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<ノベル>
茨に咲く蒼い花。
映画館を覆う茨はまるで、ひとつの砦のようにも見える。
対策課からの連絡によってここを訪れた4名――ランドルフ・トラウト、朝霞須美、エドガー・ウォレス、ルースフィアン・スノウィスは、揃ってそれを見上げることになった。
「……また関わることになってしまいました……」
作業着姿に着替えて参加したランドルフの口から洩れるつぶやきには、ある種の感傷めいたものが含まれる。
よくできた映画のセットのようにも見えるのに、それはセットではないのだと言う。
かつてランドルフはこの茨と出会っている。銀幕ジャーナル編集部で、彼は過去の失恋の記憶と向き合う羽目に陥った。
それはランドルフが出演した《ランドルフの映画》の中で定められたシナリオに由来する。
だが今ランドルフの心を占めるのは、この街で出会った一人の女性だ。
「……ふむ。さしずめ《眠りの森の美女》といったところかな?」
エドガーは目を細めて外観を眺める。
「茨の城の《彼女》は既に非常に危険な状態と考えてよろしいですか、男爵?」
ルースフィアンの言葉に、カエル男爵は神妙な顔でうなずきを返す。
「うむ。少なくとも今のこの成長速度では、宿主が衰弱死するのにそう時間はかからないと思われる」
「彼女を眠りから目覚めさせるためにも、原因を探る必要があるということね」
思案するように、須美は顎に指を添える。
茨の元となった映画のフィルムがどこにあるのかはわからない。だが、その物語を含むものならば、過去を銀幕ジャーナルから拾い出すことができた。
《封印の城と忘却の森》――その森を守っていた茨が、いまは人の心の中に宿っているのだという。
おとぎ話の眠り姫は、王子のキスによって100年の眠りから目覚めた。
少なくとも彼らには、それに値する行動を求められている。
「行きましょ? 早く彼女を起こさなくちゃ」
念のためにと持参したスチルショットを手に、須美は告げる。
その言葉に全員が頷きを返した。
「気をつけるがよかろう。うむ。衰弱して死に至る前に」
カエル男爵に送り出される形で、4人は映画館へと踏み込んだ。
重厚な扉に幾重にも絡まり撒きついた茨はすべて、ランドルフの腕がたやすく引きちぎる。
映画館は来るものをさほど強くこばなかった。
だが、扉は再び閉ざされる。
閉ざされた扉は再び、茨によってさらに強固に戒め、封印される。
そして。
「ここじゃないのかしら……変ね。見つからないはずないのに……」
唐突に声がした。
「む、なんだ、そなたも対策課から来たものか?」
気配もなくそばに立つ少女に、カエル男爵は首を傾げてみせる。
「対策課? なんの話?」
臥龍岡翼姫もまた軽く首を傾げて、怪訝そうな顔で問いを返した。
「私はうちの団員を探しているだけ――」
瞬間。
翼姫の言葉をさえぎるように、茨を彩る青い花がはじけた。
『……どうして……』
破裂音。飛び散る鮮赤。開放感と同時に襲ってきて罪悪感にうろたえた。
頬も髪も足も腹も、至る所を染めた赤い色の中で、ひときわ赤く染まった自分の小さな両手が震えている。
そう、幼い日の、あの日の自分に戻り、翼姫は自分の足もとに転がるふたつの死体を凝視する。
赤い、赤い、遠くで響く爆音と怒号と悲鳴と銃声のただなかで、翼姫の幼い両手はふたりの人間の命を奪った赤に染まっていた。
自由がほしかった。
逃げたかった。
内戦はひとつのきっかけ。
ここではないどこかに行きたいと願って、願って、願い続けて、なのに、《枷》を壊したこの両手は驚くほどしびれている。
自由を手に入れた。どさくさにまぎれて、手に入れた。殺した。大嫌いな両親を、自分の親を殺してようやく手に入れたのに、この痛みと喪失感は――
「……いまの、なに」
「その花が見せる幻なのである。うむ……幻覚にとらわれることになるのだ、が……」
問いに答える男爵の言葉は、途中で途切れてしまった。
翼姫はきつめの美貌に怒りの色を浮かべている。
「……よくも……」
誰にも触れられたくない記憶に土足で踏み込まれことに腹が立つ。
見せられたものは幻覚だが、現実に等しい衝撃を与えてくる。
チャイナドレスの上にまとったコートの裾を閃かせ、翼姫は銃を片手に突入した。
「ちょっと待つのだ、おい! 中には――」
カエル男爵の制止の声と水掻きのついた手は、しかし、重い扉に飛び込んでいった少女を止めることはできなかった。
これで映画館の中に5人。
はたして茨は除去されるのだろうか。はたして、嘆きの声を上げる《彼女》は目覚めることができるのか。
一抹の不安を抱きつつも、きっと何とかなるだろうと思い直し、男爵は対策課で待機すべく映画館を後にした。
*
あなたの笑顔を思い出す。
あなたと見た映画を思い出す。
あなたと過ごした日々が、遠い過去になるなんて……
*
映画館の壁は漆喰となっており、床にはやや色褪せた感のある赤い絨毯が敷き詰められている。
まるでちょっとした洋館を思わせるその内側にも至る所に茨が巻きつき、空間を埋め、赤と黒の世界に異質な青の色彩を散りばめていた。
「ひとまず彼女の居場所を確認しましょう」
「一番オーソドックスなのは客席かな?」
エドガーはランドルフに渡された軍手をはめ、自らも茨を切り開きながら先を進む。
「ええ、おそらくは……そこに彼女がいるのではないかと思うのですが」
ランドルフは大きく息を吸い込み、そして茨の森に眠る《彼女》を求めて歩きはじめる。
この映画館に満ちる様々な香りの中から、眠り姫を見つけるために、己の嗅覚を生かそうと試みる。
だが、花の香りがそれを邪魔するのだ。
花はいたるところに咲いていた。
映画館のチケットを販売しているカウンターにも、フライヤーを展示するラックにも、上映中の映画の告知ポスターを張りつける掲示板にも、茨は絡まり、花が咲く。
花は幻覚を見せる。
痛みの記憶を呼び起させるのだという。
いったい何が起こり、彼女はこれほどに茨を成長させてしまったのだろう。
焼き払うことができるならそれに越したことはないのかもしれないが、そうすると映画館そのものが消失してしまう。
そうしたら彼女が残した思いもまた、失われることになるかもしれない。
「あの、エドガーさんはどう思っているんでしょう?」
「どう、とは?」
「一体どうしてこんなにも早く茨が成長してしまったのか、なのですが」
「カエル男爵はこの成長をいくぶん異常だと感じているみたいだったね」
エドガーは客席に向けて歩き続ける。
「ええ。でもその原因は《恋》にまつわるものに限定されるそうですが」
「恋にまつわるもの、か。この《忘却の森の茨》は実に興味深い特性を持っているね。実に……残酷だ」
かすかに覚える胸の痛みに顔をしかめるようにして、エドガーは天井を仰いだ。
「エドガーさん」
「なんだい?」
「……何故、彼女はこの場所を選んだんでしょうか……」
果てしなく続きそうな茨の除去作業を続けながら、ランドルフはひとつひとつ疑問を口にしていく。
「……なぜ、ここでなければいけなかったんでしょう……」
「今はまだ分からない。でも、大切な場所だとは思うよ。……ああ、ようやく俺たちの目的地に到達できたみたいだ」
ランドルフとエドガーの前に、木製の扉が現れた。
両開きの扉のその取っ手には、天使の羽根の意匠が施されていた。
茨の絡まるその扉を、エドガーは右から、ランドルフは左から、ふたりは同時に無言で開け放つ。
観客席を目指したエドガーたちとは別のルートをたどるべく、リエートを肩に乗せた須美とルースフィアンは、入り口横のカウンターから売店を経て映写室に向けて進んでいく。
ルースフィアンは必要ないと断ったが、須美のしなやかな両手は、ランドルフから提供された無骨ともいえる軍手に守られている。
バイオリニストの繊細な両手は本来、このような作業に向かうべきではないのだろう。
だが幸い、茨は攻撃性を見せていない。
そしてルースフィアンはぎこちなさはあるものの、須美の前を歩き、その指先からもたらされる冷気によって茨を凍らせ、道を切り開いていく。
「ひとつ、思うのですが……」
「なに?」
「……この街には、今さまざまな事件が同時に起きているように感じられるんです。……ひとつひとつの事件は独立しているように見えるのに……、その根底のところで、つながっているような……まるで違う根がいくつもあるような……」
「そうね……ええ、まさしくそんな感じだって私も思う」
こちらの言葉に、須美もまた頷きを返し、同意を示す。
「この街ではいろいろなことが起きてる。魔法が掛かったその日から、ずっとずっと、ありえないことが日常になってるのに、このあり得ない日常がちょっとずつ歪みを増してる、みたいな」
「……例えば……赤い目の存在、歪なダイモーンという存在、この事件はどちらかに属するものなのでしょうか」
「どうかしら……感触が違う気もするのだけど」
須美はすでに一度ダイモーンに関係する事件にかかわっている。
あのとき《彼女》が仕掛けた計画は、婉曲で、遠大で、陰険だった。周囲を巻き込みながら浸食する悪意がそこにあった。
けれど、ここに悪意は感じられない。
ただどうしようもない悲しみだけが、この映画館には満ちている気がするのだという。
「……いつか来る、夢の終わり……」
ぽつりと須美の口からつぶやきが漏れる。
「え」
「……彼女の《夢の終わり》は、どこにあるのかしら……」
ふと、須美の視線が何かを捕えた。
「これ……」
茨がその身の内に抱き込んでいたのだろう。凍りつき、生命力を失って崩れ落ちたその隙間に、ボロボロの紙が一枚、引っ掛かっている。
彼女は慎重にソレを引き出した。
ひどく身覚えがある、これは――
「対策課に張りだされている依頼書……、そのコピーみたい」
「……? どうしてそのようなものが……」
須美とルースフィアンは一枚の依頼書の内容を押し広げ、確認する。
そこにあるのは、ある意味とてもシンプルな《シリアルキラーの討伐依頼》だった。
ごく普通に生活していたムービースターが次々と殺されて、フィルムに戻される。
次々と殺されたムービースター達はそろって、ひとりの《女》の存在を自身のプレミアフィルムに焼きつけていた。
「なぜ茨は急成長してしまったのか、という問題。失恋の痛手や悩みが糧になると言っていたけど」
「……《彼女》の嘆きが、この《茨》を成長させ続けているということでしたね……」
須美とルースフィアンは互いに一度言葉を切り、わずかに視線を落として依頼書のコピーを改めて見つめる。
「彼女の喪失……彼女の嘆きの原因は、……彼女の想い人の《死》ではないでしょうか……」
ルースフィアンは依頼書に目を通し、そうして重いつぶやきとため息をそこに落とした。
綴られている死。
悲しい記憶。
依頼が出されたのはひと月も前だが、ではその顛末はどうなったのだろうか。
失いたくない記憶。
失いたくないもの。
ルースフィアンはしばらく考え込む。
ルースフィアンにとって大切なものはただひとりだ。
あの人の存在だけがすべてで、あの人以外には考えられなくて、あの人がいるから今自分はこうして幸せだと思いながら日々を過ごすことができる。
映画の中で、自分は誰のことも考えられなかった。誰の手も取りたくなかった。誰のためにも存在したくなかった。
けれど、この銀幕市で出会った優しいあの人は、自分を心から愛してくれる。あの人の存在すべてがやわらかく自分を包んでくれているのだと感じる。
幸せだ。
とてもとても温かな世界にこの身は浸かっている。
けれど、もしソレが失われてしまったとしたら、自分はきっと耐えられない。ぬくもりを知ってしまった自分には、ぬくもりを奪われた後の世界を耐える自信がない。
「……失うものなど何もなかったら、幸せなのでしょうか」
違うと、ルースフィアンは思う。
だが、彼女にとってはどうだったのか、わからない。
「もう少し探索してみましょ?」
「ええ、そうですね……何か、もっと別のものが見つかるといいのですが……」
ルースフィアンの指先が、また茨の先を撫でる。
花ごと凍りついたその繊細な氷細工が砕け、崩れ落ち、そうしてようやく目指す映写室の扉を発見した。
扉を押し開けば、大量のパンフレットと大量のフィルム、そして2台の映写機が沈黙とともにふたりを迎えてくれる。
「どうなってるの、これ」
翼姫は不機嫌さを隠そうともせずにつかつかと場内を歩き回る。
館内の案内図はすでにボロボロだったため分からないが、とりあえず翼姫は他の者たちが向かった場所以外の探索を決めたのだが、階段を見つけるだけでひと苦労だ。
ときには慣れた動作でナイフを振るい、茨を切り裂きながら進み、階段を降り。
階段に繋がるいくつかの通路では、引き千切られた茨や切り裂かれた茨、氷付けにされた茨の残骸を見かけた。
手段を選ばなくてよいのなら、いっそ火炎放射器を使いたいとすら思いながら、けっして広くはない映画館の地下へとようやく至る。
本来なら階段に置かれていたのだろう《関係者以外立ち入り禁止》とつづられた立て看板が、茨に絡めとられ、天井から吊るされていた。
「いまさら立ち入り禁止もないわね」
茨は至る所にあふれている。
本来なら簡単に開くはずの扉すら、固く閉ざされてしまう。
階段脇の壁には扉が左右にふたつ、向かいの壁には3つほど並んでいるが、どれも容易には開きそうになかった。
「……」
翼姫の手が自身の太腿に伸びる。
流れるような動作だ。
迷いも躊躇いもなく、手の中に収まった41口径デリンジャーの引き金を引く。
耳馴れた銃声。
続く破壊音。
茨の砦はあっさりと木片とともに飛び散り、破壊されたドアノブは、捻る者がなくとも訪問者を招き入れる。
「資料室かしら」
ドアの隙間から慎重に中を覗き込み、その合間に、マガジンラックが目に止まった。
銀幕ジャーナルが数冊置かれている。
何気なくひとつを手に取り、ぱらりとページを繰ってみる。
銀幕ジャーナルは、銀幕市で起きた事件を伝え顛末まで綴るこの雑誌はいま、この街の『記憶』そのものになりつつある。
「ほんと、ありえない事件ばっかりね」
自分の大切な人がここに来た。だから翼姫は彼を追いかけてこの銀幕市にきた。翼姫の大切な《家族》たちも皆揃って追いかけてきた。
あの人が関わった事件についても、ジャーナルは報じてくれている。
臨場感にあふれた文章達は、自分が知らない《彼》の活躍を、映画のような出来事の中にある彼の立ち振る舞いをまるで自分がその場にいたかのような錯覚を与え、教えてくれる。
他人のことになどほとんど興味はない、けれど、他の誰よりも大切な《彼》の身に起きたことなら知りたいと思った。
この街は本当に、常識という概念を簡単に覆してくれる。
この街で過ごす日々は、自分たちの日常とはまるで勝手が違う。
その中で、彼はどんな表情を見せているのだろう。
「……でも、彼は笑ってるし……いいのかもしれない……」
頭上で、何か大きな音がした。
ズシン……っと、重く響く、不吉な音。
パラリと、天井から埃とも礫ともつかないものが落ちてきた。
「ちょっと、なんなの!?」
何かの勘が働いたのかもしれない。
あるいは、それはただの偶然だったのか。
翼姫は数冊のジャーナルを手にして、地上に続く階段を一気に駆け上がった。
客席のちょうど中央に、《彼女》はいた。
絨毯と同じワインレッドの深い彩を持った客席に身を沈めて、その胸からあふれる茨によって縛りつけられながら、一巻のフィルムを抱いて彼女は眠る。
白い肌からは生気が感じられなかった。
エドガーは彼女のその姿の痛々しさに悲しみを覚える。
「この人が……」
恐る恐るといった体で、ランドルフが彼女のそばに近づき、ひざを折り、彼女を覗き込む。
真っ白な肌を持った《眠り姫》は、両目を閉じていながら、今にも泣き出しそうに見えた。
そっと彼女の右手を取り、彼女が抱くプレミアフィルムに刻まれた《タイトル》を確認すると、ランドルフは立ちあがり、エドガーを見やる。
「あの、私これからちょっと対策課に連絡をしてきます。彼女のことについて、何かわかるかもしれませんから」
彼女の抱くプレミアフィルムが、何よりも雄弁に、《何かが起きたこと》を語る。それを対策課が知らないはずはない。
あるいは銀幕ジャーナルに問い合わせるのも手だろうか。
「そうだね、確かにその方が早いかもしれない。映写室でも何か見つかっているとは思うんだけど……ああ、この映画館の事務室は地下だったかな。気をつけて」
「はい」
「頼むよ、ランドルフ」
「はい!」
エドガーは彼を送り出し、彼が客席の扉の向こうに消えるのを目で追いかける。
その間、この場所にはまるで変化がない。
茨は茨のまま、彼女の胸から延び、花を咲かせている。
だが。
「――っ」
花がはじけた。
とっさに鼻と口をふさいだが、遅かったらしい。
瞬きをする間もなく強烈な眩暈に襲われ、世界が暗転する。
そして。
エドガーは道端に立ち尽くしていた。
文字通り、血の海だ。
彼女が横たわっている。
全身を真っ赤に染めて、もう、本人かどうかすら分からないくらいに真っ赤になって、横たわっている。
赤い赤い彼女は虚空を見つめ、どうしようもないくらいに死んでいながら、どうしようもないくらいの存在感で訴えてくる。
訴えてくる。
結婚を約束していた。
幸せになるはずだった。幸せにすると約束していた。なのに、彼女は赤い色に染まって息絶えている。
助けられなかった。傍にいれなかった。守れなかった。幸せにしてやれなかった。約束を守れなかった。
なにも、できなかった。
「……すまない……」
幻は一瞬だ。
けれど、完全に癒えたわけではない《悲しみの痛手》に、エドガーはほんの少しだけ顔を歪ませた。
しかしその感傷は不意に途切れる。
カタカタカタカタ。
どこからともなく、映写機の作動音が聞こえてくる。
会場の電気が消え、スクリーンに光が差し込む。
切り取られた白い画面。
そこに映し出される映像。
エドガーは顔を上げ、光と映像を送り込んでくる映写室の窓を見上げた。
人影は見えない。けれど、きっとそこに須美とルースフィアンがいるのだろう。
ふたりがみたいと思ったものを、エドガーもまた見たいと思う。
茨に蹂躙された客席はけっして居心地のよいものではないけれど、彼女の隣に立って、スクリーンに目を向けた。
*
予感はしていたの。
この街にはいろんなことが起こるから。
でも、大丈夫だと思ってた。
だってわたしたちはこんなにも、幸せなんだから……
*
映写室に積み上げられたパンフレットはけっして少なくない。
撮影用の小道具の意味合いのあるのだろう、ラックにはいくつものフィルムが収められている。
だが、茨に侵食されず無傷のままだったのは、たったひとつだけだった。
それが今映写機にかけられている。
フィルムは、カタカタと音を立てながらスクリーンに物語を映しこんでいく。
「恋愛映画なのね」
須美はパンフレットと映画を交互に見ながら、思考を巡らせる。ミステリーならかなりの範囲を網羅しているのだが、あいにく、純粋な恋愛映画は須美の守備範囲外だ。
最近できた《恋愛相談相手》の彼女なら、もしかするとすぐに答えが出せるかもしれない。
ストーリーは王道に沿ったものだ。
運命を信じるひとりの少女が、年の離れた兄とふたりで暮らす淋しい17歳の少女が、ミステリアスな《天使》と出会い、恋に落ちる。
「……この場所が選ばれた理由、分かったかもしれません」
「え」
「映っています。この映画館が。少しわかりにくいかもしれませんが、こちらで間違いないでしょう」
対策課に張り出されていた依頼書のコピーは、シリアルキラーの討伐だ。
恋愛映画が関わってくるとは思えない。
だが、別の可能性ならある。
「……被害者が、この映画の出身者だった。だから、《彼女》はここを選んだ……」
「依頼書から見て、……討伐隊の顛末はすでに公開されているはず、ですね」
「だとしたら、この茨が急成長した理由は――」
須美のセリフのラストは、銃声でかき消された。
「――っ!?」
映画館にはひどく似つかわしくない、けれど同時に映画館ならばスクリーンを通してよく耳にする銃声が、この空間を震わせる。
身悶えるように、茨はうごめき、よじれ、グッタリと床に落ちる。
「どういうことよ、これ」
飛び込んできた、あきれとも驚きとも詰問ともつかない声の主は、シャープな印象を与える女性だった。
彼女は銀幕ジャーナルを左手に、拳銃を右手に持って、ため息をつきながら立っていた。
「まるで迷宮ね。最悪だわ」
ちらりと彼女は後ろを見やる。
彼女自身が入ってきた入口はすでに茨によってふさがれてしまっている。
「あなた……」
「この花にいやなモノ見せられたから全部むしり取ってやろうかと思ってきたんだけど、きりがないのよ。しかもこの建物、放っておいたらあと一時間もしないで崩壊するんじゃないかしらね」
言いながら、彼女は自身の背後に銃口を向け、なんでもないことのようにその引き金を引く。
破裂音。
そして、飛び散る緑。
舞う花びらは無残な姿になり果て、落ちる。
「それで、どうしてこういうことになっているのかしら?」
「この茨は《眠り姫》のせいなの」
何も知らずにきたらしい彼女へと、須美は対策課とカエル男爵から聞いた話を手短に説明する。
「……そういうこと……」
映写室から見える観客席の照明は落ちており、いまも正面のスクリーンには映画が上映され続けている。
物語は進む。
進んでいる。
茨はうごめき、花は揺れているのに、映写機にもフィルムにもスクリーンにも攻撃を加える意思はないようだった。
「その事件の顛末、もしかしたらこれに載っていたりする?」
「え」
差し出されたジャーナルを驚いた表情で須美は見、次の瞬間には受け取り、作業台の上にずらりと並べてタイトルページを次々開いていった。
まるでマジシャンがトランプを並べるように、そして並べたカードを次々オープンしていくように、鮮やかな手つきで。
その間も須美の視線は紙面を走る。
機械のように正確に、綴られた文字たちを追いかける。
時間はそう長くかからなかった。
「……見つけた……」
依頼書のコピーに記された記録者の名前と記事のタイトル、それと合致するものが彼女の持ち込んだジャーナルの中にあるのははたして偶然か否か。
たぶん。
偶然ではないだろう。
「ランドルフさんはどこにいるのかしら……連絡をつけなくちゃ……」
「館内放送」
「え?」
「まだ、ここの機材は生きてるんじゃない? その館内放送用の機材で呼びかければ早いわ」
「そうね。観客席でいいかしら……」
須美の肩に乗っていたリエートがむくりと動きだす。
「《道》は僕が作ります。……ですから、放送を」
ルースフィアンはやんわりとほほ笑み、優美な所作で、すっと右手を上げる。
まるで呼吸をするように、彼は氷を操る。
「急ぎましょう……彼女の命も、そしてこの映画館の命も、潰えるのにそう時間はかからない気がします」
「リエート?」
茨がうごめき、基盤となっている装置にその鞭を振りおろそうとした、その瞬間を狙って、シトラスカラーのバッキーは主人のために牙をむく。
忘却の森の茨は、夢の産物。映画から生まれた夢の創造物。だからだろう、バッキーの攻撃を避けられず、放送機材を破壊するより先に食われ、床に落ちた。
そばに立てかけていたスチルショットを手に取るより先に、リエートが須美を守った。
「ありがとう」
須美はそっと茨の残骸とともに床に転がった勇敢な自分の騎士をすくいあげ、抱き、そして、機材に手を伸ばした。
観客席で眠る彼女。
シリアルキラーの討伐を目的とした対策課の依頼書。
この映画館を舞台のひとつに選んだ恋愛映画。
討伐依頼の顛末を記した銀幕ジャーナル。
崩壊しかける映画館。
喪失の痛みによって急成長を続ける忘却の森の茨。
そして悲しい青の色彩を持つ花は、喪失の幻覚を見せる。
失われたもの。
失ったもの。
眠りの森の《彼女》は、果たしてどんな夢なのだろうか。
携帯電話は通じないようにできているのだろうか。
茨を掻き分け、電話の使える場所を探しているうちに、地下の事務室までたどりついてしまった。
圏外の表示を見せる携帯電話から対策課の電話番号を呼び出し、ランドルフは映画館の事務所に備え付けられた黒電話から連絡をつける。
忙しいのか、5度目のコールでようやく相手につながった。
「お忙しいところすみません。あの、ひとつ確認したいことがありまして……」
ランドルフは、つい先ほど覚えたばかりの《プレミアフィルムに記された名前》を職員に告げた。
向こうで何かを操作している気配が伝わってくる。
パソコンでデータを照合してくれているのだろう。
だが、返ってきた答えは自分の期待したものではなかった。
「……ああ、やはり……被害者の交友関係となると難しいですか……あ、いえ、いいんです、すみません、こちらこそ。……あ、ええと、それともうひとつ、討伐を依頼された側の方はいま何を……、……え?」
茨が動いた。
ざわざわざわと、一斉に意思を持って攻撃に転じたのだ。
「――っ」
ランドルフのつかんでいた受話器を奪い、電話機本体を台の上から引きはがし、己の緑色をした体内へと飲み込んでしまったのだ。
ぐしゃりと、機械の壊れる音が鈍く響く。
これまで侵入者たちを見下ろすばかりだった緑の茨が、攻撃性を発揮した。
「一体これは……」
何かが変わったのか。
何かを変えたのか。
少なくともランドルフの中で、このままではこの映画館も、映画館の中にいる他の人々も危険だと警鐘が鳴り響いている。
青い花、蒼い青い碧い花たちが咲き乱れ、緑がうごめく。
警告だ。
もしかするともう、宿主の体に限界が来ているのかもしれない。
視線を巡らせ、うごめく緑の中から、ファイル棚に目をつける。
《管理記録》と明示された分厚いファイルが、本来なら鍵のかかった、でも今は茨に蹂躙されてひしゃげた棚の中にかろうじて引っ掛かっていた。
「これも、お借りしていきましょう」
彼女はここにきた。
きっと、ここに思い出がある。
ならここに彼女を知る手掛かりが残されているのかもしれない。
手を伸ばし、ガタガタと軋んだ悲鳴を上げる棚からファイルを引っ張り出したそのタイミングで、ふいに、今にも落ちてきそうなスピーカーから、割れた甲高い電子音が響いた。
『調査員は至急シアターにきてください。繰り返します、調査員は至急シアターにきてください』
「……」
ランドルフは覚悟を決めた。
花はいつはじけるかわからない、いつ自身も捕らわれるかわからない、それでも、この悲しい事件を終わらせるために。
空を薙ぎ、音を立てて襲ってくる茨の鞭を、ランドルフはその強靭な肉体で払い、引き千切り、自らが進むべき道を拓いていった。
*
初めてあなたに会ったとき、あなたは戸惑いを隠せてなかった。
知らないうちに知らない場所に【実体化】してしまったあなたと、あの映画館の前で出会えたことは運命だったのかもしれない。
あなたのこと、あなたの出身映画のこと、あなたに出会ってから知ったの。
あなたは優しかった。
とてもとても優しかった。
誰も信じられない、何も信じられない、たったひとりで生きていたわたしに、同じだけの寂しさを抱えていたあなたはとてもとても優しかった。
ねえ、何度もここに来たわ。
何度も、何度も、あなたと《天使》の映画館にきた。
あなたの映画に出ていた、あなたの大切な思い出の場所で、わたし、あなたとの時間を過ごした。
ねえ。
どうしてあなたは、いなくなってしまったのかしら。
ねえ。
どうしてあなたが、いなくならなくちゃいけなかったのかしら。
いつか来る別れの時。
でもそれはきっと、もっと、ずっとずっと先のことだったはずなのに……
*
この映画館に、安全な場所など本当はどこにもないのかもしれない。
それでも彼らは観客席に集まった。
茨は先ほどまでの動きが嘘であるかのように、ぴくりとも動かず、おとなしくしている。
フィルムを抱いた《眠り姫》からほんの少しだけ距離を置き、5人はそれぞれが手にした情報を開示する。
スクリーン上では、主人公の少女が片思いの青年に告白しようと決め、彼についていくことを決め、この映画館に向かって歩いているシーンだ。
幸せそうな彼女。
それをそっと見送るのは、彼女の兄。血のつながらない彼女の兄は、淋しげに、けれどひどく愛しげに義妹の背を見送っている。
「そうか……あの《彼》が《彼女》の想い人なのか……」
エドガーは眩しげにスクリーンを見上げ、そして差し出されたパンフレットに視線を戻す。
「この場所が映画のロケに使われたことは、ここに記録されているとおりです……それから、《彼》の名が来館者記録としてここに……」
ランドルフが持ってきた管理ファイルは既にあちこちが敗れ、ボロボロになっていたが、確かにここが《彼》と《彼女》にとって特別だというのは知れる。
そう日をおかずに、例えば映画の撮影といったスケジュールによって立ち入りは禁じられない限り、ふたりはここを訪れていたのだ。
「そして、これがシリアルキラーの討伐の顛末です」
ルースフィアンから差し出された銀幕ジャーナル。
その記事には、討伐を志願した者たちの想いや行動は勿論、シリアルキラーが女性であったこと、特別な能力を持ちながら、脆弱な精神を邪な念を抱くものによって歪められていた背景も綴られている。
物語の結末は、ひとつの救いを提示した。
それらを一読し、エドガーは改めて目を伏せた。
「……まったく……この銀幕市を取り巻く《罪の定義》について考えさせられるね」
「その記事を読んだから、彼女の胸の茨は急激に成長した……そういう結論になるわ。恋人の死の真相を知って、多分、心のどこかで何かが壊れた……」
須美は唇をなぞり、思案する。
「被害者と加害者は表裏一体ね」
翼姫は須美を見やる。
「この街じゃ珍しくないんでしょ? 誰かが誰かを殺す、そして殺した誰かがほかの誰かに殺される、そんな循環が起きているらしいことは聞いているわ」
討伐という言葉が、この街にはあふれている。
その対象はモンスターの場合もあれば、人の場合もある。異形になり果てた者もいれば、ただ心が壊れただけの人間である場合もある。
ただしその対象のすべては、《ムービースター》という存在に集約されるのだ。
この街のルールは厳格でありながら、矛盾をはらむ。
それでいて、この街のルールはある一点においてはけっして覆らないようにできている。
「……ですが、どこかで自分たちだけは大丈夫だと、……そう、思ってしまうものなのかもしれません」
ルースフィアンは映写室から持ってきた映画のパンフレットをそっとなでる。
「……なのに、突如悲劇に見舞われた。……自分から、大切な存在が奪い去られた。それにどう感情の折り合いをつけたらいいのか……、わからなくなっても、不思議ではないでしょう」
眠り続ける彼女。
絶望の嘆きから逃避するように、深い深い眠りに落ちたままの彼女。
「どうにかして、目覚めさせてあげたいけれど」
「記事によっては、被害者となった方たちの背景が公開されることもないですし、迷ったのですが……」
ランドルフは困ったような戸惑うような表情で俯き、告げる。
「……その……討伐対象となった彼女の居場所が分かれば、連絡をつけたいとも考えたんですよ……ふたりが直接会うことで、何かしら、糸口がつかめるかもしれないと……その件で少しお話もきかせてもらって」
それが有効かどうかは別にして。
エドガーは仲間たちのそばを離れ、眠れる彼女のそばに膝を折り、その冷たい手を握った。
「亡くなった恋人は――彼女が眠り続ける事を望んでいるのではなく、彼女の幸せを望んでいるんじゃないかな……」
「そう? 起きる必要なんてないわよ。幸せな夢を見ているなら、そのままの方がいいじゃない」
翼姫はひとり、反対だと意思表示してみせる。
いやな幻覚を見せられて、だからこの映画館に踏み込んだ。サバイバルナイフやデリンジャーを駆使して、茨を薙ぎ払っても来た。
だが、事情が分かれば、その背景が知れたなら、話は別だ。
「私は、逃げてほしくない」
それに対して、須美は首を横に振る。
「起きてほしい。夢なんかに逃げずに、ちゃんと……」
自分はムービースターに恋をした。
いつか消える存在に想いを寄せた。
想いを伝え、謝罪の言葉を受けて、それでもなお思い続けると決めた。
だから須美は彼女にむけて声を上げる。
「逃げないで、起きて」
届いてほしいと願いながら。
『……おこさ、ない、で……』
「え」
彼女の唇は動かない。
けれど、彼女の言葉は紡がれていく。
『……おこさないで……夢が……醒め……』
起こさないで、と彼女は願う。
強く儚く切なく願う。
願いは茨を動かす。
咲き誇る《花》が一斉にはじけた。
鮮烈な蒼の芳香。
それまでほのかに漂っていた香りとは比べ物にならない、むせかえるほど強烈で濃厚な甘い香りが5人を包む。
*
あなたがそこにいた。
あなたがそばにいた。
それがこんなにも儚く終わるものだなんて……
いつかくる夢の終りが、こんなにも早く来てしまうだなんて……
*
赤い飛沫を全身で受けながら、エドガーはたったいま目にした光景を理解しきれず、立ち尽くす。
そこにいるのは、そこに横たわるのは、かつて見た悪夢と同じ、DP警官の同僚たちの骸だ。
壁に、床に、天井に、無残にも磔にされ、引き裂かれた姿はどれも、ひどく美しい切り口をさらしている。
「いったい……いったい何が……」
銀幕市に来て、自分たちの居場所を作って、ひとりひとりがそれなりに楽しい時間を過ごしてきた。
厄介な事件も多いが、思いがけず楽しいイベントも多いのが銀幕市という町のあり方らしい。
仲間たちはそれぞれのスタンスで銀幕市ならではの事件にかかわりながら、それぞれの能力を駆使してこの街になじんでいった。
なのに。
「どうして……」
『……わかっていて、ソレを聞くのか?』
くつくつと笑みがこぼれる。
耳元でくつくつと愉しそうに、《寄り添い嗤うモノ》がいる。
『わかっていてソレを問うのか、エドガー・ウォレス?』
手が添えられる。
自分の右手に、自分の右手が、重ねられる。
赤くねっとりとした感触は、乾きはじめた血液の錆付いたニオイをまとって、意識を浸食する。
『殺したかったんだろう? お前の枷は俺が壊してあげたよ、エドガー。自由になろう?』
待っている、と彼らは言ってくれた。
殺人鬼を内に抱えて絶望に捕らわれた自分を、死を選ぶことばかり考えていた自分を、仲間として迎え、抱えた罪ごと認めてくれた者たちが。
死んでいる。
殺されている。
『アンチサイの能力は、本当に、まったく、恐ろしいと思わないかな? 超能力のすべてを無効化してしまうのだがら、歯が立たない』
そう、そのとおりだ。まさしくその通りなのに。
『だが、君は危険なその能力を十分にコントロールできるようになった。なのにその能力を君は使った、その理由はとても簡単じゃないか』
影は笑みを含みながらささやき続ける。
『この街でも、君は仲間たちに縛られていた。過去から自由になれずにいた。そうだろう? わずらわしいと思っていたんじゃないかな?』
仲間たちの笑顔が無くなった。永遠に失われた。
自分に、殺されたせいで。
自分で、殺したせいで……
――大切な人を失って……
翼姫は杵間山のふもとに立っていた。そこには彼がいた。《家族》とともに、満身創痍で立っていた。
大切な大切な、彼がいなければ自分の世界も、自分の大切な人たちの世界も終わってしまうと思えるほど大切な存在。
無数の剣。
無数の銃弾。
だがそれよりも恐ろしいのは、無数の化け物。
化け物の咆哮が、頭上から矢のように降り注ぐ。
あの人はどこか自分を顧みないところがある。あの人は《家族》のために死を決して恐れない。
けれど、でも、そのために自分は彼を追いかける。
誰もいらない、誰も信じられない、誰の行為も認めらえない、理解できない、自分はいらない、自分なんて必要ない、自分の存在意義なんてもうとっくの昔にある一点を除いてすべて捨ててしまったといってもいい。
なのに。
好き。
大好き。
なのに。
戦場には銃弾が飛び交い、爆撃が交差し、命はいくらあっても足りないくらいだけれど、それでも人が人の定義の内にいる限りはなんとかできるのだ。
けれど。
でも。
まるで山のようにすら見える巨大なモンスターを、いま目の前に迫っているこの巨大な怪物を、どうやって倒せばいいのか分からない。
あの人はそれでも銃を構え、武器を手にする。
やめて、と声を上げる間もない。
あの人は私が守ると決めた。決めた。決めていた。あの人のために自分は存在しているといってもいいくらいに。
いいくらいに。
なのに、この、手の中にあるのは、この、ひどく重みを増した、この、赤い色にばかり染まって本来の色すら良く分からなくなってしまった、この《彼》は、彼は、誰?
「……どうして……」
重火器が利かない、常識が通用しない、なにひとつ自分たちの戦場とは違う、この街の異常な歪みがもたらす怪物。
蹂躙される。
奪われる。
護ると決めた、自分を愛してくれた、誰よりも自身を憎むこの自分に愛情を教えてくれた、大好きという気持ちと居場所を与えてくれた、彼が、絶対的な彼が、わけのわからない巨大な悪夢の産物によって失われる……
自分の命に価値はないのに、いつでも投げだせるのに、最も重要な男の命が、消えていく……
その人の死に続き、最も愛する者の命もまた潰えようとしている。
自分が存在するのは、愛する人を見つめるため、その人のためだけ、自分が自分自身のために生きることなど考えていない。
なのに、なのに、なのに……
――それでも
ぱちんと、花がはじけた。
その瞬間を須美も確かに見たのに。
気づくと、そこは夕暮れの銀幕広場だった。
円形の歩行者天国の中心に据えられた噴水の前で、あのヒトは立っていた。
古いコートを羽織った彼は、自分に背を向けている。
こっちを向いて欲しい。
伝えたいことがある。
伝えてしまったけれど、でも、もう一度伝えなくちゃいけない想いがあるのだ。
須美は願う。
時間がないのだから、急がなくちゃいけない。
自分はムービーファンで、相手はムービースターで、ふたりの間には《存在の境界線》が引かれてしまっていて。
ソレを踏み越えるために。
違う、乗り越えるために。
須美は勇気を振り絞り、精一杯自分の手を伸ばし、彼のボロボロの古いコートの裾を掴む。
その刹那。
何かの弾ける音、何かが頬を掠める気配、そして指は空を掻き、足元に一巻のフィルムが――
「――っ」
のどが、ひゅっと引き攣った息を洩らした。
失いたくない。
大切なものが須美にはたくさんある。
両親も、友人も、ヴァイオリンも、バッキーも、大切で大切で。
けれど、でも、誰より自分はいま、あのぼさぼさ頭の古いよれよれコートを羽織った彼を強く思っているのだと思い知らされる。
彼に告白して、彼に「すまん」と返された。
でも、それでも、彼を求めた。
彼の傍にいたいと願った。
なのに、それを告げようとしたその瞬間が、その機会が、今、永遠に失われた。
息ができない。
胸が、心のある場所が、見えない刃物でずたずたに引き裂かれる。
駆け寄って、拾い上げる、そのプレミアフィルムが冠した《タイトル》は、自分がたった今呼ぶはずだった名前で……
――それでも……
ルースフィアンは部屋の中に立っていた。高級マンションの最上階。自分の部屋。ある女性に与えられ、少なくない時間を過ごした一室。
冷たいフローリングに、ほとんどないに等しい家具たち。
今は照明という照明すべてが落ちていて、ガラス窓から見下ろす夜景がひどくキラキラと美しい。
興味のない、ただの入れ物でしかなかったこの場所が、愛しい、大切な場所となったのは最近のことだ。
抱いた過去すらも冷たく暗く黒いルースフィアンにとって、幸福のなんたるか、人のぬくもりのなんたるかを知ることができたのは、今、ここでともに暮らす相手のおかげに他ならない。
あの人がいたから、生きている。
あの人がいるから、生きていける。
触れることを、触れられることを、そばにいることを、信じることを、愛することを、幸せだと思えたのは全てあの人の存在があってこそだ。
なのに、ルースフィアンは、本来感じるはずの幸福感のかわりに、言いようのない不安感に襲われる。
なぜだろう。
なぜこんなにも不安なのだろう。
「……」
そこにいるはずの者の名を口にしかけ、けれど、それは言葉にならず、消えた。
ぴちゃりと、素足が何かを踏み、水音が耳を打つ。
温かくない、けれど冷たくもない、どこか粘ついた感触の《水》はフローリング一面に広がっているようだった。
どうしてだろう。
どうして、この床はこんなにも赤いのだろう。
「……どうして」
ぎろりと、何かが闇の中で揺れる。
この部屋はひどく荒れているではないか。
どうしてこんなに荒れているのだろう。
まるで、何かが暴れた後のような。
ルースフィアンは視線をさまよわせる。足もとにではなく、あらぬ方向へ、現実から遊離するように、答えを別のところへ求める。
きろりと、何かがまた動いた。
歪な影だ、醜悪な塊が、何かを持っている。
「……そういえば……ハングリーモンスターが、出没するようになったって……」
あの人はどこにいるのだろう。
モンスターがいる、恐ろしいモンスターが、この部屋にいて、その醜い手につかんだフィルムをぐしゃりと握りつぶす、なのに、あの人はいない、いない、いない。
ルースフィアンの足が何かに触れた。
無意識に、赤い水たまりへと、手を伸ばす。
拾い上げた、それはブルームーンストーンなどをあしらったチョーカーで、それは、ルースフィアンが恋人に贈ったもので――
「――っ」
ついにルースフィアンは認めてしまう。
そこで何が起きたのか、ここで何が起きたのか、知り、理解し、心が砕けそうな痛みに、声にならない悲鳴を上げた。
――それでもまだ……言えるの?
ランドルフは銀幕市立中央病院の中庭に立っていた。
吹き抜けのラウンジは、今はしんと静まり返っており、振り仰げば、はるか遠くのガラス天井から満点の星空が望めた。
何度ここに足を運んだのか、もうわからないくらい、馴染み深く、思い出深い場所だ。
そこに、彼女がいた。
はじめて対策課の依頼を受けてから、度々『相棒』として事件に関わることのできた女性。
聡明で、凛々しく、その立ち姿に見惚れることが何度もあった。
彼女が顔を上げる。
自分を見る。
いや、自分を見ていない。
彼女は自分の脇をすり抜けて、その笑顔を《自分ではない誰か》に投げかけ、病棟に続くガラス戸へと向かって小走りに去って行く。
自分を忘れ、自分を見ず、通り過ぎて行く彼女。
彼女の笑顔が誰かのものになって。
これで二度目だと、心のどこかで誰かが呟く。
これで二度目だ。
彼女は他の誰かのものになる。
だが、それでも、彼女が幸せなら、それでいいと。
彼女の幸せのためなら、この想いを告げて縛るよりはずっとずっといいのだと、そう思って、彼女が選んだ彼女の相手を見届けようと振り返り。
ランドルフの心臓が凍る。
流れるような黒髪に縁取られたとても華奢な彼女の首が、彼女以外の人間の手によって締められている。
彼女は首を締められて、ゆっくりと力を失い、崩れ落ちていく。
一瞬見えた彼女の表情は、驚きと安堵を含んでいて。
彼女の膝がラウンジの芝生について、彼女の体が芝生の上に横たえられて、彼女の瞳から光が消えて、彼女の幸せそうな笑みはもうどこにもなくて。
何故、という言葉すら出てこない。
けれど、ひきつけられるように、彼女のもとへと、彼女の殺した相手のもとに、一歩を踏み出した、その足がパキリと何かを踏みつける。
拾い上げた、それは読みかけの文庫本、そして蝶をモチーフにした、たった今ランドルフが踏みつけ壊してしまったブックマーカー。
壊れてしまった蝶。壊されてしまった蝶。もう戻らない。彼女は戻らない。
目の前が暗くなる。
彼女が泣くことだけは耐えられないと思っていた。
そう思っていたはずなのに、その結末よりも更に哀しい、これは、この悲劇は一体――
――赤い色が、世界を染める……
出会ったことも運命なら、失うことも運命だったのかしら……
笑っていた。楽しそうに、幸せそうに、永遠に続くことは無理かもしれないけれど、でも、ずっとこのままでいたいと願っていた。願ってくれた。
約束をした。
クリスマスに結婚しようと。
たとえ真似事でもかまわないから、やさしい神父のいる教会で永遠の愛を誓おうと約束した。
例え残された時間は短くても、後悔のないように、その日を迎えようと約束した。
永遠を夢見ることはできないけれど。
それでも、幸せな時間を少しでも長く、と祈り続けた。
ずっと、祈り続けた。
なのに。
視界が赤く染まる。
血まみれのプレミアフィルムを抱いて、わたしは惑う。
果たされなかった討伐の終わりを知って、わたしは問う。
ねえ、祈りはどこに届くの。どこにも届いたりしないのに、どうして願うの。何もなさいのに、どうして願うの――
『――あの人を奪った存在を、どうして許すことができるの?』
胸を抉る痛みを引きずりながら、全身が血にまみれたエドガーは、血染めのプレミアフィルムを抱いた翼姫は、冷たいプレミアフィルムを抱いた須美は、血まみれのチョーカーを握るルースフィアンは、壊れたブックマーカーを持つランドルフは、ほぼ同時に顔を上げた。
顔をあげ。
彼女をそこに認めた。
幻の世界の中で、スクリーンに浮かび上がる映像のように、その胸から延びる茨をまるでドレスのようにまとって眠る彼女自身の傍らに立ち、プレミアフィルムを抱いて5人を見つめていた。
『……あなたたちは、許せるの? 自分から大切な人を奪った存在を……許せるの?』
銀幕ジャーナルは事件を伝える。
例えばその顛末も、許される限りつづられる。
夢は一瞬だ。
白昼夢は一瞬で融けて消える。
けれど、その夢の残滓は猛毒の棘となって胸に突き刺さる。
記憶は残る。
痛みは残る。
触れていたすべての現実を、《夢》に返すことなどできないから。
それぞれがそれぞれの幻の中にいながら、それぞれが確かに彼女の抱く幻の中にいた。
彼には、これほどに茨を成長させる圧倒的な悲しみの理由、取り返しのつかない痛みが訴えるものは一体何なのか、気づき、理解できていた。
『……あなた達はそうやって、誰かのために何かをする……でも、考えてくれたのかしら……』
誰も、答えられない。
誰も、彼女の問いに言葉を返せない。
『シリアルキラーとなった女性には悲しい事情があった。操られ、自らの意志ではなく、人を殺めたのだそうよ……』
彼女の白い頬に伝う涙は、とめどない。
『でも、どうして、許すの? どうして救うの? どうして、償わせないの? どうして、勝手に、無罪にしてしまうの!?』
それは糾弾だ。
『あの人を殺したの、あの女はあの人を殺したのに、ねえ、討伐依頼が出たはずじゃない、断罪させるための依頼が出たはずじゃない、なのにどうして許されたの、あの女の抱える背景がかわいそうだから、だから全部許されたの?』
それは告発だ。
『……どうして……この街は……罪を犯した人間に、やさしいの……? どうして、勝手に赦しを与えてしまうの?』
それはまさしく、嘆きだった。
『わたしは、赦してなんか……いないのに……』
そして、彼女は問いかける。
『あの人を失って、あの人を殺した存在が赦されて、あの人を思い出にすることもできない、あの人の仇を討つことすらできないわたしに、夢を見る以外になにができるの?』
教えて、と彼女は繰り返す。
『……闘えるなら、その力があるなら、いいのかしら……あの人を奪った存在を、あの人の仇を、取ることができる強さがあれば、よかったのかしら……でも、それができなかった……のに……』
繰り返す。
『……愛する人を失って、それでも、生きていく意味があるの?』
深い深い嘆きをまとい、深い深い哀しみに溺れながら、喘ぐように問いかける。
無数の棘だ。
これは、喪失が生み出す罪の棘。
「わたしにはないわ」
そんな《彼女》の哀しみに、最初に応えたのは翼姫だ。
誰よりも早く、翼姫は彼女の問いに答えを返した。
「あんたが幸せな夢の中で死ねるなら、わたしはそれでいいと思ってるわ。起きる必要なんかない。生きる必要なんかない。自分の世界が終わったって言うなら、終わらせてしまっていいじゃない」
翼姫はきつい視線をそのままにして、けれど真摯に、そして本気で答える。
「大切な人の夢を見続けて死ねるなら、いいじゃない」
「……僕にも、ないと思います……あの人を失ってしまったら、僕の世界はすべて滅びる気がします」
ルースフィアンが彼女のセリフに続く。
「ですが……また、歩き出せたら、できるならまた歩き出してほしいとも、思います」
「いつか別れが来るわ。それはわかってる。でも私はそれを受け止められるだけの強さがほしいって思ってる……出会ったことを後悔するような、そんなことはしたくない」
須美はかつて、ムービースターと同じ存在になるために自ら死を選び、スターとして実体化した女性に出会っている。
この街には、悲恋があふれているのだ。
この街には、いずれ来る喪失の記憶があふれている。
その日が来たらきっと自分は耐えられない、きっと立ち直れない、きっと泣いて泣いて泣き続ける。けれど、それでも、いつか顔をあげ、立ち上がりたいと思う。
「……それに……大切な人を奪った人間が誰かによって殺されたら、それで気が晴れるかどうかは分からないけど、でも、どこかできっと後悔すると思う」
須美はたくさんの事件を目にしてきた。そのほとんどは《フィクション》と呼ばれる世界の話だ。
けれど、虚構の境界がどこにあるのか、いまの須美には分からない。
たった今体験してしまった《喪失》の痛みにすら、こんなにも苦しく、心が乱されるのに。
「……私は、きっと、後悔する……復讐をしても、きっと、ずっと、後悔し続けるわ」
大切な人を失って、悲しみの海に溺れて、夢に逃避して、けれどそこにもっと複雑な思いが絡んでくる。
追体験がもたらす痛みの中で、それでも須美は自身の想いを、考えを、貫き、言葉に変えた。
「泣いたっていい。怒ってもいい。八当たりだって受け止める。だから、お願い。眠っているくらいなら、前に進んだ方がいいと思うから」
須美は半ば泣きながら、手を差し伸べる。
いつか来る喪失の時。
いつか来る、別れの日。
夢が醒めたそのあとに続く日々のために、須美は彼女の手を握りたいと願った。
だが、それ以上の言葉は続かなかった。
ほんのわずか、沈黙が訪れる。
沈黙を埋めるように、スクリーンからゆるやかなエンドロールが流れ始めている。
甘やかな、やさしい音楽だ。
包み込むようなやわらかさを持つ音色の中で、エドガーが沈黙を破る。
「……愛する人を失って、それでも、俺は生きているよ」
彼は須美を見、翼姫を見、ルースフィアンを見、それから彼女を見、そして彼女の手を取った。
静かに彼女の瞳を見つめ、できる限り静かな声でやさしく諭すように語りかける。
「俺も大切な人を亡くした。幸せにすると約束した彼女は、俺の知らない場所で車の事故で永遠に失われてしまった」
語るのは、自身の記憶。
「彼女なしでどうやって生きていけばいいんだろう、何の為に生きていかなればならないのだろうとずっと思ってきた。彼女なら俺に生きろと言うだろうと、そういう考えに至るまでに…沢山の時間がかかった」
エドガーの瞳は静かな揺らめきを宿している。
「そして、俺は彼女を奪った存在を探し続けた。ずっとずっと、DP警官という立場を利用して、ずっと探し続けて……それが生き甲斐になっていたんだと思う。そして……」
一度、言葉が切れた。
途切れた言葉は、もう一度紡ぎ直される。
「そして、彼女を奪った存在を殺した。……もう一人の自分がね。俺の中のもう一人の俺が、犯人を殺してしまった」
誰も口を挟まない。
「後悔、に近いのかもしれない。今までしてきたことすべてが虚しく、哀しく、痛かった……」
誰もエドガーの言葉を遮らず、彼女もまた、エドガーの手を振り払わなかった。
彼女はじっと、エドガーを見つめている。
「誰かを赦すのは、口で言うほど簡単じゃない。死を受け入れるのは、喪失を受け止めるのは、けして簡単じゃない。だけど、いつかわかるはずだよ」
彼女の瞳も揺れる。
「無理に思い出に変える必要はないけど……君はきっと、君を思い、待っていてくれる存在に気づけるはずなんだ」
かつて自分がDP警官の仲間たちの言葉によって絶望の淵から生還できたように。
「大切なものを失うのは辛い。けれど――時間は流れ続ける。失ったものは二度と戻ってこない。だからこそ、その人の分まで生きなければ、その人との思い出をずっと大切にしなきゃって思うんだよ……」
告白は終わり、祈りと願いは言葉となって彼女に差し出された。
彼女は何も言わない。
誰も、何も言えない。
再びの沈黙。
答えを出すには、もうひと押しが必要なのかもしれない。
スクリーンに、幸せそうな妹を見つめる、『兄』の顔が映し出される。本のワンカットではあったけれど、その視線は優しく、どこか晴れ晴れとしていた。
映画の中で、映画館が映し出される。
潮騒が、エンディングの曲に重ねられる。
「……私は……」
ついに、ランドルフが口を開く。
「私は……私はむしろ罰せられるべき存在なんです。だから、幸福を奪われた相手がそう望むなら断罪されてもかまわないとすら思っています」
最後にランドルフの告解にも似た思いが言葉となって紡がれる。
「たぶん《彼女》もまた、そうだと思います。対策課の方にお聞きしました。《彼女》はあなたを探しているんです。ずっとずっと、罪を償うために、あなたから断罪を受けるために、あなたの居場所を探しているんだそうです」
そう告げて。
「あなたが死ねと言えば、きっと彼女は死ぬでしょう。そんな気がします。……あの日、私も罪を犯しました。その罪の枷はいまも重く私を縛ります。私が幸福を奪った相手が望むなら、迷わず、死を選びます」
言葉と思いを重ねて。
「そんな私が言うべきことではないかもしれません。でも……」
それでも、と彼は言う。
「……どうか……あなた自身が幸せに……あなたが失われることで、あなたの大切な人が悲しむ、それは、あまりにも耐えがたいです……」
彼女は戸惑っていた。
彼女は泣き腫らした目を向けて。
戸惑いながら。
葛藤し。
それでも、差し出された手を握り返した。
実態を伴った幻が、選択した。
「……それでは……最後の除去作業に移りましょうか」
ルースフィアンはそっと視線を逸らし、呟く。
彼の指先から、限りなく透明に近い蒼の色彩を持つ《氷の蝶》が生まれ、まるで花びらのように客席に舞い上がる。
振り撒かれるのは、氷の粒子。ダイヤモンドダスト。キラキラときらめく、幻想の青の色彩。
幻想を、幻想で包み込む。
氷の内にすべてを閉じ込める。
茨が枯れる。
時計の針が凄まじいスピードで進むように、茨は氷に覆われ、水分を失い、干からびて、枯れていく。
蒼い花をつけていた緑が瞬く間に純白に覆われ、氷像に変わり、ピシリと小さくひび割れながら、崩れ、壊れ、枯れていく。
誰もが息をのみ、それを見守った。
まるで芸術だ。
哀しいくらいに美しく繊細な光景だった。
嘆きの言葉を落とす彼女の幻も、エドガーを染める鮮血も、翼姫と須美が抱いていたプレミアフィルムも、ルースフィアンが持つチョーカーも、ランドルフが握るブックマーカーも、氷の蝶たちに触れて、消えた。
すべて幻。
すべてが夢。
悲しく切なく痛く刻み込まれた喪失の記憶は、閉じ込められ。
封印される。
後にはただ、壊れかけた映画館と、喪失の棘を受けながらも立つものたちだけが残されるのだ。
何が正しかったのか。
どうすればよかったのか。
本当のところは誰にもわからない。
それでも。
茨は消えた。
そして、嘆きの海の溺れた一人の女性が、深すぎる眠りから抜け出すことを選んだ――
*
一夜明けて、茨に取り込まれて映画館は、あちこちに傷跡を残しはしたが、それでもただの映画館に戻っていた。
ランドルフは作業着姿で、知り合いの工場から貸し出してもらった機材をいくつも抱え、扉の前に立つ。
もしも《彼女》が望むなら、修復作業をしようと決めていた。
彼女はここが残ることを望んだ。
ならば、それに応えたい。
茨に浸食されたこの建物は、至る所に崩壊の兆しが見える。どこまでやれるかはわからないが、やりたいと願った。
「手伝うよ、ランドルフ」
「エドガーさん!」
心底驚きの声を上げるランドルフに、エドガーは軽くウィンクで返す。
「こういうことはさ、やっぱり大人数の方が効率がいい。もうすぐ俺の仲間も来てくれる。復旧作業に最適な人材に声をかけてきたつもりだよ」
「……エドガーさん……」
かつて大切な友人を食い殺し、同じく大切な友人だった彼女の婚約者をも不幸にしたランドルフ。
かつて婚約者を悪質な交通事故で失い、もうひとりの自分という存在でもって彼女を奪い去った相手を殺してしまったエドガー。
喪失の棘は、そう簡単に抜けてなどくれない。
喪失の棘がそう簡単に存在を忘れさせてなどくれない。
それでもふたりの、まるで正反対の立場に立たされていたふたりの男たちの行き着く願いの先は、同じなのかもしれない。
「少し、重すぎる事件だったね」
「……はい。それでも、あの人が生きることを選んでくれて、よかったと思っています……」
「ところで、知っているかい?」
「はい?」
「君が対策課に探してもらっていた《彼女》だけど……この映画館で眠っていた彼女との邂逅が実現するそうだよ。……少し、時間はかかるだろうけどね……」
「……そう、ですか」
その時、彼女は許せるだろうか。時間はかかっても、許せたらいい。赦して、幸せになってくれたらいいと、願う。
罪は罪だ。
けれど、この街にあふれる罪は、当たり前の法律ではもう裁けない。
裁けない罪を裁くにはどうしたらいいのか。
どうすることが正しいのか。
断罪の鐘は聞こえない。
ただ、悲しい彼女の嘆きを受け止めて、切ない彼女の痛みに寄り添って、すべてが思い出となる日を待ち続ける。
誰が罪を決めるのか。
誰が罪を許すのか。
「ああ、他の人も来たみたいだ。考えることは一緒なのかな?」
「あ」
きらめく太陽の光の中で、潮騒を聞きながら、須美や、ルースフィアン、翼姫、そしてそれぞれの友人や同僚と思われる者たちが道具らしきものを手にしてこちらに向かってやってくる。
その中にはカエル男爵の姿もあった。
*
カタカタカタカタ……
映像が流れる。
フィルムがカタカタと音を立てながら、スクリーンに《画》を映し出していく。
彼がそこにいた証、彼が確かにここにいたという証――プレミアフィルム。
それが映し出すのは、楽しそうに笑いあう、ひと組の男女。
背景に見えるのは、絶望の跡地に生まれた平和記念公園の花畑だ。
ふたりは手を取り合い、幸せそうに、さまざまな願いと祈りと希望が込められ咲き誇る花々を眺めていた。
これは幸せの記憶。
キラキラと輝く、大切な記憶。
『ねえ、夢が醒めるその日まで、ずっとずっと、幸せでいましょう?』
END
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クリエイターコメント | はじめまして、こんにちは。お世話になっております。 このたびは《忘却の森の茨》シナリオにご参加くださり、誠にありがとうございます。 事前アンケートの結果は、あのような演出に代えさせていただきました。 古びた映画館での悲恋の物語、彼女が抱える喪失の痛みから生み出される青い花の幻覚、繰り返される問いへの答え、いかがでしたでしょうか? お待たせした分も含めて、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
>臥龍岡翼姫さま 突入の理由と、唯一《眠り姫》の目覚めを反対するアプローチが実に印象的でした。 ひたすらに《その人》だけを想う姿、信頼と愛情に裏打ちされた情熱が行動となって表れるのだと思った次第です。 これまで過ごしたきた場所とはまるで勝手の違うステージでの日々が幸福なものでありますように。
>ランドルフ・トラウト様 7度目のご参加ありがとうございます。お世話になっております。 細やかな気配りと《眠り姫》への言葉に切実さと誠実さのこもった優しさを感じました。 《失いたくない相手》への切ないまでの想いとともに、かつての記憶(映画内)と今の記憶が混ざり合うような演出とさせていただきましたがいかがでしたでしょうか?
>朝霞須美さま 4度目のご参加ありがとうございます。お世話になっております。 《喪失を体験する側》になることがほぼ確定しているゆえに、今回の事件には複雑な思いを抱えられることになるかと思います。 それでも『出会ったことを後悔したくない』と言える強さと少女らしさが素敵でした。
>エドガー・ウォレス様 2度目のご参加ありがとうございます。先日は丁寧な感想メールをありがとうございましたv 《眠り姫》へと掛ける言葉の数々、問いかけに対する答えは、同じ立場に立たされたものとして非常に真摯で胸に来ました。 共感と愛情を持った《眠り姫》への想い、ありがとうございました。
>ルースフィアン・スノウィス様 銀幕市に来たことで幸福を知ったというスタンスが素敵でした。 生きる意味として出会えた《失いたくない相手》との甘く愛情に満ちた日々が少しでも長く続きますようにと、祈ってしまいます。 魔法の描写をいろいろ捏造しておりますが、イメージに沿うものとなっておりますでしょうか?
それではまた、銀幕市のいずこかで皆様とふたたびお会いすることができますように。 |
公開日時 | 2009-01-22(木) 18:50 |
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