★ 【Invasion】悪夢の見た夢 ★
<オープニング>

 めざめよ めざめよ
 われらがどうほう にしきのげんえい
 めざめよ めざめよ
 われらがはらから ふきつのあくまよ
 はじめのほのおはキレツをつくり
 だいにのほのおはてにしたアカシ
 にしきニおおえ
 にしきにオとせ
 かんびなヒメイをひびかせよ
 キョウフのナをかんせしキミよ
 せつなのコウコツあたえておくれ
 たまゆらのケラクあじわいクルオウ

「これは宣戦布告だ。惑え、人間共」


     オレ ガ テ ニ スル ハズ ダッタ ノ   ニ



 ◆ ◆ ◆

 アズマ山に黄金の城が現れてから、セイリオスとハリスは銀幕市を走り回っていた。
 黄金の城が現れた時。天まで立ち上がった炎が一瞬にして消えたかと思うと、夜を纏った空よりも黒いものが、銀幕市の空を覆った。それは空を覆った夥しさよりも静かに、銀幕市に滑り込んだのだ。
 ──そう、それはその左手に漆黒の呪印を刻み込んだ。
 それから休むことなく、二人は駆け回っていたのだ。痣に……悪魔に憑かれた人々から、悪魔を落とす為に。悪魔自体の力は強くない。しかし、その数が多すぎた。
「くそ、落としても落としてもキリがねぇ」
 セイリオスは毒突きながら、黒い悪魔を閉じ込めた炎を握り潰した。
 悪魔を落とされ呆然としている人間を放って置くわけにも行かず、セイリオスは飴に加工したハリスの皮をやる。どういうわけだか、奴の皮には精神を穏やかにさせる作用があるらしい。そうしてやりながら、セイリオスは対策課の職員に連絡をし、彼らが来るのを待った。ハリスならもっとうまくやれるだろうが、セイリオスにはこれが精一杯だった。しかしそれでも、憑かれた者が市役所員に連れられて行くのを確認する事は、今までの彼からはまるで想像も付かない事だった。だからセイリオスは、そんな自分に笑った。
「はーい恐くないー、怖くないー、こわくないよー。ねー?」
 ハリスは子供を抱き上げて、よしよしとあやしていた。
 どうにも自分の姿は、いかにも映画から出てきましたよ、という姿なので怖がらせてしまうらしい。愛らしい瞳やふさふさの耳や尻尾があるわけでもなく、仕方がないので普段は冷温である体温を上昇させる。ゆらゆらと揺するのがいいのか、暖かな体温がいいのか、そうして少し仲良くなれた頃にアルディラが飴に加工した自分の皮をやった。子供達は飴だと思っているから、それは喜んでくれる。しかしそれの本当の力は、体の中の毒……悪魔を排除することだ。
「こんなところに来てまで、これと向かい合わなきゃいけなくなるなんてねぇ」
「なぁに?」
 ぽつりと呟いた言葉に、子供はきょとりと顔を上げた。ハリスは「なんでもないよー」と笑って、高い高いをした。

 先日の捜索で分かった「エルドラド」という名らしい城の主を知る為、対策課はシャガールを探し続けていた。もちろん、映画も見つけていた。
 『約束の日』という全4作品からなるシリーズ映画である。4つの作品はそれぞれに時間軸が異なるが、すべて同じ世界である。一作目は「異世界に召喚された少年」の話であるが、実はその異世界というのは、遥か遠い過去という設定である。そしてその一作目にシャガールたち【アルラキス】が、時間軸を現代に移した四作目に黄金の城の主「悪魔エルドラド」が登場する。四作目の副題を「楽園を行け」という。
「これも、ティターン神族の一手でしょうか」
 突如として現れたムービーキラーの群れ。突然にそれが発生するとはどうにも思えず、ため息混じりに呟いた。そんな植村の頭の上から、声が降ってきた。
「それはない」
 突然の声に顔を上げると、植村はまるで餅を喉に詰まらせたかのような顔をした。そこに並んでいたのは、白銀のイカロスと黄金のミダスだったのだ。
「もしも彼奴等の仕業ならば、早期に私が気付くはず」
『かの場所は、幾分か稀薄であるが、以前の山麓の『穴』に近い歪みだ』
 二人の声に、植村はハッと以前に灰田汐が言っていた事を思い出す。
 確か東博士からの報告だったと思う。あの『穴』に限らず、マイナスの魔法エネルギーは銀幕市に偏在している。だから、『穴』にかかわる・かかわらないに限らず、原理的には、すべてのムービースターが、キラー化する可能性がいつでもある、と。
 ならば、アズマ山と仮名されたあの山に多く発生したムービーキラーは、その「偏在するマイナスの魔法エネルギー」によるものなのか。
 植村が考え込むと、二人はどうやら彼がティターン神族とは別のものだと認識したのを感じたか、いつの間にか音もなく対策課からいなくなっていた。

 ◆ ◆ ◆

 ベラは息苦しさに目を覚ました。
 ここ数日、何か悪いものが滞って落ち着かない。目が覚める度に、それが自分の中にあるものではない事に安堵し、そして不安になった。
 夢の中で、ベラは小川の流れる野原で歌っている。ベラはその歌をどこで知ったのかわからない。わからないがしかし、とてもよく知っていて、それは幼い頃から耳にしている歌のように思う。ベラが立つ少し後ろには大きな木があって、その陰から誰かがこちらを覗いている。それは不愉快な視線ではなく、しかし少し怖かった。そんな事が続いて数日、ふいにその誰かが何かを呟いた。振り返り小首を傾げると、それは静かにベラの髪を撫でつけた。そして、また何かを呟くと、ベラは急に眠くなるのだ。夢の中で眠くなると言うのも、変な話だが。とにかく夢の中で眠くなると、現実のベラは目を覚ました。それは決まって、息苦しさを伴っていた。
 呼吸を整える為に、ベラは窓の外に見える空を眺めていた。もう夕方なのか、空がオレンジ色に変わっていく。アルディラが来てくれたのは昼頃だったから、ずいぶんと眠っていたらしい。鳥が宿へ帰るのだろう、高い声で歌いながら窓を横切っていった。ふと笑みが溢れると、ざわりと悪寒が走ってベラは飛び起きた。心臓が飛び出しそうな程に強く脈打っている。顔は酷く火照っているのに、震えが止まらない。ガチガチと鳴る奥歯を噛みしめて、ベッドから降りた。
 白い部屋を出ると、やはり白い廊下が続いている。しかし、その向こうに灰色に澱んだ部屋がある。ベラは笑う膝を叱咤しながら、そこへ向かった。
 ゆるゆると這い上ってくる黒い手があるようだ。足は重く、歯の根が合わず、今にも倒れてしまいそう。
 しかしそれでも、ベラはそこへと向かった。いつだって助けて貰ってばかりの自分。この銀幕市に来てからも、多くの人に助けて貰ってばかりで。だから自分が助けられるなら、そうしたかった。

 ──きたカ。
 大きな木の下、さらさらと流れる小川の脇、春の野原が広がる場所で、それは小さく呟いた。
 美しい声で歌っていた少女が、きょとりとこちらを見上げている。
 それは小さく笑って、その頭を撫でつけた。
 ──いいコだから、シズカにおやすミ。
 少女はとろりと瞼を閉じる。とさりと地に伏した少女は、この暗い底でただひとつ白く輝いていた。それは静かにその美しい髪を撫でつけ、すとそこから離れる。そしてぐるりと視線を巡らせた。
 ──アア、……

 その灰色の部屋に辿り着いて、ベラは息を呑んだ。
 灰色に翳んだ部屋の中に、横たわる真っ白い少女と、その少女の傍らに真っ黒い男が立っている。
 その少女の白い左手の甲には、種のように丸い痣、その腕を這い上る黒いツタ。少女の肌が雪のように白いだけに、その黒は際立って深く見えた。
「キたな、コノまちニすクウものヨ」
 男が口を開いた。その声はまるでトンネルの中で音が反響するように、灰色の部屋の中で反響する。ベラは座り込みそうになる足を必死で突っ張って、ドアに縋った。激しい目眩と吐き気がする。
「コノおんなノいのちハ、おれガあずカッタ。カエしてホしくば、クるがイイ」
 どこへ。
 それは、言われなくてもベラにはわかった。
 ふつふつと怒りが湧いて、唇を噛む。
「……夢魔アキレギア」
「ワタシをシるモノだったか。コレはイガイ」
 男は何故か笑ったように見えた。ベラは今にも沈み込んでしまいそうな意識を必死に掻き集めた。
「ナレバ、はなしハかんたん。おんなノいのちハアトみっか。スぎればイノチをオとそう」
 目の前が霞んでいく。気怠さにも似た眠気が襲ってきた。唇を強く噛むと、鉄の味が口の中に広がった。それでも、意識は沈んでいく。
 窓の外は、まるで血を流したように真っ赤に染まっている。
「カエれ。そしてツタえヨ。オンナのイノチはあとミッカだト」
 その声が途切れると同時に、ベラは気を失った。

 目が覚めると、そこは自分に宛がわれた白い部屋だった。アルディラの巨躯が心配そうに丸まっている。
「ア…ル、ディ……兄さ……?」
「大丈夫か、ベラ。真っ白い顔しやがって、死んでんのかと思ったぞ」
 ベラは笑った。ああ、アルディラだと、心底安心したのだ。ふと窓の外を見ると、青い空が広がっている。
 視線を白い天井に戻して、それからハッと窓の外を見た。
「おい、」
 アルディラの声。ベラは拳を握る。
 そんな。
 さっきは、確かに夕空だった。
「アルディラ兄さん、私、どれぐらい眠ってた?」
「ん? そうだな、半刻ってところじゃねぇか。飯食ってきたとこだし」
 ベラは目を見開いた。半刻。たった、それだけしか経っていないのか。
 では、あれは。
 さっきの、あの少女とあの男は。
「アルディラ兄さん、この病院に、悪魔に憑かれた女の子がいるの。……多分、だけど。その、確信は持てないけど……でも、彼奴はあと三日だって言ってた、急がないと女の子が危ない」
 ベラは青い瞳でアルディラの深い緑色をした目を見つめた。アルディラはじっとその青い瞳を見つめ返し、ふと微笑む。その白い髪をぽんぽんと叩いて、立ち上がった。
「わーった。悪魔はどんな奴だったか、覚えてっか?」
「黒い……黒い奴だった。全身真っ黒で……見た目は、それ以上思い出せない。……でも、そう、彼奴は夢魔アキレギア」
 アルディラは一瞬、瞠目した。ベラはそれに、首を傾げた。しかし次の瞬間にはただ綺麗な緑色の瞳が笑って、ベラの白い髪を大きな手がぽんぽんと叩いた。
「寝れそうだったら、寝とけ。変な夢見たら、言えよ。追っ払ってやるから」
「ちゃんと追い払ってくれる?」
「おうよ。オレぁ、ベラのアニキだからな」
 ベラはくすくすと笑った。
 いつだったか、夢見が悪くて飛び起きた事があった。その時、たまたまシャガールは別件で動いていて、そこにはアルディラだけが傍にいた。そうして同じような動作で、同じ台詞を言ったのだ。
 だから、ベラも言ってみた。あの時と、同じように。
「……ホントに?」
「オレがベラに嘘ついた事あったかぁ?」
 アルディラは笑った。その笑顔も、あの時と同じだ。どこか可笑しそうにしているから、アルディラも覚えているのかもしれない。
「ない。……今のところ」
 付け加えたところで、アルディラが盛大に笑った。開いたドアの向こうで、咳払いをする看護師。アルディラは苦笑いして肩を竦めた。ベラは笑った。
「オラ、もう寝ちまえ、このヤロウ」
 ぐりぐりと頭を撫で繰り回されながら、ベラは言い返す。
「野郎じゃない」
「ナマイキなガキめ」
 もう一度咳払いをする声がして、今度こそベラはベッドの中に押し込まれた。アルディラはぐしゃぐしゃと白い髪をかき回して、投げるように布団を掛ける。
「そんじゃ、後のこたぁアニキに任せて、オコチャマはもう寝ろ。目が覚めたら、お頭もいるからな」
「……うん」
 ぼさぼさになった頭を軽く撫でつけて、ベラは目を閉じた。
 目が覚めたら、アルディラが言っていたようにきっとシャガールが傍らに立っているだろう。
 あの時と、同じように。

 アルディラは緑の瞳をゆっくりと開いた。
 目の前には、まるで蝋人形のように白い顔をしたベラがいる。
「あの、」
 後ろから、控えめな声がして、アルディラは振り返った。彼に連絡を入れてくれた、看護師である。
「大丈夫ですか、その……ベラさんは」
「とりあえずはな。見舞いに来てくれたヤツもいたし、大丈夫だと思ってたんだが」
 アルディラは口端だけを持ち上げて笑う。それが凶悪に見えたのだろう、看護師はびくりと肩を竦めた。それに小さく笑って、アルディラは炎の刺青を撫でた。
「悪いが、対策課に連絡してくれるか。人数は三人が限度だ」
「え、あ、はい、ええと、……はい」
 看護師はペンを走らせる。
「急いでくれ、三日しかねぇんだ。それから、あー…うー……そうだな、戦闘力はなくてもいい。あるに越したこたぁ、ねぇが……意志の強いヤツを呼んでくれ」
 ヘタに攻撃すると、ベラが死ぬ。
 だから、強い精神力が必要だ。武器はいらない。『夢の中で戦う』からだ。
 メモを終えた看護師は、律儀に復唱して急いで歩き去っていった。足音が遠くなったのを確認して、アルディラはベラに向き直った。ベラはやはり、静かに眠っている。
「……またてめぇかよ、チクショウ」
 ベラの左腕。その細い白い左手の甲に、黒い痣がある。いつもは巻いている左腕の布が今は解かれ、痛々しい焼け跡が露出している。その上を、甲から伸びた黒いツタが這っている。
 ──夢魔アキレギア。
 それは、映画と呼ばれるアルディラたちの本来の世界で、ベラに憑いた悪魔。
 シャガールの話によると、それは映画には出ていない「設定」だ。しかし、それは自分らにとっては真実に起きた出来事だ。そしてあの時は、……ベラの腕に、消えない傷を作ってしまった。夢の中とはいえ、いや、夢の中だからこそ、ベラの体に掛かる負担はとてつもないものなのだ。
 アルディラは祈るようにベラの右手を握った。
「ぜってぇ、死なせねぇからな」

種別名シナリオ 管理番号930
クリエイター木原雨月(wdcr8267)
クリエイターコメントこんばんは。当シナリオをご覧頂き、誠にありがとうございます。
木原雨月です。

【Invasion】は、全三部からなるシナリオ群です。
当方の事情により、日程の設定が(木原にとっては)複雑になっております。
詳しい事は映画館の壁に貼り付けておりますので、ご参加をお考えの方はどうかそちらも併せてご覧頂きますよう、お願い申し上げます。
また、この三部作は公開時期がずれているとはいえ、時間軸はほぼ同じとなりますので、同一PC様による複数のシナリオへのご参加は、申し訳ありませんがご遠慮くださいますよう、重ねてお願い申し上げます。

 * * *

【Invasion】悪夢の見た夢
こちらでは、中央病院へと赴いていただき、ベラに憑いた悪魔「夢魔アキレギア」を落として戴きたく思います。
夢魔と表記しておりますが、エルドラドの城出現によって現れた、れっきとした(?)悪魔の一員です。

OPにもあるように、夢魔アキレギアとは夢の中で戦います。
夢は、ベラの夢の中です。アルディラが誘いますので、参加PC様方は中央病院の病室までいらしてください。※特に明記されていなければ、対策課からの依頼で訪れた事になります。
夢の中では、物理的な意味で武器などを持っていなくても、鮮明に思い描く事でその効力が発揮されるとお考えください。なので、思考が逸れたり、中断せざるを得なくなった場合には、効果は切れてしまいます。

当方の事情により、募集期間が非常に短くなっております。
その点にもどうぞご留意くださいませ。
それでは、皆様のご参加を心よりお待ちしております。

参加者
太助(czyt9111) ムービースター 男 10歳 タヌキ少年
霧生 村雨(cytf4921) ムービースター 男 18歳 始末屋
古森 凛(ccaf4756) ムービースター 男 18歳 諸国を巡る旅の楽師
<ノベル>

「えっ、ベラさんが?」
 霧生村雨が対策課に足を踏み入れると、植村の妙に素っ頓狂な声が耳に入った。
 そちらを見やると、植村は何かメモを取りながら、確認するように問答を繰り返す。やがて電話を置いた所で、村雨はカウンターへ寄った。
「どうしたんだ」
「霧生さん。そうだ、霧生さんは【アルラキス】のセイリオスさんとお知り合いでしたよね」
 続きを促すと、植村は先ほど取っていたメモを取り上げた。
「【アルラキス】のメンバーであるベラさんが、どうやら悪魔に憑かれたようなんです」
 村雨は、眉を潜める。
 悪魔と言えば、斬り裂きジャックの道崎、そして辻斬りの大川内といった凶悪犯罪者と村雨は対峙した事がある。あれは、悪魔がそれぞれの悪心に囁きかけ、犯罪を促したのだった。
 それが、ベラに憑いたとはどういう事だろう。
 それを感じ取ったのか、植村は慌てて手を振った。
「悪魔に憑かれたと言っても、ベラさんが何か犯罪を犯しているわけではありません。彼女はただ、眠っているだけです。どうやら夢魔という悪魔に取り憑かれたようで……」
「夢魔、とは興味深いですね。私にも話を聞かせていただけますか?」
 振り返れば、優しげな笑みを浮かべた青年が立っていた。立ち居振る舞いも優しいと言うが最も適当で、纏う雰囲気に若木のような活発さと清々しさが感じられる。
「古森凜と申します」
「霧生村雨」
 村雨は微かに目を細めて、一歩横に退く。隣に凜が立ち、植村が続けた。
「悪魔の名前は、夢魔アキレギアと言うそうです。映画の中では描かれていませんが、どうやらその中でもベラさんはその悪魔に取り憑かれています。放っておけば、ベラさんの命はあと三日」
「三日」
 村雨が呟くと、凜は口元に手をやって腕を組んだ。植村も沈痛な面持ちで俯く。
「アルディラさん……盗賊団【アルラキス】の副頭領ですが、その彼がベラさんの夢に皆さんを誘うそうです」
 凜の柳眉がぴくりと動いた。
「アルディラさんが夢に誘い、そしてベラさんに憑いた悪魔を退治して欲しいと。これが、依頼の内容です」
 しばしの沈黙が降りる。
 植村は、ベラの余命が三日だと告げたのはアキレギア本人である事、それを伝えたのはベラの夢に潜っていたアルディラである事を補足した。それから、他の【アルラキス】の面々は、溢れかえった悪魔への対応で病院へは行けない事を伝える。
「……その、夢魔アキレギアとやらがどういう奴なのかは知らないが」
 口を開いたのは村雨だった。
「人の魂を掠め取るような悪魔。そういう奴は気に入らないな」
 おまえはどうする。
 そう言うような目に、凜はほんの少し視線をずらし、小さく頷いた。
「行きます。……気になる事も、ありますので」

 ◆ ◆ ◆

 太助は籠を抱えて、今日も銀幕中央病院まで足を運んでいた。
 先日のアズマ山騒動の時、ベラがやっぱり無理をしていた事を改めて知った。だから、今日もまたお見舞いに来たのだ。ちなみに今日の品はイチゴのゼリーである。前と同じように少しだけ深呼吸をして、明るい声を努めて、白い扉を開いた。
「ぽよんすー、ベラ!」
 がらりと開けると、振り返ったのは三人の男達だった。アルディラ、村雨、そして凜。
 太助は目を瞬いて、それから破顔した。
「なんだ、みんなそろってベラのお見舞いか。よかった、ベラ……」
 ほてほてとタヌキ姿のその後ろ足でベット脇まで歩いてきて、太助は思わず籠を取り落としそうになった。太助の真っ黒い瞳の中に、ベラの白い腕と、痛々しいまでの火傷の痕と、そして白い腕の中でいっそう黒く禍々しい痣が映った。
「……なんだよ、これ」
 声が震えた。太助は縋るようにアルディラを見上げる。
「なんでコレが、ベラの腕にあるんだよ。元気になったんじゃ、ないのかっ?」
「落ち着け、タスケ」
 アルディラが大きな手で小さな頭を撫でた。太助は今にも泣き出しそうな顔で、その顔を見上げる。
「なんなんだよ、これっ……どうして、なんでベラなんだっ?」
「こいつは、夢魔アキレギア。夢に巣くう悪魔……夢魔だ。夢魔は夢に取り憑き、憑いた対象の生気を吸い取り衰弱させ、死に至らせる。……こいつがベラに憑くのは二度目だ。随分昔にも憑いた事がある」
 太助は目を見開いた。
「俺らは、その夢魔を落とす為に、対策課からの依頼で来たんだ」
 村雨の声に、太助は籠をぎゅうと抱いた。
「……助けるほうほうは、あんのか?」
 アルディラは緑の瞳を太助に向けた。
「ある」
「わかった。やる」
 黒い瞳で、太助はアルディラを見上げた。緑の瞳に、真剣な眼差しの太助が映った。
「俺、ベラに笑っててほしい。みんなで一緒に。だから、やる」
 アルディラはしばらくその黒い瞳を見つめて、やがてふと笑った。大きな手で、小さな太助の頭をそっと撫でた。
「ありがとな」
「そうと決まれば、くわしいはなしをきかせてくれよっ! 何にも知らないで、なんかまずいことしたら、やだかんな!」
 びしっと太助が指を指し、室内に僅かに和んだ空気が流れた。
 アルディラは頷いて、三人を見回す。
「ムラサメとリンは聞いてるかもしれねぇが、アキレギアはベラの夢ん中にいる。だから、三人にはベラの夢の中に入って貰う事になる」
「どうやって入るんだ?」
「体はここ……つまり、現実世界にあるままだ。精神だけ、ベラの中に送り込む。そういうのを夢を渡るっつーんだが……わかりやすく言うと、あれだ、ユウタイリダツみたいなモンだ」
 そんな事できんのか、と太助の目が驚きに見開かれる。できるんだ、とアルディラはわしわしと太助の頭を撫でた。
「この」
 村雨の声に、アルディラは顔を上げる。村雨はベラの左腕を見やった。
「この火傷の痕は、悪魔に憑かれた名残か? それとも、炎で祓った名残か?」
 アルディラは笑みを引いた。
 それからベラの顔にかかった髪を払いながら、低く口を開いた。
「炎で祓った名残だ。アイツら悪魔は、炎を穢して現れる。だから、清浄な炎で還した。だが、炎が大きすぎた……それでベラの腕に痕が残った。それで俺は、この刺青を入れた。ベラは覚えてねぇが、俺は忘れちゃいけねぇ。こんなもんで償いになると思ってねぇが、なんかしねぇでいられんかった」
 緑の瞳が揺れる。
「……幾つか聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」
 その横顔を見つめながら、じっと黙っていた凛が口を開く。アルディラは緑色の瞳をその黒い瞳に向けた。それを肯定と取って、凛は続ける。
「ベラさんがこの悪魔に憑かれたのは二度目だという事ですが、ベラさんとその悪魔には、どのような関係性があるのですか?」
 緑の瞳が微かに細められる。少しの沈黙があって、アルディラは首に手をやった。炎の刺青を撫でる様に掻いて、三人を見回した。
「早く集まってくれたからな、少し時間ができた。少し長くなるが、話そう」
 アルディラが座り直して、村雨と凛もまた座り直した。太助はお見舞いの籠をベット脇の小さなテーブルの上に置いて、ベラの眠るベットに腰掛けた。禍々しい黒い痣のある左手を、きゅうと握った。それに小さく笑んで、アルディラは静かに口を開いた。
「俺たちの能力というのは、瞳の色に出る。炎なら紅玉、水なら蒼玉、風なら鶯玉って具合だな。だが、そんな風に色が出るのは特殊な事で、普通は砂玉の瞳をしている。俺ら【アルラキス】が変わり者の集まりって言われんのは、この辺が由来してんだな」
 太助は【アルラキス】の面々を思い浮かべた。
 シャガールは瑠璃色、アルディラは緑色、セイリオスは赤、ハリスは金、ベラは青。
 確かに、色とりどりの瞳を持っている。
 アルディラは続けた。
「ハリスが水属性のクセに変な色をしてんのは、アイツが人間じゃねぇからだ。まあ、精霊みたいなもんだと思ってりゃあいい。セイリオスは知ってるだろうが、炎の一族の出だからだ。……それで、ベラだが」
 凛は続きを待つ。
「青い瞳は、悪魔の印だ」
 太助と村雨が息を呑む。凛は微かに眉を顰めただけで、アルディラをじっと見返した。
「正確に言えば、悪魔封じの一族だ。元々は悪魔と対を為す一族だったらしいが、詳しい事はわからん。それがどうしたわけか悪魔と混血になった事で、悪魔封じの力を手に入れたって話だ。ともかく、混血した事で悪魔の青玉になった。だが、それからもう何百年も経ってる今になって悪魔の色が出るような奴ぁ、そういるもんじゃねぇ。さっきも言ったが、そもそもこの一族は悪魔と戦う為にいたんだ。青が出る奴ぁ、悪魔の力も持ってる分、対悪魔に強い。だからそういう奴ぁ、悪魔を祀る神官になる。お頭も、その一人だった」
「シャガールが?」
 太助が驚いた声を上げた。それにアルディラは頷く。
「お頭の瞳の色はかなり濃い。大神官並だ。そして、ベラも神官候補の一人だった。だが、ベラには神官としての力はなかった」
「祓う力が無かった、って事か?」
 村雨が言うと、アルディラはまた頷いた。
「悪魔の力は確かに継いでる。だから修行をすれば、祓う力も付くはずだった。だが、ベラはその力を発現しなかった。それどころか、悪魔を引き寄せる力がある事がわかった。……わかった時には、神殿の封印が解けて村は滅んでいた」
 アルディラは何か思い出すように目を閉じ、息を吐いた。
「俺らが着いた時には、瓦礫になった村と、悪魔に憑かれて眠っているベラだけがいた。その時憑いてた悪魔が、アキレギアだ。アキレギアは夢を渡る。悪魔の血を色濃く継いだベラは格好の獲物だったわけだ。元々弱っていた亀裂からベラの夢を介し、どうしようもねぇ国王まで渡り、封印の最後の要を破壊させ、エルドラドが復活した」
 緑の瞳が怒りに揺れて、拳がベット脇の台を打った。上に乗った籠が飛び跳ね、びくりと太助が跳ね上がる。アルディラは苦笑して、わしわしと太助の頭を撫で繰り回した。それから凜に向く。
「……ベラと悪魔の関係んトコは、これで答えになったかい」
 凜はじっとアルディラの瞳を見つめて、頷いた。
「では、もう一つ。……あなたは何故、夢へ侵入する事が出来るのですか」
 村雨は、はっとして凜を見た。そして僅かに眉根を寄せる。太助はきょとりと凜を見上げた。
「……なるほど」
 アルディラは顎に手をやって、少し笑った。凜が眉を微かに跳ね上げると、首を振って両手を上げた。
「夢を渡り合うんだ、そう考えるのは自然だ」
 太助がぎょっとしたように凜を振り仰いだ。凜は変わらずアルディラを見据えている。
 そんな筈はない。
 お頭がいないと泣きべそを掻いていたアルディラを、ベラへのホワイトデーに悩んでいたアルディラを知っている。
 だから、太助はアルディラを見上げた。
「そんなこと、ないよな?」
 アルディラはそんな黒い瞳に、笑った。
「緑の瞳は、夢見の一族だ。夢見ったって、別に過去やら未来やらが見えるわけじゃねぇ。ただ、他人の夢を見ちまったりする、面倒な力だ。昔は国王付きの夢見師だったらしいがな、政争に使われんのは面倒くせぇってんで、ひいひいひいじじぃ辺りだったかに出奔、めでたく盗賊になったってわけだ」
 盗賊ってぇのは、何にも縛られねぇ、追われる立場も変わらねぇし、常に移動してっからな。
「……ま、これのお陰で面倒くせぇ事にゃ何度もなったが、お頭に会えたし、ベラを見つける事が出来た。だから、そう悪ぃモンでもねぇかと思ってる。他人を夢に誘い渡らせるってのは、一応一族に伝わる秘術なんで、まずやらねぇんだが、事が事だからな」
 ガリガリと頭を掻いて、アルディラは凜に向き直った。
「おめぇさんの納得のいく答えは、出たかい」
 黒い厳しい瞳を緩ませて、凜は申し訳なさそうに微笑んだ。
「はい」

 ◆

 村雨は退魔の香をベラの枕元で焚いた。太助は人並み以上に嗅覚が優れている為に顔をしかめて、村雨はそれに苦笑した。効果があるかどうかはわからない。しかし、少しでも負担を軽くできれば。
「氷魚」
 村雨が小さく呼ぶと、ゆらゆらと村雨の周りを揺蕩う魚のアヤカシは、するりとアルディラに寄り添った。アルディラが手を振ると、氷魚はぴしりとその頭を尻尾で叩いた。
「なんだこりゃ」
「氷魚という。こいつは記憶を辿る事が出来る。それの応用で、夢の中の俺たちが離れ離れにならないように知らせてくれる」
 感心したように頷いて、ぼんやりと漂うそれに「よろしくな」と呟いた。
 そして、三人を見回す。
「準備はいいか」
 アルディラの声に、三人は力強く頷いた。

 目を閉じて、全身の力を抜く。瞼を透かして差し込む光が、何枚ものベールを重ねていくように少しずつ弱まり暗くなっていく。目を閉じているせいか、アルディラの低い声がやけに耳に響き、しかしそれも少しずつ遠退いていく。香の薫りが一層強くなり、ふうわりとした浮遊感に一瞬戸惑い不安になる。しかしすぐに、しっかりとした命綱のようなものを感じる。
 凜は、アルディラが少し驚いて笑ったような気配を感じた。悟りの力はそれぞれの精神に及ぶ。互いの存在を認識という綱で結んだのだ。氷魚の介入もあって、それぞれの意識が夢の中に確立する。アルディラが密かに危惧していた自己の霧散はなかった。彼らの意志が強い事が、一番の理由であろう。
 ──やるじゃねぇか。
 アルディラは頼もしげに笑う。緑の瞳が光を弾きながら揺らいで、三人の意識を少しずつベラの夢の中へと誘っていった。

 暗闇の中を行く三人の目の前には、扉があった。闇の中にぽつりとある、ボロボロの扉だ。しかしその見た目に反して、扉には頑丈な鍵が掛けられ、鎖で雁字搦めにされている。
「これは……?」
 村雨が思わず呟くと、凜はふむ、と腕を組む。
「恐らく、これがベラさんの夢への入り口なのでしょう。しかしガードが堅い」
 思わず眉間に皺を寄せ、どうしたものかと思案する。太助は扉を見上げた。
 この向こうに、ベラがいる。
 太助はすう、と息を吸い込んだ。
「ベラ! 助けに来たぞ!」
 太助の声に、ぎちり、と鎖が音を立てて震えた。村雨と凜は太助に驚きながら、僅かに身構える。太助は更に声を上げた。
「ベラ、聞こえてるか! ちゃんと助けに来たからな!」
 次の瞬間鎖が落ち、錠が下りて薫風と共に扉が開いた。光の洪水に思わず腕で目を庇う。
 しばらくすると耳に、さらさらと流れる川の音と、ささめく葉擦れの音が届いて腕を下ろす。
 そこには、広々とした春の野原が広がっていた。
 村雨は辺りを見渡し、思わず感嘆のため息を漏らした。そこはあまりに清々しく、それでいて愛らしかった。ベラとはすれ違う程度の面識しかないが、なんという美しい夢を持つ少女なのだろうと思う。あの堅く武骨な扉からはまるで想像もできない、なんとも慎ましげな光景であった。
 それとも。
 これは、夢魔アキレギアが見せている、幻影なのか。しかしだとしたら、なぜこんなにも美しい世界なのだろう。
 太助は広大な春の野原を見渡して、少し不安になった。こんなにも綺麗でこんなにも広い場所で、ベラは一人でいるのだろうか。そう思うと、寂しくて悲しかった。早く見つけて、早く笑い声を聞きたい。太助は水の流れる音と風のささめく音を聞きながら、ベラの姿を捜した。
「おい」
 村雨の声に、太助は顔を上げる。村雨が指し示す先に、大きな木が一本、緑の葉を青々と茂らせて生えていた。その脇に、キラキラと輝くものがいる。薫風がそよぐと、それに乗せて澄んだ美しい歌声が聞こえる。太助は駆けだした。
 広い、本当に広い野原だった。そして大きな大きな木だった。走っても走ってもなかなか辿り着かず、しかし耳に届くその歌声は確かに大きくなっていって、太助は駆け続けた。その後ろを、村雨と凜が追い掛ける。
 ようやく木の脇に立つ者の姿が見えるようになると、輝いて見えたのはそよ風に吹かれて煌めくサンシャインイエローの髪だとわかった。後ろ姿なので顔は見えないが、髪の色が違ってもそれが誰だか太助にはわかった。思わず笑みが溢れる。
「ベラ!」
 呼んで、太助は少女に抱きつく。よかった。見つけた。
「助けに来たぞ、もう、だいじょぶだからな」
 太助は腕に力を込めた。歌声が響き続ける。太助は少女を見上げた。少女は青い瞳を空へと向けて、歌い続けている。不安になって肩口にひょいと飛び乗るが、少女はまるで気にした風もなく、まるでオルゴールのように歌い続けた。
「待ってください、太助さん」
 凜の静かな声で、振り返る。しかし声とは裏腹に、その顔は厳しく、太助は途方に暮れたようにその黒い瞳を見返した。
「なあ、なんで返事しないんだ? ここはベラの夢なんだろう?」
「夢というより、記憶の一部なのかもしれません」
「そうだな。ずっと同じ場所を繰り返しているような感じがする」
 凜と村雨の言葉に、太助はベラにしか見えないサンシャインイエローの髪の少女を見た。歌声はどこまでも伸びやかで、空を見つめる青い瞳はビー玉のようだ。
「じゃあ……じゃあ、本物のベラはどこにいるんだ」
「それを、今から捜します」
 凜は静かに目を閉じる。静かに息を吐き出し、意識を集中させる。耳には小川の流れる音、風の音、少女の歌声、そして村雨と太助の息遣いまではっきりと届いた。
 『悟り』の範囲をベラの精神世界全体に広げようとした、その時。凜の『悟り』の意識は歌声に乗って天高く舞い上がった。凜は驚いたが、すぐに心を落ち着ける。まるで歌声が、自分を導いているように感じたからだ。
 空へ空へ、凜の『悟り』はゆるやかに登っていく。

 ──きたカ。

 ふいの意識の介入に、凜はぴくりと眉根を寄せた。
 見やれば、青い空に微かな亀裂がある。そこへ吸い込まれるように滑り込むと、視界が真っ暗になった。いや、ただ延々と闇が広がる場所へと出た。『悟り』は広がり、把握に奔走する。そしてその【底】に、ぽつりと白いものを見つけた。
 ゆっくりと水の中へ沈み込んでいくように、『悟り』は降りていった。
 黒い……黒い影が見える。まるで闇と同化しているかのように、その姿は朧ではっきりとは見えない。しかしその足下で、白い髪の少女が眠っているだけは、やけにはっきりと見えた。
 ふう、と黒い影がこちらを見上げたように感じた。黒と同化したその中に、白い髪の少女とは違う青白い肌がぽっかりと浮かび、血のように赤い唇が歪んだ。
 ──きたカ、コノまちニすクウものヨ。
「夢魔アキレギア」
 呟いた意識に、赤い唇は更に歪んだ。
 ──ワタシをシるモノだったか。ナレバ、はなしハかんたん。
 トンネルの中で響くような声に、凜の『悟り』が僅かに歪む。
 凜は必死で意識を掻き集めた。
 ──コノおんなノいのちハ、おれガあずカッタ。カエしてホしくば、クるがイイ。
 パキン。
 弾けるように『悟り』は霧散し、凜は冷や汗をかいて春の野に膝を付いた。
「りん!」
 太助の声に凜は小さく笑ってみせる。静かに息を吐いて、差し出された村雨の手を取って、すと立ち上がった。
「……霧生さん、太助さん。ベラさんとアキレギアの場所を見つけました」

 太助は巨大な翼竜に変化し、二人を乗せて空を目掛けて舞い上がった。
 夢の中では想像力が何者にも勝る。変化を得意とする太助にとっては、容易い事だ。
 亀裂は容易に見つかった。凜の『悟り』が弾かれた時、どうやら亀裂は更に広がったらしい。真っ黒な空間が青い空の中でぽっかりと口を開けている。
 太助は振り返った。振り返った先では、今はもう点にしか見えない金色の光が真っ直ぐにこちらへ向かっている。太助はきゅっと一文字に口を引き結んで、亀裂の中へと躍り込んだ。
 亀裂の中は、聞いていたように闇だった。しかし、なぜか自分は見える。それが不思議だった。太助は静かに下降していく。そして、黒の中に白い髪のベラを見つけた。
「キたな、コノまちニすクウものヨ」
 太助が声を発するより先に、男の声が反響した。その声はまるでトンネルのにいるかのように、暗闇の中でうわんと響く。
 太助はじっとりと汗ばむのを感じた。冷や汗。自分を奮い立たせるように、轟と吼えた。ビリビリと空気が震え、男の顔が露わになる。
 青白い肌。闇と同じ漆黒の髪。瞳はガラス玉のような青。その中で、唇だけが血のように赤い。薄く歪んだ唇は、笑みを浮かべていた。
「お前がアキレギアか」
「いかニモ」
 村雨の声はまるで吸い込まれるように消えていくのに、アキレギアの声はやはりうわんと響いた。
 アキレギアのその足下と思われる場所に、眠るようにベラが倒れている。ぎり、と太助は牙を鳴らした。それを抑えるように、凜が一歩前へ出る。
「聞きたい事があります」
「オまえハそれバカリ。きキタクバ、チカラヅくでキくがイい!」
 声が一層大きく響き、ざあざあと音を立ててアキレギアは闇より深い黒を纏って広がっていく。倒れたベラの体が漆黒の闇の中に消えていく。
「ベラ!」
 太助は叫ぶ。
「ここはやり直しもできる街だ! アルラキスの皆は幸せになるんだ! お前は邪魔をするな!」
 ──ベラを助ける、悪魔から人を救う!
 ごお、と竜に変じた太助は火を噴いた。東雲の炎が暗闇を照らし出していく。驚きと小さな笑い声が聞こえて、村雨は瞬間的に銃をイメージした。何も持っていなかったはずの手に、使い慣れた冷たい重みを感じる。強い思いは力になる。ならば。
「姿を見せろ、アキレギア」
 村雨が言葉を発した途端、まるで水に石を投じたように、炎に照らされた暗闇が揺らめき蠢く。その中心に向け、引き金を引いた。小さな呻きと笑い声が、いやに響く。
 凜は掌に勾玉と仕込み刀を具現化する。
「しらき」
 凜が呟くと、勾玉は紫炎に燃え上がり、紫の炎で形作られた鬼がその巨体を表した。紫炎の鬼は凜に纏わり付く漆黒を一声吼える事で取り払った。
 アキレギアは一層笑みを深めて、再び漆黒で覆わんと広がる。
「バカの一つ覚えじゃあるまいし」
 村雨は再び銃をイメージする。長時間イメージを持続させるより、瞬間的にイメージする方が疲れないのではないか。それは村雨には非常に合った方法で、銃を引き抜いたその瞬間の手の感触は、確かに実態としてそこに現れた。引き金を弾くまでの時間は、一秒を要しない。
 村雨の銃が火を噴くと同時、太助の東雲の炎としらきの紫の炎がアキレギアに襲いかかる。アキレギアは腕で庇うような動きをしながら、呻く。
 それでもなお、その血色の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
 太助はぞわぞわと背筋が寒くなるのを感じながら、何かひっかかりを覚えていた。
 どうして、避けようとしない。
 どうして、笑っているんだ。
 ゆらりと変身が解けそうになって、太助は慌てて思考を振り払った。ベラを助ける。それが今、一番優先しなければならない事だ。
「太助さん!」
 凜の声。
「え」
 太助が竜の姿を持ち直したその瞬間、漆黒が這い上り目の前が真っ暗になる。くつくつと笑うアキレギアの声。
「……分断させられましたか」
 しかし、それならそれで、やりやすい。
 凜はしらきに目配せをする。それに忠実に頷いたのを確認して、漆黒の中目を閉じた。

「村雨! 凜! ベラ!」
 太助は暗闇の中で叫んだ。
 声は響かず、まるで粘土に包まれたような奇妙な生ぬるさがあって、それが一層不安を掻き立てた。アキレギアの低い笑い声だけが響き渡って、ぞわぞわと背筋を這い回る。いつの間にか竜変身も解けて、子狸の姿に戻っていた。
 太助は頭を振る。
 ──ベラを助ける、悪魔から人を救う。
 ぎゅうと目をつぶり、太助は念じる。
 ──皆を守る。
 みんな。
 みんな、だ。
 太助は目を開けた。
 目の前には。
 青白い顔から黒い涙を流した、ベラと同じ青いガラス玉のような瞳を持つ夢魔。
 それは彼の深遠なる淵より姿を現した絶望の申し子に似て。
 叫んだ。
 言葉になんかならない。
 言葉になんかしたくない。
 こんな。
 こんな。
 闇の中に太助の絶叫が吸い込まれていく。

 村雨は漆黒の中で、自分の手を、顔を、体を、足を触って、その存在を確認していく。やがてぼんやりとしていた輪郭がはっきりとし、自分が今ここに立っている事を意識する。
「俺は、霧生村雨」
 声に出す。相変わらず闇に吸い込まれて響かないが、自分の声は自分の耳にしっかりと届いている。
「氷魚」
 声にして呼べば、確かにその存在を感じる事ができる。氷魚によれば、三人はすぐ傍に居る。しかし、この暗闇が邪魔をし、孤立しているかのように思わされているだけだとわかった。
「子供騙しだな」
 くつくつと響くアキレギアの笑い声を聞きながら、村雨は強い鮮烈なイメージを脳裏に浮かべた。
 途端、太助の絶叫が氷魚を通して響き渡る。

 凜は意識を下へ下へと伸ばしていった。
 三人の意識は、村雨の氷魚のお陰で一人でリンクさせるよりも確かに鮮明な意志として感じる事ができる。それを、ベラの精神まで広げられないか。
 ベラを捜して、凜は更に下へ下へと降りていく。
 ──やめろ。
 ふいの声に、凜は立ち止まった。
「アルディラさん」
 ──それ以上、潜るな。戻れなくなる。
「潜っているのは、精神体です。問題在りません」
 ──お前じゃねぇ。
 微かな苛立ちに、凜は眉を潜めた。
 ベラは意識を失っている。ならば思考のリンクをベラにまで広げ、覚醒を促す。ベラ自身の対抗。それが夢魔の支配からベラの精神を奪い返す、最も有効な手段だろう。
 それを言おうとしたが、その思考は精神体であるが故に、言葉にしないでもアルディラに届いたようだ。
 ──駄目だ。それ以上は行かせられねぇ。
 引き上げるような浮遊感に、凜は更に眉根を寄せた。
「あなたと争う気はありません」
 ──頼む。精神以上に、体が弱りすぎてんだ。気力があったとして、ベラの体は堪えられねぇ。
 アルディラの思考が映像として流れ込んでくる。又聞きしたような映像で、あまり鮮明ではない。それは、血の海と言って差し支えない中で、ベラが小さく蹲っている姿だった。その青い瞳は今にも狂気を宿してしまいそうな程に激しく揺れている。
 凜は瞠目した。
 青い瞳は、悪魔の印。
 ──わかってくれ、リン。頼む。
 アルディラの痛切な声。凜は潜っていった意識を少しずつ上昇させる。
「わかりました」
 アルディラが言っていたその言葉の意味を、凜はその時はっきりと理解した。
 途端、太助の絶叫が村雨の氷魚と自らの悟りを通して響き渡る。
「上げてください!」
 叫んでいた。
 深く潜りすぎたか、自らで上がるには距離がありすぎる。
 アルディラの応があって、凜はしらきの元まで上がった。鮮烈な閃光がほとばしり、アキレギアの哄笑が一際大きく響き渡る。村雨、それから。
「太助!」
 村雨が駆け寄る。蜃気楼のように歪みかけた子狸姿の太助は、めちゃくちゃに腕を振った。
「太助っ!」
 村雨がその体を揺すってもう一度声を張り上げると、太助はようやく村雨に気付いた。その頬が涙で濡れている。村雨はその小さな体を抱き上げて、アキレギアを睨め付けた。哄笑は続く。
 漆黒の壁がないからか。太助の意識が直に鮮明に流れ込んでくる。

 ◇

 春の野原で歌う、サンシャインイエローの髪をしたベラがいる。
 その後ろには大きな木があって、その影からアキレギアがベラを見つめている。
 ベラの歌声はどこまでも透き通っていた。
 アキレギアの青いガラス玉の瞳はどこまでも優しい。
 青い瞳は、悪魔の血を継ぐ印。
 血族の血を辿る事は容易く、またベラは祓う力を持っていなかった。
 類い希なる先祖返りの少女は、『贄』に丁度良かった。
 アキレギアがベラに憑いたのは、偶然だったが必然でもあった。
 しかしアキレギアは。
 その透き通った美しい歌声に。
 そのあまりに美しい夢に。


                      ────魅せられたのだ。


 ずっと見ていたかった。
 ずっと共にありたかった。
 通じ合わなくていい。
 ただ、ずっと。
 けれど、夢魔アキレギアは悪魔だ。
 悪魔に魅入られた者は、必ず死ぬ。

 だから──…

 ◇

「まッテイタ。おマエたちがクるのを」
 悪魔アキレギアは。
 笑っていた。
 それは。
 それは。
 悲しい程に優しく。

 びょるびょるとフィルムが蠢く音がする。
 太助は俯いた。

「なんでだよぅ」

 太助は消え入りそうな程の声は、暗闇の中で木霊した。


 とす。
 微かな。
 本当に微かな、そんな音がして。
 アキレギアはゆっくりと倒れていった。
「古森」
 村雨の声。
 凜は、それは小さく苦笑った。
 すすり泣く太助の声。
 その向こうから。
 遠い空の向こうから、美しい歌声が響いている。
 それに合わせる笛の音がする。
 凜の笛だ。
 アキレギアは黒い涙を流した顔で、微かな切れ間に見える美しい青を仰いだ。
 瞬間、亀裂から青い光が溢れ、春の野が広がる。

 ──ああ。

        ──この夢は、なんと美しい。




 ◆

 瞬くと、白い病室の中に居た。
 ベラの横には、刀を手にした凜が立っている。
「それ」
「鬼の骨より作り出した刀です。金属はもちろんの事、実体のないものも斬る事ができます」
 あまりに根が深く、弱らせてからでないと危険だった。
 太助はしばらくそれを見ていたが、ふいと視線をそらす。その先に、火傷の痕が残る白い腕が見えた。黒い痣は、どこにも見えない。
 カラリと乾いた音がして、そちらに視線を向けた。
 黒いフィルム。
 村雨が窓を開けた。
 ざあ、と風が吹いて。
 ぼろぼろとフィルムは崩れ去り。
 跡形もなく、消えた。
「……ぅ……」
 小さな呻き声に、太助は弾かれたようにベットによじ登った。
「ベラ!」
 呼びかけると、白い瞼の隙間から青いガラス玉のような瞳が見える。眩しそうに瞬きをして、太助と目が合う。
「ベラ、だいじょぶか。もうだいじょぶだぞ。俺がわかるか?」
 ベラはふうわりと笑った。
「……太助さん」
 太助はその白い首に抱きついた。温かい。温かい、とても。
 ベラはそのふかふかの体を抱きしめて、凜と村雨を見上げた。
「ありがとう」
 その青い瞳が、微かに揺れて。
 村雨は小さく首を振り、静かに病室を出て行った。
「対策課に連絡をしてくる」
 そう、言い置いて。
「そうだベラ、俺、おみやげもってきたんだぞ。今日はイチゴのゼリーだ! 食えるなら、食おうぜ」
 太助は明るい声を出す。ベット脇に置いた籠を取り上げ、上手そうだろう、と笑ってみせた。
 ベラは小さく笑み、アルディラが手伝って体を起こした。
 凜は少し考えるようにベラをじっと見て、やがて笛を軽く持ち上げた。
「いかがですか、一曲」
「……ぜひ」
 白い病室の中に、春の野原を思わせる笛の音が響き渡った。

クリエイターコメントお待たせ致しまして、申し訳ありません。
木原雨月です。
皆様のおかげで、ベラは無事に救出されました。ありがとうございます。
何かお気づきの点などございましたら、遠慮無くおっしゃってください。
この度はご参加、誠にありがとうございました。
公開日時2009-02-17(火) 19:00
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