★ 揺り篭の館 ★
クリエイター
亜古崎迅也(wzhv9544)
管理番号
447-6850
オファー日
2009-03-04(水) 04:44
オファーPC
シグルス・グラムナート(cmda9569)
ムービースター 男 20歳 司祭
ゲストPC1
香玖耶・アリシエート(cndp1220)
ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
<ノベル>
凍てついた氷のような冷たい色の雲が空の青さを覆い隠し、分厚く重々しい姿で遥か上空に横たわっている。天空の息子は母なる大地を犯し、やがて地上に冷たい雨粒を落とそうとしていた。
木々や植物のみずみずしい青葉を失った冬の森は、土色の枯れ野を晒し、枝葉の陰で密やかに生きるもの達の住み処を余す事なく露にした。最も、多くの生き物は温かい木の幹や地中にねぐらを変えたが――今この時、森の中の目に見える場所全てから、生命の息吹が枯渇していた。辺り一帯は冬特有の『死』の気配で満たされていた。
森の奥の枯れ木の間から、つう、と細い煙のようなものが上がり、空へと昇っていく。それを目にした者は居ただろうか――ふわりと風にたゆたうように揺らめき、人知れず森を降りて行った。不可思議な気配は村へ辿り着くと、行き交う人々の合間を縫ってそっと民家に流れ込んでいったのである。小麦を挽く音やパンを焼く匂いに掻き消され、微かな気配は跡形も無く消え去った。
恐らくそれに気が付いた者は居なかっただろう。
ぱき、ぱきり。
静寂な冬の森に、乾燥した枯れ枝を踏み付ける音が響き渡る。何かに導かれるように森の中を漫ろ行く男が一人、いや、二人、三人……火を焚く時のそれによく似た乾いた破砕音を鳴らしながら、幾人もの村人達が森の奥を目指して進んでいく。彼らの手にはそれぞれ、畑を耕す為の鍬や薪を割る為の斧、チーズを切り分ける為のナイフ――刃のついた生活道具が握られていた。森を切り開いて農地を作るとでも言うのか? まさか。
そんな風には到底思えなかったのは、皆一様に憎しみを湛えた表情を浮かべていたからであろう。
先頭を歩む男が震える唇を動かし、穢れた言葉を吐き出した。
「魔女め。見つけだして、葬ってやる」
「葬ってやる」
誰かが復唱する。
「葬ってやる」
静寂と異様な殺気に満ちた森の中に、やがて堰を切ったような叫び声が轟いた。
――聞いたか。森に魔女が居るらしい。
その一言が耳に入った瞬間、シグルスは心臓を鷲掴みにされるような錯覚を覚えた。
ただの噂話だ。教会に訪れた人々が顔を伏せたまま小声で言い合っていた、いわゆる「此処だけの話」。神聖なる場所での世間話にしてはあまりに不謹慎な話題だった為に、こそこそと周りに聞こえないように話していたようだが、丁度通り掛かった教会の主の耳には届いてしまった。
(何だって――?)
シグルスの背筋に冷たいものが走る。思わず立ち止まって村人を凝視した。視線に気付いた村人は、気まずい表情を浮かべて会釈し、いそいそと教会から立ち去る。
実際、よくある事ではあった。向かいの家の庭は日が当たらなくて暗いから家主は魔女ではないのかとか、隣町の村外れの老人は変わり者だから魔女に違いないだとか、些細な出来事が何でも「魔女」と言う迫害の対象にすり変わる。聞かれては何をされるか分からないからと、もっぱら当人の居ない所で陰口を叩くのだ。何処までも陰湿で粘着質に、まるで値踏みでもするように、同じ村に住む住人達を互いに監視し合っている。
ご時世だから、と一言で割り切れば簡潔かもしれない。要するに皆、恐れているのだ。自分達と異なるものや、暗雲の立ち込めるような先行きの見えない暮らしを。いつ如何なる理由で命を落とすかも分からない恐怖を「魔女」と言う忌むべき存在になすりつけ、狩り落とし、平和で幸福な暮らしを得ようとしている。
非力な人間の、恐怖から来る哀れな性分だと知っている上で、シグルスはそれを馬鹿らしい、と思う。
つまらない下品な陰口は放っておくに限るので、いつも聞こえない振りに徹しているのだが、その日ばかりはそれが出来なかった。
(森に、だと――?)
嫌な汗が額を流れる。何処から広まった噂話かは知らないが、こんな小さな村だ。あっという間に村中に浸透してしまうだろう。自棄を起こした村人が武器を携えて森に乗り込んで行くかもしれない。
森に踏み込まれては困る理由が彼にはあった。
森の奥には、本物の「魔女」――彼にとって最も大切な女性が住んでいるからだ。
――彼女の、カグヤの身が危ない。
若き司祭は暫し黙考する。森から彼女が出入りしている所でも目撃されたのだろうか。あるいは何か、別な要因が森にあるのだろうか。
「……ちっ」
シグルスは舌打ちし、外套を壁掛けから乱暴に引っ掴んで部屋を出た。羽織りながら教会を後にする。
此処で眉間に皺を寄せていても何も始まらない。森へ直接行って確かめるのが何より手っ取り早いと判断したのである。
*
呼吸する度に、つんと冷たい空気が鼻孔から入り込み、喉を通って全身へと広がる。懐かしさの込み上げてくるような苦しい感覚にシグルスは目を細め、ふぅと白い息を吐き出した。
森は静寂に包まれていた。
シグルスは神経を研ぎ澄まし、森の中の気配を探る。
(何かが暴れ回ったような痕跡は無い、か――)
……だが、何かがおかしい。
冬の森独特の香りの中に、得体の知れない微かな気配を感じる。それと、僅かに鼻につくような――
(……花の、匂い……?)
シグルスが足を止め、辺りを窺おうとした時だ。
がさり、と枯れ葉を踏む音が響き渡った。
「誰だ」
視線はすぐに枯れ木の密集している方へ向けられる。
何者かが身を潜めている。シグルスは片手を聖書に触れて構えながら、そこに居る何者かを睨み付けた。
――だが、枯れ木の後ろから姿を現したのは、
「……あら?シヴ?」
「って、カグヤ……!?」
長い銀髪を靡かせた女性、カグヤがひょっこりと現れた。
「何だカグヤかよ……」
「何だとは何よ、全く。シヴこそどうして此処に居るのよ」
思わず溜息をついたシグルスに若干不満そうな顔をしながら、カグヤが首を傾げて見せた。
「何か面倒が起きてるみたいでさ。調べに来ただけ」
何処かの誰かさんがヘマした所為で、村人に見つかっちまったのかも知れないからな――と皮肉混じりの冗談の一言でもかまして意地悪してやろうかとも思ったが、余計な不安を与えたくは無かったので、さすがにその言葉は飲み込んだ。
「面倒事、ねえ?」
ふーーん?と口先を尖らせながら、カグヤがシグルスの顔を色々な角度からじろじろと眺める。
「つまり、私の事が心配になって来てくれたって事?」
「な……っそんな訳ねえだろ。誰がお前なんか心配するか!」
口調を荒げ、シグルスが素っぽを向いた。彼の右目を眩める仕草を見つけ、カグヤが満足気に頷いた。
「そう、うん、よーーーく分かったわ」
「からかうなよ……!」
シグルスの機嫌が更に斜めになっていく。ごめんごめん、とカグヤが両手を合わせて謝り、とりあえず毎度ご恒例の痴話喧嘩は避けられた。別に夫婦でも恋人でも無いが、誰かが見ていたら「仲が良いなあ」などとしみじみ思ったかもしれない。
この場にはまあ、二人しか居なかったが。
「それでカグヤは、何でこんな所うろついてんだ?」
シグルスの問い掛けに少し目を伏せ、カグヤが頷く。
「うん……あのね。森が、ざわめいているの」
森の中は至って静かだ。冬の冷気を孕みながら静まり返る森を、彼女は「ざわめいている」と告げる。
「分かるわ。ずっと暮らしてるんだもの。人を貶るような、暗い気配が彷徨ってる」
「……成程な」
何となく、分かってきた。村人の噂話の原因は、やはりこの森にあるのだろう。恐怖に晒されやすい臆病者が、カグヤの言う「暗い気配」に充てられたのかもしれないし、森に異変を起こしている何かが村人を扇動しているのかもしれない。
どちらにせよ、事は急いだ方が良さそうだ。
「気配の残滓を辿って来たのよ。場所は……この先、ね」
行きましょう、とカグヤは問答無用にシグルスの手を取り、森の中を歩き出した。
(目的地が一緒だとか、まだ一言も言ってないんだけどな……)
振り払ったらガキ扱いされるか、とか小さく葛藤しながら、年頃の青年はぐいぐいと為すがままに引っ張られていくのだった。
*
カグヤとシグルスが暫く森の中を歩いて行くと、木々の向こうに可笑しな物体が佇んでいるのが見えた。
「あれは――」
見上げる程の高さがある。枯れ木の合間を抜けて近付いて行き、目の前に立って二人は茫然とした。
「何?これ……」
静まり返った森の中に佇んでいたそれは、古びた洋館だった。
裕福な者の居住を窺えるそれなりに大きな建物ではあったが、扉も窓も埃と蜘蛛の巣に塗れ、誰かが生活している様子は無い。まるで枯れ木や岩のように風景に溶け込み、物言わず佇んでいた。
「こんな場所にこんな建物、無かったわ」
「だろうな」
扉を見据えるカグヤの呟きに、シグルスは小さく頷いた。
館の扉の僅かな隙間から、在ってはならない『悍ましい気配』が漏れ出している。人間の憎悪や恐怖、殺意、欺瞞――それは誰もが心の奥に飼い馴らす、並々ならぬ『負』の感情だった。
「………」
ショールを肩に掛け直し、カグヤが扉に手を掛ける。何も言わずシグルスも後に続いた。異常な存在を前にしても、二人の意思――それぞれの想いは違っていても、その歩みは決して揺るがなかった。
ギギギ、と鈍い音と共に扉が開かれる。
開け放った途端、大量の煙がぶわりと吹き出し、二人の視界を覆った。
「――!」
何かが燃えているのかと、カグヤが半ば反射的に水の精霊を喚び出す構えを取ったが、煙は一瞬で空気に溶け、跡形も無く消え去った。
不気味な歓迎にシグルスが眉を寄せる。
内部は寧ろ見えない方が良かったのではないかと思う程に、異常な様子だった。
前方に見える階段も、壁も、沢山の人形で埋め尽くされていたのだ。布製の子供の玩具と思しき人形達が、愛らしい表情を浮かべたまま虫に食われ、綿の内臓をさらけ出して床に転がっている。壁は数え切れない程の人形とからからに乾燥した大輪の花が吊り下げられ、薄暗い室内で不気味に白く輝いて見えた。
「……」
朽ちた木材や獣の酷い臭いが充満している。
カグヤが鼻を抑えて眉をしかめた。シグルスは辺りを窺いながら足を踏み出し、館の中を歩き出した。カグヤも後に続く。
「シヴ。気をつけてね?」
「分かってる。言われなくても」
当たり前のように気遣いの言葉を忘れない彼女に、暖かい気持ちと子供扱いしてほしくない小さな苛立ちを覚えながらも、シグルスは振り返らずに歩いて行く。素直じゃないんだからと小声で呟き、カグヤは彼の背中を眺めた。
(また身長……伸びてる、気がする)
男の子は何歳ぐらいまで背が伸びるのだろうか。いつの間にかこんなに大きくなったなあと場違いにもしみじみと思う。母親の気持ちとは、こういうものなのかもしれない。
(――けれど)
カグヤはそっと目を伏せる。
けれど、私は決して変わらない。
限りある彼らの人生に寄り添って、その一生を見守る事は出来たとしても……それだけなのだ。共に老いる事も、将来を繋ぐ事も叶わない。ふと自分以外の物事を考える度に、何度も脳裏を過ぎっては胸を締め付けていく見えない鎖。永遠という代償は、やはりとてつもなく重いものだった。
「カグヤ」
シグルスが古びた扉の前で足を止め、鼻を鳴らした。
「匂い、しねえか?」
「匂い……」
彼の隣に立ち、カグヤも扉を見つめる。
悪臭が充満している館内に、僅かな『違う匂い』が混じっているのが分かる。花や薬草を焼いたような……甘ったるい煙の匂いだ。その匂いは、二人の前に佇む扉の向こうから流れてくる。
手を伸ばしたカグヤを制し、シグルスが扉を開け放った。
がたん。
閉じ込められていたものが逃げ出すように、扉の向こうからぶわりと甘い匂いが溢れ出した。その奥に広がっていた風景は、やはり人形だらけの室内。ドライフラワーと人形が山積みになった長いテーブルが中央にあり、煤だらけの木製の椅子が幾つも並んでいる。暖炉もあったが、もちろん火は点いていない。
「食堂みたいね」
「だな」
カグヤが呟き、シグルスが足を踏み入れた――その時だった。
「――!!」
ぐにゃり、とまるで粘土のように床が大きくたわみ、シグルスの身体がぐらりと傾いた。
「シヴ!」
カグヤが叫ぶ。入口の縁に手を掛けて堪えるシグルスに駆け寄り、しがみ付くようにその腕を掴んだ。
「くそ!何だよこれ――」
カグヤに目を向けてシグルスははっとする。必死になって彼の腕を掴むカグヤの後ろで――先程まで入口を閉ざしていたあの扉が、まるで生きているかのようにばたばたと動き始めていた。
「カグヤ――ッ!!」
カグヤはシグルスを見た。
刹那、彼の嫌な予感は的中する。扉は弓を引くように一度大きく開き――その入口を、カグヤもろとも勢い良く強引に閉ざした。
鈍い音が響き渡る。重圧な扉が、華奢な女性の身体を背後から叩き付けた。
「カグヤ!!」
シグルスが目を見開いた。
あっ、とカグヤが小さな悲鳴を挙げる。打撃の反動で身体が大きくのけ反る。後頭部を強打されたか、胸を強く圧迫されたか、或いはその両方で――苦悶の表情を浮かべた後、カグヤの全身から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
シグルスの腕を掴んでいた手がするりと滑り落ちていく。彼女の身がゆっくりと部屋の中へ傾いていく。シグルスは歯を食いしばって空いている手を伸ばした。だが、届かない。
「馬鹿!目ぇ覚ませ!カグヤ――ッ」
待っていたとばかりに、うごめく床がカグヤの身体を受け止める。ずるずると彼女の身体を抱え、部屋の奥へと引き込んでいった。
シグルスは躊躇わなかった。入口に掛けていた手を離し……彼女の元へ、飛び込んでいった。
*
ふわり、ふわりと、形の定まらない柔らかな風のような感触が頬を撫でていく。
「……ぅ…」
ぼうっとする頭で、カグヤはうっすらと目を開けた。
自分はどうやら赤い絨毯の上に倒れているらしい――というのは分かったが、起き上がろうとも上手く身体に力が入らない。
「……う、けほ……」
甘ったるい煙の匂いがして息が苦しくなる。鼻や口から身体の中へ入り込み、脳髄にまで染み入っていくかのようだ。
感触は酷く緩慢なのに、痛い、と感じる。心が痛みを訴えている。悲鳴を上げている。
脳裏に映像が流れていく。
――やめて。
はっきりしない、ぼんやりとした視界と意識の中で、カグヤは何度も首を振った。
誰も彼女の身体を傷付けてなどいない。だが、その感触は言葉にならない程の激痛だった。
心臓がばくんばくんと音を立てている。
脳裏に映像が流れていく。
この風景は、見た事がある――
――やめて、触らないで。
上手く開かない唇で訴え、力の入らない腕で拒絶する。
彼女は誰に乞うているのだろう。
――お願いだから……覗か、ないで。
脳裏に映像が流れ、カグヤの意識の内にじわりと広がっていく。まるで彼女に罪の記憶を突き付けるかのように。
その風景は見た事がある。酷く懐かしい。同時に蘇った感覚は、強烈な吐き気。全身が総毛立ち、感覚を沈めようとする。
蓋を開けてはならない、ならないのだと。
だが、カグヤの意思とも本能とも裏腹に、心の奥底に封印していた記憶がずるずると音を立てて引きずり出されていく。
脳裏に血まみれの映像が流れる。
ああ……思い出した。
それは、かつて味わってきた生き地獄の風景だった。
そこまで思い出した瞬間――カグヤの周囲に充満していた甘ったるい煙の匂いが、気配が、何もかも一変した。
茫洋としていた意識は、目を逸らす事さえ許されない鮮明な映像の中に突き落とされる。
土埃と血の匂い。
残飯よりも醜く汚い姿で転がる仲間達の死骸を見つめ、子供達は立ち尽くしていた。
(ああ――)
青白い月明かりが辺りを照らし出す。恐ろしい形相のまま息絶えた少年の顔を、茫然とした仲間達の顔を浮かび上がらせた。
もはや泣きじゃくる者など居ない。ほんの一時を生き延びた安堵と、次に自分が死ぬ番かもしれない予感と、壮絶な死への恐怖と、誰も護ってはくれない絶望と、餓死寸前の空腹と、
(いや――)
ゆっくりと青年が歩き出し、仲間達も後に続いた。死んでしまってはただのゴミだ。命を落とした彼らを抱き上げる者などおらず、ただ置き去りにしてその場を立ち去った。
(何故、こんな――)
力さえあれば、と誰かが呟いた。その言葉にカグヤはびくりと震える。
金の有る者は豚のように肥え、非力な者は踏み躙られてきた。そういう時代があった。弱い者は寄り集まり、旅人から金品を盗んで食い繋いだ。全ては生き延びる為に――何よりも美しく汚らしい、若者達の生き様がそこにはあった。
仲間達の根城である教会のマリア像は首が無く、まるで神話に登場する死を運ぶ妖精のような姿で彼らを見下ろしている。
誰も死にたくは無かった。いや――何の苦しみも無く、幸福な想いのまま息を引き取れるなら、自ら死を選ぶ者も居たかもしれない。
だがそんなもの、望める訳が無いのだ。こんな場所での綺麗な死など。
生きようが死のうが、結局は地獄でしか無かった。イエスもマリアもなんて無慈悲なのだろう。
「仲間一人助け出せないのか」
力さえあれば、と誰かが再び呟いた。ああ、とカグヤは目を細める。
(それは、それを思ったのは、私だ――)
耐え切れず目を逸らす。
(もういい、もう見たくない……)
『見たくないの?』
不意に聞き覚えのある懐かしい声が響き渡り、カグヤははっとして前を向いた。
薄汚れた祭壇の前に、一人の少年が佇んでいた。
(あ、あなたは――)
カグヤは息を飲む。
彼の事をよく覚えている。忘れる筈がない。
『そっか。見たくないんだ。忘れたいんだ。カグヤ姉ちゃんは』
(ち、違うわ、セラ――)
首を振るカグヤに、少年は何処となく自嘲気味な、投げやりな笑みを浮かべて見せた。
『僕らが死んだのは……カグヤ姉ちゃんの所為なのに、ね』
(ああ―――)
カグヤの中で燻っていた罪悪感を口にされ、カグヤは胸にナイフを突き立てられたような激しい痛みを覚えた。
そして、
「助けて下さい……命だけは」
声のする方に振り返った瞬間、カグヤの全身からすぅと血の気が引いた。
いつの間にか地面にでっぷりと太った男が這い蹲り、銀髪の女性の足に縋り付いて助けを乞うている。
カグヤはその風景を、知っている。
(い、いや――)
銀髪の女性は怒鳴り声を上げ、男は転がるように走って逃げて行く。
女性は男を追い掛けない。そいつを逃がしたのだ。
カグヤは思わず手を伸ばし、彼女の代わりに追い掛けようとする。
(駄目!逃がしては、皆が、皆が、殺され――)
では、捕まえて殺せば良かったのか?
大勢の仲間の命が奪われる前に、そいつの命ひとつを?
(う、ああ……)
結局カグヤは男を追い掛ける事が出来ず、その場にがくりと膝をついた。
カグヤが膝をついた地面から、どくどくと真っ赤な液体が溢れ出し、辺り一面を染め上げていく。教会の天井は見る見る内に崩れ落ち、ぽっかりと開いた穴から大粒の雨が侵入してきた。
カグヤを取り巻く映像は、最も恐ろしいものへと姿を変えていく――
どさり。
どさり、どさり。
カグヤよりひとつ年上の女が、小さな少女が、小さな少年が、自らの血と肉を撒き散らしながら次々と倒れ、黒スグリのジャムのような赤黒い海の中に沈んでいく。カグヤに飛び散った血飛沫は、降り止まない雨粒が流していった。
(あ―――)
この肉が兎や鳥のものだったら、きっと皆で飢えを凌げた。美味しいと笑う子供も居た筈だ。
なのに、なのに、なのに。
それらは全部、あの可愛らしい子供達の面影を残したままで、光の宿らない暗い瞳が彼女に何かを訴えているかのようで、
(嫌だ、いや―――)
「――――――ッッ!!」
真っ赤な血肉の泉に膝をついたまま、カグヤは天に向かって泣き叫んだ。
「可哀想に。お可哀想に……」
幼子のように泣きじゃくりながら絨毯の上に転がっているカグヤの脇に佇み、その女は肩を震わせた。
黒いベールを纏い、胸には深紅の産着を着せた赤子を抱いている。深い眠りについているのか赤子は泣き声一つ上げず、女の顔もベールで隠され窺い知る事は出来ない。何とも不気味な様子だった。
くくく、と啜り泣きなのかせせら笑いなのか判別の付かない声を上げ、女はそうっと囁く。
「どれほどの痛みだったのやら。どれほどの、苦しみだったのやら…」
部屋の隅で焚かれた香が、もくもくと甘ったるい匂いのする煙を放ち、部屋中を満たしていく。
「どうして人は悪夢を抱かずには居られぬのでしょう。苦しみなど忘れ、幸せな夢だけ抱いて居ればいいものを」
ゆっくりとしゃがみ、骨のように細い指先で、涙に濡れるカグヤの頬に触れた。
「お可哀想に……貴女の苦しみは、私が抱いて差し上げましょう……ずうっと、ずうっと」
黒いベールの奥で、真っ赤な唇が三日月の形に歪められた。
*
「痛っ………ったく…」
軽く頭を押さえて舌打ちしながら、シグルスはむくりと起き上がった。
あの動きまくる不気味な部屋に飛び込んだはいいが、肝心のカグヤとは逸れるし、おまけに何処だか分からない一室に叩き込まれてしまった。ぎりぎりで受け身を取って回避したものの、壁や床に叩き付けられたので身体の節々がじんじんと地味に痛んでいた。
(カグヤは何処に連れてかれたんだ?)
静かに彼女の安否を心配し、シグルスは眉を寄せる。あまりマイナス思考は働かせたくない。彼女は強いからきっと無事だ。きっと。
不安を胸の奥に仕舞い、シグルスは立ち上がった。
その時だった。
「………!」
白い煙。
花のような甘い匂いのする煙が、扉や壁の隙間からしゅうしゅうと噴き出してきた。
シグルスは咄嗟に口や鼻を手で覆う。
「こいつが……負の気配を呼び起こしてる元凶か――!」
煙は生き物のようにぐるぐると姿を変え、シグルスの身体を飲み込んでいった――
彼もまた、暗い夢の中に突き落とされる。
白い、無機質な白塗りの階段を大勢の人間が降りていく。シグルスも彼らに混じって階段を降りていた。此処は何処だろうと辺りを見回すと、ふわりと風に靡く銀色の長髪が目に入った。
(カグヤ)
彼女だとすぐに分かり、名前を呼ぶ。
呼ばれた彼女は小首を傾げ、少し離れた場所からシグルスに向かって微笑んだ。
(何笑ってんだよ)
気恥ずかしくなり、不機嫌そうにむくれて文句を言う。言いながら、彼女の元へ歩んで行くが……一向にそこへは辿り着けない。
降りてくる大勢の人間を避けて、シグルスは階段を横に歩いていった。そんなに遠く離れている訳ではないのに、全く近付けないのだ。
戸惑っているシグルスへ、カグヤは遠い眼差しを向けて呟いた。
「同じ道は歩めないの。私は……魔女だから」
何か言い返そうとしたシグルスの身体を飲み込むように、沢山の人間が階段を降りてくる。人混みを掻き分けてカグヤの元へ行こうとするが、やがて重さに耐え切れなくなり、シグルスは人の波に流されていった。
(おい、カグヤ――!)
彼女の淋しそうな笑みだけが、その場に取り残された。
これまでどれほどの永い時をその姿で生き、そしてこれからどれほどの永い時をその姿で生き続けていくのだろう。
当たり前にも彼には分からない。永遠という途方も無い旅路が、如何なる重みを持つのかという事を。
ただの人間でしかない彼には、知る由もないのだ。
限りある命を繋ぎ、紡ぎ合い、全ての生き物は未来へ向けて永遠の輪廻を作り上げていく。捩曲げる事の叶わない絶対無二のサイクルを外れた時点で、彼女はもはや人間と呼べる存在ではない。
エルーカとは、真理を追い求める為の『器』でしかないのだと。
(カグヤはそんな、容れ物なんかじゃない)
誰かに問われた訳でもない理屈を、シグルスはずっと否定してきた。
(あいつは姉貴ぶってるけど、本当はドジだし、怒りっぽいし――)
けれどシグルスは知っている。彼女が時々見せる、あのアメジストの双眸が宿す何処となく遠く透き通った色を。
あまり会っていない母親や、司祭の座を交代した時の祖父も似たような眼をしていた。
彼の行く末を按じ、将来を托す眼だ。
自分とは違う時間を生きていくのだという、別れの意味も含めて。
(何だよ……そうやって、ガキ扱いしやがって)
彼女の笑顔が脳裏を掠める。
――どれだけ、考えてると思ってるんだよ。……カグヤの馬鹿野郎。
どうしようもないむず痒さを心中で吐露した所で彼女に伝わる訳がないし、距離を縮める事なんか出来やしないのだ。
分かってはいる。いるが。
その想いを口にするのは、彼には到底無理だった。
(いずれ俺は――俺だけじゃない。誰もが、あいつを置いて逝っちまうんだ)
半端な決意で想いを伝えても彼女を傷付けるだけだ。そんな事はしたくない。
例え永遠を共に出来なくとも、せめて彼女を護れるぐらいの力が欲しいと願い、青年は人知れず努力を重ねてきた。
お前を護っていきたい。俺の命が、此処に在る限り。
……気恥ずかしくて心の中で呟く事もままならなかったが、出来ればそう伝えられるぐらいには、強い男になりたかった。
――けれど本当は。シグルス自身も気付いている。
いずれ別れるだの、まだ彼女を護れる強さを持っていないだの、そんな言葉は本心を押し隠す建前に過ぎないのだと言う事を。
(………)
傷付けてしまうかどうかは伝えなければ分からない。護る強さは力だけが全てではない。
ただ彼には、想いを伝えるだけの強さが足りなかった。
男としての理屈に託つけて、答えをずっと先延ばしにしていた。
彼にとって最も近くに居たい彼女こそ、最も手の届かない遠い存在なのだった。
『ねぇ、シヴ?』
ひょいと唐突に現れたカグヤの顔に慌てて、シグルスは一歩後ずさる。
(……な、何だよ)
『好きなの?私の事が』
(な―――ッ)
カグヤは目を丸くして、きょとんとした表情で尋ねてくる。あまりに唐突過ぎてシグルスはしばし何も言えず、わなわなと拳を震わせて硬直していた。
カグヤは彼が何か言い出す前に、ふっと苦笑を零して意地の悪い事を言う。
『言える訳ないわよね。だってシヴは弱虫だもの』
(うるせぇ……!)
何かしら胸にざくりと刺さったものの、とりあえず動揺を抑えて否定する。
カグヤはからかいの目で彼を見つめた後――唐突に、先程見せたあの遠い眼差しを向けて言ったのだ。
『私達は同じ道は歩めないの。あなたはいずれ――私を殺しにやってくる』
刹那、カグヤの足元から赤い炎が上がり、彼女の身体をぐるぐると包み込んでいく。
(―――!)
息を飲むシグルスへ向けて、炎の揺らめきのような深く静かな声で囁いた。
『あなたに私を殺せるの?それとも――私を守る為に大勢を殺す?……弱虫のあなたに、選べるのかしら。反逆と、偽善と。私と、大勢と』
(………)
……いずれはやってくるだろう。選ばなければならない時が。いや――彼にとっての答えなら、始めから決まっている。
だがそれは、
(てめぇには教えてやらねーよ。偽者カグヤ)
『………あら』
カグヤの姿をした者は、首を傾げてくすりと笑みを見せる。
『変な事を言うのね。シヴは』
(てめぇはカグヤじゃない。カグヤはそんな風に、他人を天秤に掛けるような事を言ったりはしない)
シグルスは相手を睨みつけ、そっと周囲に目を配る。
これは幻だ――此処は負の気配で満たされているが、存在感が希薄だ。
……負の感情を呼び寄せ、幻覚を見せつけて更なる闇を引き出そうとしているのか。ならば、これがただの虚像だと言うのなら――在る筈だ。『実像』が。
幻が現れる前の最初の部屋の形を思い出しながら、シグルスは脇にそっと手を伸ばした。
何も無い場所を手探りで捜す。そして、
――有った。
彼の手に、目には見えない扉のノブが触れていた。
(悪いが――)
カグヤの姿をした幻へ、シグルスはにっと強い笑みを見せ付けると、聖書を前へ翳し、
(――先を急ぐんでね)
退魔の力を解き放った。
白い浄化の焔が現れ、瞬く間に悪夢の幻を焼き払っていく。
煙と共に消えていく幻を背に、彼は扉のノブを握り締め、開け放った。
*
打ち捨てられた人形の群れが彼の行く手を阻み、生臭い獣の臭いと甘ったるい焼香の匂いが彼の嗅覚を鈍らせる。
虚ろな眼差しを向けて転がる人形達を無視して、シグルスは先を急いだ。
「カグヤ!」
何個目の扉を開けた時だろう。ようやく人の気配を感じる部屋を見つけ、シグルスは足を止めた。
「……」
扉が開かれた事で部屋の空気が動かされ、室内の一角を覆っていた臙脂色の古びた布地が僅かに揺らめく。
シグルスは慎重に一歩を踏み出した。軽くこんこんと爪先で床をノックし、動き出さない事を確かめてから室内に入る。
「カグヤ。居るのか?」
居たら返事をしてくれ。不安を口走りそうになってシグルスは口を噤んだ。
部屋の一角を覆う臙脂色の布を掴み、ばさりと開いた。
そして。
「カグヤ」
部屋の間仕切りだったらしい布地の向こうに、彼女は佇んで居た。
「こんな所に居たのかよ」
安堵の笑みを浮かべ、シグルスが近付こうとしたその時、
「………?」
頬にぴりっと小さな痛みが走った。後から頬を流れ落ちるのは、細い赤の雫。
「……カグ」
カグヤの手がこちらに向けてすっと伸ばされている。その手には、彼女の武器である筈の鞭が握られていた。
ぱし、と鞭が床を叩く音が響く。
「――ッ!!」
状況を飲み込めず茫然とするシグルスなどお構い無しに、カグヤは走り出した。
「おい!カグヤ!?」
カグヤがシグルス目掛けて鞭を振るう。慌ててシグルスが回避する。
(何が起きてるんだよ――!!)
鞭が壁にばしりと当たり、派手な破砕音が響き渡った。
「聞いてるのかよ!カグヤ――ッ!」
シグルスの必死の呼び掛けもまるで聞こえていないかのように、カグヤの攻撃は止まない。放たれる巧みな鞭捌きを横に跳躍して転がり、シグルスはカグヤを見た。
「カグ……」
彼女は涙を零していた。
震える手で鞭を握り締め、力が抜けそうな膝を必死に奮い立たせている。
何故、そんなに悲しい顔をしているのだろう。
カグヤのきつく結ばれた唇が、音の無い言葉を紡いだ。
ヤメテ。来ナイデ。許シテ。
「………ッ」
「ほほほ……無駄で御座いますよ」
「!?」
何者かの薄気味悪い笑い声が聞こえ、シグルスは振り返った。
「彼女は悪夢に囚われているのですから……貴方など見えてはおりません」
部屋の奥に置かれた木製の椅子に、黒いベールの女が腰掛けていた。
シグルスは立ち上がり、女を睨みつける。
「てめぇ――カグヤに何をした?」
彼の怒りの篭った低い声に対し、女が紅い唇を三日月の形に歪めた。
「いいえ?何も……私はただ、種を撒いただけでございます。それを悪夢の檻へと昇華させたのは、貴女方」
「黙れ。あの幻覚を見せる煙を放ったのも、てめぇだろ」
「ええ……」
女は嬉しそうに頷いた。くつくつと肩を震わせ、泣いているのか笑っているのか分からない声で囁く。
「嗚呼……何ともお可哀想に…痛かったでしょう。苦しかったのでしょう。その苦しみは、全部私が優しく抱いて差し上げましょう……代わりに――貴方の命を、お渡しなさい」
いつの間にか女の周囲にゆらゆらと沢山の人形が現れ、シグルスを取り囲んだ。
人形達は腹の中から綿を撒き散らし、恐ろしい力でシグルスの足に纏わり付いてくる。彼の足にしがみついた一体が、手に持った錆びた釘をシグルスの足に突き刺した。
「放せ!」
痛みに顔を歪め、シグルスは人形を蹴り上げた。
一歩下がり聖書を構えようとした時――
ばしり、と音が響き渡り、シグルスの肩に激痛が走る。
「――ぐ……ッ」
イラスト/TERIOS(iyre6662)
悪夢に囚われたままのカグヤが、彼へと容赦なく鞭を振り下ろした。
(カグヤ――俺が分からないのか……!?)
シグルスは血が滲んだ肩を抑え、カグヤを見つめた。
心を操られていた方がマシだと思った。
何故彼女は、涙を流しながら獲物を振り翳すのか。
「……ぅうっ……めて、来ないで……」
その涙は恐怖と激痛に彩られていた。
彼女のこんな姿を、シグルスは見た事が無い。
「ほほほ……お可哀想に。彼女の苦しみは、それは深く重く苦いものでしたよ」
部屋の奥から女が囁く。黒いベールの向こうからシグルスを眺め、心底愉しそうに粘着質な笑みを零した。
「……おや……貴方は何もご存知無いのですか。彼女の苦しみを?彼女の痛みを?」
「―――」
シグルスはただ、女を強く睨み付ける。
「ええ、ええ……私はよぉく知っておりますよ。彼女の痛みも、貴方の想いも――彼女を好いていらっしゃるのでしょう……?」
「……黙れ」
「でもその想いは、叶う事の無い流れ星のよう……甘く、優しく、とても痛く苦しい」
「――黙れッ!!」
ごぉ、と轟音が響き渡った。シグルスが壁に拳を叩き付けたのだ。身体に群がって錆びた釘を突き刺してくる人形達の攻撃など、もはや彼の心を揺るがすには小さすぎた。
「おお、怖や怖や……私の坊やが起きてしまうわ…」
女は身体を身震いし、胸に抱いた赤子をゆっくりと揺らしてあやし始める。赤い産着に包まれた子供は泣き声一つ上げなかったが、女はよしよし、などと優しく囁く。
「みぃんなに眠りを上げましょうね……そして沢山の命を集めましょう……そうすれば、あなたはずっと幸せに眠っていられるわ。私の可愛い坊や……」
女は顔を上げ、シグルスに向けて笑みを浮かべた。
「さあ。貴方もお眠りなさい。そして命を。お渡しなさい」
刹那、部屋中にあの甘ったるい匂いのする煙が立ち込め、人形達が一斉にシグルスへと飛び掛かった。
カグヤがふらふらとシグルスへ近付く。そして、容赦なく鞭を打ち放った。
シグルスは体勢を低く横に跳躍する。鞭の先端が刃のように彼の腕を切り裂いたが、怯む事なく前を見据え、カグヤの懐へと踏み込んだ。
「―――ッ!!」
カグヤの表情が恐怖に歪むのが見えた。口元がやめて、と音の無い悲鳴を上げる。
シグルスが手を伸ばし、カグヤの腕を掴もうと指先が触れた瞬間、
(何だ、これは―――)
脳裏に映像が走り抜けていく。
血としか思えない赤い泉に膝を着いたカグヤ。
痛みに、恐怖に、悲しみに、彼女は泣き叫んでいた。
垣間見えた悪夢は一瞬で終わり、シグルスの眼前には同じ表情で涙を流すカグヤの顔があった。
「泣くなよ……俺は、お前を傷付けたりしないから――」
安心させるように彼女の瞳を真っ直ぐ見つめ――シグルスはカグヤへと体当たりした。
顎や四肢の関節へぶつけないよう注意を払い、肘と肩を使って胸部と鳩尾へ衝撃を与える。
カグヤが小さく息を飲む音が聞こえた。衝撃で吹っ飛んだ彼女の身体を抱え、シグルスは床へ足を着けた。
「………ぅ」
カグヤの眉が苦しみに歪み、ゆっくりと全身から力が抜けていく。シグルスはカグヤの肩を支え、静かにしゃがみ込んだ。
「……ほほほ」
女のねっとりとした笑い声が響き渡る。
「欲しいならば、手に入れてしまえば宜しいのに……勇気の無い、お可哀想な人……」
シグルスはカグヤを床へ横たえ、周囲に満ちる煙の中を立ち上がった。
開かれた唇が紡いだ言葉は。
「――同情なんかじゃ、ないさ」
彼女は一人、孤独の海を彷徨って行くのだろう。
これまでも。これからも。分かりたくても、分かれないかもしれない。
一生、届かないかもしれない。
それでも。
例えそうであっても。
シグルスの身体に人形達が纏わり付いてくる。気にも留めず、シグルスは黒い女を真っ直ぐに見据え、
聖なる教典を掲げ、
唇は言の葉を、たった4文字を紡ぎ、
「――るんだ」
だから。
刹那。眩しい光が彼を包み込んだ。
優しい光は部屋中の歪んだもの達に移り、全てを暖かく包んでいく。
「そうじゃないんだ。『可哀相』とは違うんだ……」
彼女の痛みを哀しく思う。だが今彼の中に在った感情は、同情とも渇望とも違う、もっと大きくて、もっと暖かいものだった。
神が彼を愛し、聖なる力を委ねる理由は、そこに在ったのかもしれない。
黒いベールの女は光から逃れようと立ち上がったが、浄化の光は瞬く間に女を包み込み、その身を白い焔で焼き尽くした。
「アアアアア………ッッ」
ベールの奥の皺だらけの顔が、最期の断末魔を上げた。
*
女が光の中に消え、その場にはもう何も残らない筈――だったのだが。
「お前は……負の産物じゃ無かったんだな」
シグルスは光の中に浮かぶ赤ん坊を見つめた。
邪悪な赤い産着は清らかな純白のものに変わり、コウノトリの柔らかな翼のように赤子を包んでいた。
『ゆるして ははおやは わるくはなかった』
「………」
『くるしみや いたみをわすれ しぬことなくねむっていてほしい ははおやの おもいと
こどもの ただやすらかに ねむりたいおもいが しんだこどもにやどり わたしをつくった』
ゆるして、と赤子は呟いた。
『ははおやの つよすぎるあいが わたしをつたい 「ふ」をまきちらした』
「そうか」
シグルスはそっと目を伏せ、頷いた。
「――泣かないで」
不意に聞こえてきたのはカグヤの囁き。はっとしてシグルスは振り返る。
「カグヤ……」
「あなたのお母さんの想いも、分からないかもしれない、けど……」
床に横たわったまま、カグヤは虚空へ両手を伸ばし、掠れる声で告げた。
「ずっと、抱き締めてあげる事は、出来るから……一緒においで……」
カグヤの細い腕が白い光を抱き締めた。永遠に分かち合えない愛情を、永遠に癒されない哀しみを埋めるかのように、ただただ強く、暖かく抱き締めた。
「もう、泣かなくて、いいから……」
涙が目尻を伝い、こめかみへと流れていく。泣かないでと囁きながら、彼女自身は涙を流した。
そして、全ては光の中に溶けていき。
*
ざっざっと枯れ葉を踏み拉く音が聞こえる。
あまり居心地の良くない揺れに目を覚まし、カグヤはゆっくりと顔を上げた。
「………はれ……?」
シグルスの背中に負ぶさり、森の中を進んでいた。
「起きたか。別にまだ寝ててもいいぜ。……イビキも凄かったけど、起きてた方がもっと煩いし」
意地の悪い横目でちらりと眺めてくる。言い返そうかと思ったのだが、身体がとてつもなく怠くてそれどころではなかったので、カグヤはとりあえず溜息を零して黙る事にした。
「ねえ、シヴ……私、何で此処に居るんだっけ……」
「……はい?」
シグルスは思わず立ち止まった。
「本当に……覚えてないのか?」
こくり、と肩に頭が乗せられた。
「ねえ、私……何か変な事、した……?」
怖ず怖ずと尋ねてくる彼女に対し、シグルスは深く頷いた。
「ああ、した。森の暴れ熊と闘って倒した揚句、森ん中で悍ましい形相で寝てた」
「……シヴ。頭大丈夫?」
「………」
下手くそ過ぎた。
そのまま黙りこくったシグルスに思わずきょとんとしたカグヤだったが、次の瞬間には含み笑いが零れ出した。
「笑うなよ……!」
「ご、ごめ。何だか可笑しくって……ぷくく」
「っく……だから――ッ」
喚き始める青年と、あははと笑う少し年上の女性の、いつも通りの様子がそこにはあった。
ただ、シグルスは思う。
彼女のあの痛ましい姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。血に塗れた彼女の過去は、決してシグルスには分かり得ないものだ。決して。
それを思うと、彼の胸は酷く苦しく、切なくなる。
見つけてしまった傷口だ。これからもきっと、この思いは事ある事に彼を蝕んでいくだろう。
だから出来れば――その想いを糧に、彼女を護る強さを磨いていこうと。
カグヤもまた、一人思う事があった。
シグルスの腕は傷を負っていた。手当ては済んでいただが、まだ痛みはあるだろう。
森で何か在ったのは事実だ。
彼女の中に宿る、新たな存在も含めて。
(何よ、カッコつけちゃって……)
やっぱり少し大きくなったなあ、と、その背中を何だか広く感じながら。
同時刻。
「……あれ…」
森の中で気を失っていた自分達に気が付いて、村人達は顔を見合わせた。
「何を…しようとしてたのか……?」
考えても思い出せず、結局揃って森を降り、村へと帰っていくのだった。
ただ、
<モリニマジョガイル>
<ホウムッテヤル>
彼らの口はあの時確かに、呪いの言葉を刻んでいた。
その言葉が彼らを汚染し、突き動かすまで、あと――、
二人が引き裂かれるまで、あと―――。
クリエイターコメント
大変お待たせしました………!!(血汗)
微妙な関係のお二人のちょっとした冒険、如何で御座いましたでしょうか。
悪夢メインと言う事で、気合を入れて心理描写を書かせて頂きました。お気に召して頂けたら幸いです。
二人のやり取り………何だか微笑ましいと言うか、ほのぼの致しました。
とても楽しく書かせて頂きました。この度のオファー、本当に有難う御座いました。
そして、大変遅くなってしまった事を深くお詫び申し上げます。
公開日時
2009-04-18(土) 13:20
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