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<ノベル>
■1
「っつーか、なんでスルーなんだよ。微妙にさみしいじゃん!」
ルイス・キリングが、とうとう耐えかねて口に出した。
それは、いわゆる禁煙補助剤のコマーシャルに出てくるような、等身大のタバコ型の着ぐるみだった。2メートル近い高さの、ふといタバコに、唐突にルイスの顔がついていると思えばよい。腕は出ているが、脚はないので、そのまま跳ねて進まねばならぬ。
「……ルイスくん」
ルイスの叫びに応えてくれたのは、柊木芳隆だった。
「それは口に出した時点で負けだ」
「……!」
となりで、流鏑馬明日がくっくっと笑いをこらえた。
つまるところルイスがこのいでたちであらわれたのは、彼なりに場を和ませようという心算であったから、まったく失敗というわけではなかったわけだ。
しかし、集まった市民たちも、なにより研究所の職員たちも誰一人、ルイスにはつっこまなかった。彼を知らないものは「そういうムービースターなんだろう」くらいにしか思っておらず、知っていればいたで、全裸でこなかっただけマシかくらいにしか思っていないようだった。
「ちっ」
かるく舌うちすると、にゅるん、と顔の穴を広げてルイスの体が抜け出てくる。下は――フォーマルなスーツ姿だった。
ベイエリアにできたアズマ研究所の出張所――。
対策課を通じて、その場所の視察に集まったのは9名だった。
あのあやしげな機械類をからだのあちこちにつけた東博士みずからが大仰にかれらを出迎え、中へ招き入れる。
中は、天井の高い倉庫の構造を利用して、真ん中に吹き抜けの通路を通し、左右に研究室・実験室が並ぶ形になっていた。よくもこれだけ短時間にこれだけ整えたものだと思う。研究室はいずれも半分が透明のガラスを嵌め殺した壁で仕切られていて、見通しはすこぶるよい。
その中を、白衣の研究員たちが忙しそうに動き回っていた。
「ムービースターの研究にかかわる設備はすべて見せてほしいんだけど?」
発言したのはレナード・ラウだった。
「見えるところすべてがそうだ。好きに見るがいい」
東博士は応える。その表情は不機嫌にも見えるが、一方で、自慢の研究施設を誇らしげにしているようにも見え、今ひとつ感情が読みにくい。
「……」
レナードは、もっと渋られるかと思っていたのがいささか拍子抜けしたように、あたりを見回す。研究室の中につかつかと歩み行っても、研究員たちは特に咎めようとはしなかった。
パソコンや、大学の研究室にあるような機器の類が所せましと並べられている。
太助は興味津津にあたりに目を向け――といって、彼の身長ではちょうどパーテーションの透明部分に届かないので、同行者たちの肩や頭に上りついて、彼なりの視察を行っていた。
「スターの実験とやらは?」
レナードが訊いた。
博士は無言で一同を着いてこさせると、顎をしゃくった。
「実験と一口に言ってもいろいろだ。その時に応じて設備は用意することになる。……ごく基本的なデータ採取は――」
仕切られた部屋にあるのは、これは病院で見かけるような、CTスキャナであるとか、X線装置のようなものだった。ごく普通の体重計や身長計もある。
「ここでフィジカルチェック。一応、心理検査の用意もしてあるが、これはロールシャッハやYG、MMPIといった一般的なものしかない。あとはあちらの特殊環境ルームで、室温と湿度、照明の光度が調節できるので、必要な環境を整える。あとは個別の実験計画によるからなんともいえんな」
取島カラスは、ひややかな視線で、それらの設備を眺めている。
やはり好きになれない場所だ、と彼は思った。
ここには人間を――ムービースターを、数値で測るためのものしかない。
梛織も、列のいちばん後方から、むっつりした表情のまま着いてきているだけだった。彼の興味は、もっと他にある様子だ。
「そういやさ」
レナードはすこし意地悪な顔つきで言った。
「あんたたちがこの間、ノーマンのキャンプでこっそりデータを取っていたことを、不快に思っているやつらも多いぜ?」
「そうよ」
待ってましたとばかりにリゲイル・ジブリールが口を開く。
「どうして勝手にあんなことしたの?」
彼女はまさにそのキャンプに参加していた当人なのだ。傍らに影のように控える斑目漆もそうである。ただ、漆は無言で、そのおもても狐面に覆われていたので、表情はうかがえない。
「最初から市役所に交渉すればもっと違った結果を得られたと思うのだがねぇ?」
柊木も、微笑は崩さずに言ったが、批判を含んだ言(それとも皮肉だろうか)には違いない。
それに頷いて同意をあらわすものたちも多くいた。
「……ああ、あれか。まあ、たしかに実験計画に無理があったのは否めない。あの時点では予備調査の段階で正式に手続きを踏むだけの価値があるかもわからんかったしな。……その後、本腰を入れて取り組む価値ありと判断したので、こうして正式に申し入れを行ったわけだが」
東博士は、あまり興味なさそうに言った。
「……あのときの記録、見せてほしいんやけど」
狐面の下から漆が言った。
「名前は?」
「斑目漆」
「もってきてやれ」
博士が命じると、研究員が動いた。
「異なる条件下での運動能力を調べただけだぞ。脈拍や体温くらいだ。バラつきが大きすぎて基礎データとしてもあまり価値のあるものではなかったな」
研究員が持ってきた書類はたしかに、その通りのもので、学校の体力測定と大した違いがあるとも思われない。
そうこうしているうちに、一同は休憩スペースらしい、テーブルとイスが並び、自動販売機などが置かれた場所に案内される。
「さて。……なにか質問はあるかね?」
■2
「君たちが市に協力してくれようというのは感謝する。だが残念ながらまだ研究所を信用していない市民も多い。まずは君たちが銀幕市に興味を持った経緯を教えてはいただけないかね?」
「別にどうということもない。どこかで話を聞いて気になっただけだ。われわれは世界中で超常現象の類には情報収集を行っている」
柊木の最初の質問に、博士は答えた。
「あなたちの要求は曖昧にして極端すぎるわ。手順を一回一回踏んで、こちら側の許可を得たうえでやってほしい」
続いて明日が言った。
「先にも言ったが実験や調査は個別の計画が必要だ。包括して言えばおおざっぱな言い方にしかならん。……実際に行うときは市役所を通して詳細を説明する。それでいいのかね?」
博士の手元には柊木から渡された「要望書」がある。それをめくりながら答える博士は、どことなく退屈そうだった。
「その実験……、最終的にあなたたちは何を目的とし、何を見出すの?」
問いかける明日の口調は淡々としたものだったが、まなざしは射るように強い光を秘めていた。
「それは、とても知りたい」
カラスが、短く言った。
表情は硬い。
「やっぱり気になるよねぇ。最終目的とか、博士の動機とか」
と、ルイス。
東博士は、人々を見回し、それが共通の疑問であるらしいことをみとめると、心底驚いたというように目を見開いた。
「なにが!研究の!目的か!……だとッ!?」
一文節ごとに声のトーンが高くなっていく。
「ではなぜ生き物は呼吸するのか? ……愚問だ! なんたる愚問!! アズマ研究所はこの世の真理を解き明かす。他になにがある!?」
博士の興奮具合は、一同があっけにとられるほどであった。
「この驚異的な現象のしくみを諸君らは知りたいとは思わんのかね! 人間をはるかに凌駕するムービースターの力は世界を変えるぞ。世界のあらゆる問題が氷解する新技術が得られるかもしれんのだぞ!?」
「……」
明日は、どんな顔をするべきか、迷った。
少なくとも、博士の言葉は嘘ではない――そんなふうに思われた。
「プレミアフィルムはどういうふうに使うのかな」
カラスが訊ねる。
すると博士は、またも、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を剥いて、鋭く息を呑むのだった。
「実験や調査の仕方はそのつど違うと言っただろうがッ!! ……フィルムはムービースターと実質的に変わりのない存在だ。自立しない点のみが違う。それは実験上メリットにもなるしデメリットにもある。意思あるムービースター、物言わぬプレミアフィルム。どちらも研究のためには必要なサンプルなのだ!」
「サンプル」
硬い声で、カラスは繰り返した。
「でも、ムービースターには心がある」
「それとこれとがどう関係する? 病気の治療法を探るには臨床例がいるであろうが。ムービースターを対象とせずにどうやってムービースターを研究する?」
カラスは黙り込んだ。
何を言っても通じないのではないか――そんな諦念が浮かんでいる。
「あのさ」
太助が、短い手をあげて肉球を見せた。
「バッキー使ってなにかするって言ってたよな。それってどんなの? メカバッキーみたいなもんか?」
「あれは実に興味深い存在だ。ムービースターとプレミアフィルムが同一であるように、バッキーはこの街の現象そのものと同一のものであると考えられる。基本的な考え方は、いまだ知られていないこの世界の構成原理のひとつであり、銀幕市の現象がその異常によってかくたらしめられているものに、あれを介してアクセスできるというものだ。世俗的な言い方をするならばこの街の現象のパワーソースを任意に抽出する媒介の――」
「ってゆうかさ」
意味不明な呪文のようなことを述べ始めた博士をさえぎって、太助は言った。
「研究成果を見せてほしいんだ。そのほうがわかりやすいだろ?」
博士は長広舌をピタリと止めて、ぎょろり、と太助を見ると、形容しがたい表情を浮かべた。それが笑顔の一種なのだと気づくのには時間がかかった。鬼気迫るものがあったからだ。
「見たいか?」
「……み、見たい…………と思う」
「よぉーーーーし! 見せてやろう! 我輩の研究成――」
「これって変身ベルト?」
いつのまにか忍び寄っていたルイスが、博士のベルトについた機械にふれた。
ぽちっ、と、ボタンらしきものを押してみた次の瞬間。
「――果ぁあああぉおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーー」
ベルトの、腰の両端にとりつけられた装置からジェット噴射が出て、博士の体が空高く舞った。……といっても、天井こそ高いがそこは屋内だったので、どうなったかはいわずもがなだ。
市民たちはただぽかん、とそれを見上げるよりなかった。
■Intermission
その頃――
萩堂天祢は東京にいた。
バッキーは市内の友人に預け、単身、訪れたのである。
「電話くれた人?」
「すいません、お忙しいところ」
愛想良く、天祢は笑った。つてをたどって、科学雑誌の記者にアポをとったのだ。
「アズマさんのことを調べてるって? なんていうか……まあ、一言でいえば変人だよね」
記者は言った。
「帝王大学の工学部卒……、そのあと、アメリカの工科大学で博士号をとっていますね。この経歴は間違いないですか?」
「と思うよ。でもまあ、学会では黙殺されてるっていうか。ちょっと発想が空想的すぎるんだよねぇ。ただ、副産物で、いろいろ新技術は発明してて、その特許料でかなり儲かっているみたいだ」
「東京が本拠なんですよね?」
「そうだけど、経済的にはアメリカの支所の業績が大きい。あっちの軍需系の企業と取引があるんだ」
「軍需系」
天祢の声のトーンが落ちた。
「そういうとキナくさいけどね。いや、でも、本人はそのへんの意味合いは深く考えてないっていうか……、知的好奇心以外の感情はあの人にはないんだよ。悪い人ではないと思うんだけどねぇ。ただ研究のためにはなにをしてもいいと思ってるふしがあって、実際、何度か警察のお世話になったこともあるみたいだよ。いや、ごく軽い条例違反とか、そんな感じだけど、それも、本人はよく意味がわかってないと思うなあ」
「はあ」
記者が用意してくれた過去の取材記事に、天祢は目を落とした。
なにか、スプリングのついた奇妙な靴のようなものを履いてとび跳ねている博士の写真が掲載されている。
■3
研究員たちが運んでいたのは、一見、猟銃のような形状の機械だったが、実際の猟銃よりはずっとSF的というのか、特撮ものの小道具としか思えないようなものだった。
リゲイルは、心の底で、これは某の作品に出てくる某というものに似ている、とこっそり思った。
「一連の考え方にもとづく装置を『ファングッズ』と呼んでいる。これはその一種で『スチルショット』と名付けたものだ」
シリンダーにあたる部分からチューブのようなものが延びていた。その先端は一見して吸盤だ。
「ここにバッキーを接続すると、それを介して、あたかも弾丸を装填するがごとく、この街の現象に介入するパワーを得ることができる。誰かバッキーを持っていないか?」
それに応えるものは誰もいなかった。
明日は、無意識に、ヒップバッグにふれた。本当はその中にパルが収まっていたのだが。
「おらんのか。それでは使ってみせられんではないか」
博士の眉が八の字を描く。心底残念そうだった。
「それ、どういう効果があるものなの」
表情を変えずに、明日が訊く。
「『スチルショット』が発生させる力場は、一時的に、他の力場と干渉し合う。簡単に言えば、ムービースターなら止まる」
「……それで撃たれたムービースターは動けなくなるってこと?」
「そうとも言える」
明日はきゅっと唇を引き結んだ。それから、息をつきつつ、言うのだった。
「つまり……、やっぱりそれは武器よね。ヴィランズから身を守るためならまだしも、悪用すれば、これを使って罪のないムービースターに危害を加えることができるわ。銃と同じよ。そんなもの誰にでも提供するというのは賛成し難いわね」
「それは悪用するほうがいかんのだ」
「そうだけど」
「どうせ数にも限りがあるしな。つねに市役所を通して貸与することにすればよかろう。われわれは使用者の善悪を判断する立場でもなければその機能もない」
「バッキーとつなぐって言ったけど……かれらに害はないんだろうね?」
というのはカラスの質問。
「今のところ問題はないようだ。媒介にしているだけだからな」
「ほかになにかデメリットは?」
と柊木。
「思いつかん。燃料も消費しない。まさに理想的だ。この理論を敷衍すれば永久機関も夢ではないと吾輩は思っておるよ」
東博士は言ったが、効果を実際に披露できないのと、今ひとつ歓迎されていない風なのが不満であるようだった。
「ほかには? あの、でっかいコップみたいなのとか、ロボットも、これと同じ?」
太助が、博士の白衣の裾をひっぱって言った。
どうやらこの動物だけは自分の研究に純粋に興味を持ってくれているらしいと思ったのか、にんまりと笑みさえ浮かべて、博士は口を開く。
「あのカップはな、特殊な、非常に強度の高い材質だ。なかなか誇れるわが研究所の発明品だが、この街とは関係しない。『フィルモーグ』については……まあ、『ファングッズ』に近いが原理は違う。『ファングッズ』は現在、あと2種類がほぼ実用レベルになったといっていい。これらは貸与が可能であるから、あとで市役所に資料を送る」
「これってバッキーがいないと使えないんだよね」
ルイスが無邪気に言った。
「だったら、なんで、バッキーのいない市外でこんなもの開発できたのさ」
それは鋭い質問だった。
しかし。
「開発は市内で行ったのだ。あたりまえだろうが」
こともなげに、博士は答えた。
「あんたら」
ずっと黙っているだけだった梛織が、たまりかねたように口を開く。だが柊木がそれを制した。
「すでに、ずっと以前から市内で……秘密裏に活動を行っていたという意味だろうか」
「秘密、だと?」
東博士は眉根を寄せた。
「民間の研究機関であるわれわれが、法律に違反しているわけでもないのに、どこでなにをしようと勝手だし、それをいちいち喧伝する必要はなかろうが。実験用のムービーファンの協力者も合法的な手段で募集し、協力費も払っておる。そうした準備的な段階の研究を経て、より大規模な投資を行っての研究が望ましいと判断されたゆえ、こうして出張所を設立し、また、より大規模な調査・実験のために協力者をより幅広く、容易に集めたいがために市に協力を申し出たのではないか。今さら何を言っとるのかね」
「しかしブートキャンプのときは……」
「だからあの実験に問題があったことは認めておるわ。謝罪が必要か?」
苛々した様子である。
「こういうものが、もっとできたら……ムービースターの力を戦争にだって使えるよね?」
ルイスがぽつりと言った。
「使いようによってはな」
博士はなんの関心もない、といったような感じである。
「あの……『冬人夏草』っていう薬も、博士が……?」
おずおずと、リゲイルが訊いた。まさにあれも、一種のBC兵器ではなかったか。
「あの件も運用の仕方に多少の問題はあった。正式に市の協力を得たほうがいいと思ったのはあのせいもある。例の薬品は、いうなれば『フィルモーグ』の原型だな。別の方向につきつめててゆけばフィルムからのムービースターの再生について研究できるが、我輩はそれにはあまり興味がない」
よく意味がわからず、リゲイルは首を傾げた。
■Intermission
ホテルに戻ると、アメリカからの報告のメールが着いていた。
天祢はノートPCを立ち上げる傍ら、自ら足を運び、撮影した後、さっそく現像してきた写真を広げる。
アズマ超物理研究所の東京本社は、実にひっそりとしていた。
適当なセールスマンを騙ってそれとなくあたってみたところ、所長をはじめほとんどの人員が銀幕市に行ってしまったのだということだった。どうやらかれらは拠点を銀幕市に移設するほどの入れ込みようであるらしい。
アメリカからのメールというのは、現地の探偵に調べさせた米国支所についての情報である。
すでに調べた話がほぼ裏付けられるような事柄が報告されている。
まとめるとこういうことだ。
東栄三郎は異端の科学者で、いわゆるマッドサイエンティストの部類である。研究に入れ込みすぎるあまり暴走が目立ち、結果、問題を起こすことは多いが悪人とは断じ切れない。すくなくとも、裏のある陰謀をめぐらせるタイプではないように、天祢には感じられた。
彼が率いるアズマ超物理研究所は、東博士のとどまるところを知らぬ知的好奇心を満足させるためだけの研究機関である。しかしの副産物としていくつもの革新的な技術を開発しており、その特許によって多くの富を得ている。その技術には、軍事的に利用されているものも少なくないが、研究所は思想的には中立的な存在と見てもよい。
「なんというか」
天祢はひとりごちる。
「かえって厄介ですね。いっそ悪人ならそれなりに対応できるけれども……、これはむしろ……結果の良し悪しを定めるのは僕たちの側のようにさえ思える」
まるで運命に試されているようだ、と彼は思った。
彼はどう思うだろう。ふと、その男の顔が脳裏に浮かぶ。
■4
「じゃあ、ムービーキラーについて聞かせてくれる?」
「ふむ。そうだったな」
ルイスの求めに、博士は頷く。
梛織が反応して、うろんな目を彼に向けた。
「それについて説明するには、まず、この街の現象の基本的な原理について説明しなくてはならん。まず……、いちばん誤解があるのは、ムービースターは生物ではないということだ」
それはあまりといえばあまりなことだったので、人々はぎょっとして東を見つめ、そして自分の体やムービースターの仲間たちを見た。
「だがわれわれの認識上、実際の生物と区別できないので、生物と扱ってもよい。否、扱わざるをえない」
「どっちなんだよ」
太助が言ったが、博士は構わず続けた。
「たとえば鏡があるとする。鏡には周囲のものが映っている。一見――、あたかも鏡の『中』に別の世界があるかのように見えるな? ……しかし実際には、鏡に『中』などはない。光の反射が、そのように認識されているだけだ」
人々は頷く(太助や、幾人かのものたちは、「え?鏡の中があるんじゃないの?」的な顔でお互いを見合った)。
「ムービースターはそれに似ている。一言でいえば、それは『現実のゆらぎ』だ。現実を構成している原理に、量子力学的なものとは別のなにかがあるというのが我輩の仮説だが、諸君らがいうところの『魔法』は、まさにそのゆらぎである。そのゆらぎは、われわれが鏡の『中』を認識してしまうように、そこにムービースターを存在させてしまう」
そこまでくると、彼の言っている内容を正確に理解できるものはいなくなった。
「いないはずのものが認識されているっていうこと?」
「違う。いないはずのものが存在しているということだ」
あらためて言われると、銀幕市民にとってはそれは経験的に自明の理なので、今さらそれがどうしたとしか言えない。
「このゆらぎが止まったとき、ムービースターは消滅すると考えられる。プレミアフィルムはそうではない。あれは自立していないだけで、ゆらぎはそのままだ。その意味で、いまだ消滅したムービースターはいないとも言える。例外は――黒いフィルムだな。ムービーキラーだが……この名称も散文的であまりよろしくないな――、あれらは、そのゆらぎの方向が変わってしまっているムービースターといえる」
「どういう――意味なんだ」
うっそりと、梛織が問うた。
「意味づけは難しい。ただ、我輩の観測の結果、ムービースターの中に、いわばそのネガ像のような存在が混じっていることがみとめられた。そしてその――『反転したムービースター』は、他のムービースターに対して敵対的な行動をとり、最終的には『黒いフィルムになって消滅した』。それが言えるすべてだ」
「待って。それじゃ博士は、ムービーキラーを判別できる……?」
明日が言った。
「残念ながら完璧とは言えない。測定装置はまだまだディペロップが必要な段階だからな」
コツコツ、と指先で、モノクルめいたゴーグルを叩く。
「それって戦闘力測る機械じゃなかったのか」
とルイスが呟いた。
「ミランダ――……ムービーキラーは、ムービースターが『ムービーキラーになる』んじゃないのか?」
「そのようだな。反転現象はすこしづつ進んでいるようだ」
ごくり、と梛織の喉が鳴った。
なんだと。それじゃあ、ミランダは……。
「最初は普通のムービースター。それがすこしずつキラーになっていくのか。なぜだ……?」
「原因は不明だ」
「すまない。理解が追い着いているかどうかわからないのだが」
柊木が手をあげた。
「つまりこういうことだろうか。ムービースターを存在させている魔法のエネルギーのようなものがある。それがゼロになるとムービースターは消える。マイナスになっていると、それはムービーキラーとなる」
「おおむねそういうことだ」
「それは、銀幕市の変化なのか」
ルイスが、いつになく真剣に言った。
「銀幕市の魔法が変わっていっているっていうことか? 博士は……この街が、このままだとどうなるか、なにか予想のようなものがあるのか?」
しかし、東博士はかぶりをふる。
「ゆらぎの観測は難しい」
しん――、とした沈黙が落ちた。
「すこし……休憩時間にしようか」
ややあって、柊木が提案する。
レナード・ラウの行動に気づいたものは誰も――少なくとも研究所側の人間は誰も――いなかった。
彼のネクタイの、タイピンと見えたものにカメラがついていて、施設内の機材類を次々に撮影していたばかりか、かわされた会話の一部始終を録音しているなど誰が知ろう。
そして間取りから人員の配置まで、彼はなにげないふうを装ってすべて頭に叩きこんでいたし、ふらふらと歩きまわりながらも、その目はすみずみにまで油断なく配られているのだった。
だから、研究所の奥にセキュリティに守られた一画があることも、すぐに気づいていた。
そして実にさりげなく一団から離れた彼は、不用心な研究員がデスクに置き去りのIDカードを使って、まったくたやすくその領域に足を踏み入れたのである。
その先は、さまざまなものの保管庫になっているらしかった。
キャビネットの谷間を抜けてさらに奥に進めば、倉庫に――この建物の本来の姿を残したような区域に出る。
そこは暗かった。
「これは――」
彼はそこに、背の高い異形を見る。
あのとき、ミランダを捕獲すべく、東博士が駆っていた人型機械だ。たしか『フィルモーグ』と呼ばれていた。
まったくそれは、アニメに出てくるロボットそのままの姿で、腰をかがめたような姿勢で静止している。
そしてその胸部の装甲が開き、中が剥き出しになっていて――
「!」
レナードの口から、呻きが漏れた。
「なんてこった。こいつは……」
■5
「ンだよ」
梛織は低い声を出した。
「ムービーキラーが存在する意味はわからない。そうなる原因もわからない。じゃあ結局、なんの情報も持ってないんじゃねぇかよ、てめぇらは!」
声を荒げた。
東博士は動じたふうでもなく、ただ肩をすくめただけだった。
「あのー」
リゲイルだった。
「ミランダさんに、会わせてもらえますか? 彼女に、差し入れを持ってきたんだけど」
博士のIDカードで仕切られた扉を開ける。
思ったよりは、広い部屋だった。
その部屋が、例の強化ガラスで半分に仕切られている。こちらがわには一台のデスクとイスがあるだけ。
そして向こう側は、一応、生活が可能そうな、部屋になっていた。
「……」
カラスは、痛みを感じたような表情を浮かべた。
これは――動物を飼育し、観察するための部屋だ。
梛織とリゲイルがガラスに駆け寄る。
簡素なパイプベッドの上に……彼女が腰かけて、じっとうつむいていた。
リゲイルは、想像したよりはましな環境だったので、いくぶん安堵したような表情を浮かべた。
「渡してあげてもいいですか?」
提げてきた紙袋には、日用品や食べ物が入っているようだ。
「あとで届けさせておこう。直接は危険だ」
危険、という言葉に、リゲイルは顔を曇らせる。
「ミランダ」
梛織はガラスに手をつけて、その名を呼んだ。
それが聞こえたのかどうかわからない。ただ、ガラスの向こうの女はぴくりとも反応しなかった。
傷は――癒えているようだった。見たところ、異常はない。
しかし。
常軌を逸した行動、本来の設定になかった異形じみた能力の発現、そして涙――。
梛織の脳裏に、今までかかわったミランダについての、さまざまなことどもがコマ送りで流れていった。
「治るんだろうな」
まるで脅迫するように、彼は言うのだ。
「メカニズムを解明できるのなら、それも可能だろう」
「……彼女についてのデータは、公開してもらうよ」
柊木が釘を刺す。
「治せよ」
低く、梛織が言った。
「そうは言うがな。だいたいムービースターというのは――」
博士が言い終えるより先に、梛織の手がその白衣の襟元をひっつかんでいた。
「絶対に治せ。……彼女にもしものことがあってみろ。おまえらも同じ目に合わせてやる!」
「……」
憮然とした様子で、博士は何も応えなかった。
「梛織くん」
柊木が、梛織の肩に手を置いた。
「ここに、会いに来てあげてもいいですか?」
とリゲイル。
「ひとりだと寂しいだろうし、話し相手も必要なんじゃないかって思うの」
「ま、それは勝手だ」
白衣の襟を正しながら。
「提案がある」
ふいに、それまでずっと黙ってなりゆきを見守っているだけだった漆が発言したので、人々ははっとして、その忍び装束の少年を見た。
「俺を雇わへんか?」
「……なんだと?」
さすがの東博士も、虚を突かれたようだった。
「それはどういう意味だい、漆くん」
「そのままの意味や」
柊木に応えるも、狐面の下の顔つきは知れない。
「できればここに住みこみで。ミランダの監視にかて、人員割くのは大変やろ? なにかのときの用心棒にもなれるし……、俺に対して実験とか記録とったりしてもええ」
「漆くん!」
驚いて、リゲイルが言ったが、漆は続けた。
「そのかわり、俺はここの内実をすぐ傍で見られるわけやし。なんかあったらすぐに市役所に報告もできる」
「……ううむ」
「用事言いつけてもええよ。小回り利く手駒を持ってるんは便利違うかなあ。コソコソするより、効率よく情報を集めるにはどっちがええか、東博士やったらわかるやろ?」
博士は、がりがりと白髪の頭を掻いた。
「問題はない。ないが……。しかしだな……」
心底、困惑した様子で、博士は言う。それは漆だけでなく、その場にいる全員に向けられた言葉だった。
「おまえたちの考えていることはわからんな」
それはお互い様だ、と誰かが思った。
■Postscript
「あのさー、あのさー。宴会やらね? ……歓迎会っていうか、お互いによく知り合える場があったほうがいいと思うぞー」
帰り際。
太助が、明日の頭の上から、博士に言った。
「いいアイデアだと思うわ」
太助にしがみつかれたまま、明日も言い添える。
「ふむ。考えておこう」
「ところで博士。……ダイノランド島って知ってる?」
「沖合にあるムービーハザードエリアだな。あれも面白い発現の仕方をしている。いずれ本格的な調査をしてもいいかもしれん」
「……。行ったことは――ないのね?」
「そうだが?」
「……いえ、いいの」
*
レナード・ラウは独り、笑みを浮かべる。
情報はたっぷり持ち帰ることはできた。だがある意味で、彼の戦慄を誘うものも、その中には、あった。
「あいつは……アレで動いてやがったのか。こんなこと大哥が知ったら……」
それはまさに、逆鱗と呼ぶのではないか。
撮影した画像を、PCにダウンロードする。
すなわち『フィルモーグ』の、通常の機械であれば内燃機関があるべき位置に、プレミアフィルムが収まっている、その様子を――。
*
その日のうちに、使っていない倉庫に、漆は布団と最小限の家財道具を運び込んでしまった。
「本当にいいの?」
「心配せんとってや」
「そう……。でもミランダさんに会いにくるときに、漆くんに会えるね」
リゲイルはそう言うと、ミランダさんと漆くんをよろしくお願いします、と研究所員に頭を下げて、帰って行った。
所員たちも、思わぬなりゆきに困惑を隠せない様子である。
「博士」
倉庫の床を掃きながら、漆は言った。
「俺はな――、もとの世界に戻りたい。主のもとに還りたいんや。そのための方法が見つかるんやったら何でもするで」
「……」
東栄三郎は、複雑な顔つきで、深い息を吐いた。
「鏡に『中』はないのだぞ」
「……。俺は影の中にだって入れる」
「……」
答えは、なかった。
*
「やっぱりなんかうさんくさい。どうも引っかかる」
対策課のソファーにどっかり腰をおろした後も、梛織はぶつぶつと言い続けていた。
隣で、カラスも浮かない顔だ。もっとも、このふたりは今日は終始、明るい顔を見せることはなかったのであるが。
「かれらは……ムービースターを実験の対象としか見ていないよ……」
ひどく哀しげに、カラスは呟く。
「……ともかく、そういう次第なんだよ」
柊木が、一部始終を、植村に報告している。
ルイスは、萩堂天祢が対策課に送ってきたという長いメールをプリントアウトしたものと、さっきからにらめっこしていた。
「みなさん、ひとまずは、お疲れ様でした」
植村は言った。
「今後、研究所のほうから、実験への協力の依頼があると思います。また、通常の依頼において、必要であれば『ファングッズ』の貸与を申請することもできるようになります。それらはいずれも、必ず対策課を通して行うことになります。研究所からの依頼については、対策課で問題がなさそうか吟味したうえで、みなさんにご案内しますし、『ファングッズ』もムービーハザードやヴィランズへの対応に必要と思われる場合のみ許可されることになります。対策課での担当職員を決めましたので、ご紹介しておきますね」
植村の隣で、銀縁眼鏡の、大人しそうな女性職員が、ぺこり、と頭を下げた。
あ、と梛織が声をもらす。彼女のことを知っていたからだ。
「灰田汐(かいだ・しお)といいます。……みなさんには、『シンデレラ』っていう呼び方で知っていただいているかもしれませんね」
以上が――、銀幕市民と、アズマ研究所との関係のはじまりとなった日の出来事である。
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クリエイターコメント | お待たせしました。『【アズマ超物理研究所】Greeting』をお届けします。
長くなってしまいましたが、そのぶん情報が詰まっています。 あまり多くは語りますまい。 ここを起点に、今後、どんな物語が生まれますことやら……。 |
公開日時 | 2007-08-29(水) 23:00 |
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