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<ノベル>
【1】
時報が深夜0時を告げた。
高いビルの屋上から見下ろす景色。陽が落ちて久しくも銀幕市の目抜き通りは昼間以上の賑わいに満ちている。星屑を散らしたみたいな都会のイルミネーション、行き交う車のヘッドライトは流れ星。ならば遠くに見える高速道路はさながらミルキーウェイといったところか。
それからふと顔をあげてカグヤは目を細めた。夜の風が懐かしい香りを運んでくる。それは嗅覚が感じ取るそれではない。彼女にしか聞こえない声。彼女にしか感じ取る事の出来ない匂い。
「見つけた」
呟いたカグヤにシグルスはわずかに首を傾げた。カグヤにしか感じ取れない何かがあるように、シグルスが感じているもの。頭の奥でチカチカと点滅するアンバーライト。視線が落ち着かなげに宙をさ迷う。やがてカグヤのそれとぶつかって、シグルスは何故だか面食らっていた。
「行くわよ」
促すカグヤに否の言葉も出なくて、ただ彼女の背を見つめながらシグルスは内心で繰り返す。
彼女が誰かのために危険に身を投じるというのであれば、自分はただ、彼女を守るために身を投じるだけだ。たとえそれが、彼女の意にそぐわなかったとしても。
その依頼が彼女の営むトラブルバスターに持ち込まれたのは、その日の夕方の事だった。
「失踪?」
依頼を持ってきたのは興信所の者たち。最初は何でもない家出娘の失踪ぐらいに考えていたのだという。だが、その後相次ぐ失踪。それらの事件を調べていく内に、奇妙な共通点が見えてきた。
都市伝説が好きな女子高生らが噂する。
「幻影都市?」
出現場所は不特定。ただ、深夜0時頃、ふらりと現れいつの間にか消えてゆく謎の街。それはまるで新宿歌舞伎町のそれだという。―――新宿。人の思いが渦巻き、時に魔性と変わる場所。
無人のハザードが出現したのは記憶に新しい、また歌舞伎町か。
カグヤは二つ返事で引き受けた。
幻影都市の捜査、及び、失踪した人物の捜索或いは救出。
たまたまカグヤの事務所に訪れていたシグルスがそれに同行した。
》》》
カグヤに先導されるようにシグルスも夜の街を歩く。
シグルスでもそれが変わったのは何となくわかった。銀幕市に溢れる活気とはまた異質なそれが辺りに横たわっているのだ。ピンクの歓楽街。1時間いくらと書かれた看板を持つ呼び込みの男どもの風貌。嬌声にも似た女たちの甘い誘いの声。
泥酔していると思しきサラリーマン風の男が千鳥足で横切るのをなんだか物珍しげに見送っていると、真っ赤な派手目のドレスのような服に身を包んだ、厚化粧の女が彼の肩を叩いた。
「ねぇねぇ、お兄さん。遊んでいかない?」
鼻に抜けるような甘ったるい声に困惑する。伸ばされる指先のネイルアートに思わず後退って、シグルスは頭を下げながら逃げるように離れた。
そんなシグルスに気づいているのかいないのか、さっさと前を行くカグヤを慌てて追いかける。
以前、ハザードで訪れた歌舞伎町の街は無人だったが、この街には人がいる。この幻影都市の住人なのか、それともこの街に迷い込んだ銀幕市民なのかは彼には今一つ判然としなかったが、不思議な気分だった。
これがカグヤが暮らす街。
その独特の雰囲気にただただ気圧されるばかりのシグルスに対し、カグヤはといえば懐かしい光景に目を輝かせていた。
「ここ……」
そう呟いてカグヤは細い裏通りを覗く。
「やっぱり!」
彼女の声が弾んだ。間違いなく歌舞伎町―――ここは『繋ぎゆくもの』の映画の舞台。
「ここのピザが最高に美味しいのよ」
「そうなんだ」
「うん。それでね……」
路地を曲がって奥へと進む。カグヤの軽い足取りにシヴまで何だか足取りが軽くなるような気がした。
本当なら決して一緒に歩く事の出来ない街。不謹慎だとわかっていても互いになかなかそれを止め難くて。
「この先にね、こんなに夜遅くでもやってるケーキ屋さんがあるの」
カグヤが言った。
食べている暇などない。互いに、わかっている。
「なんかさっきから、食べ物ばっかりだな」
シグルスが呆れたように言った。その視線を揶揄交じりに彼女のウェストの辺りへ巡らせると、それに気づいてカグヤがわずかに頬を膨らませた。
「ちゃんと運動してるわよ」
「何も言ってないだろ」
「……ケーキ屋は情報屋も兼ねてるのよ」
などと拗ねて前を歩くカグヤの後について行く。
軽く浮き立つカグヤを見て、そんな場合ではないと知りつつも、自然に緩む頬にシグルスはそっと口元を手で押さえた。言葉には出さなかったが、そんなカグヤが可愛く見える。
ショーウィンドウに映る彼女の楽しそうにはしゃいだ顔。こんな風にトラブルバスター業を颯爽とこなす彼女を見ているのは、なんだか不思議な気分で、それでも生き生きとした彼女の姿を見ているのは、シグルスにとって微笑ましくも嬉しいことだった。
シグルスが知っているカグヤは“森に隠れ住む魔女”でしかなかったのだ。
森の中でひっそり暮らしている時には一度も見たことのない、シグルスの知らないカグヤの笑顔。
ふと、心の片隅に何かが渦を巻いた。シグルスは無意識に胸元で拳を握っていた。
それが何であるのかを判じる間もなく、思考を遮る声。
「ようよう、姉ちゃん。可愛いねぇ」
そんな下卑た声にシグルスはハッと顔をあげた。
男が3人、カグヤの周囲を取り囲んでいる。赤い帽子を被ったロンゲの男。巌みたいなごつごつした髭面の男。小柄で小ざかしそうなニット帽の男。
「俺たちといい事しない?」
絡んでくる3人の男どもに、しかしカグヤは臆した風もない。
「いい事?」
まるで慣れた口調でカグヤが応えた。
「そ、楽しい事だよ」
髭の男がにへらと下品な笑みを向けてカグヤの肩を掴む。その瞬間、シグルスは全身の血が頭に昇るのを感じて、気づいたら考えるよりも早く男の手首を掴んでいた。
「カグヤからその汚い手を離せ」
自分より背の高い男を睨みあげる。だが男は数を頼みにしているのか、まったく動じた風もなく薄ら笑いなど浮かべてシグルスを見下ろしていた。
「可愛いボウヤが、何の用かなぁ?」
シグルスの眉尻があがる。
「こっちも別嬪じゃねーか」
「お。ボウヤも一緒にいい事するか?」
「……黙れ」
シグルスは凄みのある重低音と共に男の胸倉を掴んだが、男は殴れるものなら殴ってみろとばかりに顎を突き出して見せる。
可愛いボウヤと侮っているのだろう。やめなさいよと諌めるカグヤの声も耳に入らない態でシグルスはこぶしを振り上げたかと思うとそのまま男の左頬に叩き込んでいた。
他の男どもがいきり立つ。
「このガキ!!」
「いい加減にしなさい!!」
男どもと喧嘩になりかけるシグルスの腕を掴んで、カグヤが引っ張った。
「なっ……!?」
「ほら、行くわよ!!」
促すカグヤ。
「待ちやがれ!!」
男どもが追いかける。
「なんで!」
カグヤに手を引かれるまま走り出したシグルスが納得いかなげに声をあげた。
「あんなのに構っててもしょうがないでしょ!」
カグヤにぴしゃりと言われてシグルスは口を噤む。
「待てこら! 許さねぇぞ」
追いかけてくる男ども。とはいえ、土地勘のあるカグヤに対して、男たちは銀幕市出身だったのか。手分けしてみたが迷路のような初めての街にあっさり2人を見失ってしまった。
「くそっ……どこ、行きやがった!? あのガキ、舐めた真似しやがって」
仲間の2人ともはぐれて髭の男が口惜しそうに地団太を踏む。
そこへ1人の女が声をかけた。その綺麗な顔立ちよりも乳白色の強膜に純白の瞳と粉雪のように真っ白な長い髪が印象的な女だった。
「あなたは私のマスターですか?」
一方、シグルスとカグヤ。
カグヤの手に引かれるままシグルスは路地裏を駆け抜ける。さすがに知った街。カグヤは3度も通りを曲がっただけで、男どもをあっさり撒いて見せた。
「はぁ…はぁ…もう、トラブルバスターがトラブル起こしてどうするのよ!」
息を切らせながらカグヤが叱咤する。せっかく何か情報が聞きだせると思っていたのだ。
しかしシグルスは叱られて不機嫌そうにそっぽを向いた。
「……俺は、可愛いボウヤか?」
「そうね。まったく。あんなのは軽く受け流しておけばいいのよ」
カグヤが言う。
慣れた口調。慣れた素振り。慣れた対応。ここは、彼女の街。この街には自分の知らない彼女がいる。
シヴはまた、無意識に胸元で拳を握っていた。心の片隅に渦巻くものの正体。それは嫉妬にも似て。
「……この街、不愉快だ」
口に出してから、しまった、と思った。
見る見るカグヤの顔から表情が消えていく。
「……だったらシヴは帰ったら? 元々私のところにきた依頼なんだし」
「なっ!?」
カグヤはさっさとシグルスに背を向けると、後ろ手に手を振ってみせた。
「じゃぁ、ね」
「あ、おい!!」
1人で行ってしまうカグヤに、土地勘のないシグルスが追いつけるわけもなく。あっさり迷子になったシグルスは、自分の不用意な一言に軽い自己嫌悪に陥った。
何をやってるんだろう、と思う。
そんな時、1人の女が声をかけてきた。
「あなたは私のマスターですか?」
【2】
ハザードの出現時間は約1時間前後。という事は、少なくともこのハザードはヴィランズの仕業ではないという事だ。事実、それらしい気配もなかった。
だが、結局これといった有力な手がかりも得られないまま、過ぎ去った幻影都市にため息を1つ吐き出してカグヤは事務所兼住居であるマンションに1人帰った。
次にハザードが発生するのは深夜0時。
シグルスの姿は見当たらない。あのまま教会に帰ったのだろう。まだへそを曲げているのか。昔から子ども扱いするとすぐに拗ねるところは変わっていない。
だけど。
不愉快な街と言われて、なんだか自分も不愉快と言われたような気がして、気づいたら剥きになってしまっていた気もする。
「あー、もう! やめやめ! 考えるのは終わり」
カグヤは自分の中のもやもやに、けりを付けるように言うと、ドレッサーの鏡に映る自分に力いっぱいしかめっ面をしてみせた。
「バカ!!」
と、声に出してみると気が晴れたような気がして、ぱふん、とベッドにうつ伏せる。
何百年、何千年生きようと他人の心などわかりようもなくて、自分の心は計り知れなかった。
翌日、カグヤは煩いほど鳴り響くインターフォンに目を覚ました。早朝から何の来客かと覚めきらない頭で受話器を取る。
『何でも屋、ってのはあんたか!』
という声に、どうやら依頼とわかってカグヤはマンションの玄関の開錠ボタンを押した。
依頼人がこの部屋に上がってくる間に目を覚まし身支度を整える。
顔を洗って気持ちを前向きに、黒いジャケットにミニスカートはサイバーパンク。いつも通りの装い。
ドアフォンが鳴った。
カグヤは営業用スマイルで客を出迎える。
「はぁい……」
そうして暫しカグヤはドアを開けたままの体勢で固まった。相手の方も固まっていた。
「あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
》》》
依頼人は昨夜カグヤとシグルスに絡んできた男たちだった。
「あ…あの……トラブルというのは……」
応接室に男たちを通してカグヤは視線をそらせながら恐る恐る尋ねた。
昨日、トラブルバスターがトラブル起こしてどうするのよ、なんてシグルスに言った自分の言葉が脳裏に蘇る。
「あんたなら、話が早い」
男が言った。昨夜、赤い帽子を被っていたロンゲの男だ。
カグヤはそらきたと思った。彼らを殴った人物の居所は絶対教えられないと身構える。
もう1人のニット帽の男が言った。
「新庄を探して欲しい」
「だからシヴは……へ? 新庄? 誰それ?」
てっきり、彼らの内の1人を殴ったシグルスに報復をとか考えているのに違いないと思っていたカグヤは拍子抜けした気分で尋ねた。
「あのガキに殴られた奴」
言われてカグヤは男どもをマジマジと見た。確かにあの時、彼らは3人組だった。今は2人しかいない。殴られた男は打ち所が悪くて―――とか、そういうオチではなかったのか。
「あの後、お前ら追いかけてる途中でいなくなったんだよ」
「え?」
「しばらくして、あの変な街も消えただろ? で、その後も一晩中探したんだけどさ、見つからなくて」
ロンゲの男が話す。
シグルスには判然としなかったが、カグヤには何となく醸し出される雰囲気で歌舞伎町の住人と銀幕市民の区別はついていた。あの時も、彼らは確かに後者だと感じていた。
「あいつが行くとこなんてあるわけないのに、どこにもいねぇんだよ。絶対、あの街に連れて行かれたんだ」
小柄の男が言う。
「…………」
人が消える。その前に必ず現れるという幻影都市。幻影都市が人を攫っていく。カグヤはその事実を反芻した。
「な、頼むよ。昨日の事は謝る。だから」
男たちが身を乗り出す。
カグヤはゆっくり深呼吸して応えた。
「……あなたたちの依頼は受けられないわ」
「なんで?!」
「あの街での行方不明者の捜索は既に依頼を受けているから。昨夜もそのためにあの街に行ったの」
「…………」
カグヤは無意識に首からさげたロザリオを握り締めていた。胸騒ぎ。何故だか嫌な予感がする。
あの街で忽然と姿を消す人々。あの時も、すぐ近くで人が消えていた。
「帰って」
「なっ……」
半ば男どもを追い出すようにしてカグヤは2人を外へ追いやると、自らもマンションを出た。向かう先はベイエリア郊外。シグルスが身を寄せている茂霧カトリック教会だ。
そこにいた神父を捕まえシグルスの事を尋ねる。返ってきた答えは、半ばそうでないと祈りながらも予想していたもの―――彼は昨日から帰っていない。
カグヤは血の気が引くのを感じた。指先が冷たくなっていく。足元がぐらりと崩れるような錯覚によろめきそうになった。
「嘘…でしょ?」
まだ捜索段階だ。行方不明者の安否はわかってない。
「そんな、まさか……」
最悪の可能性を考えて慌ててカグヤは首を横に振った。深呼吸して大丈夫、と自分に言い聞かせる。
都市の出現場所に規則性はない。とはいえ風の精霊に頼めば出現場所はすぐに見つかるだろう。だが、深夜まで待っていられるわけがない。
「探さなきゃ」
【3】
ぴちゃんと、水が跳ねる音に目を開けた。天井から垂れて頬を濡らすのも、たぶん水だろう。
耐え難い刺激臭にシグルスは顔を歪め、鼻と口をハンカチで覆った。辺りは暗く殆ど何も見えない。かろうじて自分の周囲がわかる程度だった。足元に暗い水の感触。この臭気から考えて下水道の中だろうか。
そこに、ただ朧気に女が立っていた。
白い髪、白い瞳。どこか人形のように見えた。中世ヨーロッパから半ばタイムスリップしてきた彼にアンドロイドという概念はない。人形のようなのに、体温が感じられ、時折人のような表情を見せるもの。魔と呼ぶには無機的で、かといって何かこれと当てはまる言葉も思いつかず。人ではない異形のものとしか形容できない女。
それが自分に何の用があるというのか。
女がそっと右手を翳した。
闇がぼうっと明るく照らされる。シグルスは目を見開いた。
横たわる人、人、人。生きているのか、死んでいるのかはわからない。まるでマネキン人形をばら撒かれているようにさえ見えた。
それから、立っている男が1人。
シグルスは男の顔を見て、内心でゲッと呟いていた。その男は昨夜自分が、可愛いボウヤと言われて逆上し、殴り飛ばしてしまった男だったからである。
しかし男はシグルスに気づいた風もなく女を睨み付けていた。
「こんなくせぇ場所に連れてきて、俺をどうするつもりだ!」
怒鳴りつける男に女の無機質な声が返される。
「あなたは私のマスターですか?」
あの時、道で声をかけられた時と同じ質問にシヴは思考を巡らせた。彼女はマスターを探しているのか。『繋ぎゆくもの』は、そんな映画だったか?―――シグルスは内心で首を傾げる。
「うるせぇ!! 聞いてんのは、俺だ!!」
「マスター以外の命令は聞けません」
「なんだとぉ!?」
「あなたはマスターの敵ですか?」
淡々とアルゴリズムに則って機械的に返すだけのような女の言葉。まるで相手の神経を逆なでするかのような女の物言いにシグルスはハッとした。男の返答が容易に想像出来る。
「ダメだ!!」
だが、それはわずかに遅かった。
「だったら、どうなるってんだ」
男が言った。
「マスターの敵は排除します」
女の声が下水道内に響き渡った。
「やめろ!!」
シグルスが声をあげた。
女の手のひらが無造作に男に向けられる。
何をしたのか、どんな力が働いたのか、何が起こったのかさえ、わからなかった。
ただ次の瞬間、男は血を吐いて倒れた。
「!?」
汚水が放つ異臭に肉の焦げるような匂いが混じる。
「大丈夫か?!」
シグルスは男に駆け寄った。意識がない。だが、かろうじて取れる脈にシグルスはひとまずホッと息を吐く。とはいえ急いで病院に運ばなければ命が危ないと思われた。
シグルスは男の胸に手をあてながら、辺りに目を凝らした。まさか、ここに倒れているのは、全部―――。
「あなたは私のマスターですか?」
女がシグルスに尋ねた。シグルスは細心の注意を払って答えた。
「……違う」
嘘を吐くのは得策とは思えなかった。すぐにバレる気がしたからだ。
「あなたは私のマスターの敵ですか?」
女の問いに。
「違う」
シヴは答えて目を閉じた。低く呻く。半分だけ男の傷を自分に移したのは、全部移して自分が動けなくなったら、それこそ本末転倒だと思ったからだ。これで、少しは男ももつはずだ。
「あなたは誰ですか?」
女の問いが続く。シグルスのしている事に気づいてないのか、興味がないのか、淡々と。
シグルスは痛みをそらすようにゆっくりと息を吐いて答えた。
「俺はシグルス。マスターを探しているなら探すのを手伝おう」
何とかそれだけ言った。肺が焼け付くような悲鳴をあげている。それを奥歯でかみ殺してじっと女を見た。
「…………」
女の沈黙。それを肯定と受け取ってシグルスは続けた。
「その代わり、ここにいる人たちを解放してやってくれないか」
「それは出来ません」
「何故」
「あなたは私のマスターではない。マスターでない者の言う事には従えない」
プログラム通りの回答に人のような柔軟さはないという事か。シグルスにその意図はわからない。
「だからマスターを探してやると……」
そこでシグルスは言葉を飲み込んだ。女が自分に向けて手の平を翳している。
「あなたはマスターではない」
女が言った。
「…………」
シグルスは女の目をまっすぐに見返していた。口の中で小さく紡がれる音。
「あなたはマスターではない」
女が繰り返した。
》》》
シグルスのロザリオ。それに宿った彼の思念。その思いは必ずシグルスに繋がっているはずだった。だから、その“思い”を召還する。“思い”を具現化して彼の居場所を付きとめるのだ。
「…………」
ロザリオから具現化した精霊に、カグヤは暫しポカーンと口を開けていた。
それから、不謹慎だとわかっているが思わず緩む頬をどうする事も出来なくて、カグヤは口元を手で押さえた。
エメラルドの目。くすんだブロンドの髪。ふてぶてしくも不機嫌そうな顔。そう、それはどこからどう見ても子ども扱いされて拗ねている2頭身の手乗りサイズなシグルスだったのだ。
―――どうしよう、可愛すぎる……。
ロザリオの精霊と契約した時は特に具現化もさせず、淡い光の球体だったから、気づかなかった。
カグヤの手の平の上にちょこんと座ってじっとこっちを睨み付けて来る小さなシグルス―――ちびシヴに、カグヤはこほんと咳払いを1つ。
「あ…あの……シヴを探して」
すると不機嫌そうなちびシヴが空に手を翳した。刹那、その顔が苦痛にゆがむ。
「!? シヴ!?」
ちびシヴが指を差す。そちらにシグルスがいるのか。それよりも、ちびシヴが苦しそうにしている方が気にかかる。
それからカグヤはハッとした。
違う。不機嫌そうな顔じゃなかったんだ。拗ねている顔じゃなかったんだ。何故、すぐに気づかなかったのだろう。
彼の痛みを堪えていた顔に。
「まさか……」
カグヤはちびシヴを胸に抱き寄せると、彼が指差す方へ駆け出した。
【4】
突然、その通路をつむじ風が駆け抜けた。地下の下水道にこんな大気の流動が起こるはずもない。
「女には手をあげられないわけ?」
その声に、シグルスはそちらを振り返った。
「カグヤ……」
「フェミニストだったなんて知らなかったわ」
拗ねたような彼女の物言い。けれど口ほどに語る目が、心配げに潤んで見えた。心配しているのに憎まれ口しか出てこないのはお互いさまか。
「…………」
シグルスはゆっくりと息を吐き出すと、カグヤに重傷を悟らせないように立ち上がった。
「ふん」
カグヤが鼻を鳴らして腰のウィップを握る。風の精霊シルフを召還していたのだろう、いつの間にか辺りの悪臭が消えていた。
カグヤのウィップがしなる。派手な突風が辺りを包み込んだ。
かまいたちのように走るそれに女が地を蹴る。
「なっ!? ……おい!?」
風が辺り一面に広がりそこに倒れていた人々の背を撫でていくのに慌てたのはシグルスの方だった。
昔から大雑把なところがあると思っていたが。
「ここには行方不明になってた人たちもいるんだぞ!!」
シグルスが怒鳴る。
「シヴがいるから大丈夫でしょ」
カグヤが何でもない事のように応えた。
「あのな……」
面食らったシグルスにカグヤがいたずらっぽく笑う。艶やかに。
「違うの?」
「違わない!」
シグルスは声を張り上げる。息は荒い。それでも自分を奮い立たて水を蹴る。
女がカグヤに向かって手のひらを伸ばした。そこから何が発せられるのか、仕組みはわからなかったが。
「カグヤ! 避けろ!!」
シグルスの言葉に反射的にカグヤは壁を蹴って自分の軌道を強引に変えた。カグヤが体を捻るのと、女の照準がカグヤに合わされるのとは、果たしてどちらが早かったのか。
炎は見えない。けれど灼熱の何かが襲い掛かったように、カグヤのウィップと腕を焼いていた。
「っっ!!」
激痛にカグヤが顔をゆがめる。
「カグヤ!!」
「ダメ!!」
咄嗟にカグヤは叫んだが、既に腕の痛みは消えていた。
シグルスがその傷を自らの腕に移したのだ。
「ちょっ……何やってるのよ!!」
いつもいつも。有無も言わせず使われる彼の癒しの力。彼の生命力を削っていく力。
「俺はいいから!! それより彼女を」
言われて敵の存在を思い出す。いや、忘れていたわけではない。喧嘩している場合でもない。わかっている。カグヤは歯を食いしばって女を振り返った。
シグルスは荒い息を吐く。既に、男の傷を貰って肺を1つ潰しているのだ。それから全身の火傷。だが弱音を吐いてる時ではなかった。壁に手をついて立ち上がる。カグヤをサポートするために。
刹那。
突然、彼の体が軽くなった。痛みが消えていくのにシグルスは目を見開く。
「何……!?」
癒しの力は自分に対しては使えない。瞬時に誰かが治したのか、それとも。訝しむシグルスに。
「シヴ!?」
カグヤの声にシグルスは彼女を振り返った。
彼女が呼んだのは自分ではないらしい。小さな小さな手のひらサイズの、だけど自分がそこにいた。それが右腕と胸元を押さえながら蹲っているのだ。
それが、カグヤがロザリオから召還した自分の思念だとシグルスが知ったのは後の事である。
どうやら、ロザリオに残った思念はカグヤの思慕だけではなかったらしい。彼女を守りたいという強い思いが、シグルス自身と同様の力をロザリオの精霊にももたらしていたのだろう。
だが、そんなやり取りに女が付き合ってやる道理はない。
女がカグヤに向かって手の平を伸ばしていた。
「カグヤ!」
シグルスの注意喚起にカグヤの周囲の大気が渦巻く。彼女の怒りの感情がそのまま具現化されたように。
女の放つ見えない灼熱の炎。それがマイクロ波による加熱―――いわゆる電子レンジと同じ仕組みによるものだとは結局知れる事はなかったが。
シグルスが放った大地の結界が、どのように作用したものかマイクロ波の攻撃を遮断していた。もし放っていた結界が水だったなら、カグヤは蒸し焼きになっていただろう。マイクロ波は特に水分子に作用する。しかしシグルスは既にそれを自分で実証していた。彼の全身の火傷はそういう事だったのだ。
水が駄目。大気はカグヤが召還済み。ならば四大元素の残るは火と土。見えない炎と感じているそれに、火に火をぶつけるのはおかしかったから、それは消去法の結果だったのだが、正解だったらしい。
自分の力が効かない事に動揺する女にカグヤの跳躍。
身軽になったシグルスもそれに続きかけて、ふと足を止めた。
ずっと感じている違和感。
このハザードは本当に映画『繋ぎゆくもの』から派生したものなのか。歌舞伎町が実在する街なら、他の映画で使われている可能性もある。
だけど―――。
これがあの映画と何らかの形で繋がっているのなら。
カグヤが女を追い詰める、それを横目にシグルスは辺りを見渡した。
マスターを探しているのはあの女自身ではない。このハザードは、あの映画の中に眠る何らかの混沌とした思念が、別の、銀幕市にあった何らかの渦巻く思念と共鳴したのではないのか。
場所はともかく決まった時間に発生するハザード。あの映画の中でその時間に起きた出来事。
カグヤは誰よりも映画の中の世界の事を知っていたかもしれない。だがシグルスは映画をより客観的に見ることが出来た。
シグルスは目を凝らす。
暗闇に慣れた目がそれを見つけた。
倒れる人々の片隅に蹲る小さな光。
シグルスの気配に小さく消えそうになる。
「大丈夫。傷つけたりしないから」
シグルスは優しく声をかけたが、小さな光は怯えたようにシグルスに体当たりで攻撃を仕掛けてきた。
それを避ける事もせず無抵抗で受け止めてシグルスは繰り返す。
「もう、君を傷つけるものはない」
そうしてそっと抱きしめる。小さな光。違う。女の子。小さな小さな女の子。
『繋ぎゆくもの』。あの映画に出てくる歌舞伎町は、様々な欲望、陰謀が渦巻き、『気』が歪んだ街。弱い人間は歪んだ気に呑まれ、時に異形の化物へと変貌することもある。
その姿を、罵られ、苛められ、自分の存在を否定された。
弱い心は更に弱く脆く壊れ歪んでいく。
―――ワタシ ハ ココ ニ イル。ワタシ ハ ココ ニ イル。
―――ドウシテ ワタシ ハ ココ ニ イル?
―――ドウシテ? ドウシテ? ドウシテ!?
自らの存在理由がわからなくて、ただ自分を否定するものたちを壊していく。
「もう、大丈夫だよ」
シグルスは女の子を抱きしめた。
カグヤと戦っていた女が唐突に動きを止める。ピタリと。そしてその役目を終えたようにパタンと倒れたきり、動かなくなった。
時間と都市の姿を持つ歌舞伎町の混沌。それに場所を与えたのは銀幕市に渦巻く想念を宿した“女”だったのか。女に偽りの生を与え、移動する女に都市はただうつろう。その存在理由を求めて。
カグヤはシグルスに気づいてその傍らに歩み寄った。
シグルスの抱く女の子の思念がエルーカである彼女の中に伝わってくる。
「私があなたのマスターよ」
カグヤが女の子に声をかけた。
「カグヤ?」
シグルスが振り返る。カグヤは女の子に手を伸ばしていた。
「一緒に探そう。あなたの真理」
カグヤの言葉に女の子の体が再び淡い光に包まれた。女の子の抱いていた絵本の中に。絵本に宿った絵本の持ち主の強い思念。たったワンカットだったが、それは映画の中でトラブルに巻き込まれた女の子が抱いていた絵本だった。
「…………」
カグヤが契約の呪文を口ずさんだ。
もう二度と幻影都市が銀幕市に訪れる事はないだろう。
それからバタバタと一騒動あって、警察やら救急隊やらにその場を任せた後も2人は事情聴取などに追われた。行方不明になっていた人々は衰弱してはいたものの、何とか全員一命を取りとめたと後で連絡を受ける。
慌しくも長い一日が終わり、疲れて寝てしまっていたちびシヴはロザリオに還してやった。
そうして漸くカグヤは、トラブルバスター兼住居であるマンションのリビングで人心地吐いた。
「ふー、一件落着ね」
「ああ」
シグルスはソファーに座って、この一件の事をぼんやり思い出す。
行方不明者の殆どが家出した若者や、行き場を失った浮浪者だったらしい。
―――ドウシテ ワタシ ハ ココ ニ イル?
あの時、自己嫌悪に陥っていた自分も、もしかしたら、惑っていたのかもしれない。それが自分をあそこへ攫ったのか。
惑っていた。
カグヤを怒らせて、自分は何をしているのか。何をしたいのか。
何故、今ここにいるのか。
カグヤを庇って死んだ。そこで終わりだったはずだ。なのに、神様がくれたおまけの時間。
シナリオのないエキストラ・チャプター。
「カグヤ」
「うん?」
約束は果たされないかもしれない。だけど、願ったっていいはずだ。少しだけ。ほんの少しだけ。
それがたぶん、今の自分の、レーゾン・デートル。
「その……今度はさ、遊びに行かないか」
「へ?」
「歌舞伎町」
そう言ったら、カグヤは驚いたように目を見開いて、それから、今にも泣き出しそうな嬉しそうなはにかむみたいな笑みを湛えて、頷いた。
「……うん」
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クリエイターコメント | オファーありがとうございました。 その節はありえないミスでお手数をおかけして申し訳ありません。
楽しんで書かせていただきました。 膨大なお2人の物語に見落としも多々あるかと思いますが。 その際はお気軽にリテイクなどお申し付けください。 イメージを壊していない事を祈りつつ。
また、会える日を楽しみに。 |
公開日時 | 2009-05-31(日) 20:00 |
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