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<ノベル>
──それは、深い、深い、
理由なんて、単純でいい。
「神獣、か。面白そうだ」
緑の双眸をにやりと細めて、長い金髪を後ろで一つに括った青年──シャノン・ヴォルムスは腕組みを解いた。
「困った人がいたら助ける、ってのが俺の相棒の心意気でな」
赤みがかった茶の髪に手をやりながら、茫洋とした赤い左目を真直ぐに瑠璃色の瞳へと向けて、レイドは言葉を続けた。
「あんたの大事な家族なんだろ? 俺にも……同じもんがあるからよ」
少し気恥ずかしそうに視線をそらした茶髪の青年に、不適に笑う青年に、シャガールはふうわりと微笑んだ。
レイドがこの依頼を受けたのは、なんとなくの気分だった。
どうにも団体行動をとらせようとする人懐っこい相棒から、ふらりと離れて行き着いた先が、なぜか対策課だった。依頼自体は大して興味が引かれるものでもなかったのだが、とりあえず様子を見てみようかとぼんやりと思った。
そこにいたのは長身の金髪の男と、盗賊と聞いて予想していたよりも細面の、瑠璃の瞳が印象的な女のような男だった。その、瑠璃の瞳のふうわりとした笑みの中に、何か翳りのようなものを感じたのを覚えている。
「ハリスは、大事な大事な、俺の、俺たちの、家族なんだ」
痛いぐらい真直ぐなシャガールのその言葉に、共感した。
それは、隣の男……シャノンも同じようであった。しかし、どうにもちゃっかりとしているらしいこの男は、言葉を続ける事を忘れない。
「払うものは払ってもらうがな。タダで手を貸す程、俺はお人好しじゃない」
シャノンの言葉に、シャガールは困ったように苦笑した。
「俺とハリィのおきゅうりょうとやらで、足りるといいんだけどね」
「足りない分は体で払ってもらおうか」
片眉を上げ、さも当然というように真顔で言う彼に、どういう意味だろうと考え込む自分の横で、シャガールは声を上げて笑った。
「俺に出来る範囲のことなら頑張るよ」
にこにこと微笑むシャガールに、さも面白いと言わんばかりにシャノンは緑の瞳を細めてくつくつと笑う。
まるで狐と狸の化かし合いだ。
レイドは人知れず、小さくため息をついた。
それにしても、レイドは自分に驚いた。依頼を受けるというよりも、彼に協力しようと自分で決めたことにだ。普段の自分からは到底想像できないことだったし、なんにしても面倒くさがりであるのは、自他共に認めるところだったからだ。相棒がいたら、諸手を上げて喜んだかもしれない。
その、いつも傍でふわふわと笑っている相棒がいないのはなんとなく落ち着かないところではあるのだが、シャガールに協力すると決めたのだから、相棒を傍に連れ置くわけにはいかない。危険に晒す事だけは、したくはないのだ。
「そろそろ行かないか」
ぼんやりと自分の思考にふけっていたレイドが口を開くと、二人はようやく妙な笑みを引っ込めた。ちらりと視線を交わして、誰からともなく歩き出す。
「……ありがとう」
少し……いや、ずいぶん気恥ずかしい事を口にしてしまったその時のシャガールの笑みは、おそらくは本物に近いものだろう。
◇ ◇ ◇
ぽつんとひとり立ち尽くして、それは小首を傾げた。
小民家的な民宿は、見た目にはこぢんまりとしているのだが、中に入ってみると妙に広い。
最近現れたムービーハザード、『迷泉楼』の中である。
そのただ延々と続く廊下を動かない左足をずるずると引き摺って、病的なまでに青白い肌の、彫刻のように美しく整った少女と見紛う面持ちの少年は壁伝いに進む。時折ぐるりと首を巡らせて、左の青玉色の瞳をきょろきょろとさまよわせるのは、右目を包帯が覆っていて視界が極端に狭いからであった。たまにはどうにか十字になった先の壁へと縋り付くが、 壁伝いに歩いているので基本的には角があれば壁の通りに曲がってしまう。とにかく来た道を戻ろうと思ったのだが、同じような廊下が延々と続くばかり。
このままではいけないと思い至り、 骨と皮だけのような痩せ細った手で、携帯電話を取り出す。
──「迎えに来て」と電話をしたら、時間はかかっても必ず来てくれる。
ある人に教えてもらったことだった。
早速教わった通りに電話帳なるものを開き、かけたい名前を選び、通話ボタンというものを押す。音が聞こえる方の穴に耳をあて、これで安心と思った。しかし、聞こえるのはいつものコール音ではなく、誰か知らない人の声。
「……けーたいでんわ、こわれたの?」
いよいよ途方に暮れたそのわけは、有り体に言えばようするに、迷子になってしまったからであった。
温泉は楽しいところ。
そう聞いて、思わず温泉ツアーのバスに乗り込んだ。そうして『迷泉楼』に辿り着き、その中で迷子になってしまったのである。
頼みの綱の携帯も繋がらず、ふつと何かが切れたようにずるずるとへたり込んだ。
少年は名を、ルウという。『銀の予言者』という中世頃をイメージしたファンタジー映画から実体化したムービースターである。よって近代の文明の機器などとは縁遠く、携帯電話は繋がるものと教えられ、そのままその通りに思っている彼には圏外という事態に対応するどころか、それが何を意味しているかすら理解の範疇外である。
ルウは服に隠れたペンダントを引っ張り出し、ひとしきり見つめた後に噛んだ。ピンクファイアーオパールのペンダント。これも、携帯電話をくれた人からもらったものである。
その時、雪色の髪をあるかなしかの風がそよがせる。顔を上げ、そちらへ視線を向けるとどうやら外へと繋がっているらしい。廊下が途切れて緑が見えた。
入り口まで戻ったのだろうかと思い、ともかくも行ってみることにした。
しかし行き着いた先は、鬱蒼と大樹がしげった森だった。みっしりと茂った葉と葉の微かな隙間から、うっすらと陽が差込んでいる。
思い掛けない景色に瞑目していたその時、唐突に知らない声が飛び込んで来た。
「──人間か」
◇ ◇ ◇
崎守敏は、まるで吸い寄せられるかのようにその森へとやってきた。
空気は適度に水気を含んで清々しく、様々な植物が所狭しと生い茂り、大樹が大きく枝を広げてみっしりと葉を茂らせている。まるで無秩序に、思う様に茂るその森は、まさしく原始の森というに相応しい。しかしその原始の森は何かの意志が働いているかのように、実は無秩序ではなく美しく整えられているようにも感じられた。どこかで鳥が鳴いている。微かな葉と葉の隙間から差込む陽が温かい。
上から下まで真っ黒な衣装に包んだ、その少女めいた顔立ちの少年、敏は、やはり黒い双眸を細めてそっと大樹に触れる。その触れた手までをも、黒い肘まである手袋が覆っている。銀の腕輪だけが、鈍く光った。
敏は懐かしそうに瞳を閉じて、こつりと額をあてた。この森は、敏の真実の故郷を思い起こさせる。そして故郷を思い起こさせるこの森は、彼に深く根付く、ある強い思いを掻立たせた。
それはひどく苦しくて、しかし哀願にも近い切実な思いだった。
敏は薄く目を開き、すと大樹から離れるとまたぼんやりと歩き始めた。
遠くで森がざわめく音がする。鳥が羽ばたいて、その羽毛とみっしりと茂った葉がひらひらと落ちた。
敏は何故かはっとして、近くまでやって来たざわめきを凝視した。
耳鳴りがする。
なんだ、これは。
思うが早いかその瞬間、敏は駆け出していた。
胸の辺りがざわざわする。
ぎしぎしと、なにかが軋むような痛みが襲った。
咆哮が、聞こえる。
駆けて駆けて、視界が開けたと思った時には世界が真っ赤に染まっていた。
──ああ。
これは咆哮なんかじゃない。
哭き声だ。
◇ ◇ ◇
温泉である。
しかも、神秘の森から湧き出るという秘湯「百の神泉」である。ムービーハザードであろうがなんだろうが、温泉は温泉。今日は気ままな一人旅、ゆっくり浸かって日頃の疲れを癒すのだ。
意気揚々と、梛織は温泉グッズを鞄に詰め込み、温泉ツアーのバスが待つ広場へと向かった。しかしそれでも“ある程度の装備”をしてしまうのは、彼の職業故か。
ともかくも梛織は、黒い髪を少し肌寒い風に揺らしながらバスへと乗り込んだ。出発の時間にはまだ余裕がある。窓際を陣取った梛織は、ふと窓の外に目をやった。
「あれ、」
彼の目に映ったのは、見覚えのある雪色の髪。梛織は、一度見た顔は忘れない。窓を開けて、大声で呼んだ。
「ルウ! そんなとこで何してんだ?」
梛織の声に、ルウと呼ばれた少年はびくりと体を震わせる。その反動か、痩せ細った少年はそのままへたりと座り込んでしまった。梛織は慌ててバスを降りる。
駆け寄ってひょいとルウを抱き上げ、ともかくも少年の膝や手などを見聞する。怪我はないようだ。ただ、震えている。
「大丈夫か? ごめんな、驚かせて」
よしよしと弟たちにするように撫でてやると、ルウは少しだけ落ち着いたように見えた。
「……どこか、いくの?」
消え入るような細い声である。それでもしっかりと聞き取った梛織は、にかっと笑って答える。
「温泉に行くんだ」
「おん、せん……?」
「楽しいところだぞー、あったかいし、気持ちいいし。せっかくだから、のんびりしようと思ってな」
日頃の巻き込まれ症の疲れを取る為に。
それは、ひっそりと心の中で呟くことにする。
そんな心中を悟ったか、ルウは相変わらず怯えたような目ではあるが、首を小さく傾げる。梛織は取り繕ったような笑みを浮かべた。
バスのクラクションの音がする。出発だ。
「っと。じゃあな、ルウ。あんまり一人で出歩くなよー」
何かあると、あいつが怖いから。
それも、こっそりと心の中で呟くことにした。
◇ ◇ ◇
風が吹いている。
温泉宿の傍にあるからだろうか、本格的に冬が始まろうというのに、その森に吹く風は温かく心地よかった。
それにしても、奇妙な温泉宿だ。
麗火は呆れにも似た溜息を落とした。見た目はこぢんまりとしているくせに、中は迷路のように複雑な造りで、奇妙に広い。従業員に至っては、耳だの尻尾だのが生えた珍妙な格好をしていて、麗火は柳眉を寄せた。
もっとも、麗火が『迷泉楼』へ来たのは温泉に入る為ではない。『迷泉楼』と共に現れた、“神獣の森”。これが気になって、やってきたのだ。
風が強くなった。麗火の赤い髪が、さらさらと風に流れる。
彼に纏わりつくモノ……“風”が、陽気にくるくると回る。上機嫌らしい。もっとも、風はいつも暢気にくるくる回るが。
逆に、“焔”は不機嫌だ。風が踊っているからではない。この森の空気が、気に食わないのだ。
麗火も、それが気になってこの森をふらついていた。もっとも、焔の不機嫌は、麗火のそれにも要因がある訳なのだが。
原始の森。そう呼ぶに相応しい、齢数百を簡単に数えるであろう大樹が連立するこの森。風は心地よく、みっしりと茂った葉の間から零れる陽射しは温かい。
しかし、何かがよくない。何か、張りつめたような気配がある。それの正体が、気にかかる。
ふいに、風がぴたりと止まった。
「……どうした?」
麗火が問う。
しかし、風は先ほどの陽気さはどこへやってしまったのか、ただぴたりと止まった。心なしか、震えているようにも感ぜられる。それは、不機嫌だった焔も同じだ。麗火は首を傾げる。
彼に纏わりつく風と焔は、自然現象と呼ばれるそれそものの力を指し示すモノの加護である。故に、神聖なるものにも邪悪なるものにも屈することは無く、ただ麗火を愛し加護し続けている。それは、銀幕市に来ても変わることはなかった。その、風と焔が沈黙している。
「おい──」
地が轟き、そして咆哮が森の静寂を破る。
風が、一気に吹き上げた。麗火は思わず目を瞑る。みっしりと茂った葉をざわざわと蠢かせて、行くなというのか、草木を揺らしながら麗火を取り囲む。焔もまた行くな、という。焔は嫉妬深いが、愛情も深い。行ってはならぬと、駄々をこねる。
麗火はどうしたものかと逡巡したが、二度目の咆哮に、風、と叫んでいた。
「人間、人間! ──……貴様らはだから愚かなのだ!」
◆ ◆ ◆
──どうしようもない、途方も無い程の、
◆ ◆ ◆
「おい、一つ聞くがいいか」
杵間山を行く途中、シャノンが口を開いた。
シャガールは続きを促すように、瑠璃の瞳を向ける。シャノンは横目でそれを認めて、足を休ませぬまま続けた。
「貴様はこのハザードの映画を見て、ハリスが行ってしまったのも仕方がないかもしれない、と言ったな。あれは、どういう意味だ?」
シャガールはあの、困ったような笑みを浮かべる。口を開きかけては閉じ、話すか話すまいか、どこから話そうか、迷っているようだ。
ようやくその口から言葉が零れたのは、『迷泉楼』が見えて来た時だった。
「人魚の伝説を知っているかい?」
シャガールの口から出たのは、シャノンの意図する答えとはずいぶんとかけ離れていた。眉根を寄せると、レイドがそれに答えた。
「あれか、人魚の肉を食えば不老長寿を得られるという」
シャガールは頷く。
「俺は、銀幕市に来てからそれを知ったんだ。あるばいと先の商人が教えてくれた」
それはどんなアルバイトで、どんな雇用者なのだろう。ふとそう思ったが、話が反れそうだったので聞くのは止めた。
三人は、『迷泉楼』と書かれた表門をくぐると玄関へは行かずに森へと直接足を向けた。
「ハリィは──ドラゴン族は、と言った方が正しいかな。ドラゴン族はね、まさしく人魚扱いされていたんだ。存在そのものが稀少だから、見ることも極稀だ。──今となっては、と付け加えるべきだけどね」
「それは、ドラゴン族の肉を食うと不老長寿になる、という意味か」
レイドの言葉に、シャガールは頷いた。
「もっとも、ドラゴン族の肉なんか食べたって不死になんかなれないけどね」
「何故わかる」
間髪入れずにシャノン。
「ドラゴン族っていうのはね、──あまり知られていないけど──自然界の力が収束して形を持ったものなんだ。こっちでいうと、精霊の類、って言えば解りやすいのかな。肉体なんか持っていないんだ。だから、食べるどころか捕まえることすら出来ない。以前にハリィの脱皮を手伝ってもらったことがあったけど、抜け殻は手伝ってくれたみんなや俺たちの冬の食料になった。それが出来たのは、あの抜け殻はハリィが持つ膨大な魔力の膨大な魔力が凝り固まって出来たものだからなんだよ。真珠みたいなものだね」
シャガールはそこで言葉を切る。
「……それを知った、不死になりたいという馬鹿者たちは、だからドラゴン族を滅ぼそうとした」
「なぜ……」
「自分たちの思い通りにならないからさ。思い通りにならない以上、ドラゴン族はただ強大な力を持つモンスターに過ぎない」
沈黙が落ちる。
──異端の存在。
ただそれだけで、抹殺の対象になること。
それは、二人には理解できすぎる事実だった。
沈黙することしばし。ふいにシャノンが眉根を寄せる。
「血の……臭いが、する」
答えたのは、レイドだった。弾かれたように、三人は駆け出す。
「人間は奪い過ぎた。もう戻らぬ……っ!」
◇ ◇ ◇
ルウは体を震わせて、その声と向かい合う。
それは、白銀の毛並みを神々しいまでに煌めかせた、巨大な狼だった。頭を動かさなければ、その全貌が見えない。煌煌と輝く目は血のように赤く、口から覗く牙は太く長く鋭い。手足の爪は、牙よりも更に凶悪だ。
笑うこともなく、ただ見下ろしてくる狼は、ふんと鼻を鳴らす。
「人間が、我に何の用だ」
その声は、不思議な声だった。口は動いていないように見える。耳ではなく、頭に直接響いてくるような声だ。見下した、地を這うような低い声だ。
──怖い。
ルウは、表情はほとんど動かさず、しかし体を震わせる。動くことも、声を出すこともできずにただその場にへたり込んだ。狼は心底憎々しげに首を振った。
「きっと迷子だよー。放っておけばいいじゃない。あんな子どもじゃ何にもできないよー」
ピリピリとした空気の中、間延びした声が響く。
どうにか顔をそちらへ向けると、魚のような鱗を顔や腕に生やした蒼い髪の青年がいた。ルウを見ると、にこりと笑う。
「ここにいたら危険だよー。早くここから離れてねー」
「危険だと? 貴様、何を寝ぼけたことを言っているのだ。ここに来た以上、行末は決まっているのだ」
狼の声に、びくりと震え、這うように後退する。それを見て、狼はにぃやりと嗤うように深紅の瞳を細めた。緩慢な動きで頭を振り上げる狼を、鱗の青年が止める。
「きみ、気が短すぎだよー。いいじゃない、子どもだよー?」
「子どもではない。人間だ」
吐き捨てるように言って、狼はざわりと立ち上がった。
立った、と思ったときにはルウの瞳には赤く染まる地面が見えた。
「ぅ、あっ……?」
赤いものが血だと認識するのにしばらく、自分の体がその血溜まりの中に沈んでいるのだと気付くのにしばらく、氷の破片が飛び散っているのに気付くのにしばらく、右肩が真っ赤に染まっているのにしばらくかかって、ようやくルウはあの凶悪な爪に抉られたのだと理解した。
遠くで、鱗の青年が狼に何か言っているのが聞こえる。何を言っているのかはわからなかった。ただ、狼の声だけが、頭に響いて回る。
「愚かな人間を殺して何が悪い!」
「貴様が邪魔をしなければ、あの人間を殺せたのだ!」
頭がぐらぐらする。
それは、大量の出血も手伝っていたが、何よりも狼の声が体中に響いて吐き気がした。口の中に、強い酸味と鉄の味が広がった。
──だめ。
しぬは、だめ。
「るう……」
喉がかすれる。
頭に響いていた声が止んだ。
「るう、にくむは……しらない。でも、なぐるのはいや……こわいもの……」
脳裏を掠めるのは、いつも怒っていた兄や大人たち。
笑っても、泣いても、怒っても、何をしても自分を殴った者たち。何が気に入らないのか、ルウにはわからなかった。
ただ、どんなに叫んでも届かないのなら、ならば最初から何もしなければいい。
それならそれで、それが気に喰わぬとやはりあの人たちは自分を殴ったけれど、口汚く罵られたけれど、でも、それでも、とルウは思う。
そして、この銀幕市という場所で。ルウは、それと出会った。
「……やくそく、したの。……しなない、で、いきるって……やくそくは、まもるこ」
言葉を言い切らぬうちに、ルウは視界を失う。
腹部に激痛を覚えて、ルウは視界を取り戻した。
「ルウっ?!」
◇ ◇ ◇
漆黒の全身から、深紅の血が迸っていた。
苦悶に顔を歪めて、敏はそれでもどうにか体を起こす。視界いっぱいに、銀が広がる。
生き物だ、と思えたのは、その銀の中に煌々と輝く深紅の瞳が見えたからだ。
「きみ!」
声が聞こえる。自分じゃない、銀の生き物に向けられた声だ。
さっきのあの声はでは、この銀の生き物の声だろうか。
「おのれ……おのれ、人間め! 我が領域に入り込みおって!」
「きみっ、落ち着いて!」
「黙れ、人間に飼いならされた愚か者がっ!」
ちらり、蒼い髪が視界に入る。鱗が生えた、人の形をしたものだ。言い争いをしているのは、その蒼い髪らしい。
「飼いならされたつもりはないよ。僕はきみに」
「黙れっ! ここも同じだ、人間のものばかりだ。穢らわしいっ!」
「きみっ!」
「我はゆく、我はゆくぞ。我の領域を侵されたままにするものかよっ!」
声が頭に響く。銀の生き物の声は、耳ではなく頭に響いてくる。それだけに、余計に胸に突き刺さるようだった。
ふらりと立ち上がると、深紅の瞳が自分に向けられる。
「誰も……誰も、君たちの居場所を奪おうなんてしていない。少なくとも、この銀幕市は。……それともそれは、僕が知らないだけなのかな?」
敏は、漆黒の瞳を真直ぐに深紅の瞳へ向ける。その表情は、寂しそうな、泣きそうな笑顔だった。
銀の生き物がゆらりと蠢く。そこでようやく、それが狼のような形をしていることに気付いた。神々しいまでのその姿に、敏はさらに遠い故郷を思い出す。
「居場所を奪われるのは……哀しいよね……」
銀の狼が、わずかに揺らめいた。
……居場所を奪われる怒りと哀しみ。
敏には、それが泣きたいほどに理解できる。敏もまた、居場所を奪われた。強制的に異世界へと召喚されたのだ。
還りたい、還りたい、還りたい。
いつも、……今も、還りたいと願う。あの、愛おしい故郷の、愛おしい命たちがいる世界へ。
還りたいと願う自分と、この銀の狼の望むことは、少し違うかもしれない。それでも、この銀幕市という地に足をつけて、わずかなわずかな希望を抱けたことも確かなのだ。
それを、この銀の狼に伝えたい。この銀の狼にも、そんな希望が抱けたらいい。彼が少しでも、安らかに──
「僕は君がヴィランズ……悪い者として扱われるのは嫌だ。人に害意を表すことで、悪いものと認定されてしまうのは嫌だよ。だって、 この銀幕市でなら、君にも何か道が見つかるかもしれないんだ。僕に何かが見つかったみたいに、君にも」
それは、思い掛けないほど真直ぐな言葉だった。
頭に、声が響く。
「……もう、遅い」
銀の狼の向こうに、真っ赤に染まった人間が見えた。
◇ ◇ ◇
「ひっろいなー、この宿。ま、それだからこそ秘湯ってやつを探す楽しみもあるけどな」
梛織は大きな鞄を抱えたまま、迷路のように入り組んだ温泉宿『迷泉楼』の中をうろついていた。
玄関側の温泉は広いらしく、また宴会などもやっているようで、ずいぶんと賑わっていた。楽しいことが好きな梛織にとってはそれもまた魅力的だったのだが、今日は一人でのんびりとしたい。静かな秘湯を求めて、梛織は奥へ奥へと歩みを進めた。
そうしてしばらく進んだところで、梛織はふいに足を止めた。
「あれ?」
梛織が目にしたのは、大樹が連立する森だった。みっしりと茂った葉と葉の間から暖かな陽射しが差込んでいる。
「杵間山……じゃ、ねぇな。『迷泉楼』と一緒に実体化した森のハザードか」
植村に渡された「旅のしおり」を思い出す。確か、神獣の森とかいったか。なるほど、確かに清々しい空気だ。
梛織は瞳を閉じる。
瞬間、体中を電撃が走ったかのような感覚に教われた。梛織は銀の瞳を鋭く光らせて、さっと視線を走らせる。
──なんだ?
空気を震わせて、殺気が押し寄せてくる。梛織は思わず駆け出した。
「梛織っ?!」
耳に慣れた声がする。
次に聞こえたのは、狂ったような咆哮。
そして誰かの叫び声。
梛織は目を見開く。
「人間っ! 殺してやるっ!!」
鼓膜ではなく、頭に響くそれと同時に迫った暴風に、梛織は蹴りを繰り出した。
「──っつぅ!」
まるで分厚い鉄板にぶち当ったように、梛織は吹っ飛んだ。体が痺れている。思うように動かない。小さく舌打ちをして、梛織は頭を抱えた。次に来るであろう衝撃に耐える為だ。
しかし、梛織が感じた感触は、固い地面ではなかった。
「……ったく、手間のかかる奴だな」
「シャノンっ!?」
思わぬ人物に、梛織は場違いに素っ頓狂な声で叫んだ。半ば呆然としている梛織を、シャノンはぽいと転がした。その勢いで、頭を打つ。
「ってぇ、何すんだよ!」
「悪いが遊んでいる暇はない」
シャノンはFN F2000と呼ばれる口径5.56mmのアサルトライフルを構える。普段扱う二挺拳銃――FN Five-seveN――の約三倍はあった。その銃口の下には単発式のグレネードランチャーが装備されている。
訝しむ暇もなく、梛織は反射的に飛び退いて臨戦態勢を取った。殺気が自分を押し潰すかのように迫り来ていた。
飛び退いて体制を整え、それを見据えた梛織は目を丸くした。そこにいたのは、銀の毛並みが美しい巨大な狼だった。深紅の瞳は爛々とし、梛織の目には“血に飢えた狼”に見えた。
「な、なになに、なんだよ、一体、どうなってんだ?!」
狼狽しながらも、梛織は冷静に繰り出される爪や牙をかわしていく。隣でシャノンのFN F2000が火を噴いている。その向こうでは、瑠璃の瞳が印象的な女が紐の先端に錘を付けた武器――流星錐と言ったか――を振るい、見たことの無い隻眼の男は剣を振るっている。漆黒の髪の少年は、銀の腕輪を変化させながら苦痛に顔を歪めている。走るたびに、跳ぶたびに、赤いものが散る。
血だ。
見れば、シャノンもまた血に塗れていた。銀の狼もまた、あちこちに赤黒い染みを作っている。
なんだ、何が起こっているんだ。
一瞬の逡巡。その一瞬が、梛織の隙となってしまった。
「梛織っ!」
シャノンの声が聞こえる。体が熱い。黒のジャケットが裂けて鮮血が飛沫いた。
ああ、このジャケット結構高かったのに。
妙に冷静な頭でそう思って、梛織は地面に叩き付けられた。痛みに体を蹲らせて、ふと自分ではない血に顔を上げた。
雪色の、髪。
「ルウっ?!」
◇ ◇ ◇
麗火はそこに立った時、自分が驚いたことに驚いた。
辺り一面、血、血、血。
血の海とはこういうものを言うのかと考えている自分がおかしかった。
その、血溜まりの中で。
巨大な赤黒い狼と、蒼い髪の鱗を生やした、見覚えのある男だけが立っていた。
その狼は、どうやら麗火には気が付いていないようである。地に倒れ伏した六人に向かって喚き散らす。
「神などおらぬ、何が神か! 貴様ら人間が勝手にそう呼んだだけであろう、何故我が貴様ら人間なんぞの為に尽くしてやらねばならんのだ! 勝手に思い込み勝手に崇め勝手に絶望し勝手に怒り、自らのせいにしたくない為だけに我らの住処を奪う……っ! 何が恐ろしいだ、何が理解できるのだ、何が協力だ、何が一方的な憎しみだっ!!」
轟くような声はしかし、麗火の耳には空振いて聞こえた。
ちらりと鱗の男に目をやる。男は無表情に突っ立っていた。
「我は許さぬ」
風が震えた。
焔は麗火にぴたりと寄り添う。
麗火は、思わず呟いていた。
「俺の世界の神サマとやらは好き勝手やりなさって、挙句失策を全部人間に押し付けて、雲隠れなさるような御方だったが……世界が変わると変わるもんだ」
ゆうらりと、赤黒い狼がこちらを振り返った。
深紅の瞳を爛々と煌めかせて、血の滴る牙を剥くそれは、邪神。そう呼ぶに相応しい姿だった。
「もっとも、その威張り腐った狼サマに何も浮かびはしないけどな」
「……麗火くん……」
名を呼んだのは、呆と突っ立っていた鱗の男――ハリスだった。
麗火は眼鏡の奥で、すぅと眼を細める。
「ハリス、お前は何をやってんだ。お前が並ぶ仲間は、選ぶ手は、それでいいのか?」
冷ややかな声に、ハリスは表情を動かさずにただ麗火を見返した。その眼には、なにも読み取れない揺らぎがあるだけだった。
「人間、まだいたのか」
赤黒い狼の声。耳ではなく、直接頭に響いてくる。
麗火は鼻でせせら笑った。
「たかが獣が偉そうな口を利くな。殺すぞ」
彼の言葉に、赤黒い狼が笑った。
「殺す! 殺すか、我を! そうだ、人間とはそういうものだ!!」
狼の咆哮が響き渡る。
地響きを立てて、真っ赤に染まった爪が、牙が、迫り来る。
麗火は腕を掲げた。
「灼き尽せ、焔」
◆ ◆ ◆
──痛い、憎い、穢らわしい、
◆ ◆ ◆
銀の。
巨大な銀の、狼が居た。
その隣には、蒼い髪を三つ編みにした、頬や腕に鱗を生やした男が立っていた。
男の足下には全身を漆黒に包み、血溜まりの中に蹲った少年が居た。
狼の向こうには襤褸雑巾の様に、血溜まりの中に蹲った少年が居た。
「ハリィっ!」
「ルウっ!!」
シャノンは一足飛びにルウの元へと駆け寄った。抱え起こすと、ただでさえ青白い肌が真っ白になっていた。雪色の髪が流した血で赤く染まっている。シャノンは唇を噛んだ。
──なぜ、なぜルウがこんなところに?
ルウの周りには青い氷の欠片が散らばっていた。ルウの、魔法だろう。しかし彼に魔法は制御できない。無意識のうちに放っていたのだろう。よく見ると、肩口と腹に、氷が張り付いていた。これも無意識だろうか、止血にはなったかもしれない。
──しかし、このままでは危険すぎる。
シャノンは首から下げた、銀の十字架に触れた。
その姿は、まるで神に祈りを捧げているようにも見えた。
「……ぐずぐずしていられんな」
そっと抱きしめてから上着を脱ぎ、ルウに掛けるとそっと横たえた。
「ハリィっ!」
ああ、お頭。
お頭の声がする。
ぼんやりとした頭で、そう思う。
どうして来ちゃったのかな。
ああ、僕が渡したんだっけ。
ぼんやりとした視界の中で、シャガールだけが鮮明だ。
どうして渡したんだっけ。
お頭だけには、知ってほしかったからだ──。
「また人間。今日はまことに招いてもおらぬ客の多いことよ」
頭に直接響いてくる声に、レイドは眼を細めた。
これが、神獣。
シャガールが声を張り上げる。では、あちらの鱗が生えた男がハリスか。
レイドは血に染まった狼の爪を見る。巨大な爪だ。倒れているあの二人は、あの爪に抉られたのか。 一人はシャノンの知り合いらしい。見たところ、多分まだ生きている。
ハリスは、ただ呆と立っていた。足下の少年を介抱するでも無く、ただ呆と。
再び狼に眼を移した。
「何用だ、愚かな人間共よ」
頭に声が響く。
それにはシャガールが答えた。
「ハリィを……ハリスを、迎えに来た」
その声に、ハリスが僅かに反応する。狼は双眸を細めて笑った。
「貴様か。この者を誑かしたのは」
「……ハリスが、そう言ったかい」
シャガールの瞳に、また翳りが過る。レイドは眉をしかめた。
「ねぇ、キミ。キミの思いが間違ってるだとか、悪いだとか、そんなことを言うつもりは無いよ。でも、ハリスは、連れて帰らせてもらう。……そこの、倒れている子もね」
「戯けたことを。この者たちは、自ら我が元へやってきたのだ」
「……そうだね。その通りだ」
レイドはハリスを見る。相変わらず、呆としている。ただ、その瞳の先には、シャガールがいる。
「貴様……貴様は、そうか、そうなのだな。ならば斯様に思うも得心ゆくというものだ。貴様らは、そういうものよな」
狼はゆるゆると双眸を細め、ぎらり、深紅の双眸を剥く。巨大な顎から凶悪な牙を剥き出しにして、轟轟と唸った。
「最も憎らしく穢らわしい人間よ!」
狼の言葉に、シャガールはただ真直ぐに向かう。それは痛みを堪えるようでもあり、狼を哀れんでいるようでもあった。
狼は牙を鳴らす。眼に、爛々とした光が宿る。
「貴様、貴様らが何を言うもなければ、我らは」
狼は吼えた。ざわざわと森がさんざめく。肌が痛く感じるほどに、空気が震えていた。
レイドは目を閉じた。
かつての自分が、そこにいるようで。
「俺も、憎んでた」
昔……あの人懐こい相棒に逢うまで、何もかもを。
鋭い視線を感じる。狼がこちらを向いたのだろうか。
レイドは、種族を悪魔に置く。彼の世界では、世界が悪魔を疎み、悪魔は天使に殺される為だけに生まれてきた。その悪魔を殺せるのは天使のみ。だから人々は天使を崇めた。
人間はレイドの真実の姿を見ると、言った。
――悪魔!!
滑稽だった。悪魔に向かって悪魔と叫ぶ人間が可笑しかった。愚かで、矮小な虫けらだと。
けれど、レイドは出会った。
「憎かった。力も無いくせに、口だけは達者な虫けらだと思ってた。だが――」
あの陽だまりの笑顔と出会って、気付いた。人間のあれは、憎しみではなく恐怖だったのだ。
「いつまでも一方的な憎しみ合いしてたって、何の意味もないだろう?」
レイドは目を開く。茫洋とした赤い瞳と、爛々とした深紅の瞳がぶつかる。
「俺は、人間を憎んではいない」
どこからかアサルトライフルFN F2000を取り出しながら、シャノン。
「憎まれているが、それもどうでもいいことだ」
緑の双眸はライフルに向けられている。深紅の瞳が金の髪を見据えた。
「……愚かさこそが、人間だ。全ての人間が好きだという訳でもないが、好く事が出来る者も居る」
照準を、銀の狼へと合わせる。爛々とした光が強くなる。
「それをただ愚かだと断じ、憎悪するのは狭量で愚かしい。傲慢が前提にあるのだろうが……ガキと大して変わらん精神構造だ」
「……こどもだよ」
シャノンは眼を細める。
赤い瞳から、声の方へと視線を向ける。長い三つ編みの蒼い髪が、あるかなしかの風に揺れている。
「こどもなんだよ。ぼくらは」
伏せられていた顔が、こちらを向く。
ゆらゆらと、何とも取りにくい金の瞳が揺れている。
「ぼくらにあるのは、ひとつだけなんだ」
「それは」
再び臥せられようとした顔を、レイドは止める。ゆらりと、ハリスの眼がレイドを向く。
「それは、憎しみか?」
ゆらゆら。
ゆらゆらゆら。
金の瞳が僅かに微笑んだように見えた。
「──ちがうよ」
◇ ◇ ◇
激痛で目が覚めた。
熱いのか、冷たいのか、よくわからない。ただ、何か温かいものに包まれているように感じて、寒くはなかった。
耳が何かに押し付けられているせいで、低い音がよく響く。
赤い。赤い血が見える。
「ルウっ! 大丈夫かっ!!」
知ってる声がする。この、大きな声を知ってる。
ぼやける視線をそちらへ向ける。視界ははっきりしない。黒い髪が見える。
「…な、……お…おじ………?」
「よかった、ルウ……あ、動くなよっ」
大きな声に首を竦ませて、ルウは視線を揺らがせる。その、揺れた先に、よく知っている金の髪が見えた。緑の瞳が、こちらを見る。
「しゃの……」
「ルウ、待ってろ。すぐ終わらせる」
シャノンが微笑む。短い言葉。ルウは体中が軽くなる思いがした。ふわふわと温かい。
ああ、ずっと、シャノンがだっこしてくれたんだ。
眼を閉じる。
低い声が頭を這った。
「人間、死に損ねたかっ!」
赤黒い塊がやってくる。これ以上開かないほどに眼を見開いて、ルウはまるで他人のようにそれを見ていた。
金の髪が、黒い髪が、銀、赤、茶色が目の前で踊った。
「触るな」
低く鈍い音が轟く。赤黒いものが塊に絡み付く。蛇だろうか。鉄が錆びたような臭いがする。誰かが舌打ちをした。頭に声が響く。
「おのれ、小癪な人間共め! 殺す、殺す殺す殺してやるっ!!」
心臓が凍るような気がした。
なぜ、なぜ。
「あーもうっ、わけわからんけどなんでそんなに人間が憎いんだ、あんた!」
ルウの心を代弁するかのように、梛織が叫ぶ。赤黒い塊は炎を撒き散らしながら頭を叩いた。
「……っそうさせたのは、貴様ら人間だ!」
痛い。
痛い。
頭が痛い。
胸が痛い。
「殺す、殺してやる! 貴様ら人間がいなければ箱庭も無くなるのだっ!」
熱い。とても熱い。
何かを焼いてる臭いがする。シャノンが苦しそうな顔をしている。
「……だめ、だよ……」
ルウは声を絞り出す。
「にくむの、よくない……いきてる……おなじなのに、どーしていなくならなきゃいけないの……? すきはいいこと……ぎゅうはうれしい、ぬくぬくで……」
「黙れっ、死に損ない!」
「……よくわかんないけど」
梛織の声がする。
「俺は、ムービースターってやつで、あんたが箱庭っていったのは多分、街とかのことだと思うんだけど。その街の中に文明ってやつがあって、だから俺は生み出されて……まあその辺考えるとちょっと複雑なんだけど、でも映画があったから今の俺はいるわけで。あんたとこうして話すのも、それのお陰だし。色んな奴に、俺はその文明ってやつのお陰で会えて、それはそれで結構楽しく過ごしてるし。楽しくしようと思えば、いくらでも楽しくやれるところなんだ。なあ、どうしてそう思えないんだ?」
爛々とした深紅の瞳を見据えて、梛織は問う。赤黒い全身から、血が迸っているのだろうか、時々黒いものが狼の体を這う。
「煩い、貴様ら人間に何が解るものか!」
「解ろうとしない貴様に、何を言っても無駄か」
せせら笑うようにシャノン。ぎらりと、深紅の瞳が鋭さを増す。
途端、赤黒い狼から黒い蛇が吹き出した。
「人間、人間! ──……貴様らはだから愚かなのだ!」
◇ ◇ ◇
遠い、昔。
敏は意識が遠退く中で、魔神だった頃の自分を思い出していた。
魔神だった頃の敏は、変化と変質──進化の力を司っていた。自らの力で育まれる命が愛おしく、求められれば求められたままに差し出していた。慈しみという名の甘い神だった。
彼の狼を目の前にすると、敏は泣きたくて仕方がない。
しがみついて、強く強く抱きしめて、大声を上げてまるで生まれたばかりの赤ん坊のように泣き叫びたくて仕方ない。
彼が、彼らが安らかに過ごせるように協力したい。
今のままいられないのなら、せめて一緒に。
「一緒に、安らげる場所を探したいと思うのだけども……どうかな?」
返ってきたのは、痛くて哀しい言葉だった。
「人間は奪い過ぎた。もう戻らぬ」
それは。
それは、もう何も出来ないということだろうか。
せめて、せめて、共に居ることさえも、叶わないということだろうか。
目の前が真っ暗になった。
鮮烈な光が眼を刺して、敏ははっと気が付いた。
「人間、人間! ──……貴様らはだから愚かなのだ!」
何が起きたのか、わからなかった。
ただ、そこにいたのは、銀の狼では無かった。
黒い、おびただしい無数の蛇に体を喰われた……いや、あれは──
「ムービーキラーか……っ!!」
ああ。
もう戻れない。
もう戻れないところまで、君は行ってしまったんだね。
哀しい。
哀しい。
ああ、もう僕に出来ることは一つしかなくなってしまった。
もう流すことなどないと思っていたはずのものが。
零れた。
◇ ◇ ◇
麗火は眼を見開く。
焔も戸惑っているようだ。
確かに焔の灼熱の炎で灼いたはず。しかし、なぜだ。
それは、倒れない。
「人間……殺す殺す殺す」
黒いフィルムのようなものの中で、深紅の瞳が光っている。焼け焦げた、嫌な臭いがする。
頭に響くのは、怨嗟の声。
「スベてすべテだ、シネ、シネ、否、殺スッ!!」
途端、消え去ったと思っていた炎が麗火目掛けて迸る。小さく舌打ちをして、何事かを小さく呟くと、麗火の目の前で見えない巨大な壁が立ち塞がる。しかし、炎はそれをガラスのように打ち砕き、麗火に襲いかかる。
「……っちぃ!」
後方に飛び退き、それでも炎は追いかけてくる。風が逆巻いた。焔が麗火を包む。
咆哮が聞こえた。
ハリスは、呆と突っ立っている。
麗火はダイノランドで間抜け顔で笑っていたハリスを思い出す。隣には、今は倒れ伏して居るシャガールと、その盗賊団たちがいた。笑っていた。みんな。
──苛々する。
「ただ横に並んで居られることの幸いに、それにも勝ってこの偉そうな獣が大切か!」
ハリスは微動だにしない。
麗火は冷ややかな眼で、それを見やった。
「そっちに行くならこの一匹と……いや、二匹まとめて狩るだけだ」
◆ ◆ ◆
──哀しい。
◆ ◆ ◆
シャノンがFN F2000を発砲すると同時に、銀の狼は炎を吐き出した。
弾は狼に命中し、銀の毛並みに赤黒い染みが出来る。
シャノンは小さく舌打ちをした。対象が大きすぎるのだ。その向こうで、レイドが剣を振りかざす。上から下へと打ち下ろした一撃は、人間ならば一刀両断されていたことだろう。しかし。
「人間が小賢しい真似を!」
狼が立ち上がる。その勢いで、レイドは吹っ飛んだ。大樹に背中を打ち付けて、レイドは一瞬、視界が真っ暗になった。
シャガールは流星錐を振り上げる。器用に紐を繰り、錐を狼へと命中させる。しかしあまり手応えは感じられないようだ。顔を歪める。
「我にそんなものが効くと思うてか!」
嘲笑うかのように狼は炎を吐き出す。それをどうにか飛び退いたところで、鈍痛が全身を襲った。狼の、爪。黒檀の肌から鮮血が飛沫く。
ハリスの瞳に、光が宿る。
シャノンは、それを見逃さなかった。
「ハリス、と言ったか。大切に想ってくれる仲間……シャガールは、家族と言っていたが……それは、幸福だと俺は思うがな」
金の瞳が揺れる。
先ほどまでの、何も読み取れない揺れではない。シャノンは言葉を続けた。
「それを否定し神獣と共に生きる事は……正しい選択と言えるだろうか」
「馬鹿な!」
響いたのは、神獣の声だ。
「貴様、貴様は何も解ってはおらぬのだ。貴様のような出来損ないに、我らの何が解る」
「黙れ。俺は貴様に話してるんじゃない」
銃口を向け、引き金を引く。ヴァンパイアとしての飛び抜けた運動能力で、確実に着弾させ、神獣の炎と爪牙を紙一重で裂けていく。
「どうなんだ、ハリス」
ハリスは金の瞳を揺らす。
視線の先には、シャガールが居る。瑠璃の瞳と、ぶつかる。
「──僕は、仕方がないで済ませたくなかったんだ」
ハリスの言葉に、神獣は喉を鳴らす。
「そうであろう、さあ……」
しかし、神獣の言葉はハリスの言葉によって遮られた。
「痛いのも、憎む気持ちも、怒りも、それが全部真実だって知っている。僕だって、きみと同じだから。でも、それでも僕は──」
瑠璃の瞳。
ああ、そこにいてくれている。
ハリスは、深紅の瞳を見据えた。
「僕は、人間が好きなんだ。ただ、それをどうしてもきみに伝えたかった。一人だけでもいいから、好きになって、一緒に生きていけたらと、思ったんだ」
濡れている。
微笑んだその笑顔は、シャガールに向けられる。応える。シャガールが。笑って。
初めて、すきになったひと。
「だから、僕がじゃなくて、きみに僕の手を、取ってほしい」
差し出される、青白い腕。
深紅の瞳は──燃え立った。
「貴様も、貴様も人間と同じだったか」
◇ ◇ ◇
生まれた命は、とても脆弱で。
けれど、脆弱な命を生かす力を備えていた。
これは面白い命が生まれたものだと、思った。
それを人間と呼んだのは、その命だった。
人間は力強く生きた。
その姿は、微笑ましかった。
けれど、その姿は長く続かなかった。
あっという間に増えた人間は、住処を求めた。
それは当然の事だと思ったし、必然だとも思った。
けれど、留まる事の無いそれは、ひどく痛かった。
哀しかった。
哀しみはやがて憎悪となった。
そうして。
そうして最後に残ったのは。
怒りだけだった。
◇ ◇ ◇
低く高いその咆哮は、空気を引き裂いた。
立っていられぬほどのその声は、やがて地を這う。
燃え立った瞳からは、炎が吹き出ているように見えた、それほどに煌めいている。
引き裂かれた空気の合間を、シャノンはライフルの引き金を引いて突き破った。それが合図になったかのように、一斉に走りだす。
轟と、炎が迸る。
びょおと、疾風が走った。
神獣に到達するまでもなく、三人は吹っ飛ぶ。しかし、持ち前の身体能力で体制を立て直し、再び駆け出す。
シャノンは一定の距離を保ったまま射撃を繰り返し、レイドは剣に魔力を込めて肉を断つ。シャガールの流星錐が神獣の首を締め、それを待っていたかのようにシャノンがグレネードランチャーを放つ。
轟音と、狂ったような咆哮。
少しは効き目があったらしい。
再び駆け出そうとした時。視界の端に、見覚えのある者が映った。
神獣は鼻を鳴らし、突進する。
「梛織!」
「人間っ! 殺してやるっ!!」
間に合わない。舌打ちをして、シャノンは吹っ飛んだ体を抱き止めた。
「……ったく、手間のかかる奴だな」
「シャノンっ!?」
素っ頓狂な声と、いつもと変わらぬ驚き顔に、シャノンは安堵する。そんな顔を見せるのがなんとなく嫌で、そのままぽいと転がした。何か喚いているが、これだけ元気ならきっと大丈夫だろう。
◇ ◇ ◇
「待って、よ……」
麗火の耳に届いたのは、シャガールの声だった。黒檀の肌から赤い血が滴っている。ふらふらと立ち上がる彼の美しい白銀の髪が、血に濡れていた。
「……待って……」
「待てないな。それに、こいつはもう正気の沙汰じゃない」
突き放した言葉。
しかし、浮かされたかのように、シャガールは待って、待ってと言葉を繰り返す。
「──もう、道はないんだね」
知らない声。
見れば、全身を真っ黒に、しかし赤いマントだけが妙に鮮やかな少年が、やはりふらりと立ち上がる。
「ムービーキラーとなった者は、もう元には戻らない……」
金髪の男がゆらりと立ち上がる。
「ああもうっ……なんでなんだよっ、ここは銀幕市なんだぜっ?!」
黒い髪の青年が、飛び跳ねるように起きた。彼もまた血が溢れているが、シャガールに比べるとまだマシだろうか。それでも、重症には違いない。
「ハリス、お前はどうするんだ」
眼帯をした、赤髪の男。
「──もう、おわりにしてあげよう」
心が重い。
憎いと、殺すと、言ったその言葉の端々で。
頭に響く、その中に。
どうしようもない、哀しみを感じてしまったから。
それでも、進んでいかなければ。
ムービーキラー。
彼もまた、後戻りは出来ない。
ハリスが高く啼いた。
蒼い鱗が煌めき、悠然と姿を現すそれは、ドラゴン。
空を舞うドラゴンが氷の飛礫を吐き──全員が、動いた。
シャノンのアサルトライフルが火を噴く。神獣の炎が、風が、襲いかかる。防御など何も考えていない、突進。振り上げた足を、その爪で深く抉られた。梛織が倒れる。その反対側から、双頭の狂犬が神獣に食らい付く。レイドの召喚獣、ケルベロスだ。ごそりと黒いフィルムを喰い千切る。それを埋めるように、びょるびょるとフィルムが覆った。猛り狂う神獣は、高く嘶いて炎を撒き散らした。動けずにいるルウをも襲う。ルウは眼を閉じる。蒼い氷が、彼を覆った。敏が、銀の腕輪を水鉄砲のようなものに変質させる。神獣の爪が襲った。避けなかった。引き金を引いた。爪が、敏に深く突き刺さる。誰かの叫び声。倒れた敏の上で、神獣がぴたりと動きを止めた。シャガールがその巨体を雁字搦めにする。麗火の焔と風、そしてシャノンのグレネードランチャーが神獣を襲った。フィルムの再生は、間に合わない。
咆哮が、轟いた。
「……さようなら」
誰の、言葉だったのか。
空を舞うドラゴンが、氷柱を落とす。
地に縫い止められた神獣は、低く低く吼えて。
片手に収まる程の、ぼろぼろのフィルムへと変じた。
ドラゴンが地へ舞い降りると、その風でか、さらさらと風に消えた。
肩を、震わせる。
やがてそれは、低い、慟哭となった。
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クリエイターコメント | まずは、ここまで読んでくださってありがとうございました! そして、お届けが遅くなって申し訳ありません。
今回のシナリオは、私自身、とても考えさせられるものでした。 始めは戦闘メインのつもりでしたが、皆様のプレイングを拝見してこのような形にしましたことを、ここに白状致します。 しかも戦闘シーンが少ない割に、皆様本当に血みどろで……;
ともかくも、皆様の心に何か残ったのなら、と思います。 ご意見・ご感想などありましたらば、是非お気軽に御送りください。 それではまた、何処かで。 |
公開日時 | 2007-12-11(火) 19:10 |
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