★ 【神ナル音ゾ、響キヲリ。】Seasons of Love ―コオニノナミダ― ★
<オープニング>

 一週間後に行われるライブコンサートの、もう何度目かも判らないリハーサルの帰りだった。
 神音(ジンネ)は、ひとりで帰すのは心配だと言い張り、今生の別れのように縋りつく久我正登(くが・まさと)を、溜め息とともに足蹴にして帰途についていた。
 例え『化け物』と親しみと驚愕を込めて呼ばれるほど童顔であれ――何せ二十歳を超えた辺りからまったく顔が変わっていない――、今年で三十七歳になった、それなりに修羅場を潜って来てもいる人間に、ひとりで帰すのが心配もくそもない。
 ヒトの精を啜る怪物に長期間囚われていた後遺症なのか、時折ぼうっとするようになった正登に、むしろ心配なのはお前だと言ってやりたかったが、彼は神音の話をあまり聞かないので言ったところで無駄だろうとも思う。
「……一体どこでああなったのやら……」
 まったくもって人間の運命というのはよく判らない、と、溜め息とともに呟くと、
「お疲れですか、お客さん?」
 軽い笑い声とともに、バックミラー越しにタクシー運転手がこちらを見る。
 神音は苦笑して首を横に振った。
「この程度で疲れるほど、やわではないな」
 せめて自動車を使って帰ってくれという、血涙でも流しそうな正登の言葉に渋々従って、神音は、銀輪タクシーという会社の車両に揺られていた。
 運転手の名は御先行夫(みさき・ゆきお)、コメディなのかオカルトなのかよく判らない映画から実体化したというムービースターで、ホラーが大の苦手だというのに、心霊現象に好かれるという、なかなかに難儀な体質の持ち主であるようだ。
「おや……そうなんですか、羨ましいですねぇ。私なんか、最近、つかれやすくって」
「……憑かれ易い?」
「ち、違います、疲れ易い、ですよ!」
 ものすごい勢いで否定する御先にかすかな笑みを漏らし、神音は窓の外へ目をやった。
 月光に照らされた夜道を、ゆったりとタクシーが行く。
 夏の暑い盛りではあったが、夜も更けた今、深い森の傍らを走っているのもあって、大きく開けた窓から流れ込んでくる風はひんやりと心地よい。
 虫の音が静かに聴こえてくる、穏やかな光景に、たとえ夢の神の魔法によって閉ざされているのだとしても、ここは平和だ、と思う。
 ――日本という国は、外の国に比べると、驚くほど平和だ。
 特に今の時代、この国にいて、命が紙のように軽い、と感じることは少ない。
 無論、まったく感じないわけではないが、少なくともこの国には自由があり、幸いがあり、豊かさがある。
 豊かさによって生み出される数々の悲劇、この国の根本を腐らせもするそれらを否定は出来ないが、ここでは、戦渦に巻き込まれて死ぬことも、国家の横暴によって家族を理不尽に奪われることも、ほんのちょっとした病を癒す薬さえ手に入らずに死ぬことも、飢えや渇きによって死ぬこともない。
 この国の人々はそれを理解しているのだろうか、などと考え、半々だろうと結論付ける。
 生きる喜びを理解し自覚している人間は、自分が生かされていること、自分が幸いであることにも気づくことが出来るだろう。反対に、恵まれているがゆえに自分が世界中から生かされているのだという認識から遠い人間は、己が幸せだということを真実理解は出来ていないだろう。
「畢竟、己を位置づけるのは思惟のみか」
 呟いた神音が、ふと見遣った森の奥に、崩れかけた石段を見い出して――神音は恐ろしいほどに眼がよく、また夜目が利くのだ――、あれは何だろうと首を傾げた時、

 ア、ァ――……アア、ア――……ン……

 声が聞こえた。
 子どもの泣き声だった。
 身も世もない、といった風情の、哀しい声だった。
「……?」
 神音は再度首を傾げ、周囲を見渡した結果、声はあの石段の方から聞こえた、という結論に行き着くと、
「……止めてくれ」
 御先に告げて、タクシーを停止させた。
「お、お客さん?」
「降りる、ここでいい」
 釣は要らないと一万円札を渡しつつ、石段を見上げる神音を、御先はいっそ面白いほど腰が引けた様子で観ている。
「ど、どうなさったんですか……?」
「……いや」
 幽霊嫌いの男に、子どもの泣き声が聴こえたから観に行って来る、などと言っても怖がらせるだけだろうと思い、肩をすくめるに留める。
 そして、
「ちょ、お客さん! 危ないですって……ちょっと、ホントに知りませんからね……!?」
 御先の声を背中に受けながら、躊躇なく暗い森の中へ踏み込んでいく。
 恐怖という感情は、神音からはもっとも遠い。
 ただ、他者の哀しみが、神音を動かすのみだ。



 ァア――……ン、アァ、ア……ン、アー――……ンンン……

 どこかで子どもが泣いている。
 ひどく哀しげな、悲痛な泣き声だと思いながら、久我正登は石段を駆け上がり、あちこちを探した。
 目当ての人物が誰か、など、今更問うまでもないだろうが、そのときの正登の胸中といえば、心配のあまり心臓が張り裂けそう……と表現するのが正しかった。
「神音! 何でこんなところにいるんです、皆どれだけ心配したか……!」
 神音を直前まで乗せていたというタクシー運転手の言葉がなければ、正登もここへは辿り着けなかっただろう。
 神音は、廃れ世話をするものがいなくなって今にも消え失せようとしている小さな山寺の一角の、ごつごつとした岩場に胡坐をかいて座り、朽ちて腐った木枠で囲われた大きな穴に向かって、小さな声で何かを歌っていた。
 何の歌かと考えて、それが子守唄だということに気づき、何故か、ほんの一瞬ゾッとしたが、それも、神音が、不思議なブロンズ光沢のある漆黒の双眸を自分に向けると同時に、嘘のように霧散した。
 神音の歌声は、どこで耳にしても、思わず恍惚となるほどに美しい。
「正登」
「まったくこれだからあなたは目を離せな――……はい?」
「天明の飢饉を知っているか」
 正登は首を傾げた。
 残念ながら彼は、小学校から大学にかけて、勤勉や優秀な成績などと言った単語とは無縁だったのだ。
 お陰で、それが何という科目の何という教科に出てくる言葉なのかすら判らない。
「テンメイノキキン? って、なんです? 競走馬にいそうな感じですけど」
「そんな嫌な名前の競走馬に誰が賭けるのかと問い詰めたいが……しかし、自国で起きたことを知らないなんて、お前は日本人じゃなかったのか。ということは、実は宇宙人か?」
「百歩譲って日本人ではないとしても、そこで宇宙に飛ぶ神音が判りません。それどこの国籍ですか」
「国かどうかはさておき、そのくらい理解出来んと思っただけだ」
 不思議な質感の眼で、ぼろぼろになった赤い布と木切れ、そして元々は注連縄か何かだったのではないかと思われるものの残骸で彩られた、ぽっかりと口を開く奇妙な穴を見つめつつ、神音が溜め息をつく。
「――……そうか」
「えっ?」
 誰に対して言ったのか判らず、正登が眉をひそめると、神音は褐色の指でその穴を指差した。
「ここに子どもがいる」
「――はぃ?」
 突拍子もない物言いに、正登の声は裏返った。
 正登が目を凝らして見ても、そこには何も見えない。

 あーん、ああーん、あーん。

 どこかから子どもの泣き声が聴こえてくる。
 背筋が冷やりとした。
「神音、冗談は、」
「どこかで大きな山が噴火して暑い夏が来ず、稲や野菜が育たなくなって、何百人もの村人が餓死したと言っている」
 あまりにも唐突過ぎるそれに、正登は思わず眉をひそめたが、神音がこういう時に冗談や嘘など決して言わないことを、実は知っている。
 事実、神音の表情は変わらず、ただいつものように、淡々と怜悧な、どこまでも透徹した眼差しで、穴の先を見つめているだけだ。
「……『かれ』もまた、その犠牲者なのだそうだ」
「『かれ』……」
「『かれ』らを慰めていた寺が朽ちて、『かれ』は目を覚ましてしまったのだそうだ。――もっとも、『かれ』がここまでくっきりと己を持ったのは、あの御先という運転手の力のようだが」
「それは、どういう……」
「正登」
「……はい?」
「私は、『かれ』に、救われて欲しい」
「神音、」
「――……それまでは、ここを動くまいと、そう決めた」
 正登は絶句するしかない。
 神音が「決めた」といえば、もう、他の誰にも覆すことは出来ない。
 しかし、各方面へ走り回り、ようやくこぎつけたライブコンサートまではあと六日。
 時間など、幾らあっても足りない時期なのだ。
「神音、それは」
「もう決めた。――……なあ?」
 声をかけたのは、正登にではない。
 無駄と知って反論しようとした正登が、神音の視線の先を見遣った時、ぽかりと口を開いた穴の暗闇の中に、骨と皮ばかりになった、齢六つほどの少年が、虚ろな眼窩から血の涙を流してこちらに手を伸ばしている姿が見えた――……ような、気がした。
 冷水をぶっ掛けられたかのような悪寒が全身を包む。

 怖い、死にたくない、寂しい、寒い、出して、生きたい、死にたくない、怖い、怖い、寂しい、寂しい、出たい、寂しい、怖い、怖い、苦しい、寂しい、寂しい、死にたくない、憎い、生きたい、苦しい、寂しい、寂しい、憎い、寂しい、寂しい、寂しい、寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい

 同時に、誰かの感情が、意識の中に、直接響いた。
 あまりにも強く、あまりにも哀しい、切りつけるような痛みを伴った感情の塊だった。
「……ッ!?」
 結果、正登がしたことといえば、山から飛ぶように降り、駆け込んだ市立図書館で書物を引っ繰り返してこの周辺の歴史を調べたのち、これはムービーハザードではないと知りつつも対策課へ駆け込む……という一連の流れだった。



 神音が語った話を元に、正登が必死に調べたところ判ったのは、以下のようなことだ。
 天明の飢饉と呼ばれるそれは、西暦1781年から89年にかけて起きた。
 1782年の大凶作に始まって、関東地方での洪水、浅間山の噴火、全国的な冷害などが重なったことによって引き起こされた、当時で九十万人以上の命を奪った大飢饉だ。
 『かれ』はとある貧しい農村の子で、ここが銀幕市という名前になる二百年以上前、この周辺もしくはここから少し離れた集落に住んでいたのではなかろうかと推測された。
 朽ちて崩れるのを待つばかりだった山寺の縁起を、銀幕市立図書館にある蔵書庫の奥の奥から引っ張り出したのは正登の執念だったが、専門家に判り易く説明してもらい、何度か山寺に足を運んで神音の話を聞き、全体的な事情を理解して正登は絶句した。
 同じ日本という国で、こんなことが起きていたのかと思うと、やりきれない。
 『かれ』の住んでいた村は、やはり大凶作に見舞われ、来年の稲作のために取っておかなくてはならない籾や、ワラ餅と呼ばれる非常食とすら思えない非常食さえも食い尽くして、飢えて死んだ牛馬にまで手を出していた――当時は仏教が深く根ざしていたから、人々は獣肉を食うことを忌避していたはずなのに、だ――。
 『かれ』は、家族の中では、どうやら末っ子か、もしくは下から数えた方が早い立場の子どもであったようだった。
 ――食い詰めた親は、年長の子どもたちを生かすために、『かれ』を『間引く』ことにした。
 『かれ』は、他の、同じような境遇の、同年代の子どもたちとともに、あの、一度入れば自力では出られない穴に棄てられた。殺さずに棄てたのは、親の慈悲というより、残酷な不甲斐なさだった。
 滲み出す雨水を舐めて渇きは凌いだが、飢えばかりはどうしようもない。
 衰弱した子どもがひとりまたひとりと死んで行き、残された子どもたちは、飢えの苦しみ、死の恐怖に耐え切れず、死んだ子どもたち、つまり仲間であり友人であったものの肉を喰らったのだという。
 今でもあの穴からは、カラカラに干からびた骨の鳴る、寒々しい音が聞こえるのだという。
 『かれ』は、恐らく、最後まで生き残った子どもだった。
 ふたりきりになって、死んだら自分も食われるのだと怯えながら、相手が死ねば食えるけれど、同時に自分はひとりきりで取り残されるのだと怯えながら、死にたくない、死ねば自分は地獄へ落ちるのだと泣きながら、最後からふたり目の子どもが衰弱死するのを、なすすべもなく見ていたのだろう。
 ――そして、飢えに耐えかねて、その肉をも喰らったのだろう。
 ヒトを食えば地獄に落ちる。
 生活に根ざした宗教は、『かれ』に地獄の恐ろしさを刻み込んでいた。
 死にたくない、地獄に落ちるのは嫌だから死にたくないと思い続けた『かれ』は、あまりにも強く思い、生きたいと渇望した『かれ』は、恐らく、肉体が死んだことにも気づかず、あそこに留まり続けている。
 その在り方がもうヒトではないことにも気づかず、血の涙を流しながら留まり続けている。
 それが、『かれ』なのだ。
 本当はもう少しぼんやりしていた『かれ』の、自我を含む輪郭があそこまでくっきりしたのは、神音の言う通り、御先というタクシー運転手の体質的な能力のようだが、それでも、あの穴の中で子どもたちが死んでいき、ひとり生き残った幼子が、終わりのない慟哭を上げ続けていることに変わりはなかった。
 あそこに寺が建てられたのも、棄てられ、死んでいった子どもたちを憐れんだからというよりは、何も出来なかった大人の後ろめたさと、十年経っても二十年経っても、百年経っても、子どもが泣く声が聞こえ続けたという理由からなのだろう。
 正登はそれらをとても憤り、憐れには思ったけれど、同時にそれらは彼の理解の範疇を越えていた。
 『かれ』は人間を、友人を食ってまで生き延びたかったのかと神音に言ったら、無表情に激怒した神音に本気で殴られた。
 世界中のあちこちで、一体何をしているからなのか、細身に似合わぬ腕力を持つ神音に手加減なしで殴られて、正登は木っ端のように吹っ飛び、頭を打って瘤をこしらえた。
 普段から暢気で気の長い神音が怒るというのはそれだけで珍しいことで、とても大切な何かを見落としていたのだろうと正登は思ったが、何故殴られたのかは、彼には判らなかった。
 ライブが近いのもあってイライラを抑え切れなかった正登が、だったらどうしろって言うんですか、と怒鳴ると、神音は普段と何ら変わりのない眼差しで穴を見つめたまま、それで『かれ』を救えるのかどうかは判らないが、たくさんの答えが欲しい、とだけ言った。

 正登は、それを、そのまま依頼に持ち込んだだけだった。

種別名シナリオ 管理番号689
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメント皆さんおはようございます。
新しいシナリオのお誘いに上がりました。

今回、プレイングに必要なほとんどの情報はオープニングに書いてありますので、背景について詳しくは語りません。それぞれに調べ、またそれぞれに想像していただければ、と思います。

神音が皆さんに今回お願いしたいと思っているのは、あの穴に縛り付けられた『かれ』を、どうにかして救って欲しい、楽にしてやって欲しい、というものです。『かれ』は見える人には見えるし、見えない人にはまったく見えないようです。中には、声を聴ける人もいるかもしれません。
『かれ』はムービースターではありません。あの穴はムービーハザードではありません。『かれ』は過去に生きていた少年の残滓であり、あの穴は『かれ』を縛り付ける悲嘆と悔恨という名の牢獄です。ゆらゆらと漂っていたそれをはっきりとかたちづくったのは御先さんですが、彼は今回、OP以外には出てきません。

皆さん、どうか『かれ』を、どうにかして、解き放ってやってください。
『かれ』の苦しみを、どうにかして取り除いてやってください。

方法は皆さんにお任せします。
それを、『かれ』へ抱く感情とともに、プレイングにお書きください。
『かれ』のそれは罪だったのか、『かれ』は本当に地獄へ行くしかないのか。
飽食の時代に生きる私たちは、『かれ』に、一体どんな言葉がかけられるのか。
……とても難しい問題だと思います。
それを、どうということのない、ちっぽけでつまらない問題だ、と片付けてしまえる方のご参加はお勧めできません(充分に描写がされない可能性があります)。
また、このシナリオは、プレイングの優劣・濃淡によっては、登場率に極端な高低差が出る可能性があります。ご理解・ご納得の上で、PCさんPLさんの思いを尽くしてご参加いただければ幸いです。

ちなみに、このシナリオに戦闘はありません。
血湧き肉踊る冒険もありません。
深く静かに、『かれ』と『かれ』のために集った人々の、様々な感情や行動を描写させていただこうと思っていますが、しかし、力尽くの浄化を目論まれる方に関しては、神音が敵に回るかもしれないことだけ覚え置きください(もちろん、それを目当てにしていただいても問題はありませんが)。

もうひとつ、出来ることならば、PCさんとしての行動、考え方と一緒に、PLさんご自身のお考えを、どこかでお聞かせ願えれば嬉しいです(ノートを使ってくだされば拝見します)。

なお、このシナリオには、明確なモティーフが存在します。
そのモティーフによって、たくさんの答えが知りたいと願ったのは私自身でもあるので、似ているというよりはほとんどそのままに近いかもしれません。とても有名な作家さんのお話なので、内容をご存知の方もおられるかも知れません。
しかしながら、作中での流れが、そのまま正解にはなり得ないことをお知り置きくだされば幸いです。



それでは、皆さんからの真摯なプレイングをお待ちしております。

参加者
太助(czyt9111) ムービースター 男 10歳 タヌキ少年
スルト・レイゼン(cxxb2109) ムービースター 男 20歳 呪い子
シルクルエル(cpac3895) ムービースター 女 17歳 <宵>の代行者
続 歌沙音(cwrb6253) エキストラ 女 19歳 フリーター
リゲイル・ジブリール(crxf2442) ムービーファン 女 15歳 お嬢様
薄野 鎮(ccan6559) ムービーファン 男 21歳 大学生
ルウ(cana7787) ムービースター 男 7歳 貧しい村の子供
<ノベル>

 0.天望

「――……あら」
「どうしたの?」
「ねえ……ほら、子どもが泣いているわ」
「本当ね……なんて哀しそうなのかしら。どうしてあんなに苦しそうなのかしら。子どもの義務など、幸せであることくらいしか、ないものを」
「けれど、それを忘れて久しい大人がいることも、事実なのでしょうね。いつの世も、人の子が泣く姿には、胸を塞がれるわ」
「ええ……わたくしもよ」
「わたくしたちに、何か、出来ることはないかしら、アムラ?」
「そうね、わたくしもそう思うけれど、わたくしたちのようなものが滑稽ではなくて、ハルワ?」
「ええ……そうね、滑稽なことだわ。今更何を、と、師ならば仰るかもしれない。――けれど」
「……そうね」
「これもまた結晶だとは、言い得ないかしら」
「人の子らが、どう考え、どう結ぶのか?」
「ええ、そうよ。“あの方”をお呼びするだけの力にはならずとも、わたくしたちの望むものを見ることは出来るかもしれない」
「……醜い利己だわ。とても醜い望みね」
「そうね、わたくしは醜いの。己が渇望のためにならば、他者を犠牲にすることも厭わないと決めたのよ」
「それは、わたくしもよ。それこそが、今やわたくしの糧なのですもの。――そうね、今更、醜悪な利己のひとつやふたつ、何だと言うのかしら」
「ええ、ならば……アムラ」
「ええ、ならば……ハルワ」
「力を貸しましょう、ほんの少し」
「あの雨の日に、心と記憶をつなげる手伝いをしたように」
「わたくしたちの望む結晶のために」
「――願わくは、心が届くように」



 1.昏(くら)い穴

 ァア――……ン、アァ、ア……ン、アー――……ンンン……

 どこかで子どもが泣いている。
 ひどく哀しげな、悲痛な泣き声だと思いながら、朽ちかけた廃寺を横切った続歌沙音(つづき・かさね)が、件(くだん)の穴の元へ辿り着いた時、依頼主である神音の周囲には、対策課から話を聞いてきたのだろう、見覚えのある顔が幾つもあって、その誰もが、どうとも表現し難い、沈痛な面持ちで穴を見つめていた。
 歌沙音は、穴の縁に花を供え、ゾッとするほど暗く深いそこへ視線を投げかけて、自分には何も見えないことを確認し、小さく息を吐いた。
 せめて姿が見えれば、声が聞こえれば、話が出来れば、そう思う。
 あふれるほどに、伝えたいことが、あるのに。
「訊きたいことがあって来たんだ」
 歌沙音が言うと、穴のすぐ傍で胡坐をかいていた神音と、その膝の上に乗って穴を覗き込んでいた仔狸の太助(たすけ)、黒髪に白いターバンのようなものを巻き、両腕を包帯に覆われている細身の青年、ジャーナルなどでよく見かける赤い髪の少女リゲイル・ジブリールと、彼女の衣装の裾を掴んできょろきょろしていた青い目の少女――出で立ちからして少年かもしれない――とが、一斉に彼女を見上げ、また見つめた。
「きみは?」
「依頼を受けて来た。続歌沙音という」
「……そうか、ありがとう」
 礼を言われ、歌沙音は首を横に振る。
 まだ、何もしていない。
「それで、何を訊きたいと?」
「いや……あなたが、どうしてそんなに『かれ』を救おうとしているのかと、思って」
「……ああ」
「あなたに、――私たちに、一体何が出来るんだ。もうここに命はないんだ、『かれ』が、生きている時どんな人間だったとしても、声は届かないかもしれないのに」
「私は世界中を旅して回っている。世界のどこにも、苦しみ哀しんでいる人間や、泣いている子どもたちがいる。そのすべてに手を差し伸べることは不可能だが、せめて、手の届く範囲くらい、何とかしたいと思うのは当然だろう」
「だけど、『かれ』は」
「……ならば、何故、きみはここに?」
 言いかけたところへ、反対に問われて、思わず詰まる。
 そう、彼女も、判っていてここに来たのだ。
 何が出来るのかと考えて、何かひとつでもしたいと思って。
「……私の知らないところで、そんな風に哀しんでいる子どもがいるだなんて、『かれ』が苦しんだままなんて、嫌だと思ったんだ」
「同じようなものだ。子どもが泣いている、それ以上の理由が、ここにあるか?」
 神音が言うと、その膝の上で髭をヒクヒクさせていた太助が頷く。
「あの子、かわいそうだ。もう、だーれも、苦しめなんて言ってねぇのに、あんまり長いことひとりで苦しみすぎて、どうすればいいのかわかんなくなっちまってるんだ」
「ああ」
「俺、何かしてやりてぇ。あの子が苦しいままなんて、俺もいやだ」
「……そうだな、その通りだ……私も、そう思う」
 太助の言葉に歌沙音は微苦笑した。
 人間の、心あるものの善意とはそういうものなのかもしれない。
 難しい理屈は要らないのだ。
 泣いている誰かの涙を止めたい、哀しみを癒したい、苦しみを消したい。
 そんなものなのかもしれない。
 そして、それでいいのかもしれない。
「わたし……」
 リゲイルが、青い目の子どもを弟のルウだと紹介したあと、
「自分に何が出来るか、判らないけど、来ちゃったから」
 深い、暗い昏(くら)い穴へ、鮮やかな、サファイアのような双眸を向けた。
「どうすればいいのかって、今も悩んでる、けど」
 リゲイルの華奢な手が、ルウの白い小さな手を握り締める。
「おねーちゃん? どしたの?」
 ルウがあどけない仕草でリゲイルを見上げると、リゲイルは困ったように微笑み、ルウを見つめた。
「うん……色々と、判らないことが、多すぎて。もう哀しまないでほしいって、助けてあげたいって思うけど、どうすればいいのか、判らないの」
「んー? るうも、わかんない」
 一般人の歌沙音には、羨ましいを通り越して呆れてしまうほどの大富豪であるリゲイルが、飢えて苦しみ、友人の肉を喰らうに至る心理を、その逼迫した状況を理解出来ずにいるのは、仕方のないことなのかもしれない。だからこそ、彼女は困惑しているのかもしれない。
 しかしそれは、歌沙音も同じことだ。
 空腹を抱えて途方に暮れたことならば、ある。
 けれど飢えたことはない。
 飢饉を経験したこともない。
 空腹が三日以上続いたことはなく、食料がどこにもないはずもなく、また、今の時代、特にこの町は、彼女が苦しんでいれば、誰かが助けてくれる。誰かが手を差し伸べてくれるし、自分もまた手を差し伸べもする。
 ここはそういう世界だ。
 二百年以上昔の、飢えの苦しみ、死への恐怖など、遠いのだ。
 もしも『その時』が来たら、歌沙音はきっと同じことをするだろうと思う。
 歌沙音は死にたくはないし、もっと生きたい。
 どんな後悔に苛まれようとも、友人の死肉を喰らってでも生きたいと願うだろうと思うし、そうすることが、彼女を愛してくれる、愛してくれた人たちに報いることにつながるのだと思っている。
 ――しかし、それは仮定の話だ。
 真実、それを経験したことのない人間が、賢しく『判る』などと言ったところで、無意味だ。
 歌沙音とて、『かれ』の胸中をすべて理解し、その苦しみに寄り添うことは、恐らく出来ない。
「それは、俺も同じだ」
 そう言ったのは、ターバンと包帯を巻いた青年で、彼はスルト・レイゼンと名乗ってから、小さな紙袋をそっと穴の傍に置いた。ふわりと甘い、香ばしい匂いがしたから、菓子か何かが入っているのだろう。
「恐らく、実際に『それ』をなしたことのない人間が、『それ』を真実理解することは出来ないんだろう」
 スルトの黒瞳が、暗い穴へと向けられる。
「なあ、それでも、俺は救われてほしいよ。こんな暗い場所で、泣いていてほしくない」
 それだって単なるエゴイズムなのかもしれないけど、と呟く彼の目は、神音と同じく、静かな慈しみの光を宿して一点のみを見つめていて、歌沙音はスルトが、自分には判らないものを見ているのだと気づいた。
「……きみは、『かれ』が見えているのか」
「ああ。痩せた、小さな、少年だ」
「そうか……」
「声も聞こえる。――名前を教えてもらった」
「どんな?」
「末吉、だそうだ。最後に生まれた子どもだから」
「……そのまんまだね」
 言葉の端に苦笑が滲む。
 栄養状況が悪く、皆が大人にはなれないことを見越してたくさんの子どもを作ることが普通だった時代、その厳しさを肌で感じて知っているわけではないが、末に生まれたから末吉と名づけられ、末に生まれたから、一番小さくて手がかかるから仕方がないと棄てられたのなら、あまりにも憐れだ。
 歌沙音はひとりっ子だから、尚更そう思う。
「私も、顔が見たいな、『かれ』の。それで……話が、出来たらいいのに」
 歌沙音が言うと、リゲイルが頷いた。
 木枠で囲われた穴、畳半分くらいのサイズのそこを、目を凝らして見つめるが、歌沙音には、痩せた少年の姿を見つけ出すことは出来なかった。
 恐らくそれは、リゲイルにも同じだっただろう。
「何にも、見えないね……」
「ああ。……泣き声は、聞こえるけど」
「うん……すごく、哀しい声……」
 咳き込むようにしゃくりあげる声が、どこかから聞こえてくる。
 悲痛で物寂しい、胸が痛くなる声だったが、声の主の姿は、どこにも見えない。
「ないてるよ」
「え、どうしたの、ルウくん?」
「すえちゃん……っていうの。かなしいって、さびしいって、こわいって……ないてる」
「見えてるんだ、ルウくん」
「みえる……わかんない。でも、いるよ。そこにいる。ずっと、ないてる」
 リゲイルのスカートの裾をぎゅっと掴み、ルウがぼそぼそと言う。
「るう、すえちゃんがかなしい、るうもかなしくなる」
「そう……」
 視線を穴に落として、リゲイルがルウを抱き締めた。
「俺、においとけはいはわかるけど……姿は見えねぇなぁ。目を見て、ぎゅってして、はなしがしてぇなぁ」
 鼻をひくひくと動かして太助が言う。
「うん……わたしも、抱き締めてあげたいな。哀しくて寂しくて怖くてたまらない時、そうしてもらったら、わたしも嬉しいもの」
「じゃあ、るうもぎゅうしてあげる。ぱぱがしてくれるみたいに、ぎゅう、する」
 誰もが、めいめいに、穴に閉じ込められ縛られて動けない少年の、ただただ哀しい、寂しい、怖いという感情の残滓、決して彼だけが負うべき責、罪ではなかったはずのそれに寄り添って、今ここに行き逢った身として何かしたいと、このままにはしたくないと、そう思った時だった。

 ひゅおう、と、風が吹いた。

 風が、手入れもされず荒れ、まばらになった木々を激しく揺らしていく。
 それと同時に、

 カラァン、カラン、カラカラカラ、カララ、カラァアン。

 乾いた、乾き切った硬い、軽いものが、同じくらい硬いもののうえを転がり、またはそれにぶつかって立てる、高く澄んだ、涼しげで、何故か寒々しい音が、穴の中で反射して響きあい、聴こえてくる。
「これ……まさか」
 ひどく硬い表情でリゲイルが呟いた。
 少女の華奢な腕が、ルウをぎゅっと抱き締める。
「骨が、鳴ってるの……?」
 穴の底に残された、子どもたちの小さな骨。
 その、小さな小さな欠片が、どこかから吹き込む風によって転がり、岩肌にぶつかって反響し、甲高い音を立てているのだ。
 それは、何と澄んで物悲しい合唱だっただろうか。
 心臓を鷲掴みにされるような、やり切れない感情が込み上げて、
「……底に降りよう」
 歌沙音はそう口にしていた。
「穴を広げて、底に光を入れよう。そして『かれ』を、皆を、出してやろう」
 無茶な物言いだと思う。
 一日や二日でどうにか出来ることでもないだろうと思う。
 しかし、その場に集った誰もが、否定しなかった。
「わたし」
 リゲイルが、周囲の、荒れて石ころだらけになった周囲を見遣る。
「花を植えたい。ここの景色は、寂しすぎるもの」
「ああ……いいな。俺も手伝うよ」
「よし、じゃあ花のたねとかなえ、持ってこねぇとな」
「そうだな、ここを明るくしよう。まず、あの、『かれ』が縛り付けられた穴を、何とかすることからだ。今日明日で何とか、というわけには行かないだろうけど、他のムービースターたちに声をかければ」
 スルトが言い、穴に向かって微笑みかける。
「……心配しなくていい、何とかするから」
 未だどこかから啜り泣きは聞こえていたが、するべきことの方向性が定まったお陰で、歌沙音が感じていた重苦しさ、やりきれなさは、少しましになっていた。
 自己満足でしかなくとも、自分に出来ることを出来る限りやるのだ。
 そうすることでしか、歌沙音は、歌沙音自身の心と、折り合いをつけられないだろうから。
「よし、行動開始だ。――忙しくなりそうだね」
 歌沙音が言い、皆が頷いて、めいめいに行動に移ろうとした時、

 また、風が、吹いた。

(人の子の心は美しいわ、やはり)
(ええ……他者のために哀しむ機能を持っているのだもの)
(それが、獣を超えた人間という種族の本質なのかしら?)
(争い、容易く他者を傷つけるよりも、我が身よりも誰かを慈しめる、それが人間の本質であれば、どんなに素敵でしょう)
(そうね。いいえ……でも、そうあるように、祈っているわ)
(だから、醜い利己と知りながら、わたくしたちは力を貸しましょう)
(結末を作るのは、あなたたち自身だけれど)
(悲嘆に暮れる幼子を、その魂を、どうか、救って)
 そんな言葉が、美しい、エキゾティックで宗教音楽的な音韻を持つ声とどこからともなく届いた、そう思った瞬間、景色が、変わった。

 ざ、ざざざ、ざああああああああ。

 風のような、ノイズのような、そんな音が響く。
「あれ、この音、まえに、どっかで……?」
 太助が首を傾げていた。
 しかし、歌沙音には、それがあまりにも唐突過ぎて、一体何が起きたのか、咄嗟には判らなかった。
「え……?」
 皆、同じだったようで、不思議そうな声が聞こえてくる。
 歌沙音もまた瞠目し、周囲を、そして、目の前に蹲(うずくま)る『かれ』を、見つめる。



 2.ぬくもりとまごころと

 リゲイル・ジブリールは息を飲んで周囲を見つめた。
 ――岩肌が見える。
 薄暗い穴の中に、光が差し込んでいるのが判る。
 光を辿って見上げれば、十メートル以上高い位置に、ぽっかりと、四角く切り取られた空がある。
 穴は遠く、岩壁はあまりにも垂直に切り立っていて、何の変哲もない普通の人間が、自力で、道具もなしにここから這い上がることは不可能だろうと思われた。
 底は、上から見て感じるよりもずいぶん広く、大人が二十人入ってもまだ余裕がありそうだったが、そこにあるのは、石ころとわずかな木の枝、わずかに入り込んだ枯葉、白っぽい小さな欠片ばかりだ。
 妙に意識を引く小さな欠片は、そのどれもが、もともとあったかたちから砕かれたようで、ぎざぎざと尖っていた。
 それがここで死んだ子どもたちのものだということをリゲイルは理解し、胸が詰まるような錯覚に囚われて苦しくなったが、本来は一本の長い状態であった骨を、空腹に耐えかねた誰かが齧って割り、中の髄まで啜ったのだとまでは、判らなかった。
「これ……実体じゃ、ない……?」
 だが、手を伸ばしても、岩壁や石ころ、骨の欠片に触れることはない。
 意識を凝らせば、穴の中の景色は遠ざかり、あの、廃寺の跡地が戻って来る。
 彼女らは、今、巨大な投影機によって創り出されたとでも称すべき、幻の風景の中にいるのだった。
「一体、誰が、これを」
 スルトが不思議そうに呟く。
 もちろん、明確な答えを出せるものはここにはいない。
 岩壁のすぐ傍に、小さな小さなしゃれこうべが、ふたつ、冗談のような無造作さで転がっている。きっと、探せば、もっとたくさん見つかるだろう。
 虚ろな、どんよりと淀んだ闇ばかりが見える眼窩は何ひとつとして語りはせず、ただ、生きた、温かい血肉を持つ彼女らに、お前たちはどうするのかと問いかけるのみだ。
「すえちゃん」
 静かでありながら凄惨な光景に、リゲイルが言葉をなくしていると、ルウが小さく名を呼び、上から光の差し込む、しかし雨には打たれない、ぼんやりと明るい辺りへと歩み寄った。
「すえちゃん、だいじょぶ?」
 そこには、痩せ細った少年の姿がある。
 みすぼらしい、色褪せた、丈の短い着物に、筋張った肢体を包み、少年は、膝を抱えて蹲っている。
「あ……!」
 『かれ』はぼんやりとして、向こう側が透けて見えたが、それでも、泣き声の主の姿が、霊能力などとは無縁なリゲイルにも判るほどはっきりとしたことに変わりはない。
 リゲイルは歌沙音と顔を見合わせた。
 太助が、神音の膝から飛び降り、少年のもとへちょこちょこと走り寄る。
 ルウと太助に気づいたのか、少年が顔を上げた。
 彼は、ひどく痩せて、頬はこけていたが、それ以外は、どこにでもいるような、可愛らしい少年だった。
『あんたたち、だれだ……?』
 声も、聞こえる。
「るうだよ。きたよ、すえちゃん」
 ルウが言うと、少年、末吉の、ぼんやりとした視線が、ルウを見遣る。
『るう。さっき、はなししてくれた、やつか……』
 末吉がちょっとだけ笑った。
 ルウがそれに応えて笑い、少年の隣にちょこんと腰かけると、末吉は照れ臭そうな――しかし嬉しそうな表情をした。
 そういうところは、普通の子どもそのもので、リゲイルの胸はまた痛む。
『へんだな。おれ、さっきまでひとりだったはずなのに。……おれ、なんでここにいるのかな』
 不思議そうに言った彼の姿が一瞬ぶれたかと思うと、その身体が、細い細い骨に土気色の薄い皮が張り付き、ぼろきれがまとわりついた、幽鬼のごときそれへと転ずる。
 リゲイルは息を飲んだ。
『ああ、そうか、まってるんだ。お父とお母がきてくれんのを、まってるんだ』
 しかしそれも、末吉が呟くと同時に戻る。
 末吉は、ぼんやりと穴の入り口を見上げていた。
『はやくきてくれねぇかな。おれ、しにたくねぇ。ひとりでここにいんの、もう、いやだ。はらはへったし、さむいし、さびしいし、こわい。……あれ。でも、なんでこわいのかな。なんでおれ、こわいんだろう? なんで、こんなに、こわくてこわくてしかたねぇのかな?』
 少年は心底不思議そうだった。
 ぎゅっと自分の身体を抱き締めて、今も震えているのに、何故怖いのか、何が怖いのか、判っていないのだ。
 あまりにも長い時間、たったひとりでここにいた所為で、記憶が、意識が混同しているのだろうか。
 たったひとりで、出口のない恐怖と寂しさに震え続けた所為で。
「……」
 スルトが沈痛な面持ちで少年を見つめた。
 彼が、どう伝えるべきかを迷っていることは明白だったが、もちろん、リゲイルにも、何が正しいのかなどという答えはない。自分が死んだことを理解していない、死してなお死にたくないと怯える頑是ない子どもに、何を言えば解き放ってやれるのか、リゲイルには判らない。
 判らないことだらけだ、と思う。
「どうして……」
 彼女がぽつりと言った言葉を聞きつけたのは、歌沙音だった。
「どうした、リゲイル」
「うん、あのね、わたし……飢饉っていうのが、判らなくて」
「そうだね、私にも判らないよ。現代人で、実感として判る人間は、いないんじゃないかな」
「うん……食べ物がないって、どういう気持ちなのかしら。何も食べられないって、食べさせられてあげられないって」
「辛いだろうね。一日どころか、一回食事を抜いただけでも辛いのに、それが永遠みたいに続くんだ。いつ終わりが来るのか、いつ食事にありつけるのかも判らないなんて、私だったら、絶望するんじゃないかな」
「そうよね……わたしたちにとっては、食べられるのが、普通なんだものね。でも、でもね」
「ああ、どうした?」
「飢饉のこと、少し勉強したんだけど、食べるものがないって言っても、日本は広いんだもの、国中探してもどこにもなかったとは思えないの」
「……ああ」
「じゃあ、どうして、持っていた人たちで分け合わなかったのかしら。持っている人たちが、少しずつでも持ち寄れば、『かれ』みたいに苦しまなくて済む人を減らせたはずなのに」
「……ああ、そうだね……本当に、そうだ……」
 対策課で『かれ』の話を聴いた時、こんなにも長い間、ひとりきりで過ごしてきた孤独は、一体どれほどのものだったのかと思った。
 飢えに苦しみ、親に棄てられ、友人の肉を喰らってでも生きたいと願い、死にたくないと怯え、孤独と恐怖に震えながら、助けを求めていたのであろう少年の境遇を聴いて、リゲイルは恐怖と哀しみに苛まれた。
 彼女は自分が恵まれた環境にいることを知っている。
 何不自由のない暮らしが出来、自分を慈しんでくれる人々に囲まれて、楽しい日々を送ることができる自分。
 自分自身の不甲斐なさ、弱さに囚われて、痛みも苦しみも哀しみも味わって来たけれど、自分を守り、包み込み、愛してくれる人たちがいるから、やっぱり自分は幸せなのだとリゲイルは思う。
 『かれ』と自分は何故こんなに違うのか、『かれ』がどんな悪いことをしたのかと考えて、『他人と比べて自分の幸福を図るなんてあまりに失礼極まる』という事実に行き着き、激しい自己嫌悪に襲われもした。
 二百年以上前の飢饉など、リゲイルには判らないことばかりだ。
 きっと、判らない人間ばかりだろうとも思う。
 それでも、こうして話を聴き、少年の声を聴き、姿を見た人間として、何かが出来ればいいと思う。
 金銭の力に頼るのではなく――とはいえ、必要とあらば、それを使うことで事態が好転するのならば、いくらでも差し出そうとは思っているが――、少年の苦しみに寄り添うことで。
 それは無論、模索の繰り返しではあるけれど。
「うわあ、すごいことになってるなぁ」
 不意に声が聞こえて、振り向くと、そこには、小柄で華奢な青年が、大きな花束を抱えて立っている。
 女性と見紛う、妖艶さを伴った端正な顔立ちなのに、彼が男性だと判ったのは、銀幕市民としては当然のことながら、ジャーナルのお陰で、確か、名前は薄野鎮(すすきの・まもる)と言ったはずだ。
「不思議な光景だなぁ。でも、実体じゃないんだ……ああ、これ、穴の底の映像かな……? 僕にも、『かれ』が見えるんだね」
 青年はぐるりと周囲を見渡して、あっさりと状況を判断すると、穏やかな笑みとともに少年のもとへ歩み寄り、『かれ』の傍らに色鮮やかな花で彩られた花束を置いた。
 再び自我がぼんやりしてきたのか、幽鬼の姿に戻った少年の、落ち窪んだ眼窩が、その鮮やかな色彩を見つめる。
「薄野といいます。『かれ』に伝えたいことがあって来ました」
 鎮は、ここに集った面々へ簡単に自己紹介をしたあと、
「……ちゃんと出来るかどうか、判らないけど」
 そう言って、眼鏡の奥の目を、静かに細めた。
「そうだな……俺も、伝えなくては」
 鎮の言葉を聞いて、覚悟を決めたように頷いたのはスルトだった。
「きちんと伝えて、すべて受け止めたい。嘆きも、後悔も、苦しみも、他愛ない願望も」
 ――他者の苦しみを理解し、他者を癒す上で、実はそれが一番大切なのだと、受け止め、受け入れることが、苦しむ誰かの心に寄り添う第一歩なのだと、スルトは理解していただろうか。
 リゲイルは、それを、難しい理屈ではなく、とても素晴らしいことだと、そうあるべきなのだと気づいていた。
「末吉」
 スルトが名を呼ぶと、人間の姿を取り戻した末吉が、ちょっと笑って彼を見上げる。一緒に、隣のルウも、スルトを見上げた。
「すると、だっけか。さっき、こえ、かけてくれたよな」
「しゅるとも、すえちゃんとおはなし、する?」
「ああ」
 わずかに微笑んでルウの頭を撫で、スルトは末吉を真っ直ぐに見つめた。
 悼みを含んだ穏やかな眼差しに、静かだが強い意志が揺れる。
「末吉、父さん母さんはもう来ないんだよ、末吉を迎えに来てはやれないんだ。だから……ここにいても仕方がないから、末吉はもう、自由になっていいんだ」
『え……』
「だって、末吉はもう、死んでるんだから。もう、とっくの昔に肉体は失われて、魂だけがここで、ずっと迷ってる。父さんも母さんも、それを見つけられずにいるんだよ」
 あえてダイレクトな表現を選び、事実をはっきりと認識させようというのだろう、スルトは、遠まわしな言い方は一切しなかった。
「末吉は魂だけになって、ここに縛り付けられている。死んでいるのに、死んだことに気づいてないんだよ。――それが、判るか?」
 しかし末吉は、スルトの言うことが一瞬理解出来なかったらしく、
『死んだ……おれ、死んだ、のか……?』
 ぼんやりと、意識を探るような目をした少年の表情が、一気に凍る。
『う、うそだ……』
 細い、小さな身体が、がたがたと震えだした。
 両目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
『いやだ、おれ、死にたくねぇ。おれ、死んだらじごくにおちるんだ、だっておれ、ともだちをくっちまったんだから!』
 語尾は悲鳴になった。
 ルウと太助が、少年を心配そうに見上げると、ごう、と、どこかから強い風が吹き込んで来た。
 風が、わずかに舞い込んだ枯葉を巻き上げ、舞い散らせ、そして辺りに散らばる骨の欠片を吹き飛ばして、また、あの、カラカラという寒々しい音を鳴り響かせる。
 それはまるで、末吉の、そしてここで棄てられて死んだ子どもたちの、声にならない慟哭のようにも聞こえた。
「違うんだ、違うんだよ、末吉君」
 鎮が、末吉の傍らに膝をつき、静かに、懸命に声をかける。
「『生きたい』って思った気持ちは罪じゃないんだ、『生きるため』に取った行動は罪じゃないんだ、それは宗教が植えつけただけの、人間が作ったルールにすぎないんだよ」
 少年は身を震わせて泣いている。
 抱き締めてやれぬことが、ひどく哀しく、苦しい。
 きっと温かい腕に包まれれば、安心できるだろうと思うのに。
「末吉君が感じている罪の意識は、宗教……いや、信仰から来るもので、それはそもそも、死の恐怖をやわらげるため、心の防衛のために存在していたはずなんだ」
 震え、しゃくりあげる末吉の傍らで、少年のために紡がれる懸命な言葉を、リゲイルは、耳を澄まして聞いていた。
「地獄なんて本当は存在していないんだ。ただ、友だちを食べてしまったって言う君の罪悪感だけが、君の内に根ざした宗教と結びついて、『地獄に落ちる』っていう幻想を植え付けてしまっただけなんだよ」
 宗教、信仰の在り方は国によって様々だが、根本はあまり変わらない。
 本来、それらは、生きている人間の心の平安のために創り出されたものであるはずだった。
 死や、暗闇や、人間が量り知ることの出来ない深い何かを、恐ろしい何かを理解するために、そしてそれを恐れずに済むように、創り出されたものが信仰であるはずだった。
 それが、時間を経るに従って、人間を縛るようになり、逆に死への恐怖を焼き付けてしまったことは、皮肉と言うしかない。
「だからね、許せばいいんだよ、末吉君。君が、君を許せば、それで罪は消えるんだ。君をここに縛り付けているのは、君自身の後悔なんだから」
 自分を許すこと。
 それはとても難しい。
 リゲイルも、ひどく後悔し、自分を責めたことがあった。
 自分の所為でふたりもの人間が喪われたと思い込んでいた時のことだった。
 自分に生きている価値などないのだと、何度も思った。
 代わりに自分が消えればよかったのだと。
 それでも、今、生きていたい、死にたくないと思うのは、どれほど辛い一日の中にも、「ああ、良かった」と思える一瞬があるからで、そして何より、自分のことを大切に思ってくれている人たちがいるからだ。
 彼女もまた、その人たちを愛しているからこそ、心配をかけたくないし、笑顔で会いたいと願う。その人たちに会うために生きることを許してほしいとも思う。
 そう思うだけで、生きる活力が沸いて来ることを、リゲイルは身をもって知っている。
 だから、末吉のしたことを、罪だとは思えない。
 幼い子どもが、生きたいと思って必死にしたことを、同じく、生きたいと思っているリゲイルが責めることは、出来ない。
 もしも神さまとやらがここにいるのだとして、神がそれを罪だと言うのなら、救いもせずにいた神もまた、許されざる罪を犯している。
 手を差し伸べることもせず、罪と罰ばかり押し付ける神など、要らない。
『わかんねぇ……』
 しゃくりあげながら、末吉が首を横に振る。
『ゆるす、って、なんだ? ゆるすって、どうやればいいんだ?』
 根本的に過ぎる問いを投げかけられ、鎮が眉根を寄せた。
「君が、君自身に、自分は悪くないって言ってあげることだよ」
『わかんねぇよ、そんなの!』
 叫びは悲鳴のようだった。
『おれは、松吉も、亀坊も、平太も、留も弥助も、ほかのみんなもくっちまった。ひとをくうのはわるいことだ。わるいことをしたらじごくにおちるんだ。いやだ……おれ、じごくなんかいきたくねぇ!』
 鎮の言ったことなどもう忘れてしまったかのように、末吉が泣き叫ぶ。
 泣き叫び、怖い怖いと、ただそればかりを繰り返す少年を、誰もが言葉をなくし、痛ましげに見つめ、己の無力を噛み締めた。
 ――人は、許すことを周囲から学ぶ。
 リゲイル自身、そうだった。
 周囲が与えてくれる言葉や行動が、自分は許されているのだと気づかせるのだ。
 少年は、それに気づく前に、許しの何たるかを知る前に、ここへ棄てられてしまった。
 許すと言う言葉では、少年には、届かないのだ。
 そして、言葉だけでは、地獄が、宗教が創り出したルールのひとつでしかないのだとも、恐れる必要のないものなのだとも、伝わらない。
「……」
 ならばどうすればいいのかと、一体何ならば、どんな言葉、どんな思いならば少年に届くのか、『かれ』を癒せるのかと、リゲイルが懸命に思いを凝らしていると、
「ああもう、うじうじした考え方ってほんっと腹立つわ。そんな風に嘆いて何になるの? 馬っ鹿みたい!」
 強く、厳しい声が、背後から響いた。
 驚いて振り向いたリゲイルの、視線の先には、白い髪に赤い目の、美しい少女が立っている。
「あたし、あんたに言いたいことがあって来たのよ」
 強い強い視線を向けられて、少年が、びくりと身をすくませるのが、見えた。



 3.亀裂の嘆き

 少女はシルクルエルと名乗った。
 大輪の花のようにたおやかな、儚げな麗姿とは裏腹に、鮮やかな赤の双眸に激烈な意志を宿した、気の強そうな少女だった。彼女の肩に張り付いた、鰐のような生き物、黒い、蝙蝠状の羽根が生えたそいつも、利かん気の強そうな顔をしている。
「もう、歯痒いったらないわ」
 ずかずかと歩み寄って来るシルクルエルと、彼女が近づくと同時にリゲイルの背後に隠れてしまったルウ、怯えた顔で彼女を見上げる末吉とを、スルト・レイゼンは交互に見つめる。
 燃えるように鮮やかな生命のエネルギーを彼女からは感じる。
 スルトには、決して不快な感覚ではなかったが、少年にはどうだったのだろうか。
 強すぎる光が、弱々しい翳を容易く掻き消してしまうように、まだ涙をこぼしたままの少年は、シルクルエルが自分の元に辿り着き、仁王立ちで自分を見下ろすのを、びくびくした表情で見ている。
「あんたのこと、聞いたわ、対策課ってところで」
『たいさくか……? なんだ、それ……?』
 末吉は首を傾げたが、シルクルエルはそれには答えず、真っ直ぐに少年を見据えて口を開いた。
「いい? 生き物は生きるために生まれて来るんだし、自分をかたちづくったすべてのものに報いるために、必死で生き抜く努力をする義務があるの。他に選択肢がないのなら、生き伸びるために自分に出来る手段を取るのは当然でしょ。共倒れを選んだら、その方がよっぽど罪深いわよ。あたしがあんたの友たちだったら、あんたのしたことを歓迎するし、あんたの立場ならあたしも同じことをするわ。でも、それを悔やんだりなんてしない。そんなことしたら相手に失礼だもの。抱くべきは感謝であって後悔じゃないわ」
 厳しく強い語調で滔々と語られる、生命の真理。
 スルトはそれを、至言だと思った。
 生きると言うことはつまり、それが何であれ搾取することなのだとスルトは思う。それが衣食住であれ空気であれ、心に関わるものであれ。
 必要なのにそこにないのなら、何かで補うしかなく、それが出来なければ、奪い取るか、自分を諦めるしかない。
 生命の本質が自己の保存と存続にあるのならば、補おうとすること自体は悪ではない。そうすることでしか存在し得ないものを生命と呼び、補って命をつなぐことを、生きると呼ぶのだから。
 だから、末吉のしたことを罪と断じられるのは、一切の殺生をしていないものだけなのではないかと思うし、つまるところ、彼を断罪できるものなどこの世界にはいないとも思う。
 生命は生きるために生きるのだ、自分を生かすために生きるのだ。
 他者の命を奪うことでしかそれが果たされないのだとして、それが生きることの真実なのだとして、奪う側である自分が抱くべきなのは、後悔や懺悔ではなく、奪った生命への感謝なのだろう。
 自分を生かすすべてに感謝し、自分を生かしてくれたもののためにも生きようと思うことが、何よりの償いになり、報いになるのだろう。
 スルトは故郷のことを思い出していた。
 生まれ故郷の小さな部族の中で、彼は、生き永らえてはいけない存在だった。
 使い捨ての道具として、すぐに死ぬべき傀儡だった。
 そうあるようにと育てられたのに、強い力と心を持ってしまったから、彼は孤独に砂漠を流離(さすら)った。たくさんの苦しい思いをして、何度も泣いて、何度も傷ついた。
 けれど、彼に生きろと願う人がいて、その人たちの、幸せであれという祈りが今も聴こえるから、スルトは折れないし、諦めない。
 生命の喜びは、そういうところから沸きいずるのだろうとも思う。
 ――それを、どうやれば、末吉に伝えてやれるだろうか。
 難しい言葉で気持ちを伝えるには、あまりにも幼い、あの少年に。
「で、あんたはどう思うの? 自分のしたことが罪だと思うならちゃんと償うべきだし、義務を果たしたんだって思うなら堂々と胸張ってなさいよ。最終的な答えを出せるのは自分自身だけなんだから。反論の余地のない、明確な意思を持ってさえいれば、誰もあんたを罪に問えやしないわ」
 きつい物言いだったが、それは確かに末吉のために紡がれた、彼を許す言葉だった。強圧的で、反論を許さぬ姿勢でありつつも、シルクルエルは、確かに、少年が救われるようにとそれを口にしていた。
「それでもって、地獄だろうが天国だろうが、自分が往くべきだと思ったところへ往けばいいじゃない」
 しかし、末吉に、それは伝わっていただろうか。
 ずっと、気の遠くなるような長い時間、たったひとりで、自分を責め、罪を悔い、必要な手を何も望めないまま、怯え続けて来た少年に。
『じごく……そうだ、おれ、じごくにおちるんだ……』
 頭を抱えて末吉が呻く。
 シルクルエルの眉が跳ね上がり、雰囲気が厳しさを増した。
「なに? まだそんなこと言うの? いい加減にしなさいよ、あんたは自分で自分を救う義務があるのよ、救われる権利と一緒に! いつまでもぐずぐずこんなところに残ってたら、ぶん殴ってやるんだから!」
 それは――まるで、断罪のようで、リゲイルの背後でルウがびくりと身体を震わせ、
『う、ううう、うう……ううううううう』
 少年は獣じみた呻き声を漏らした。
 黒い双眸が、ぽっかりあいた空洞のように虚ろになる。
 シルクルエルの言葉の内容よりも、厳しい口調や彼女のまとう峻烈な雰囲気に怖気づき、『責められている』と錯覚したようだった。
 六歳の少年なのだ。
 それも、無理はないのかもしれない。
『い、いやだ……』
 ごぉん、という震動が足元から伝わってくる。
 ぐらり、と、地面が揺れた気がした。
 顔を上げた末吉は、恐怖で白くなった、紙のような顔色をしていた。
 大粒の涙が盛り上がり、零れ落ちて、落ち窪み、くすんだ目元を濡らしていく。その小さな身体のどこにそれだけの水があるのかと思うほどに、少年は泣き続けている。
『いやだ、いやだいやだ、死にたくねぇ、じごくはいやだ、こわい、こわい……こわいこわいこわいこわい、お父、お母、だれかたすけて、こわい……ッ!!』
 叫びは悲痛で、凄まじい絶望を孕んでいた。
 ごごん。
 震動とともに、地面が大きく揺れた。

 ざっ、ざざ、ざざざざざざざ。

 周囲をノイズのような何かが走った、そう思った次の瞬間には、
「あっ、すえちゃん……!」
「末吉、まってくれ!」
 穴の底の風景は掻き消え、頭を抱えて蹲る、ひどく痩せた少年の姿もまた、空気の中に解けるように消える。末吉をここに留めようと伸ばされた、ルウと太助の手が、虚しく宙を掻いた。
 周囲に、荒れ果てて、ほんの少しの木々に囲まれた、ごつごつとした岩場が戻って来る。
 それと同時に、びしり、と音を立てて、あの穴を中心に、岩場に亀裂が入った。
「……!」
 誰かが息を飲む音が聞こえた。
 ぐらぐらと地面が揺れる。
 穴の縁が砕け、ぱらぱらと欠片が散って行く。
 穴が、少しずつ、大きくなって行く音と、ぞろぞろ、がさがさ、ごそごそという不気味な音とが重なる。かなり大きなものが、岩場を、狭い場所から出て行こうと這いずるような音だ。
 先ほどまであちこちから響いて、他の、風や虫の音は、その瞬間に、何も聞こえなくなった。
「何か……出て来る……!」
 鋭い声は、歌沙音のものだった。
 神音が沈痛な眼差しを穴に向けたのが見えた。
 それなりに心得のある人々が身構え、戦いとは無縁な人々を背後に庇い、何かに備える。
 しかし、出て来るものが末吉なのだとして、『かれ』が恐怖から異形と化し、自分たちに牙を剥くのだとして、自分はそれを討てるのだろうかと、『かれ』をただ討つことは正しいのだろうかと、スルトは思っていた。
 ――ぞろり、と、それが穴をくぐる。
「すえ、ちゃん……?」
 ルウが、ひどく不思議そうに、少年の名を呼んだ。
 それはすでに、少年とは似ても似つかぬものに変貌してしまっていたが。



 4.「だから、もう、泣かないで」

 何、と表現すればいいのだろうか、そのかたちを。
 何で出来ているかは判る。
 あれは、あの穴の底に散らばっていた、骨の欠片たちだ。
 無数の、ぎざぎざとしたそれが――実際には、数はそこまで多くなかったはずだが――、直径一メートル、全長十メートル以上の、太く長い何かとなって、穴から姿を現していた。
 鋭い棘で覆われた無貌の蛇、表現としてはそれが一番正しいかもしれない。
 あれは自己防衛なのだろうか、それとも拒絶なのだろうか。
 気安く触れれば、きっと、棘にあちこちを貫かれるだろう。

(かなしい、かなしい、くるしい、さびしい、こわい、さびしい)

 だが、何故か、巨大で異様な『蛇』に、威圧感や恐れは感じない。
 『蛇』から漂ってくるのは、ただただ悲痛な、どうしようもなく重々しい、内へ内へと向かう苦しみばかりだ。

(お父、お母、なんでおれをすてたの)

 啜り泣く声が聞こえてくる。

(おれは、そんなに、いらないこだったの)

 『蛇』は頭と思しき場所を項垂れさせ、ぱらぱらと骨の棘を降らせた。
 それが『蛇』の涙なのだと気づくのに、時間はかからなかった。

(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。おこらないで。ごめんなさい。ぜんぶおれがわるいんだ、やっぱりおれはじごくにおちるしかないんだ。こわい、こわいよ、ここはまっくらだ、ここがじごくなの)

 何度も何度も聞こえて来る、謝罪の言葉。
 人を、友人を、生物の本能に負けて食べてしまったことを、誰よりも悔い、誰よりも責めているのは、『かれ』自身なのだ。責めているがゆえに、自分は責められるべきだと思うから、下される罰が怖くて怖くてたまらないのだ。
 あのままにしておけない、ほうっておけない、と、思う。
 胸が、ぎゅっと苦しくなる。
「違う……違うんだ、末吉」
 誰もが思わず固まり、どうすべきなのかと思案する中で、最初に、『蛇』に寄り添ったのは、歌沙音だった。
 伸ばした手が、棘で傷つき、血を流すのもお構いなしに、『蛇』に触れる。
「君はもう苦しまなくていいんだ。君は充分に償った。誰ももう、君を責めてないんだよ」
 歌沙音の手が『蛇』に触れると、『かれ』はびくりと震えた。
 歌沙音の表情は、声は、ずっと淡々としていたけれど、
「……もう、平気なんだ、本当だよ。大丈夫だから、飢えたままで、寂しいままで、震えたままでいないでくれ」
 静かに目を閉じ、自分が傷つくのも構わずに、『かれ』に額を押し当てて、
「……お願いだ、頼むから、気が付いて」
 そっと『蛇』を撫でる、その手は、限りなく優しくて、彼女が末吉に何を願っているか、何を祈っているかは、誰にも、伝わっただろう。
 ぱらぱらと、骨の棘が降って来る。
 降り注ぐそれは、しかし、歌沙音を傷つけはしなかった。
 項垂れた『蛇』の、嘆きが聞こえて来る。
(おれはわるいことをしたんだ)
「うん、だけど、もう、許したっていいんじゃないかな。君はたくさん償ったよ」
(ゆるすって、どういうことだろう。ゆるせたらおれはくるしくなくなるのかな。どうやったら、ゆるせるのかな)
「そうだね、とても難しいね。だけど、君が食べてしまった友だちは、今はもう、君を許しているよ。君にこれ以上、苦しんでほしくないって思ってる」
(……どうして。おれはみんなをくっちまったのに)
「君は一番最後まで生き残ったから、最後までひとりで苦しんだけど、もしも君が先に死んでしまったとして、死んでしまった君を、他の友だちが食べたら、君は怒ったかい?」
(ううん……おこらねぇよ。くわれるのはこわいけど、おこらねぇ。だって、おれだって、おなじことをしたんだから)
「それと同じだ。友だちは糧となって君を生かした。君も、そうしていたかもしれない。友だちは、死んだあとも、君の中で、君に、生きていいって、生きてくれって、ずっと言い続けていたんだよ。そんな友だちが、君を、今も責めていると思うかい?」
 静かで、淡々としていながら揺るぎない、歌沙音の言葉に、『蛇』が動きを止める。
 ぱらぱらと降り注ぐ骨の棘の量が、少し増えたような気がした。
「判るだろう? それが、許すとか、許されるとか、そういうことなんだろうと私は思う」
(でも、おれ)
「……君は、皆のことが好きだったんだね。だから自分を許せないんだ。だけど、君の大好きな友だちは、もう、ずっと前に解き放たれて、今は、君のことを、ずっと待ってる。父さんと母さんは、君に謝りたいって思っているかもしれない」
(えっ)
「私は、君のいた時代のことを、よく知っているわけじゃないけど、でも、父さんも母さんも、君が憎くて棄てたんじゃないと思ってる。どうしようもなかったって言うのは、あまりにも無責任だけど、父さんも母さんも、君の兄弟、兄さんや姉さんを生かすために、心の中で泣きながら、ごめんねって謝りながら、君を選ぶしかなかったんじゃないかな」
(……)
「だけど君は、そうやって、兄さんや姉さん、父さんや母さん、果ては、その先に続く命を生かしたんだ。君の命は、君の家族の中に、生き続けていたんだよ。――もしかしたら、今も、どこかで生き続けているのかも知れない。君の家族は、それを感謝してる。君のことを怒ったりなんか、絶対に、しない」
(お父、お母……)
「うん、だから、皆、ずっと、早く君と会いたいって、思い続けているよ」
 ぱらぱら、ぱらぱらと骨が降って来る。
 それは末吉への言葉だったが、同時に、ここで死んだすべての子どもたちへの鎮魂でもあった。
 間引かれた子どもたちは憐れだ。
 彼らには何の罪もなかった。
 だが、彼らを棄てた親、家族もまた、ぎりぎりの選択を強いられて、心の中に血の涙を流しながらも、罪の意識におののきながらも、もっとも確実な、一を殺して他を生かす、罪深い道を選ぶしかなかった。
 彼らの死は、彼らの家族を生かした。
 あまりにも哀しい貢献だ。
 けれど、そのお陰で続いた命は、確かにあっただろう。
 彼らの家族は、悔いると同時に、彼らに、感謝しているだろう。
(おれ……)
 それでも、まだ迷っている――二百年以上の時間、苦しみ続けてきたのだ、そう簡単に晴れるものでもないだろう――末吉に声をかけ、
「末吉、お地蔵様はもう、とっくのむかしに、おむかえに来てくれてるんだぞ?」
 『蛇』の前に立ち、『かれ』を見上げたのは、色とりどりの飴が入った袋を手にした、ちいさな仔狸だった。
「ほらこれ、向こうに持ってくおみやげな。りんごにみかん、ぶどうにざくろ、いちごにレモン、さくらんぼ味もあるんだ。ちゃんと、末吉の友だちの分もあるからな」
 太助が、ちいさな前脚で、袋を、『蛇』に差し出す。
「お腹すいて、こわい、辛い思いして、末吉、頑張ったんじゃん。それって、地獄にいたってことだよ。末吉は、この先地獄に落ちるんじゃねぇんだ、ずっと地獄にいて、今まで、罪をつぐなってたんだよ」
 そうだろ? と、小首を可愛らしく傾けた太助が問うと、
(どうなのかな。そうなのかな。おれ、わかんねぇ。でも、おじぞうさまがきてくれるんなら、うれしいな)
 『蛇』もまた、小さく首をかしげたようだった。
「うん、末吉はじゅうぶん苦しんだし、頑張ったよ。だからもう楽になっていいって、お地蔵様、言ってるのに、全然気づいてねぇんだよ、末吉」
 ぱらりぱらりと骨の欠片が降って来る。
 『蛇』は、少しずつ小さくなってきている。
「だからさ、もう、帰ろうぜ。みんな、待ってるしさ。これ、持って行って、みんなでくってくれよな、そんで、自分はこんなに頑張ったんだって、末吉、いっぱい自慢するといい」
 太助が笑うその隣で、スルトが『蛇』を見上げている。
「もう……判った、だろう? 末吉はみんなのために頑張った。罪はもう、償われた。みんな、向こうで、末吉のことを待ってる。それが、真実なんだろうと俺は思う」
(そうかな。そうなのかな。……ほんとうに、いいのかな)
「もちろんだ」
 スルトは微笑んで『蛇』を見上げ、
「――……だけど、もしどうしても、哀しい気持ちが消えなくて、どうしても、ここから出ることが出来ないって末吉が言うのなら、俺は、末吉を食べて、末吉の哀しみを消そうと思う」
 そう、表情を、引き締めた。
 スルトは、負の感情を食らうことが出来る。
 『かれ』は感情の残滓だ、末吉を食らうことで、その哀しみを消してやることは、可能だろう。
 しかしそれは、最後の手段に近いはずだ。
 本当は、スルトも、末吉に救われてほしいと思っている。
 思っていながら、苦しいままの『かれ』が忍びなくて、あとあと自分が辛い思いをすることを承知で、末吉を食らい、救おうと思っている。
 それが、スルトの示した善意で、誠意だ。
「自分を許せないまま、苦しみ続けるしかないのなら、それでも、どうにかして救われたいと、楽になりたいと末吉が思うなら、俺が、末吉を、喰らおう。……だから、そんなに、辛いまま、哀しいままでいなくていい。どうか、もう、哀しまないでくれ」
 歌沙音と同じく、自分の手が傷つくことにも構わず、スルトが末吉に触れる。
 それは祈りの言葉だった。
 『かれ』に救いがあるように、『かれ』が光のある場所に逝けるように、という。
 ルウは、それらを、難しい言葉で、ではなく、根本的に理解していた。
 理解して、それらを、息を詰めて見つめていた。
 きつく手をつないだリゲイルを見上げると、リゲイルと目が合った。
 夏空の下のひまわりのように鮮やかに、リゲイルが笑う。
 ルウも笑って頷き、末吉の、項垂れる『蛇』の元へ、ふたりで歩み寄った。
「すえちゃん」
 手を伸ばして、『蛇』に触れる。
 鋭く尖った骨が、ルウの小さな手をぷつぷつと切り裂き、血を流させたが、こんな痛みは、特別なことではないとルウは思う。
 ルウには、末吉の気持ちが判る。
 ほんの少しかもしれないけれど、似た境遇に置かれていたから、『かれ』の気持ちに触れることが出来る。
「すえちゃん、さびしい? まだ、くるしい?」
 戦乱の世でありながら病弱に生まれついたルウは、片足と片目が不自由だったため、満足に身体を動かせず、労働力を必要とされる貧しい寒村においては役立たずの存在だった。貧しい家族、貧しい集落全体のお荷物だったのだ。
 そのため、家族にも、近所の人々にも邪魔者、無能者扱いされ、常に罵られ、暴力を揮われていた。とある目的のために、『売る』ことを前提に育てられていただけで、愛情の欠片すら与えられていなかった。
 だから、今でも、ルウは、大人が怖い。
 優しい人もいるのだと知っているけれど、やっぱり、怖い。
「るう、さびしいの、わかるよ。さびしいの、こわい」
 けれど、銀幕市にきて、ルウにはたくさん大切な人が出来た。
 大好きなぱぱ、大好きなおねーちゃん、大好きなともだち。
 頭を撫でてくれる。
 ぎゅうをしてくれて、キスをしてくれる。
 いっぱい、宝物をもらった。
 一緒のベッドで寝てくれる人が、たくさん出来た。
 ルウはいい子だって、みんなが言ってくれる。
 ――それでも、ひとりの夜は、今でも、寂しい。
 誰もいないベッドで眠る時は、怖い怖い夢に追いかけられている気がして、涙が止まらない。
 孤独の意味が、ルウには判る。
 ごはんが食べられなくて死ぬことよりも、たったひとりで震えていることの方が怖いし、辛いと思う。
 ルウは幼いから、難しいことはよく判らないけれど、根本、本質がどこにあるかは、何となく察している。生きるとはどういうことなのかとか、命とは何なのかとか、何が大事なのかとか、自分は何をすべきなのかとか。
 末吉の、寂しいという気持ちに触れて、ルウは、自分にとって、自分が何をすることが一番相応しいのか何が一番いいのかを考えて、
「すえちゃん、まだ、さびしい? なら……、るうがいっしょにいてあげる……? おなかすいたら、るうのちょこれと、わけてあげるから……」
 そういう言葉をかけてあげたいと思ったのだ。
「だから、もう、なかないで……?」
 自分がそうしてもらったら嬉しいから。
 そして、同じように哀しんでいる誰かに、そうしてあげようと思えるようになっているから。
 骨の切っ先が手を傷つけ、血を滲ませるのにも構わず、ルウは、末吉の痛みを分かち合うように、『蛇』を撫でていた。
(おれ……いいのかな……)
 ぱらぱら、ぱらぱらと骨の欠片が降って来る。
 ――見上げたら、もう、『蛇』はいなかった。
 痩せた、小さな少年が、いつの間にか、そこには佇んでいた。
(もう、らくになっても、いいのかな)
 俯いた『かれ』の頬には、まだ涙が伝っていたが、少なくとも、その目は、寒々しい絶望を映してはいなかった。
 あまりにも彼の姿がくっきりしていたので、リゲイルが手を伸ばすと、少年の身体は、彼女に引き寄せられ、その腕の中に、すっぽりと収まった。
 リゲイルはほんの少し驚いた顔をしたあと、また、ひまわりみたいな晴れやかな笑顔になって、
「お疲れ様。頑張ったね、――……お疲れ様」
 少年を、力いっぱい抱き締める。
 ルウも、少年に走り寄り、思い切り抱きついた。
 ふわりとした、不思議な感触だった。
 そうしたら、太助がちょこちょこ走って来て、末吉の背中にもふりとくっついた。
 末吉は、本当にびっくりした、という表情をして、それから、顔をくしゃくしゃにした。
(……ありがとう……!)
 末吉が、絞り出すように、たくさんの思いを込めた「ありがとう」を告げると、『かれ』の身体が、ふわり、と軽く、希薄になった。
 『かれ』が解き放たれようとしているのだと、誰もが理解していただろう。
 安堵の呼吸が、そこには満ちた。
 ルウは眩しげに目を細めて、リゲイルと顔を見合わせ、ふたり一緒に、『かれ』をぎゅうと抱き締めた。
 ぴんと尻尾を立てた太助が、末吉に飴が入った袋を差し出すと、『かれ』は嬉しそうに、ようやく本当に笑って、それを手に取った。飴の袋が、宙に浮かび、見えなくなる。
 どんな原理なのかなんて、別に、知る必要はない。
 そうなるべきだからそうなったという、それだけのことだ。
(ありがとう。うたをうたってくれて。やさしいことばをかけてくれて。いろいろおしえてくれて。おれのためにかなしんでくれて。――おれを、ゆるしてくれて)
 末吉は晴れやかな、邪気のない笑みを浮かべていた。
 何かを理解し、迷いから抜け出すことが出来たものの浮かべる、透き通った笑みだった。
(ありがとう)
 ごう、という一瞬の突風。
 白い骨の欠片が、盛大に宙を舞った。
 風が人々の髪を舞わせ、拭き散らかし、掻き混ぜる。
「わ、あ……!」
 誰かが声を上げた。
 歓声だったのかも知れない。
 あまりの強さに目を瞑り、次に目を開けた時、そこに、末吉はもう、いなかった。
 白い、寒々しい骨の欠片も、何故か、なくなっていた。
 幼子の漏らす、悲痛な泣き声も、もう、聴こえない。
「……ばいばい、すえちゃん」
 リゲイルに抱き締められながら、彼女にしがみついて、ルウは小さく別れを告げる。
 末吉がどこに行ったのかは、ルウには判らない。
 けれど、『かれ』がもう泣いていないことは、判る。
 ――それだけでいいのではないかと、実は、思っている。



 終.甘露

「太助くん、こっちこっち!」
 リゲイルに呼ばれるまま、大きな石を抱えて、太助はよろよろと歩いていた。
 今日の彼は、法被にねじり鉢巻の左官風味だ。
「うおお、おもてえええええ! でも頑張るぞっ」
 自分の頭よりも大きい石を担いで、ふらふらしながらも、太助は笑顔だ。
 必要とあらば、ぶっ倒れるくらいまで頑張る所存だ。
 ――あれから、一週間が経った。
 忘れられ、打ち棄てられて、今にも崩れて行こうとしている廃寺の傍の、あの穴からは、もう、何の気配も、何の哀しみも感じられなかった。
 穴は、大きく裂けて、中が、穴の底が丸見えになっている。
 そこに階段を刻んで、もしも中に『誰か』が残っていたら外に出て来られるようにしようと言い出したのは歌沙音で、だったらここを、その『誰か』が外に出てきた時びっくりしてしまうくらい綺麗な花畑にしよう、と言ったのはリゲイルだった。
 小さくていいから、みんなのお墓を作ろうと提案したのもリゲイルで、彼女はそれを、人を使うのではなく、自分の手でやりたがった。
 自然と、あの時、あの場所に居合わせた面子が、何となく集まって、親しいムービースターたちに声をかけ、不思議な力を行使してもらって、穴の口を削り、砕いて、出口を大きくするところから作業は始まった。
 そのお陰で、今、ここは、穴の中から続く見事な石の階段と、小さな、しかし心のこもった墓標と、たくさんの、いい匂いのする土、そして土が流れてしまわないように植えられたたくさんの植物によって囲まれている。
「……お墓参りにも、来ないとね」
 リゲイルが、不器用な自分を叱咤激励しながら、鎚と鑿を使って懸命に作った、ちょっぴりいびつな墓石の前に、お茶や菓子、花を供えながら薄野鎮が言う。
 彼は、あのあと、『言葉』の難しさ、それだけでは用をなさず、しかしそれがなくては何も出来ないものの難解さに溜め息しつつ、もっと色々考えなくちゃいけないね、と言っていた。
 きっと彼は、それを、長い人生をかけて実践して行くのだろうと太助は思う。
「そうね、お花の様子も、見に来なきゃいけないから」
 日本式のお墓とはこうだ、と聞いたリゲイルが、墓石の前に、火の点いた線香を供え、にっこり笑う。
 リゲイルが、鎮や歌沙音の見よう見まねで手を合わせると、それを真似して、ルウが小さな手を合わせ、「なむあみだー?」などと、首をかしげながら唱えている。
 彼は、末吉のために、ぱぱに買ってもらったチョコレート、綺麗な箱と包み紙のそれを、すえちゃんと食べるんだと言って、持って来ていた。
 スルトは、それを笑って見やりながら、墓の前に大きな袋を備えていた。
 確認するまでもなく、中身は胡麻団子だろう。
 穴の底と地上とをつなぐ階段の前には、シルクルエルの姿がある。
 それが彼女の通常の状態なのか、末吉が帰っていったあとも、彼女はずっと怒っていたが、それは主に、末吉をこんな目に遭わせた時代とか、何もしてやれなかった人々だとかについてだったし、今は、特に手伝うでもないものの、何かに腹を立てている様子はなかった。
「……そりゃ、言いたいことはたくさんあったけど」
 ぽつりと、誰にともなく呟くシルクルエルの苛烈な眼差しが、ほんの一瞬、ほんの少しだけ、やわらかくなる。
「あの子がもう苦しんでないんなら、納得するしかないじゃない」
 その言葉を聞けば、譲れない立ち位置があるから厳しく断じはしても、自分の思惑を外れた何もかもが受け止められないほど狭量な少女ではないのだということが、判るだろう。
 太助は、墓の周囲を囲む石の、最後のひとつをよっこらせと置き、額の汗を拭う仕草をした。
「よし、にんむかんりょーだっ」
「お疲れ様、イエロー! 冷たい麦茶があるわよ、休憩しましょ。水羊羹とチーズケーキもあるのよ」
「おおっ、そりゃごうきだな! ありがたくいただくぜっ」
 リゲイルが墓の前に茣蓙を敷き、お茶の準備をしてくれたのを、ありがたくいただく。
 墓前で茶会とは奇怪なと言われるかも知れないが、少し離れた場所にいる友人と、近況を含んだ他愛ない茶飲み話に花を咲かせているだけだと言えば納得してもらえるだろうか。
 ちゃんと帰れたかよ、と墓石に問いかけつつ、心配はしていない太助である。
 それに、もしかしたら、また遊びに来るかもしれない。
 輪廻という名の流れに乗って。
 お茶にありついた人々が、めいめいに言葉を交わす中、
「そうか、お前たちも実体化していたんだな、ハルワタート、アムルタート。まさか、こんなところで目にするとは思わなかったが……だとすれば、彼もまた……ここに、来ているのか」
 小さな独白を聞いたものは、太助の他にいただろうか。
 その、耳に残る、ひどく印象的な声の持ち主を、太助はひとりしか知らない。
 首を巡らせて見遣れば、案の定、
「おや、少し見ないうちに、ずいぶん明るくなったな、ここは」
 大きな花束を手にした神音が、ゆっくりと歩いて来る。
「あ、神音さん。ライブはどうだった?」
「ああ、まぁ……概ね成功だろう」
「そっか、よかった。わたしも今度、聴きに行きたいなっ」
「面倒臭いから、コンサートはしばらくいい……と言いたいところだが、きみたちのためにならば、喜んで」
 神音が言うと、リゲイルはにっこり笑った。
「じゃあね、末吉くんたちのために、子守唄、歌ってあげて。きっと今頃、天国で、お母さんたちに歌ってもらってると思うんだけど、念のため」
「……そうか」
 頷いた神音が、墓の前に花束を手向け、息を吸った。
 太助はルウにくっつきながら、ルウとチーズケーキを半分こして、水羊羹の半分を末吉に置いてやりながら、

 Schlafe, schlafe, holder, suser Knabe,
 leise wiegt dich, deiner Mutter Hand;
 sanfte Ruhe, milde Labe
 bringt dir schwebend dieses Wiegenband.

 Schlafe, schlafe, in dem susen Grabe,
 noch beschutzt dich deiner Mutter Arm,
 alle Wunsche, alle Habe
 fast sie liebend, alle liebewarm.

 Schlafe, schlafe in der Flaumen Schose,
 noch umtont dich lauter Liebeston,
 eine Lilie, eine Rose,
 nach dem Schlafe wird sie dir zum Lohn.

(眠れ眠れ 可愛(めぐ)し緑子(わくご)
 母君(ははぎみ)に 抱(いだ)かれつ
 ここちよき 歌声に
 むすばずや 美(うま)し夢

 眠れ眠れ 慈愛(めぐみ)あつき
 母君の 袖のうち
 夜(よ)もすがら 月さえて
 汝(な)が夢を 護(まも)りなん

 眠れ眠れ 疾(と)く眠りて
 朝まだき 覚(さめ)て見よ
 麗(うるわ)しき 百合の花
 微笑(ほほえ)まん 枕もと)

 高く低く紡がれる、その妙なる音色に、酔い痴れた。

クリエイターコメント今晩は。
ノベルのお届けに上がりました。
ご参加、どうもありがとうございました。

耐え難い後悔の念を、身食いの哀しみを抱いて、暗い昏い穴の中に縛られた少年は、皆さんのお心、お言葉、差し伸べてくださった手によって、解き放たれることが出来ました。

記録者は、皆さんの真摯なお心に感謝し、生きる意味、生かされているということをそれぞれに実践し指し示してくださった皆さんに感嘆し、ただただ御礼申し上げるばかりです。

どうもありがとうございました。
皆さんのお言葉に涙し、胸を打たれ、力づけられながら、とても楽しく書かせていただきました。今作で70本目となる記録者のノベルが、皆さんのお心に、何かしらの色彩を残せば幸いです。


なお、オープニングでも申し上げました通り、プレイングによっては、登場率に偏りが出てしまったかと思いますが、それもまた最後の黄金率に至るまでの必然であったのかと、ご納得いただければ幸いです。


それでは、どうもありがとうございました。
また、次の物語でお会い出来ることを祈りつつ。
公開日時2008-08-26(火) 23:10
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