★ 歌舞伎町奇譚 ★
クリエイター八鹿(wrze7822)
管理番号830-7409 オファー日2009-04-15(水) 22:00
オファーPC 香玖耶・アリシエート(cndp1220) ムービースター 女 25歳 トラブル・バスター
ゲストPC1 シグルス・グラムナート(cmda9569) ムービースター 男 20歳 司祭
<ノベル>


 <1>

 ゆっくりと瞬いて、それから視線を流す。
 組んでいた足を解いて立ち上がり、窓の傍までの6歩を8秒で歩む。
 窓枠に手を掛けて、そこから見える筈の色彩豊かな夜景に目を細めてから言う。
「面白そうね」
 悪戯に微笑んだ、つもりで振り返る。
 そこで――
「カーーーット」
 監督の声が飛んだ。
「お疲れでーす!」
「良かったよぉ、カグヤちゃぁん!」
「2カメ、位置変えまーす!」
「やっぱりあおりも欲しいな、今のもう一本撮れないもんかねぇ」
「余裕無いッスよ」
「何してんだァ! 照明被るってんだろがァ! どかせどかせェッ!」
 一気に沸いた騒がしい声と共に、慌しげな人達がどかどかと行き交い始める。
 事務所は半切りのセットで、様々な照明のぶら下がる天井は高い。機材と照明と人々の発する熱が篭もり、独特の空気が渦巻いている。つまり、そこはドラマの撮影スタジオだった。
「……はぁー」
 香玖耶は忙しく走り回る人達の中からスタジオの端に設けられた休憩用スペースの方へと、ようやく抜け出して肩ごと息を付いた。
 銀色の長髪と耳元の紅い石のイヤリング。
 黒のタイトミニとロングブーツ。黒いジャケットの下、開かれた白いシャツの胸元ではロザリオが揺れる。
「はは、お疲れ」
 シグルスが椅子に腰掛けた格好で暢気に笑い掛けてくる。
「シヴはお気楽で良いわよね……」
 彼を恨めしげに見遣りながら、簡易テーブルの上に置かれたジュースを手に取る。
 香玖耶のそんな視線にさらされながらもシグルスは楽しそうに笑いを噛んだ。
 淡色のカットソーにカーディガンといった緩い格好の首には、香玖耶と同じ形のロザリオが下げられていた。香玖耶のロザリオの方が遥かに長い時を経ているが。
「つか、演技下手だよな、カグヤ。表情は硬いし、台詞も棒読み」
 金色の髪の下、緑色の瞳が悪戯っぽく細められる。
「自分でも判ってるわよ」
 はぁ、と香玖耶は嘆息して、用意されていた椅子に腰掛ける。
 テーブルに頬杖ついて、ちんぷんかんぷんの専門用語を交わしながら次のシーンの準備をしている人達を眺めながらボヤいてしまう。
「うー、こういうのは苦手なのにぃ……それに、自分で自分を演じるなんて、こんなトンチンカンな事ってある?」
「自分のまんまをやれば良いんだろ? 普通に考えれば楽な仕事だと思うけどな」
「他人事だと思って」
「まあ、その通りだし。それに、俺が代わってやれる事でもない」
 からかうように言われて、
「うー……」
 カグヤは頭を掻きながらテーブルに突っ伏した。
「もう、なんで失踪なんかするのよー」
 

 銀幕市の外れに『繋ぎゆくもの』の歌舞伎町の一角が実体化したらしい、という話を聞いたのは数日前の事。
 懐かしさもあって、行ってみようと思ってはいたのだが、仕事仕事と忙しさに追われ、結局叶わぬままでいた。
 今回の依頼人が香玖耶の事務所兼住居のマンションに訪れたのは、ちょうど其処へ遊びに来ていたシグルスと歌舞伎町に行ってみようかなどと話していた時だった。
 依頼人の名は。
「畠山 洋一郎と申します」
 名刺が差し出される。
 香玖耶は名刺を覗きながら首を傾げた。
「番組制作のプロデューサーさん……?」
「ええ、今はドラマの方を製作しております。最近ですと、ミズデカ……水着刑事などですね。ご存知ですか?」
 問われて、香玖耶はシグルスの方に視線を向ける。
 部屋の端でポートレートを見ていたシグルスは軽く肩を竦めてみせただけ。
「すいません」 
 香玖耶は畠山の方へと困ったように笑って。それから、小首を傾げる。
「ええと、依頼されたい仕事の内容というのは?」
 香玖耶に促され、畠山は頷いて、一拍置いてから鼻の頭に皺を寄せた。
「最近は不景気不景気で何処のスポンサーも渋ちんでして……」
 妙に口調が砕ける。
「上から聞こえるのは低予算低予算。それでいて求められる視聴率は高いときて、まったく頭がイタタです」
「イタタ……?」
「さて、そんな私どもの現状を救う一本の蜘蛛の糸的な情報が、この耳に」
「え、ええ」
 畠山が己の耳を指差しながら、ぐっとテーブルの上に身を乗り出して顔を近づけてきたので、香玖耶は口元を揺らしながら少し仰け反った。
 いつの間にかテーブルの傍に椅子を寄せていたシグルスが、畠山を窺うような格好で片眉をあげる。
「情報?」
「ここ銀幕市に、歌舞伎町が実体化したというじゃあありませんか」
 ふふん、と畠山の鼻息が荒くシグルスの方を見遣って言う。
「私ァ、ぴーんときましたよ。こりゃあチャンスだってね。実際の歌舞伎町でロケをしようとしたら、これはもうえらい経費なわけですよ。無人の歌舞伎町で一日中ロケがし放題となれば、これを使わない手は無い! そして、歌舞伎町といえば映画『繋ぎゆくもの』! はいきたこれ、ドラマスペシャル!!」
 ぱぁ、と両手を広げた畠山を香玖耶は、ついまじまじと見てしまっていた。少し距離を取りつつ。
(……む、無駄にテンションの高い人ね……)
「そこで、『繋ぎゆくもの』TVドラマスペシャルと題しまして、ここ銀幕市で撮影を行っていたのですがぁ……ちょっと問題が」
「問題?」
「ええ……主演、つまり香玖耶役の女優が、失踪してしまったんです」
「なるほど、ね」
 香玖耶は得心して頷く。
「その女優を探し出せばいいのね。失踪者の特徴はー……私と同じ、か」
 何だか妙な気分で、唇に人差し指を当てながら眉を曲げる。まさか自分で自分を探すことになるとは。
「あ、いえ。いえいえ。違うんです」
「へ?」
 畠山が思案色の香玖耶の顔前でぱたぱたと手を振ったので、香玖耶は首を傾げた。
「失踪した女優の代わりに、ですね。香玖耶さまには香玖耶を演じて頂こう、かと」
 香玖耶はケトっと目を開いたまま暫し固まり。
 そして。
「え……? ええええーー!?」
「もう撮影期限もギリギリな上に、最初の方の場面は撮ってしまっているので今更TV版は違う役者をってわけにもいかないんですよ、ここは一つ」
 ぱん、と手を合わせられる。
「だ、だって! 失踪した女優さんの行方の方は!」
「いえ、まあ、あの人は言っちゃあなんですが、本当ーに自由奔放なスチャラカ女優で有名なんですよ。こういう風に良く居なくなって撮影をすっぽかすなんてのはザラでして」
「……いいのか、それ」
 シグルスが呆れたように零しながら頭に手を組む。
「何故か人気だけはありまして……。ハーフってのもあって確かに顔は良いが、決して演技が巧いわけじゃあない。美人女優たって、美人に掛かって女優はおまけで付いてるような人なんですがねぇ。いや、しかし今回、銀幕市ってのがいけなかった。あの人の好きそうなものばっかりですからね。今頃も何処ぞで遊び回ってると思いますよ。ともかく、それで困ったなーって所で香玖耶さんのお噂を聞き、ここに飛んできたという次第でして」
「……自分と同じ顔の人が、そういう人だって何だか複雑な気分よね」
「多少、似た所があるとは思うけどな」
 言ったシグルスの方を香玖耶はやや口元を曲げながら見遣る。
「どういう事?」
「いや……そんな事より、どうするんだ? この仕事。請けるのか?」
「う……」
 香玖耶は言葉に詰まって、手を合わせてまま彼女の顔を覗き込んできている畠山を見た。
「ええと……」
「お願い致します! はいこれこの通り! 畠山 洋一郎、これ一生のお願いで御座います!」
「……その、でも、私、演技なんて……」
「いえいえいえ、香玖耶さまはそのまま香玖耶を演じて頂ければ宜しいですから、ね、ええ」
「あ、あの……でも……」


 ――至る、現在。
「それにしても……なんか、変なドラマだな」
 喧騒のスタジオ片隅で頭を抱える香玖耶の横、シグルスがパラパラと台本を捲りながら呟く。
「確かに『香玖耶』が私じゃない別の人みたいだとは思ったけど……」
 他人が書いた自分の台詞なんてそんなものかもしれないし、特に今回はテレビオリジナルのストーリーだという。
 多少の違和感があるのは仕方ない、と思う。
 シグルスが台本から目を上げて香玖耶を見る。
「お前まだ台本、全部読んでないだろ?」
「だって、まだ撮影のあるとこの台詞を覚えるだけで手一杯で……」
「俺も半分も読んでないけどさ。例えば……」
 シグルスは台本のあるページを開いて、香玖耶の方へ渡す。
 香玖耶はそこに目を走らせ。
「シャワーシーン……?」
「随所に盛り込まれてるぜ」
「なんで!?」
「俺に言うなよっ!」 
「大体、これッ、私は一日に何回シャワー浴びてるのよ! そんな勿体無い事するわけないじゃない!」
「……なんか庶民派な反論だよな」
「何よ?」 
 パシ、とテーブルの上に台本を打ち付けて立ち上がった香玖耶の元に、若いスタッフが駆け寄ってくる。
「香玖耶さーん、お願いまーす!」
「あの、ちょっと畠山さんに言いたい事が」
「香玖耶さん、急いでください! 時間押してるんで!」
 香玖耶の抗議はスタッフの必死な声にかき消され、彼女はぐいぐいとセットの方へと押しやられていく。
「え、あ、だから、脚本の」
「えっと、香玖耶さん。ここに立ってもらって、ああはい、そうです。あっちのカメラに向かって……」
「シャワー……シーンのことで……」
「そして、台詞。『私に任せておきなさい』、でポーズ」
「ポ、ポーズ!?」
 遠く、スタジオの隅から、セットの中で目を白黒させている香玖耶を眺めながら、シグルスは「あーあ」と目を細めた。
(しかし……)
 スタッフに言われて、香玖耶がしどろもどろとポーズを取っている。
 思わず笑ってしまったら、距離があるというのに気付かれた。
 あっちへこっちへと動き回る撮影スタッフ達の向こう側から香玖耶に軽く睨まれる。 
(あいつが、こんなに大勢の人と接しているなんて)
 魔女狩りの時代を生きていたカグヤに、こんな事は許されなかった。
 誰よりも人が好きで大好きで、誰よりも人を愛し慈しんでいた彼女を影に追いやり、拒んだのは人だった。
 窮屈な狭い世界で、でも、それが全てだった。手の届く所に果てがあり、束縛があった。
 だが、この世界では……この街では、彼女は受け入れられている。彼女は自由に人を愛し、守り、触れることが出来る。
 かつて小さな世界の片隅で二人が痛い程に、ある種の絶望と共に、望んでいた世界。
(……それなりの苦労もあるみたいだけどな)
 シグルスはスタッフに指示されたポーズを真っ赤になりながら決めている香玖耶の方を見ながら、暢気に笑った。 
 と――、
「……こんなの、繋ぎゆくもの、じゃない」
 傍で聞こえた。小さな呟き。思考の端が知らず零れたような。
 シグルスが声のした方に視線を巡らせると、首から携帯電話を下げたスーツの女性が休憩スペースの端に立っていた。
「……市嶋さん?」
 シグルスが声を掛けると、彼女はハッとした表情と共にシグルスの方を見た。
 市嶋 詠美。失踪した女優のマネージャーをしている人物だ。
「あ……今の」
「ごめん、聞いた」
 シグルスが素直に言うと彼女は、しまったなぁ、と顔を顰めてから気を取り直すようにパタンと両掌を膝に置いた。
「台本、読まれました?」
「ああ、さっき。ちらっとだけど」
「酷かったでしょう」
「カグヤはシャワーシーンの回数に、まず怒ってたな」
「……畠山さんの手法なんです。一度、そういうので当たってから、ずっと」
「へぇ?」
 良く判らないが、頷いておく。
「事務所の方は夏に向けてCM出演を増やしたいから二つ返事でOK出しちゃったし、本人は本人で、本当に何にも考えてないし……」
「挙句に失踪……か」
「結局、誰も、本当に繋ぎゆくものを作ろうなんてしてない。馬鹿にしてるわ」
 詠美が吐き捨てるように言う。
 彼女の視線は香玖耶に向けられていた。
 視線の先で、香玖耶は相変わらずぎくしゃくとした演技をしている。おそらく、彼女は香玖耶を通じて失踪してしまった女優を見ている。
「随分と、繋ぎゆくものが好きみたいだけど」
「ええ……昔から、ずっとファンで」
 と、詠美が首に掛けた携帯を手に取る。それが振動しているのが判った。携帯の着信表示を確認してから、詠美の視線はシグルスに向けられる。
「だから、私は貴方がシグルスさんだって判ってますよ。他の人は気付いてないか、あるいは知らないみたいだけど」
 そこで詠美はホゥと息をついて、それから。
「香玖耶はシグルスにまた出会えたんですね」
 心の底から嬉しそうに微笑んで、携帯に出ながらスタジオ出口の方へと向かって行った。


「つ……かれたー」
 香玖耶の事務所兼マンション。
 ばたん、もふ、と香玖耶はソファに倒れこむ。
 マンションに帰ってくる事が出来たのは日付も変わろうという頃だった。
「結局、シナリオの抗議はしなかったんだな」
「……台本は全部読んだ。酷かった。……でも、時間が無くて皆忙しくしてるし、私一人の我侭だし、仕事なんだから我慢しなきゃ」
「……らしくないよな」
 シグルスが頭を掻きながらキッチンの方へ行く。
「本当、あんなの私らしくない……色気で情報を引き出して、依頼人を囮に使って、無闇に人間を傷付けて」
「違う、台本の中のお前の事を言ってるんじゃない」
「え……?」
 キッチンの方で、シグルスが「まあ、いいか」と小さく呟くのが聞こえた。
「しかし、妙だよな」
 キッチンの方から戻ってきたシグルスが水の入ったコップを二つ、ソファの前の背の低いテーブルに置きながら言う。
「何が?」
「市嶋 詠美、マネージャーの」
「……そういえば、仲良さそうにしてたわよね」
「し、してねぇって! ああ、そうじゃなくて。自分のところの女優が失踪したってのに、あんなに落ち着いてられるもんか?」
「ん……あれから軽く調べてみたんだけど、やっぱり頻繁に失踪してたみたい。それで、慣れちゃったってのはあるのかしら」
「そんなもんかな」
「ただ……私も気になってる点がある。明日、シヴに調べて欲しい事が……」
「ん?」
「あるけど……今は、眠くて」
 ふあ、と欠伸をしてから、香玖耶はソファの上に丸まる。
「明日、歌舞伎町に集合すんの早いんだろ? そんな所で倒れてないでさっさとシャワー浴びちまえよ」
「うん……判ってる」
 言って、動かない。
 シグルスが眉端を揺らす。
「どこが判ってるんだよっ。ほら、水。お前が飲みたいって言ったから持ってきたんだろ、飲めよ。飲んでシャキシャキ動け」
「もう、判ってるってばー。何よ、シヴの癖に生意気。年下がおねーさんに指示するんじゃないわよー」
 香玖耶は慣れぬ疲れの所為で浮いた気分のままに、ぼやぁと戯れた。
 ソファに置いてある球体のクッションに抱きつきながら、知らず顔がぼけぼけと崩れる。
「なッ! あのなぁ! 誰がおねーさんだ、こんな、ソファに伸びきった物体……って、寝るなー!」
 ふに、とそのまま睡眠モードに以降しようとした香玖耶をシグルスがソファから引っぺがしに掛かる。
「あと五分ー」
「信用なるか!」
 香玖耶の腕を持って起こそうとするシグルスと断固クッションを持って寝こけようとする香玖耶とのせめぎ合い。
「私はー、これでも、トラブル・バスターなんだからー、信用が第一、です……ううん、後10分」
「増えてんじゃねぇかよ! 何が信用第一だ、ったく。ほら、いい加減起きろっ、て――わッ」
「だーから――きゃっ!?」
 シグルスが足を滑らせて。ドツと足先がテーブルの端に当たった音。香玖耶の上に乗っかってしまう格好になる。ちょうどシグルスの方へ向き直ろうとしていた香玖耶の鼻先に、シグルスの顔があった。
「シヴ……」
 鼓動。時計の音が遠い。
 テーブルの端から絨毯の上にコップが落ちる。水の散る音。
 そして、目が覚める。
 夢から醒める。 
(……私は、彼の故郷を焼き払ったのよ……?)
 頭の芯にヒヤリと落ちて、震える。今、自分は自分の罪を忘れて。それは、ほんの一瞬だとしても、酷く恐ろしい事だった。
 鼻先にあったシグルスの顔がゆっくりと離れていく。
「悪ぃ。絨毯、俺がやっとくから」
「……ううん、大丈夫、だから」
「いいから。シャワー浴びて寝ろよ、女優。寝不足で出来る仕事じゃねぇだろ」
「じょ、女優って言わないでよっ! ああもう、判った、判りました、浴びてきます」
 香玖耶はようやくソファから立ち上がって、浴室の方へと向かっていく。
 そして、パタンと浴室の扉の閉まった音が聞こえたリビング。
 シグルスは、嘆息と共にソファに腰を落として目を細めた。
「……なんて顔してんだよ……ったく」
 うっそりと落とした視界の先、水に濡れた絨毯の染み。

 あの日、シグルスと何百年の時を経て、再会して、彼の気持ちを聞いた。
 彼が自分の気持ちを知っていることも聞いた。
 そして、想いと覚悟と共に差し出された彼の手。
 迷う。
 その手を、取る資格が自分にはあるのか。
 彼が自分を責めない事は知っている。
 でも、それでいいの?
 罪の清算は。
 判らない。
 ただ、日に日に、曖昧になっていく。
 再会してから、何度も出会い、共に過ごす内に、また彼を知ってしまう。
 本物の彼の表情を声を温度を。
 フィルムと記憶のそれよりも、それは想像を遥かに超えた力を持っていて。
 一瞬一瞬の内に彼を想う気持ちは、自分の手を離れて止め処なく膨らんでいく。
 それが罪の意識を曖昧にしていく。
 でも、それで、いいの? 
 だって、罪が消えるわけじゃない。
 彼の手を取ろうとしている、この手は、かつて彼と生きた人達の血に濡れた。

 ◇

 薄暗い部屋の中。
「保崎さん」
 呼ばれて、椅子に座っていたオールバックのスーツ男は、首を後ろにクテンと倒した。振り向くのを億劫がったのだ。
 逆さまに兼山って名前の禿ッ面と目が合う。やはりスーツを着ている。
「あンだァ?」
 保崎の体の前の小さなテレビでは、再放送の昭和アニメが流れていた。
 甲高い声でヒーローが何々と叫んでいる。
「確認取れました。やはり、アレは本人の方みたいです」
「マジかよ」
 うえ、と保崎は顔面を濁らせて、短い舌打ちを連続させながら首を上げた。
 画面はCMになっていた。
 銀色の髪をしたハーフの女が楽しそうに着ぐるみと踊っている。
「……マジかよ」
 保崎は二度目、言った。
 兼山が肩をコキンと鳴らして問い掛けてくる。
「どうします?」
「どうしますったって、おめぇ……どうしたら良いと思うよ?」
「……アレを使って、あの女を誘き出すってのは」
「マズイだろ。あすこの事務所の社長と高田のオジキは旧友だってんじゃねぇか……下手にバレたら、ヤバイっしょぅ」
「ヤバイマズイは現状も同じだと、思います。下手に傷つけねぇで返しゃ問題ないでしょう」
 言われて、保崎は椅子の上に片足乗せて抱えた膝を顎に寄せた。
「本当にそう思うか?」
「もしやと思ったんで、縄跡一つ付けねぇように部屋に軟禁してありますから。腹が減っただ暇だのと言うんで、戸倉に世話ァさせてんです」
「無傷な上に、あのノーテンキ。巧く言い含めりゃイケる、か……」
 ん、と顔を上げて。
「戸倉じゃ駄目だ。オマエが付け。さっき戸倉ァ見たがよ、目が変に血走ってて、よかない。前から不安定なとこァあったが、今は特別参ってんじゃねぇの。どしたんだ? あれ」
「あー、なんかここに来てからなんですよ。時々、一人でブツブツ言ってやがるし。なんなんですかねぇ」
 保崎は振り返って兼山が首を傾げるのを一瞥してから、立ち上がり、狭い部屋の端まで行って窓を開けた。
「まあ、確かに……」
 たるんだ風が入り込む。
「ここは妙に落ち着かねぇとこじゃあるがねぇ」
 窓の外、無人の町並みが黒々と月に伸びていた。


 <2> 


 新宿歌舞伎町。
 戦後、先進的な都市事業の元に台湾華僑や大陸半島出身者達が次々とビルを建てた時から始まり、以後、歓楽と暴力の中心として華やかさと血生臭さと仄暗さの入り混じった歴史を重ねてきた、街。
 昼日の下、歌舞伎町一番街と掲げるアーチから連なる道には、今、撮影スタッフと香玖耶達以外の人は居なかった。
 あの、人の意思と気配の満ちていた街がほぼ無人でそこにある姿というのが香玖耶には不思議な感じだった。
 形の無い気配だけが残され、漂っている。
「ここが、カグヤの居た町……か」
 立ち並ぶビルに首を巡らしているシグルスを見遣り、香玖耶は頷いた。
「沢山の人が居て、夜は光と音が溢れる場所だったわ」
「強い淀みが残ってる。確かに、歪みを抱えた人間には堪ったもんじゃないだろうな」
 街を漂う残香のような淀み。それが、ある種の人間をどのように変貌させるものだったか。シグルスは想像して、軽く眉根を顰めた。
「うん……でも、そう酷い事ばかりがある街でも無かった」
 香玖耶は、軽く笑む。弱くとも、したたかに生きる、愛すべき人達が確かに其処には居たのだ。
 シグルスは彼女の表情を見遣ってから、同じように笑んで「そっか」と頷いた。
 と、香玖耶は僅かに声を潜めて。
「それで、どうだった?」
「さっきのカグヤの演技か? ああ、ばっちりだ。笑えたぜ」
「ち が う わ よ」
「いってぇッ」
 シグルスはスネを蹴られて小さく悲鳴を上げる。
「ちょっとした冗談だろっ!」
「悪かったわね、笑える演技で」
「根に持つなよ。で、ええと……お前が言った通りだったよ」
 シグルスは、はぁと溜め息を付きながら、撮影の段取りをしているスタッフ達の方を見遣る。
「色々と走り回ったけど、あの女優を探してるって連中の気配はなかった。誰も女優を捜索してはいないな」
「やっぱり。市役所に確かめた時に、女優を探して欲しいって類の依頼が入ってなかったから変だと思ったのよね」
「マネージャーはあの調子だし、事務所からも完全に愛想尽かされてるって事かな」
 目を細め、思案に入った香玖耶の横、シグルスはマネージャーの詠美を探して視線を滑らせた。
 現場の端に立って、不機嫌に畠山を見ている。と、その視線がこちらに向けられて目が合う。
 シグルスは軽く瞼を閉じてから目を逸らし。
「俺は、やっぱり市嶋 詠美が気になるな。変な意味じゃなくて」
「うん……多分、彼女が事務所に女優の失踪を伝えて無いんだと思う」
「なんで?」
「シヴが言ってたじゃない。市嶋さんは、このドラマの撮影を良く思ってないんでしょ? 女優の失踪は、本当ならこのドラマの撮影中止に繋がる筈だったから、彼女にとって都合が良かった」
「でも、カグヤが引っ張り出され、ドラマの撮影は続いてしまっている」
「だから、今、女優に出てきてもらうわけにはいかない」
「それで、捜索がされないようにしてる? むしろ、市嶋自体が女優の失踪に関わってるんじゃないか?」
 シグルスは何気なく、それを言った。
 香玖耶はそれを渋面で聞きながら席を立つ。撮影に入るので呼ばれたのだ。
「それは……怖い想像に繋がるから、あんまり考えたくないし、可能性は低いと思うけど……彼女をマークしておいた方が良いのは、間違い無さそうよね」
「もしかするとカグヤに手を出してくるって事もあるかもしんないしな。……と、それはともかく、あんま無理すんなよ」
「……無理のない程度に見てるわよ。シヴも居るし」
 言って、カメラの前へと歩いていく香玖耶の背を見遣りながら、シグルスは嘆息する。
「その事じゃない」
「何言ってるの?」
 香玖耶は笑いながら、後ろ手を軽く振って歩いていってしまった。
 シグルスは苦く歯を噛みながら、それを見送る。
(あいつ……)


 シグルスと再会してから、仕事が忙しかったのは偶然じゃなかった。
 動き回っていないと、何かしていないと、途端に自分の気持ちに捉まってしまうような気がしていたのだ。
 そうして、半分無自覚に「今は仕事だから」とか「忙しいから」とか言い分けを得ては、時間を稼いだつもりになる。
 それも、昨日の様な事があれば、揺らぐ。
 そんなところをシグルスに見透かされた気がして、香玖耶は落ち着かずにNGを連発した。
「あー、大丈夫ッスか? 香玖耶さん」
「ご、ごめんなさい……あ、私は大丈夫だから! もう一度お願いします!」
 ちぐはぐの台本は自分の足に合わない靴で踊らされているようなもどかしさがあり、また、必要とは思えない女優の人気取り本位のシーンばかりがあるのはやはり納得が行かなかった。
 でも、「仕事だから」我慢して、今はただ。
 ――と。
 香玖耶は、何度目か自分に言い聞かせながら、ひくつく己の口元を必死になだめる。
(でも……なんで、なんで、バニーガールの姿にならなきゃいけないわけ……?)
 あれから、幾つかの場面を撮り終え、撮影隊は雑居ビル内のうらびれたクラブに居た。
 撮影機材の詰め込まれた狭い店内に、胡散臭い格好をしたエキストラと役者が座らされており、暗いオレンジの照明の中にわざわざ薄いスモークが炊かれている。
「えー、お盆を持ってもらってですね。このテーブルの間を抜けて、情報屋ツチヤの元に行きます。そして……」
 バニーガールに着替え、居心地悪そうにしている香玖耶の内心に一つも気付いてない様子でスタッフが動きを実演しながら説明している。
「……なんであんな格好に?」
 シグルスは半眼になって香玖耶達の方を見遣りながら、隣に居る畠山プロデューサーに問い掛けた。彼は満足そうに頷きながら香玖耶の方を見ている。
「良いじゃないですか、うん、良い画ですよ。クラブに居付く情報屋の元に普通に現れるんじゃあ地味でよかないですからね。ここでバーンとバニーガール姿! たまらないなぁ」
 後ろで佇んでいる詠美が小さく「最低……」と呟く。
 シグルスは軽く彼女の方へ視線を向けてから、また、香玖耶の方を見た。
「あの格好になる理由、無くねぇか?」
「いいんですよ、そんなもの。どうせ、そんな細かい事を考える視聴者なんて僅かなんだから。大体、こういうシーンは予告に使うと食いつきが良いですからね。まあま、今なんてセクシー&バイオレンスにしとけば、それなりに稼げるもんで、ね。あはは、DVDも売れちゃうなぁこれ」
 何度も己の論に頷いている畠山から香玖耶の方へと視線先を変えながら、シグルスは口端を呆れたように曲げた。
 シーンスタートの合図が飛ぶ。
 香玖耶は言われた通り、カクテルの置かれた銀色の盆を掌の上に乗せて客の間を歩いていく。
 ステージの周りを蠢く明かりで妖しく揺れる青いカクテル。
 リズム良く腹に響く低音の中、香玖耶は店の隅のソファに埋もれるように座っている男の前へと立ち、カクテルをテーブルの上に置く。
 カメラが寄る。
「……頼んでねぇンだけど? トラブル・バスターさん」
 男が顔を上げる。
「奢りよ。情報屋さん」
 香玖耶は挑発的な笑みを……ぎこちなく浮かべてから、彼の横に座った。
 男はカクテルを手に取り、それを口に傾けながら彼女の胸元に視線をやる。それをカメラが追う。
 ここらへんの演出は聞かされていない。香玖耶は自分のコメカミがひくっと動いたのを感じつつ、演技を続ける。
「飯塚 夜子って子、知らないかしら?」
「知らない事もねェ」
 男の手が肩に回される。
(アドリブ……?)
「さ、探してるのよ。ふ、うふふふ」
 仕事だから。これは仕事だから。仕事……。
 自分に言い聞かせながら、台本を進めようとする香玖耶の膝に男の手が伸びる。
「……知ってることを、教えて……」
 仕事だから、仕事、割り切って、だって、冷静に、仕事――。
「アンタがもっとサービスしてくれるなら――」
 そして、肩に回った情報屋役の男は役を超えた下心のままに手を香玖耶の胸の方へと伸ばしてくる。
 畠山はそれを満面の笑みで頷き見ている。
(……仕事、これは仕事なの。台本にはなんて書いてあった? 私はその通りに『私』を……今は何も考えずに、ただ……)
 香玖耶は、彼の手を受けて艶やかに微笑を……
(『私』……? 私って……。私ってこんなだったっけ……絶対におかしいと思った事を、受け入れて、ただ我慢して……?)
 少し彷徨った視線の先、シグルスを見つける。
 彼は半眼で、声を出さずに口を動かした。「ばーか」。
 ぴきん、と香玖耶の眉尻が揺れる。
(――そうよ、やっぱりこんなの私じゃない!!)
 そうして。
 香玖耶は、微笑なんざ浮かべずにキレた。
「調子にッ、乗るなッッ!!」
 ズッパーーン。
「のぶっ!?」
 と、香玖耶の捻りの効いたアッパーが男の顎を捉えて抜いていく。弧を描きながら華麗に床へと転がり落ちていく男。
 畠山を初めとして、スタッフ一同が唖然と目を丸くしている。台本には、情報屋を殴り飛ばすなんて、何処にも書かれていない。
 香玖耶はアッパーの勢いのまま立ち上がって、ハ、と息を吐く。
「私は、飯塚 夜子さんの情報を聞きに来たの。あなたと遊ぶためじゃない。勘違いしないで」
 すらすらと台本に無い言葉が出る。カメラは回り続ける。
「ちなみにッ。どーしてもあなたから情報を得る必要なんか、これっぽっちも無いの。だから、さよなら――相手して欲しければ、モラル磨いて出直して来いエロ猿!」
 言い切って、その場を立ち去ろうとする香玖耶。
 その彼女に、完全に怯えた調子の畠山がおそるおそる声を掛ける。
「あ、あの香玖耶ちゃん……どちらへ?」
「着替えてから、情報収集。無意味にこんな格好でウロつく趣味は無いし、私はもっとまともな取引の出来る相手を何人も知ってる」
 香玖耶の座った目に見すくめられて、畠山は言葉を失いながら、こくこくと頷くしかなかった。
 ステージの裏の更衣室へと去っていく香玖耶を詠美がうっとりと目で追う。
「香玖耶さん……格好良い……」
「おい……今の良いんじゃないか?」
「自然、でしたよね……演技?」
「あれ……演技ッスかね。アドリブっていうか、完全に素でしたよね。いや、良いと思いましたけど」
 監督と演出陣が顔を寄せ合って、うんうんと話を進める、その一方――
 スケベ心のツケで床に転がる情報屋役の様子を診ていたスタッフが、
「駄目でーす。完全に伸びてまーす」
 頭上でバッテン印を作りながら言う。
「ああ? おいじゃあ、どうする? 相棒役が居なくなっちまったぞ」
「どうするたって……」 
 などと頭を悩ませ始めたスタッフ達の方を見遣り、それまで一連の流れを楽しげに見ていたシグルスは首を傾げた。
「相棒?」
「今回のドラマは、彼が香玖耶さんの相棒になる予定だったんですよ。トラブルバスター・コンビ」
 詠美が楽しそうに目を細めて、倒れている男の方を眺めながら言う。
「困ったなあ、困りましたよ、今から役者を調達している余裕なんかありませんよぉ」
「大丈夫ですよ、畠山さん」
「全然大丈夫じゃないんだよ詠美ちゃぁん」
「相棒役の方なら居ますから。ですよね?」
 言って、詠美がシグルスの方へと笑い掛ける。
「はあ!?」
「……ふむ」
 と、畠山の顔面がものすごく近い所によってきたので、シグルスは身を引いた。
 畠山はシグルスを上から下まで眺め、
「ナイス、詠美ちゃん」
 びっと親指を詠美の方へと立てた。
「……な、な、な――」
 ひくく、と口元を引き攣らせるシグルスへと詠美と畠山の顔が迫り。


 <3>


 ――路地裏の教会。
 台湾料理屋と雑居ビルに挟まれた狭い敷地に押し込められた十字架。
 外のネオンを誘い込むステンドグラスの薄明かりの中、香玖耶は一番前の信者席に座って顔の欠けたマリアを見ている。
 足音。香玖耶はそちらの方へと細い視線を送る。暗がりの端から見える足。
「……飯塚 夜子の事が聞きたいって?」
 暗闇から聞こえた男の声。
「知ってるのね」
「一度、ここで話を聞いてやった事がある」
「なるほど……って、あなたがここの司祭様なの?」
「俺は代理。爺さんは腰痛が悪化して寝込んでる。もう歳だからな」
「あなたは、ずいぶん若そうよね」
「悪かったな。不満なら他を当たってくれ」
「そーは言ってないわよ……」
 相手の拗ねたような調子に、香玖耶は半眼でこめかみを指先で抑えつつ言う。
 男の声は、フン、と鼻先を鳴らしてから続けた。
「……彼女は、アムリタに手を出していた」
「アムリタ?」 
 香玖耶の眉が揺れる。
「最近出回ってるクスリよね。ラーフって連中が捌いてるって噂程度しか知らないけど……」
「アムリタは錠剤の高揚型……」
 コツコツと足音は、斜めの明かりの中へ彼の姿を運ぶ。
 金色の髪先が色めかしい光に揺れた。
「え……」
 香玖耶が大きく目を開いてみせる。
 シグルスは、それを見遣って怪訝に首を傾げてみせた。
 身に着けているのは、香玖耶の服装に合わせた黒を基調としたレザー系の衣装。
「あ……ご、ごめんなさい……続けて」
 香玖耶は気を取り直すように軽く手を振ってから、彼の言葉を促した。
 シグルスは軽く鼻を鳴らしてから続ける。
「……逆耐性で使用の度に必要量が減るって所までは、最近規制されたドラッグに似ている。けどな、効果が段違いに高い。連中の売り文句は『解放』。不死薬の名を冠しながら、解放とは皮肉だよな」
「……確かに、大した皮肉だわ……」
「もう一つ。最近うちに逃げ込んできた女が妙な事を言っていたんだ。『日食に捕まる』と。彼女もアムリタをやっていた……そして、俺が目を離した隙に」
 彼の顔が悔しげに歪む。
「消えたのね」
 香玖耶は立ち上がり、彼の横を抜けるように歩むとマリア像の方を見遣りながら、考え込むように腕を組んで拳を顎に当てる。
「……インド神話では、魔神ラーフはアムリタを盗み出し、それを飲んだためにヴィシュヌに首を切られる。でも、ラーフは不死になっていた所為で死ぬ事は無く、胴はケートゥという月食を起こす星となり、首ラーフは日食を起こす星となった……」
 うん、と頷く。
「ラーフって連中、探ってみる価値はあるわね」
「……相当ヤバイらしいが? 流?の残党が関わってるんじゃないかって噂もある」
 後ろで鳴る彼の声に振り返り、軽く胸を張りながら応える。
「大丈夫。私は香玖耶 アリシエート。この街でトラブル・バスターをやってるの」 
「トラブル……バスター?」
 シグルスが緑色の目に瞼を僅かに下げて、小首を傾げる。
 香玖耶は、かっくりと肩を落として溜め息を付き、いつものように付け加えた。
「つまり……何でも屋よ……」
 「ふぅん」とシグルスは香玖耶を見定めるようにして。
「俺はシグルスだ。宜しく頼むぜ、カグヤ」
「は?」
 香玖耶は、シグルスの方に顔を上げて、目を丸くする。
「間抜け面すんな。俺も一緒に行くって言ってんだよ」
「ちょ、だって、待って。貴方の名前――」
「名前?」
 怪訝な顔でシグルスが香玖耶の顔を覗き込んでくる。
 う、と香玖耶は身を引きながら、目を泳がせて、それから首を振った。
「……う、ううん、なんでもない」
「なら決まりだな。頼むぜ、相棒」
 シグルスが片目を細めながら笑み。
「カーーーット」
 監督の声が響く。
 香玖耶は、はぁー、と長い息を吐いた。
「まさか……シヴとドラマを撮る事になるなんて」
「俺も驚きだって」
 シグルスはオンボロ教会の信者席に座りながら、はふっと溜め息をつく。
「押し切られた……しかも、パートナーって。ドラマん中でまで、お前の世話見なきゃなんねぇのな」
 やれやれと言葉を吐いたシグルスの調子に、ムカッと香玖耶は目尻を上げ。
「こっちの台詞よね、むしろ」
 上半身を屈めて、椅子に座るシグルスの方へと顔を寄せながら言ってやる。
 ぴし、と片眉を上げたシグルスと睨み合い。
「誰がいつお前に世話見てもらったよ!」
「あなたが、こーんなに小さかった頃に、なんでもかんでもカグヤカグヤ言ってたのを忘れたとは言わせないわよ!」
「い、い、い、いつの事を持ち出してんだよ! んな古い話ッ!」
「あの頃は本当に素直で可愛かったのにねぇ」
 キュー、とシグルスの顔が赤くなる。
「元はといえば、お前が役者を殴り飛ばしちまったのが悪いんだからな! おかげで俺が引っ張り出されるはめに――」
「あ、あれはセクハラに対する正当なお返しだし! って、そういえば、名前。シグルスのまんまって」
「市嶋 詠美が俺の事を知ってたんだ。後は、設定やら何やら監督連中のアイデア」
 シグルスは拗ねた顔のまま香玖耶を見上げながら言う。
「ふぅん……ま、いいけど」
 香玖耶は体勢を戻して、監督達の方へと視線を向けた。
 つい、結んだ口元が微かに笑む。
「なんだよ?」
「ううん、別に」
 だって、彼と共にトラブル・バスターをする日が来るなんて思わなかった。
「香玖耶さーん。次、また外でのロケになります。一応、情報収集してる所を襲撃されるって感じなんスけど……収集相手はこのまんまで良いんスかね? なぁんか微妙っていうか」
「あ、はいはい。うん……そうね、今回の場合だとフリーカメラマンとか若い女の子の方が良いかも、それから……」
 駆け寄ってきたスタッフと次のシーンの打ち合わせを始めた香玖耶の方を見ながら、シグルスは、ふっと息を付く。
(あれから勢い余って、仕切り出してるし……)
 今の香玖耶からは無理を感じない。真剣に、だが、どこか楽しそうに打ち合わせをしている香玖耶を見て、シグルスは小さく笑った。
 と、畠山が判り易い揉み手をしながら、すすっと香玖耶の元へ寄って来る。
「香玖耶ちゃぁん、あのぅ、次のシーンなんどけどぉ、やっぱり敵の幹部連中をババーと斬っちゃうシーンは入れた方が良いと思うんだよねえ。鮮血の中で妖しぃく微笑みを浮かべる香玖耶ちゃん、絵になると思うんだよねぇ。それから、やっぱりお色気シーンが無いと、なんだかこの畠山落ち着かないっていうか……」
「畠山さん」
「……はひ」
「言いましたよね? 私は私自身をやればいいんだって」
「い、言ったねぇ」
「なら、私は私をやらせてもらいます。つまり、私がやらない事はやらなくてもいい」
 言って、香玖耶はずわっと溢れるオーラと共に畠山へと微笑んだ。
「そうですよね?」
 畠山は笑顔を形作ったまま、ふるふると痙攣した後、こくこくと無言で頷く。
 シグルスはそんな様子を見上げ眺めて、くくっとこっそり笑ってしまってから、視線を周囲に振った。
(ん?)
 市嶋 詠美。
 撮影機材を運び出しているスタッフ達の向こうで、彼女は首に掛かる携帯電話を持ち上げていた。電話が掛かってきているようだったけれど、彼女はボタンを一つだけ押して、それっきり、携帯を離した。
 その横顔があんまりにも冷えている気がして、シグルスは目を細める。

 ◇
 
「あ……応じないだァ?」
 保崎はカップラーメンをぞろりと一啜りしてから、改めて鼻元に皺を寄せた。
「電話に出ねぇって事は無いだろう」
「駄目ですね。出たのは最初の一回だけ、話進めようってとこで切られちまいました」
 禿の兼山が携帯を掲げて揺らして見せる。
 スキンヘッドのいかつい男が持つにふさわしくない、デコ装飾の可愛らしい携帯電話。
「なァに考えてんだか……最近のヤツァ判らねぇな」
「どうします?」
「どうしますって、おめぇ、どうしたら良いと思うよ? おめぇならどうするよ?」
「手紙、ですかね」
「それだよ。電波が駄目なら、手紙でしょぅよ。そうしろ。文面に気をつけろよ? 俺たちがアレを攫っちまった事が、万が一にでもバレねぇようにすんだ」
「判りました」
 禿の兼山が顎を揺らす程度に頷いて、部屋から出て行こうとし、立ち止まった。
 一拍二拍置いてから、彼は振り返る。
「……戸倉なんですが」
「どした?」
「……その……」
「言えよ」
 ズズッとカップラーメンの汁を啜る。
「落ち着いた、みたいです」
「あー、さっき見た時、調子良さそうだったしなァ……良い事じゃァねえか」
「ただ……ありゃあ、本当に戸倉ですかねぇ?」
「……じゃあ、ありゃあ、『何』だって言うんだよ?」
 開けた窓の外からは、ドラマ撮影の喧騒が聞こえていた。


 <4>


 香玖耶が参加してから四日目、撮影は前半の苦戦が嘘の様に順調に進んでいた。
 アドリブを中心にした事で香玖耶のNGが極端に減った事に加えて、香玖耶が経験則からシナリオの流れや演出に手を入れたため、監督以下スタッフが場面のイメージを捉え易くなった事、あとは無駄な着替えシーン等に時間を割かなくて良くなった事などが要因だった。
 特に、何十人という敵が直列に並んで襲って来るのを香玖耶が水着姿で謎の剣を振るい次々に切り伏せていくという不可思議なシーンの却下は、かなりの時短と士気の向上に貢献した。
 大体の場面を撮り終えて、これから終盤の流れを撮ろうという折に。
「……これが、次の場面で使う脅迫状?」
 そこで使われる小道具の脅迫状を読んだ香玖耶の眉尻が、ひくんと上がる。
「な、ん、で、ラーフの連中がバニーガール姿を所望してくるの、かしら?」
 声に冷気が混ざっているような気がして、監督は首を竦めた。
「それは、畠山さんがね……」
「なんでそんなに、ウサギが好きなの……もう」
 香玖耶は、長い長い溜め息を吐く。
 シグルスが横から、それを覗き込み。
「相手がもう少し頭の緩い連中だったら、調子に乗ってそういう事もありそうだけど……正体が宗教団体だからなぁ、違和感があるよな」
「確かに、チンピラ相手だと似たような事もあったけど……で、畠山さんは?」
「あそこに」
 監督の差した方、香玖耶とシグルスが揃って見た先。
 自販機の陰から顔を覗かせてこちらを伺っていた畠山が「たははは」と笑って、ひょろっとピースを出したりする。
 香玖耶とシグルスは半眼でそれを見てから、脅迫状へと視線を返した。
「それに……呼び出す場所もちょっと。広場は人目に付き過ぎる。失踪している筈の人間を連れ歩くには、危険な場所だわ」
 むぅ、と考えるように香玖耶が顎を指先で叩いた時、名前を呼ばれる。
 振り返ると、そこに立っていたスタッフが封筒を差し出してくる。
「へ?」
「休憩スペースん所に落ちてたんですよ」
 封筒には『香玖耶 アリシエート様』と書かれていた。
 香玖耶は封筒を受け取って、首を傾げながら中の三つ折の紙を取り出す。
「……これって」
「なんだよ?」
 問い掛けてくるシグルスの方に、それを見せる。
 そこに書かれていた文面は。
『香玖耶・アリシエート   女を預かっている。お前の探している人物だ。  一人で来たれよ』
 そして、あとは指定の時間、それから指定場所として閉館した小劇場が示されている。差出人の名は無い。
「……脅迫状だな」
「シンプルだけど、なんとなく匂いが本物っぽい。指定している場所も、まあまあ及第点じゃないかしら」
「は?」
「次の場面はこっちで行きましょう。もう、畠山さんったらちゃんとしたのも準備してたんじゃない」
 香玖耶は機嫌良く笑んで自販機の横の畠山の方に手を振った。畠山もでれんと手を振り返してくる。
「ああ。小道具か」
 シグルスが得心して頷く。
「監督、行けそう?」
 香玖耶が二通目の脅迫状を監督に渡しながら小首を傾げる。
「ああ……うん、問題ないね。よし、こっちで行こう」
 監督はニィと笑んで、スタッフ達の方へと声を掛けた。

 ◇

 埃の積もった劇場だった。
 こじんまりとしたホールに、ポツポツと明かりが灯っている。 
 幾つかの電球は寿命を迎えていたし、まさにさっきパタリと逝った明かりがあった。
 緞帳の上がったステージには、埃景色に新しい足跡が付けられていた。
 左、中央、右と組み分かれた客席の数は200だか250だか……保崎は、ここに入る時に掠れた案内板を見て確かめた筈だったが、今や曖昧だった。
「……兼山ァ」
「はい」
「おめぇ、脅迫状出してきたん、いつだァ?」
「十二時丁度に置いてきたんで、八時間前ですね」
「……時間指定はァ?」
「しましたよ。午後六時丁度に来いと」
「……来ねぇな」
「……そうですね」
 最前列席に腰掛けた保崎と兼山のボヤきが、ぽつりぽつりと飾り気の無いホール内に零されていた。
「アレは?」
「暇だなんだと煩かったんで、睡眠薬で眠らせて控え室に置いてあります」
「まァ、それが一番だわな……」
 保崎は頷いて、いそいそと煙草を一本取り出し、咥え、そこで、一つ後ろの席で丸まっている男の方を見た。
「戸倉ァ。調子悪ィなら、寝とけよ」
「……」
 戸倉が静かに顔を上げる。その眼は黄み掛かって淀んでいた。
「おめぇ、な。そりゃ、大丈夫って面じゃぁねえよ。一度、顔でも洗――」
「……」
 戸倉は黙って顔を俯かせた。
 と、兼山が声を荒げる。
「てめェ、こら、保崎さんが気ィ掛けてくれてんだろがッ!」
「まァ、待て」
 保崎は兼山の肩を抑え、戸倉から視線をステージの方に向けながら煙草に火を付けた。
「今ァ、いい。触んな。落とし前は後で付けさせる」
「……はい」
 兼山は頷きながら拳を解く。
 と、ギィと劇場の一番後ろの扉が開かれる音。
「来たか」
 保崎は小さく笑って、オールバックの髪を撫でながら兼山と共に立ち上がり、振り返る。
 ようやく御対面だ。これから、あの女、香玖耶 アリシエートに落とし前を付けさせる。
 劇場の中に銀色の髪先が揺れる。
 保崎は己の顎を撫でながら、彼女に向かって歓迎の言葉を、
「待ちくたびれたぜ? 香玖耶 アリ――」
 言いかけた所で、「は?」と目を丸くした。
 香玖耶の後ろからドヤドヤと大勢の人間が姿を現したからだ。


 <5>


 劇場の中は程良い大きさで、雰囲気が抜群に良かった。
 香玖耶は、いいんじゃない、と満足気に頷く。と、先に劇場に入っていた人達に気付く。
 オールバック髪とスキンヘッドのスーツの二人組み。格好と雰囲気が如何にもで、一目でそれ専門の役者の人達だと判った。
「あ、香玖耶 アリシエートです。宜しくお願いします」
 スタッフ達が撮影機材を運び込んでセッティングしている間に、客席の中腹まで降りていって頭を下げる。
 頭を下げられた先、オールバックとスキンヘッドの二人は、香玖耶の後ろでがやがやと動き回っているスタッフ達に不機嫌そうに目を向けて。
「おいおい、なァんでこんな大勢で来たんだ? あァ?」
「え?」
 香玖耶は頭を上げながら、後ろの方を振り返り見て軽く首を傾げる。
「普通はもっと少ない人数で来るものなんですか?」
「そりゃあそうだろよ、なァ。そう書いてあったろうがァ?」
 スキンヘッドが苛立たしげに声を揺らしている。
 香玖耶は、困ったような微笑を浮かべながら彼らの方へと振り返り。
「あは、はは、私に言われても」
「てめぇに言わねぇで誰に言えってんだよッ!」
 オールバックの方が、だぁあもう!、と地団駄を踏みながら言ってくるから、困る。
「なぁ、カグヤ」
 シグルスが香玖耶の横を抜けていく。
「俺はステージの裏側から人質を助けて出てくるから」
「あ、うん」
「ちょちょちょっと待てぇ!! 俺達の目の前でそういう相談をするか普通ッッ!」
 突っ込まれて、シグルスは怪訝に男達を見遣った後、
「もう役に入りこんでんのか? 悪かったな。まあ、宜しく頼む」
 ぽん、とスキンヘッドの肩を叩いてステージの方へ行ってしまう。
 男二人が唖然とそれを見送る。
 と、オールバックがハッと自分を取り戻して、吼える。
「戸倉ァ! その餓鬼、止めとけ!」
 オールバックの声に呼応して、ステージに上がろうとしたシグルスの前にスーツの男が立ちはだかる。
 男は頭をバネ人形の様に微かに揺らしながら、ずるりと顔を上げてシグルスを見た。
 シグルスは、その異常さに気付く。
「……こいつ」
「おいおいィ……こっちに人質が居る事ォ、忘れてもらっちゃ困るんだよ。香玖耶 アリシエート」
 オールバックが香玖耶の方へと寄ってって、顔をぐいと近づける。
「俺達は、なん、のために、ここまで苦労したと思ってんだよォ。なァ、いつぞや、うちの店ェ潰してくれたんは、覚えてるか? 兄貴らァ樹にぶら下げてよォ。おかげで、おめぇ、あの人らァ、完全におめぇにビビッちまって……みっともねぇったら、ねぇよ。したらなんだ? つまり、俺達が、おめぇにキッチリ落とし前をつけさせるしか、ねぇよなァ?」
「忘れんなァ、これ以上、下手な真似したら人質の命ァ……」
 スキンヘッドが横から顔を突き出して、歯を剥く。
 そこで、オールバックは香玖耶の視線が、強く戸倉の方へと向けられているのに気付いた。
 キリ、と香玖耶は奥歯を噛む。
「――完全に呑まれてるッ、シヴ、離れて!」
「ッ!?」
 香玖耶の声と同時にシグルスは床を蹴って、座席とステージの間の狭い通路へと埃を巻き上げて転がる。
 シグルスの体を追うように虚空を裂いた、その異常に筋肉の盛り上がった腕は戸倉の体から生えていた。
「ゥヴるァアアアアアアアア゛ッッ!!」
 ゴ、と音が爆発した咆哮と共に戸倉の体は膨れ上がった。それはスーツを破り、筋と軟骨の爆ぜる音と共に化け物を形成していく。
「シヴッ!!」 
 香玖耶は叫びながら呆然としている男二人を押し退けて化け物の方へと駆けた。
 腰に手を回し、パチと留め具を外して鞭を手に取り、その腕を前に投げ出す。
 音を裂いた鞭の先が化け物の太い腕に絡み付くのを確認しながら、香玖耶は人気の無い客席の左翼方面へと走る。どろっと濁った目玉が鞭を見下ろし、それから香玖耶の方へと向かう。
「そう、こっち――くっ!?」
 化け物は跳躍していた。
 香玖耶の鞭を腕に絡ませたまま、並ぶ客席の上を両足を揃えて屈んだ格好で巨体が飛び越えてくる。
(あ、まずいかも――)
 と心中で舌打ちしながら床を蹴り、後方へと浅く飛んで距離を稼ぐ。ほぼ同時程に目の前にそれが、落ちてきてその辺りにあった客席を破壊した。
(やっぱり、足らない。掴まるッ)
 巻き起こる屑埃と音を掻き抜いて、化け物の両手が香玖耶の体を捉えようと伸びる。
「カグヤッ!」
 銃声。続け様に、二発。
 化け物が仰け反り呻く。
 その隙に香玖耶は化け物の腕に巻きついた鞭を引いて鞭先を回収しながら、走り、距離を稼ぐ。
「ありがと、シヴ」
 香玖耶が礼を言った先、シグルスはロザリオを取り出して、化け物の周囲へと結界を展開している。
 白光の糸が模様が化け物を閉じ込める様に、空間に編み込まれて行く。
 シグルスは銃を片手にロザリオを構えた格好のまま、香玖耶を軽くからかうように片目を細めて。
「銀の弾は高いんだからな」
「……後で飴付けて返すわよ」
「飴なんているかッ!」
 なんてやり取りをしている間にも香玖耶は、視線をせわしなく動かしながら状況を把握しようとしていた。
 中央通路、男二人がステージの方へ向かって走っている。出口付近では撮影スタッフ達が抱えた機材と共に呆然としている。客席左翼、シグルスの結界を力任せに抉じ開けて、崩壊する白光の中から抜け出してくる化け物。
 それは、咆哮を上げながら顔を巡らせた。化け物は香玖耶を視界に納めると、一直線に客席を破壊しながら、彼女の方へと向かってくる。
(さっきので、巧い事こっちにターゲットを絞ってくれた? ……あるいは、最初から私が狙い? ――あ)
 それで気付いた。全部。
(待って。だとしたら……)
 シグルスが弾丸で化け物を牽制する。
 幾つかの銀を体に埋め込みながらも化け物は、動きを止めない。
「――チッ」
「シヴ! コイツの狙いは私!! だから、私が引き付けて何とかする! それよりもさっきの男達を追って!」
「どういう事だ!?」
「本物の『人質』が居るの!」
「判るように言えって!」
「色々と間抜け過ぎて、今は説明し切れない!」
「なんだそれッ!」
 そう言いながらも、シグルスはステージ裏へと入っていった男達を追って走っていた。
 香玖耶はそれを確認しながら、ホールを飛び出して非常口の方へと向かう。

「……て、あ、撮ったか!? 今の撮ったか!?」
 化け物達が出て行った劇場に監督の声が響く。
「任せてくださいッ!」
 既に、カメラを担いだカメラマンは非常口の方へと駆けていた。

 ◇
 
「ヤベェヤベェヤベェよ、なんだよありゃあ、戸倉どうしちまったァ!? いや、戸倉も戸倉だが、あの女の身のこなしも馬鹿みてぇにスゲェぞ!!」
「保崎さん、落ち着きましょう保崎さん、落ち着き」
「おめぇが落ち着け兼山ァ、と、とにかく、だ。こりゃあ、考えようによっちゃあチャンスだ。なァ。これで、人質でも使ってよォ、あ、あ、あの女に隙でも作りゃあ、後ァ、戸倉が勝手にやってくれる、な、な」
「そう、そう、そう思います」
 二人して、わたわたと向かったのが控え室。
 バン、と乱暴に扉を開けた先に銀髪の眠り姫が暢気な顔で横になっている。
「んだよ、幸せそーな顔で寝てやがんなァ」
 吐き捨てながら、保崎は彼女に近づき、手を伸ばす――
「なるほどな……間抜けってそういう事かよ」
 声は、後ろから。
 ハ、と保崎と兼山が振り向いた先、銃を構えたシグルスが立っていた。
「手を挙げて、彼女から離れろ。しかし、本物の誘拐犯だったとはな……」
「だぁから、最初からそう言ったじゃねェのよ……」
 保崎が兼山と一緒になって手を挙げながら、振り返り、言う。
 シグルスは半眼になりながら、彼らの顔を見遣り。
「あんたら、カグヤへの復讐が目的だったんだろ? なんでワザワザ女優をさらったんだよ。おかげで、ややこしい事になったじゃねぇか」
「最初ァ、本人だと思ったんだよ。まさか、こっちの方が銀幕市に来てるたぁ思わなかったからな。ま、なにせ、さらった時に妙に隙だらけだったもんでよ、それで調べてみて初めて、あ間違った、ってぇ知ったワケ」
「で、今度はその女優を餌にカグヤを釣ろうとした、と」
「まさか撮影隊を引き連れてくるとは思わなかったがねェ」
「あんな判り難い手紙を書くからだろ」
「こっちにも事情ってのがあンの。若造。おじさん達ァ、大変なんだよ。だから――」
 保崎が兼山に目配せをする。
「動くな!」
 シグルスは威嚇するように銃口を向け直したが、保崎と兼山は制止を聞かず、一斉にシグルスへの方へと踏み出してくる。
「人も撃てねぇような甘ちゃんに関わってる余裕はねぇ、のッ!」
 シグルスは短く舌打ちをしながら、銃を持つ手を思い切り後方に振りながら半身を引いて、腰を落とす。鋭く息を詰め。
 兼山が飛び上がって片足を放り上げた真っ直ぐな蹴りの先が、引いた半身の残像を削りながら顔面の横を過ぎる。それはそのまま、行き過ぎるのを放っておく。
 視線は、殴り掛かってくる保崎の方。そちらの方へと、更に体勢低く踏み込みながら後方に振っていた手を振り上げる。
 銃のグリップ尻に顎を叩き飛ばされた保崎が海老反りに浮いてから、床に転がり、そこに伸びた身体がびくんと一度痙攣した。
「撃てないんじゃなくて、撃たないんだよ。必要無いからな。で――」
 シグルスは、振り返りざま、もう一度、兼山の方へとキッチリ銃口を向ける。それは、明確な警告。
「続けるか?」
 クッ、と歯噛みして兼山は動きを止めた。
 と、その後ろ、入り口から控え室に飛び込んできたのは、市島 詠美だった。
 彼女は、一度立ち止まって、室内を素早く見回すと、すぐに眠っている女優の方へと駆けた。
 その腕をシグルスが兼山を睨んだまま掴む。
「っ!」
 詠美の手から、床にカラリと落ちたのは小さなナイフだった。

 ◇

 劇場裏の非常階段の外へと身を翻して、銀の髪先が夜の虚空に躍る。
 追って、非常出口を粉砕しながら化け物の体が細い月明かりの下へと姿を現し、更に香玖耶を追って飛んだ。
 香玖耶は先にアスファルトへと着地して、劇場裏の路地を駆ける。その後ろで地を鳴らす着地音。それから聞こえる筈の一歩目の音が聞こえない。
 ゾ、と背筋に寒気を感じて身を屈めて前転した、その上を、大砲弾の様に化け物の体が超えていく。
 香玖耶は地面を掌で叩きながら体を飛び起こして鞭を振るった。
 鞭先が夜気を擦ってラーメン屋の立て看板を絡め取り、香玖耶の腕先が導くままに、それを着地寸前の化け物へと叩きつける。
 空中で横殴りにされて、化け物はシャッターの下りた空き店舗まで吹き飛ばされた。
 香玖耶は手首で鞭を引いて、手早くそれを腰に留め戻し、精霊の真名を呼ぶ。
 翳した手に浮かぶ白い光。
「蒼天を巡る清しい涼風よ、嵐天を駆ける荒ぶる轟風よ。疾く集い来りて――」
 瓦礫の中から姿を現す化け物の方を薄く見詰めながら、紡ぐ詠唱。
「彼の者を閉じ込めよ!」
 香玖耶の呼び声に応え、二対の風の精霊が化け物の足元に吹き上がり、絡みつく。
「ゥヴるァアアアアアアアア゛ッッ!!」
 化け物の口から溢れ出してきたのは、黒く蠢く靄だった。
 それは身悶えするように戸倉の口から空中へと逃れ、ボタリと地面に落ちる。そうして、ずるずると香玖耶の足元の方へと這いずる。
(淀みの塊、か……人の心から生まれ、人の心に巣食うモノ……無人の街と共に実体化して行き場を失って集っていたところで……彼が私に向けていた悪意に吸い寄せられ同化したのね)
 それは、なおも周囲に漂う淀みを巻き込みながらずるりずるりと香玖耶の方へと近づいてくる。
「あなたを相手にするのも久しぶりよね、そういえば」
 そして、香玖耶は光の精霊の真名を口に解いた。


 <6>


「保崎サン、兼山サン……俺ェ、なんでこんな事になってんスか……?」
 もう随分と傾いた月がビルとビルの間の細い隙間に差し込んでいる。
 それは無人の歌舞伎町を白く照らしていた。
「いいか、良く聞け戸倉ァ。あの女には、二度と、手を出そうなんて思うな」
「俺ァ、何がなんだか……」
「煩ェ、とにかく。とにかくだ。あの女には金輪際関わらねぇようにしろ。いいな?」
「意味わかんないス……ほんと意味わかんないス」
 兼山は戸倉のふやけた声を聞きながら、保崎の言う通りだと頷いた。
 眼下に広がる雑多に汚れたアスファルトを眺めながら、本当に、本当に保崎の言う通りだと頷く。
 さやさやと吹く夜風が劇場の屋根の端にぶら下げられた三人を揺らしていた。

 ◇ 

 コツコツと二人の靴音が響く帰り道。
 実体化した歌舞伎町の路地をもうじき抜ける。
「で――あいつらに昔、何したんだよ?」
 香玖耶は、横を歩くシグルスから自分に向けられた視線をバタバタと手で払い。
「ちょっと前に、店を一軒潰しただけ。だって、スターを不当に売り物にしてたのよ。許せないじゃない」
「それは、確かに……ふぁ」
「あはは。本当、お疲れ様」
 言ってから、欠伸を浮かべたシグルスにつられて、香玖耶も小さく欠伸を浮かべた。
 眠りこけていた女優の代わりに結局、香玖耶で全てのシーンを撮り切って、今回のドラマの撮影はクランクアップした。
 といっても、あれからの撮影は想定よりずっと短いもので済んだ。カメラマンが異形化した戸倉との戦闘を撮っていたのだ。あの混乱の中でカメラを回し続けていたのも驚きだが、その映像を見た監督がそれを使うんだと言い出したのにも驚いた。なので、その前後のシーンを繋がりの良いように撮り直した。それでも違和感は出るのじゃないだろうかと思ったが、編集でどうにかなるものらしい。
「市嶋さんは……」
「ナイフを持ってはいたけれど、殺気は無かった。少し顔だか髪を切るくらいのつもりだったんだろ。おまえがドラマを撮り終わるまで復帰出来ないように」
「……複雑な気分」
「だろうな。でも、カグヤの気にする事じゃない。おまえは自分のすべき事をしていただけだし、結果的に彼女は無事だった。それに市嶋は……正気になったら、眠ってる彼女に泣きながら謝ってたよ」
「……これから、どうするのかしら……?」
「市嶋は彼女に全てを話すと言ってた。結局、市嶋は今回『何もしなかった』だけだからな、後は女優と事務所次第」
「うん……そっか」
 香玖耶は静かに頷く。
 涼しい夜の風が吹いていた。
 歌舞伎町の終わりに足を止めて、二人は振り返る。
「ねぇ……シヴってさ」
「何だよ?」
「意外と演技巧かったわよね。なんで?」
「司祭だから」
「……それって、ちょっと問題発言じゃない?」
「そうか?」
 言って、シグルスは、歌舞伎町を見た。
 彼女が一人で生きていた街だ。一人で駆けていた世界。そこに自分は居なかった。
 でも、この数日の間に形はどうであれ彼女の世界を体験して、また彼女を少し知った。
 それが、空白の何百年の内のほんの一握りの一瞬の事だとしても。
「シヴ……なんか嬉しそうね?」
「なッ……い、いや、ようやく、終わったなっと思って! 撮影が!」
「あー、うん、判る。ここ何日かは本当にハードスケジュールだったものね。早く帰りましょ」
「なあ、カグヤ」 
「うん?」
「暇だったら、また手伝ってやるよ」
 言って、シグルスは先に帰り道へと歩き出した。
 その言い方がぶっきらぼう過ぎて、照れているのがまる判りで、香玖耶はくすぐったく思いながら小さく笑ってしまった。
「今回、思い知った。おまえ一人だと色々と危なっかし過ぎる」
「ちょ――それどういう意味よ!」
 香玖耶はシグルスの後を追って、足早に歩き出しながら口を尖らせる。
 









クリエイターコメントこの度はオファー有難う御座います。
未だ何とももどかしいお二人をうくうく書かせて頂きました。
受託納品合わせて締め切り一杯まで使った上、非常に長くなってしまい、申し訳ありませんでした……。
畠山なドラマシナリオとか無駄にうきうき詳細を組んだり、ひっそりと監督、スタッフ、カメラマンに名前と設定を組んでいたりした事は内緒なのです。

心理描写、言動などなどイメージと異なる部分があれば遠慮なくご連絡ください。本当に。
出来得る限り早急に対応させて頂きます。
公開日時2009-05-04(月) 00:50
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