★ Vast Paradise ★
クリエイター
宮本ぽち(wysf1295)
管理番号
364-6548
オファー日
2009-02-03(火) 21:58
オファーPC
ミケランジェロ(cuez2834)
ムービースター 男 29歳 掃除屋
ゲストPC1
アルシェイリ・エアハート(cwpt2410)
ムービースター 男 25歳 キメラ、鳥を統べる王
ゲストPC2
昇太郎(cate7178)
ムービースター 男 29歳 修羅
<ノベル>
パチン!
高らかに鳴らされる指に応じるように白い光が次々に点灯する。どうやらスポットライトらしい。しかし、どういうわけなのだろう。目を射るような巨大な光が頭上からいくつも注いでいるというのに、周囲には濃密な闇が凝っているだけなのだ。
「やあ、ようこそ!」
スポットライトとともに降り注ぐ軽快な声。ドーム状の天井を仰げば、夜空のような濃い藍の上に無秩序な虹色をぶちまけた巨大なバルーンが浮かんでいる。
(何じゃ。どっかで――)
記憶を手繰り寄せる暇もなく、巨大なバルーンがぼふんと弾けた。
軽快に飛び降りてきたのは藍色のウサギ。否、ウサギの着ぐるみをかぶった人間だ。成人男性ほどの背丈はあろうか。濃い藍色のウサギ耳の下に覗くのは何の変哲もない人間の頭髪と顔。手足にはウサギの四肢を模した手袋にブーツ。膝までのパンツとへそ出し丈のノースリーブのトップスはウサギの毛のようにもっふりとした風合いで、所々にピンクやパープルの星の模様が散っている。カチューシャのようにして装着したウサギ耳の下の顔立ちは判然としないが、声と体格から察するに男であるらしい。
「やあ、ようこそ昇太郎クン! ボクはミント! 眠れる兎と書いてミントさ、よろしくね! どうして眠いかって? 兎は眠るのが大好きだからに決まってるじゃないか!」
「なして俺の名を」
首をかしげて尋ねると――この状況で最初に発する疑問がそれかという突っ込みは置いておくとして――、夜の色をしたウサギは愉快そうにくすくすと笑った。
「ボクは何でも知ってるよ? ボクは眠るのが大好き、人の夢を覗くのが大好きだからね? 夢っていうのは人の記憶や心理が表れるものなのさ! ただ……」
気取ったしぐさで指を顎に当ててみせ、おかしなウサギはことりと首をかしげてみせた。
「キミの場合はちょっと“大きすぎる”ようだねえ? これは一晩じゃ無理かなぁ? ま、楽しみは後にとっておくものだからね! 時間をかけて準備を進めるとしよう!」
「ちょお待て。わけが分からん。ここはどこじゃ? なして俺は――」
「それは後になればよく分かるよ」
夜の色をしたウサギの唇が残酷な笑みの形に吊り上がる。「おっといけない、そろそろ時間だ! 眠れる兎は夜にしか動けないんだ、そろそろおいとまするよ!」
一方的に話を切り上げ、おかしなウサギは貴人のように優雅に一礼してみせた。
「それじゃあ昇太郎クン、また後でね! だーいじょうぶ、すぐにまた会えるから!」
ぐにゃり、と世界が歪んだ。
引きずり上げられるように遠のく意識の中、狂ったウサギの笑い声だけがけたたましく響いている……。
という夢を見た。
という荒唐無稽な話を昇太郎がするものだから、ミケランジェロも呆れるしかなかった。
「何だそりゃ。いくら夢でも無茶苦茶すぎるだろ、わけ分かんねェ」
「分からんからおまえに聞いとるんじゃ」
「俺が知るか」
ミケランジェロは欠伸を噛み殺しながら頬杖をついた。付き合い切れないとばかりにくわえ煙草を揺らす怠惰な神の前で、大真面目な顔をした修羅は腕組みをして考え込んでいる。
「しかしのう……あのウサギ、どっかで見たことがあるような気がするんじゃが。ミントとかゆうとった。ほんまに知らんかミゲル?」
「だ・か・ら、知らねェっての。……あァ、そういや夢の中に出てくるウサギの話をジャーナルで見たことがあった気がするが……どうだったかな」
ジャーナルで斜め読みした記事の記憶を手繰りながら――何せ短く分かりやすい文章を書く能力に欠ける記録者が担当した記事であったため、最初から最後まで読む気になどなれなかったのだ――、けだるげなしぐさで襟足を掻く。
「確か、あれはネットだのブログだのがきっかけで発生したモンだったと思うぜ。おまえには縁がねえんじゃねェか?」
「そらそうじゃ」
からからと笑った昇太郎に異変が起こったのは三日後の朝だった。
いくら揺り起こしても呼びかけても目を覚まさなかったのである。
夜空の色をしたカードを握り締めてミケランジェロは舌打ちした。
昇太郎は未だ目覚めない。代わりにいつの間にかミケランジェロのツナギに入っていたのがこのカードだ。深い藍色のそれはメッセージカードの筈なのだが、肝心のメッセージが一切記されていないのが奇妙といえば奇妙だった。
しかし、カードに付されたポップなウサギのイラストを見た瞬間、ぴんときた。三日前に昇太郎に話したあの事件にもこんなメッセージカードが登場した筈だ。その記事が収載された号を助手がたまたま持っていたため、ミケランジェロはすぐに事件の詳細を確認することができた。
(やっぱり似てやがる。だが……)
夢の中に現れる世界、そして本人が眠り込んだまま目を覚まさないという点は共通している。しかし過去の事件に登場したのは淋しい兎、リントだ。それにミケランジェロの記憶通り、ジャーナルに掲載された事件のほうはブログが引き金になって起こっている。ブログどころかパソコンとも縁のなさそうな昇太郎が巻き込まれるとは考えにくい。
しかし――件のハザードの舞台となったのはブログに引きこもった少女の心の内部と言い換えても良いだろう。その点が何か関連しているのかも知れない。
「くそっ」
癖のついた髪の毛を掻きむしる手にも苛立ちが満ちている。
考察や推論は後で良い。今は昇太郎を助けるのが先だ。
あの事件においてはリントから受け取ったメッセージカードが夢の中への招待状だったという。ならばこの藍色のカードもその役目を果たすのか。もっとも、招待状などなくてもどうにかして飛び込んでいたに決まっているが。
ミケランジェロの手の中でぐしゃりと潰れたウサギの顔は、ひどくいびつな笑みを浮かべているようにも見えた。
一方――同じ頃、夜の色をしたメッセージカードを受け取った者はミケランジェロの他にもいた。
「……昇太郎」
暗い銀色の髪と不可思議な翼を持つ彼は瞬時に事情を察し、昇太郎の名を呟いていた。
誰かに経緯を問うまでもない。彼も昇太郎に近しい者の一人なのだから。
目を閉じて手の中のカードに意識を傾け、次に目を開けた時には楽土に立っていた。神であるミケランジェロがそう錯覚してしまうほどにその世界は色鮮やかで、生命に満ち溢れていたのだ。
広大だ。果てが見えぬほど広大な世界、暗赤色の大地の上にミケランジェロは立っている。否、膨大、茫洋と言い換えたほうが適切かも知れない。吹き荒れる風は生き物の息吹のように生ぬるく、湿っている。
しかし、ここが楽土などではないことはすぐに分かった。
なぜならば――ああ。中空で絶えず展開される光景の、なんと神聖で、暴力的であることか。
生命だ。生き物だ。胞子のように降り注ぐ白や黒の粒子の中で、無数の生き物が、喰らわれ、喰らい、死んで、生まれ、また喰らわれ……。現実世界に存在するすべての生物が、果てしない生命の連鎖をえがきながらゆるゆると輪をえがいて回り続けている。人間や地上の生物、鳥たちもいれば地中に住む生物もいた。この世界には海や川がないのだろうか、魚類や両生類、水棲哺乳類が水中を泳ぐように空を泳いでいる姿はあまりに不可思議である。
鮮やかな色彩の競演だった。あまりにも荒々しい生命の連なりだった。
(何事だ……こりゃあ)
新たな命の産声は奪われる命の断末魔に。食い破られたはらわたから噴き出した血は産褥を染める悪露(おろ)に。生は死に、死は生に。命が持つ二つの相が次々に入れ代わり、もつれ、絡み合って、無限の回廊を作り出している。
そして、その中心にあるのは一本の大樹。靄のような葉をつけたその巨大な樹の周りで、すべての生命が美しくおぞましい、凄絶な生き死にを繰り広げている。
「おい……クソウサギ! 出て来やがれテメェ!」
ミケランジェロは合理的な面倒臭がりだった。自分の頭で考察するのは面倒だし、そんな時間もない。ならばこの世界に昇太郎を引きずり込んだ者を絞め上げて状況を説明させるのが一番手っ取り早い。
「ノーノーノー! ボクはクソウサギじゃないよ、ミントだよ!」
くるん、ぽふん!
突如として回転しながら宙に飛び出したのは濃い藍色のウサギだ。ジャーナルで見たウサギは月の色をしていた筈だが、この際そんなことはどうでもいい。
「テメェ、昇太郎に何しやがった」
この怠惰な神は昇太郎のことが絡むと人が変わるのだろうか。平素のけだるげな雰囲気はすっかり影を潜め、語気も荒く性急に問い詰める。
「おっと、怖い怖い! ボクは昇太郎クンの精神世界を覗かせてもらっただけさ!」
「何だって?」
「夢っていうのは人の記憶や深層心理が表れるものだからね! 夢を媒介してその人の精神に入ることができるってわけさ、リントがブログを媒体にして人の心に入り込んだようにね! ボクも今まで何人もの人の心の世界を体験させてもらったよ! だけど――」
わざとらしく腕を組み、大袈裟に「うーん」と唸りながら首をかしげてみせる。しぐさのひとつひとつに応じてぴょこぴょこと揺れる長い耳すら忌々しい。
「昇太郎クンの世界は“大きすぎた”ようだねえ? “膨大すぎる”って言ったほうがいいかなぁ? 面白そうだと思ったから引き出して覗いてみたけど、これはボクの手にも昇太郎クンの手にも負えないよ! さあ大変、何とかしてあげてミケランジェロクン! あ、だけど」
ミントはまた首を傾げた。「おかしいなあ、どうしてキミたちがここに入って来られたのかなあ?」
「ふざけんな。テメェが招待状をよこしやがったんだろうが」
「うん? 招待状? ボクはそんなもの送ってないけど? あ、でもキミが持ってるそれは確かにボクが使ってるカードだね? うーん、一体どういうことかなぁ?」
長い耳を揺らしながらきょときょとと首を傾げるミントはまんざら嘘を言っているわけでもないようだ。しかしこれでは埒が明かない。
ミケランジェロの苛立ちは頂点に達し、目と声が剣呑さを増した。
「もういい、失せろ。でなきゃ俺がテメェを“消す”」
「ああ怖い怖い! それじゃあボクはおいとましようかな! もう一人の人と力を合わせて頑張ってね!」
「――もう一人?」
波打った前髪の下の眉が険しい音を立てて跳ね上がる。「待て! そういやさっき“キミたち”って――」
くるん、ぽふん!
一歩遅かったらしい。おかしなウサギは軽快にトンボを切って消え失せ、ミケランジェロの手は虚しく空を掻いただけだった。
「畜生、使えねェ」
――ボクは傍観者さ! 妨害はできないけど協力もできないよ!
思わずこぼれたぼやきに応じるようにけたたましい笑い声が降り注ぎ、ミケランジェロはまたひとつ舌を鳴らす。
――ああほら、よそ見をしてると危ないよ? 気をつけてね?
耳障りな声に目を上げると、狼のような姿をした獰猛な獣がミケランジェロ目がけて襲い掛かってくるところだった。
「――――――!」
猛獣の爪と牙を間一髪でかわし、ミケランジェロは息を呑む。頬を掠めて真っ赤な大地に降り立った獣は、現実の狼とは全く異なる色をしていたのだ。
青だ。青い狼である。それも、夏空のように爽快で鮮やかな青。
同じ色の目を持つ“天敵”の顔が咄嗟に脳裏をよぎった。
「……ちィ!」
方陣を描いていては間に合わぬ。代わりにモップの仕込みを抜き放った。しかし颯(はやて)のごとく迫った狼は遥かに速く体の横を駆け抜けていく。獰猛な爪に引き裂かれ、肩の辺りに熱と痛みが走った。
堂々たる体躯を揺らし、鋭いあぎとを開いて体勢を低くした狼の姿は獲物に襲い掛かる狩猟者そのものだ。だが――鋭くこちらを見つめるまなこは、どうしてこんなにも優しい色をしているのだろう?
(コイツは……)
こんな所まで似ているではないか。鋭く、厳しく、それでも大切な相手には深い情と慈愛を惜しみなく向けるあの男に。
「くそ。何なんだよ一体」
「想いの、形」
独りごちるように落とした呟きに思いがけず応える者がある。はっとして顔を上げるよりも早く、視界の中に奇妙な物が映り込んだ。
それは翼。鉛という名の重苦しい金属でできた、不可思議な一対の羽。声と後ろ姿からどうやら男であるらしいとミケランジェロは察した。
「傷つけたくは……ない」
抑揚のない声で呟いた彼の手の甲がびきびきめきめきと裂け、新たな翼が生える。
「ギャン!」
新たな獲物に襲いかからんと地を蹴った狼は悲鳴を上げ、もんどり打って転がった。彼が手に生やした翼を盾代わりにかざして狼の牙を防いだのだ。態勢を立て直した狼は尚も低く唸っていたが、やがて諦めたのか、じりじりと後ずさりながら姿を消した。
暗銀色の髪の毛を持つ彼がゆっくりと振り返る。
不思議な目だ。青みを帯びた深い黒の虹彩、銀の瞳孔。ひどくまっすぐで、撃ち抜かれてしまいそうなほどの輝きを静かに湛えている。背中に負った翼といい手の中へ戻された鋼の翼といい、その姿はあまりに異様だが、現実離れしていると言っていいほどに美しい。
透き通った色の、しかし表情に乏しい唇がかすかに動き、低く掠れた声が言葉を紡いだ。
「……タマ」
「タマじゃねェ!」
この男が何者であるのか、どうして自分の名前を知っているのか、そういった疑問をすべてかなぐり捨ててミケランジェロは猛然と抗議した。
「ミケランジェロだ、ミ・ケ・ラ・ン・ジェ・ロ! 略すならせめてミケにしろ!」
「みんなが……“タマ”と」
「だからって、なんで“ミケランジェロ”が“タマ”になるのか疑問に思わねえのかテメェは!」
「猫、の名」
途切れ途切れの口調は生来のものだろうか。必要最低限の短い単語のみをもって答え、不思議そうに首を傾げる彼の前でミケランジェロは頭を抱えた。コイツは駄目だ、と瞬間的に察していた。話が噛み合わないばかりか、どうやら一番苦手なタイプらしい。
「……まぁいい。所でおまえ、何で俺の名前知ってんだ?」
「昇太郎の、傍に……居るから」
「あァ?」
「だから……昇太郎の、近くに居る、から」
それは実に的を射た答えであったが、彼の正体を知らないミケランジェロがそれに気付く筈もない。話の通じぬ相手と諦めて面倒臭そうに肩を揺すり、仕方なしに話題を変えた。
「あー……その、何だ。とりあえずおまえは何モンだ? こっちの世界の住人か?」
不可思議な翼を生やした男は答えの代わりに一枚のカードを取り出した。
「呼ばれた。……昇太郎に」
濃い藍のそれは、ミケランジェロの手の中で握り潰されたのと同じ、おかしなウサギのイラストが添えられた白紙のメッセージカードだった。
彼の名はアルシェイリ・エアハートという。しかし大抵はアルシェとしか名乗らないため、本名を知る者は少ないだろう。ミケランジェロもまたアルシェとしか聞かされなかった。
「……で」
コミュニケーションを取るのに難儀しそうな相手だと予感しつつ、ミケランジェロは軽く眼を眇めて質問を続ける。
「昇太郎に呼ばれたってェのはどういう意味だ。おまえも昇太郎の知り合いか?」
「知り合い……。ああ、よく、知っている。昇太郎も、俺を、知っている」
長い指がミケランジェロの手の中のカードをすっと指し示した。「タマも、呼ばれた。昇太郎に」
「だから俺はタマじゃ……って、言っても無駄だろうなおまえには」
アルシェイリと出会って間もないミケランジェロだが、早くも調子を狂わされている。浮世離れした雰囲気を持つこの男がマイペースな性質であるらしいことも容易に推察できた。そして、こういったタイプの人物はミケランジェロが最も苦手とするタイプである。
「昇太郎はどこだ?」
だから、最も重要な事項のみを単刀直入に尋ねた。
「生命の、樹の中。眠っている。目覚めれば、収束に、向かう」
アルシェイリもまた、必要な情報のみをシンプルに、主語すらも省略して返した。
ミケランジェロもアルシェイリの指が示した先に視線を投げる。膨大な世界の中央、回り続ける命の中心で沈黙しているのは靄のような葉をつけたあの巨大な樹だ。
「回り続ける……生死が、車輪のように。ずっと、ずっと。止まる、ことなく」
ちらちらと降り注ぐ白や黒の粒子の中に手を差し伸べ、アルシェイリは誰に聞かせるでもなくぽつぽつと呟いた。
その言い回しにはミケランジェロも聞き覚えがある。三界六道の迷いの世界で、回転する車輪のように繰り返される生死。それを輪廻と呼ぶのだと。
そして――その果てのない輪廻こそが、昇太郎の背負うものであるのだと。
「この土は、子宮の、色。赤い、大地。いのちの……ゆりかご」
「……何だって?」
突拍子もない台詞にミケランジェロは眉を跳ね上げたが、アルシェイリは気にした様子もなく、白と黒の粒子が降り積もった掌を静かに下へと向けた。
「ゆりかごに、生命の種、が、降り注いで……」
掌の上に胞子のように降り積もった粒子がさらさらと地面に流れ落ちる。生き物の体内のような色をした大地に落ちた白と黒が粘土質の小さな塊になり、不思議な割れ目を作りながら緩やかに回るのがミケランジェロにも見て取れた。精子を受け取ってひとつの生命へと変じた卵子は、実際にこのような回転運動――“生命のダンス”を見せるという。赤黒い大地に落ちた種がひとつの塊となってゆるゆると回転する様は、分裂を繰り返しながらダンスを踊る受精卵を電子顕微鏡越しに見ているかのようだった。
大樹に向けた双眸を静かに眇め、アルシェイリはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「生まれた、命は、すべて還る。大樹の中……昇太郎の中に。それから、転ずる……次なる命に」
ミケランジェロは聞こえよがしに溜息をついて頭を掻きむしった。アルシェイリの言葉はわざとそうしているのではないかと思うほどに抽象的で、分かりにくい。
しかし分かったことはある。昇太郎はあの大樹の中で眠っているらしいこと。そして、昇太郎を目覚めさせればこの世界も消えるらしいこと。それだけ把握できれば充分だ。
(てェことは、ここは本当に昇太郎の精神世界なのか)
おかしなウサギがそんなことを言っていた。膨大すぎて手に負えないとも。
輪廻は人の器が背負うには重すぎる。そのために昇太郎の身体は常に軋み、激痛に苛まれている。天を背負う彼は死ぬことすら許されず、五体を引きちぎられようが臓腑を喰らわれようが、まるで生きること自体が唯一最大の義務であるかのように生き続けなければならない。
傷ついた昇太郎の体は彼に寄り添う『鳥』が瞬時に癒してくれる。肉体をこま切れにされても、魂がある限り昇太郎は幾度でも甦り、生き続ける。あたかも肉体が滅びても魂は永遠に継続するという輪廻転生制度と同じように。違うのは、昇太郎という存在が昇太郎の肉体と自我を保ったまま在り続けるという点のみだ。
輪廻とは即ち苦だという。永遠に紡がれる生は喜びではなく苦しみなのだと。あたかも修羅が歩む道のように。
「そういやァ、あの鳥も昇太郎と一緒に樹の中か? 姿が見えねえが」
ふと落とされたミケランジェロの問いにアルシェイリはそっと目を眇めてみせるだけだ。ほんのわずかに動いた彼の唇がどうとも形容しがたい表情を刻んだように見えたのは気のせいだったのだろうか。
「……まあいい。それも昇太郎を見つけ出せば分かんだろ。それより……さっきの質問の答えがまだだぜ。おまえ、俺たちがここに来られたのは昇太郎に呼ばれたからだって言ってたな?」
「ああ。昇太郎に呼ばれた。俺も、おまえも。昇太郎が……欲したから。魂の、底で」
「……フン。だから俺とおまえだけがここに入れたってわけか」
親友に求められたのだと聞かされて悪い気はしない。しかし――自分はともかく、この翼を生やした不可思議な男が呼ばれたのはなぜなのだろう。
「……本当は」
ミケランジェロにちらりと視線を送り、アルシェイリは相変わらず淡々と言葉を返す。
「呼ばれたのは……おまえと、神」
“神”の名を聞いたミケランジェロの眉がぴくりと吊り上がった。
「神ってェのは、もしかして」
以前、ムービーキラーと化して昇太郎の前に現れたあの女のことではないのか。
確か――名を、ネヴァイア。
「彼女は、此処には、いない、から。代わりに……俺が、引き込まれた」
「……おまえ」
アルシェイリを探るように見つめる双眸の上を濃い懐疑の色が覆っていく。
“神”は昇太郎に最も近しい者の筈だ。その神の代わりに引き込まれたというこの男は一体――?
「本当に、何モンだ?」
いらえがある筈もない。
作り物のように綺麗な唇に謎めいた微苦笑をさざめかせ、アルシェイリはミケランジェロを促して歩き出した。
二人が大樹に近付こうとしていることが伝わったのだろうか。世界に満ちる空気と生命が不意にその気配を変えた。
それは敵意と殺気。そう――まるで、縄張りを荒らそうとする侵入者に対して牙を剥く獣の群れのように。
「ウオオォォォォォン!」
獰猛な、しかし金管楽器のような美しい鳴き声が響き渡る。ミケランジェロの頭上すれすれを急襲して中空にホバリングしているのは龍の翼を生やした巨大な犬だ。
「くそ、さっきも妙な狼が襲って来やがった。これもあの樹の周りを回ってる生き物か?」
それにしてはずいぶん現実離れした姿をしている。やや癖のかかった黒っぽい体毛に、鮮やかな青の翼。これではまるで空想上の怪物ではないか。
「違う」
ミケランジェロの脇でアルシェイリがぼそりと呟いた。「これは、想いの形」
「あん?」
「昇太郎を……想う者」
その言葉の真意を問いただす暇はなかった。悪戯な子供のように目を光らせた犬が高らかに旋律を歌い上げる。そして――次の瞬間、ミケランジェロは己が目と耳を疑った。
胃の腑を打つかのような低音はまるで不吉な地鳴り。天から地から、ウンカのごとく湧き上がったのは獰猛で色鮮やかな異形たちの群れ。
龍の翼を持つ犬の遠吠えが合図であったかのように、怪物や猛獣の群れがうねりとなって押し寄せて来たのだ。
「タマ」
「だからタマじゃねェ――」
抗議するよりも早くミケランジェロの体は宙へと引き上げられていた。芸術の神の腕を掴んで空へと飛び上がったアルシェイリは感情に乏しい瞳で怪物たちを見下ろしている。
「……おまえ」
何対もの翼を背に負ったアルシェイリの姿を見とめ、ミケランジェロは軽く眉根を寄せた。
鉛。鋼。銀。蝙蝠のような皮膜状のものに孔雀のごとく鮮やかなもの、それに、水や炎で形成された不定形な翼……。ありとあらゆる物質や物体でできた異形の翼がアルシェイリの背で開き、緩やかに羽ばたいている。
「見ろ」
ミケランジェロの視線に気付いているのかいないのか、アルシェイリは眼下を顎でしゃくった。
「敵、とは……違う」
アルシェイリの言う通りだった。
先程の、鋭くも優しい目をした青い狼。
龍の翼を生やし、獰猛ながらも目を闊達に輝かせ、楽器のように美しい声を持つ黒毛の犬。その翼は、昇太郎と兄弟同然の関係にある楽団員が愛用しているトランペットと同じ色。
威嚇するようにミケランジェロたちの周りを飛び回っているのはコンドルの体に蝙蝠の羽を持つ黒い怪物。その体は呪布で全身を覆われたあの男のように痩せている。
どこか幼さを残した真っ赤な狐の怪物は、未成熟ながらも稲荷神のごとき威厳を纏っている。
ミケランジェロに向かってひときわ激しく牙を剥く小麦色のしなやかな女豹。その曲線的な体にちりばめられた不可思議な紋様は、昇太郎に執着し、昇太郎に付き纏う彫り師の体に刻まれた百鬼の刺青にそっくりだ。
みんなみんな、昇太郎と親しくしている者たちにどことなく似ている。
みんなみんな、凶暴な姿をとりながらもどこか優しい目をしている。
そして、ミケランジェロには“彼ら”の声なき声がはっきりと聞こえたような気がした。
(行くな)
(この先は通さない)
(静かに眠らせといたれや)
(あんたたちの手を昇太郎に触れさせやしないよ?)
ああ――物言いは様々だが、みんなみんな、昇太郎を想っている。
「……はん」
しかし、彼らの言い分に違和感を覚えたミケランジェロは唇の端を自信たっぷりに歪めてみせた。
「俺たちはこの世界を暴く異端者ってわけか。――上等だ」
短くなった煙草を口から外し、指でぴんと弾き飛ばす。「アイツらに似てるからって惑わされやしねえ。下ろせ。俺が手っ取り早く片付けてやる」
「いけない」
「あァ?」
「あれは、想いの、塊」
昇太郎を想う者たちの心が形をなしたものだ。悪意はないし、敵でもない。ただただ昇太郎を守ろうとしているだけ――。途切れ途切れの言葉で淡々とそう説明するアルシェイリにミケランジェロは軽く舌を打つ。
「んじゃどうすりゃいいんだよ?」
「傷つけない、ように……かいくぐる」
言うや否や、アルシェイリはミケランジェロの腕を唐突に離した。それでも綺麗に着地を決められたのはミケランジェロの反射神経ゆえだ。
「いきなり離すな!」
「二手に……分かれた、ほうがいい。そのほうが、相手も……分散される。俺は、空。タマは地上」
「何べんも言わせんな、タマじゃねえ!」
「タマ、前」
「だからタマじゃねえ!」
小麦色の女豹がミケランジェロ目がけて地を蹴る。ミケランジェロは上空に向かって律儀に抗議してから横に跳んだが、低く唸りながら振り返る豹の顔を見て思わず苦虫を噛み潰した。勝ち気な目つきまでもがあの女にそっくりだ。
あの刺青女は嫌いだ。決して相容れることはないだろう。しかし、この豹が昇太郎へ向けられた想いの形――いわば善意の塊である以上、傷つけるわけにもいかない。
「くそっ」
モップの仕込みを抜き放ち、不機嫌な神はいまいましげに舌打ちした。
「斬られたくなかったら近付くんじゃねえ!」
地上には獰猛な姿をした怪物たち、空中には凶暴な猛禽の群れ。そして更にその上には、大樹の周りを回りながら凄絶な生き死にを繰り返す生き物たちの姿。
生まれいずる命は喰らわれるために。喰らわれて地べたに落ちた命は新たな命の苗床に。その神聖な繰り返しはまさに神の領域。暴力的なまでに絶対的で、膨大な神の意志。
命の種子が降り注ぐ中、命を育む臓器と同じ色の土を踏みしめ、堕ちた神は吼え猛る。己を奮い立たせるために――この声が昇太郎に届けとばかりに。
耳になじんだ声がかすかに意識を浮上させる。
(……ミゲル?)
甘美な静寂の中、モップを担いだ怠惰な神の声が聞こえた気がした。否、確かに聞こえた。昇太郎、と自分の名を呼んでくれた。
(どこじゃ……ここは)
体と意識を粘着質の物体で絡め取られたかのようだ。身じろぎすらできない。意識を覚醒させようとしても、まるで泥沼の中でもがいているかのようなもどかしさと息苦しさがまとわりついてくるだけである。
(起きられん。何やここは……なしてこげに……)
人肌の温度と睡魔は抗い難い恍惚にも似て、昇太郎の自我はとろけるように、頑是ない赤子のようにまどろみの底へと沈んで行く。
(ああ……眠るんが俺の役目なんか。ここに居て、この中で眠るんが……)
羊水の中に浮かぶ胎児のようにとろとろと目を閉じた時、ほんの一瞬、『鳥』のさえずりを聞いた気がした。
いつの間に現れたのだろう。眠り込んだ昇太郎の傍らに、暗銀色の羽毛と無数の翼を持つ巨大な鳥が音もなく寄り添っていた。
仕込み刀で防戦しながら怪物たちの攻撃を掻い潜るミケランジェロを眼下におさめ、アルシェイリは何対もの翼をあらゆる角度へと広げながら猛禽たちをかわしていく。異形の翼を無数に生やした姿から『鳥を統べる王』の呼び名を持つアルシェイリだが、この世界の鳥獣たちが彼に跪くことはないらしい。
「………………」
獰猛な鳥獣たちの爪や嘴が顔や体を掠める度、痛みと血が流れ出す。それでもアルシェイリの表情は動かない。痛覚がないわけではない。ただ、痛みという名の感情や表情を表に出すことがないだけなのかも知れない。
代わりに、世界の中央に聳える大樹に向けた目が静かに細められた。
昇太郎があそこにいる。眠っている。たくさんの想いに守られながら。何と喜ばしいことではないか。昇太郎が皆に慕われている、それが我がことのように嬉しい。
妹も同じように昇太郎を想っていた筈だ。そして、この街で皆に愛され、皆を愛しながら生きる修羅の姿を、修羅とともに在る妹は誰よりも喜んでいるに違いない。
「畜生、どきやがれ!」
眼下で荒ぶる神が怒号を上げる度、白刃が閃く。しかし鋭利な刃が怪物たちに当たることはない。あくまで威嚇のためにふるわれているだけだ。アルシェイリが言った通り回避に徹しているらしい。黒いツナギは鉤裂きと血と泥にまみれ、既にぼろぼろになっている。もっとも、ミケランジェロの治癒力をもってすればあの程度の傷などすぐにふさがってしまうだろう。
襲いかかる獣たちは皆獰猛だ。しかし彼ら彼女らが抱く想いという名の感情はアルシェイリの肌に静かにしみ込んでいく。
心地良い共鳴と共感に満たされたアルシェイリの唇にあるかなしかの微笑が滲む。
それはひどく場違いな光景だった。凶暴な生命が溢れ返るこの真っ赤な世界で、現実離れした姿のキメラが美しい微笑を浮かべているのだから。
だが、油断はできない。
(きっと……一番強いのが、昇太郎の、傍に)
そう。最も獰猛な獣は大樹のすぐ傍、あるいは大樹の中に居る筈だ。
そして――彼と対面した時、ミケランジェロはどんな顔をするのだろう。
「タマ」
「タ・マ・じゃ・ね・え!」
「前。見ろ」
相変わらずの猛抗議を無視し、アルシェイリはミケランジェロの傍らに降り立った。
怪物たちを掻い潜ることに集中していたために気付かなかったが、二人はいつしか大樹の目の前まで辿り着いていたのだ。
靄のような葉をつけていることは遠くからも見てとれたが、改めて間近で見てみれば奇妙な樹だ。樹皮は奇妙にぬめりを帯びた質感で、血の気をたっぷりと含む肝臓、あるいは静脈を流れる血液そのもののような色をしている。そして姿も一風変わっていた。幹から生える枝は空ではなく地面に向かって伸びているのだ。まるで、地面から引っこ抜いた木を逆さに突き刺したかのように。
「……妙な樹だな。赤黒いっつーか……この土と同じ色をしてやがる」
「生命の樹。命の、胎芽」
「あ?」
「世界の……源」
ミケランジェロの剣呑さを気にするでもなく、頭上で車輪のような生き死にをぐるぐると繰り返す生き物たちに気を取られるでもなく、アルシェイリは相変わらずぼそぼそと意味深な言葉を落とす。
「生命は、大樹に還り……また、生まれいずる。生命の樹、から」
ミケランジェロは深々と溜息をつき、片手を腰に当ててアルシェイリを斜めに睨みつけた。
「どうにかなんねェのかその物言い。意地の悪い謎かけみてェだ」
この世界に詳しいアルシェイリの案内でここまで到達できたことは確かだ。しかし彼が口にする言葉はいちいち謎めいていて抽象的で、有り体に言えばひどく分かりにくい。
「謎なんか……ない」
不思議な色合いの目はすいとミケランジェロから離れ、目の前の大樹へと向けられる。
「昇太郎は、この中。それだけ、だ」
男にしては随分繊細な指が指し示した幹には、氷河にできたクレバスのように深く大きな裂け目が口を開けていた。奇妙な肉感を持った真っ赤な割れ目はまるで生き物が生まれてくる穴のようで――その神聖さとおぞましさにあてられたというわけでもあるまいが、ミケランジェロはわずかに眉根を寄せた。
「この中に入るのか」
「そうだ」
「……ぞっとしねェ入口だな」
強引に掻き分けて奥に入れば悲鳴と血が噴き出してきそうだ。そう思わせるほどに目の前のクレバスは生き物めいて赤く、湿り気を帯びている。
この裂け目の奥は聖域なのかも知れない。限られた者のみの侵入を許す、深く神聖な場所。神たるミケランジェロまでもがそんな錯覚に捉われるのはどういうわけなのだろう。
不意に、視界の中で圧倒的な銀がばさりと翻る。
「――――――!」
鳥。鳥だ。鳳凰とも孔雀ともつかぬ見事な体躯の鳥が悠然と頭上を舞っている。巨大な体から無数の翼を生やしたその姿は、さしずめ鳥の王。
美しい鳥は二人をちらりと見下ろしただけだった。侵入者を攻撃するでも追い払うでもなく、ただ大樹の傍に寄り添うようにして飛び続けている。
しかし、硬質的な嘴から時折漏れるさえずりはミケランジェロに奇妙な既視感と違和感をもたらした。
「……鳥……」
無数の翼、暗い銀色の羽毛。これではまるで――しかし、あの声は。
「行こう」
アルシェイリに腕を引かれてミケランジェロは我に返る。背に負っていた無数の翼はいつの間にか収納され、今は鋼のものを一対残すのみだ。生き物の寝息のような熱っぽい風に吹かれて、暗銀色の髪の毛が柔らかく乱れる。
大樹の傍を飛ぶ鳥が高らかに啼いたのは、ミケランジェロの思考を読み取ったからなのだろうか。
(昇太郎)
まどろみの沼の底で、親友の声が昇太郎を呼ばわる。
(ミゲル)
色違いの双眸を薄く開くと、生ぬるい温度とざらざらとした感触が頬の上を往復した。紙やすりのように硬いが、不快ではない。くすぐったそうに身じろぎした昇太郎の傍らに見覚えのある色彩が座り込む。
その正体は一頭の獣であった。正式な名称は分からないが、チーターという獣に似ている。
(ミゲル……)
灰銀の毛並を撫でながら、昇太郎は獣に向かってそう呼びかけた。しなやかな獣は紫色の瞳を細めて昇太郎の愛撫に甘んじる。
イラスト/田口マサチヨ(iasb7725)
(安心しろ、昇太郎)
あの怠惰な神と同じ色の双眸が静かに昇太郎を覗き込んでいる。
(おまえは俺が護る。何をしても、だ)
濡れた鼻先を昇太郎の頬に押し付け、獣はまるで番人か何かのように傍らに座り込んだ。
(安心して眠れ)
人肌の温度にくるまれ、見慣れた色の毛並を褥に、昇太郎は世界に溶け込むようにして再びまどろんでいく。
温かい。真っ先に抱いた感想がそれだった。温かいというよりは生ぬるいというべきか。人肌に抱かれているかのような奇妙なぬるさと湿り気の中を二人は黙々と進む。
大樹の中はまるで洞窟のように薄暗い。薄い靄がまんべんなく広がっているかのようだ。外の世界ほどではないにしろ広大な空間が開けているが、ひだのある内壁に手をつけばぬらぬらとした感触が糸を引いてまとわりつく。これでは洞窟というよりも生き物の体内である。
それに、どういうわけなのだろう。この閉ざされた空間はひどく居心地が良い。奥へ奥へと進むごとに、郷愁にも似た心地良いまどろみが絡みついてくるのだ。
「さっきの怪物や獣みてぇなのはもういねぇんだろうな?」
慎重に気配を探りながらミケランジェロが問い質す。しかし、まるで案内人のようにミケランジェロの前を行くアルシェイリはちらと振り返っただけだ。
「おい。何だよ、その反応」
「恐らく……いる。一番、近くに」
「あぁ?」
「タマが」
「いい加減にしろ! だから――」
タマじゃねえ、と叫びかけてミケランジェロははたと口をつぐむ。
あの怪物たちは想いの塊。皆、昇太郎の友人たちに似ていた。
彼ら彼女らの想いが形となって現れたのなら、昇太郎に最も近しい人間の一人であるミケランジェロを模した猛獣もまたどこかに居る筈だ。
「ああ」
ぽつりとつぶやいたアルシェイリがはたりと足を止める。
「やっぱり、タマだ」
地を這うような唸り声とともに、大樹の最深部からその獣がゆらりと姿を現した。
そしてその足元には、眠り続ける昇太郎が横たわっている。
ミケランジェロの舌打ちが響く。アルシェイリは翼を開いて飛び上がり、様子見という名の傍観を決め込んだらしい。
「テメェ、高みの見物ってか!」
「傷つけたく、ない。それは……タマの、想い」
ミケランジェロの眉が険しい音を立てて跳ね上がる。
眼前で低く唸っているのは猫科のしなやかな獣だ。人間の世界でチーターと呼ばれる肉食獣に似ている。ミケランジェロの髪の毛と同じ色の毛並みに、ミケランジェロの目と同じ色の双眸。しかしそこにけだるさはない。紫色の目は凶暴なまでに鋭利な意思を漲らせている。
それは殺気であり、敵意。大切なものに近付かせまいと、侵入者の前に立ち塞がる防人のようだ。
しかし――というべきか、やはり、というべきなのか。
ミケランジェロと同じ色彩のチーターは、これまで見たどの猛獣よりも優しい目をしているのだ。
「やっぱり、タマは……ここに、いた。一番、近くに」
強靭な後肢が真っ赤な地を蹴る。獰猛な牙が凶悪にぎらつく。ミケランジェロの顔面すれすれを掠めていく爪と牙はこれまで遭遇したどんな怪物たちよりも凶暴で、荒々しい。
しかしミケランジェロは確かに見ていた。横たわる昇太郎を庇うようにして寄り添っていたこの獣の姿を。
(行かせねェ)
ミケランジェロの頭の中に聞き覚えのある声が響く。毎日聞いているはずなのにひどく違和感を覚えるそれは、他でもないミケランジェロ自身の声。
(昇太郎を起こすな)
「……うるせェ」
ガキン!
硬質な金属音が赤黒い内壁を震わせた。繰り出された爪が細身の仕込み刀にがっちりと食い込む。手首を走り抜ける電流と痺れにミケランジェロが舌打ちする暇もない。しなやかな獣は素早く飛びすさり、再び地を蹴って疾風のように殺到する。
「強い」
頭上で見守るアルシェイリは誰にともなく呟いた。「一番……強い」
昇太郎を護るという想いを誰よりも強く持っているのがミケランジェロなのだろう。だからこのチーターもどんな獣より獰猛で強いのだろう。ただそれだけのことだ。
しかし、この獣をはねのけなければ昇太郎を救い出すことはできない。
(行かせやしねェ。のけ)
「黙れ」
(ここで眠るのがアイツの役目なんだ、そのほうが幸せなんだ。このまま眠らせておいてやれ)
「黙れ」
(昇太郎は俺が護る。消えろ!)
「黙りやがれ!」
ギイン!
一閃。金属の雄叫び。ぶつかり合うのは仕込み刀と獣の爪牙、譲れない想い。荒い息遣いは果たしてどちらのものか。
じりじりと間合いをはかりながら、ミケランジェロは顔にかかる前髪を払いのけようともせずに獣を睨めつける。
もどかしい。これが自分の想いの形だというのか。だからこんなにも執拗で強いというのか――?
(どうして抗う? 昇太郎を護りたいのはテメェも同じだろうが)
「……違う。俺の“護る”はそんなんじゃねェ」
(どう違う。苦しんでる昇太郎を間近で見続けてきただろ? 楽にしてやりてえ、終わらせてやりてえと思い続けてきたんだろ?)
ふ、と堕神の唇が持ち上がった。
それは不敵な――あるいは嘲るような、不遜な笑みだった。
「やっぱりここは夢ん中だ。現実とは違わァ。さっきのアイツらもそうだ」
ゆらり、と細身の刃が揺らめく。
「終わらせてやれば苦悩を軽減してやれると昔は思ってた。だがな、それじゃ解決にはならねェんだよ。眠らせるのだって同じだ」
自らの内に凝る渇望を増幅されて親友に刃を向けたのは最近のことだ。昇太郎のことが誰よりも大事だからこそ、彼を負わされたものから解放してやろうと、楽にしてやろうと、ミケランジェロは刃を抜き放った。
「アイツはいつだって笑ってた」
地べたに這いつくばろうとも。血反吐を吐こうとも。
「すぐ照れたり怒ったり泣いたり……あぁ、くせェ言い方だがな、すげェキラキラしてんだよ」
背負ったものはあまりに重く、器におさまりきらないほど膨大で、心身は常に悲鳴を上げているはずなのに。
それでも、昇太郎は。
「今のアイツは変わった、生きてくことを選んだ。それを邪魔するヤツは斥ける」
(昇太郎に苦しみの道を歩ませると知ってか?)
獣の言葉に、埋め込まれた渇望の毒がちりりと焦げる。
それでも――ミケランジェロは、己が想いが形となった獣の声に真っ向から立ち向かう。
「アイツが自分で言ったんだ、苦しみも自分自身の一部なんだってな。……だから」
ひゅ――と、わずかな風切り音を残してミケランジェロの姿が消える。
そして次の瞬間、しなやかな獣の懐に入り込んだミケランジェロは、右手を伸ばしてその首を絞め上げていた。
「――通せ」
ぎちぎちと首を絞められ、獣の後肢が地を離れる。
「昇太郎を起こして連れ帰る。邪魔すんじゃねえ!」
ミケランジェロの手の下で獣の喉がぐるるると鳴っている。威嚇ではなく苦悶の呻き声だ。その証拠に、開いた口からだらりと舌が垂れ下がり、泡立った唾液が糸を引きながら滴り落ちて行く。
抗い難い静寂と安寧が心身を満たしている。ゆりかごの中の赤子のように、心地良く、温かい感覚だ。
眠ることこそが赤子の役目だ。何も知らずに、ただ安らかに。ならば今の昇太郎も赤子と似たようなものなのだろう。世界を負う者として、このまま世界に溶け込むように、ただ静かに眠れば良い。
(じゃけど……ここにおったらなァんも見えん。ここにはだァれもおらん)
瞼はひどく重い。
それでも起きなければならない。起きたい。
(起きなあかん……あぁ、ほら、呼ばれとるけぇ……)
――昇太郎!
「昇太郎……」
獣を退け、大樹の褥に横たわる昇太郎を抱き起したミケランジェロは険しい顔で親友の名を呟いた。
昇太郎の全身にねっとりと絡みつくこの物体は、血か。昇太郎の体から流れ出たものかと動揺したが、そうではないことがすぐに分かった。血というよりは体液に近いだろうか。血ほど濃くはなく、しかし、血のように生ぬるくて粘着質だ。
肩を揺らしても頬を叩いても昇太郎は瞼ひとつ動かさない。眉を寄せるミケランジェロの脇でアルシェイリが「大丈夫」と呟いた。
「眠って、いるだけ。連れて、行こう」
昇太郎の着物からはねっとりとした液体が滴り落ちてくる。まるで嬰児のようだとミケランジェロは思った。母親の胎内から生まれ出たばかりの、胎盤の破片と血と羊水にまみれた赤子のようだと。
アルシェイリが先に立ち、眠り続ける昇太郎を背負ったミケランジェロがその後に続く。後は来た道を戻って外に出れば良い――のだが。
足の裏にかすかな震動を感じる。まるで大樹が震えているかのような。
「……崩れる」
そして不吉な蠢動の中、アルシェイリはまたしても意味深な言葉を口にするのだ。
「急ごう。出口、へ」
ざわざわと。ぶるぶると。
大樹が、否、この世界全体が、梁を失った天井のように不安定に揺らめいている。
そして。
アルシェイリに促され、何かに急き立てられるように大樹の外へと飛び出したミケランジェロが目にしたのは混沌の世界。
大樹の上を回り続けていた生物たちは地べたに叩きつけられ、もがいている。彼らを呑み込むのはマグマのように溶け出した大地の赤だ。命を創る臓器の色をした世界が洪水のように暴れ、崩れ、うねりながら全てを押し流そうとしている!
「ち。随分な終わり方じゃねェか」
ミケランジェロは反射的に手の甲で鼻と口を覆った。熱風と一緒に吹き付けるのは生き物のにおい――奇妙に生ぬるい血と肉の臭気。三人を吐き出した大樹までもが崩れ落ちる。昇太郎が目覚めればこの世界は収束に向かうとアルシェイリは言ったが、最後の最後までこうも暴虐ぶりを見せつけてくれるというのか。
「崩れる。昇太郎を……核を、失った、から」
世界が今、崩壊しようとしている。輪廻も、その中心にある生命の樹も、全てが赤く染まって崩れ落ちようとしている。こんなにも膨大な世界が、昇太郎という存在を失っただけでいとも簡単に地滑りを起こそうとしている。
(こんなどでかいモンを独りで背負ってるってのか……)
内心で呟くミケランジェロの背中で、昇太郎は乳飲み子のような寝息を立てているだけだ。
この茫洋とした世界は人間の器には重すぎる。そんなふうに思えば、あの灰銀の獣の声に誘惑されそうになるけれど。
(……いや。今は独りじゃねえ、か)
かぶりを振って昇太郎を背負い直すと、無垢な修羅の体温と体重が背に心地よく伝わった。
ばさりと翼を開いたアルシェイリが熱波の渦巻く中空へと浮上する。ぐるりとこうべを巡らせているのは出口を探しているのだろうか。昇太郎を背負ったミケランジェロも懸命に視線を巡らせる。しかし、暴力的な赤と膨大な命が果てしなく渦巻いているだけで、脱出口とおぼしきものは見受けられない。迷っているいとますらないようだ。体液のような粘りを持った荒々しい洪水が迫り、ミケランジェロは追い立てられるように駆け出した。
走ることに夢中だったから、気付かなかった。果ても見えない世界が、まるで空気を抜かれる風船のようにしぼみ、小さくなり始めていることに。
「そのまま、走れ」
何対もの翼を羽ばたかせたアルシェイリが並走するように低空を飛ぶ。
「こっちでいいのかよ?」
「多分」
「多分って、テメェ――」
「流れの、ままに」
すいと持ち上げられたアルシェイリの視線の先には、あの銀色の不思議な鳥。長い尾羽を後に引き、巨大な鳥は三人を先導するように羽ばたく。
「逆らわず……だけど、呑まれず、進め」
「……チッ。よく分かんねェんだよ、テメェの言い草は!」
しかし今は走るしかない。足を止めれば生命の奔流に呑み込まれてしまうだろう。
暗い銀色の羽毛と無数の翼を持つ不可思議な鳥が不意に速度を緩め、ミケランジェロの傍らに並んだ。
いや、鳳凰とも孔雀ともつかぬ鳥が寄り添ったのはミケランジェロではなく昇太郎だ。昇太郎を庇うようにして低空を飛びつつ、不思議な色の瞳は常に昇太郎の寝顔に注がれている。時折漏れるさえずりはまるで昇太郎の名を呼んでいるかのよう。
ミケランジェロの眉がかすかに中央に寄った。
このさえずり。やはり聞き覚えがある。あの鳥と同じ声。
(だが、この姿は)
鳥と同じ色の髪を持つアルシェイリの横顔をちらりと盗み見る。しかしアルシェイリは眉ひとつ動かさない。この男のことだ、ミケランジェロの視線に気付きながらわざと受け流しているのかも知れない。不思議な輝きを持つ双眸は昇太郎の横顔に向けられているだけだ。
走る、走る。猛り狂う濁流に巻き込まれそうになりながら懸命に走る。昇太郎を背負っているミケランジェロはアルシェイリや銀色の鳥ほど素早くは動けない。空を飛べるアルシェイリが昇太郎を腕の中に引き受けようとしたが、ミケランジェロは拒んだ。代わりにアルシェイリは黙ってミケランジェロの腕を引き、彼が少しでも速く走れるように手を貸した。
「何だ……狭くなってるじゃねェか!」
ようやく気付いたミケランジェロが舌打ちした。まるで世界そのものが縮小しているかのように、見えない空気の壁がじりじりと一行の左右から迫っている。あれほど広大だった世界が、今や成人が両手を広げられる程度にまで委縮してしまっていた。
「大丈夫。出口が、近い」
アルシェイリは相変わらず淡々としている。暗銀の鳥が警告するかのように高らかに啼く。世界はどんどん狭まり、まるで一行を万力で挟みつけんとするかのようにぎりぎりと締め付けるのだ。
「くそっ……」
息苦しい。さすがに足が鈍る。赤黒い濁流がとうとう背後から襲いかかり、ミケランジェロは思わずよろめいた。体液のように粘つく水が瞬く間に胸元まで達する。もう一声啼いた銀色の鳥は前進を止め、三人を見送るかのようにその場に留まった。
先んじたのはアルシェイリだ。ミケランジェロと昇太郎が通れる道幅を確保しようとしてくれているのだろう、閉じようとする世界に頭から突っ込み、体を少しずつ回転させながらねじ込んでいく。
まるで産道を通り抜ける胎児のようだと、ミケランジェロは場違いなことを考えた。哺乳類は回転運動をしながら胎内から出てくるという。この息苦しさも、狭さも、熱さも、全身を染めるこの赤の洪水も。何もかもが、この世界に充溢する生命のメタファーのように思えてくる。
「タマ」
「タマじゃねえ!」
「前」
反射的に突っ込んだミケランジェロだったが、はっとして顔を上げた。
生命の洪水はもはや首の高さまで達している。しかし、視線の先には針で穿った穴のように小さな光が待ち受けていた。
「掴まれ。頭から……突っ込め」
アルシェイリの手がミケランジェロの腕を引き――そして。
光、が。
圧倒的な光が弾けて、何もかもが分からなくなった。
だが、ミケランジェロは確かに聞いた。
「ミゲル。――」
背に負った昇太郎が自分と誰かの名を呼んだのを。
けれど、自分の次に呼ばれた名前は、なぜかミケランジェロの記憶には残らなかった。
意識がゆっくりと浮上する。
というよりも、強引に引きずり上げられた。
「いい加減に起きやがれ」
「――ッ痛!」
ばちんという鈍い音と痛みが額で弾け、昇太郎は飛び起きた。数秒経ってようやく、俗に言う“でこぴん”を喰らったのだと理解する。
「いつまで寝てんだよ。ったく……」
目の前には、けだるげに前髪を掻き上げる掃除屋の姿。いつもの事務所のいつものソファに昇太郎は横たわっていた。ご丁寧に体の上には毛布がかけられている。
「何やぼーっとするわ。寝過ぎたんかの」
起きぬけの子供のように目をこすると、二発目のでこぴんが飛んできた。
「いったァ……何ねミゲル!」
「何ねじゃねェだろこのスカタン! 俺がどれだけ心配したと思ってやがる!」
「スカタンて――」
昇太郎の言葉は途中で途切れた。
ミケランジェロにぐいと胸倉を掴まれ、乱暴に引き寄せられていたのだ。
「……何ね、ほんまに」
至近距離でまじまじと見つめられ、昇太郎はきょとんと首を傾げる。
「……フン。間違いなく無事みてェだな」
「無事って、何じゃ」
「覚えてねえのか? 呆れた奴だ」
どんと素っ気なく突き放され、ソファに沈んだ昇太郎は目をぱちくりさせた。
「ずっと眠ってたんだぜ。起こしてもぴくりともしねェで」
「俺が?」
「ああ。覚えてねェならいいけどよ」
背中を丸めて煙草に火をつけるミケランジェロの姿をぼんやりと見つめる昇太郎の肩の上に、いつも傍を飛んでいる『鳥』がやって来て止まった。
「長いこと夢を見とった気がするわ」
「あん?」
「妙な夢じゃった。夢の中でずーっと寝とるんじゃ。いや……寝かされた。役目じゃから眠っとれ言われて寝かされた。ほんでもえらく気持ちのええ場所での。ずーっと寝とりたい気分になってもうてな……」
じゃけど、と鳥の頭を指で撫でながら昇太郎は笑った。
「起きなあかん、て思うたんよ。ずーっと寝とったらつまらんじゃろ? その世界にはだァれもおらんけぇ。ほしたらミゲルが夢に出てきおった。俺をおぶって連れ出してくれた」
人なつっこい笑みを浮かべる昇太郎の前で、視線を逸らしたミケランジェロはきまりが悪そうにがりがりと頭を掻くだけだ。
「どげんした?」
「……すっとこどっこいのくせになんでそんな所だけ覚えてんだよ」
「そんな所、て?」
「何でもねェよ、馬鹿」
「痛っ! なしてそげに叩くんよ?」
「何でもねェって言ってんだろ。あーあ、ちょっと外の空気でも吸ってくっか」
昇太郎の後頭部をすぱんと叩き、ミケランジェロは欠伸をしながらひとつ伸びをする。
面倒くさそうにモップを担いで部屋を出る親友の姿を見送って、昇太郎は傍らの鳥の嘴を指でつついた。
「なぁ……昔のお前も出て来たんよ。何や懐かしゅうてなぁ」
昇太郎の指に頭をすりつけた鳥は、小さく、しかしどこか嬉しそうにさえずりを転がした。
細い紫煙がゆっくりと立ち上り、絡まり合って、溶けて行く。
事務所の屋上をぐるりと囲むフェンスに腰かけて、猫背の神はぼんやりと煙草をふかしていた。
確かめたいことがあったのに、アルシェイリはいつの間にか姿を消してしまっていた。ミケランジェロが覚えているのはアルシェイリに手を掴まれた直後までだ。次に気が付いた時にはこの事務所に帰還していた。今頃、あの現実離れした翼を持つ謎めいた男も元居た場所に戻っているのだろうか。
「鳥……なァ」
呑気な鳩が屋上に舞い降りてミケランジェロの様子を伺っている。餌でも持ってないかと期待しているらしい。シッシッと足で払うと、鳩は表情を変えずにばさばさと飛び立って行った。
「……めんどくせェ。やめやめ」
真相は藪の中。考えたところで結論など出ない。いまいましげに癖毛をかき混ぜたミケランジェロはフェンスの内側にすとんと降り立った。
代わりに、鉛のように鈍重な何かが思考を満たしていく。
自分と同じ色彩の獣を絞め上げたあの時のことだ。
――よせ、タマ。
頭上から降り注いだアルシェイリの声までもが耳の奥にまざまざと蘇る。ミケランジェロが獣を殺そうとしていることを見てとったのだろう、急降下してきたアルシェイリは、手の甲に生やした翼の刃でミケランジェロの手からあの獣を叩き落としたのだった。
――殺す、気か? 自分の……想い、を。
そして、あまつさえそんなことまで問うてきたのだ。
――あんなもんは俺じゃねえ。
――だが……あれも、タマの、想いの、形。
タマではないと突っ込むことも忘れ、ミケランジェロは唇を引き結ぶことしかできなかった。
間違っていると分かっていても否定できない想いは確かにある。渇望の毒がそこに入り込んで発現したことが何よりの証拠だ。
撃ち抜かれるような輝きを宿した双眸に見据えられたミケランジェロは答える術を持たず、ただ「今は昇太郎を助けるのが先だ」と背を向けただけだった。
(ッたく)
ちりちりと焦げる吸殻を指で弾き飛ばし、軽く舌打ちする。
「……厄介なモンを抱えちまったな」
誰よりも強い想いゆえに凝る“毒”だと知っているから、尚忌々しく、もどかしい。
――おやおやーあ? キミの世界もずいぶん“深い”みたいだね?
耳障りな含み笑いが聞こえた気がして弾かれたように振り返る。しかし、そこに夜の色をした兎の姿などあろう筈もない。
――ああ、でも迂闊には覗けないね! キミまで昇太郎クンみたいになっちゃったら大変だ! キミが倒れたらきっと昇太郎クンが助けに来るもんね! そしたら昇太郎クンまで呑み込まれちゃうかも知れないもの、アハハハハハハハ!
「くそっ」
耳の中でけたたましく響く哄笑を振り払うように頭を振り、くしゃくしゃのパッケージをポケットから取り出す。一本だけ残っていた煙草をくわえてライターを構えるが、なかなか火が灯らない。震えているのは手か、煙草をくわえた口か――あるいは、全身なのか。
やがて小さな火がようやく灯り、思わずほっと息を吐き出す。
それでも……まだ昇太郎の元に戻る気にはなれなかった。
歌っているのだろうか。あるいは、独り言でも呟いているのだろうか。
低く掠れた美しい声は、人間の耳では聞き取れない言葉を厳かに奏でる。
現実世界に帰還したアルシェイリは昇太郎が目覚める前に姿を消した。アルシェイリの肉体は昇太郎の傍に在ることはできない。
それでも思念は常に昇太郎に寄り添っている。それにあの世界の中で、ほんの短い間だが、昇太郎の傍らに居ることができた。それでいい。
(それ、に)
不思議な色彩の双眸が音もなく細められ、透き通った唇にごくごく薄く感情の色が浮かぶ。
(タマ、が……いる)
だから、多分、心配ない。
あるかなしかの微苦笑をこぼし、美しいキメラは尚もしばらくさえずり続けた。
(了)
クリエイターコメント
ご指名ありがとうございました。宮本ぽちでございます。
オファーの際はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
何だか場違いな兎が…!
…ただのフックなのであまり気にしないでください(目を逸らしつつ)。
とにかく神聖に荒々しく!と気負いすぎるあまり、疲れる描写や展開が多くなりました。
ちらほら見受けられる生々しい比喩なんぞもスパイスのうちと思っていただければ。
それと、ちょっとだけ過去のノベルと(強引に)リンクさせてみました。ちょっとだけ。
的外れなことを書いていないと良いのですが…。
この度のオファー、まことにありがとうございました。
尚、想いの塊である猛獣や怪物たちは昇太郎様の交友関係を参考に捏造させていただいております。
あれらはあくまで宮本のイメージなのですが、どの獣がどのお方なのか、照らし合わせてみるのも一興かと。
公開日時
2009-02-27(金) 18:50
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