★ 願い ★
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
管理番号96-4983 オファー日2008-10-15(水) 02:41
オファーPC 昇太郎(cate7178) ムービースター 男 29歳 修羅
ゲストPC1 簪(cwsd9810) ムービースター 男 28歳 簪売り&情報屋
<ノベル>

 夕闇はすでに色深く、すれ違い過ぎていく人びとの足取りも心もち急いているように感じられる。もちろん、夜の帳が街を染めたとしても街が完全なる闇に落とされるわけではない。そこここに皓々と灯る街灯が見受けられるし、そもそも夜というものなどどこ吹く風かといった風の店舗も決して少なくなく存在している。街は夜を迎えても明るいし、かつての彼らが闇を怖れていたことなどまるで嘘のことのように、思える。
 ひたひたと草履の音をたてながら帳の中を歩き進んできた簪は、つい今しがたすれ違ったばかりの男を振り向き、目を細ませた。知己などではない。まるで見知らぬ、縁もゆかりも持たない他人だ。けれども男が“けいたいでんわ”とやらを手にしてなにやら幸福そうに笑っていたのが頭のどこかに留まっていて、なぜかそれが気になったのかもしれない。
つられて微笑み、小さな息をひとつつく。吐いた息は白い色をもって闇を染め、次の瞬間にはすうと消えていった。
 左手には比較的広い敷地をもつ運動公園が広がっている。春先には桜、初夏には藤と色豊かな花をめぐらせる空間も、今は赤や黄に染まりはらはらと枯れて落ちる葉で満ちている。が、それも陽光そそぐ昼日中にこそ見受けられる風景。闇に落ちた景色の中では、その葉はただ暗色をかぶり冬の到来を声静かにささやくものでしかない。
 公園の向こう側には没しかけた太陽の名残がいくぶんか残されていた。赤銅と鉄紺とが織り交ざる空のそれは、何やら薄ら寒い気配を漂わせているように見える。笈を背負いなおし、目を伏せて、簪は止めていた歩みを再びゆっくりと進めた。目指す先には怪しげな看板を提げた掃除屋の事務所がある。そこの住人に用があるのだが、要な用かと問われれば、そうではないと応える。気の向くまま、ふらりと立ち寄る。西洋絵画の技巧に関心を惹かれている簪にとり、事務所の主人に面会し、彼の神が持つ技巧の一端を覗き見ることは存外に要な用事であるのかもしれない。
「ちょいとばかりお邪魔させていただきますよ」
 事務所のドアを押し開けて中を覗き、簪はふわりと頬をゆるませた。皓々と灯りをつけている事務所の中に彼の神の姿はなく、一羽の白い鳥が羽を広げていた。鳥は簪の到来を知り迎え出るように飛来すると簪の目と鼻の先でちいちいと小さくさえずり、そうして再び飛び去っていった。
「なんじゃ、簪売りか」
 その鳥を肩にのせ、事務所の奥のソファから身を起こしたのは昇太郎だ。今しがたまで眠っていたのだろうか、小さなあくびをひとつ。「依頼でもしに来よったんか? 悪いんじゃけど、今は俺しかおらんのじゃ」
 言いながら簪に寄ると、手近にあったパイプ椅子を一脚指して示し、こちらもまた笑顔を浮かべて簪を招き入れる。
「いやいや、あちきはただ寄ってみただけでして。――なるほど、主さんはお留守でございましたか」
 応え、肩をすくめる。そうして笈をおろしてすすめられた椅子に腰をすえ、小さく息を吐き出しながら首を鳴らした。
「それ……笈、ちゅうたかのう。重そうじゃけど、肩こるやろう」
「肩というよりは、むしろ腰でしょうか。それでもまぁ、言うほど重くもないんですよ。慣れというものかもしれませんがね」
 昇太郎の言葉にやんわりと目尻を細め、簪はそう返して頬を緩めた。
 笑顔の面――翁や小面が浮かべている笑みのようだと、昇太郎はひそかに思う。人懐こそうな、どこか安穏とした春の陽光を思わせるような笑顔。だが、なぜかそれは“そうであれ”という心情のもと張り付かせてあるだけのもののようにも感じられる。刹那口をつぐんで眼前の簪の顔を見据え、昇太郎は静かにかぶりを振った。
「それはそうと、アンタ、あいつに何の用があったんや? 俺で済むなら話ぐらいは聞いちゃるけど」
 昇太郎が言うと、簪は「へぇ」と間延びした返事をひとつ口にして、ついで頭をぽりぽりと掻きだした。
「最近、西洋絵画とやらに関心を持ちましてね。出来れば画を見せていただこうかと思い参った次第でして」
「画?」
「でもまぁ、またの機会にいたします」
 返してやんわりと笑った簪に首をかしげ、昇太郎はふと思いついたように口を開ける。
「あいつが描いた画が見たいっちゅうんだったら、そうじゃのう」
 言いながら椅子を立ち、デスクの引き出しを開けて何かを探り始めた。
 簪が見つめている視線の先、昇太郎はほどなく目指すものを探り当てたらしく、満面の笑みでそれを携え簪の目の前に立った。
「これじゃ。たまぁにあいつがさらさらっと筆を走らせとるわ。こんなんでアンタに喜んでもらえるかどうかは分からんけどな」
 そう言って差し伸べたそれはノートよりもいくぶん大きなサイズのスケッチブックで、それを検めた簪はしばし目を瞬かせた。
「それは……しかし」
 勝手に開いては、やはりマズいのではないか。そう思い躊躇を見せた簪の心を読み取ったのか、昇太郎は屈託のない笑顔で大きくうなずく。
「大丈夫じゃ、なぁんも心配することない」
「……はぁ」
 気の抜けたような応えを口に、簪はようやく重たげに腕を持ち上げてスケッチブックを受け取った。案外と厚みのあるそれは持ってみると予想よりもずっと重みもあり、また、使いこまれたものであることが窺い知れる触感をもっていた。
 アイボリー色の表紙をめくると、そこにはあらゆる世界が詰め込まれた世界が間口を開けて広がっていた。鉛筆で走り描きされただけのものであろうことが知れる出来合いのものがほとんどだが、それでもやはり、そこには見るものを圧倒するだけの力がある。簪は思わず目を見張り、目の前で繰り広げられる恐ろしいまでに甘美な世界に言葉を失った。
 一枚一枚を食い入るように眺めている簪を横から覗きこみ、昇太郎は小さくうなずいてから口を開けた。
「俺はよう知らんのじゃけど、じゃぽにずむがどうだとか言いながらいろいろ描いてたみたいじゃのう」
「じゃぽにずむ……」
 うなずきを返しながらも、簪はスケッチブックから目を離さない。
 確かにそこに描かれているのは梅や桜といった四季ごとの花をモチーフにした、ちりめん細工などに用いられていそうな柄などがラフに描かれている。浮世絵めいたものなどもさらりとしたラフ画で描かれていたりして、ページをめくるごとに驚かされる。
 と、その中の一枚をめくりあてたところで簪はふいに手を止め、そうして驚いたような声を口にしながら、ようやく昇太郎の顔をあおぎ見た。
「これは」
「……ん? ああ、なんじゃ、縞に花模様のようじゃのう。菊か何かじゃろうか。俺は花とか疎くて詳しくないんじゃが」
 簪の細い指先が示したのは流紋に菊が描かれた模様だった。色のない、鉛筆で走り描きされたようなあものだ。だがやはりそれでも、色彩を持たない白黒の花のはずが、見る者の視界に鮮やかな色を思い起こさせるような見事な画だ。
「これと似たような柄の振り袖を持っているんですよ」
「ほう。見てみたいもんじゃのう」
「そうですか? それでは」
 言って、簪は椅子の横におろした笈の引き出しのひとつを開き、中から丁寧に折りたたまれた振り袖を取り出した。深い緑を基盤とした、ずいぶんとしっとりとした風情のある袖だ。
「若い女性が袖を通すには、いくぶん地味な出来合いかもしれません」
「そうじゃのう。……若い女が着るのは、こう、もうちっと華やかな柄が多いかもしれんのう。赤だのなんだの」
「色味だけで見るなら、むしろ男性にも向くかもしれませんからねぇ」
 そう言いながら穏やかに頬をゆるめ、簪は振り袖を広げて昇太郎の身体に当てた。「ああ、縫い直せば問題はないようですね。……どうです、着てみませんか」
「はぁ?」
 簪が口にした、予想もしなかったその言葉に、昇太郎は思わず素っ頓狂な声をあげる。簪はといえば、そんな簪などお構いなしといった風で、別の引き出しを開けて糸と針とを取り出していた。
「さ、ちょちょいと終わらせてしまいますので、少ぉしの間だけ袖を通してやってくださいまし」
 安穏とした語調でそう続け、事の流れを今ひとつつかめずにいる昇太郎の腕に振り袖を通して着せた。そうして器用に縫い糸を切って着丈を揃え、再び手慣れた調子で丈の長さを揃え縫っていく。振り袖は瞬く間に昇太郎の身丈に合ったものに手直しされ、簪は満足げに目を細めて昇太郎の顔を見据えた。
「どうです、これを着てひとつ夜の散歩とでも洒落こみませんか」
「はぁ!?」
 穏やかに微笑む簪に対し、昇太郎は、そういう展開になるとはつゆほどにも思っていなかったのだろう。まさに目を白黒させている。
「先ほども申しましたでしょう? その袖は色味だけを見ればむしろ男性にも見合う色合いをしているんですよ」
 悪びれることもせず、簪は飄々とした語調で続けた。
「なぁに、もうとうに陽は沈んでおります。こうも寒くては好き好んで寒風の中を遊び歩く者も多くはありませんでしょう。誰も昇太郎さんの振り袖姿を物珍しげにしげしげ眺め楽しんだりなんざしやしませんよ」
「……」
 簪の言葉に返事を述べることも出来ず、昇太郎は窓の外に目を向けた。確かにもう陽は落ちて、あるのは墨壷を引っくり返したような漆黒の闇ばかり。月は出ているだろうか。ざあざあと音を鳴らしながら大きく揺らいでいる木立ちを見るかぎり、風は存外強く吹いているようだ。なら、雲の流れもそれなりに速いかもしれない。
「そういえば、もう一かさね、持っているんですよ」
 困惑している昇太郎を横目に、簪は己のペースを崩すことなくちゃきちゃきと動く。そうして糸と針とをしまい、かわりに別に袖を取り出した。こちらは鶯茶に黒で棒縞のはいった留袖だ。昇太郎が着せられたものよりもいくぶん派手に見える。簪はそれを揚々としつつまとい、手慣れた調子で帯を巻いてしゃなりと身体をひねってみせた。
「どうでしょう、なかなかのもんでしょう?」
 言いながら微笑む簪を、昇太郎はぼんやりと見ているしかできなかった。どう返していいのか、さっぱり見当がつかない。
 おそらくは頭の中がごちゃごちゃと入り乱れているのだろう。そう察し、簪はふわりと首をかしげて手を伸べた。「さ、それでは夜の散歩と洒落こみましょう。ふらふらして戻ってくれば、こちらの主も帰っていらっしゃるかもしれませんしね」言って、問答無用に昇太郎の手を引いて歩き出した。

 
 冷たいアスファルトを踏む足には下駄も草履も履いてはおらず、白く細い肩は身につけている赤い襦袢からも大きく覗き見えている。美しくまとめていたのであろう黒髪はすっかりと乱れ、目は空ろで何をも映してはいないようだ。
 女は、けれども紅をさした唇だけをひらひらと閃かせながら夜の中を歩き彷徨っていた。もう、どれほどの時間、こうしてさまよい続けているのかはわからない。ただ、ある一定の距離を歩き続けると再び初めの場所に引き戻されているのだ。たぶん、その一定の場所から外へは出られない、ということなのだろう。
 濡羽色の髪につけた櫛をはずし、髪をほどく。木立を揺らす風が女の髪をなぶり流れていく。女は何をも映してはいない目で遠く空を仰ぎ、手にした櫛をゆらゆらと振りながらゆっくりとした歩調で歩みを進める。
「三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい」
 唄を口にしながら、両手で肩を包み、そうして櫛を白い肩に食い込ませる。
 赤々とした血が噴き出し、はげしい痛みが全身をめぐるはずだった。しかし痛みが走ることもなく、血が噴き出すこともなかった。女の白い肩は豆腐のようにぶにゃぶにゃとしていて、突き刺した櫛も女の爪も、するりと吸い込まれてそのまま突き抜けてしまうばかりなのだ。
 痛みがあればせめて、正気を保っていられたやもしれぬのに。
 唇を歪みあげて、女は再び唄を口にする。記憶のどこかに残されているはずの、愛しい愛しい、逢いたくてどうしようもないはずの恋人を想いながら。

 風にのって小さく響く唄声が耳に触れたような気がして、昇太郎はふと顔をあげた。
 仰ぐ空は鉄黒。西に沈む太陽のなごりはもう大分薄らいでいる。風はやはり強く、かさかさと音をたてて枝から落ちる枯葉がアスファルトの上を転がり昇太郎たちの足にまとわりついてきた。秋の夜を吹く風は乾いていて、びょうびょうと声をがなりたてながら過ぎていく。そんな中に紛れ、誰かのうたう唄が耳に届くはずもない。まして風のせいもあってか、やけに寒く感じられる。こんな夜に好きこのんで外をふらつく者などいようはずもない。簪の言葉通り、自分たちが女物の袖をまとって出歩いていたところで、それを好奇の目で見る人影などひとつもありはしなかったのだ。
 簪は笈を事務所に置いてきている。身につけた留袖に笈は不粋だと判じたのかもしれない。ともかくも身軽になったためか、簪は揚々とした足取りで昇太郎の前を歩いている。
 びょうびょうと風がうなる。
 ――三千世界のカラスを殺し
 唄が再び耳を撫ぜた。昇太郎は、今度は足を止めずに簪の後ろを歩く。
 ――主と朝寝がしてみたい
 それは都都逸という、遊里の女たちが唄いはじめたものだ。恋しい男を想う女の切なる心を唄ったものであったはずだ。
 唄は歩を進めるごとに少しずつはっきりとした形を取り始めた。もはや気のせいとは言えないほどだ。簪の耳にも届いているはずだろうが、簪は変わらず揚々と歩いていく。
「訊いてええかいの」
 昇太郎が口を開けると、簪は肩越しに振り向いて笑みを作った。応えの言葉はないが、どうやら応ということらしい。
「俺ら、どこに向かっとるんかな」
「先ほど、ちと心惹かれる場所を見つけましてね。……ただの公園なんですがね」
 楽しげに目を細め、簪はそう言って首をかしげた。昇太郎と同じく細身ではあるのだが、顔立ちのためだろうか、そうした仕草は女のそれを思わせる。
 昇太郎はわずかに眉をしかめて口をつぐんだ。
 簪の言葉は昇太郎の問いに対する答えになっていない。否、充分に足るものだ。なぜ自分の心がちくりと不快な気持ちになっているのかが解らない。あるいは、この唄のせいだろうか。今にも泣き出しそうに震えた、――これは女の声だ。
「この声、アンタにも聴こえとるんかな」
「ええ、もう、ずうっと」
 応え、簪はようやく足を止めた。
 ふたりはいつの間にか公園の入り口をとうに過ぎ、ゆるやかにうねったアスファルト敷きの遊歩道の上にいた。両脇にイチョウの林が並び、外灯がぽつりぽつりと物寂しげに灯りを落としている。その下で、ふたりが落とす影が薄く色を映しだされていた。
 くしゃり
 誰かが枯れ葉を踏み歩く音がした。距離はたぶん離れているはずだ。気配はとても薄い。
「ここは曰くのある場所でしてね」
 簪が口を開く。「浴衣でも晴れ着でも、着物を着た男が通っちゃあいけないってんですよ。洋装だってんなら問題ないらしいんですがね、和装でここいらを通りかかるとあの世に連れて行かれちまうらしいんですね」
 そう続ける簪の声はどこか朗々としている。昇太郎は簪の声を耳にしながら、簪のずっと向こうに目を向けた。イチョウの葉がアスファルトの上に散らばって、風に吹かれて舞っている。外灯の仄明るい光の下、ほどなく、女がひとり、ふらふらと力なく歩き近付いてきているのが見えた。
 赤襦袢姿の女は小柄で、そうしてひどく華奢な体躯をもっていた。手に何かを持ち、糸の切れた人形のように頼りなげな足取りでふらふらと歩いてくる。ふらふらと歩きながら口ずさんでいるのが都都逸だった。
 びょうと風が荒れ、夜露に湿った枯れ葉を空高く吸い込んでいく。簪が何かを言っている。口の動きがそれを物語っているのに、風がそれを端から飲みこんで、昇太郎の耳にまで触れない。けれども女が口ずさむその唄は、妙にはっきりとした形をもって昇太郎の耳を撫ぜるのだ。びょうびょうと吹く風ががなる声に代わり、唄が枯れ葉を暗い空の中へと運び去っていく。それを仰ぎ、昇太郎はゆっくりと目を細めた。
 枯れ葉を踏む音が間近にしたような気がして、昇太郎が空に向けていた視線を眼下に向けようとした矢先、
「ようやく来てくれた。――本当にいけずなお方」
 女の声が顔のすぐ目の前でした。夜をはらんだ、仄暗い、湿った声だった。
 白塗りの顔が目の前で笑っているのを目にして、昇太郎は一瞬たじろぎ、目を見張る。ほつれた黒髪も、艶かしい白い肌も、いつの間にか昇太郎の肩に置かれていた細い指先も、そのすべてが女の香を漂わせている。強く、むせかえりそうなほどに濃厚な。それはジャコウの鮮烈さを彷彿とさせるものだった。
 女の指は昇太郎の肩を這いのぼり、首を撫ぜ、頬に這い上がる。そうして愛しい恋人を見るような目でうっとりと昇太郎を覗きこみ、ひとつひとつ、言い聞かせるような口ぶりで言葉を編んでいく。
「あたし、ずうっとあんたが来てくれるのを待ってたのよ」
 昇太郎の髪を指先で弄びながら女が笑う。鈴を転がすような笑い声だ。
「……俺はアンタなんぞ知らん」
「ウフフフ」
 昇太郎が口にした言葉に笑って、女は指の動きを一瞬止める。
「あんたがあたしとずっと一緒にいたいと言ったのよ」
「人違いじゃ。悪いが、」
「だからあたしはあんたとのためにチョウセンアサガオを用意したの」
 女は昇太郎の言葉に耳を貸さない。ただ唄うような語調でそう続け、手にしていた櫛を髪にさして微笑んだ。
「あんたがはじめに飲んで、あたしが飲んで。――あぁ、あたしはあんたに本当に愛されてるんだって、あたしは本当に幸せだった」
 言いながら昇太郎を見、女は艶然と微笑む。紅をさした唇が闇の中で歪みあがった。
「――幸せ、だったのよ……っ!」
 言って、女はその顔を一変させた。その表情は一転、憎悪に満ちたものとなっていたのだ。
 歪んだ暗い闇がそこにある。女の声はもうすでに形を成しておらず、金切り声とも呻き声ともとれるような恨み言を放つ、それはもはや害悪を撒き散らすものでしかなかった。
「アンタ、」
 男に捨てられるとかしたのか。そう問おうとしかけて、けれども昇太郎は口をつぐむ。
 女の、落ち窪んで眼孔しか窺えなくなっている目の奥から、泥にも似たものがほたほたと流れては落ちている。泣いているのだろう。そうしながらも昇太郎の頬に突き立てる指先には少しずつ少しずつ力がこめられていき、刃物のような爪先が昇太郎の肌に食い込み傷をつけた。
「……かわいそうにな」
 独り言を落とすように呟き、昇太郎は目の前の害悪の塊を見据える。
 女は前後を失うほどに心を壊してしまっている。狂気の沙汰といっても過言ではないかもしれない。あるいはもしかすると昇太郎の面差しが恋人のそれに似ているのかもしれないが、けれど、簪の言葉を思うに、おそらくそれは関係していないかもしれない。
 女はある一定の条件を満たす男を見ると、こうして狂気に陥るのだろう。――おそらくその条件は女と同様、和装であること。確かに洋装であることが常であるこの時世であれば、和装でいる男の数はひどく少ないだろう。
 けれど、もしもそうであるなら、いま女の害悪に責められているのは自分だけではないはずだ。簪も和装であるのだから。
 思い、昇太郎は弾かれたように簪を捜した。
 簪は昇太郎からいくぶん離れた位置で、モヤのようなものに包まれていた。

 女の形をしたそれが放つ害悪になど、簪は元より耳を貸してはいなかった。女の存在そのものに関心をすら持ってはいなかった。だからなのかどうかは定かでないが、簪の目には女の姿はひどく薄いものにしか見えず、ともすれば容易に失せてしまいそうに脆いものにしか思えなかった。
 振り向き、昇太郎を検める。昇太郎を囲むモヤは色濃く、そして深くあるように見える。
「情の深いのも難ですねぇ」
 言って、簪は眦を細め笑った。
 昇太郎が女の境遇に同情するかしてしまっているのであろうことは想像に難くない。女が昇太郎の情を受けてさらに存在を強めてしまっているのであろうこともまた、容易に想像につくものだ。
 とある映画の中、許されざる恋におちた男女が服毒して心中をはかるものの、結果的に男は毒を含んだふりをしていただけで、死んだのは女だけだった。女は男の裏切りを知り、死後恨みを果たすため蘇り復讐を果たす。確か少し前に男が映画の中から現出し、その旨を明かして怯えているのだという話を耳にしたことがある。女の霊が今も自分を黄泉の国に引きずり込もうとしているのだ、と。
「とは言え、たぶん男を引きずり込んだところで、彼女の心は晴れやしないでしょうけれどもねぇ」
 言って、昇太郎の方に足を進める。
「……あれじゃあ、自分が首を締めているのが恋人なんやら誰やら、判別なんざついてやしないでしょうしねぇ」
 
 簪の無事を検めて安堵し、昇太郎は再び女の顔に目を向けた。
 女の指は昇太郎の首にかけられ、尋常ではない強さで締めあげる。爪が肌に食い込み、激痛が身体中をめぐる。
「アンタは、かわいそうな女じゃ」
 呼吸もままならない中で、昇太郎は女の手に指を伸ばして呟いた。
 女の骨ばった指を力で振りほどくのは簡単かもしれない。ただ、そうはしたくない。女がどういった境遇に置かれてきたのか、昇太郎にはその詳しくを知る術もない。しかし女が憐れに思えるのは確かなのだ。憎いと言いながら涙を流す女は、それでもたぶん恋人を愛しく思っているのに違いないのだから。
「……俺はアンタが捜している相手じゃないんじゃけどな。……悪いなぁ」
 言いながら女の細い手首をつかみ、昇太郎は静かに目を伏せた。
 女が恋人に深い愛憎を抱き続けているのであろうことは確かだ。恋人を――あるいは“そうだと思える男”を殺めることで、女の心は安静を取り戻すのかもしれない。深い絶望の涙を落とす女の望みを果たしてやることは、可能だ。一緒に死んでやればいい。女の手に抗わず、女とともに黄泉路へと同行してやればいい。
 昇太郎は目を伏せたまま女の手首をつかむ指に力をこめ、そうして女の手を自分の首から引き剥がす。
「俺はアンタと一緒に逝ってやれんのじゃ。……置いてはいけん連中がいるからのう」
 女は悲嘆を害悪と変えて罵り続ける。どうして自分だけが、どうして、どうして、どうして、どうして――!
 目を伏せたままの昇太郎が女を引き剥がしたのを見て、簪は唇の片側をゆるやかに持ち上げ、懐に片手をしのばせた。リボルバー。日頃あまり多用はしないようにしている、護身用の小銃だ。それを抜き出して女の頭に狙い定め、確実に女に着弾させるため、歩を進める。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ――!」
 昇太郎から引き剥がされた女は頭を抱えて膝をつき、暗い空を仰ぎ見て彷徨した。昇太郎は静かに目を開けて女を見据え、次いですぐ傍にまで近付いていた簪の姿を検めた。
 簪は銃口を女の後ろ頭に押し当てて、両手でリボルバーを持って引鉄に指をかけていた。口もとには薄い笑みを浮かべ、狂気にむせぶ女を見る目には一分の憐憫さえ滲んではいなかった。
 やめろ、と言いかけた昇太郎を押し切るように、簪は目を細め微笑み、小さく首をかしげて、躊躇うこともなく引鉄を引く。
 乾風(あなじ)の夜空を割くような銃声が一度響き、すぐに消えた。
 後には一巻きのフィルムだけが残され、それきり女の憎悪も唄も気配すらも失せた。びょうびょうと吹く風が思い出したようにイチョウの葉を巻き上げて流れ、朧の月が姿を見せた空をめがけて舞っていく。
「……なぜ撃ったんじゃ」
 女が残したフィルムを拾い上げながら、昇太郎は静かな語調で簪に訊ねる。「撃たんでも、どうにかしてやれたかもしれんじゃろう。あの女はただ哀しかった、それだけなんと違うんか!?」
「男に逢いたい、逢えない、哀しい、寂しい。だから誰かを男に見立てて殺め続ける。――それは赦されるものでしょうか?」
 簪は穏やかに微笑みながらそう応えた。
「自分が死んでやれば女は救われる。そう考えていたのなら、それはなんとも救いがたい誤解でありましょう。昇太郎さんひとりが死んだところで、あの女に昇太郎さんの慈悲なぞ届くはずもありゃしません。また別の誰かに恋しい男の面影を重ね、そうして殺め続けていくばかりです」
「だったら、あの女を正気に戻してやりゃあいいじゃろうが!」
「それは可能だと思われましたか?」
 逆に問われ、昇太郎は口をつぐむ。
「そもそも昇太郎さん。昇太郎さんはあの女のため、死んでやろうとはされなかったじゃありませんか」
「……それは」
 言いよどむ昇太郎を見据え、簪は艶然と微笑んで首をかしげる。
「昇太郎さんには“死ねない”理由がおありなんです。あちきはそれが何なのかを存じませんが、お心に浮かんだものがそうであるのでしょう。――あの女に首を締められたとき、誰の顔がお胸に浮かびましたか?」
 問われ、昇太郎は足もとに目を落とす。
 この街で知り合い縁を結んできた友人たち。何よりも、護らねばならない『神』の顔。
 簪はまるで昇太郎の心を読み通してでもいるかのように笑み、うなずいた。
「護りたいものがおありならば、時に非情を貫くのも慈悲のひとつでありましょう。昇太郎さんが取られた行動は正しい。……ただ、刹那お胸をめぐるその情の深さがいつか昇太郎さんの足もとをすくってしまわぬよう、それは努めておいたほうがいいのかもしれません」
「……それはどういう意味じゃ」
 訊ねたが、しかし、その声はびょうびょうと吹く風にのまれて消えていった。昇太郎の声は簪の耳に触れたのかどうか、簪はそれきり口を閉ざして微笑み、仄明るい光を落とす外灯の下、落葉を踏みながら歩き始める。
 昇太郎はしばしその場に立ち竦んだまま、俯き、手にしたフィルムに目を落とす。
 
 三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい
 小さな幸福をかなえるために多くの命を犠牲にする。それは決して赦されるものではない。けれどそう願ってしまうその心は、理解できないわけでもない。
 唇を噛み、昇太郎もまた足を進める。
 今は、自分を待ってくれているであろう人たちのために。 
    

クリエイターコメントお届けが遅れてしまいましたこと、まずはお詫びいたします。そしてこの度はオファーありがとうございました。

簪様を描写させていただくのはこれが初めてでしたが、口調その他、いくぶんわたしの好きなようにやらせていただいた部分が強くあるかもしれません。
これはちょっとさすがにどうよ的な点などございましたら、お気軽にお申し付けくだされば幸いです。

昇太郎さまには、生に対する執着というよりは、自分を必要としてくれているであろう皆のため、という感じが強いのかなと思い、そんな感じで書かせていただきました。…どんなでしょうか。

それでは、少しでもお楽しみいただけていれば幸いです。
公開日時2008-11-23(日) 00:10
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