ヲ喰ワレルゾ。
 ――逃ゲロ。逃ゲロ。命ノ溢レル場所ヘ。

 きしきしと羽の擦れ合う叫び声のような音色を奏で、虫達が空高く、そして地面低く隅々まで溢れ返っている。公園の外の商店街や住宅街からは甲高い悲鳴が上がり、パニックに陥って道路を走り回る人間の姿まで見えた。
「これは、一体……!?」
 アリアが虫の嵐を前に立ち尽くしていると、彼女の元へふらふらと一人の少女がやってきた。
「……う、ゲホッゲホッ…」
 少女は苦しげに胸を押さえ、その場に崩れ落ちる。
「お前、大丈夫か――」
 声を掛けたアリアは、いつの間にか周囲の空気が変質している事に気が付いた。少女が現れたと同時に――湿りを含んだ、濃密な何かの力が辺りに満ち始めた事に。
 森の息吹によく似たそれは、咽返る程の『精気』だった。
「わたしの力なの……小さな生き物ほど、いのちを求めて集まって、くるから……」
 息も絶え絶えに少女は告げる。
「お、ねが……にげて……もうすぐ、あの人が来るから…み、な……ころされ……」
「殺され……?」
 アリアが訝しげに眉を潜めた時、

 ありあ あぶない

 虫の大群と精気の溢れる一帯に、しゅうしゅうと白くしなやかな霧が現れ始めた。途端に虫達のざわめきが大きくなる。ただの霧では無い事は、アリアの動物的本能も認知した。これは、『死の霧』だと。
「アリア、大変だ……! 誰か、誰かに知らせないと――」
 少女を抱えてその場を後にしようとしたアリアに、少女はか細い声で自らの『お願い』を告げた。
「これ以上誰かがころされる前に、どうかあの人を……。わたしを、水の…無い、誰も居な、とこ……」
「連れて行けば、良いのか?」
 小さく頷き……少女はそのままがくりと気を失った。

 ――わたしの水で、誰かが生きられるなら、わたしの水を全部あげるから。わたしの水で誰かが死ぬのなら……わたしは土に還りたい。
 出来れば、最期に、
 いつも傍に居てくれた、優しいあなたに、
 ありがとうと言いたかった。

種別名シナリオ 管理番号941
クリエイター亜古崎迅也(wzhv9544)
クリエイターコメントお久しぶりで御座います。亜古崎です。
長いオープニングですみません(汗)よろしくお願いします。
一話完結のシリーズシナリオ【魔滅の絵画】第二弾をお届けに上がりました。今回は番外編的なお話で、「蝶の男」と「泉の姫」が登場します。切なく、そして仄暗いお話になりそうです。なお、全てのシナリオにご参加頂く必要は御座いません。

・街は現在昆虫パニックに陥っています。死の霧に反応した虫達は、本能的に命の力の溢れる姫の元へ、塊となって集まっています。大きな事故や被害が出る前に、何とか食い止めて下さい。
・死の霧によって虫の嵐は静まっていきますが(死骸となり)、動物や人間の命も吸い取られてしまいます。気を付けて下さい。
・蝶の男は姫の為に全てを壊し、殺すつもりでいます。そんな事、絶対に叶う筈が無いのに。殺意に刈られた彼に説得は難しいかもしれません――多分。命を取り上げる覚悟でお挑み下さい。
・姫にはどうやら『望み』があるようです。

それでは、皆様の素敵なプレイングをお待ちしております。
*募集期間が若干短めになっております。ご了承下さい。

参加者
コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
ミケランジェロ(cuez2834) ムービースター 男 29歳 掃除屋
レオンハルト・ローゼンベルガー(cetw7859) ムービースター 男 36歳 DP警官
ディーファ・クァイエル(ccmv2892) ムービースター 男 15歳 研究者助手
<ノベル>

 薄い青色の空は穏やかだったが、空気は肌寒く、街路樹の蕾は未だ固く閉じたままである。長い眠りによって冬を越す生き物達は、土や枯れ葉の中で新芽が根を張る音を聞き、また起きたまま冬を過ごす生き物達は、寒さに震えながら変わり逝く風の香りを確かめる。ただ静かに、誰もが目覚めの季節を待ち侘びて。
「………」
 男は呼吸を一つ落とし、明るい塗料をたっぷりと含ませた筆を、力強く壁面に擦り付けた。

『――逢いたかった。君に逢いたかった――』
 聞き慣れない退屈なメロディが近くのCDショップから流れてくる。
 スーツを着込んだ長身の男は、かつかつと靴音を鳴らして安っぽい造花で縁取られた商店街を横切っていった。
『――From snow to a cherry tree 君は確かに始まりの色――』
 何処も入学祝いだとか雛祭りだとか、日本の春らしい催し物で色どり豊かにディスプレイを飾られている。そのごく日常的で平和な風景とはあまりにそぐわない雰囲気を纏った男が、周囲を一瞥しながら早歩きで通り過ぎていく。
 フレームレスの眼鏡越しに、赤色の鋭い瞳は何かを捜し求めるように。彼の目がふと、デパートの壁面で止まる。
『――Blue flower 目覚め始める君達へ――』
 春を意識した作品だろう、鮮やかな桜の壁画が黒いツナギの作業員によって描かれていた。まるで眠りを呼び覚ますような明るい色彩だったが、スーツの男は特に感嘆する様子もなく、すぐに別な方へ顔を向けた。
『――僕らは美しい青空を約束できるだろうか――』
 男の眼前にひらひらと花びらのようなものが落ちてきた。それが、一枚の透き通った蜻蛉の羽だと気付くや否や――歩みを一層早め、足早に何処かへ去って行った。
 
 *

 実に数秒間の出来事だった。
 彼の胎内に住まうもう一つの「いのち」が、じりじりと金属の振動する警告音を立て、周囲に異常が迫っている事を彼に伝えた。
<半径45Meter四方 熱源移動物質反応>
 色素の抜け落ちたような薄い水色の髪の少年――ディーファは、はっとした表情で空を見上げる。彼の髪色よりも僅かに青みがかった晩冬の空に、煙のような可笑しな影が差していた。
「あれは……」
 少女のような細面を曇らせ、ディーファは不安げに眉を潜める。
 刹那、感知システムでの予測は恐ろしい早さで実感へと変わった。

<半径5Meter四方 生体群反応>
 ブゥウゥゥン。
 カサカサカサカサ。

「………!」
 上空に揺らめく不気味なシルエットが、ぶぅぅんと低い摩擦音を響かせ街目掛けて飛来してきた。それは数え切れない程の昆虫の大群で――まるで弾丸や矢のような速度と殺傷力を持って街中に降り注いだ。
 通行人の叫び声が飛び交う。走行していた自動車のクラクションが鳴り響く。昆虫達が勢いよくぶつかり、窓ガラスやショーウインドーが派手に砕け散った。
 ディーファの目の前で、街は一気に虫地獄と化した。
「きゃああ……っ!」
 すぐ側から少女の悲鳴が上がる。
 頭や足元にあらゆる虫が迫り、少女は足が竦んでその場にしゃがみ込んでしまった。パニック状態に陥っているようだ。向こうから猛スピードで接近してくる大型トラックに気付かない。
「いけない……!」
 ディーファは両手を振り上げ、トラックに向けて能力を行使した。
『重力制御、及び駆動停止します』
 彼の瞳が光を宿さない黒に変わる。ふわり、とトラックが宙に浮き、エンジンが止まる音と共にゆっくりと地面に降ろされた。
 ディーファの能力――彼の胎内に宿った金属生命ナノシステムにより、金属を媒介とするあらゆる機器装置の干渉と重力制御が可能なのである。
「大丈夫、ですか……?」
 しゃがみ込んだ少女に声を掛けると、金髪の少女はおぼつかない足取りで何とか立ち上がり、スカートの裾をぱたぱたと払ってディーファにお辞儀した。
「ええ、何とか……。有難う」
 少女の平気そうな様子に安堵の息を零し、今度は降ろしたトラックに駆け寄る。運転席を見てディーファは息を飲んだ。車内には大量の蜂が侵入しており、蜂に刺されて顔中が腫れ上がった運転手が、ぐったりとハンドルに凭れ掛かっている姿があった。ディーファの背筋に冷たいものが走る。
「しっかり、しっかりなさって下さい……」
 うう、と男が呻き声を上げる。息はあるようだ。運転手をゆっくりと車の中から降ろし、地面に横たえた。直ぐさま掌を翳して心拍数と怪我の程度を調べる。
「む、虫が……」
「傷に、障ります……」
 どうか喋らないで、とディーファは眉を下げて頷いた。安心させようと精一杯笑んで見せたが、上手く笑えずぎこちない表情になった。

――どうしたら……。

 どうしたらいいのか。いや、どうするべきか。ディーファは立ち上がり、焦燥感に胸を押さえて深く思考した。何か異常な事態が発生し、昆虫達が暴走を始めている。このままでは混乱した人々によって更なる事故や災害が発生するだろう。
 コンピューターをも凌ぐ頭脳をフル回転させ、ディーファは対処方法を模索した。

――やがて、少年の瞳が黒色に変化する。

『重力制御<Gravity control>――』

 ばり、ばりばり。
 虫の嵐と化した街のあちこちから、何かが引き剥がされるような奇妙な音が鳴り始めた。ばちばちと青白い電光を帯びて街中より浮かび上がってきたそれは、色も形も様々な――沢山のラジオだった。

『――及び音源装置操作、実行<Enter>します……』

 ディーファの両手の動きに合わせて、宙に浮かんだラジオからぶぅぅんと低い音の波が発生した。空気を震わせるその振動――超音波は、人間には何の影響も無いが、聴覚の優れた生き物には何らかの効果がある。音の波が広がった途端、溢れ返っていた虫達の動きが止まり――やがて何かの力に導かれるように、ざわざわと空へと帰っていった。
「良かった……」
 ディーファが安堵の息を漏らして目を閉じる。と、そこへ先程の少女がぱたぱたと小走りで駆け寄ってきた。
「救急車は呼んでおいたから…きっとすぐに来るわ。さっきは、助けてくれて本当に有難う」
 金色の長い髪を揺らし、少女はぺこりとお辞儀した。
「私はコレット・アイロニーといいます。この子はトト。あなたは……?」
 鞄からひょこりと顔を出したラベンダーのバッキーを撫で、コレットは儚げな少年を見つめた。
「ディーファ・クァイエルと申します……」
 自己紹介に戸惑いながら、ディーファも丁寧にお辞儀する。
「虫さん達が、あんなにざわめくなんて…何か、大変な事が起きているみたい」
 コレットの呟きにこくりと頷き、ディーファは目を細めた。
「……この近辺に、強大な生命反応が出ています。はっきりとは、言い切れませんが……」
 嵐が去った後の騒然とした街を見渡し、不安げに眉を下げる。
「昆虫達が何らかの影響を受けていたのでしたら……原因を突き止めない限り、再び彼らが暴走してしまうかも、しれません……」
「では、行ってみましょう。きっと何か分かる筈」
 コレットの言葉に、ですが、と呟く。
「貴女様を巻き込む訳には……」
「私は今、あなたに助けてもらったから。だから今度は、私が力になりたいの…」
 コレットはにこりと笑みを見せ、ディーファに手を差し延べた。
「一緒に行きましょう」
 少女の微笑みに少年は少しだけ頬を染めて頷き、その手を取って一緒に走り出した。

 *

 視界が白くぼやけていく。ガラスの破片が散らばった地面を走りながら、コレットは周囲を見渡した。辺り一帯に湿り気を含んだ湯気のような……ゆったりとした、しなやかな霧が満ち始めていた。
「これは……」
 ディーファはコレットと共に走りながら呼吸を一つ零し、霧の成分を胎内で分析する。
「この霧は、危険です……マイナスのエネルギーを感じます。コレット様、いけません。引き返しましょう……」
 ディーファが少女の腕を引き、立ち止まるよう促した。引き返そうと背後に振り返ったが――後ろからも既に、霧の気配が迫っていた。
「戻っても、きっと同じ。だったら先へ行かなくちゃ。逃げても何も解決出来ないわ」
 少年よりも幾らか大人びた顔立ちをした少女は、柔らかな表情のまま強く頷いた。どうする事も出来ず、ディーファはただ眉を下げ、複雑な思いのまま頷き返す。
 死ぬ事の出来ないディーファにとって『危険』とはあまり意味の無い言葉だが、生身の人間であるコレットにとっては、下手をすれば命に関わる恐れがある。
「大丈夫。私の事は、心配しないで」
 コレットの鞄からバッキーが鼻を出し、むくむくと薄い霧を吸い始めた。ね?と首を傾げてコレットが微笑んだ。
 と、その時、ディーファが何かを感じ取り、はっとしたように顔を上げた。彼の展開する感知システムに一際強い反応が現れたのだ。
「生命反応源の位置が特定できました……あちらのようです」
 ディーファの指し示した方角を見て、コレットが頷いた。
「あっちには、公園があった筈。行ってみましょう」

 白い霧で覆われた公園に、大きな蜘蛛の化け物と一人の少女が横たわっていた。地面は細かな虫の死骸で埋め尽くされ、公園の砂と混じり合ってきらきらと煌めいていた。
「ねえ、大丈夫……?!」
 飛び込むように走ってきたコレットとディーファに蜘蛛女は一瞬びくりと驚いたが、すぐに眉を寄せて二人を見つめる。
「アリアは大丈夫。だけど此処は危険だ。お前達も早く……」
「あら?この女の子は……」
 アリアの傍らに横たわる少女の顔を見て、コレットは目を丸くした。
 虫を纏った海のような髪をした少女は、額に汗を浮かべ、苦しげな表情のまま気を失っている。
「この子、知ってるわ……映画を観た事があるの。この子は、泉の姫さまよ」
 コレットはポケットからハンカチを取り出し、少女の額の汗を拭った。ディーファはコレットの隣から手を伸ばすと、横たわった少女に翳して身体の状態を調べる。
「虫さん達はきっと、姫さまの命の力に引き寄せられて、集まっていたのね…でも、どうして……?」
 首を傾げて考え込んだコレットに、ディーファは目を細めながら答えた。
「この霧から逃げていたのでは、無いでしょうか……?」
「そうだと思う。逃げていたと言えば、この娘も逃げているみたいだった」
 顔を見合わせる二人を交互に見つめ、アリアが真顔で頷く。
「逃げていた、とは一体何から…何故…?」
 ディーファが呟き、コレットがますます首を傾げる。アリアはただ静かに首を横に振った。
「それはアリアも知らない。ただ……水が無くて、誰も居ない所へ連れていけ、と言っていた」
「水の無い処、ですか……」
 コレットがそんな、と悲しげに首を振った。
「駄目よ、そんな……姫さまは水の精霊さんなの。水の無い処へ行っては、死んじゃうかもしれない……」
ディーファが眉を潜めてコレットを見つめる。
「彼女の身体は衰弱しきっています…とても、危険な状態です」
「今もきっと、水が無いから苦しんでいるのよ」
 アリアとディーファ、そして意識の無い姫を見つめてコレットが言った。
「逃げるなら、海に行きましょう。あそこなら誰も居ないし……」
 少女の提案に頷こうとした時だった。ディーファの感知システムに――異常な存在が確認された。
 じりじりと強い警告音が彼の中に鳴り響く。胸を圧迫するような威圧感に襲われ、ディーファは苦しげに顔を歪めた。これまでにない脅威が、彼らの元に近づいていた。
「た、大変です……! 今すぐ此処から逃げなければ――」
 ディーファが声を上げた途端、彼らの行く手を阻むように……白い霧が一気に視界を埋め尽くした。

 *

 ゆらゆらと、霧の中で一匹の蝶がたゆたっているように思えた。ぼんやりと人間のシルエットが現れ、それは顔に描かれた絵だったと思い知る。
 砂利を踏みにじる音が聞こえ、そして、
「殺してやる……虫けらが」
 邪悪な囁き。
 ディーファは少女らを庇うように先頭に立ち、白い闇の向こうから現れた男と対峙した。辺りに飛ばした胎内金属による球状のブラックホールのおかげで、霧が吸い込まれ、視界は幾らか晴れている。
「貴方様が……この霧を生み出し、彼らを暴走へと導いたのですか……?」
 ディーファの問い掛けに、頬に蝶の絵が施された男は冷たい眼差しを向け、
「殺してやる……」
 たった一言。
「………」
 ディーファは眉を下げ、言葉を失った。コレットはディーファの背後から顔を出し、男を見つめてあっと声を上げた。
「……あなたはもしかして、青い蝶さん?姫さまを追い掛けてきたの?」
「いけません、コレット様…」
 男の元へ近付こうとしたコレットをディーファが引き止める。
「ねえ、どういう事?この霧は何?あなたが虫さん達に、酷い事をしたの……?」
 ねえ、とコレットは繰り返した。さすがにアリアもコレットの腕を掴む。
「蝶さん、ねえ――」
「黙れ虫けら、殺してやる」
 蝶と呼ばれた男はぎろりとコレットを睨み、片手を振り上げた。
 周囲を取り巻く霧が大きく波打ち、ディーファ達に向かって襲い掛かる。
「違う……!蝶さん、映画の中じゃこんな事してない……!」
 声を上げるコレットと姫をアリアが抱える。ディーファはブラックホールを壁のように展開し、一時的に霧を凌いだ。
「アリア様は、二人を連れて逃げて下さい……」
 霧とは思えない強い圧力に堪えながら、ディーファが小さく微笑んだ。
「あの方を止めなくては」
「…お前は?」
 僕なら大丈夫です、とディーファが頷く。
 しかし――霧の威力は更に増し、一時的に作り上げた壁は、無残にもばしばしと打ち崩された。
 ディーファは焦りを顔に浮かべ、両の手にブラックホール球を生み出して構える。
「姫に触れるな……虫けら共め――」
 蝶の男が力を行使しようと片手を振り上げたその時、
「うぐッ!?」
 何処からともなくしゅるしゅるとピンク色の縄が伸びてきて、あっという間に彼の身体を縛り上げてしまった。
 からんからんと騒がしい音を立て、空になったペンキの缶が転がってくる。
「ったく……てめェの所為でペンキが無駄になった」
 蝶の背後の白い闇から現れたのは、モップを肩に担いだ黒いツナギの男だった。

「ミケランジェロ様……」
 ディーファが男に向かってお辞儀した。どうやら知り合いのようである。
「おい、ボケっとすんな。逃げんならさっさと行っとけ」
 蜘蛛女と金髪の少女にちらと目をやり、ミケランジェロが面倒そうに顎で退路を指し示した。
「ええ……ミケランジェロさん、有難う…」
 アリアとコレットは顔を見合わせて頷き、急いでその場を後にした。

 *

「うあああ、離せ!うあああ!」
 蝶の男は縄を解こうと激しく暴れる。
「ぴーぴー喚くな。さるぐつわかますぞ」
 煩そうに片耳を押さえながらミケランジェロが彼の前に回り込んだ時だ。男の頬に描かれた大きな蝶の絵が目に入り、ミケランジェロの目付きが変わった。
「おいてめェ――それを何処で受け取った?」
 ディーファが目を細め、彼を見つめる。
 男が受け取った、いや、受け入れてしまった鮮やかな青い蝶の絵画。芸術の体言者は見抜いたのだ。その絵が誰によって描かれたものなのかを――その『呪いの絵画』を施した作者を。
 またあいつか、とミケランジェロが歯ぎしりした。
 ――油煙の男。世界がどうのこうのだと訳の分からない事を語って、美術館に騒動を巻き起こした男が居た。彼の望みや理想は正直どうでも良いが、こんな形で芸術を冒涜するのは 許しがたい。
「……ふざけやがって」
 怒りを抑え、ミケランジェロが静かに吐き捨てた。

 白い霧は彼の全身から――恐らくは身体中の毛穴から噴き出していた。
 ディーファは宙に飛ばしたブラックホールの数を増やし、次第に濃密になっていく霧に備えた。全てを無に帰す亜空間の欠片を持ってしても、噴き出し続ける霧を消し去る事は出来ない。
 とても危険です、とディーファは表情を曇らせた。
 霧とは地上に現れた雲、すなわち水分である。何処までも小さくなり、どんな隙間にでも入り込める性質は、空気と何ら変わりない。厄介な事にそれが命を吸い取る魔法の力を持ち、辺りに蔓延している。ディーファにはブラックホールを生み出し操れるという特殊な能力が備わっているが……あまりその力に頼り過ぎると、対象以上のものを吸い込んでしまう恐れがあった。言わば諸刃の剣である。
 ブラックホールの力を調節しながら、ディーファは引き続き胎内機器で霧を分析した。
 ミケランジェロは霧の中にモップを突っ込み、ぐるりと掻き回して引き抜いた。霧だった筈の白はぼたぼたと滴り落ち、瞬く間に『塗料』へと姿を変える。
 彼のモップが塗料を吸い上げる。再び地に吐き出された時、それは純白の風車の姿をとっていた。
 ぶわり、と風が舞い起こり、暗澹とした白い闇を吹き飛ばした。
「どうして、このような……」
 声を上げたのはディーファだった。
「憎んでいるのですか、僕達を……?」
 ああああ、と叫び声を上げるだけの男に言葉は通じないかもしれない。それでもディーファは問い掛ける。
「『姫さまを追い掛けてきた』とは――一体……?」
 それは先程コレットが口走っていた言葉だ。彼は横たわっていた少女を追い掛けてきたようだったのだが……それは何故だったのか。
「うあああああっ、うあああ!」
「煩ェな……ったく」
「………」
 ミケランジェロが顔を顰める。ディーファは悲しげな面持ちで、それでも真っ直ぐに蝶の男を見据えた。彼の心が何を望んでいたのか、何故何もかも憎むような冷たい眼で睨みつけるのか、ディーファはその意味を知りたいと思った。いや、知らなければならなかった。
 誰かを傷付ける彼の衝動を止め、そして彼自身も救いたいと感じたから。
「どうか、教えて下さい。貴方様の望みは……」
「彼女を護るんだ」
 再び暴れ出すかと思われた男の語気が、唐突に、静かなものに変わった。
「護る、とは…姫様の事ですね……?」
「世界が憎い。世界が。彼女を護れない非力な世界が、僕が、僕が彼女を、」
 会話はまともに成立していなかったが、何となく事情が読めてきた。
「あの方を護る為に、他のものを壊そうと……」
「お前なんかに分かるものか」
 低く、押し殺したような声。
「彼女さえ生きてくれればそれで良いんだ……他には、何も……何もいらない」
 男はディーファを睨みつけた。頬に刻まれた青い蝶が、嘲笑うかのように流麗に舞う。ぎちぎちと爪が割れる程力を込め、男は自らを縛り上げる縄を引き千切った。
「……!」
 ディーファがブラックホールを手に構える。ミケランジェロは男を静かに見据えた。
「彼女が僕の全てなんだ……」
 それは『依存』だった。恐れるが故の過ちで、望むが故の悲しい執着心。盲目的なまでの純粋な想いが、彼を、そして想い人を焼き殺そうとしている。
 何て眩しいのだろう、と。焦がれるような、強い憧れのようなものを少年は胸に抱いた。同時に、酷く『痛み』を感じて仕方がない。
 男は両手を空に掲げた。彼の掌に集まった霧が固まり、形を成し――白い一本の剣を作り上げた。
 叫び声を上げ、男が二人に斬り掛かる。
 軽い跳躍でかわしながら、ディーファが声を掛けた。
「それほどまでに、想って……。どうかお願いです…」
「うあああ、虫けらが!」
 一撃がディーファの腕をかすめたが、硬い音と共に弾き返された。
「どうか、止めて下さい。誰も傷付けないで……あの方を救う手立てはきっと、他にも在る筈――」
「虫けらが――ッ」
 蝶が煌びやかに舞う。ぐるりと身を捻らせ、刃をミケランジェロに投げ放った。
「るっせェな……さっきから虫けら虫けら欝陶しいんだよ、お前」
 一歩下がり、身を逸らしてかわす。
「自分のものにしたいんだったら、掻っ攫っちまえばいいだけだろ。人様に迷惑掛けんな」
「黙れ!お前に僕の何が分かる!」
 男が喚く。霧を操り、がむしゃらにミケランジェロへと放った。
「知るか。知りたくもねェ」
『護りたいが故に全てを壊す』、その衝動は彼も知っている。だがそれはあまりにも、
「そういうの何て言うか知ってるか――独りよがりっつうんだよ」
 ミケランジェロが前へ踏み出した。数歩で男の懐へ接近し――彼の頬へ、片手を伸ばした。
 ガッと顔面に張り手をかまされる。男は数メートル程吹っ飛び、地面に転がった。
「ぐあ、あああああ」
 天を割るような男の叫びが木霊する。突如、彼を取り巻く霧が揺らめき、数え切れない程のナイフへと姿を変え、二人に襲い掛かった。
 ディーファがブラックホールの壁を作り、直ぐさま防御する。
 ナイフが止んだ時には既に、男は何処かへと姿を消していた。
「ミケランジェロ様……」
「分かってる……逃がしゃしねェよ」
 ミケランジェロは掌を見つめた。そこには、先程の張り手で写し取った蝶の絵が刻まれていた――
 
 *

b金髪を振り乱し、少女は走っていた。彼女と共に走る蜘蛛女は、腕の中に意識の無い別な少女を抱えている。
bまだ霧の気配は無い。此処まで追い付いていないようだ。
「う、うぅ……」
b唸り声が聞こえ、コレットははっとして少女の顔を覗き込んだ。
「しっかり……姫さま、姫さま」
「ぅ……ここは……」
 少女は額に汗を浮かべたまま目を覚ました。
「気が付いたのね。良かった……」
 コレットは胸を撫で下ろし、ひとまず安堵の息を零した。少女は自分が抱えられている事に気付き、驚いたような顔できょろきょろと辺りを見回している。
「あの……何処へ?」
「今から星砂海岸に行こうと思ってるの…今のままじゃ、姫さまが危ないもの」
 動揺している少女へ、コレットが笑みを見せる。
「海よ。水がたくさん在る処だから……」
 その言葉を聞いた少女の口から零れた一言は、
「……どうして?」
「え……?」
 少女の目は不安に満ちていた。何故『どうして』と聞かれたのか分からず、コレットが言葉に詰まる。
「わたし、海になんか行きたくない……」
「ど、どうして……水が無かったら、姫さまは死んじゃうかもしれないのよ…?」
『死ぬかも』などと口にするのはどうかと思ったが、他に説明のしようが無かったのでありのまま告げた。少女は蜘蛛女の腕を掴み、懇願する。
「行きたくないの。降ろして……わたし、わたし」
 コレットは息を飲んだ。

「わたしを、死なせて……」


「死にたい、の……?」
 コレットの問い掛けに少女はこくりと頷いた。コレットはバッキーの入った鞄をぎゅっと抱き締め、ぶんぶんと首を振る。
「駄目よ!そんなの駄目……!死ぬだなんて。そんな悲しい終わり方、絶対に駄目……」
 コレットは知っていた。泉の姫と青い蝶が登場する映画のストーリーを。その結末を。だからどうしても嫌だった。
 ――このまま二人が擦れ違ったまま、終わってしまうだなんて。
 そんなのは、嫌。
 俯いたコレットを見て、泉の姫は僅かに目を伏せ、そっと謡うように言葉を紡ぐ。
「……わたしの水で誰かが死ぬのなら…わたしは土に還りたい……」
「………」
 それは聞き覚えのある台詞だった。
「きっとあの人は、わたしが居る限り止められない。だから、わたしを置いて逃げて」
 姫はアリアの腕を離し、地面に降りた。自分と幾らも変わらない身長の少女へ、にこりと笑みを浮かべてその頭を撫でる。
「綺麗な髪ね」
「姫さま……」
「わたし、たくさん生きたから…もう良いの。誰かを死なせてまで、生きたくない……」
 そんな、とコレットは首を振った。
  
 その時だった――

 強い湿った匂いが辺りに漂い始め、三人ははっとして顔を見合わせた。
 来る、と思った時には既に、霧とは思えぬ恐ろしい早さで白い闇が迫っていた。
「お願い、逃げて……!わたしと一緒に居ては、ころされてしまう……」
 姫が泣きそうになりながらお願いをする。
「あなたを置いては、行かない……」
 コレットは首を振る。そこへ――何もかも包み込むように、ぼわりと真っ白い霧が全てを覆い隠した。

 こつ、こつん。

 地面を叩く靴の音が響いた。誰かがこちらに歩み寄って来る。
(蝶さんを――止めなくちゃ)
 肺の中に魔の霧が入ってくる。ごほごほと咳込みながら、コレットは霧の向こうの何者かを見つめ、恐る恐る腰を下ろした。地面を探り、ナイフのように尖った小石を見つけて手に取る。
(頬にある、あの青い蝶の絵を傷付ける事が出来たら、そうしたら……元に戻ってくれるかもしれないもの)
 静かに立ち上がり、小石を握り締めた。
「……やらなくちゃ…」
 近づいてくる人影をじっと見つめる。覚悟を胸に、少女は彼と対峙した。
「お願いだから戻ってきて……このまま、蝶さんの本当の願いごとが叶わないで終わるのは、辛すぎるから……」
 呪文を唱えるように呟いた。
 拳が震える。掠り傷をつけるだけだ。この石で、彼の頬に少しだけ。
 ざくりと皮膚を切り裂く感触を想像する。
 きっと血が出るだろう。とても痛いだろう。
「……っ」
 少女の膝が震え出した。それでも負けまいと、必死に前を見つめたが。

(誰かを護る為に、誰かを傷付けても良いの?)

「で、出来ない……」
 手から小石が滑り落ちる。ついにコレットの膝から力が抜け、へなへなと地面にへたり込んでしまった。

 かつり、かつり。

 足音は次第に近づいてくる。コレットはただ呆然と、そのシルエットを眺めていた。
 ――だが。霧の向こうから現れたのは、想像していた彼では無かった。
「………」
 スーツを着込んだ金髪の男がコレットの前に現れた。気難しそうな顔立ちに、刃の切っ先のような赤い瞳がぎらりと輝く。しゃがみ込んでいるコレットに冷ややかな一瞥を送った後、手を貸す訳でも無く、何も言わずに通り過ぎていった。
「え………?」
 呆気に取られるコレット。思わず声を掛ける。
「あ、あの」
「手」
 え?とコレットが固まった。
「君は掌に怪我を負っている」
 男は振り返る事なく告げた。あ、とコレットは自分の掌を見つめる。今になってようやく、痛みがある事に気が付いた。
「あ……」
 男はアリアと姫の脇を通り、足早に去って行った。

 *

「う、うぅぅ……虫けらが……!」
 男は顔を苦痛に歪め、地面をのたうち回った。彼の頬からはしゅうしゅうと……霧ではなく、白い煙が噴いていた。そこに描かれていた蝶の絵は、まるで乾き途中の絵の具に触れたかのように歪み、不自然に伸びている。繊細なタッチは僅かに失われたが、それでも色彩は未だ鮮やかに輝いていた。

 ――殺したい。

 どうしようもない衝動が彼の中に沸き上がる。
(護りたいんだ、護る為に壊すんだ……)
 ちっぽけな蝶だった時にはこんな感情、知りもしなかった。
「くそ……憎い」
(何が?虫けらが?)
 彼女の顔が何度も脳裏を過ぎっては消えていく。愛しさと同じ分だけ失う事への恐怖が入り混じり、彼の胸を締め付ける。そして、その中に割り込んでくる、

 ――殺してしまいたい。

 破壊衝動。
(壊したい、壊したくて堪らない……彼女を……)
「――違うッ!」
 歯止めの利かなくなり始めた感情に苦しみの咆哮を上げ、蝶の男は空も飛べずにアスファルトを這いずり回った。
「違う…違う……」
 片手を虚空に掲げ、ぶんと思い切り振りかぶる。霧が巨大な塊と化し、近くの民家を破壊した。

『何が違う?』

 這いずり回る彼の耳に、幻聴のような声が届く。
「彼女を護る為に殺すんだ。これはそう、彼女を生かす為に」

『仕方なくやっている事だと』

「そうだ……彼女の為じゃない、僕の為だ。彼女を汚す忌まわしい生き物はみんな死ねばいい。どう思われたって構わない。僕の、この力さえ在れば」

『とんだエゴイズムだ』

 ふぅ、と息をつく音がした。
 蝶の男はゆらゆらと立ち上がり、霧を操って街を白く染めていく。ぱたぱたと人が倒れ、花壇の花が枯れた。霧を鈍器に変え、車や街灯や建物を破壊する。衝動のままに街を傷付けていく。
「力に溺れる愚か者の、典型的な行動パターンだ――」
 かつりかつりと靴の音。
 白い霧の奥から、スーツを着た長身の男――レオンハルト・ローゼンベルガーが姿を現した。
 倒れる街の住人を無視して男の元へ歩み寄る。感情の宿らない、赤色の鋭い眼を蝶の男に向け、告げた。
「直ちにやめたまえ。応じない場合、それ相応の対処をとる」
 レオンハルトの出現に、蝶は忌ま忌ましげに顔を歪めた。ぎりぎりと歯ぎしりし、
「黙れ―――ッ」
 霧の刃の雨を降らせた。
 レオンハルトは男の返答を『拒否』と受け取り――命を冒涜する愚か者へ、彼なりの『対処』を開始した。

「命の営みが汚らわしいと」
 降ってきた白い刃を超能力で払い落とし、レオンハルトは再び歩み始める。
「生は犠牲の上に成り立つものだ。死は犠牲の下(もと)に成り立ち、逆を言えば生は死が無ければ有り得ない。そしてやがては、生きるもの全てに等しく与えられる」
 つらつらと滑るように言葉を紡ぐ。蝶の男が目くらましに放った濃密な霧の前に立ち止まり、首を軽く捻って背後から放たれた刃を避けた。
「しかしその天秤は誰のものでも無く、何者であろうと他者の生の――魂の侮辱を許されて良い筈が無い」

 ひゅん、ひゅん。

 細やかな針状の凶器へと形を変えられた霧が、レオンハルト目掛けて飛んできた。眼鏡の奥で針の位置を見据え、能力で全て吹き飛ばす。
「聞こえるかね?君が汚した者達の声が――」
 叫び声を上げて霧の中から飛び掛かって来た男へ、軽く片手を翳し、
「身を以って思い知れ」
 制裁の始まりを告げた。


 レオンハルトの瞳が怪しく輝いて見えた。彼の足元から――みるみる内に真っ赤な炎が噴き出していく。赤々と燃え上がり、波打ち、ごぉおぉおと灼熱の咆哮を上げて蝶の男を飲み込んだ。
「ああぐあああああ」
 身を焼かれる激痛に叫び声が上がる。
『苦しいか?脆弱なりし執着者よ』
 レオンハルトが目を細めた。ふ、と口角を緩め、彼らしくない笑みを浮かべる。まるで彼ではない何者かが乗り移ったような――レオンハルトの存在感が、これまでと違うものに変わっていた。
「うう、あああああ」
『愚かな……一介の虫ごときが、弁えぬからかような事になるのだ。汝の身を満たすそれは何だ?快楽か?』
 馬鹿にしたような口調で囁き、炎に焼かれる男を眺めた。強い熱の力に充てられ、周囲を包んでいた純白の霧が蒸発していく。
『地上に落とされしその時より、汝も摂理の一部に過ぎぬだろうに。まあ……その辺りは、我の関与せし領分では有らぬが――果たして真の虫けらとは、一体何者を指すのやら……?』
 くくっと笑い、蝶の愚行を嘲笑う。

 ――痛みを知れ。報いを受けたまえ。

 炎に焼かれる蝶の頭に、二つの声が響いた。彼を嘲笑う邪悪ささえ垣間見せる男の声と、感情の無い淡々とした声。前者は思い知れと謡い、後者は思い知れと警告した。
 燃え盛る命の赤色の中に、愚か者の身が踊り狂う。

 ――一つ聞こう。その力は、誰から譲り受けたのかね?

「うがああ、知らなあああああああ」
 蝶の叫びが木霊する。
 レオンハルトは男の言葉を聞き取った後、更に続ける。

 ――痛みを理解出来るかね。傷付けられる側の痛みを。

 生かされているという事実を。
 レオンハルトの言葉に一切の容赦は無かった。
 命を汚らわしいと愚弄するそれこそが、最も汚らわしい。
『甘言に躍らされ、力を得し奢りに捕われるとは。そうだな……汝の呼び名はこれが相応しい。「脆弱なりし虫けら」よ』
「うぐああ、黙れえええええ」
 蝶の男が力を振り絞り、燃え上がる炎の檻の中から叫んだ。
『汝がごとき愚か者に、何者も護れまい――輪廻にすら還れぬよう、我が、魂ごと焼き払ってやろう』

 *

 ごほごほと咳込み少女の肩を蜘蛛女と姫が摩る。
「だ、大丈夫……少し、吸い込んじゃっただけ」
 主人を心配してか、鞄から這い出たバッキーが彼女の膝に擦り寄った。
 海に面した道路は何処までも長く、白いガードレールと街灯がぽつりぽつりと並ぶだけだ。人通りは無く、民家もこの近辺には無い。
 霧を避けて逃げてきた三人は海を眺め、足を止めた。
「此処が海だな」
 アリアが興味深げに呟いた時、上空から飛んでくる人影が見えた。アリアがあんぐりと口を開けて見つめる。
「こちらに、居たのですね……」
 薄い水色の髪はディーファのものだ。コレット達を見つけた少年は空からふわりと降り、お辞儀した。彼の後ろからは黒いツナギのミケランジェロが歩いてくる。
 ミケランジェロは姫の前に立ち、膝をついて手を差し出した。
「これに見覚えは無いか?」
 広げられた掌には……少し掠れた、青い蝶の絵が刻まれていた。ミケランジェロの手の中で絵はふわりと浮き上がり、一匹の美しい蝶の幻へと変わった。
「蝶さんは……あの男の人は、姫さまに会いに来たのよ。魂と引き換えに人間になって、あなたを護る為に」
 ああああ、と悲痛な声を上げ、姫がその場に泣き崩れた。
「…では、ではなおさら……わたしを、死なせて下さい……」
 ディーファは眉を下げて少女を見守る。
「優しいあの人が、誰かを傷付けるなんて、耐えられない……!」
「……生きる事は」
 消え入りそうな儚さで、少年がぽつり、と言葉を紡ぐ。
「耐え難い時も、有ります……だからと言って。命を失って良い理由にはなりません…せっかくの命なのだから、望むままに生きろと――そう、僕に教えてくれた人が居ました」
 ディーファや姫を見つめ、コレットは頷いた。
「誰かに生きて欲しいって思って貰えるの、凄く…素敵な事だと思う……」
 羨ましいくらい、とほんの少し淋しげに笑う。
「……生きる事は時々、凄く怖いけれど……どうか、諦めないで…」
「………」
 ぽたぽたと涙を零す泉の姫へ、ミケランジェロが声を掛けた。
「お前の水を、貸してくれ」
「……?」
 姫は首を傾げつつも、両手を包んで彼に差し出した。差し出された小さな手の中に、みるみる内に透き通った水が溢れ出す。ミケランジェロは水に触れ、その水を青い塗料に変えて少女の頬や腕に流麗な紋様を描き出した。
「水とか森の息吹が無くても、これなら長生きできる。最も……それでもお前が死にたいなら、話は別だけどな」
 姫の口からはもう、死を望む言葉は出てこなかった。
 全員が言葉を飲み込み、辺りが静まり返った時だった。

 どおおおん。

「今のは……!?」
 烈しい爆発音が響き渡った。アリアが驚いてよろめく。ディーファは眉を潜め、辺りを見回した。
「近辺で、強い熱源反応を感知しました……あの方も――蝶の方も、近くにいらっしゃいます…」
「何が合ったのかしら……!?行ってみましょう」
 ディーファはアリアと顔を見合わせ、コレットは姫の手を取り、一同は現場に走って行った。
 
 *

 ごおおお、と真っ赤な炎が燃え上がっていた。炎は何かに燃え移るでもなく、ただ、地面の上に巨大な火柱を作っている。
 炎の前に、一人のスーツを着た男が立っていた。そして、炎の中には人の姿が見え、それは若い男のようで、頬には蝶の絵が描かれていて、
「やめて――ッ!!」
 コレットは悲痛な叫び声を上げ、スーツを着た男の前に立ちはだかった。
「蝶さんを苦しめないで!蝶さんは悪く無いの、悪いのは蝶さんに力をあげた相手――」
 レオンハルトはコレットに一瞥を寄越し、能力で彼女を弾き飛ばした。邪魔をするな、と。
 小柄な少女は軽々と吹き飛んだ。ディーファがコレットを支える。
「お願い、やめて……!蝶さんは、姫さまを護ろうとしただけなの……」
 再び止めさせようとするコレットへ、レオンハルトはふう、と息をついて冷ややかな目線を送った。
『それが理由になると?』
 誰かの為なら、他人を傷付けて良いのだと?
 例え彼が愛する者を護る為に行った事だとしても、他者を平気でおとしめる者に、誰かを護れる筈が無い。

「……おい」
 ミケランジェロが前へ出た。じろりと見やるレオンハルトへ、何処となく面倒そうに言う。
「あんたの制裁だか何だかはどうでも良い。今のままじゃまともに話も出来ねェから、少し待ってくれ」
 煮るなり焼くなりはその後で勝手にやってくれ。レオンハルトの目線をさらりと受け流し、ミケランジェロが告げた。
「………」
 レオンハルトは一瞬呆れたように眉を潜めたが――炎へと手を伸ばし、その力を消し去った。
「う、うううう……」
 煤色に染まった地面に、焼け焦げた男が一人、転がっていた。まだ息はある――煙を纏い、力無く呻き声を上げている。
 ああ、とコレットはへたり込んだ。ディーファやアリアもうっと眉を寄せて言葉に詰まる。
「あ、あなたに……言いたい事が…」
 姫は震える声で、男に告げる。
「う、うううう……」
「ごめんなさい…分からなくて、ごめんなさい……」
呻くばかりで蝶はこちらを見ようとしなかったが――それでも姫は、言わなくてはならない言葉を紡いだ。
「今まで、あ、ありが――」

ぴしょん。


 唐突に聞こえた水の音に、え?と姫は首を傾げた。コレットがいやあああと叫んでいる。アリアとディーファが駆け寄ってくる。ミケランジェロは珍しく驚いた顔で、レオンハルトは軽く身構えた。
 どうして?と姫は首を傾げながら、膝を地面についた。流れ落ちる、透き通った水。身体を流れる、命の水。
 少女の腹を、鋭い刃が貫いていた。

「う、うああああ……貴女を、貴女を護りたかっ、ただ、殺したかっ、護りたかっ」
 黒焦げの蝶が涙を流しながら片手を翳していた。

 ぶしゅり。ぶしゅり。

蝶の頬から血が滴り落ちる。首を、腕を、背中を突き破り、巨大な青い物体がまるで蛹から羽化するように――人間の身を捨て、青い青い巨大な死の蝶が、地上の世界へ還り咲いた。

 *

「ギャアアアアアアアア」
 醜悪な叫び声が響き渡る。蝶の怪物はゆったりと羽ばたき、煌びやかに海岸を飛び回った。ふしゅうふしゅうと死の霧を羽や口から噴き出し、宝石のような煌めく青い鱗粉を撒き散らした。
「此処に…入っていて下さい」
 姫の止血を終えたディーファは、ブラックホールを薄く伸ばした大きめの球で少女達を包んだ。泣きじゃくるコレットへ安心させるように笑みを見せる。
「姫さまが、姫さまが……」
「大丈夫、きっと助けます……少しだけ、待っていて下さい」
 こくりとお辞儀をして、上空へと飛翔した。
「ギャアアアアアアアア」
 耳を劈くような叫び声が轟く。蝶が羽ばたく度に突風が巻き起こり、青いりんぷんがばらまかれた。
「来るぞ――」
 蝶の羽がぶん、とミケランジェロとレオンハルト目掛けて羽ばたかれた。二人の男は後方へ跳んで回避する。
「……ふざけやがって――ッ!!」
 それは誰に対しての怒りだったのか――ミケランジェロはモップを構えて走り出した。
『脆弱なりし虫けらよ――』
 レオンハルトの口調が変わる。
『末路はやはり憐れなものだったか。よもや救う余地もあるまい。灰となれ』
 翳された両手から、高々と巨大な炎が燃え上がった。

 煌びやかな青い鱗粉を浴びながら、ディーファが空を飛翔する。ブラックホール球を一つ、また一つ、と掌から生み出し、空へと解き放った。
『処理を開始します……<Install>』
 ディーファの瞳が黒く変化する。放たれたブラックホール球の群れが、それぞれに死の霧とりんぷんを吸い上げ、亜空間の彼方へと葬り去っていく。ブラックホールが星のように瞬いて見える。作り上げた星空の中で、少年は支配者となり、ブラックホールを操作した。

 ミケランジェロは走り、地に不思議な青い紋様を描いては、再び走り出した。暴れ回る蝶の攻撃を避け、敵の動きを翻弄するように走り抜く。
 どうする事も出来なかった、などと言い訳をするつもりはない。始めから――彼を蝕む呪いが止められなかったら、彼の命を奪う事も考えていた筈だ。
「なァ……お前は――」
 今、どんな気分なんだ?
「ギシャアアアアアアア――」
 蝶はただ、おぞましい叫び声を上げるばかりだった。

 レオンハルト――いや、彼に乗り移った何者かは炎を使役し、飛び回る蝶の怪物に狙いを定めて解き放った。翼に幾つかの穴を開け、蝶の動きを翻弄した。その度におぞましい叫び声が上がり、空が赤々と火の色に染まる。
『我は無益そして無価値の名を冠する者なり――冥土の土産に、覚えておくがよい』
 何者かはふっと口角を上げ、笑みを零した。

ジジ……ばり、ばりばり。

 電子的な音が響き渡り、海岸に面した道路から――ディーファの手の動きに合わせて、幾つもの街灯が宙に浮き始めた。コンクリートに埋め込まれた配線ごとめりめりと剥がれ、均等に空中へと列べられる。
『お借りします……』
 すみません、と誰にともなく謝罪し、手を振りかざした。
 視界に幾つもの物体が立ち並び、蝶が反応して首を擡げた。ががが、と奇怪な音が鳴る。
「ウグアアアアアア」
 蝶の咆哮が響き渡る。ばさり、と巨大な翼で羽ばたいた。
「……!」
 巻き起こる突風に耐え、少年は能力を行使した。浮き上がった配線付きの街灯が――蝶の身体を縛り上げる。蝶は暴れた。もがく度に配線が絡まり、自由を奪っていく。
 ディーファが化け物を拘束するのと同時に、レオンハルトの炎が高々と噴き上がった。火柱は鞭のように長く伸び、蝶の周りを取り囲んだ。

「――ッ!!」
 ミケランジェロがガードレールに足を掛け、海岸へと跳躍した。
 彼の飛び込みに合わせて地面に描いた紋様から――幾つもの青い水の鳥が生まれ、空へと飛び立っていく。
 ミケランジェロはモップを掲げ、巨大な蝶へと飛躍した。振りかぶったモップは翼に触れるだけだった。それだけで十分だった。
 蝶の羽に一瞬で描かれた絵は、遠すぎて小さすぎて、誰の目に写らなかった。
 炎が巨大な蝶を縛り上げる。青い鳥は空中で一つになり、一羽の鶴となって蝶へと覆い被さった。
 巨大な青と赤のコントラスト。目も痛くなるような極彩色の中で、蝶は最期の叫び声を上げた。

「ウギャアアアアアアアアア……」

「蝶さん……!」
 引き止めるアリアを振り払い、コレットがガードレールにしがみ付いた。
「蝶さんは、姫さまの事、好きだったのよね……!?姫さまも、姫さまも、あなたの事が好きだったのよ―――」
 色彩が止んだ時、一個のプレミアフィルムが海岸に落ちていたのを、コレットは見つけ――悲痛な泣き声を上げた。

「……」
 ミケランジェロはフィルムを拾い、目を伏せた。
 彼の中に沸き起こっていた感情は激しい怒りの色だった。
 ――あいつを倒す。

まだ辺りに残った呪いの残滓を辿り……海岸に足跡を刻みながら、彼は何処かへと歩み出していた。

 *

 私は一匹の蝶でした。
 柔らかな木漏れ日の僅かに降り注ぐ、苔生した大樹の森に私は住んでいました。
 朝日の昇る頃、ゆっくりと羽を広げて森の中へと飛び立ち、湿った枯木の窪みに溜まった朝露を飲みました。細長い日の光が森の入口に差し始める頃、私は鳥や花の姿をしたカマキリに見つからないよう気を付けながら、森の奥深くへと羽ばたきました。
 いつから其処へ通うようになったのか、よく覚えていません。
 森の奥深くには、青々しい草木に囲まれた小さな泉が在りました。泉には一人の美しい少女が住んでいました。
 少女は私がやってきた事に気が付くと、優しい笑みを浮かべて、その白くて細い手を差し延べました。
 「あなたが居てくれて、わたしは嬉しい」
 少女の瞳に、私の姿が映っていました。
 「あなたを愛しています」
 私は小さな蝶でした。言葉を紡ぐ事が出来なかったので、代わりに一輪のワスレナグサを摘み、少女に贈りました。
 泉に住む少女は、とびきりの笑顔を見せ、私の羽に触れました。
 どうして毎日のように私は此処へ通い続けるのか――ようやく、気付く事が出来ました。
 私はきっと、彼女に出会う為に生み落とされたのでしょう。私の命が蝶に変わるずっとずっと前から……彼女に会いたいと、思っていたに違いありません。
 ただ、彼女に会いたいと。ずっと彼女の傍に居たいと、そう思うのです。
 私は心から、彼女を愛していました。
 これからも、これまでも。ずっとずっと。

 *

 「………」
 少年は海に面した道路を歩き、物思いに耽っていた。春を意識した色合いの華やかな花束を抱き、海を眺める。
 空は薄く青い色をしていた。同じくらい、海も優しい色をしていた。
 もうすぐ春がやってくる。街中の薄紅色の花が開く季節になるのだ。
 どんな香りがするのだろう。この潮の香りほど静かで、心の落ち着く香りだろうか。
 「………」
 誰にも聞こえないよう、そっと歌を口ずさみ、花束を海に投げ放った。

 さようなら。

 優しい花の香りは――潮風が攫い、何処かへと連れ去ってしまった。

クリエイターコメントお待たせ致しました!命と愛の物語、如何で御座いましたでしょうか。あまり暗くなり過ぎないように……をモットーとしていた筈が、今回はギャグ要素をすっぱり切り取ってしまったので、全体的に切ない感じに仕上がりました。戦闘シーンは頑張って盛り込んでみました。
少しでも皆様のお心に残るような、素敵な物語に仕上がっていれば、幸いです。
口調の違和感や誤字・脱字・ご意見等御座いましたら、お気軽にお知らせくださいませ。
この度は、シナリオへのご参加、誠に有難う御座いました。
公開日時2009-02-27(金) 18:50
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