●木漏れ日の小径を抜けて
その日は快晴だった。
春の陽差しは、そよぐ風とともに心地良く降りそそぐ。
香玖耶を訪ねる道程にいたシグルスは、額に手をかざして足を止めた。
陽光に瞳を眇めて、眼前にそびえるマンションを見あげる。
目的の場所まではもう少し。
髪を撫でる風を感じながら、再び歩きはじめる。
香玖耶の元を訪れるたび、シグルスの脳裏にはかつて暮らした森の情景が浮かびあがる。
何度も、何度も、跳ねるように駆けぬけた道。
銀幕市で実体化した今となっては、記憶の中以外どこにも存在しない情景。
けれどマンションへの道を辿るとき、灰のアスファルトは森の小道に変わり、彼の目には柔らかな木漏れ日が降り注ぐ。
木組みの小屋であろうと、コンクリートの住居であろうと、彼にとっては香玖耶がそこにいるという事実だけが重要であり、絶対だった。
マンションに不満があるとすれば、窓越しに彼女へ呼びかけることができないことだろうか。
ようやく香玖耶の住む部屋の前までたどりつき、呼び鈴を鳴らす。
間を置かず開かれた扉からのぞく顔に、思わず表情がほころぶ。
「いらっしゃい。シヴ」
微笑みを浮かべて迎える香玖耶は、かつての森で出会っていた姿と寸分違わない。
「お弁当も作って準備万端だし。さ、行きましょ」
香玖耶は手にしたバッグを掲げ見せると、自室の扉に鍵を掛け、先に立ってシグルスを手招いた。
そう、この日は銀幕市内の自然公園まで、二人で足を伸ばす予定になっていたのだ。
●緑に在るは
めざす自然公園は、広い敷地に草花や木々が植えられた緑に満ちた場所だった。
想い出の森にはとうてい及ばないが、それでも他の場所より自然に囲まれていることに違いはない。
二人はこの日一日、公園でまったりと過ごす予定だった、のだが。
「……なんで迷子のガキが一緒なんだ……」
ぼやくシグルスの傍には、ひとりの少年の姿があった。
自称十歳のその少年は、青年の言葉に仁王立ちで控えている。
「おれは、迷子なんかじゃ、ないっ!」
豪語する少年は、香玖耶とも、シグルスとも、まったく面識のない子どもだった。
園内を彷徨っていた少年に気付き、香玖耶が迷子と見かねて声をかけたのだ。
ふとしたきっかけで親と離れ、それがもとではぐれてしまったらしい。
公園までは家族で訪れたらしいので、保護者が園内にいるのは間違いないはずだ。
親の方でも、今ごろ子どもを探していることだろう。
しかし、大人の足でも広大と思える公園のこと。
その場で別れ、幼い子をひとり歩きさせるのはいささか不安が残る。
市営の自然公園とはいえ、案内所などのサービスセンターがあるわけではない。
香玖耶は少年に親探しをすると申し出、こうして三人で歩くに至っている。
シグルスはというと、せっかくの香玖耶との時間に水を差される形になり、先ほどから憮然とした様子だ。
「馬鹿言え。半泣きで歩いていたガキの、どこが迷子じゃないってんだ」
「おれが迷子なんじゃない! 父さんと母さんが迷子なんだ!」
「どこからどう見ても、おまえが迷子だろう」
「ちがう! おれが、いなくなった父さんや母さんを探してるんだ!」
明らかに屁理屈だったが、少年はどうあってもシグルスに負けたくないらしい。
最初に顔を合わせた時から馬の合わない二人だった。
特に少年は家族探しの申し出をきっかけに香玖耶に一目惚れしており、シグルスを宿敵扱いしているフシがある。
「大人げないわよ、シヴ。ちゃんと親御さんを探してあげて」
「そうだ。もっとしっかり探せ、シグルス!」
援護に入った香玖耶に喜び、少年がやんやと声を合わせる。
「ちゃんと探してる……って、おまえに言われる筋合いはねぇぞ!」
途中から声を張りあげたシグルスに、少年がきゃーっと叫んで駆けていく。
追いかけて戯れに取っ組み合いをはじめれば、少年とシグルスは年の離れた兄弟のようにも見えた。
香玖耶は二人の様子を眺めながら、かつての森での日々を思い返し、ひとり柔らかな笑みを浮かべる。
「まったく。これじゃあ子どもを二人連れているみたいよ」
ひとしきり騒いだ後、芝生に倒れ込む二人の元へ歩み寄って言うと、
「「子どもじゃないっ!」」
少年とシグルスは、上半身を起こして声を揃えた。
一瞬後に顔を見合わせ、
「真似するな!」
「そっちこそ! まねすんな!」
あまりにも息のあった返答に、香玖耶はお腹を抱えて笑い、しばらくうずくまったまま動けなかったほどだ。
他愛ないやりとりを繰り返して午前を過ごしたものの、正午を回っても少年の両親は見つからなかった。
「こうなったら、長期戦の構えよ」
香玖耶の声に、少年とシグルスも頷く。
午後の公園でのんびりと過ごす姿は意外に多く、中にはビニールシートを広げてくつろぐひとの姿もある。
彼らにならってまずは腹ごしらえと、三人は木陰の下を陣取り、香玖耶の作ったサンドイッチを分けあって食べた。
自然の中で食べる食事ほど美味しいものはない。
そこそこ多めに用意されたサンドイッチはあっという間になくなり、三人はしばし、木陰に吹き寄せる風を満喫した。
食休みを挟んで、ふたたび少年の家族探しに戻る。
しだいに気温の上がりはじめる三月ともなれば、園内にはそこかしこに花の姿が見られた。
雑草――もとい野草といえど、この時期に開く花は多い。
少年の手を引いてあてどなく歩けば、視界には鮮やかな彩りが次々と目に飛びこんでくる。
腹ごしらえをして満足した少年は、気になった草花をめざしては、次々と駆けていく。
「おい。あんまり勝手に走っていくなよ!」
シグルスが見かねて呼びかけると、傍を歩いていた香玖耶がおかしそうに笑う。
「森に居たころは、シヴもあんなだったわよ」
「なっ……! 俺はあんなクソ生意気じゃねえぞ!」
否定する態度が、まさに少年のそれに似ていて、香玖耶はふたたび声をあげて笑った。
また自分と少年の姿を重ねているのだろうということは、香玖耶の様子を見れば簡単にうかがい知れる。
指摘するのも忌々しいとばかりに、シグルスは視線を逸らして少年の姿を追いかけた。
「シグルス! これは? この花はなんて言うの?」
問いかける少年の視線の先には、白や薄紅の花弁に鮮明な黄が美しい小花が咲いている。
シグルスも見かけたことはあるが、名前まではわからない。
無言で首を振ると、香玖耶が助け船を出した。
「それはハルジオンね」
「菊じゃないの?」
「菊の花はもっと大きいの。でも、そうね。分類としてはキク科だから、親戚みたいなものかしら」
「じゃあ、あっちにいっぱい咲いてるのは?」
指し示す花は、白いぼんぼりを思わせる背の低い花だ。
周囲を注意深く見渡せば、あちらこちらに群生している。
「あれはシロツメクサ。三つ葉のクローバーとか、四つ葉のクローバーって、見たことないかしら? 女の子なら、あの花で花冠を作ったりもするのよ」
長い時を生き続けてきた故か、精霊の力添えあってのことか。
香玖耶はどの問いかけにも、ひとつひとつ丁寧に返し、解説していく。
「じゃあ」
と、次の花を探そうと視線を巡らせたところで、少年の動きが止まる。
次の花の名を告げる前に、少年は一目散に走りだした。
「父さん! 母さん!」
声に驚いた香玖耶とシグルスが顔を上げると、そこには少年に駆け寄る両親と思しき人物の姿があった。
再会を喜び合う姿に、どちらともなく安堵する。
「良かった。このまま見つからなかったら、市役所を頼ろうかと思っていたもの」
肩の荷が下りた様子の香玖耶に、シグルスも頷く。
「あんなに喜んで。やっぱり、あいつはガキだな」
態度こそ気に入らなかったとはいえ、一緒に過ごした半日の間、少年が始終不安げな様子を隠せずにいたことには、シグルスも気付いていた。
両親に背中を押され、少年が転げるように二人の元へ戻ってくる。
どうやらきちんと礼を言ってこいと言われたらしい。
「かぐや! かぐや! ちょっとしゃがんで」
「……? いいわよ」
何の気なしに膝を折ると、少年が顔を寄せ、香玖耶の頬につんと唇を押しつけた。
「……なっ!」
あっけにとられるシグルスをよそに、少年は仁王立ち姿で高らかに宣言する。
「今よりもっとカッコよくなって、十年後にかぐやを迎えにくるからな!」
それは香玖耶へというよりも、シグルスにあてたようでもあり。
香玖耶は少年を強く抱きしめ、「ありがとう」とささやいた。
「さあ。お父さんとお母さんが待ってるわよ」
そっと背中を押しやり、笑顔で送り出す。
少年はうんと頷き、今日一番の笑顔を浮かべ、駆けていく。
「かぐやー! シグルス! またなー!」
少年は犬のしっぽを思わせる激しさで、いつまでも手を振り続けた。
その両側に立つ二親が、丁寧に頭を下げる。
香玖耶とシグルスも会釈を返し、軽く礼をする。
少年はひとしきり手を振り続けると、両親に手を取られ、公園から去っていった。
●胸に秘めたる、唯一の
「なんだか懐かしいわ。シヴもほんのちょっと前までは、あんなに小さかったのに」
迷子の少年が去った後も、香玖耶は昔を懐かしんで笑うばかりだった。
少年の姿を通してネタにされるとあっては、シグルスとしても面白くない。
たとえその年月が香玖耶には一瞬であったのだとしても、彼にとっては、何ものにも代えがたい記憶を伴った十年間だったのだ。
十年の間に彼が成長を遂げたように、彼が抱き続けた想いもまた、確実に変化している。
積み重ねた月日の間に、どれだけの想いを秘めてきたのか。
それを伝えるだけの言葉が見つからない。
今も、昔も、そしてこれからも。
どれだけの言葉を尽くしても、きっと、彼女への想いの全てを、伝えきることはできないだろう。
内に抱える感情は、それほど軽く、単純なものではない。
「お前の中で、俺はまだあの頃のガキのままか?」
ふいに硬さの混じった青年の声に、香玖耶は思わず足を止めた。
笑みを解いて視線を上げれば、シグルスの顔が間近にあった。
青年の背後で沈みゆく陽の光が、香玖耶の顔に影を落とす。
視線が、シグルスのそれと絡み合う。
壊れものを扱うように、かすめるように。
シグルスはそっと、香玖耶の頬に口づけを落とした。
触れあったのはほんの一瞬。
想いを確かめあうには、十分すぎる一時。
永遠にも感じられる沈黙の瞬間、お互いがその温もりを感じるより早く、青年は香玖耶から身を離す。
「早く来ないとおいてくぞ」
すぐに背を向け、いつもの調子で投げかけると、先へ先へと歩いて行く。
香玖耶はというと、一時的な混乱状態にあった。
見上げなければならないほどに成長したシグルス。
髪も、目も、唇も。
かつての面差しを残しながら、あどけなさはもうどこにも見られない。
子どもだなどと、思っているはずがない。
誰よりも大切なたった一人の男性なのだと、そう伝えたかった。
ロザリオの想いに触れたあの時から、香玖耶にとってシグルスはかけがえのない存在なのだ。
「ガキに先越されて……ムキになってる場合じゃないだろ」
シグルスはひとりごち、熱を持った耳を気にしながら、早足に先を急ぐ。
香玖耶はシグルスのつぶやきには気付かずに、青年の背中を見送っていた。
いますぐにでも、その想いに触れたい。
けれど素直に想いを寄せるには、彼女はあらゆるものを手に掛けすぎた。
踏み越えてきたものをさしおいて、己だけが幸せになることは赦されるのか。
例え青年が赦したとしても、それに甘んじる資格が、果たして自分にあるのだろうか。
たとえ想いの全てを伝えることができなくとも、並び歩く距離だけは、少しでも傍にありたい――。
祈るように、胸元のロザリオを握りしめる。
香玖耶はあふれ出しそうになる想いを秘めたまま、シグルスの背中を小走りに追いかけた。
了