|
|
|
|
<ノベル>
元々杵間山の古民家に通うのが理月の日常だったし、彼を迎えた刀冴が手料理や菓子を振る舞うのもまた日常であった。
そこに柴の仔犬・恵森(メモリ)の存在が加わったのは冬のことだ。更に先日の山菜採りの折にワイバーンの子供・稀邏(キラ)も仲間入りした。稀邏はとあるファンタジー映画からムービースターであるらしい。うららかな春の日差しが降り注ぐ古民家の庭先では今日も漆黒の傭兵が二匹の動物と戯れている。理月が二匹の遊び相手をしてやっているというよりは二匹が理月と遊んでやっていると表現したほうが適切かも知れない。
雪の中で震えていた仔犬はすくすくと成長している。仔犬らしい丸っこさは少しずつなくなり、体つきもしっかりとしてきた。顔立ちもあどけなさが遠のいて日本犬らしい精悍さが現れつつあった。
「……多分聞こえてねえだろうが……なあ、理月」
「恵森、こっちこっち!」
「キャン!」
「よーし、いい子だ。もう少し大きくなったらフリスビーっていうの買ってやるからな」
「おい、理月」
「くるるぅ……」
「ん、どした? 稀邏もおもちゃが欲しいのか?」
「ドラゴンにおもちゃなんて聞いたことねえぞ」
「いいじゃん、刀冴さん」
理月はようやく刀冴の声に気付いて振り返った。だらしない――もとい、幸せここに極まれりといった笑顔はもはやデフォルトだ。そして、そんな理月の様子に呆れる刀冴の姿もデフォルトになりつつある。
「ドラゴンっていってもまだ子供だし。遊びたいんじゃねえかと思ってさ」
仔犬ほどの大きさの稀邏が理月の背に飛び乗った。羨んだ恵森が足許できゅんきゅんと鼻を鳴らしている。
「それはそうだろうが、子供でもドラゴンだぞ。並のおもちゃじゃすぐ壊れちまうだろ」
「あ……そっか。じゃ俺が何か作ってやろうかなあ」
「へえ、そいつはいいな。日曜大工ってやつか」
主人を稀邏に奪われた恵森がとたとたと刀冴の足許にやってきた。くるんと丸めた尾が背中の上でぷりぷりと揺れている。小さく笑みをこぼした刀冴が軽く頭を撫でてやると仔犬は気持ち良さそうに鼻を鳴らした。
「さて……そろそろかな」
恵森の喉を掻いてやりながら刀冴は山道に目を投げる。不思議そうに彼の視線を追った理月は「あ」と声を上げた。
手土産を提げて歩いて来るのは傭兵団 White Dragon のアイドルと料理人、すなわち月下部理晨とイェータ・グラディウスであった。
先に駆け出したのは恵森だったか、理月だったか。とにもかくにも、仔犬とその主人は全く同じように顔を輝かせて来訪者に飛びついた。
「元気そうだな、相変わらず」
理月と全く同じ顔をした理晨は『弟』の頭をわしわしと撫で、恵森を片手で抱き上げた。イェータも同じように手を伸ばして恵森の頭を撫でる。鋭利な容貌を持つ彼は一見しただけではとっつきにくそうな人物に思えるが、理晨の笑顔の傍らで仏頂面をしていられるような男ではないようだ。
だが、理月の後ろから刀冴が顔を見せるとイェータはわずかに眉を動かした。
「よ。あんたも一緒か」
「……ああ」
陽気に笑いかけてくる刀冴からふいと視線を外す。顔を背けたわけではない。幸せそうに笑っている理晨の顔を一秒でも長く見ていたいだけだ。黙り込んでしまったイェータの前で刀冴は小さく肩をすくめた。
「こいつが稀邏か。へぇ、小さくてもなりはしっかりドラゴンだな」
という理晨の声に応じるように稀邏が胸を張ってみせた。次の瞬間、小さな体がぽふんと煙に包まれる。煙が晴れた後に現れたのは体高3メートルほどのワイバーンだ。おお、と理晨は声を上げ、イェータもわずかに目を大きくした。
「はは、すげえすげえ。いっぱしの大人ドラゴンじゃねえか」
理晨に腹の辺りをさすられた稀邏はきゅうと首を傾けて嬉しそうに喉を鳴らした。やはりまだ子供である。
「よし、じゃみんなで一緒に遊ぶか。ほらお土産」
「理晨……やっぱり恵森にはまだ早いんじゃねえか? どっちかってぇと大人の、それも体のでかい犬が追っかけてるイメージだぜ」
「大丈夫だって。犬はこういうのが好きなんだよ」
理晨が持参したのは萌えいずる若芽の色をしたフリスビーであった。理月は「すげえ」と声を上げ、無邪気な笑みを顔いっぱいに広げた。
「ちょうどフリスビーのこと話してたんだよ。な、恵森?」
「きゅん!」
「そっか、考えることが似てるのかもな。理月、投げてみるか?」
「どうやるんだ? 見たことはあってもやったことなくて、俺」
「こんな感じで持って、水平に構えて……」
童顔の37歳が真剣にフリスビーの投げ方を教え、童顔の32歳はそれを熱心に聞いている。少年のような様子を微笑ましく見守りつつイェータは古民家の縁側に腰かけた。
「まぁ、なんだ」
少し離れた場所に刀冴も同じように腰を下ろす。「賑やかなのは楽しいよな」
「……そうだな」
相変わらずのイェータに刀冴は苦笑いをこぼした。
「よし。行くぞ、恵森、稀邏」
やがて理月はぎごちない手つきでフリスビーを握り締め、構えた。小さな柴犬と大きなままのドラゴンも頭を低くして身構える。
「それっ!」
しゅるるる、と風を切ってグラスグリーンの円盤が飛び出した。
……凄まじいほどの勢いで。
「わふっ、わんっ!?」
「あーあ……張り切り過ぎたな」
「手加減しろって言ったのに」
「はは、後で薪でも取りに行った時に探して来てやるよ」
「……ごめん」
成す術なくフリスビーを見送る恵森と呆れ顔のイェータ、腰に手を当てて苦笑する理晨、いつものように大らかに笑う刀冴。彼らの前で理月はきまり悪そうに襟足を掻いた。
一騎当千の傭兵が力いっぱい――理月曰く、少しは手加減したらしいが――投げたフリスビーは古民家の屋根を軽々と越えて杵間山中に消えた、かに思えた。
その瞬間。
どうとつむじ風が起こり、砂埃が巻き上がる。硬質の翼を羽ばたかせてぶわりと浮いたのは巨大化したままの稀邏だった。
「ははっ、すげえ!」
無邪気な声は理晨か、理月か。
ごうと風を轟かせて宙を舞ったワイバーンはフリスビーを見事にキャッチして庭先へと帰還した。
当然、鋭い牙が並ぶ巨大な口で捕捉されたフリスビーは無残にひしゃげていたのだが。
「あー、稀邏! せっかく理晨が持って来てくれたのに!」
「きゅうん」
「くるるぅ……」
「あ……ああ、ごめんごめん。大事な物だからちゃんと取って来てくれたんだよな。ありがとな」
理月は困った顔をしているが、がっかりして尾を下げる恵森と大きな体のままうなだれる稀邏の姿に目尻が下がりつつある。そもそもフリスビーを全力で投げてしまったのは理月なのだから、強く言うことはできなかった。
「……可愛いよなぁ」
と真顔で呟いたイェータに刀冴は「あ?」と語尾を持ち上げた。
「いや。あいつらってほんと可愛いよな」
イェータの言う“あいつら”が動物たちのみを指しているのではないとすぐに分かったから、刀冴は再び呆れ顔を作るしかなかった。
実は理晨はもうひとつフリスビーを持参していた。恵森と稀邏にひとつずつ与えるつもりだったようだ。若葉と春風に萌える杵間山に、フリスビーで遊ぶ小動物と男たちの笑い声が朗らかに響いている。
(……へぇ。おもしれえな)
庭の楽しげな喧騒を聞きながら、イェータは古民家の厨の入口に立っていた。
料理や製菓に長ける青狼将軍のことは理晨と理月から聞いている。刀冴に対する感情は別としても、同じく料理を嗜む者として一度台所を見てみたかったのだった。
土と水の香りが満ちた空間はまさに厨と呼ぶにふさわしい。素朴だが、遺伝子の奥底に眠る郷愁を呼び起こす匂いだ。甕や竃といった昔ながらの道具はイェータの興味をそそった。
「お。あんたも一緒にやるか?」
席を外していた刀冴が藤編みの籠を手に戻って来た。籠の中ではルビーのような木イチゴがきらきらと輝いている。山に出かけて採ってきたものらしい。
「やるって、何をだ」
「あんたも料理とか菓子とか得意なんだろ? 一緒にどうかと思ってさ」
「……何作るんだ?」
「ん。せっかく理晨が来てるし、ガトーショコラにしようかと思ってる。コイツをソースにしてかけるなり中に詰めるなりしても結構イケるぜ」
確かに木イチゴの酸味はチョコレートの甘みを引き立ててくれるだろう。大らかな将軍の顔と木イチゴを交互に見比べ、イェータは唇の端だけで笑った。
「王道だな。理晨が喜ぶ」
「じゃ、ちょっと材料出してくっから」
同じような口調で言葉を交わしつつ、半身に刺青を持つ二人は並んで厨に入った。
採光用の窓から緩やかに春風が入り込み、理晨と理月の歓声を届ける。三十路とは思えぬ無邪気な声に口許を緩めつつ、イェータは卵や小麦粉を出す刀冴の背中をぼんやりと見やった。
理晨が弟のように可愛がっている理月も、どことなくイェータと似た雰囲気を持つこの将軍もムービースターなのだ。
「どした?」
卵に小麦粉に砂糖、製菓用のチョコレートを片腕に抱えた刀冴が首をかしげている。イェータは「何でもねえ」とだけ答えた。
魔法が解ければ消えるのだろう。この気の良い武人も、弟のようにすら感じるあの傭兵も。
夢は必ず醒める。仕方のないことだと思う。今のあり方はあまりにも不自然だ。
だが、理月や理月の大切な人たちが消えてしまえば理晨はきっと悲しむ。それを思うとやるせない。
「そろそろ取りかかろうぜ」
と卵の乗った笊をとすんと胸に押し当てられてイェータは我に返った。目の前には相変わらず闊達に笑う刀冴の顔がある。
「早くあいつらの喜ぶ顔が見てえだろ。な?」
イェータは無言で肯き、卵を受け取った。
「お」
「あ」
ふわりと吹く風が香ばしい匂いを運んでくる。無条件かつ絶対的に人を笑顔にしてしまう香りだ。ひたすら動物たちと戯れていた二人は同時に頬を緩めた。
「ガトーショコラかな」
「ベリー系のソースも付いてる」
同じ顔をした二人は甘い物好きという部分まで共通しているし、甘味に対する鋭敏さもまた同じであった。
恵森もふんふんと空気の匂いを嗅ぎながら落ち着きなく跳ね回っている。子ドラゴンの姿に戻った稀邏もそわそわとその場を行ったり来たりしていた。
「残念。恵森にはあげられないぜ」
「ふきゅうん?」
「難しいことはよくわかんねえけど、犬がチョコレート食ったら駄目らしいんだ。ごめんな」
済まなそうに理月が言うと、恵森はうなだれるように「くーん」と鳴いて鼻面を下げた。
「なあ理晨。稀邏はどうだろ。ケーキ食えるかな?」
「んー。あげれば食べるかもしれねえけど、人間の食べもんは動物の体に良くないこともあるしな」
「そっか……。じゃあやめとくか、残念だけど」
心底済まなそうに「ごめんな」と稀邏の頭を撫でる理月の傍らで理晨は静かに笑った。
本当に弟のようだ。半身と言っても良いだろう。理月の笑顔は理晨の願いでもある。
「んー、恵森。重くなったなぁ」
理晨の視線の先、座り込んだ理月が恵森を抱き上げて鼻と鼻を突き合わせている。手の中でぱたぱたと尻尾を振る恵森にぺろぺろと鼻を舐められ、理月は無邪気に笑った。
理晨も隣にしゃがみ込んで黒く濡れた仔犬の鼻面をつついた。
「もうそろそろ仔犬の時期も終わりか。すぐ大人になっちまう」
「大きくなっても可愛いんだろうなぁ、恵森だから。――見られるかな。大人になったところ」
「……理月」
理月と同じ色の双眸がかすかに揺れた。
動きを止めた理晨の手の下、柴犬のつぶらな瞳がきょときょとと二人を見比べている。
「おーい、理月、理晨。そろそろ一服しようぜ」
その時、刀冴のよく通る声が理晨の心を引き戻した。古民家の縁側で刀冴とイェータが手を振っている。
理晨は慌てて笑顔を作り、理月に促されて縁側へと歩み寄った。
刀冴とイェータが焼いていたのはやはりガトーショコラだった。しっかり焼かれたケーキはどっしりしているが、しっとりと滑らかだ。大きく切り分けられて差し出されたケーキをいそいそとフォークで割り、理晨と理月は同時に歓声を上げた。チョコレート色の塊の中から爽やかな赤色のソースがとろりと流れ出て来たのだ。
濃厚なチョコレートとさっぱりした木イチゴソースが絡み合って生まれる風味は絶妙だった。シンプルでクラシックな一品だが、それゆえに甘みと酸味のバランスが難しい。美味い美味いと舌鼓を打ち、黒檀のように滑らかな色の顔を無防備に緩める二人の姿に刀冴は柔らかく目を細める。イェータはケーキの味に満足しつつ時折理晨と理月の世話を焼いていた。何せ少年のような二人は口の周りにチョコレートを付けたままお喋りに華を咲かせるものだから、誰かが保護者役になって口許を拭いてやらなければならなかった。
「刀冴さん、もうひとつ!」
「俺もおかわり」
「本っ当によく食うな、理月も理晨も」
「え、だって甘い物は別腹じゃん」
「理晨は何食ってても可愛いからな」
「よせって、イィ。照れちまう」
「……今度は“照れた理晨も可愛い”なんて言う気だろ、あんた」
「悪いか」
くどいようだが、全員が三十路の男である。
庭では恵森と稀邏が跳ね回っている。相撲の真似事でもしているつもりなのだろうか、取っ組み合ったりもつれ合ったりしながら土の上を転がっている。といっても仔犬と子ドラゴンのすることだ。相撲と呼ぶには程遠く、微笑ましいじゃれ合いにしか見えなかった。
こてんと転がされた恵森がぷるぷると頭を振って起き上がる。仔犬の突貫を受けた稀邏はよちよちとたたらを踏んだものの、すぐに翼を動かして体勢を立て直した。恵森が抗議するようにキャンキャン吠え立てても素知らぬ顔だ。
「稀邏! 翼を使うのは反則だぞー」
「いいじゃんいいじゃん、かてェこと言うなって」
「けどルールってもんが……」
「恵森と稀邏が楽しんでくれるのが一番いい」
という理月の言葉に三人は一様に肯き合った。
「ずっと……ああやって楽しく過ごしてくれればいいな」
呟きながら、理月は目を細めて二匹の様子を見守っている。ケーキを切り分ける刀冴の手がふと止まった。理月とともに長い時間を重ねてきた刀冴だから、弟分の声に滲み出たわずかな心の動きにさえ反応する。
「――だからさ、理晨」
そして、微笑を崩さぬまま静かに告げたのだった。
「俺がいなくなったら、恵森を頼む」
理月の声と表情が春の陽だまりのようだったから、彼の真意を理晨が察するまでには数瞬の時間を要した。
イェータは黙っている。だがフォークを動かす手は止まっていた。
気遣わしげな金色の双眸の先で理晨は言葉を失ったままだ。
――俺がいなくなったら。
「……理月」
――いなくなったら。
分かっている。分かっているからこそ、現実感がずっしりと胸にのしかかる。
かすかに瞳を震わせた理晨の前で理月はガトーショコラにまた舌鼓を打った。
「何となく……感じてるんだ。この魔法もそろそろ終わるんだろうな、って」
どこかあっけらかんと笑う理月の隣で刀冴も静かに肯いた。
理晨と実の兄弟のように暮らした一年間は理月の宝物だ。だが、自分がいなくなることで理晨に寂しい思いをさせるのだろうかとは感じているし、恵森の行く末も気がかりだった。
「でも、後悔とかそんなのはねぇから。俺、刀冴さんや、理晨や、イェータや、恵森や稀邏や皆と逢えて本当によかった。だからこそ俺は、俺が俺だったことにも感謝しようって思える」
だから理晨に恵森を託す。自分を忘れないでほしいと。恵森の中にも自分がいることをずっと覚えていてくれと。
――やがて理晨は眩しそうに目を細めて肯いた。
「……お前、いい顔してる」
実際、眩しかった。悔いのない、晴れやかな『弟』の表情がこの上なく眩しかったし、嬉しかった。
別れの時が近付いているのだと市民の皆が悟っている。だが、ここに集った四人は静かにそれに向き合っている。離別は寂しいし、残してゆくことをほんの少し残念にも思うけれど、出会いの全てが幸せでこの運命に感謝したいと思うから、後悔はない。
「やるべきことをやるだけだ、最後まで」
刀冴の物言いは相変わらず飄々としていて、分かりやすくて、夏空のように爽快だ。その短い言葉ですべてを代弁してもらえた気がして、理月は静かに笑って肯いた。
最後まで自分らしく、迷いなく生きられたらそれで良い。
すうと息を吸い込んだ理月は両手でメガホンを作った。
「恵森、稀邏!」
呼びかけに応じて二匹が一直線に走って来る。縁側に飛びついた恵森はどうにか段差を乗り越え、飛び上がった稀邏は理月の背中にくっついた。
とたとたと膝の中に入ってきた恵森の脇の下に手を入れて抱き上げ、理月はいつものように人懐っこく笑った。
「俺、ずっと、あんたの傍にいるから」
理月から理晨へと仔犬が差し出される。理晨は小さく肯き、“思い出”の名を付けられた柴犬を抱き取った。
理月と同じ色の手の中で、恵森は不思議そうに鼻を鳴らして理晨の顎を舐めた。
太陽が山の稜線に溶け入り、天球の色が茜から濃紺に変わる頃、理晨とイェータは古民家を後にした。理月はもう少し恵森や稀邏と遊んでから帰るという。
「何だかさ。嬉しかった」
ゆっくりと山道を下りながら理晨は頬を掻いた。
「理月、“俺が俺だったことにも感謝しようって思える”って言ってただろ。……あれ、すごく嬉しかった」
理月の悲嘆を知っている。理月の底に凝る虚無は理晨のそれと同じであると言っても良い。だからこそ、あの述懐の意味を噛み締める度に穏やかな感情で胸が満たされる。
「俺も嬉しかった」
相槌を打ちつつイェータも呟いた。「嬉しいっつーか……恵森を託されるのを見て少しほっとした」
「ん?」
「……理月がいつまでも理晨の傍にいるんだって分かったからな」
理月は完全に消えてしまうわけではないのだと。恵森とともに理晨の隣に在り続けるのだと。
だから――理晨は完全に置き去りにされるわけではないのだと。
「ま、どっちにしろ俺のやるべきことは決まってるわけだが」
「どういう意味だ?」
「今更言うまでもねえだろ」
イェータ・グラディウスは月下部理晨を支え、守るだけだ。今までも、この先もずっと。
頭上には、月。イェータの髪と同じ色の月光が二人の進む道を静かに照らし出していた。
理晨とイェータを見送った後で刀冴は夕餉の支度にとりかかった。二人にも夕食を勧めたのだが、White Dragonの主夫であるイェータには仲間の食事の準備があるし、傭兵団のアイドルである理晨も仲間たちと一緒に食卓に着かなければならなかった。
庭からは相変わらず理月と動物たちの歓声が聞こえてくる。花と緑の匂いを含んだ夜風に目を細めつつ刀冴は静かに包丁を動かす。
判っている。この日々がじきに終わることも、有限だからこそ愛おしいことも。
この街で生を得て以来、やるべきことを全力で成し遂げてきた。沢山の出会いと出来事に邂逅して刀冴は変わった。
刀冴もまた理月と同じだ。この身が消えることに恐れはない。別れは寂しく思うが、悔いはない。この場所で築き上げてきた全てを誇りに思っている。
(やるべきことをやるだけだ、最後まで)
大切な人たちと全力で楽しみ、全力で責務を果たそう。願わくば、彼ら彼女らが自分たちを覚えていてくれるように。誰かが覚えていてくれれば自分たちはそこで生き続ける。使い古された言い方だが、真実だろうと思う。
「おーい、理月。そろそろ飯だぞ。手洗って来い。うがいもしろよ」
「刀冴さん……俺、子供じゃねえんだから」
「似たようなもんだろ」
刀冴の笑顔はやはり夏空のようであった。
仔犬とドラゴンの軽快な声をBGMに、古民家の日常は今日も続く。
(了)
|
クリエイターコメント | ご指名ありがとうございました、そしてお待たせいたしました。 毎度おなじみしっばしばプラノベ(笑)をお届けいたします。
前半と後半の落差が激しいのは仕様です。前半のトーンが明るい分、後半のちょっとした切なさが引き立てられていると良いのですが。 ただ、悲嘆に暮れるという雰囲気は出さないように気をつけました。 別れは寂しいし切ないですけれども。皆さんの場合は“別れを恐れて嘆く”という心情はちょっと違うのかな、と。
素敵なオファーをありがとうございました。 傭兵さんがフリスビーを全力でぶん投げてしまうのはご愛敬です。 |
公開日時 | 2009-05-27(水) 18:00 |
|
|
|
|
|