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<ノベル>
強引に喩えるなら、レヴィアタンは魚、ベヘモットはムカデだった。
ならば今、銀幕市という箱庭を睥睨するマスティマは何に喩えられるべきなのだろう。虫一匹逃すまいと目を光らせるこの奇怪で冷酷な獄卒は。
だが、あれが人の心の集まりであるというのなら、そもそも形あるものになぞらえようとすること自体が無意味であるのかも知れない。
「………………」
不穏な色の空の下、いつものようにタバコをふかしていたミケランジェロは無言のまま眉尻を持ち上げた。相変わらずけだるげな双眸の先にはぼんやりとたたずむ昇太郎の背中がある。
そして、昇太郎のはるか頭上にはあの不吉な化け物の姿。
ミケランジェロの目には親友がただマスティマを見上げているだけのように映っている。事実そうなのかも知れなかった。ミケランジェロが背後にいることに気付かぬ筈がないのに、昇太郎はただ黙って立ち尽くしているだけなのだ。
しばし傍観していたミケランジェロであったが、とうとうじれったくなって口を開いた。
「昇太郎」
名を呼ぶと、親友はどこか焦点の定まらぬ目で振り返った――ように、ミケランジェロには見えた。
「何してんだ、さっきから」
「あれ見とる。マスティマ……いうんじゃったか。なんちゅうか……」
昇太郎は緩慢な動作で首を持ち上げ、再び頭上を仰いだ。「人の顔に似とるなあ。人の顔がぎょうさんくっついとるみたいじゃ」
ミケランジェロの背筋を得体の知れぬ悪寒が這い上がった。
何故。昇太郎は何故こんなにぼうやりと空を見上げているのだ。これではまるで――マスティマに魅入られてしまったかのようではないか。
「……おい」
短くなったタバコを揉み消し、不機嫌な神はつかつかと修羅の前に歩み寄った。
「ん? ……痛っ! 何ね、いきなり――」
「いいから中入れ!」
抵抗も不服も質問も許さない。ミケランジェロは昇太郎の首根っこを乱暴にひっつかみ、半ば引きずるようにして事務所の中へと連れ戻した。マスティマの目から昇太郎を隠そうとしているかのように。あるいは、昇太郎にマスティマを見せまいとでもするかのように。
ミケランジェロによって事務所に引きずり込まれ、無理矢理ソファに座らされて尚、色違いの双眸はどこか虚ろなままであった。
「――でェ?」
肩に止まった鳥が心配そうに頭をすりつけるのにも気付かぬ昇太郎の前で、ミケランジェロだけが苛立っている。
「一体何なんだ、ぼけーっとしやがって」
放たれる言葉は荒い。だが、ミケランジェロは心配や不安の情をストレートに表に出せるほど素直でも器用でもなかった。
いつも通りの黒ツナギを身に着けた芸術の神の唇の端で煙草がちりちりと焦げている。音もなく燃える小さな炎をぼんやりと見上げた後で昇太郎は目を伏せた。無意識に伸びた指先が黒髪の中に覗く一房の銀色を所在なげに弄んでいる。
「迷っ……とるんじゃ」
やがて昇太郎は言葉を探すように、けれど適切な言葉を見つけられずに惑う子供のようにおずおずと口を開いた。
「ミゲル。俺は」
持ち上げられた瞳はまごつきながら言葉を紡ぐ唇と同じくらい震えている。
「何も諦めとうないんじゃ。何も手放しとうない、誰も傷つけとうない。けど……それでも、あの二人を犠牲になんてしとうない」
病院で眠り続ける少女と、幼い夢神のことであろう。
どの方法を選んでも犠牲は避けられぬ。しかし剣を使って少女二人のどちらかを刺し貫けば“犠牲”は最小限で済む。単純明快な理屈だ。単純明快なだけに残酷な話だ。
「この魔法に振り回されて泣いとる奴がおるのは知っとる。この街を元通りにするべきやちゅうのも分かる。けどあの二人がおらんかったらこの魔法もなかった。この街のみんなとも……お前とも、出逢えんかった」
疲弊した修羅の声はアンプのボリュームを絞るように消え入り、彼の前に立ったミケランジェロもまた口を開かない。
「全部が大事なんじゃ。じゃけえ、分からん。選べん。選ばなあかん、けど……どれも選べん」
どうしたらいいのだと。堂々巡りの思考を隠そうともせず、縋るような瞳をミケランジェロに向け、幾多の修羅場を潜り抜けてきた剣士はひどく弱々しい声を絞り出す。
「ミゲル――」
そして唯一のよすがであるかのようにその名を呼び、眉尻を下げ、唇を歪め、
「俺は……どないすりゃええんじゃ」
独り言めいた問いを繰り返し、力なくこうべを垂れた。
苦悩し、憔悴し、弱り果てた修羅の前で、無愛想な堕神は腕組みをしたまま動かない。
分かっている。昇太郎の胸の内は痛いほど分かっている。だからこそ安直な言葉をかけることなどできぬ。
何もかもを、自分さえも諦めて生きてきた昇太郎だ。己の意志さえも放り捨てて修羅の道を歩んできた彼の半生は“生きている”とさえ言えなかったかも知れない。その昇太郎が、今、悩んでいる。全て――そう、己やミケランジェロを含めた“全て”だ――を諦めたくないがために、何ひとつ失いたくないがために弱り切って悩んでいる。そんな親友の姿はひどく嬉しいことでもあるし、親友をこんなふうに変えたのがこの街とこの街で出逢った人々であることを知っているからこそ、ミケランジェロは胸を鷲掴みにされるような錯覚に捉われる。
だが、昇太郎を見下ろすミケランジェロは固い表情を崩さない。目の前でうなだれる親友の姿があまりに痛々しいことには変わりないからだ。
安っぽい励ましは空虚なだけだろう。根拠のない希望的観測論など気休めにすらならぬだろう。だからミケランジェロは血を吐くように、魂の底から、思う限りの“答え”を口にする。
「足掻きやがれ」
頭上から乱暴に投げつけられた命令に昇太郎はのろのろと顔を上げた。ミケランジェロはいつものように軽く舌打ちし、癖のついた髪の毛を忌々しげにかき混ぜながら相棒の前にしゃがみ込んだ。
「足掻かねえでどうする。全てを護り抜こうと精一杯足掻きやがれ。みっともなくもがいて悪あがきして……たとえその先で消えちまったとしても、後悔だけは絶対にしねェ。それがテメェだろうが。俺が知ってる昇太郎ってェのはそういう奴だ」
相変わらず不機嫌な、しかし透徹した紫色の瞳の前で修羅のオッドアイが確かに震えた。
「それに、心配すんな」
固めた拳でどんと胸板を突いてやると、昇太郎の引き締まった体がわずかにかしいだ。しかしミケランジェロはそれすら許さない。ほんの少し揺らいだだけの修羅の肩を掴み、まるで――言葉遣いは相変わらず荒かったが――祭壇の前で誓いを立てる修道者のように、厳かですらある表情で告げたのだ。
「もしお前に何かあったとしても……たとえ俺の前からいなくなろうが消えちまおうが、その時ァ俺が必ず見つけ出してやる。何度でも、何をしてでもぜってェ見つけ出してやる。――約束だ」
まさに誓いだった。天から堕ちた神が、神ではなく唯一無二の相棒に捧げる最後にして最大の宣誓だった。
そして――静かな、しかし覆しようのない覚悟を突きつけられて、無垢な修羅はくしゃりと顔を歪めた。
「………………っ」
ああ、まるで子供のようだ。無防備に、羞恥も躊躇もなく、溢れる感情のまま涙を流す昇太郎はミケランジェロの名を呼ぶことすらできない。
「俺は、俺は」
修羅は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、
「自分が消えるのが怖いんと違う」
「ああ、分かってる」
一見怠惰な、その実熱い神はみっともなく泣きじゃくる親友に縋られるまま、
「嫌なんは、お前やみんなに逢えんようなることじゃ。俺が消えたことでお前やみんなを悲しませることなんじゃ」
「ああ……そうだな」
慟哭と呼ぶにはあまりに幼い嗚咽を上げる昇太郎をしっかりと抱き止めて、
「そうならねェように俺が見つけ出してやるっつってんだろが。お前の無茶に振り回されんのは慣れてるよ」
いつもと同じ調子で唇の端を吊り上げ、ややぶっきらぼうに、しかし幼子をあやすように背中を叩いてやり、再び誓いの言葉を繰り返した。
昇太郎は無言のままだ。言葉を紡ぐ余裕すら失い、ミケランジェロにしがみついてただただ涙を流すだけである。
静かだ。あまりに静かだ。圧倒的な絶望の姿を見て、市民の多くは外出すらも控えているのかも知れない。不穏な静寂に包まれたベイエリアの倉庫街、その片隅の掃除屋の事務所を、昇太郎の嗚咽だけが満たしていた。
どれくらい時間が経っただろうか。ひとしきり泣きじゃくった後で昇太郎はようやく顔を上げた。瞼は腫れ、鼻の頭も真っ赤に染まり、些かみっともない姿になり果てている。しかし涙で汚れた顔からは幾分翳りは遠のいたようだった。
「所で、お前はどうするんじゃ? もう決めたんか?」
「あァ……」
ソファの肘かけに腰掛け、背中を丸めて煙草に火をつけたミケランジェロはかすかに笑んで応じた。
「誰に任せるのも性に合わねェ。俺は俺の手で……大事なものを護るだけだ」
“大事なもの”が何であるか今更言葉にするまでもないだろう。ミケランジェロの心底を汲み取ったのか、昇太郎は唇を引き結んで肯くだけだ。
「さて……と。これ吸ったら市役所に行ってくっか」
視界の端で少しずつ短くなっていく煙草にちらと目を落とし、ミケランジェロは欠伸混じりに呟いた。
その傍らで、昇太郎もまた座してその時を待っている。
天空に君臨する絶望の王は未だ沈黙を保っている。彼の者を形作る数多の顔が叫んでいるのは憎悪にも殺意にも、断末魔や怨嗟のようにも見えた。
それでも今はこんなにも静かだ。この静けさの後に一体どんな嵐が訪れるのか、未だ誰も知りはしない。
残酷な猶予にじりじりと心身を焦がされ、ある者は煩悶し、ある者は覚悟を定め、ある者は滂沱し……それぞれに審判の刻を待つ。
(了)
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クリエイターコメント | ※このノベルは、『オファー時点での』PC様の思いを描写したものです。
ご指名ありがとうございました、宮本ぽちでございます。 【選択の時】をテーマにした企画プラノベをお届けいたします。
「誓い」をキーワードに描写させていただきました。 swear や pledge もまた「誓う」の意味ですが、今回は「神にかけて誓う」という意味を持つ vow を選びました。 神ではなく唯一無二の親友さんに、神に対するのと同じくらい固く厳かに誓うといったイメージが伝われば嬉しいです。
突発的に立ち上げた企画でしたが、素敵なオファーをありがとうございました。 皆様がどんな選択をされるのか、そして、いかなる結末が訪れるのか、記録者という名の市民である私も固唾を飲んで見守っております。 |
公開日時 | 2009-05-01(金) 19:00 |
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