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<ノベル>
雨である。
鬱陶しいとは思いながら、しかしやることもない。フレイド・ギーナは対策課の依頼を見に来ていた。
特別思い入れがあったりするわけでもないが、暇である。さらに、仕事を見つけなければ金もない。ここへ来れば、多少なりとも実入りのある仕事があるのだ。面倒な面接やらもない。そう思って、ここへ来ていたのに。
「助けてくださいぃいい〜、お願いしますよぅううううぅうぅ……」
「いーやーだッつってんだろ俺を巻き込むなァ!」
腰にしがみついて離れない御先に、フレイドは全身全霊の拒絶を持って抵抗した。
前回のこともあり、御先が入ってきた瞬間に回れ右をしたフレイドを、御先は目ざとく見つけてその腰にタックルをかましてきたのである。なんという予測不能な動き。御先行夫という男を考えれば、想像し得ない反応だった。しかし、それが幽霊などというわけのわからないものが絡んでいるとなれば、もう何を言っている暇も考えている暇もない。一方でフレイドもそれは同じであった。
「神社か教会にでも行ってお祓いでもしてもらえ! お門違いだッ!」
「そんなこと言わずに助けてくださいぃぃ! 前は協力してくれたじゃありませんかぁ!」
「したくてしたんじゃないッ!」
もう構っていられるか、もう嫌だ、何が悲しくて苦手というか嫌いというか関わりたくないというかとにかくそんなものに自ら飛び込んでゆかねばならぬのか。
フレイドはずるずると御先を腰にひっつかせたまま、対策課の扉を開けた。
「ぶっ」
「ぐおっ」
鳩尾あたりに強かな衝撃を受けて、フレイドはよろりと蹌踉めいた。目の前には鼻の頭を押させた黒髪の少年。フレイドはひくりと顔を引きつらせた。
「おい、おっさん、いきなり開けるなよ」
「おっさ……いや、なんでもない。それは悪かったな。ああ、君。対策課に来たということは、依頼を受けに来たのだろう? 彼はどうやら困っているようだから、話を聞いてあげるといい。 というわけで、私はこれで失礼する」
一息で言い切って、御先をべりっと剥がすと少年に押しつけ、そそくさと背を向けた。が、その襟首を引かれ、息が詰まると同時にたたらを踏んだ。
「いきなりわけわかんねぇこと言って行くなよ」
「い、いや、私は急用が」
「そんなっ! 助けてください、私とあなたの仲じゃありませんか! 幽霊なんて怖いんですよ! タクシーから降りてくれないし! 向こうが透けて見えるとか本当に怖いんですからっ!」
「誰がいつそんな仲を嬉しがると思うのかッ! 幽霊なんて見えないがいるのはなんとなくわかってしまうから嫌なんだッ!」
「……よくわかんねーけど、知り合いなら話が早いじゃねぇか。あんた……えーと、」
黒髪の少年はフレイドの腰にしがみついている御先に目を向けた。御先は眉間に皺を寄せてじっとこちらを見つめる少年の視線にびくりとして、それから、はっと口を開いた。
「あ、わ、私ですか? 私は銀幕タクシーの御先行夫という者です」
「御先、ね。……まあ、ある意味同情はするけどさ。見たくない者が見えるって訳だし」
見える発言に、御先の顔がぱっとほころぶ。それを見て、少年はがりがりと頭をかいた。
「でも、なぁ。俺もまあ、そう言うのは見えるけど、変に相手をすると取り憑かれるからあんまり関わるなって五月蠅く言われてるんだよなぁ」
途端、御先は蒼白になってすっごい落ち込んだ表情を浮かべた。フレイドにしがみついたままがっくりと肩を落とした。フレイドはどうにかこの場から逃げようとしているが、うまくいかない。
「……まあ、あれだな。やっぱ次このタクシーを使った場合無料って辺りにしてくれないと快く協力出来ないって感じだよな」
ちろりと御先を見やると、御先は少し躊躇したような顔をする。
「ま、タクシーの幽霊なんて俺には関係ないし? 別にいいんだけど」
「いや君が協力してくれないと困る。主にわた……いや、そうだろう、御先? タクシーの幽霊をどうにかしてほしいのだろう? 彼は、あー……その、それらしいものが見えるようだし、とても心強いではないか」
「う、そ、それは……」
「怖くて仕方がない幽霊をどうにかしてくれると言っているんだ、タクシー代の一回くらいタダでもいいのではないか? それとも別途報酬を君が払ってくれるとでも?」
「わ、わかりましたぁああっ! お願いしますううぅっ!」
フレイドのだめ押しに、御先が折れた。少年は満足げに頷く。
「よし、話はまとまったな。それでは私はこれで失礼する」
「なに言ってんだ、おっさん。とーぜん、あんたも来るんだろ」
がしっ、と襟首を掴まれて、思わず息を詰まらせる。
何のために苦手な少年を引き留めたのかっ!
フレイドは幽霊が苦手である。見えもしないが、悪寒くらいは感じたりするのだ。おまけに子供も苦手である。幽霊が少年であるというだけで嫌なのに、しかも子供と一緒に依頼を遂行しなければならなくなるとは、なんたることだ。あり得ない。
けれども、子供とはいえ学生。それが、フレイドに引っかかりを覚えさせた。
結局、そのままずるずると引き摺られるようにフレイドもタクシーに乗り込むこととなる。
時間は少し戻って、対策課の外。その駐車場には御先のタクシーが止まっている。
対策課を出た三人がやってくると、番傘を手にした、ひょろりとした着流しの男がタクシーの窓に向かって微笑んでいる。男は背中に笈を背負っており、三人に気がつくとしかしその重さを感じさせない、ゆるりとした動きでこちらに微笑みかけた。
「あのぉ」
御先がおずおずと声をかけると、
「へえ。あちきですか? 簪と申します、よしなにして下さいな、旦那さん」
言って、もう一度にこりと微笑んだ。
タクシーを見て、黒髪の少年──チェスター・シェフィールドは、微かに目を細め、簪と名乗った男に視線をやる。
「……あんた、見えるのか」
「へえ、まあ。坊ちゃんがいますね。一人でいらしたので、どうしたのかと思いまして」
それに御先とフレイドが明らかに表情を変え、簪は微かに目を細めた。
「で、どうする」
チェスターの声に、三人は振り返った。
「……強制的に追い払うことは可能だけど、それじゃあんま納得行かないよな」
不安そうにこちらを見上げている少年にちろりと視線をやって、それからまた視線を戻す。次いで口を開いたのは簪だった。
「動かないで居ても、どうしょうもありません。坊ちゃんのこともよくわからないことですし、情報を集めたいと思います」
それには、チェスターも頷いた。
チェスターが想像するに、おそらく、彼は自分が死んだことすら気付いていないのだ。単純に祓うこともできるが、それは後味が悪そうだし、何よりそれは何か嫌だと思った。ただ、どうにもならない時は──考える必要が、あるのかもしれない。それは、拭えないことであった。
「そうなると、やっぱり家族に話を聞く、とかになんのかな」
「いえ、ご両親にいきなり会う事は避けたいです。色々辛い思いを蒸し返すといけませんから」
簪が言うと、はっ、と息を吐く音が聞こえた。
「辛い思いだと? そんなものは生きている人間がするものではないのかね」
生きている者、と簪は目を細めた。少年がフレイドを見つめている。フレイドは簪の視線を確かに汲み取ったが、口を閉じることはしなかった。
「生きている人間だけが、喜怒哀楽を感じ続けることができるのだよ」
そうだ。
生きている。
人にとって、それがすべてだ。
人は死ねば、ただの肉塊になる。
それ以上も、それ以下もない。
現実という世界では、死人は蘇ったりはしないのだ。
「死人は死人らしく、大人しく死ね」
少年が激しく揺らいだのを、チェスターと簪は確かに感じた。
「あらあらあら、皆様お集まりになっていかがなされましたの?」
「ひぎゃぁああああああっ!?」
「ぅうわぁああああああッ!!」
背後からの突然の声、それと冷たい感触を腕に感じて御先は叫んだ。その絶叫に触発されたかのようにフレイドが叫ぶ。次いでころころと鈴を転がすような愛らしい声が聞こえて、それはタクシーの助手席から姿を現した。
「こんにちは、またお会いしましたわね、御先様」
微笑んだのは黒のお仕着せ、つまりはメイド服を纏った女だった。女は小春と名乗り、くるぅりとフレイドを振り返る。
「フレイド様も、お元気そうで……」
そう言って微笑んだ小春の額から、つつぅ、と血が滴った。ひっ、と喉の奥で叫ぶ。それにもころころと笑って、小春は少年を振り返った。少年はきょとん、と小春を見返している。
その透けた体を通して、その背中までもが赤々と見える。それで、以前にあった御先からの依頼を思い出した。
「お話は聞かせていただきましたわ」
「おい、あんた「いかがなされた」とか聞かなかったか」
「私も協力いたします」
チェスターの言を素敵に躱して、小春はにこりと微笑んだ。明らかに狼狽したフレイドには、もう一度にっこりと微笑んでやった。
「それで、いかがなされますの?」
御先に向かって言うと、御先はおどおどとして簪を見やった。簪は小春に視線を移し、
「とりあえず、坊ちゃんが思い出せる範囲で最後に行った場所について聞く、というのはどうでしょうかね」
そういうわけで、五人はそろってタクシーに乗り込んだ(一部引きずり込まれた)。
「……家、だよ。その後は、めちゃくちゃに走り回って……御先、さんのタクシーに」
少年は町田セイジと言った。落ち着かないのか、右手の指を膝にあててとんとん、と叩いている。
体が透けていることとずぶ濡れであることを除けば、黒の学ランを着た、ごくごく普通の中学生のように見えた。ぎこちなくはあるが、自分が見える人々がいることに、ひどく安堵したようにも見える。ただ一人、フレイドだけが姿も見えず声も聞こえないので、始終びくびくとしながら御先に通訳をさせている。簪はそれを快く思わなかったが、嫌だ嫌だとは言いつつも、タクシーに乗り込み話を聞いている。彼なりに、思うところがあるのだろう。せめて、顔に出すのだけはやめてくれたら。それは折を見て、言ってみようと思った。
「それじゃ、御先がこいつを拾った路地に行ってみようぜ」
チェスターの言で、タクシーはあの雨の日、御先が曲がった路地へと走り出した。
タクシーの中では、小春がしきりにセイジへ話しかけていた。それに簪が加わって、わずかに奇妙な感を醸しながらもセイジが落ち着いているには必要なことであった。チェスターは黙ってその会話を聞いている。やはりフレイドだけが、実態のないモノに話しかけている違和感を感じ続けていた。
「サッカー? サッカーとはなんですの?」
「そっか、ムービースターなんだもんね。ええと、1チーム11人なんだけどね、それの2組が、足でボールを蹴る競技なんだよ。手は使っちゃダメなんだ。頭とか肩とかは使っても平気だけどね。それで、相手のゴールにボールを入れて得点を競い合うんだ。そうだ、三年の及川先輩がすごいんだ。ゴールキーパーっていう、自分のゴールを守るポジションなんだけどね。どんなボールにだって飛びついていくんだ。取れない、ってわかってても飛び込むんだ。俺は、及川先輩みたいになりたいんだ。ベンチにも入れないただの新入部員だけどね。でも、いつかは及川先輩と同じフィールドで、サッカーをやるんだ」
「町田様は、本当にサッカーがお好きなのですね」
「うん! すごく面白いんだ。ボールを追っかけて走るの、すごく気持ちがいいんだから」
言って笑うセイジは、本当にありふれた子供で。
チェスターは、なんとなく胸を突かれた気分でそれを眺めていた。
「つ、着きましたよぉ……」
御先の控えめな声で、談笑は終わった。空はどんよりと曇っており、絶えず雨が滴っている。
路地を見渡す。何の変哲もない、ごくありふれた住宅街のT字路だ。少し色のはげかかったカーブミラーが申し訳程度に路地を映し出している。
「この路地を右に曲がったところで、そ、その……町田さんの、後ろ姿を」
血に塗れた。それは、飲み込んだ。
それに頷いて、チェスターが降りた。外はむっとするような湿気に覆われていて、チェスターは顔をしかめた。それに続いて小春が降りた。御先が降りようとしたところで、簪がそれを止めた。
「ちょっと皆さんと話してますから、御先さんは坊ちゃんについててあげてくださいまし」
セイジは少し不安そうな顔をしたが、簪が微笑みかけると小さく頷く。それを見て、御先は顔を引きつらせたまま、黙って簪が降りていくのを見ていた。御先と幽霊と一緒にいるなんてごめんだ、という風にフレイドも慌てて降りた。
「ずいぶん視界が悪いところですね」
簪の言葉に、チェスターが頷いた。小春も、得心したように頷く。
「多分、ここだろうな」
「ええ、おそらくは」
それにフレイドが眉を顰めた。背中の傷のことを話すと、背筋がぞっとしたような微かな震えを見せ、その顔には恐怖と嫌悪が入り交じった表情を浮かべた。
「……フレイドさん。坊ちゃんの前では、そのような顔はやめていただけますかねぇ」
フレイドは眉間に深く皺を刻み、腕を組んで、善処しよう、とだけ呟いた。
「どうする。来てみたはいいけど、何かある感じはしない。あえて言うなら、血の気配、ってぐらいだ」
ひとしきりその路地を観察して回ったチェスターが言った。それにはフレイドが口を開く。
「オカルトのことは、私はわからない。……が、死んだことを幽霊本人に悟らせれば消えるんじゃないか」
以前、やはりこういった事件に巻き込まれた。あの時は、それを悟らせて成仏、というのだろうか。そういった結果になった。そのとき小春も同行していたので、二人に頷いてみせた。
「坊ちゃんが」
簪を振り返る。
「坊ちゃんが、既に亡くなってしまっているという事は、今この状況となっては仕方ない事ですから、生前良い関係を築いている方に、御先さんではなく、そちらで静かに見守って守ってあげる事はできないでしょうか」
「そちら、とは?」
「ご両親ですとか、ご友人、でしょうかね。先ほど坊ちゃんが言っていた、及川先輩もいいです。それによって、ご両親や他の方も救われるのではと思いますよ」
それに、チェスターは少し考えるように視線を落としていた。
「ある程度知らないと対処できないから、話を聞くってのは悪くないと思う。それで、聞き込みして、死んでるって自覚させて……」
そこまで言って、チェスターはがしがしと頭をかいた。
「成仏しろってのも嫌だろうけどさぁ。ゲーセンとかさ、色々遊びたい所だってある訳だろうし。俺ん所へってまでは言わないけど、遊ぶというか、そういう所があっても良いって思うんだよなぁ」
ううん、とうなり始めたチェスターに、フレイドは盛大なため息を吐いた。
「先ほどから聞いていれば、どうにもわからないことばかりだ。君たちはあの幽霊に肩入れしすぎているように思えるのだがね」
視線が、集まる。それでも、構いはしなかった。
「静かに見守ると言っても、どうやって見守る? 幽霊が見守るのか? それはおかしなことだ。気付いて欲しくて御先に取り憑いたのだよ、彼は? 彼の友人は、みな幽霊が見えるような人々なのかね? 少なくとも、私には見えない。それに、幽霊が、どうやってゲーセンで遊ぶ? 透明人間が服を着ているようなものではないのかね」
フレイドの言葉に、三人は黙り込んだ。それは、もっともなことで、彼らは「彼が見えるから」そういった思考にたどり着いたのだと言える。
フレイドは息を吐き、言葉を続けた。
「とりあえず、あの少年の家族に話を聞きに行くのはどうだろうかね。自分が死んだと言うことは、自覚できるだろうし」
「坊ちゃんをいきなり錯乱させるのはよくありません。……あちしは坊ちゃんが居て悪いものだとは思いませんし、それは本人次第だと思っています。ゆっくりとお話しして、自然に思い出せればそれが一番良いと思います」
簪とフレイドの視線がぶつかる。
「……じゃあ、御先とセイジはタクシーにいてもらって、俺らで家族んとことかに聞き込みに行くってのは」
チェスターが言うと、二人は少し顔を見合わせて、それから頷いた。
それに小春が頷いて、
「では、チェスター様とフレイド様がご家族の方へ、私と簪様で及川様、というのはいかがですか?」
「それじゃ、決まりだな」
「ま、待ちたまえ。私は一緒に行くなどと」
「それでは私とフレイド様、簪様とチェスター様で」
「サァ行コウカ、チェスタークントヤラ!」
「セイジの家を調べるのが先だろ、おっさん」
ずんずんと歩いていく二人の背中を見送りながら、小春は微かに微笑んだ。
◆ ◆ ◆
小春と簪は、セイジが通っていたという学校に来ていた。御先とセイジは少し離れたところにタクシーを止めている。御先はやはり不安そうにぎょろぎょろと目を泳がせたが、それとなくなだめて待たせた。時間が掛かるかもしれないけれど、と言い置いて、二人はグラウンドへと向かった。
サッカーというのは、雨でもやる競技らしい。一つのボールを多くの少年達が追いかけ回している。それで、小春も簪もサッカーをしている、とわかった。
雨のせいだろう、足場は悪く、少年達は泥まみれになっていた。白い線の外で、ジャージを着た男(監督だろうか)が檄を飛ばしている。ボールが少年達の間を抜けた。ゴールを守る少年との一騎打ち。ボールを蹴る。宙に浮いて飛んでいく。手袋をはめた少年が飛び付いた。他の少年らに比べると、体の大きながっしりとした少年だ。がっちりと両腕でボールを受け止めている。受け止めたと思ったらもう立ち上がっており、声を上げてボールを大きく蹴り出した。
小春と簪は、顔を見合わせた。
終わるのを待った。皆が帰った最後に、その少年はやってきた。
「こんにちは、及川様でございますね?」
小春が微笑みかけると、少年は驚いたような顔をするがすぐに笑顔で返事を返した。
「及川さんに少しお聞きしたい事があるのですが」
「なんでしょう。俺に答えられることならいいんですけど」
「町田セイジ様を、ご存じでございますね」
小春の言葉に、及川は顔をこわばらせた。まじまじと二人を見比べて、視線を落とし、それから再び二人に向かい合った。
立ち話も何だから、と昇降口へと歩いていった。
◆ ◆ ◆
「突然の訪問で、申し訳ない」
「いや……わざわざ、ありがとうございます」
セイジの父親は深々と頭を下げた。
チェスターとフレイドは、一度市役所に戻り、それから町田セイジの家を訪ねていた。徒歩であったので二人のズボンはぐしょぐしょに塗れていたが、父親はまるで気にした様子もなく、二人を居間へと通した。その、壁際に。真新しい仏壇があった。その遺影は快活な笑顔の少年で、チェスターは唇を噛んだ。
「家内は失礼ながら塞ぎ込んでおりまして……話なら、わたしが聞きます」
父親は、無表情な男だった。しかし、それも疲れのせいであったのかもしれない。元はさぞ精悍であっただろう顔は、頬が痩けて目は飛び出している。
チェスターがフレイドを肘で突いた。チェスターは街で偶然会った知り合い、フレイドはセイジの通う学校に赴任してきたばかりの教師、と説明していたからだ。チェスターは教師、ということにひどく不思議そうにしていたが、フレイドにしてみればまさか無職だとは言えない。それに、セイジとの接点を考えるならば、やはり教師がもっとも良いであろうと思われた。それで、じゃあフレイドが交渉役、とチェスターに押しつけられたのだった。確かに、友人としているチェスターよりも、教師としているフレイドの方が話す、という方が自然だ。
フレイドは何から話そうか迷って、しかしどうせ聞くことは一緒だ、と開き直り半分投げやりが半分で口を開いた。
◆ ◆ ◆
「――ねぇ、御先さん」
「は、はいぃいっ?!」
セイジと二人きりにされて数時間。ずっと黙りこくって外を見ていたセイジが、ふいに口を開いた。御先は恐怖半分、驚き半分に声をひっくり返しながらも振り返った。バックミラーでは、彼の姿は確認できないのだ。それはそれで恐ろしいことで、それで振り返ったのだった。セイジはやはり外を見たまま口を開く。
「あの人たち、俺のためにあちこち行ってくれてるんだよね」
「へ、……ぇあ、は、はぁ」
依頼をしたのは御先であって、依頼を受けた彼らは御先のために動いている、とも取れるが、セイジをどうにかしてくれ、というのが御先の依頼なのだから、やはりセイジのため、と言って間違いはない。
「そう……」
呟いて、セイジはまた黙り込んだ。雨が窓を打っている。
――早く戻って来てくださぃいいっ!!
御先は切実に願った。
セイジはぽつりと呟く。
「神様、っているのかな」
◆ ◆ ◆
「町田は、いい後輩でしたよ」
及川は下駄箱に寄り掛かりながら、ぽつりぽつりと語りだした。
「勉強は苦手だって言ってたけど。根っからのスポーツマンていうんですかね、典型的なヤツで、技術教科だけいいっていう」
家庭科も得意なのだと、言っていた。調理実習で作った弁当を持ってきて、まだまだ小学生くささが抜け切らない朗らかな誇らしさで笑った。思い出して、及川は小さく笑む。
「ちっちゃいくせにゴールキーパーをやりたいって言ったおかしなヤツでしたよ。大体は、オフェンスやりたいってのに。まずはでかくなれ、ったら、昼飯ん時は必ず牛乳飲んだりしてました」
一年の中で、最後に帰るのはいつもセイジだった。及川が遅くまで残って練習をしている時も、そのボールを磨いてから帰るのだ。付き合わないでいいんだぞ、と言ったことがある。セイジは、及川に早く追い付きたいから少しでも盗むんです、と笑っていた。あの時のくすぐったさを、今でも覚えている。
小春と簪はじっと及川の話を聞いていた。
「……だけど、あの日は」
言って、及川は拳を握った。
◆ ◆ ◆
「雨が降っていました。ちょうど、今日のように」
長い沈黙があって、父親は思い出すように雨に濡れてぼやけた窓を眺めながら、口を開いた。
チェスターとフレイドは、はっとして居住まいを正した。
「いつものように今日も遅いだろうから、と家内は笑って夕飯を取り置いてました。その日は、少しばかり豪華な食事でしてね。温かい方がいいだろうと言って、セイジの肉は焼かずにいて」
自分を落ち着かせるためにか、父親は右手の中指でとんとん、と膝を打っていた。
「いつものように、帰ってくると思っていたんですね。二人で食事を始めようとしたところで、電話が鳴ったんです。それには、家内が出ました。……あの時のことは、今でもよく覚えています」
軽快な電子音が鳴った。はーい、などと言いながら妻が受話器を取った。妻は最初、何を言われたのかわからなかったに違いない。今にして思えば場違いな、え、と明るい声を出して。同じ事が繰り返されたのだろう、テーブルの上のスープや肉がほわほわと熱を発する中で、妻は凍り付いた。
妻の声が急に低くなり、ぼそぼそと返事を返していた。あの明朗な妻がこんな声を出すなんて何事だろうと思った。
どうにか受話器を置いた妻は、動こうとしなかった。今ならわかる。妻は、動きたくても動けなかったのだ。いや、すべての思考という思考が浮かんでは霧散するという心境であったのだろう。自分の声でようやくのろのろと振り返った妻の目は、真っ暗闇であった。しばらく声を出すこともせず、ただ真っ暗闇の目で自分を映しているだけだった。それで、胸騒ぎがした。何か良くないことが起こったに違いないという、確信にも似た焦燥感が襲ってきた。
――どうした。
聞いた。
震える唇で、妻は答えた。
「セイジが、……死んだ、って」
◆ ◆ ◆
「お母さんの誕生日だから、って言ってました」
及川は俯いた。
覚えている。
あの、はにかんだような、笑顔を。
「だから、すんませんけど早く帰ります、って」
及川は笑って、そうか、と言った。からかい半分で、プレゼントは買ったのか、と言った。セイジは、そりゃあ一応、と照れくさそうにしていた。左手で頭を掻きながら、右手の中指で腿の辺りをとんとん、と叩いていた。それに笑って、気をつけて帰れよ、と言った。
雨が、降っていた。
ちょうど、今のように。
小さな後ろ姿が、校門を駆け抜けていった。
それが、及川が見た、最後の姿だった。
◆ ◆ ◆
「セイジを見たときは、ただ眠ってると思いました」
父親の右中指は、絶えず膝を打っている。
「雨が降っていたのでずぶ濡れでしたけれど、本当に眠っているようで。セイジが死んだなんて、信じられませんでした」
警察と医者が、交互に喋っていた。
死因は背中の傷だと言った。写真を見るか、と言われ、見る、と言った。妻はしきりにセイジの頭を撫でていた。だから、その写真を見たのは自分だけだ。差し出された写真を見ても、特に何かを感じた、ということはなかった。背中を斜めに赤い色が走っていた。まるで、画用紙の上に赤いクレヨンで斜めに線を描いたようだと思った。それほどに、肌は白く、その赤は鮮明だった。到底、それがセイジの体で、セイジについた傷だとは思えなかった。それほどに現実離れした光景に見えたのだ。今ここで眠っているセイジの背中に、こんなにも痛々しい傷があると、思いたくなかったのかもしれない。
警察が、遺品だと言ってセイジの鞄を渡された。その鞄の中に、ぐしゃぐしゃになった箱があった。
「家内への、プレゼントなのだろうと思いました。家内に見つかるのは嫌だから、と数日前から用意して持ち歩いていたのを、知っていましたから」
それを、妻へ渡そうか渡すまいか、迷った。預かろうか、と言ったけれど、絶対に自分で渡すからいい、とセイジが言っていたからだ。
「それは、今?」
「私がまだ持っています」
「よろしければ、それを……その、預かってもよろしいでしょうか」
父親がフレイドを見返す。
チェスターが目配せをすると、フレイドは小さく息を吐いた。
「実は」
◆ ◆ ◆
四人がタクシーに戻ったのは、時間で言うなら午後四時といったところだった。
「ずいぶんとお待たせして、申し訳ありませんでした」
小春の言に、御先は本当ですよ! と心の中で絶叫しているに違いない。しかし、セイジは小さく首を振っただけで、ただじっと座っていた。
タクシーの運転席には御先、助手席にフレイド、左窓際から順にチェスター、簪、セイジ、小春という風に座っている。後ろに四人はさすがに窮屈だったが、まあ座れないではないのでそうしていた。
何から話そうか、と口を開いたはいいが小春は困ったように微笑んだ。それで、簪が口を開く。
「坊ちゃん。これに、見覚えはありますかねぇ」
言って、簪は濡れてぐしゃぐしゃになり、そしてそのまま乾いたと思われる、あまり見栄えがいいとは言えない箱を差し出した。チェスターとフレイドが何気なくそれを見守っている。
セイジはしばらくそれを見つめていた。簪はぼんやりと眺めるそれを、根気よく待った。口も開かず、それを動かすこともせず。
ああ、と空気が漏れるような音がした。
「母さん……母さんの、誕生日……」
セイジは震える手を伸ばし、そっとそれに触れようとした。するりと、その手が箱をすり抜ける。小春は息をのんだ。思わずセイジの顔を見る。その顔が、驚くほど穏やかで、悲しげで、小春は胸が潰れるような思いがした。
「そう……雨が、降っていたんだ……」
傘を片手に、鞄が濡れないように抱えて走っていた。
逸る気持ちが、その足を急がせた。
それで、いつもの小道に入った。
近道だったのだ。
T字路が見えた。
曇ったカーブミラーが一瞬光ったように見えた。
そんなもの、気にしなかった。
早く帰って、母親を驚かせてやりたい。
それで、笑ってくれたら。
それを想像して、笑ったりして。
角を、曲がった。
背中に衝撃を感じて、前のめりに転んだ。
やけにゆっくりと地面が近づいて。
傘と鞄を投げ出していた。
ああ、プレゼントが濡れてしまう。
走っていた。
体が宙に浮いて。
真っ暗の中を、走っていた。
気付いたときには、家の門をくぐっていた。
靴を脱いだ。
脱いだように、思う。
廊下を歩いた。
足音は、しなかったように思う。
鞄をおろそうとした。
その肩に鞄はかかっていなかった。
母に話しかけた。
まるで会話にならなかった。
父が帰ってきた。
まるで自分がいないかのような会話が続いた。
そして、外に飛び出した。
及川に会った。
気のせいにされた。
呆然と立ち尽くしていた。
ただ真っ暗の中にいて。
雨の中で、御先のタクシーに照らされた。
セイジはゆっくりと目を閉じて、開いた。
簪や、小春や、チェスターや御先、そしてフレイドが、自分の方を見ている。
「俺、わかってたのかもしれない。それで、わからないフリを、していたのかも」
言って、セイジは俯いた。
フレイドが何かに気付いたように、窓の外を顎でしゃくった。それを追って、小春は目を開いた。
「……町田様、」
セイジは振り向いた。
その、窓の外に。
傘を差して並び立っている、人は。
「……と…さ……かあ、さん……」
両親の、姿。
その後ろには。
及川。
ぼろり、何かがこぼれた。
ああ、こんな姿になってまでも、こぼれるものはあるのだ。
不思議とそんなことを思った。
小春がタクシーのドアを開けて降りる。簪がセイジの背を叩いた。よろめくようにタクシーから降りて、セイジは母親の前に立った。
簪がその背を支えるようにして立ち、もう片方の手には、ボロボロになった箱がある。
母親は、焦点の合わない目でこちらを見ていた。
自分は、見えているのだろうか。
セイジは思った。
きっと、見えていないだろう。
けれど。
それでも。
「ずいぶん……遅く、なっちゃったけど」
セイジは、笑った。
「お誕生日おめでとう、母さん」
簪が持った箱が、ふわりと母親の手の中に収まった。父親に促されて、母親はそれを開いた。中には、小さなサッカーボールが付いたストラップ。どれにしようか悩みに悩んで、自分が好きなものにした。
母親の目に、光が宿る。ゆらゆらと揺れて、ただじっとそれを見つめていた。
「町田様」
小春の声で、視線が上を向いた。
セイジ。
笑っている。
笑っている。
フレイドは目を見開いた。セイジと視線がぶつかる。確かに。
唇が動く。
小さく呟いてやると、セイジは笑った。
笑った。
振り返る。
及川。
父。
そして、母。
笑った。
──ありがとう。そして、さようなら。
雨が、上がっていた。
夕暮れ時である。
梅雨にしては珍しい、鮮やかなオレンジ色が空に広がっていた。
「……アイツ、あれでよかったのかな」
チェスターが呟く。
御先は既に、上機嫌でタクシー会社に戻っていった。
小春と簪と三人並んで、対策課に報告に行く途次である。
「よかったのではありませんか。坊ちゃんは、笑っていたじゃあありませんか」
それに小春も頷く。
「ありがとう、と、おっしゃっていましたもの」
以前のこととの関係性は、あまりよくわからなかった。けれど、幸せのような、苦しいような切ないような、羨ましいような思いが、胸を満たしている。
彼は、笑っていた。
きっと彼には、それでよかったのだろうと。
オレンジ色の空を眺めながら、フレイドは歩いていた。
報告は彼らに任せ、今日は早々に帰ろうと思った。
さんざんな日だった、と思う。
それでいて、さまざまなものが心にわき起こっていた。
その、最たる時はセイジという少年が見えたときで。
フレイドは呟く。
「死人なら死人らしく、大人しく死ね」
少年の笑った顔が、浮かんだ。
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クリエイターコメント | 大変長らくお待たせいたしました……! 冒頭部分は思ってもみなかった方向になりまして、どうしたものかと思いましたが、皆様のプレイングはとても真摯なものでありました。 なので、このような結果と相成りました。 そのことに御礼申し上げ、そして改めまして遅れましたことをお詫び申し上げます。
口調や設定など、何かお気付きの点がございましたらば、なんなりとお申し付けくださいませ。 此度はありがとうございました! |
公開日時 | 2008-07-25(金) 21:40 |
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