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<ノベル>
太陽の光が燦々と降り注ぐ、小春日和の午後。
雑草がちらほらと生えた空き地に、暢気な、しかし必死な声が響く。
「だーかーらー、あれはあっしじゃないっすよおおー。信じてくださいよおおー」
黒い魔剣が赤いラインを瞬かせて弁解するのへ、
「あのな、だったら他に誰が……」
津田俊介(つだ・しゅんすけ)はきりきり痛む眉間を押さえながら手の中のニア・デスを小突いた。
「だああかああらああああああ、話せば長くなるんすよおおおおお」
ニア・デスが俊介の手の中でじたばたともがく。
魔剣がもがくというのも変な話だが、それを、ちょっと色黒の秋刀魚みたいだ、などと考えて、俊介はあまりにも生活密着型すぎる自分の思考に思わず溜め息をついた。
「……では、誰があの事件を起こしたと言うのかなー?」
それを、静かな目で観察しながら問うたのは柊木芳隆(ひいらぎ・かおる)だ。
「今回の彼女も、幸い傷は浅かったけれど……運が悪ければ死んでいたかも知れない。君が犯人ではないのだとしたら、事件はまだ終わっていないということになるねー」
超常現象や人外の存在、特殊能力などとは無縁な世界観の映画から実体化した割りには、柊木の態度は冷静で、まったく動揺がない。
恐らくそれは、彼がこの銀幕市に実体化してずいぶん経ったから……というだけではない、柊木の生来の性質によるものだ。
柊木とは、人外の存在を前にして挙動不審すぎる行動を取り、補導されたところを助けてもらって以来の付き合いで、俊介は、常に優しく穏やかだが内に鋭いものを秘めた柊木には、色々と相談に乗ってもらっている。
「そもそも、ニア君、君は何故津田君を介せず単独で調査などしていたんだい? 可哀想に、君に乗っ取られていたあの青年は、すっかり混乱していたじゃないか」
ニア・デスも、主人である俊介が頼りにしている、という理由だけではなく、何かしら感じ取っているのか、柊木に一目置いているようで、彼のその言葉に、じたばたともがくのをやめた。
「波動を感じたんす」
そして、刀身の赤いラインを瞬かせ、ぽつりとそんなことを口にする。
「波動?」
鸚鵡返しに俊介が問うと、赤い光がぴかりと灯った。頷き、のようなものらしい。
「懐かしい……っつーのはちょいと語弊がありやすけどね、知ってる波動だったんす」
「……ふむ、それで?」
「どうしてもそいつを確かめたくて、でもご主人をそれに付き合わせるのも申し訳ねぇっすし、色んな奴の身体を借りてあちこち調べ回ったんすよ。ホント、大変だったっす」
「ああ、それは……そうだろうね」
魔剣であるニア・デスには自ら出かけるための足がない。
そのため、ニア・デスは、オレンジの柄紐を触手のように伸ばして対象を捕獲し、その身体を『拝借』することで行動するのだ。
「で、どうなんだよ? あれも、これも、おまえの仕業じゃないって言うんなら、誰がやったんだ?」
痺れを切らした――そしてまだ疑いを捨てていない――俊介が言うと、ニア・デスは赤いラインをまた瞬かせた。
「あっしと同じような奴がいるっす」
「ニアと? それはつまり……」
「そう、魔剣っす。ただ、あっしは想念の凝った魔器っすが、向こうは魔物として生を享けた奴みたいっすね。臭いがちょっと違うっす」
「……どっちにしても、魔に属するモノ、ってことか……」
俊介は盛大に溜め息をついた。
ニア・デスへの疑いを完全に捨てたわけではないが、ニア・デスの言うことも念頭に置いておかなくてはならないだろう。
……となると、気苦労は二倍ということだ。
「では、それが、今回の事件を引き起こしている、と?」
尋ねる柊木はどこまでも冷静だ。
「そうっす。宿主を頻繁に取り替えながら、この街を彷徨ってるっす」
「何故だい?」
「何でっすかねぇ。あっしみたいに契約者を探してる……の、かもしれやせんが」
「詳しいことは判らない、ということだね」
「まぁ、それを知りたいってのもあって、調べてたっすよ」
「……他人を乗っ取って、かい?」
「いやっすよーそんなこと言っちゃー。ご主人の手前もあるっすからね、傷つけるつもりはなかったんすからー」
「なかったんすからー、じゃないだろ! ご近所さんに迷惑かけるなって何度口をすっぱくして言ったら判るんだ、この馬鹿魔剣!」
「えー、だって、ちょっと移動に借りただけなんすよ? 怪我させたわけじゃないっすよー、あの女の人だって、あっしが傷つけたわけじゃないっすし! 五体満足で無事だったんすから、問題ないっすよね?」
『無事』の捉え方が根本的に違うのだからどうしようもないのだろうが、あまりにもあっけらかんとしたニア・デスに、柊木と顔を見合わせ、俊介はもう一度溜め息をこぼした。
なにやら、事態は複雑だ。
* * * * *
事件の発端は、十日ほど前のことだった。
銀幕新聞のトップを飾った、『通り魔事件の犯人捕まる』という記事は、恐らく、銀幕市民の記憶にまだ新しいはずだ。
何人もの人間を、老若男女の関係なしに無差別に襲い、幸いにも死者こそ出さなかったものの、銀幕市の人々を――特に、身を守るすべを持たない一般市民を――恐怖させた通り魔事件だったが、犯人は、犯行当時も、逮捕当時も錯乱していた所為で記憶がなく、精神鑑定待ちだという。
俊介は、普段ならばそんな事件とは関わろうとも思わないのに、何故か記事から目が離せなくなり、結果、『何か』があるのだと感じた。
生き物を切り裂くのが大好き……という、傍迷惑な奴なら、俊介にも心当たりがあった。
そう、自分と契約している魔剣、ニア・デスだ。
見掛けは、黒い刀身に、血管のように赤いラインの入った刃渡り20cm程度のナイフだが、その実体は喋る魔剣である。
多くの血を浴び、様々な人間の断末魔を吸収し、長い時間をかけて蓄積された想念が自我を持ち、魔剣となった存在で、持ち主の嗜虐心を煽り、殺戮衝動を起こさせるという傍迷惑極まりない特質を持っている。
闇の世界に生きる数々の人間の手を渡り歩いて、物騒な性質を更に物騒にした後、巡り巡って俊介の手に渡り、彼の自宅で切れ味抜群の包丁として扱われていた“死に近しいもの”だ。
それほど長くはないが濃厚なつきあいのお陰で、ニア・デスが、自分と契約しているのだから大人しくしているはず、という俊介の常識が決して通用しない相手だということが判っていたため、俊介は、もしかしたら……という懸念の元、調査を開始した。
その時に相談したのが、挙動不審MAXな俊介を補導し、事情を知って以降何かと世話を焼いてくれる柊木だったのだ。
「凶器が見つからない……そうですか……」
映画の中では優秀な警官であり、現在は警備会社につとめている柊木は、その手腕で持って様々な情報網を手に入れている。
今も、元刑事だったという部下に、逮捕されたという通り魔のことを調べてもらっていたのだが、原という名の部下の話では、通り魔が犯行に使ったと思われる、少なくとも刃渡り20センチ以上の凶器は、どこからも発見されていないらしかった。
――懸念は、ますます募った。
調査を続行するにつけ、犯人の行動は通り魔以外のなにものでもないとしか言えなくなった。
まず、被害者には共通点が何もない。
犯行時刻にも、場所にも共通するものはない。
ただ、刃渡り20cm以上の鋭利な刃物で傷つけられた、という凶器に関する共通点があるだけだったが、その20という数字は、まさに、ニア・デスのサイズと一致するのだった。
ニア・デスが犯人だとして、いかにして止め、人を傷つけてはいけないことを教えるか、教えたところで判ってくれるのかを悶々としつつ、俊介は柊木と彼の部下とともにあちこちを駆けずり回った。
そして、調査を始めて十日後。
市街地の一角を柊木とともに歩いていた俊介の耳を、若い女の金切り声がつんざいた。
柊木と顔を見合わせ、走り出し、現場に駆けつけるまで十分。
「ニア、おまえ……!」
人通りの少ない道の隅に、腕と脚から夥しく出血した女性が倒れていた。
そして、その傍らに、見知らぬ男が立っている。
――虚ろな目をした男は、ニア・デスを握り締めていた。
男の手には、オレンジ色の柄紐が巻きついている。
「あ、ご主人! 何かひさしぶりっすね!」
嬉しそうな、弾んだ声を上げたニア・デスが、俊介目がけて駆け寄って来ようとするより早く、
「止まれ、それ以上近づくと撃つ!」
柊木の、厳しく鋭い声がして、気づくと彼は拳銃を構えていた。
「え、どうしたっすか?」
何のことか判っていない風情のニア・デスが特に気にせず近寄ろうとすると、柊木はニア・デスとニア・デスの仮宿主に向けて躊躇なく発砲した。
「柊木さん、身体は一般人ですよ!」
「緊急事態だ、やむを得ん」
大慌てで念動力を駆使し、弾の起動を逸らして主に男性を守り、俊介が言うが、柊木はにべもない。
しかし、ニア・デスはというと、
「ふわー、びっくりしたっすー。ご主人、たすかったっす、ありがとうっすよー」
まったく動じていないし、事態を理解もしていない様子だった。
俊介は思わず脱力する。
脱力したが、そのままぐったりしていても仕方がないので、携帯電話を取り出し、手早くボタンをプッシュする。
「……ひとまず、救急車と警察を呼んで、あの人たちを保護してもらおう……」
倒れたままの女性と、ニア・デスに乗っ取られたままの男性とを交互に見やって俊介は呟いた。
「事情は説明してもらうからな、ニア……!」
俊介の言葉に、仮宿主をポイと捨てて彼の腕の中に飛び込んだ――こう書くとロマンティックだが、実際にはロマンなどというものは欠片もない――ニア・デスが、
「事情って、何っすか?」
赤いラインをチカリと瞬かせて不思議そうに言うのが聴こえ、俊介はまた重苦しい溜め息をついた。
電話の向こう側のオペレーターが訝しげな声を上げるのへ、ひとまず、手早く出動を要請する。
どうやら、まだ、事件は終わりではないようだ。
* * * * *
……そして今に至る、というわけだ。
「しかし……そいつは今、どこにいるんだろう? ニア、おまえ、何か見なかったのか、あの女の人が斬り付けられるところとか、犯人の姿とか」
「いやぁ、残念ながら見なかったっすねー」
「そんなこと言って、実はやっぱりおまえが……」
「だーかーらー、違うって言ってるじゃないすかー! 本当の本当にあっしはやってないっすってばー!」
俊介の手の中で、ニア・デスが抗議するようにじたばたともがく。
どうだかな、と思いつつ、嘘つけ、とも言えずに俊介は溜め息をついた。
そもそも、命というものに対する考え方が違うこの殺人器は、人を殺したり傷つけたりすることが悪いとは思っていない節があり、いかに俊介がむやみやたらと人を傷つけるなと常々言い聞かせているとはいえ、もしも本当に自分がやったことだとしたら、ここまで懸命に否定するのは不自然だ。
確かに、ニア・デスの言うとおり、ここは、ニア・デスのような魔に属するモノが、何かを求めて事件を起こしていると考えた方が妥当ではある。
「じゃあ、ニア。おまえ、その犯人に会ってどうするつもりだったんだよ? 顔見知りってワケじゃないんだろう? 旧交を温める……って柄でもないだろうし」
俊介が問うと、ニアは赤いラインをちかちかと瞬かせた。
目を瞬かせた、に相当するのだろうか、今のは。
「……そういや、そうっすね」
「なんだって?」
「いや、気になるから探そうとは思ったっすけど、そのあとどうしようとかは、正直、考えてなかったっす。どうしたらいいっすかね、ご主人?」
「……あのな……」
あまりにもあっけらかんとしたニア・デスに、俊介はもう何度目とも判らぬ溜め息を落とした。
邪悪な魔剣のくせに、こういうところは邪気がなさすぎる。
――だからこそ、憎み切れないのだが。
「ったく、一番大事なところじゃないか……って、柊木さん? どうしたんです?」
呆れ返っていた俊介は、柊木が難しい顔をしていることに気づいて眉をひそめた。
柊木の眼差しは、常日頃の、穏やかな、背格好の大きさを意識させないほんわりとした雰囲気とは打って変わった、鋭く冷徹なものに変わっている。
「……原君からの定時連絡が遅れている」
「それは、」
「こちらからかけてみたけれど……出ないようだ」
「まさか……!」
俊介は言葉を失った。
原は柊木の部下の中でも特に優秀で、柊木が一番信頼している青年だ。そして、柊木を信頼し尊敬し、彼の役に立ちたいと常々思っているらしい青年でもある。
彼が、その優秀さで犯人に近づき、近づき過ぎて何らかの不具合を被ったのだとしたら。
それを思うと、急に、背筋が冷えた。
人を傷つけることが罪深いのは、その人を苦しめるのと同時に、その人を愛し案じる誰かを哀しませるからだ。痛みと哀しみの連鎖を、無限に創り出すからだ。
俊介も原という青年とは何度か会ったことがある。
とても気持ちのいい、誠実な人物で、柊木が信頼する理由が判るような、真っ直ぐな目をした青年だった。
その彼が、もしも、理不尽な暴力に晒され、傷ついて、危機に瀕しているのだとしたら、そう考えると、いてもたってもいられなくなる。
しかし、
「……探しに行きましょう、柊木さん」
俊介の言葉に、柊木が頷くよりも、
「その必要はないっす、ご主人」
幾分硬さを増した、――同時にどこか楽しげな、ニア・デスの声が響く方が、早かった。
「ニア君、それはどういう――……」
言いかけた柊木の言葉が途切れ、彼の鳶色の視線が、空き地の向こう側に釘付けになる。
「どうしました、柊木さ、」
ん、まで言うことは、俊介には出来なかった。
俊介の視線の先には、紺のスーツを身にまとった青年の姿がある。
「原、さん……」
――命に別状がないことは判る。
だが、彼の目は虚ろで、光がない。
俊介の呼びかけにも、反応する様子はない。
そして、
「……なるほど、乗っ取られたか」
わずかにも揺らぎのない柊木の声が言うとおり、原は、真紅の、異様にねじくれたかたちをした、禍々しい短剣を握り締めていた。
短剣の柄からは、赤い色をした無数の触手が湧き出し、原の全身に絡みつき、彼を絡め取っている。先端が肉にめり込んでいるのは、ああやって人間の身体を操作するためだろうか。
フシュウ、と、原が息を吐いた。
短剣が爛々と輝き――それは喜悦そのものの色彩だった――、次の瞬間、原は、魔剣に操られるままに、ふたり目がけて突っ込んできた。
「――……速い!」
俊介がニア・デスでその切っ先を受けると、原は全力で押し切りにかかった。
虚ろな目が、びかりと赤く光り、唇が獰猛な笑みのかたちを刻む。
「く……ぅ……!」
特殊な能力を持ってはいても、俊介は基本的に普通の人間だ。
体力も、腕力も、普通の、同年代の少年たちと大差ない。
俊介が押されているのは、単純に、ベースである原の、個人的な身体能力の高さゆえだ。
「声は……届かないようだね」
しかし幸いにも俊介はひとりではなく、鋭い、しかしどこまでも冷静な声とともに、柊木が横から原に体当たりをし、青年を転倒させた。そして、彼が態勢を整えるよりも早く、その手から真紅の短剣を毟り取り、また全身の触手を引き千切って、それを遠くへと放り投げる。
「……! !!! ……!」
急に『接続』を切られた所為なのか、原が苦悶の表情で仰け反り、痙攣し、そのまま意識を失う。
「……」
彼を助け起こすかと思えば、柊木は、自分が放り投げた魔剣の行方を確認し、目を細めていた。
同じ場所を俊介も見遣り、そして顔を引き攣らせる。
「な、なんだ、あれ……!?」
刃渡り二十cmの短剣だったはずのそれは、ふたりの視線の先でぶよぶよとふくらみ始めていた。
柄から湧き出していた触手が、踊るようにうねっている。
ぐるる、と、獣の唸り声が聞こえた。
「へえ……」
ニア・デスが感心したような声を上げる。
そいつは、全長二メートル程度の、赤い犬へと変化しつつあった。
犬と言っても――四足で尾があり、三角形の耳と濡れた鼻がついているとしても――顔の部分には目がなく、口がふたつあり、胴体の両脇に金色に光る目が十個ずつ一列についている、全身から軟体生物のように蠢く触手をはやしたそれを、真に『犬』と呼んでいいものなのかは、少々疑問が残るが。
「コードXXA−ケース082。“Disaster Dog”っすか……珍しいものにお目にかかったっすね」
「……ディザスター・ドッグ?」
「そのまま訳せば、災厄の犬、か……なんとも相応しい名前じゃないか」
柊木がホルスターから拳銃を引き抜きながら唇を笑みのかたちに歪める。
「魔物の中じゃ中の上ってとこっすかね。――なるほど、人間を斬ることで自分を強化してたっすね。人間の血ってヤツは、魔物をパワーアップさせる栄養ドリンクみたいなもんっすから」
「斃す方法は?」
「物理的なダメージを与えれば死ぬっすよ、アストラルに属する魔物じゃないっすから」
「……そうか。共闘は可能かい?」
「もちろんっす」
「あ、こら、俺がまだ何も言ってないのに。……いや、柊木さんと一緒に戦うのが嫌とかそういうのじゃないんですけど、その、」
柊木とともに戦うことを不服と思っているのではない。
単純に、俊介にとって、戦いは『怖いこと』なのだ。
人外の存在と戦うことも、自分が痛い思いをすることも、他人が怪我をすることも、放っておけば更に被害を出すのだと判っていても――それが魔のものであるのだとしても――他の生き物の命を奪うことも。
俊介にとっては、絶対に慣れない、恐ろしいことなのだった。
迷いはニア・デスとの同調を妨げる。
ぐるるるり、と、魔犬が唸り、膝をたわめた。――飛びかかってこようとしている。
「来るっすよ、ご主人!」
「わ、判って――」
肉体の操作をニア・デスに委ねるより早く、颶風が俊介の脇を走り抜けて行った。
髪の毛が二筋三筋と切り散らされ、はらりと宙を舞う。
しかしそれは、運よく避けられたのでも、攻撃が当たらなかったのでもなく、
「す、すみません、柊木さん……!」
柊木が威嚇射撃によって魔犬の進路を少しずらしてくれたからに他ならない。
「無論手はほしいが、無理はしなくていい。躊躇いながら戦っても危険なだけだ。それに、」
「え、な、なんですか」
「――君が怪我をしたら、可愛い人魚姫が哀しむからね」
「なッ……そ、そ……!」
「ははは、その話は、またあとでしようか」
それどころではないのに思わず赤くなり、しどろもどろになる俊介に、くすり、と笑って、柊木が拳銃に弾を込め、魔犬に向けて発砲する。
着弾したそれは全身が凍てつきそうな冷気となって魔犬を襲い、右後脚を凍りつかせたが、
「なるほど、そう来るか……」
柊木が苦笑するとおり、魔犬はぐるると唸って後脚を引き千切り、触手を足代わりにしてバランスを取りながら、何の痛痒も感じていないかのように再度襲いかかって来る。
柊木は怯まず、別の弾丸を込めて、狙いを定めては撃っていく。
威力を高めた弾丸に尾を撃ち抜かれ、魔犬が怨嗟めいた唸り声を上げた。
「ご主人、力を抜くっすよ! ご主人の自我が内を向きすぎて、あっしには入り込めないっす!」
「そ、そんなこと言われても……!」
ニア・デスが俊介を巧く『使えない』のは俊介の精神が乱れているからだ。
人間の心とは、複雑で難しく、波風の立つ状態では、ニア・デスは同調することが出来ないし、身体を乗っ取って操るのと、同調することで互いに補い合うのとでは、倍以上の力の差が出る。
そして今は、同調なしに切り抜けられる局面ではないのに、恐れや疑念や躊躇いの行き交う精神でそれは難しく、俊介は牙を剥いて襲い掛かる魔犬を念動力で何とかかわしながら、必死で呼吸を整えていた。
風のように突っ込んできた魔犬の爪が脇腹をかすり、鈍い痛みに身体のバランスが崩れる。
「う、うわ……」
魔犬の目が怪しくあかく光った。
――やられる。
そう思い、思わず目を瞑った瞬間、大きな衝撃があって、俊介は誰かに突き飛ばされていた。
「つう……」
低く漏れる苦痛の声。
恐る恐る目を開けると、そこには、
「ひ……柊木さん……!」
右腕に食いつかれ、地面に押し倒された柊木の姿が見える。
首筋を噛み裂かれそうになったのを、咄嗟に腕を出すことで防いだのだろうが、あのままでは、危ない。
それなのに、柊木は、俊介を見て笑ったのだ。
気にするな、とでも言うように。
「あ……」
守るものの矜持。
守るために戦うことへの、絶大な誇り。
我が身を投げ出すことすら厭わぬ、武人の誇りだ。
それが柊木を衝き動かし、俊介を守ってくれた。
「……!」
俊介はぐっと拳を握り締め、唇を引き結んだ。
――意識が、ニア・デスを受け入れる。
ニア・デスから嬉しそうな波動が伝わってくる。
俊介は魔剣を掲げた。
「死を――」
それは呪文。
「――……刻め、ニア・デス!」
ニア・デスの持つ『死』を解き放つための言葉だ。
瞬間、ニア・デスから肯定の波動が返り、身体がふわりと軽くなる。
俊介は、魔犬めがけて走り出した。
魔物はすでに、俊介を侮れぬ存在として認識し、柊木から離れて身構え、こちらを警戒していたが、ニア・デスと完全に同調した俊介に、魔犬の動きは止まって見える。
「悪く思うな、っすよー」
なんとも間抜けで暢気なニア・デスの声。
ほんの一瞬の後には、俊介の身体は魔犬の目の前にあり、目にも止まらぬ速さで揮われた魔剣が、赤い魔物の首を見事に斬り飛ばした。
びくり、と震え、どどうと音を立てて魔犬が倒れる。
首が地面に落ちたのと、魔犬がフィルムへ戻ったのは、ほぼ同時だった。
「……はあ」
俊介は盛大な溜め息をつき、ニア・デスとの同調を解除した。
それから、ゆっくりと身体を起こしていた柊木を支えて立ち上がる手伝いをする。
「すみません柊木さん、俺のために」
柊木はかすかに笑って首を横に振った。
「津田君も、僕を守ってくれたじゃないか。おあいこだよ」
「……あー、そういうもの……ですかね」
「そうとも」
念動力を駆使して柊木の傷を癒しつつ、俊介は苦笑する。
柊木には敵わない、と思う。
「さて……原君を念のため病院に連れて行って、それからお茶でもしようか。さすがに少し疲れたよ」
「ああ、そうですね」
顔を見合わせ、やれやれ、と苦笑を交わす俊介だったが、
「いやー、すごかったっすね、さっきのあっしとご主人! カッコよかったっすー。多分、同じような奴がまだまだ実体化するっすから、また楽しめそうっすねー!」
そんな、能天気極まりないニア・デスの、楽しそうな声に、愛してやまない平凡で平和な日常が亜音速で走り去るような錯覚を覚え、盛大に溜め息をついた。
「……まあまあ、津田君」
ぽむ、と、柊木が宥めるように肩を叩く。
俊介は何とか笑ってみせたつもりだが、それが引き攣っていなかったかどうかは、定かではない。
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クリエイターコメント | オファー、どうもありがとうございました。 お届けが遅くなって大変申し訳ありません。
平凡を愛する非凡な少年と、身勝手だけれどどこか憎めない魔剣と、飄々としなやかで食えないおじさまとの、ちょっとスリルのある一日……というイメージで書かせていただきました。
楽しんでいただければ幸いです。
なお、口調や行動などでおかしな部分がありましたら、可能な範囲で訂正させていただきますので、ご一報くださいませ。
それでは、素敵なオファー、どうもありがとうございました! |
公開日時 | 2008-12-03(水) 19:20 |
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