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<ノベル>
──── アズマ超物理研究所、正面玄関前 ────
秋の冷たい風が、倉庫街に吹き荒れていた。
戦乙女と異名をとるリーシェ・ラストニアが、巨大な竜を操り、暴れまわっている。数人の影がその竜の炎を吐く炎に焼かれて、プレミアフィルムへと姿を変えていった。
それはまさに映画のような光景だった。……だが、一方で見つめる少女の目には、今ここで起こっていることは現実なのだ。普段見慣れていたはずの、アズマ超物理研究所。その玄関前で、多くの人間たちがリーシェを止めようと、めいめいの武器を手に駆け回っている。
「嘘、でしょ……?」
ぽとり、と地面に落ちる紙袋。そこから丁寧に包装されたクッキーがこぼれ出す。
研究所の背後、敷地内の山の上に赤い髪の少女は一人立っていた。胸元に手を引き寄せ、彼女──リゲイル・ジブリールは大きな瞳をいっぱいに見開いて。遠くで行われている惨劇を見つめていた。
それは、裕福な家庭に育った15才の彼女には、信じられない光景だった。
現在の銀幕市に住んでいれば、ヴィランズが事件を起こすのは日常茶飯事であり、それならば彼女もよく目撃するし、好奇心に乗じて事件に首を突っ込むこともある。ただし今回は違う。リーシェ・ラストニアはヴィランズでは無かったはずだ。
一体、何が起こっているのか……。
混乱しておろおろと回りを見るリゲイル。
──数十分前。彼女はいつものように、あの研究所を訪れた。リゲイルは研究所に住み込んでいる知人とミランダに差し入れを持って、たまにここに遊びにくるようにしていたのだった。
ミランダだって女の子なんだから甘いものが好きなはず! その主張の通り、ムービーキラーとなったミランダも無表情ながら、リゲイルの持ってくる菓子類を食べてはくれていた。だからリゲイルは彼女の様子を見るのが楽しみで、今日もここにやってきたのだった。
しかし、あの所長の東という男と、頬に傷のある男──竹川導次に止められたのだ。今日は危ないからガキはここに近寄るな。……そう言われてリゲイルはカチンと来た。
彼女は、出直すフリをして研究所の裏手に回った。後背地の丘から建物へと降りる道があるだろうと踏んだのだが……。まさか、正面口であんな事件が起こっているとは。
ぴきゅ? と、彼女の足元にいたバッキーが鳴いた。ハッと我に返ったリゲイルは、慌てて携帯電話を取り出した。
とにかく、自分が見たものを誰かに伝えなければ。
まずは“彼”に──。リゲイルは、自分が最近、最も頼りにしている人物にコールした。
が、出ない。
彼女は形の良い眉を寄せて、別の青年にコールした。今度は相手が出た。
──対策課に? そうなの、分かったわ。ええ。うん大丈夫。じゃあ、わたしもすぐに行くから待ってて。どうしてって……。だって、こんなの放っておけないじゃない!
電話の向こうの相手に、そこで待つように伝えると。リゲイルは電話を終え、バッキーを抱え上げて、自分の来た道を大急ぎで駆けるように戻っていった。
一方、彼女と反対側。
研究所正面の方から、彼女と同じように遠目に竜と戦乙女の姿を見ている者がいた。
ただし、その視点は遥か上空だ。青い空にぽつんと浮かぶのは、背中に四枚の神々しい翼を持つ、一人の青年の姿だった。
天使フェイファー。映画『オレ、天使』から実体化した彼は、黄金色の瞳で下界の惨劇を見下ろしていた。その表情を少しだけ曇らせて。
「……健気だな」
ぽつりと言う。フェイファーは、人の心を読むことまでは出来ない。しかし下界で戦う若き娘の目を見て。彼女が何かを守るべく戦っていることは容易に察することが出来た。
「ワケも無く、戦うようなヤツじゃねえもんな、お前さんは」
彼女には聞こえないだろう。だがフェイファーは言葉を紡ぐ。「誰か、大切な人を失いかけてるんじゃねぇのか?」
この銀幕市に実体化してからも、彼は天使の仕事を続けている。それは専ら人間の恋や幸せを後押しして、人間たちの手助けをすることだった。
自分以外の人間を愚民と呼ぶフェイファーの仕事ぶりは、お世辞にも真面目とはいえない。屋根の上などで昼寝したり、猫と会話して一日を過ごしてしまうことなどザラだ。
だが、それでも彼が、人間たちの幸せを願う天使であることに変わりはない。
フェイファーは、その表情には出さないものの、下界で戦うリーシェの姿を見て、心を痛めていたのだった。
「──俺が、どうにかしてやるから」
そう言ってはみたものの、彼女に伝わるかどうか。
フェイファーは翼をはためかせ、大空を舞うようにその場から姿を消した。
──── 銀幕ジャーナル社、会議室A ────
アズマ超物理研究所で事件が起きてから十分ほど経ち、銀幕ジャーナル社の中は新たに届いたビデオ映像のせいで、騒然となっていた。
盾崎編集長は、会議室に柊木芳隆(ひいらぎ・かおる)を一人残して、対策課に連絡をするために部屋を飛び出していった。
今、彼らが見ていたのは、ホーディス・ラストニアから届いた動画だった。内容は、彼が金燕会のカレン・イップに監禁されているという衝撃的なものであり、彼の双子の妹が研究所を襲撃していることとは決して無関係ではないだろう。
──やはり、彼女が関わっていたのか。
大きく息を吐いて。一人残された柊木は、もう一度ビデオを見ることにした。
味気ないテーブルの上に置かれた彼の左指が、コツコツと不規則に動き出し、彼の思考スピードを体現しているようだった。そろそろ還暦も視野に入るような年齢であるのに、その眼光は全く衰えていない。
刑事映画『狼狩り≪外伝≫』から実体化したムービースターである彼は、本来ならば警察庁警備局公安課課長の地位にある警視長だ。この銀幕市に実体化してからも銀幕セキュリティ社という警備会社に籍を置き、自らの手腕を役立てている。
その柊木が事件を知ったのは、かなり早いタイミングだった。アズマ超物理研究所に警備員として派遣していた部下から報告を受けたのである。そしてすぐ後に、盾崎編集長からも連絡を受けた。カレンが事件に関わっているらしい──。そう聞いて、柊木はわずか数分後にこの銀幕ジャーナル社に駆けつけ、彼とともにビデオ映像を見た。
二回目となる映像を見ながら、柊木は、数日前にカレンが口にした言葉を思い出していた。
あれは、街がハロウィンで浮かれていた10月末。
“次のショーを、既に用意している”。彼女の言葉が気になって、彼は部下を使いカレンの行動をマークしようと試みたのだが──。昨日からまる一日、部下からの連絡は途絶えている。
──これが、君が用意した“次のショー”なのか、大姐?
彼は映像を丹念に見直しながら、リモコンを手にして、ある一場面を繰り返し見た。
カレンの背後、カーテンの隙間から外の風景が一瞬だけ映る場面だ。ピッ、と一時停止したときに、ようやく盾崎が会議室に戻ってきた。
「場所を特定するまでは、さすがに無理だな」
だしぬけに言う、柊木。
「え?」
「高層建築物が、密集してるのが見える。この街の何処かなのだろうがね」
そのまま盾崎に椅子に座るように促し、自分は画像に目を戻す。相手が画面に視線をやるのを待ってから、彼は話を続けた。
「盾崎。そもそも、研究所を襲撃するという予告を出すことに、どんな意味があると思う?」
「意味って……」
いきなり話を振られ、盾崎は少々困惑した様子を見せた。が、おずおず自分の考えを口にした。
「そこに目を引き付けるってことだよな」
「そうだ。さすがは鬼編集長」
ニッと笑う柊木。
「人間は目立つものに目が行き易い。カレンがよく使う手だ。──あのSAYURIを狙った爆破未遂事件のことを覚えているか? あの時も彼女は事件を起こすと予告をした。普通に考えれば、予告などしない方が犯罪は成功しやすい。……そうだろう? それなのに彼女はわざわざ、君たちメディアにビデオを届け、自分が関わっていることをアピールした。なぜだと思う?」
「自分が目立ちたいから、かい?」
恐る恐る言う盾崎に、警視長は軽く肩をすくめて見せた。
「その答えは、ある意味正しいね。だが言い足りない点がある。美女コンテストの出場者たちが悪性キノコの影響を受けて暴れまわった事件。あの時のことも思い出してみたまえ。あの時、裏でカレンは何をしていた? 美女たちの事件に皆が気を取られている隙に、倉庫街で大量のプレミアフィルムを強奪しようとしたのじゃなかったか?」
一度、言葉を切り、柊木はゆっくりと言った。
「つまり、カレンは、本当の目的を隠すために行動している可能性がある」
「本当の目的?」
「──おそらくは今回も、何か真の目的があるはずだ」
少なくとも──ミランダが目的ではないはずだ。柊木は心の中でそう付け加え、やおら席を立った。
「何か分かったら、すぐ連絡するよ」
「ま、待ってくれ柊木さん」
上着を取り、部屋を出て行こうとする柊木を、盾崎が慌てて引き止めた。
「その……、カレンの目的ってやつに、あんたは見当がついてるのかい?」
「いや」
柊木は眉を上げて、苦笑して見せた。厳しい顔つきが、一瞬だけ柔らかくなる。
「それを知っていそうな人物には、心当たりはあるがね」
そう言い残すと、彼は軽く手を挙げて部屋を出て行った。
──── 市役所、映画実体化対策課、ロビー ────
カレン・イップが、こちらを向き銃を撃つ映像。それを二回ほど見た後、シャノン・ヴォルムスは、唸るような声を上げた。
銀幕市内で起こる、あらゆる事件に関わってきた彼の本業はヴァンパイアハンターだ。本来であれば人ならざる者を相手にしているシャノンだったが、この街では映画の中と勝るにも劣らない強敵たちを相手に戦ってきた。
ビデオ映像に映っている女も、彼を手こずらせてきた相手の一人である。
金燕会の女頭目、カレン・イップ。
「……人質をとって、あのリーシェを動かした、ということか」
「そのようです」
動画を映すパソコンの向こうで、深刻な顔をした植村がうなづいた。
「随分と古典的な──いや、効果的な手法を採ったものだ。特にあのリーシェのような奴には、これ以上の策はないかもしれんな」
シャノンはじっと映像に見入る。リーシェとは幾度か仕事をこなしたことがある。友人とも言っていいだろう。その彼女が不本意な戦いを強いられている……。そう思うと非常に複雑な気分だった。
「時間がありません、シャノンさん。このカレンの言葉が本当であるならば」
植村が焦ったように言った。
「早くホーディスさんを助け出さないと、研究所の被害は拡大し、ホーディスさんに危害が加えられてしまいます」
「分かってるさ」
シャノンは滑らかな動作で立ち上がると、椅子にかけてあった上着を取って肩にかけた。
「ミランダを狙う意図が今ひとつ分からんが、クライアントの意向か。気に食わんな」
ぼそりと言う。彼もまた、数日前にカレンを街で見かけていた。──以前の、触れたら切れるような雰囲気を、すっかり無くしてしまった彼女を。
あの様子が気にはなっていたが、それはそれだ。カレンは現に、また街をゆるがす事件を起こしているのだから。
「心配するな、すみやかにホーディスを救出すればこの事件は片付くはずだ」
と、シャノンは植村の顔を見て付け加える。
「俺はそろそろ行くつもりだが、他には何かあるか? ──ああ、そういえば。例の胃薬は、ちゃんと足りてるか?」
「もちろんですよ。おかげ様で」
聞かれると植村はにっこりと微笑んだが、彼の口端が引きつるのをシャノンは見逃さなかった。
「ならいい。……今日は車の用意もなさそうだしな」
「車はね、さすがに間に合いませんでしたよ。でも──」
ふいに植村はシャノンの後方に目をやり、安堵したような表情を浮かべて見せた。
「頼もしい助っ人が、お二人ほど間に合ったようですよ」
「──シャノン!」
後ろから声をかけられ、彼は振り返った。そこには赤い髪の少女と、Tシャツに黒ジーンズ姿の青年が立っている。二人とも見知った相手だった。
「さっき電話で、ここで待っててって言ったのに。今、わたしを置いてさっさと行こうとしてたでしょ!」
頬を膨らませながら、そう言うのは少女、リゲイル・ジブリールだ。
シャノンは追求から逃れようと、彼女から目をそらし青年の方を見る。“アイ・ラブ・愚民”と書かれたTシャツを着こなして立っているのは、天使フェイファー。彼は、シャノンの視線に、肩をすくめてみせた。
「──そこで、会ったんだよ。ヤル気だけは人一倍ってやつ?」
「そのようだな」
「ちょっと、わたしのこと言ってるの?」
「まあまあ」
三人の間に入って、リゲイルをなだめようとする植村。
「リゲイルさんも、手伝ってくださるのは大変頼もしいんですが、危ないところにだけは行っちゃ駄目ですよ。ねっ?」
「そんなの、分かってるわ」
そう、彼女が言うと、回りの男性陣はホッとしたような顔をしてお互いの顔を見合わせた。
「じゃ、手分けして捜査を始めるとしようぜ?」
フェイファーが言う。うなづくシャノンと植村。
そんな中。リゲイルは彼らの顔を、何よ子供扱いして! と不服そうに見上げていたのであった。
──── 星砂海岸、ある海辺の空き店舗物件 ────
対策課で三人がホーディス・ラストニアを探すことになった頃から、遡ること数十分。事件も何も起こっていなかった昼下がり。海辺では静かな時間が流れていた。
「──そこは空き家だよ」
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、そこには黒い長靴を履いた初老の男が立っていた。
彼は自分の着ているよれよれの水色のシャツと同じように破顔すると、目の前に立つ長身の男に向かってもう一度、同じことを言った。
「そこは元々、定食屋だったんだよ。今は営業してないけどね」
ユージン・ウォンは、かけていたサングラスをゆっくり外して胸ポケットに収め、無言で相手を見る。
黒尽くめのスーツに身を包んだ彼の髪はプラチナブロンド。顔には大きな傷があり、片方だけ残った青い目で相手を見下ろすその姿は、どこからどう見ても堅気の人間ではない。
だが、初老の男はそんなウォンを恐れる様子もなく、微笑んでいた。
星砂海岸に面した、この小さな木造の建物の前で。寒々しい海の風を受けて、ウォンが身に着けている黒いマフラーが、ふわりとなびく。
「あんたも、蔡さんの友達かい?」
顎で定食屋を指し、男は続けて言った。
“蔡さん”──ディーン・チョイのことか。ウォンは一拍置いてうなづいた。
「ああ、そうだろうと思ったよ。……最近妙に、蔡さんのことを聞きたがる人が多いから」
彼はそう言うと、建物の脇にある古びたベンチに座るよう、ウォンを促した。男が彼を怖がらなかった理由はそれか、と。ウォンは心の中で思いながら、大人しく彼の隣に腰を掛けた。
これから、リーシェ・ラストニアがアズマ研究所に襲撃をかけようかという時間である。事件などとは全く無縁の、この静かな場所で。ただ寄せては返す波の音だけが聞こえる海辺のベンチで。ウォンは、男の話に耳を傾ける。
──蔡さんは、ある日ぶらっとこの海岸に現れたんだよ。
こちらから促すまでもなく、初老の男はぽつりぽつりと話し始めた。
***
そうだね。ちょうど今から一年前ぐらいの頃かなあ。
蔡さんは、最初の日だけ、今のあんたと同じような格好をしてたよ。釣りをしてた俺らをじっと見てた。そのうちに“魚、釣れるのか? 俺にもやらせてくれ”って声をかけてきてさ。見た目と違って、意外に気さくな奴だったんだなって、俺たちはちょっと驚いたもんだよ。
ああ、そうそう。
ムービースターなんだろ、蔡さんは。この綺麗な女の人は奥さんなんだってな。俺、二回だけ会ったことがあるよ。一度、蔡さんを迎えに来たときと、それから、ついこないだ。
──ん? そうだよ。ついこないだ来たよ。カレン? いや、名前は聞かなかったけどね。とにかくそのパンフの女の人だよ。
あんたと同じように、この空き店舗を覗き込んでた。……独りだったね。
蔡さん、この店を買ってたんだってな。俺、彼女に聞いて初めて知ったよ。
確かに彼、定食屋やりたいって言ってたよ。奥さんや友達と一緒にね。俺らはさ、海辺なんかで店やっても夏しか儲からないよって、さんざん言ったんだけどねえ。蔡さんは笑って、それでいいんだ、っていつも言ってたっけな。
波の音が聞こえるところで奥さんと静かに暮らしたいって。蔡さん、そう言ってたなあ。
ああ、でも。
あの頃は、奥さんの方はここに興味が無かったみたいだよ。蔡さんはいつも独りで海に来たし。奥さんを誘っても一緒に海に来てくれないって。いつもそんなこと言ってたからさ、俺らは気の毒に思ってたんだよね。
……。なあ、あんた。
ひとつ聞きたいんだが、教えてくれないか。
こないだ奥さんにも聞こうと思ったんだけど、彼女、あんまり悲しそうにしてるから聞けなくってさ。
蔡さんは──。彼は、死んじゃったのかい?
***
「そうだ」
言葉を挟まず、黙って話を聞いていたウォンは、相手の言葉の締めくくりにそう答えた。
男はごくりと息を呑む。
「その……、ひどい死に方をしたのかい?」
「いや」
恐る恐る聞かれ、ウォンはかぶりを振った。
「……ただ、奴は──」
と、何か付け加えようとした時、携帯電話がポケットの中で鳴り、彼は言葉を飲み込んだ。電話を取り出し相手の名前を確認すると、また電話をポケットに戻す。
「ディーン・チョイは、この街に心残りを置いて逝ったよ」
それだけ言うと、ウォンは立ち上がった。
「え?」
隣りの男は不思議そうな顔をして、彼を見上げたが、ウォンは小さく礼を言っただけでそれには何も答えなかった。
そのまま身を翻し、携帯電話を取り出しながら、長身の男は海を背に街の方へと歩いていった。
──── ミッドタウン、ショット・バー「サード・グラス」 ────
フェイファーは、外の窓からそっと店内を覗き込んだ。スーツ姿の壮年の男性が独り。手にした何かにじっと見入りながらフロアに立っている。
──誰だろう?
そこは、聖林通りの裏にひっそりと軒を連ねるショット・バーだ。以前は、目立たない店だったのだが、一ヶ月ほど前にバーテンダーが殺害され、幸か不幸か注目されるようになってしまった。それも、金燕会の息のかかった店らしいという噂も込みで。
フェイファーは、対策課でシャノンとリゲイルとともに例のカレンとホーディスのビデオを見た。リゲイルは窓から見えていたビル街に見覚えがあると言い、ベイエリアの観光客向けホテル街を見に行くことになった。同様にシャノンは、ミッドタウンの市役所付近のオフィス街をあたることにした。
それでフェイファーはというと、酒類やグラスの類があることから、まずこのバーを確認してから、ホテル街へ行こうと決めたのだった。リゲイルをずっと一人にするわけにはいかないし、彼ならば背中の翼と魔術で素早く移動することもできる。
さて。ここにも長くは時間を掛けられない。フェイファーは、入口に回りドアノブを握ってみた。鍵が掛かっているようだ。ノックでもしてみるか。
「──お客さん、ねえ、申し訳ないのだけど」
彼がコンコンとドアをノックした時、誰かが後ろからその背中に声を掛けた。女の声だった。
ハッとしてフェイファーが振り返ると、そこに買い物袋を二つ手にした細身の女が立っていた。白いブラウスに黒のタイトスカートを身に付けている。
「お店は五時からなの。申し訳ないけど、そのぐらいの時間にまた来てくださる?」
亜麻色の髪を肩の上できちんと切りそろえ、緑の瞳を持つ白人の女だった。ただし年齢が分からない。若くもそれなりの年にも見える、が。
「あんた、この店の人?」
店の関係者か。フェイファーはすぐに察して口を開いた。女はうなづきつつも、ふと、探るような視線を返してきた。
「あらお客さん、カレン・イップにでも会いに来たの?」
ズバリと言われフェイファーが一瞬言葉に詰まるのを見ると、彼女は視線をそらしてポケットから鍵を取り出した。
「残念ながら、彼女はここには居ないわよ。前のバーテンが殺されてから、あまり来なくなったの。ま、当然だけど」
「ま、待てよ」
扉を開けて、さっさと中に消えていこうとする女を、半ば慌てて引き止めるフェイファー。
「……この店の中を見させてもらうぜ?」
「どうして?」
「今、カレンがどこにいるか知りたいからさ」
「あんたは?」
女は怪訝な顔をした。「あんたは何者で、ここに何をしに来たの?」
「俺は、フェイファー。天使さ」
臆せず、彼は名乗った。
「あの女と、ホーディスとかいう奴を探してんだ。知ってるなら教えてくれよ」
フン、と女は鼻を鳴らした。
「天使さまも大変ね。ま、そんな奴、少なくてもウチの店には居ないけど」
そのまま女は、ご勝手にどうぞと言わんばかりにドアを大きく開いた。不良天使も、悪いねなどと言いながら暗い店内に足を踏み入れた。
「あれっ?」
と、彼はきょとんと店内を見回した。先ほど、店内に居た男の姿が無い。
「何?」
「さっき、スーツ姿のおっさんがここに立ってたんだけどなあ」
「見間違いね」
どさりとカウンターに袋を置くと、女は手馴れた仕草で購入してきた野菜やチーズなどを片付け始めた。「この店は、今はわたし一人でやってるから」
「ふうん」
フェイファーは不審に思いつつも、目に力を込めて店内を見回した。力ある天使の彼にとって、壁の向こう側を透かし視ることは造作もないことだった。
カウンターの脇に小さな部屋があり、奥には厨房らしきものがある。だが、ただそれだけだった。他に人の姿は無い。
女の言うように、ここには何も手掛かりが無いのかもしれない。と、フェイファーは思った。頭を掻きながら、視線を彼女の方に戻す。
見れば、カウンターの上にいつの間にかスノーホワイトのバッキーが座っていた。おや? ……ということは彼女はムービーファンか。フェイファーは女をもう一度見る。
そうすると、カウンターの上に、無造作に積み重ねられていたDVDソフトの山が目に入った。一番上に載っていた一枚を、彼は何気なく手に取る。タイトルには『燕侠5』とあった。
カレン・イップの映画だ。彼はその映画を見たことは無かったが、ジャケットに彼女の姿があるのですぐに分かった。日本のヤクザと彼ら金燕会が戦う話らしい。
おや? と、フェイファーは、カレンの隣りにいる男をまじまじと見つめた。
この男、どこかで見たことがあるような……。
「うちレンタル屋じゃないから、それ貸せないわよ」
女がフェイファーに向かって手を突き出す。早くそれを返せと言わんばかりに。
「──あっ、そうだ! 思い出した!」
急に声を上げるフェイファー。「俺、こいつに会ったことがある」
「何ですって?」
女が眉を寄せ、近づいてきた。フェイファーが指差している男を見、「それは、ディーン・チョイ。カレンの夫よ」
「えっと、あれは……、そうだ。『雪まつり』の日だよ。公園で雪像作って騒いでさ。みんなと別れたあと、俺、街角でこいつのことを見かけたんだよ」
女は注意深く、天使の横顔を見、その言葉の続きを待っているようだった。
「路地裏に独りで。壁に自分の拳を叩き付けて血だらけになってた。この男があんまり強い負のオーラを放ってたから、ほっとけなくってさ。俺は、何があったんだって、尋ねたんだ」
「どうして? 見ず知らずの男に?」
「そりゃ、俺サマは恋愛の天使だからな」
ふんぞり返るように胸を張るフェイファー。「俺の担当じゃなかったけど、迷い子は見捨てておけないタチでね」
「──あんた、フェイファーっていったっけ?」
ふいに、女が言った。彼は言葉を止めて、ただ相手の顔を見る。
「わたしはマーサよ。マーサ・ジョーンズ。そこに座って、話の続きを聞かせて」
彼女は名乗り、彼にカウンターのスツールに座るよう促した。
「意外だね」
皮肉めいた口調で言いながら、天使は大人しく腰掛けた。「さっきまで、俺のことを煙たがってたクセに」
「わたしは友達を助けたいの」
強い口調でマーサはそう言うと、フェイファーをじっと見つめた。
「なら、取引だ。お前さんの知ってることも全部話してもらうぜ?」
「構わないわ。詳しくは聞いてないけど、彼女が今どこにいるか見当はついてるから」
「OK、取引成立だ」
天使は、手にしたDVDをカウンターに置くと、ゆっくりと話し始めた。
雪の日。道端で出遭った男と交わした会話の内容を。
──── 銀幕市役所、駐車場 ────
「そりゃ頼もしいね」
柊木芳隆は、空を見上げながら携帯電話で誰かと話をしていた。彼の周りには様々な車が停まっている。銀幕市役所の駐車場だ。彼は片足に体重をかけ斜めに立ったようなポーズで黒塗りのリムジンの隣りに陣取り、電話の相手と会話を続けている。
市役所の様子は普段通りで、たまに車がやってきたり、駐車場から出ていったりと、事件が起こっているとはいえ慌しい様子はない。
「フェイファーくんか。ああ。なら先ほど見かけた彼がそうだったのかな。例のバーのオーナーの女性と話しこんでいたようだったよ。……リゲイルくんがホテル街へ向かったのなら、我々は“ここ”をしっかり潰しておこう。ここが外れなら、二人でホテル街へ行けばいい。──おっと」
ふと何かに気付いた様子で、柊木は身体の向きを変えた。
「現れたよ。じゃあ後で。例のものも、その時見せるよ」
柊木は電話を切って胸ポケットに落とし、こちらに向かって歩いてくる二人の人物を見た。相手がこちらに気付けば、会釈をしてみせる。
やって来たのは、べっ甲フレームの眼鏡をかけた細身の男。市会議員の岩崎正臣だった。その後ろにいる若い男は彼の秘書であろう。
岩崎は柊木の姿を見ても顔色ひとつ変えず、会釈を返してきた。が、秘書の方は少し驚いた様子で、つかつかと近寄ってきた。
「あの、失礼ですが、先生に何かご用でも?」
……まるで、忙しい岩崎センセイにはアンタと話している時間なぞ無いのだ、と言わんばかりの口調である。
「ええ。岩崎先生に少々お伺いしたい件がありましてな。少々よろしいですか?」
秘書が何か言う前に、「──この後、ダウンタウンの方でフィルムコミッションの会議に出席されると聞きました。もしよろしければ、その移動の間にでもお時間を頂戴できれば」
「車の中で話をしたい、と。そういうわけだね、柊木さん。構わんよ」
にこやかな笑みを浮かべ、岩崎が言った。まごついた様子で振り返る秘書に、黙ってリムジンのドアを開けるよう促す。
仕方ないといった様子でドアを開ける秘書。岩崎は柊木を促し、彼と向かい合う形で腰掛けた。
最後に秘書がその隣りに座ると、待機していた運転手が車を発進させた。
「前にも言ったが、私は貴方には非常に感謝しているんだ」
真っ直ぐに相手の顔を見て、まずは岩崎が口火を切った。
「SAYURIの映画上映会爆破未遂事件のことをおっしゃってるようですな。いや──」
柊木は一度言葉を切り、「あなたのハルモニー・ホール爆破未遂事件と言い換えた方がよろしいですかな」
「どちらでも構わんがね。貴方がたがあの事件を解決してくれた。確かにあのホールは私の父が建てたものだし、思い入れもあったからね。頼もしいムービースターたちがいるものだと感心したものだよ」
動じた様子もなく岩崎は微笑んだ。柊木も、笑った。
「私は、今も、あのカレン・イップを追っているのです」
「ああ、そのようだね」
「彼女は狡猾で、いつも真の目的を遂げるために何重にも策を巡らせている。私は、今まで彼女が起こした事件を一から検証し直してみましてな。例の爆破未遂事件の時も、SAYURIの殺害以外に目的があったのでは、と仮説を立ててみたのです」
柊木は、前に乗り出すような姿勢をとり、ゆっくりと両手を組んだ。
「あのホールは築後25年が経過し、施設の老朽化も進んでいる。映画上映用のスクリーンも一つしかないから、パニック・シネマのような集客力も期待できない。もしあの事件で、あそこが爆破されていたなら、最新の設備を備えた集客施設に生まれ変わることになっていたのでしょうな。──貴方は、あのホールに随分多額の保険をかけていらしたようですし」
「面白い仮説だね」
はは、と岩崎は声に出して笑った。
「それじゃあまるで、この私がカレン・イップに命じて、あの事件を起こさせたみたいに聞こえるじゃないか」
だが、対する柊木はもう笑っていなかった。ただじっと相手の顔を見ている。
「9月のタナトス兵団襲来事件の時、貴方は銀幕逓信病院に一人の女性患者を受け入れさせた。その女性の名前を、私が口にしてもよろしいですかな」
「柊木さん」
市会議員は、口端に笑みを浮かべたまま。やはり動じた様子は微塵も見せない。
「そろそろ時間だ。聞きたいことがあるなら、早く本題に入りたまえ。これから年末年始でイベントが目白押しだろう? 申し訳ないが、私は本当に忙しいのだ」
「分かりました」
柊木は目を閉じ、姿勢を元に戻した。
「では、貴方がなぜ、ムービーキラーに興味を持つのかが知りたい」
「ムービーキラー?」
ああ、と岩崎は声を上げる。
「例のアズマ研究所の件だな。ミランダとかいうムービーキラーの身柄を引き渡せと、どこかのムービースターが暴れていると聞いているよ。やれやれ、あそこではトラブルばかり起きるようだ」
「この件にも、カレン・イップが絡んでいることをご存知ですかな?」
そう柊木が言うと、岩崎はたっぷり時間をかけて、大きなため息をついてみせた。
「何でも私のせいにするのは、勘弁してもらいたいものだな。そもそも私は、あの危険なアズマ研究所を市内に引き入れるのには反対だったのだ。今回の事件だって連中を拒んでおけば、起こらなかった事件だろう?」
今度は、彼の方が前のめりになって話を続けた。
「ああいった危険な連中への対処を論ずるような場として市議会が──。そもそも市にとって重要な決定を下すためにこそ、市議会が存在しているのだ。なのに、現市長は議会の決定よりあのタウン・ミーティングの内容を重視した。──柊木さん。貴方は法の番人、体制を守る側の人間だろう? あの結果は本末転倒だとは思わんかね」
「現市長は、我々のこともよく配慮してくれていると感じておりますが」
柊木がそう答えたとき、車がゆっくりと停止した。どうやら目的地についたらしい。
秘書が小声で何かを岩崎に伝える。市会議員は一つ頷くと、柊木に向かってにっこりと微笑んで見せた。
「タイム・オーバーだ。有り難う。楽しかったよ、柊木さん」
仕方なく、柊木も岩崎と秘書とともに車を降りた。秘書が時計を見、誰かに電話をし始める。
岩崎は正面にあるビルを見上げて目的地を確認すると、もう一度だけ柊木を振り返り、軽く手を挙げるとそのままビルの中へと歩いていった。その背中を秘書が追いかけていく。
ふう、と息をつく柊木。
岩崎の姿が消えたのを確認すると、リムジンのドアを閉め、運転席側に回り込む。
コンコン。彼が車のガラスを叩くと、運転手が中から窓を開けた。
ただしそこに座っていたのは、運転手ではなかった。
金髪の青年──シャノン・ヴォルムスは、カモフラージュのために被っていた運転手の帽子を取り、膝の上に置く。
「聞いてたかい、シャノンくん」
「ああ」
「彼はどうやら、今回はシロらしい」
「ま、知っていて見過ごしているなら、限りなくグレーに近いシロ、だがな」
柊木は車に背をもたせかけると、煙草を取り出してライターで火を付けた。そのまま左手でポケットから取り出した何かをシャノンに差し出す。
「で、さっき、金燕会のバーで拾ったのは、これなんだがね。──見覚えがあるかい?」
シャノンは、柊木の手からそれを受け取り、しげしげと眺めた。
それは、一枚のチップだった。
表側には、青と黒のダイスのイラストがプリントされている。そう、それは現金の代わりにカジノで使われているチップに他ならなかった。
「フランキー・コンティネント、だ」
「やはり、そうか」
柊木は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「奴なら、過去にミランダを狙った“実績”を持ってる」
対するシャノンは、過去に自分が関わった事件を思い出していた。フランキー・コンティネント。悪役会のナンバー・ツーにして、犯罪映画出身のムービースター。華やかなカジノに身を置き、派手な作戦を好む男──。
「フランキーが、カレンを動かしたのか」
「そのようだ」
「なぜ、彼が?」
「さあな」
肩をすくめるシャノン。「だが、一つ言えることがある。フランキーが以前、命を狙った男が今、あのアズマ研究所にいる」
「──竹川導次のことか」
「そうだ」
柊木は考え込むように視線を地面に落とした。煙草の灰が長く伸び、細く紫煙が立ち上っている。
「カレンとフランキーの二人が、何らかの取引をしたと見るのが妥当か」
「同感だ」
「よし」
身体を起こし、柊木はシャノンを見た。
「急ごう」
「ああ、このまま行こう。車に乗ってくれ」
その言葉に、柊木はフッと笑った。
「少しぐらい借りてもいい、か」
彼が車に乗り込むと、黒塗りのリムジンは急発進し、猛スピードで走り出した。
一路、ベイサイドエリアのホテル街に向かって──。
──── ダウンタウン南、雑居ビル「カネコ第2ビル」 ────
赤と黒に彩られた回転盤、深い緑のオッズテーブル。それはカジノのルーレット台だ。それに一人の黒人の男が、バサッと白い布を掛けている。
彼が、ふうと息をついて顔を上げると、同じような台が数個しか残されていないフロアが目に入る。普段はカーテンを閉め切っている窓も今日ばかりは全開に開かれており、昼の光が部屋の中にしっかりと差し込んでいる。
カジノだった。ただし、数日前までの。
黒人のボクサー風の男と、長い黒髪の白人の男が二人。部屋の中に残されたルーレットやスロットマシンの類を次々に包装している。まさに、引越し作業というやつである。
白人の方は、ブラックジャックのテーブルの上で、残されたチップを箱に詰める作業をしていた。
「なあ。こないだのフランキーのこと、どう思う?」
ふと黒人が切り出した。だらだらと布をかけながら、暇に任せて口を開いたといった様子だ。白人の方が、何が? と返す。
「あれだよ、中国人の女と話してたろ」
「ああ、カレン・イップのことか」
興味など無さそうに、白人はチップを詰め続けている。
「俺はあの夜、カジノに居なかったからな。何があったのかよく知らん」
「そうなのか? そりゃ残念なことをしたな、けっこうな見モノだったのに」
黒人は、つまらない作業を中断する口実が出来たとばかりに、ブラックジャックのテーブルまで来ると、そこにどっかりと腰掛けた。
「フランキーがあのアバズレに何か話しかけた。そうしたらあの女、いきなりフランキーに詰め寄ったのさ」
「そりゃまた、どうして?」
「知るもんか。虫の居所でも悪かったんだろ。だが、フランキーは逆に、一緒にデカいヤマを踏もうと持ちかけた。何かやりたいことがあるなら、いつでも兵隊を貸してやるとまで、のたまった」
肩をすくめて見せる黒人。
「今回、あのイカレた研究所をヤるのも、その前戯みたいなモンらしいぜ」
「へえ、フランキーがね。あんな女に。珍しいな」
「だろ? ──だが、面白いのはここからさ」
身を乗り出して、黒人はもったいぶるように話を続けた。
「あのアバズレは、何かを書き込んだカードをフランキーに渡したんだが、それをフランキーは後生大事に胸に挿し続けてる。あの夜以来ずっとだぜ? 俺はピンと来たね」
白人は手を止め、笑い飛ばすように鼻を鳴らした。
「……よせよ。冗談キツイぜ。フランキーがあんな女に気を取られるわけがない」
「賭けるか?」
挑むような口調になり、黒人が言う。
「俺は“フランキーがあの女に惚れてる”に5万賭ける。お前は?」
「5万? 5万か……それなら俺は」
「──面白い賭けをしているな」
突然、聞こえた声に。二人の男は凍りついたように動きを止めた。
顔を上げると、いつの間にか。部屋の入口に男が立っていた。漆黒のスーツに身を包んだ長身の男だった。
「私も、賭けさせてもらおうか」
音もなく部屋に現れた男。それは、ユージン・ウォンだった。
「──誰だ、お前は!?」
慌てた様子もつかの間、二人の男はさっと油断のない目つきになりウォンをにらみつけた。
黒人の方がテーブルから離れ、肩を怒らせて威嚇するように、つかつかとウォンに歩み寄ってくる。
「テメェ、どこから入ってきたのか知らねぇが、早くケツまくって向こうへ行きな。今なら間に合う──」
ガッ。
ウォンは、一歩踏み出し、いきなり黒人の腹に膝蹴りを見舞った。そしてさらに前へ。身体をくの字に折った相手の背中にもう一発、肘打ちを叩き込む。
腹を押え唸るような声を上げて、黒人は床に崩れ落ちた。
ウォンの視線が、ゆらりと白人の方へと移る。
「ひっ、こ、こっちに……」
“来るな”と言いたかったのだろう。白人の男はベルトに挟んだ銃を取ろうと背中に手を回したが、遅かった。既に間合いを詰めていたウォンに、彼は難なく襟首を掴まれ引き寄せられていた。
「お前は、フランキー・コンティネントのことに詳しそうだな。なら、賭けは彼のことにしよう」
ウォンは相手の背中に手を回し、その銃をベルトから抜き取ると、無造作に放り投げた。
「“お前が、フランキーの新しいカジノの場所を教えてくれる”に、5万賭ける」
「何言ってやがるんだ、はな──」
ガンッ。相手の言葉が終わる前に、ウォンはその頭を掴んでオッズテーブルに叩きつけた。白人は何かを潰したような奇妙な悲鳴を上げる。
すかさずウォンは彼の髪を掴んで頭を持ち上げた。怯えたようなブラウンの瞳。片方の鼻の穴から血がつつと流れ出していた。
「なら、次の賭けだ。“お前が鼻を折られる”に5万」
「待っ……」
もう一度、ウォンは相手の顔をテーブルに叩きつけた。
今度は悲鳴は上がらなかった。再度、髪を掴んで持ち上げると、男のもう片方の鼻の穴からも血が流れ出していた。
「折れたか。賭けに負けたな」
それを見て淡々と言い放つウォン。彼は左手を懐に入れ、むき出しの札束を出してテーブルに投げ出した。賭けた金額を優に数倍は上回っていそうな分厚さである。
「次は、“お前が左腕を折られる”に5万」
「カ、カジノの場所だろ、ホテル街だよ!」
これ以上は堪らんとばかりに、慌てて白人が言った。ウォンが手を止めると、ゼェゼェと息を切らしながら、「『セントラルホテル銀幕』っていう、ベイサイドエリアのちっぽけなホテルの中だよ」
「本当か?」
「う、嘘じゃない、本当だよ。だが、今日行ったって、営業してないぞ」
「金燕会が貸切中だからか?」
「──そうだよ、あんたの言う通りだよ!」
ヤケを起こしたように、男は叫んだ。
ウォンは、息をついてようやく男の髪を離した。彼は折られた鼻を両手で押さえ二、三歩後ずさる。
彼は部下のレナード・ラウと、もう一人の人物からそれぞれ連絡を受けていた。そして車で移動する間に例のカレンとホーディスの映像を見たのだった。
一度目に見たとき感じた違和感は、二度目の鑑賞で一つの推測に変わった。
カレンが飲んでいた高級酒。ウォンはそれに注目した。よく見ると、ボトルにリボンがついている。誰かが彼女にあのドン・ペリニヨンをプレゼントしたのではないか。
ああいった“場”が似合う人物は誰だ?
アズマ超物理研究所。ムービーキラー。ミランダ。竹川導次……。
全くの勘だったが、ウォンの脳裏に悪役会のフランキー・コンティネントの姿がよぎった。
もし、フランキーとカレンが協力関係にあるのなら。──探すべきは、彼のカジノだ。
ウォンはそう考え、まずはこの場所を当たったのだった。
結果は──“当たり”だ。
「そうか。ならそのカジノへ行ってみるとしよう」
と、ウォンは身を翻し、今だ床で呻いている黒人のそばを通り過ぎて出口へと向かった。電話で連絡をくれた彼女──リゲイル・ジブリールが、興奮した様子でホテル街に行くと言っていたのが気がかりだった。
ここを出たらすぐに電話を入れてみよう。……そんなことを思いながら、彼はドアノブを握ったが、最後にふと何かを思い出したように後ろを振り返った。
「そうだ。もう一つだけ賭けておこう」
ひっ、と白人の男が息を呑んだが、彼は構わずに懐に手を入れた。取り出したのは、もう一つの分厚い札束。
「──“お前たち二人が、私と会ったことを忘れる”に、10万」
──── セントラルホテル銀幕、ある一室 ────
世界がぐらぐらと揺らめいているようだった。
暗い洞窟のようなところから、光の差し込む一点を見上げているような、そんな感覚。手を伸ばそうとするが、身体に力に入らない。
わたし、どうしたんだろう?
リゲイル・ジブリールは、はっきりしない頭をもて余したまま、必死に記憶を辿ろうとする。
確か、そうだ。アズマ超物理研究所に行った後。彼女は対策課で、シャノンとフェイファーと一緒にホーディスが送ってくれたビデオ映像を見たのだった。そしてリゲイルはその映像の中に見覚えのある風景を見つけた。例の、カーテンの隙間からどこかのビル街が見えるシーンである。
これはゼッタイ、ベイサイドエリアの何処かだわ! リゲイルはそう主張した。
研究所を襲っているリーシェ・ラストニアを止めるためには、彼女の双子の兄を助け出さねばならない。
──一刻も無駄に出来ない。そう思った彼女は、他のメンバーと後ほど合流することにして、単身、ベイサイドエリアに向かったのだった。
……? 誰かの声がする。言い争ってる? 何を?
リゲイルは携帯電話で撮影したビデオ映像の一場面をかざしながら、ある場所に立っていた。三つのビルが同じような位置で見える地点である。
現実に見える風景と、写真の風景が完全に合致しているではないか。
リゲイルは後ろを振り返った。小さなリゾート風ホテルである。名前は、セントラルホテル銀幕、とある。
──これは、早く皆に連絡せねば。彼女が携帯電話を操作しようとしたとき、後ろからポンと肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは藤色のワンピースを着たオカッパ頭の男、だった。
リガじゃないの、どうしたの独りで? 何してるのこんなところで。
マギーさん! ……もう! びっくりさせないでよ。
突然現われたのは、知り合いのオカマだった。彼の姿にリゲイルはホッと胸をなでおろす。
が、辿れる記憶はそこまでで途切れていた。
「──何で、こんなに増えてるンだよ!」
「仕方ないじゃないか、大姐。逃がしたらここが他にバレてたかもしれないしさ」
「邪魔なんだよ。3人も! 人質は魔法使いだけで足りてるんだ!」
どこかで聞いたことのある声だ。女の声は──。
リゲイルはハッと目を開く。この声はカレン・イップの声ではないか。
最初に目に入ったのは深紅の絨毯だった。そして二人の人物の足。見上げれば、あのカレン・イップが、スキンヘッドの痩せた男を叱咤している。
リゲイルはようやく自分の置かれた状況を理解した。自分は当たりを引き当て、そして捕まってしまったのだ、と。
頭がはっきりしないのは、何か薬物を投与されているのだろう。近くには椅子に縛り付けられたホーディスの姿──意識を失っているようだ──が見える。バッキーも傍には居ないようだった。
「魔法使い以外のを、さッさと外に捨ててきな」
「ん……。でも大姐。この小娘の方は確保しといた方がいいんじゃないかい?」
痩せた男は、陰陽という金燕会のメンバーのようだ。
「ユージン・ウォンが、ここに来たらどうする? 奴への牽制に使えるだろ」
その名前を聞いて、リゲイルは背筋が寒くなった。彼女の年の離れた恋人のことが話題になっている!
「しかも、この娘は富豪の娘だし、身代金を要求するのにも使えるだろ。人質にしておいて損はないと思うけどなあ」
「……チッ」
舌打ちして、カレンはうなづいた。床に転がされている、もう一人の人物を見下ろし、「なら、とにかくこの“かさばる方”だけは捨ててきな」
「僕の顔を見られちゃったんだけどなあ」
「いいから、早く捨ててこいッ!」
陰陽の姿が、リゲイルの視界から消えた。ずるずると何かを引きずるような音。
彼がドアを開け、外に出て行って。ようやくリゲイルは、一緒にいて人質になっていたマギーが解放されたのだと気付いた。
「カレン……さん」
ふう、と息をついてカレンが手近なテーブルに腰掛けるのを見て、リゲイルは思い切って彼女に声を掛けた。
金燕会の女頭目は、ハッとこちらに顔を向けた。が、目を細めただけで、彼女は無言のままだった。大きなモニター映像の方に視線を移し、アズマ研究所で暴れているリーシェの姿を眺めている。
「あの、わたし……」
何と話しかけてよいものやら。リゲイルはこの状況に困惑してはいたものの、だがカレンとはいつか話をしたいとは思っていた。つい先日。ハロウィン祭の日、街で初めて出遭ったカレンはキツい言葉を掛けてきたものの、自分には危害を加えなかった。
「こないだは、ごめんなさい。わたし、あなたのことをよく知らなくて」
「──馬鹿か、お前は」
怒ったようにカレンは視線だけこちらに向けた。
「捕まッてるのに、謝るやつがあるか」
「わたし、あの後、ユージンさんにあなたのことを聞いたんです」
そう言うと、相手は不機嫌そうに眉を寄せた。
「あなたが、亡くなった旦那様の思いを知って、悲しみに囚われているって。ユージンさんが──」
バン! 突然カレンがデスクを叩いて大きな音を立てた。驚いたリゲイルが言葉を止めると、彼女はつかつかと近寄ってきて、少女を冷たい目で見下ろした。
「あたしが、お前に何もしないと思うか?」
カレンは手首を振るった。トスッ、とリゲイルの鼻先の絨毯に匕首が突き刺さる。
「人質らしく黙ッてな。──その鼻をそぎ落とされたくなければな」
「でも」
リゲイルは目の前の刃物に息を呑んだが、勇気を出して言葉を続けた。
「旦那様がいなくなっても、その思いは生き続けてると思うんです……! わたしだって、この街で出逢った人たちといつか離れ離れになっても、相手のこと好きになった気持ちとか楽しかった思い出とか、絶対無くさないから! だから、あなたも今からだって、旦那様の願いをかなえて──」
「──黙れッ!!」
カレンが叫んだ。ついぞ聞いたことのないようなヒステリックな叫びだった。思わず、続く言葉を呑み込んでリゲイルは押し黙る。
「お前みたいな小娘に何が分かるッてんだ! お前は、自分で大切なものを壊したことがあるのか? 取り返しのつかないことをしたことがあるのか? ディーンを殺したのは……」
言い淀み、カレンは顔を隠すように片手を添えた。意識を失っていたホーディスが、ううと声を漏らした。今の大声で目を覚ましたのか。
それに気付くと、カレンはそのまま駆けるように、部屋を出て行ってしまった。リゲイルとホーディスと、そして床に突き刺さった匕首を残して。
──── セントラルホテル銀幕、正面玄関 ────
「真に申し訳ありません」
開口一番、フロントに立っていた蝶ネクタイの男が言った。
「本日は改装作業中のため、全館お休みをさせていただいているのです」
そう説明した男は、目の前に立っている壮年の男──柊木芳隆が、傍らの喫茶店に目をやるのを見て、「……あの店だけは営業しております。よろしければお立ち寄りください」
「なら、そうさせてもらおうかな」
彼は微笑みながら、ぐるりとホテルの中に視線を巡らせる。
いずれも1階フロアは大きなガラス窓になっていて、外の庭園がよく見えるようになっている。左手には喫茶店、右手はロビーになっていて、その向こうにバーかクラブのような体裁をした部屋が見えている。
その部屋──ホールというべきか──は、中二階があるらしく。ここからでも、頭上に渡り廊下があるのが見てとれる。それは反対側のショップにつながっているようだ。
「ねえ君、あそこも今日は定休日なのかい?」
顎でロビーの向こう側のホールを指しながら、柊木。ええ、とフロントの男が答える。
「あれは何かな? クラブにしては大きいね。この辺りで楽しく遊べるところがあればいいなと思っていたんだけど」
言いながら、彼はポケットから取り出したカジノのチップを──カウンターの上に置いた。
相手の視線がそれに落ちる。男は目を細め、柊木を見た。
「本当にご迷惑をおかけしますが、本日あちらの施設も定休日をいただいております」
「誰かが貸切にしてるのかな?」
「──お客さま。コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか」
男は、ふいにフロントから出ると、柊木を喫茶店の方に案内しようとした。
柊木はそれには逆らわなかった。コーヒーで。ああ、ブラックで頼むよ。などと言いながら、従業員の向こう側をチラリと見て、喫茶店の方へと歩いていく。
裏庭を黒い影が走り抜けていったのを確認したのだった。柊木はそれが、シャノン・ヴォルムスであることをきちんと認識していた。
──── カジノ、1Fホール ────
ホールの中は暗く、シンと静まりかえっていた。
窓枠を外し、音もなく中へ侵入したシャノン・ヴォルムスはスロットマシンの陰に隠れながら注意深く辺りの様子を伺った。
そこはカジノだった。
豪華なシャンデリアとミラーボール。スロットマシンとルーレット台、数々のゲームを楽しめるテーブルが並んでいる。
奥に進もうとして、シャノンは足元に一枚のチップが落ちていることに気付いた。
拾ってみると、それには青と黒のダイスの紋様がプリントされていた。
“当たり”だな。
シャノンは、確信した。ここが、フランキー・コンティネントのカジノであることを。そして、この施設のどこかにホーディス・ラストニアが捕らえられていることを。
シャラッ……。
物音ひとつしなかった空間に、かすかな音がした。
──カードを切る音か? シャノンは耳をすませた。彼の研ぎ澄まされた感覚は、相手の位置をすぐに特定していた。
ブラックジャックのテーブルだ。そこに男が一人。ディーラー風のシャツに蝶ネクタイ。黒いベスト姿の男が、カードを切っている。
物陰からその様子を伺っていたシャノンは、愛銃のFN Five-seveNを抜き、セーフティを外す。
「──チップをベットしたいんだが」
半身を見せ、手には銃を。真っ直ぐに相手に銃を向けてシャノンは言った。
ディーラーは、ついと顔を上げて、驚いた様子もなく彼を見る。
「これはこれは。当カジノへようこそ。チップを、すでにお持ちなのですか?」
「ああ。以前、フランキーのバカラに参加したことがあるんでね。チップはカジノで使えと、奴はそう言っていた。だから、ここへ来た」
「そうですか。でも、あなたはゲームを楽しみにきたようには見えませんね」
「そうか?」
シャノンは口の端を歪めて笑った。「それはお前の勘違いだろう」
──シャッ。ふいに、ディーラーが動いた。彼がテーブルの下に身を伏せると同時に、シャノンの銃弾が背後のルーレット台を破壊する。
代わりにシャノンの方に飛んできたのは、一枚のカードだ。彼は、顔を傾けてそれをかわし、物陰から飛び出した。牽制のために銃を撃ちながら、ディーラーの隠れたテーブルの側面へと回ろうとする。
フッと身を伏せれば、背後のスロットマシンに三連のカードが突き刺さっている。鉄板か何かで出来たカードを投げてきているようだ。シャノンは床で一回転し、別のブラックジャックのテーブルに身を隠す。
その時だった。
背後に別の殺気を感じ、シャノンは身を翻した。
間一髪! 今まで彼のいた空間にキラリと光る銀色の刃が差し込まれていた。刃の持ち主は、背の高い金髪碧眼の男だった。ファンタジー映画から実体化した人物なのだろうか。貴公子風の黒い礼服をまとったその男は、冷たい目で、自分の剣から逃れたシャノンを見下ろした。
見たことのない相手だった。が、相手の素性を詮索している時間は無い。
シャノンは、体制を立て直しながら撃った。
貴公子風の男は、飛び上がりテーブルの上に乗った。一瞬、身体を縮め、宙に飛び上がりステップを踏むようにしてテーブルの上を飛んでいく。シャノンの銃弾はそれにうまく追いつくことが出来なかった。──ディーラーがカードを放ち、彼の攻撃を邪魔したからだ。
「チッ、二人か!」
ヴァンパイアハンターはテーブルの陰に身を戻し、銃のマガジンを交換しながら悪態をついた。
スロットマシンの陰に隠れた剣の男が、こちらに近づいてくるのが気配で分かる。このままでは挟み撃ちにされてしまう。
一気にカタをつけねば──!
心を決めたシャノンは、タンッと地を蹴って跳んだ。
「ヒットだ、カードをよこせ!」
ディーラーに向かって言う。虚空を斬るようにカードが飛んでくるのを見、その方向へと飛び上がりながら間合いをつめる。
同時に、背後でこちらを追ってくる剣の男が姿を見せるのを確認する。
──今だ!
シャノンは銃を天井に向けた。
銃声とともに、大きな物音がした。
天井から下がっていた豪華なシャンデリアが落下し、見事、剣の男のいた辺りを直撃した。あれを食らってタダでは済むまい。シャノンは、ディーラーに視線を戻す。
カードが彼の頬を切った。が、かすり傷だった。ヴァンパイアハンターは手に握りこんだものを、指のスナップを効かせ放った。──狙いは、相手の目だ。
「ギャッ」
ディーラーが悲鳴を上げて、目を押さえた。ぽろりと落ちるのはカジノのチップ。
彼はカードをも手から落としてしまい、慌ててそれを拾おうとした。が、その動きをすぐに止める。
銃を構えたシャノンが、目の前に立っていたからだ。
「──ノー・モア・ベット、か?」
涼しい顔をしたヴァンパイアハンターは、冷たい声で言い放つ。
「さて、それじゃあホーディスのところまで案内してもらおうか」
──── セントラルホテル銀幕、屋上 ────
女の持つ煙管から、細い紫煙が立ち昇っていた。
隻眼の女は、チャイナドレスの上に黒いコートを羽織り、屋上の柵に寄りかかり煙管をふかしていた。カレン・イップだった。ちょうどカジノで銃撃戦が繰り広げられている頃、女ボスはそのことにも気付かずに、ただ空を眺めていた。
雀か何かの鳥が数羽、空を飛んでいくのを目で追っていると、ひらり。白い羽根が彼女の目の前に舞い降りてきた。
ふと、手を伸ばしそれを手に取るカレン。
そしてゆっくりと後ろを振り返る。
見れば、空から四枚の翼を持つ青年が降りてくるところだった。ラフなファッションをしているが、それは紛れも無く──天使の姿だった。
フン、とカレンは鼻を鳴らして、手にした彼の羽根を捨てた。
「場違いな奴が来たね」
「そうとも言えないぜ」
屋上に降り立った天使、フェイファーはニコリと微笑んだ。
「お前さんと話がしたくてね。カレン・イップ」
「ハン、お前も魔法使いを探しに来たクチだろ?」
「まあね」
と、フェイファーは肩をすくめると、手にしていた一巻のフィルムを彼女に見せるようにした。「……とはいえ、用事はそれだけじゃないケドな」
「!」
彼がそう言うと、カレンは驚いたように目をみはった。相手が手にしたものの正体に気付いたのだろう。視線はフィルムに釘付けだ。
「……そうだよ。これはお前の旦那のプレミアフィルムだ」
カレンが口を開く前に、フェイファーは静かに言った。「あのバーのオーナーから借りてきた」
「お前ッ」
煙管の灰を落とし、それを突き出してカレンは鋭く天使を睨んだ。
「マーサに何をした!?」
「勘違いすんなよ、俺は彼女からこれを借りてきただけだ」
「嘘をつけ! マーサがお前みたいな奴にそれを渡すわけがない!」
「そんなことねぇよ。彼女は俺にこれを託して、お前に旦那の話をしてやれって俺に言ったのさ。それで居場所も教えてくれたんだ。そんなに怒るなら──ほら」
そっとプレミアフィルムを相手に差し出すフェイファー。「これ、返すよ」
カレンは目にも留まらぬほどの素早さで、フィルムを奪い取った。じっとそれが自分の夫のものであるかを確認するように見つめる。
「お前、それを何度も見たんだってな」
ギラリと恐ろしい目つきで、カレンはフェイファーを睨みつけた。気の弱い者なら失神しそうなほどの眼光だった。だが天使は全く動じなかった。
彼もそのプレミアフィルムの中身を見ていたからだ。プレミアフィルムにはそのムービースターが残した思いや遺言めいたものが映像となって焼き付けられているという。
映像の中には、海辺に立つカレンがいた。夫に手を引かれ、微笑む彼女の姿は、とても犯罪結社の女ボスには見えなかった。
「今年の一月、雪の祭りの日に、俺はお前の旦那に会ったんだよ」
相手の目を見て、真っ直ぐに言うフェイファー。驚いたようなカレン。一つしかない目を大きく見開いた。
「ディーン・チョイは独りだったよ。夜の暗い路地裏で、壁を殴ってた。拳を血だらけにしてさ。だから、俺は聞いたんだ。一体、何があったんだって?」
カレンは瞬きも忘れてしまったように、天使の顔を見つめていた。
***
自分が情けないって、まず、奴はそう言ってたよ。
ああ、ちょっと言いにくい話なんだけどな。
でも、お前は知ってたんだろ? ディーンがその夜、若い女と一緒にいたってことをさ。
奴はそのことを後悔してた。信じるかどうかは分かんねえけどな。若い女と肌を合わせちまってから初めて、お前のことをどれだけ大切に思ってるか気付いたって言ってたよ。
……勝手な話だと思うかもな。
俺もそう思ったよ。だから言ってやったんだ。──お前は、今まで自分の気持ちをちゃんと言葉で伝えてきたのかって。
答えは、ノーさ。
ディーンは、お前がいつか自分の気持ちに気付いてくれると信じてたんだとさ。
だから、無理に海にも連れて行かなかった。自分がカタギになる準備をしてたことも言わなかった。
その当時、息子の復讐に執念を燃やしてるお前を見て、奴は奴で。距離感を感じてたようだったけどな。
***
「人間ってのは、けっこう不便な生き物なのさ」
フェイファーは、静かにそう言うとカレンの顔を見た。
「言葉で、わざわざ言わなきゃ伝わらないときがある。どれほど愛し合っていてもな」
「……嘘だ」
ポツリとカレンが言った。顔の下半分を覆っていた両手がだらりと垂れ、煙管が床に落ちる。
「あ、あたしを騙そうッたって……」
「それが嘘ではないことは、お前が一番よく知ってるはずだ」
一陣の風が、カレンのよく知る男の声を運んできた。
振り返るフェイファー。屋上の入口のところに漆黒のスーツの男が立っていた。ユージン・ウォンの姿だった。
よう、と声をかけると、彼は天使に軽く手を挙げて挨拶を返した。そして視線を女に戻す。
「夫の遺志を、お前は無駄にするのか」
「──近寄るなッ!」
悲鳴のようにカレンが叫んだ。
胸に夫のプレミアフィルムをしっかりと抱いた彼女は、身を屈めると、いきなりウォンの方に走り出した。
あっ、とフェイファーが声を上げる。
彼に見えたのは、カレンが走りながら自分の髪から何かを抜いて、ウォンに投げつけたところまでだった。
次の瞬間、カレンは前のめりに投げ出されるように床に倒れていた。
「同じ技を二度と食らうわけがなかろう」
ウォンは組んで振り下ろしていた両手をゆっくりと元に戻す。顔面に向かって放たれた暗器をやりすごした彼は、下段から懐に入り込もうとしたカレンの背中を両腕で床へ叩き伏せたのだった。
すぐに彼女の動きを封じようと、ウォンが動いたが、カレンが銃を抜く方が早かった。尻を床についたまま、彼女は素早く引き金を引いた。
銃声が一つ。
後方に仰け反るように身を引いたウォン。弾は彼の左腕をかすって空に消えていった。床に点々と赤い雫が散る。
「──!」
カレンは自分が撃ったというのに、それを見て一瞬だけ、驚いたような表情を浮かべた。が、ウォンが表情ひとつ変えず、自分に手を伸ばそうとするのを見ると、銃を構え叫んだ。
動くな! あの小娘がどうなってもいいのかい? と。
ウォンはピタリと動きを止めた。
「リゲイルのことを言っているのか」
「お前があたしらの邪魔をしないように、捕まえといたのさ」
カレンは立ち上がり、左手で夫のプレミアフィルムを、右手に銃を構えたまま、そろそろと階段の方へと後ずさり始めた。
「お前は──自分の息子を殺した連中と同じ事をするんだな」
静かに言うウォン。
ぐっと言葉に詰まったようにカレンは唇を噛んだ。だが、それだけだった。
「──そうだよ。あたしは“ヴィランズ”なんだ。敵をヤるのに、弱点を突くのは当然のことだろッ」
「あの娘に何かあったら、私はお前を許さん」
それは、ゾッとするような低く冷たい声だった。
何か言い返そうとしたカレンが、思わず怯んだのが傍目にも分かった。
一瞬の間。二人のやりとりを見守っていたフェイファーが動こうとすると、その気配を感じたのか、カレンはパッと身を翻す。
そのまま彼女は二人に背を向け、階段へと駆けていった。こちらを見もしない。
ウォンも、そしてフェイファーもまた、彼女を追おうとはしなかった。
──彼女の姿が暗闇へと消えた。
「おい、大丈夫か!」
フェイファーが駆け寄ってくる。ウォンは左腕の傷を押さえながら、無表情でカレンの消えていった闇を見つめていた。
「大した傷ではない。それよりも──」
彼は、天使に一人の少女の姿を探すように話した。
この建物のどこかにいるであろう、リゲイル・ジブリール──彼の小さな恋人の姿を。
──── カジノ、2F、事務室 ────
銃を向けられ仕方なく。ディーラーはスプリット、と名乗った。フランキー・コンティネントの部下は全てカジノやゲームに関連した通り名を持つことになっているらしい。
シャノンは、スプリットの背中を銃でこづきながら、その部屋のドアを開かせた。ノブを回す前に、彼はもう一度シャノンを振り返る。彼がうなづくと、スプリットは諦めたようにおずおずとドアを開けた。
部屋の中は青白い光に包まれていた。
シャノンは左手でスプリットのシャツを後ろから掴んだまま、中に足を踏み入れる。
大きなモニターがあって、アズマ超物理研究所の様子が映し出されている。画面の中を駆け巡る、リーシェと竜の姿も。
そしてそれを背後に。シルエットのように浮かび上がる一人の青年の姿がある。椅子に縛り付けられうなだれたように頭を垂れた、彼は──。
「ホーディス!」
シャノンは知己の名を呼んだ。彼がゆっくりと顔を上げる。
「……いけない、こっちに来ちゃ……」
ホーディスの言葉の後を、銃声が引き継いだ。
チッと舌打ちしたシャノンは、咄嗟にスプリットの身体を盾にした。肉に銃弾がめり込む音と悲鳴。彼の右肩から鮮血が噴き出した。
スプリットの身体を離すシャノン。ディーラーは床にうずくまり、自分の肩を押さえる。ヴァンパイアハンターはそれには目もくれず、綺麗なフォームでホーディスに銃を向けていた。──正確には、その影に隠れた相手に向かって。
「ジミー。お前がここにいるんじゃないかと思ってたよ」
モニターの淡い明かりの中で、ホーディスの後ろにいる影がうごめいた。
「ボクもお前がここに来るんじゃないかと思ってたよ」
学生服を着た小柄な少年が姿を見せた。頭にはピンク色の兎の覆面を被っている。──金燕会のヒットマン、ジミー・ツェーこと兎頭の姿だった。
手には、小型のサブマシンガン、スコーピオンを。兎頭はそれをシャノンに向けたまま、ホーディスの椅子を後ろから蹴り倒した。
青年は、椅子から落ち、ただ床に転がるように投げ出された。
──意外にも、彼を縛り付けていた縄は既に解かれていた。そのことに気付き、シャノンは改めて兎頭を見る。
「……ここまで来れば、コイツはもう用済みだ。ボクは人質に頼らなくたって、お前なんかに負けない」
彼はそう言うと、兎の覆面を掴み、かなぐり捨てるように床に叩きつけた。
「葉大姐を返せ」
少年の目はシャノンを真っ直ぐ睨みつけていた。その強い視線を受け、シャノンは形の良い眉を寄せた。
「お前、何を言ってるんだ?」
「葉大姐は、最近ずっと元気がない。──お前らが、大姐をおかしくしたんだ!」
ジャキッ、と兎頭はスコーピオンをシャノンの顔に向けた。
「ジミー」
シャノンは短く息をついた。
「目を曇らせるんじゃない、よく見ろ。カレンのことはあの女自身の問題だ。お前が混乱して、どうする?」
「う、うるさい!」
「一人前の男だったら、ここで銃を構えるより、他にやらなくてはならないことがあるように俺は思うがな」
「ボクはガキじゃない!」
彼の言葉に、兎頭は怒りにぶるぶると震えながらマシンガンを構え直した。
「ボクは、葉大姐を守るんだ。大姐が、もうあんな悲しそうな顔をしないように、ボクが──あの人を守るんだ!」
シャノンは何も答えなかった。
しばらくの間を置いて、残念ともなんともつかない表情を浮かべたかと思うと、もう一度短く息をついた。
「お前に渡したいものがあったんだがな……」
やがて、懐に手を入れ、シャノンはゆっくりと何かを取り出し、兎頭に見せた。
それは──イチゴポッキーの箱だった。
「生き残ったら、食うといい。もちろん毒なんて入ってないからな」
ポ……ンと、宙を舞う菓子の箱。兎頭とシャノンが、動いた。
銃弾の音が交差した。その間を縫うように、菓子の箱が床へと落ちていく──。二人の目には箱が落ちるまでの動きがスローに。ひどく長いものに感じられた。
箱の角が床に触れ、パタンと倒れる。それと同時に少年の甲高い悲鳴が上がった。
「ぐっ……」
壁際に跳んでいた兎頭は、膝を折り自分の右手を押さえた。そこには銃は無く、代わりに彼自身の血が流れ出して、手を赤く染めていた。
「その手じゃ、もう銃は持てないな?」
チャッ、とその少年の頭に。シャノンは銃を向けた。
だが、兎頭は鋭い目で睨み返してきた。負けを認めない、とその瞳が主張していた。彼は片膝を立てたかと思うと、目にも留まらぬ素早さで後方に飛び退き、窓際のカーテンを引いた。
シャノンが撃った。牽制のためだったが、その銃弾がガラスを割る。
兎頭は窓を見、そしてまさに兎が飛び跳ねるように窓へと向かった。
「待て、ジミー!」
制止の声も空しく、兎頭は窓の外へと躍り出ていった。ここは二階だったが、彼ほどの運動神経があれば、そんなことは全く無関係であろう。
シャノンは銃を下ろし、何度目かになるため息をついた。
しばらくの間をおいた後、シャノンは床に倒れたホーディスを助け起こしにかかった。何かの薬物を投与されているらしく、彼はうまく足が立たないようだった。
「ゆっくり……ああ、そうだ。転ばないように気をつけろ」
「すいません、本当に。私が不甲斐ないばかりに」
「気にするな。それより、早くリーシェの奴に顔を見せてやらんとな」
彼に肩を貸してやりながら、シャノンは片手で携帯電話を取りだした。
まずは、ホーディスの無事を知らせてやらねば……。彼は対策課に向けてコールをした。
──── セントラルホテル銀幕、2F、宝石販売店 ────
「畜生、遅いんだよ……ッ」
営業していない宝石販売店の中で、カレンは電話の通信を切ると小声で悪態をついた。今まで誰かと話していたようだった。店内は暗く、差し込むわずかな光が彼女の横顔を照らす。
屋上でウォンに受けた背中の打撃が今ごろになって痛み出し、カレンは不機嫌そのものになって、また電話に目を戻し操作をした。誰かに電話を掛け直しているようだった。
「──おい、聞こえてるのか?」
相手の声にノイズが多いのか、知らず知らず大きな声になるカレン。
「聞け! おい、ミランダはもういいんだよ」
返事は無い。が、彼女はそのまま会話を続けた。
「いいか、ミランダはもうどうでもいいんだ。代わりに、そこにいる竹川導次が分かるか? 悪役会のボスを始末するんだ。って、……畜生、あのビッチ、聞こえてンのか?」
もっと大きな声で喋ろうとした時、カレンは手の中から携帯電話をするりと抜き取られたことに気付いた。あっ、と声を上げると、手の届きそうな近くに男が一人立っていた。
「リーシェくんには連絡を取らせないよ」
右手に銃、左手にカレンの携帯電話を持ったその男は、柊木芳隆だった。
なぜ、こんなに近寄られるまで気付かなかったのだろう。カレンは慌てて太腿のホルスターに手を伸ばしたが、銃に触れた時点で、動くなと言われそのまま手を止めた。
柊木は彼女の電話のフリップを閉じ、床に落とす。
「大姐……。私は“全力で君を止める”と言わなかったかね?」
暗がりの中で、カレンは怒りをたぎらせた目を柊木に向けてきた。まるで追い詰められた猫のような、そんな目つきだった。
「なら、その銃の引き金を引けばいいさ。あたしはただのフィルムに戻るんだ。こんなクソみたいな世界と、さっさとおさらばできるンだ。かえって清々するよ」
「私は君があの岩崎議員にいいように使われているのかと思った。だが、違うようだ」
柊木は静かに続けた。
「君は、悪役会のフランキー・コンティネントと手を組んで、彼に何かをさせようとしたんだろう? その引換えに彼の敵──竹川導次を殺そうとした」
「だから何だッてんだ。早く、あたしを撃てよ」
ゆるゆると首を横に振り、警視長は真っ直ぐに相手の目を見た。
「大姐、聞いてほしい。私の目にはこう見えるんだ。──今の君が憎んでいるのは自分自身で、自分をボロボロにするためだけに事件を起こし続けているようにね」
一度、言葉を切り、「自分を憎み、誰かを恨むのは簡単だ。だが、そんなことをしても何も変わらないし、誰も喜ばない。それが分からないのかい?」
「回りくどい言い方しやがッて」
カレンは自分の身体を抱きしめるように腕を組んだ。彼女の黒い皮のコートがざわざわと耳障りな音を立てた。
「あたしがヤケクソになろうが、何してくたばろうが、お前には関係ないだろ! あたしの周りには、もう──」
「──“誰も居ない”。君はそう言いたいんだろう?」
畳み掛けるように柊木。
「本当に、君は自分が独りぼっちだと思っているのかね? その左目をよく開いて、周りをよく見るといい。きみの周りにはきみを必要とする、大勢の生きた人間が居るのだから」
「いらないんだよッ、そんなもの! あたしにはディーンが……」
タタタ、タッ……。
ハッとカレンは顔を上げた。カジノの方角から、銃声が聞こえたのだ。
その一瞬で、彼女はホルスターから銃を抜いた。狙いを真っ直ぐに柊木の心臓に向けて固定する。
銃を向け合う二人。そのシルエットが暗闇の中で静止した。
やがて、ため息のようなものをついて、柊木はカレンを見た。そして……何を思ったか。彼は突然、銃を構えるのをやめて足元に落としてしまった。
「いらないのなら、撃てばいい」
カレンは柊木が銃を床に落とすのを見て、半ば慌てたように彼に視線を戻した。困惑したような表情を浮かべるだけで、続く言葉が出てこない。
「本当にそう思ってるんだったら、私を撃つぐらい造作もないことだ。違うかね?」
そう締めくくると、柊木はじっと彼女を見つめた。
カレンは無言で、銃を構えたまま微動だにしなかった。
彼女の視線はずっと柊木の目を捉えていた。だが、彼女はいつまで経っても引き金を引かなかった。──いや、引けなかったのだ。
銃を握った手が小刻みに震え出し、カレンは焦ったように震えを止めようと、もう片方の手も添えようとする。
その時、柊木は動いた。
カレンの右腕を脇に挟みこんで締め上げる。呻いた彼女が銃を取り落とすと同時に、彼は彼女の身体を抱きすくめていた。
暴れ出そうとする相手の身体を、柊木は脇に挟んだ腕を起点にがっちりと固定した。
「クソッ、離せッ!」
「断る」
柊木は強い口調で言いながらも、微笑んでいた。
「不思議だな。君とこの街で出会ってから──娘が一人、新しく増えたような気がしていてね。だから私は君のことを、どうしても放っておけないんだ」
腕の中でカレンは相変わらずもがいていたが、彼は気にしなかった。
細くて小さな身体だった。すぐに壊れてしまいそうな、そんな危うさをも感じさせるような。
「君が、自分の人生を弄ばれていると感じて、この街のことを憎むことも理解できるよ。確かに、我々の人生は脚本家や演出家に作られたものかも知れん」
暗闇の一点を見つめ、柊木は静かに続けた。
「だが、大姐。それは我々にとっては真実であり、変えようの無い事実なんだ。もし……もし、映画の中が我々の過去だとしたら……」
この街には、未来があるんだ。
──そうは思わないかね?
そう言って彼が微笑むと、カレンはようやく暴れるのをやめた。
「ここには決められた設定……結末など存在しない。だからこそ、君の夫は──ディーン・チョイは、過去に囚われず、君と共に未来を生きたいと願ったのじゃないかな。推測に過ぎんが、私はそう思うのだ」
「でも……」
カレンの声は震えていた。
「もう無理だよ……。だって」
無理なことなんか無いよ、と、柊木はそう言いながらゆっくりとカレンの身体を離した。両肩に手を置いて、俯いた彼女の顔を覗き込もうとする。
ビク、とカレンが身体を縮ませた。一瞬だけ怯えたような目を見せてから、彼女は柊木の手を力なく振り払い、二、三歩よろよろと後ずさる。
「カレン」
小さく呼びかけたつもりだった。
だが、その声で彼女はさらに息を呑んだ。サッと身を屈め、床に落ちた自分の銃と携帯電話を拾い上げると、柊木の顔を見ることもなく、店の入口に向かって走った。ガラスドアを身体全体で押し開こうとする。
柊木は一歩も動かず、ただじっとカレンを見ていた。
結局、カレンは一度も彼を振り返らず、そのまま足をもつれさせるように走り去っていった。
彼女の姿が見えなくなって。柊木はようやく息をついた。長く長く。そして彼は最後に、ボリボリと困ったように頭を掻いたのだった。
──── セントラルホテル銀幕、B1F、駐車場 ────
バン、と車のトランクを閉め、運転席に回ろうとしていたスキンヘッドの男は、サイドミラーを見てギョッと振り返った。
ガランとした駐車場。そこにぽつんと黒い影が一つ。
長身の男が、彼、陰陽をじっと見つめていたのだ。
ユージン・ウォンだった。その距離、数メートル。
「クソッ!」
陰陽は焦り、慌てて車のドアを開けようとした。が、途中までしか開かない。
足だ。目の前に、いつの間にか男の両足があって、ドアを押さえつけている。
顔を上げる陰陽。背中に羽を持つTシャツ姿の青年──天使、フェイファーが車の上に腰掛け、彼に向かってハァイとばかりに手を挙げてみせた。ドアが開かぬよう、しっかり両足の踵で押さえつけながら。
うわあっ、と驚いたように後方へ飛びのく陰陽。
フェイファーは、トンッと地上に降り立った。
そのまま彼が、右手を伸ばし指を鳴らすと、何かのマジックを使ったかのように勢い良く車のトランクが開いた。
足早にウォンが歩いてきて、その中から縛られた一人の少女を抱き上げた。
リゲイル・ジブリールだった。
「ユー……ジンさん……」
彼女は意識はあったが、自分の足では立つことはできないようだった。それを一目で見てとると、ウォンは丁寧にリゲイルを床に寝かせて、その縄を解きにかかった。
彼らの様子を確認すると、フェイファーは陰陽に視線を戻し、もう一回、指を鳴らす。
ゴウッ。彼の背後で、陰陽の車が一瞬にして炎に包まれ、燃え上がった。
「ま、まま、待て!」
陰陽は舌を噛みそうなほど動揺した様子で、フェイファーとウォンを代わる代わる見た。
「その娘には、あるウィルスを注射してあるんだ」
後ずさりながら、リゲイルを指差し、「二日も放っておけば高熱を出して死ぬ。……特殊な抗生物質がなけりゃ助からないが、僕を逃がしてくれるなら、それを渡してやってもいい」
「──何だと?」
ひどくゆっくりと、ウォンが言った。
「引き換え条件だ。僕がそこの階段を登り終えるまで、何もしなければ、薬を置いといてやるよ。どうだい、悪くないだろ?」
フェイファーがウォンを見た。が、三合会の幹部は普段と変わらない無表情のままだった。リゲイルの縄を丁寧に解き、彼女をその場に座らせ頬を撫でると、立ち上がった。
カツ、カツと、陰陽に向かって歩き始める。
「お、おい。今の僕の話を──」
相手の様子を見て、ヤバイと判断したのだろう。陰陽は、慌ててきびすを返して階段へと走り出した。が、彼が第一歩を登ろうとした時、駐車場に銃声が鳴り響いた。
そして、陰陽の悲鳴が上がる。
左足を撃たれ階段に倒れこんだ闇医者の前に。ウォンが立ちはだかっていた。
慌てたように、陰陽が懐からメスを数本取り出した。だがウォンは、いきなりその手を掴んだ。ひねり上げると、苦痛の声とともにメスがばらばらと床に散乱する。
「薬を渡せ」
「聞いてなかったのか、僕を殺したら薬が──」
「殺しはせん」
ボキリ、と嫌な音がした。ウォンが掴んでいた陰陽の人差し指を折ったのだった。医者は痛みのあまり、咽喉を詰まらせたような声しか上げることが出来なかった。
「あっ、指がッ、ゆび……」
「薬を渡せ」
同じセリフを、ウォンはもう一度言った。
陰陽は苦痛に震えながら、空いている方の手をポケットに突っ込み、ケースに入ったアンプルのようなものを取り出した。それをウォンに差し出す。
彼は陰陽から薬を受け取ると、足元の医者に冷たい視線を落とした。
「これがもし効かなかったら、お前を殺す」
「──ま、間違えた。間違えたよ」
脅しが効いたのか、陰陽はもう一つ別のケースを取り出しウォンに差し出した。彼はそれも受け取ると、医者に興味をなくした様子でリゲイルの方を振り返る。
「ヒャァァッ」
ウォンの視線が外れると、陰陽は足を引き摺りながら階段を駆け上り、まさに転がるように逃げていった。
見れば、フェイファーが彼女のそばにいて。大丈夫かと声をかけていた。
リゲイルは彼と目が合うと、一瞬だけ恐がるような、そんな色を瞳に浮かべた。
いつも自分には優しいウォンの鬼神のような様子を初めて見て、彼女は少なからず恐れをなしていたのだった。
だが、彼女は何も言わなかった。
「リゲイル」
ウォンは恋人の名前を呼ぶ。床に膝を着き、彼女に目線を合わせて。
「危ない所には近寄るなと言ったはずだ。なぜ、約束を守らなかった?」
厳しい口調だった。
リゲイルは悲しそうな表情をして俯く。脇のフェイファーは眉を寄せて彼を見た。
「おい、何もこんなときにそんな」
「お前は黙っていろ」
ぴしゃりと言い、ウォンはリゲイルに視線を戻した。「なぜだ?」
「わたし、ここを見つけた時、すぐにみんなに連絡しようとしたの」
少女は小さな声で、話し始める。
「でも、すぐにあの人に見つかって、マギーさんと一緒に掴まっちゃって、それで連絡が出来なくて──」
「言い訳をするな」
相変わらず冷たい口調で、ウォン。
「──言い訳じゃないわ!」
思わず、リゲイルは強い言葉を相手に投げつけていた。
「本当なの、わたしすぐに連絡しようとしたの……! 本当なのに、どうして信じてくれないの?」
じわりと涙がにじんできて、彼女の視界が霞んだ。泣いたら駄目、と思うのに涙が溢れ出てくる。
だが、泣き出した彼女を見ても、ウォンは鋭い目つきでそれを見つめているだけだった。
「なあ。彼女を──信じてやれない、かい?」
その時、フェイファーが、ぽつりと言った。
ハッとしたようにウォンは傍らの天使を見る。彼が何のことを言っているのか、分かったからだった。
先ほどのカレンとフェイファーの会話。それを思い出したのかもしれない。
彼は、表情を和らげて少女を見た。
「リゲイル」
彼女の手にそっと手を触れる。
そのままウォンは、リゲイルの身体を引き寄せて抱きしめた。
「すまない。俺はお前のことを──信じる」
驚いたように少女は顔を上げたが、すぐに力を抜いて相手に身を任せる。
ウォンの胸の中で、うん、と頷くリゲイル。身じろぎしたウォンが彼女の頬に触れ、涙を流す青い瞳にキスをした。もう泣くな、と言葉を掛けながら。
「ユージンさん、恥ずかしいよ」
照れたようにリゲイルは言い、フェイファーの方を見た。
が、いつの間にか。そこに彼は居なかった。
フェイファーは、もう仕事を終えたと思ったのか。天使は──恋愛の天使は、その場からいち早く姿を消していたのだった。
──── ミッドタウン、ショット・バー「サード・グラス」 ────
***
──何だと!?
なら、例のものは、肝心のところが見れないッてのかい?
あたしが何のために、こんな……ッ。
……うるさい! 余計なお世話だよ。
ああ。分かった。
8時に。だが、くだらん護衛は連れてくるな。
二人で話がしたい。
あたしは、旨い──酒を飲みたいんだ。
不味いのはもう、たくさんだよ。
***
「ねえ、ウチのお店の名前が、どうしてサード・グラスっていうか知ってる?」
亜麻色の髪をした女バーテンダーが言った。シャノンの目の前に、バーボンのロックグラスを置きながら。
さあな、と。彼は答えながらグラスを手に取る。コロン、とグラスの氷が心地よい音をたてた。
辺りはすでに夜になっていた。熱帯魚の水槽の向こうの液晶テレビでは、アズマ研究所襲撃事件の顛末が報道されていた。
だが、もう終わったことだった。
シャノンは、金燕会の息がかかっていると噂されるショット・バーで独り。酒を飲んでいた。他に客は誰も居ない。
「ウチのお店はね、どんなお客にも一晩三杯までしか出さないの」
女は、これといった表情を浮かべずに言った。「カレンにだって、そうしてるのよ」
「これは、二杯目だろ?」
「いいえ、三杯目」
IWハーパーのボトルをシャノンの目の前に置き、女は緑色の瞳でじっと彼を見つめた。
「だから、それを飲んだら出て行ってね。シャノン・ヴォルムス。今夜はカレンもジミーも来ないから」
「客に出て行けとは、ひどいな」
だが、彼は微笑んでいた。
「何事にも、潮時ってものがあるのよ」
「何のことを言ってるんだ?」
探るような視線を向けてシャノン。
「カレンのことか? それとも──この街自体のことを言ってるのか?」
──さあね。
女はそう言うと、ようやくニコリと微笑んだ。
(了)
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クリエイターコメント | ええと。。あと残り僅かとなってしまった活動期間のせいで、いろいろまたまた詰め込ませていただきました。ひょっとしたら当初イメージされていたものと、けっこう違う展開になっているかもしれません。 ご容赦ください。
また、参加PL様がたには、推理も楽しんでいただこうかなと思ったのですが、わたしの話の振りが悪かったため、OPにヒントらしいヒントをうまく入れることができず。結果的に、捜査パートに関しては、かなりの捏造を入れさせていただきました。 ……とはいえ、中にはそのヒントをもとに正解を導き出された方もいらしたので、その方にはボーナス(?)として、登場シーンを多めにさせていただきました(^^)。
何はともあれ、ご参加ありがとうございました(!)
>ユージン・ウォン様 しっかりバイオレンスなところが見たいとのことでしたので、入れさせていただきました(笑)。意外にも戦闘があまり発生しておりませんが、今回はそれ以外の部分ということで。。 気に入っていただければ幸いです。
>リゲイル・ジブリール様 初のご参加、ありがとうございます。 展開上、登場シーン自体は少なくなってしまい。 大変申し訳ないのですが、カレンと話がしたいとのことで。あのようにさせていただきました。 ラブラブ、すいません。書いてみたら意外に淡白でした。。
>フェイファー様 もう、ホントにすいません(泣)。 恋愛の天使サマということでしたので、 いろいろと自由に設定を加えさせていただきました。 指パッチン、ちょっと萌えでした(笑)。
>シャノン・ヴォルムス様 一人マジ戦闘モードにさせていただきました。 実は運転手してた、みたいなところも勝手に捏造させていただきました(笑)。 例のバーは、今後もご贔屓になさってくださいね(笑)。
>柊木芳隆様 刑事! 捜査! ってなわけで。 わたしもドキドキワクワクで書かせていただきました。 なんかいつも戦闘になりそうでならないポジションにおいてしまいまして。 ちょっと申し訳ないです。。NPCとの会話を優先する結果なんですけどね。。。 丁寧にセリフを書き込んでいただいてありがとうございました。
はたまた「こんなんで良かったでしょうか」的な簡単なメールフォームを設置したりしております。 もしよろしければ、一言でもお送りくださいませ。 http://talkingrabbit.blog63.fc2.com/blog-entry-255.html
次回は、わたしのラストシナリオになります。ご参加希望のPCさんの人数を把握させていただいてからリリースさせていただこうと思っております。 次回も、どうぞよろしくお願いいたします。 |
公開日時 | 2007-12-03(月) 23:00 |
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