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<ノベル>
強引に喩えるなら、レヴィアタンは魚、ベヘモットはムカデだった。
ならば今、銀幕市という箱庭を睥睨するマスティマは何に喩えられるべきなのだろう。虫一匹逃すまいと目を光らせるこの奇怪で冷酷な獄卒は。
だが、あれが人の心の集まりであるというのなら、そもそも形あるものになぞらえようとすること自体が無意味であるのかも知れない。
その日香玖耶・アリシエートが茂霧カトリック教会を訪れたのは、もしかすると予感めいたものがあったからなのかも知れなかった。
――選ばなければならない時が来ている。あまりにも残酷で無情な三択だ。しかし選択に関して彼に相談するつもりも、彼の選択を尋ねるつもりもなかった。
それならばなぜ香玖耶はこの教会に足を向けたのだろう。彼の顔が見たかった、彼の声が聞きたかった。理由を付けるのはたやすいが、それをさらりと告げられるような関係ではないし、香玖耶もまた「顔が見たかった」などと口にできるほど素直な性格ではなかった。
教会は静まり返っていた。元々騒々しい場所ではなかろうが、それにしても静かだった。無機質で、不吉なほどの静寂がそこにはあった。
そして、がらんとした礼拝堂には、実体化してからこの教会に身を寄せているシグルス・グラムナートの背中があった。
礼拝堂の壁一面を覆うステンドグラスはこの教会最大のセールスポイントであるという。刻々と位置を変える太陽の角度を計算し尽くして設計されたそれは、祭壇の前にひざまずく若き司祭の上に荘厳な色と光を惜しげもなく注いでいた。
だが、香玖耶は確かに見たのだ。幻想のような空間の中心にあるシグルスの背中に満ちた、言いようのない悲壮な光を。
凛と透き通ったそれはそれはクリスタルの如く硬質であるようにも見えた。あるいは、薄氷の如く脆いようにも見えた。
どちらであるのか分からない。だからこんなにも胸が苦しくなる。
だが、きっとどちらであっても同じように切なくなっただろうと、根拠もなくそんなことを考えた。
香玖耶は礼拝堂に入らずにすぐに扉の影に隠れてしまったから、ロザリオを握り込むように手を組み合わせたシグルスは彼女の来訪に気付かなかった。
ただ静かに、一心に祈り続ける。だが、若き司祭の敬虔な祈りは神ではなくただ一人の者へと向けられている。
シグルスの心はとうに定まっている。実体化する以前、遥か遠い昔に。それは今も、この先も決して変わることはない。
守りたいものはただひとつ。願うものはただひとつ。ゆえにシグルスは“現在の銀幕市”の姿を留めることを望む。
今のこの場所でならカグヤはのびやかに生きられる。魔女と弾劾されることも、森の奥にひっそりと隠れ住むこともなく。
この街で再会した香玖耶はカグヤであった頃のままだった。あの頃と同じようにころころと表情と変え、そそっかしい性格もそのままで、時たま危なっかしい真似もする。だがカグヤと今の香玖耶には決定的な違いがあった。人を愛する彼女は人々と一緒に笑っていた。銀色の髪を隠すこともなく風になびかせ、笑い、怒り、時に泣く。多くを受け入れ、多くに受け入れられて、たくさんの人々の輪の中で生きている。いかなる存在をも受容するこの街で、誰の目を気にするでもなく、カグヤはカグヤのまま息をしている。
ずっとそれを望んできた。カグヤが一人の人間として、カグヤらしく生きることだけを願ってきた。
(……だが)
組み合わせた両手が、手の中のロザリオが、閉じた瞼が、かすかに、しかし確かに震える。
今の銀幕市のありようを留めるためには、病院で眠り続ける少女の胸をヒュプノスの剣で貫かねばならない。
犠牲になれと、何も知らぬ少女に無慈悲に宣告するのか。拒絶するいとまも逃げる権利も与えず、問答無用で彼女の胸に剣を突き立てるのか。
(それでも――俺は)
カグヤを……幸せそうに笑うカグヤを、守りたい。
悲しいまでに壮麗な光の中でシグルスの祈りが続いている。香玖耶はもはや彼の背中を見つめることをしなかった。ただ礼拝堂の扉にもたれ、静かに、抱くようにロザリオを握っていた。
シグルスがどの道を選ぶのか香玖耶は知らない。シグルスもまた香玖耶の選択を知らない筈だ。
質すことはしない。自らの選択を明かすつもりもない。自分の思いを相手に押しつけたくはなかった。だが、もし互いの選択が違っていたとしても、そこにこめられた気持ちは理解したいとは思っている。
扉にもたれたままほんの少し首を動かすと、神の前にひざまずく司祭の姿が視界の隅に映り込む。
(神……か)
皮肉なものだ。自分には最も縁遠いものといってもいいだろう。神に類するものを目にすれば、今でも口の中がほんの少し苦くなる。
その“神”に対してシグルスはこうべを垂れている。
だが、シグルスが真に祈りを捧げる相手が誰であるのか、恐らく香玖耶は知らないだろう。
粛々と、静々と祈りは続く。太陽は緩慢に天球を這い、司祭を染める七色の光は徐々に斜めになっていく。
刻々と迫るリミットの中でシグルスは動かない。目を開けることもない。閉じた瞼の裏に思い描いたカグヤへと、ただひたすらに祈りを捧げる。
どんな人生を歩んだとしても悲嘆はある。苦悩や絶望だってあるだろう。どんな世界でも同じことだ。幸いだけが満ちた都合の良い世界などどこにもありはしない。
だが、今の銀幕市でならカグヤは楽に息ができる。ありのままの姿で人を愛し、人に愛され、人とともに生きていける。
歪んでいようとも。理から外れた姿であろうとも。この街を今のまま、このままの姿で留めたい。だから――何よりも守りたいものを守るために、それ以外のすべてを犠牲にする。
それはまぎれもなく利己だ。もしかすると自己満足でさえあるのかも知れない。
それでも譲れない。幼き日に誓い、この先も決して変わらぬ思いはカグヤにさえも変えられぬ。
――不意に自嘲が込み上げそうになって、知らず唇を引き結んだ。
(結局、俺は何も変わっていない)
カグヤを庇って逝った時と同じように。庇われたカグヤがどれほどの傷を負うかなど考えもせずに盾になった時と同じように。
カグヤに生きてほしい、カグヤが何と言おうと、カグヤに幸せに生きてほしい。ただその思いだけがシグルスを衝き動かす。あの時も、今も、この先も。
カグヤのためと賢しらに言い立てるつもりはない。カグヤに生きてもらうことはシグルス自身の望みに他ならぬ。だから自分の望みのためにヒュプノスの剣を選択する。
カグヤはそれを望まぬだろう。何も知らぬ少女の胸を刺し貫いてこの世界に留まりたいなどとは思わぬだろう。
(だからこれは……俺の我儘なんだ)
いずれ消える運命にあるという覚悟は既に固めていた。夢が覚めないなどという選択肢があるなどとは思いもよらなかった。自分が消えることは怖くはない。ただ、カグヤが幸せに生きられるこの世界を留められる可能性があるというのなら、何もせずにそれを諦めることだけはしたくなかった。
カグヤが実体化していなければ違う帰結を見ていたかも知れない。
身勝手と詰られてもいい。罵りも謗りも罰もいくらでも受けよう。
だから――カグヤが笑っていられる“今”を、どうかこのままで。
礼拝堂の重厚な扉に背を預けて香玖耶は静かに瞑目している。扉の向こうではシグルスが今も祈りを続けている筈だ。
もう少ししたら帰ろうと思う。だけど、今はもう少しだけ。
――何してんのよ、深刻な顔しちゃって。
祈りが済む頃を見計らって彼の背中を叩くことができればどんなに良いだろう。フランクな会話を楽しめそうにないのは、上空で睨みを利かせる絶望の怪物のせいばかりではないような気がした。
強大で圧倒的な力に呆気なく駆逐される者の姿ならいくらでも見てきた。どうしようもない絶望というものの存在を何度も目の当たりにしてきた。
香玖耶の心は既に定まっている。それでもシグルスに明かすつもりはないし、自分の選択を変えるつもりもなかった。
どんな結末を迎えたとしても最後まで共に在るだけだと、とっくにそう決めているのだから。
いつしか太陽は西の端に近付き、ステンドグラスから差し込む光は真っ赤に変わっていた。
燃えるような夕焼けに染め上げられた司祭は祭壇の前から静かに立ち去る。
カグヤには何も言うまい。カグヤに自分の選択を押しつけたくはない。それに、ヒュプノスの剣を選んだ理由を聞いた時にカグヤがどんな顔をするのか、できることなら考えたくなかった。
それでもカグヤがカグヤとして生きられる日常を選びたい。そして叶うなら、その傍らに添って共に生きていたい。
長き祈りを終えて礼拝堂を出たシグルスはふと足を止めた。
よく磨かれた床の上、黄昏を浴びて鈍く光る銀の糸。忘れられたようにさりげなく、しかし確かに残されたそれは彼女の髪の毛に似て。
「……カグヤ?」
いらえはない。
赤い夕焼けの中、シグルスは軽く右目を眇めた。
天空に君臨する絶望の王は未だ沈黙を保っている。彼の者を形作る数多の顔が叫んでいるのは憎悪にも殺意にも、断末魔や怨嗟のようにも見えた。
それでも今はこんなにも静かだ。この静けさの後に一体どんな嵐が訪れるのか、未だ誰も知りはしない。
残酷な猶予にじりじりと心身を焦がされ、ある者は煩悶し、ある者は覚悟を定め、ある者は滂沱し……それぞれに審判の刻を待つ。
(了)
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クリエイターコメント | ※このノベルは、『オファー時点での』PC様の思いを描写したものです。
ご指名ありがとうございました、宮本ぽちでございます。 【選択の時】をテーマにした企画プラノベをお届けいたします。
devotion は「献身」「祈り」の意味で選びました。 オファー文には利己とありましたが、シグルス様とのご職業とも絡めて、あえてこちらで。 そもそも献身には利己的な側面(相手のためでもあるけれど、自分がそうしたいから相手に自分を捧げる)もあるのではないかと感じます。
香玖耶様の選択は描写不要とのことでしたが…香玖耶様の心情が全くないのならゲスト指定していただいた意味がないように感じましたので、当たり障りのない範囲で盛り込んでみました。 尚、「カグヤ」と「香玖耶」は一定の法則の元に使い分けております。ミスではありませんのでご安心を。 |
公開日時 | 2009-05-04(月) 19:00 |
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