★ ナツハナ ★
<オープニング>

 それは不思議な光景であった。
 桜が。真夏だというのに、満開の桜が、海に面した崖に咲き誇っているのである。
 
 ざわ、ざわざわ。

 大気の湿気と海からの水滴を孕み、ひんやりとした風が枝を揺らす。小さな花をいっぱいにつけた枝は重みに耐えかねるように風にしなり、朧な月光の下に音もなく花びらを散らす。
 はらはらと。
 ひらひらと。
 闇の中に浮かび上がる花は奇妙に白っぽく、花弁が舞い散る光景はまるで雪のようで――

 ふ、と。

 不意に訪れる静寂。風が止まり、舞い踊る花びらが何かにかしずくようにひたりと動きを止める。
 いつの間に現れたのか。桜の下に一人の青年が佇んでいた。
 太い幹にそっと手を当て、頭上の花を見上げている。戦時中のものであろう古めかしい軍服に身を包み、軍帽を目深にかぶったその表情は読み取れない。それにしても、服も帽子もずたぼろに裂け、水を吸ったかのように重く雫を滴らせているのはどういうわけか。
 青年は何かを考え込むように桜を見上げたりうつむいたりしながらゆっくりと幹の周りをめぐる。ひとつ溜息をこぼしては足を止め、うなだれる。そして少しすると再び歩き出す。しばらくそれを繰り返し、青年は崖際に立つ。
 ひゅうと風が吹いた。
 青年の体が崖の先の闇に舞った。風に吹き飛ばされる木の葉のように。
 いつまでも桜が舞っていた。崖下に身を投げた青年を弔うかのように。
 ちらちら、ちらちらと。真っ黒な海と空の間を、白っぽい花びらが雪のように舞い続ける。



 「――という光景が幾晩も続けて目撃されているそうでして。いえ、厳密には幽霊ではありません。……幽霊といえば幽霊に近いのかも知れませんが。一種の地縛霊とでもいいましょうか」
 そう言葉を継いで植村は眼鏡を鼻の上に押し込む。彼自身、この事象をどう説明したら良いのか分かりかねているようだ。
 「結論を申し上げれば、その青年は実話を元にした映画から実体化したムービースターです。その桜も彼と一緒に現れた映画の中の風景……でしょうか」
 映画のタイトルは『いつか、桜の木の下で』。実話をベースにやや脚色を施した、概ねノンフィクションといえる作品である。
 桜の下で将来を誓い合った若い男女。双方の親もどうにか説き伏せ、後は挙式を待つばかり。だが時代は太平洋戦争の真っただ中。非情にも赤紙が二人の間を引き裂いてしまう。
 出征する青年に、女は「いつまでも待っている」と誓う。桜の下で再会しましょう、と。戦火で親を亡くした彼女は青年の親の家に身を寄せることとなったが、元々彼女にいい印象を持っていなかった舅や姑の仕打ちはひどかった。掃除の手際が悪いと言っては叩かれ、料理の味付けが悪いと言っては蹴られ。自分が食うだけでも精一杯なのに、なぜよその家の娘など養わねばならぬと罵られることすらあった。女は青年が帰ってくることを信じて絶えていたが、戦況は日に日に悪化し、戦死者の報が舞い込むばかり。やがて戦争は終わったが青年は帰ってこない。きっと戦死したのだと絶望し、義理の親たちの仕打ちにも耐えかね、女はとうとう家を飛び出して他の男と一緒になった。
 「他の男性と結婚してしまったことに非難はあるかも知れませんが……身寄りのない女性が戦後の混乱の中で生き抜くためには配偶者を見つけるしかなかったのかも知れません。ですが、彼女の存在をよりどころにして戦火を乗り切った青年のほうはそうは思わなかったのでしょう」
 シベリアに抑留されていた青年が日本に帰ってきたのは戦後数年経ってからであった。最愛の女と再びまみえることだけを心の支えにあのシベリアを耐え抜いたのに、当の彼女は他の男の妻の座におさまってしまっていた。絶望した青年は崖から身を投げ、その後には青年の魂を弔うように見事な桜が咲くようになったという。
 「この桜のモデルも実在するそうです。確かA県の海際で一年中咲いているそうでして。しかも……どういう巡りあわせなのか、映画のモデルとなった女性も銀幕市内に住んでいるらしいのです。市に魔法がかかった少し後に一人で転居してきたようで。もちろん今はおばあさんですが」
 カウンターの上で組み合わされた植村の手が言葉を探すように幾度か組み直される。
 「何と説明すれば良いのか。件の青年はどうも死んだ後の状態で実体化しているようで。桜の下で女性を待ち続け、彼女が現れないことに絶望して毎夜身投げを……。その繰り返しなのです。誰かを巻き込むことはしていませんし、他者に危害を及ぼす意志もないようです……が、さすがに少し不気味だという声が上がり始めまして」
 既に青年を説得しようと試みた者もいたという。しかし青年は他人の言葉など聞かずに身を投げたのだと植村は言葉少なに付け加えた。
 「本来なら対策課が動く必要のない事件ですが、気の毒に思いましてね。何とかしていただけませんか? ただ、桜に近づいた人の中には幻のようなものを見た人がいたとか……過去の思い出や大事な人の記憶など、内容は様々だったようですが」
 これも桜という花が持つ妖しい力なのだろうかと、植村は苦笑混じりに肩をすくめてみせた。



種別名シナリオ 管理番号649
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
クリエイターコメント 皆さんこんにちは。夏も近いということで、少し怪談めいたシナリオのお誘いにあがりました。
 お届けは終戦の日の頃になる予定です。

 青年は既に死んでいるムービースターです。死んだ状態で実体化し、毎夜身投げを繰り返しています。
 誰かを道連れにしてなどいませんし、周囲に危害を及ぼす意志もありません。
 ですが、心残りが晴れない限り、青年は身投げを繰り返すでしょう。
 彼の心残りとは何か。彼が待っているのは誰か。オープニングを読んでいただければ、容易にお分かりいただけるはずです。

 青年にこれといった能力はありません。桜のほうはちょっと不思議な力を持っているようですが、特に害はありません。
 桜に近付いたり触れたりした人は、過去の記憶にまつわる幻を見ることになるかも知れません。どんな幻を見たいか、ご希望がありましたらプレイングやキャラシートにてご指示をお願いいたします(あまり長いと採用できない場合もありますが)。ご指示がなければ当たり障りのない程度に描写させていただく可能性もあります。
 ただし、青年は桜のそばを離れることはできません。ある意味では桜とセットで実体化している地縛霊のようなものですので、青年をどこかに連れ出すことはどんな力をもってしても不可能です。
 いつも通りシリアス一辺倒の、静かで少し悲しい物語になりますが、興味を持ってくだされば幸いです…。



 ※補足※
 青年:藤川誠一。享年31歳。出征時は23歳。
 女性:皆川サエ子(旧姓は辰野)。87歳。夫に先立たれ、現在は銀幕市内で一人暮らしをしているもよう。

参加者
ルーファス・シュミット(csse6727) ムービースター 男 27歳 考古学博士
シキ・トーダ(csfa5150) ムービースター 男 34歳 ギャリック海賊団
ラスト(cche6251) ムービースター その他 7歳 青銅の狼
<ノベル>

 花が散る。闇に紛れて、踊り狂う。
 ああ、今宵もまた。桜に見送られ、兵士の青年が身を投げる。
 いつからだっただろうか。崖の先に身を躍らせる彼に寄り添うように、狼の遠吠えが重なるようになったのは。

 アオォォォォォ――――……ン……
 ウオォォォォォ――――……ン……

 舞い散る花びらの中、崖っ縁に立った狼は青とも緑ともつかぬ色をしている。喩えるならば、そう、年月を経て緑青に覆われた青銅のような。雄であろうか、堂々たる体躯を月光の下に惜しげもなく晒し、銅像の狼は暗い海と空に向かって吠え続ける。

 オォォォォ……ンン……
 オォォォォ―――……ンンン……

 花が散る。闇に紛れて、踊り狂う。
 桜の大樹の下、凛と背筋を伸ばして吠え続ける狼の姿はまるで映画のワンシーンのようで。
 空の風と海の風に揉まれながら落ちていく青年の耳にその声は届いていたのだろうか。
 否、届いていなくとも構いはしない。ラストという名の慈悲深き銅像は、今宵も美しい咆哮を青年に捧げるのだ。
 鎮魂のために。猛々しくも物悲しい、葬送の雄叫びを。



「死んだ時の姿で実体化……ですか」
 対策課で話を聞いたルーファス・シュミットは、呟くように反芻して小さな眼鏡を鼻の上に押し込んだ。
 銀幕市の人口はだいぶ流出したという。それでも市役所は新たに実体化したムービースターや、銀幕市の噂を聞きつけて市外から転入してきた者たちで混雑していた。おまけに温暖化対策とやらで冷房がやや弱めに設定されているらしい。生真面目な博士という職業柄そのままにかっちりと身なりを整えた紳士には快適とは言い難い環境だ。
「ええ。そういう意味では幽霊のようなものなのですが……どう申し上げればよいものか。ただ自殺を繰り返しているというだけで、特に危険はなさそうですが」
「そうでしょうね。恐らく、待っているだけでしょう。彼の望みは……彼が待っているものは、多分――」
 言わずとも、植村も同じことを考えていたのだろう。顎に手を当てて思案するように言葉を切ったルーファスに浅い首肯を返しただけであった。
「――では、住民名簿を閲覧させていただいてもよろしいでしょうか?」
 黙考を解いて尋ねると、植村はすぐに分厚い名簿の謄写を持って来てくれた。
 白い手袋をはめてページを繰りながら、よく磨かれた眼鏡の奥の双眸で丹念に名前を追って行く。配偶者が亡くなっているのなら旧姓に戻っているかも知れないという可能性を考慮しつつ、紫色の眼を油断なく光らせながら文字の羅列をなぞるルーファスの眉がふと曇った。
「……ありませんね」
 そう。ないのである。目的の名がどこにも見当たらないのだ。
 名簿の冒頭に戻り、最初から最後まで再び詳らかに検分しても結果は同じだった。皆川サエ子、あるいは旧姓の辰野サエ子の名前は、名簿の中には存在しない。
「ありませんか? おや……おかしいですね」
 名簿を覗き込んだ植村も首をかしげる。二人一緒にもう一度調べてみてもやはり結果は同じだ。
 住民登録をしていないのだろうか。まあ、市内に住む者すべてが必ず住民登録をするというわけでもなかろうが……。しかし登録がなければサエ子の住所を調べるのは少し骨が折れそうだと考えたところで、ルーファスはふと首をかしげる。
「登録がないのなら、どうして皆川さんが銀幕市に住んでいるということをご存じなのですか?」
 映画のモデルとなった女性が市内に住んでいるらしいと言ったのは植村だ。市に魔法がかかった少し後に一人で転居してきたようだとも。
「青年が身投げを繰り返しているという知らせがあった少し後に、市民の方から聞いたのです。『いつか、桜の木の下で』のヒロインのモデルである女性がここに住んでいるらしいと」
「成程、そうでしたか。失礼ですが、その方のお名前などはお分かりでしょうか? その方に聞けば皆川さんのご住所なども分かるかも知れませんし」
「さて、お名前までは」
 申し訳ありません、と付け加えた後で植村はかぶりを振る。
「ふらっと対策課に訪れて、皆川さんが市内に住んでいるということだけを告げて帰って行かれまして。帽子をかぶっていたので顔もよく見えませんでした。ただ、男性だということくらいしか……雰囲気と声の感じからして、恐らく三十代くらいではないかと思いますが」
「三十代くらいの男性、ですか」
 それでは大した手掛かりにはなるまいと思いつつ、ルーファスは一応その情報を記憶に留めておくことにした。
「ええ。しかし」
 と植村は肯きつつも首をかしげる。
「どこかで見たことがあるような方でした。いえ、顔までは見えなかったんですが」
 全体的な印象に既視感を覚えたのだと植村は戸惑い気味に続けた。ほう、と相槌を打ってルーファスは指で軽く眼鏡を押し上げる。
「どこかで見たことがある……遠いお知り合いか何かということでしょうか?」
「どうでしょうね。知り合い、なんでしょうか」
 植村は眉根を寄せて考え込むが、結局心当たりはなかったらしい。すみません、と小さく頭を下げただけだった。
 ルーファスは礼を言って市役所を辞した。
(身投げを繰り返している彼を皆川さんと引き合わせてさしあげるのが良いとは思いますが……)
 青年が望んでいるのは自分を待っている彼女の姿と、“待っていた”という言葉なのではないかとルーファスは考えた。だが、聞いた話によれば青年は桜から離れることはできないという。それならば彼女のほうを青年の元に連れて行こうと、まずはサエ子の元を訪れてみようとしたのだが……。
「さて、どうやって調べたものでしょうか」
 住民名簿を閲覧すれば住所が分かるだろうと思ったのだが、当てが外れた。
(もっとも……皆川さんご自身がどう考えるかどうかはまた別ですが)
 青年は彼女が他の男性と結婚したことに絶望して身を投げた。その経緯を知っているサエ子としては、簡単に彼と会うとは言えないだろう。
 それでも、青年はきっと彼女を求めている。だからこそ一度彼女と会って直に話をしてみたい。
「すみません。失礼ですが」
 それにしても暑い。この暑さではチョコレートを持ち歩くことはできまい。これだから昼間の外出は嫌なのだとしかめっ面で太陽を仰ぎ、ハンカチで首筋の汗を拭ったルーファスに不意に声をかける者がある。ハンカチをきちんとたたみながら振り返ると、帽子を目深にかぶった男性の姿があった。
「先程、対策課でお見かけしました。皆川サエ子さんをお探しでしたね?」
「ええ。失礼ですが、あなたは?」
 慇懃に答えつつも、眼鏡の奥の双眸は男性を素早く観察している。標準的な体躯に標準的な日本人の肌の色、これといって特徴のない静かな声。帽子をかぶっているので顔立ちは判然としないが、こうして見る限りは特異な要素のない男性のようだ。
 ただ、落ち着いた物腰と声の感じからして、年齢は三十代くらいだろうか。少年というほど若くはないが、そう歳を食っている様子もない。そこまで考えたところでルーファスがぽんと手を打つのと、相手が「失礼しました」と言って帽子を取るのとはほとんど同時であった。
「早川巧(ハヤカワタクミ)と申します。しがない俳優でして」
 そう名乗った男性は軽く会釈してみせた。
「不躾なようですが……僕、皆川さんの知り合いなんです。皆川さんに会いたいのでしたらご案内しますよ。いかがでしょう?」
 ほう、とルーファスは相槌を打って軽く目を眇めた。俳優ならば植村が既視感を覚えたのも肯ける。



 雪、であるのだろうか。それとも、夜の闇の中で桜の花びらが白っぽく見えているだけなのか。
 舞い散る白い物の中に手を伸ばすと、手の甲の上に落ちたかけらはひやりとした感触を残して音もなく溶けていく。
 ひょおう、と風が吹いた。びょうびょうと鳴る風にあおられる雪が顔に吹き付け、思わず顔をしかめる。にわかに吹雪の様相を呈し始めた空を見上げて首をかしげた後、改めて周囲を見渡したシキ・トーダは、辛うじて残っている右眼を幾度かしばたたかせた。
 ここはどこだ。奇妙な桜と身投げを繰り返す青年の噂を聞きつけて、とある海際の崖にやって来たのではなかったか。
 それなのに、ああ、この風景は。
 焦がれるほど懐かしいのに、胸を抉られるほどの痛みを呼び覚ます、真っ白な街。
「……何の冗談だよ、こりゃあ」
 肩から下げたクーラーボックスを担ぎ直し、呆気に取られて呟く。見ればいつの間にか膝下まで雪に埋まっているし、凶暴に吹き荒れる風と雪の冷たさも本物である。剥き出しの腕をさすりながら、雪に閉ざされた街並みをざくざくと音を立てて進む。
 静かだ。雪と風の音の他は何も聞こえない。夏が短く、冬が長い街。冬になれば街も人も重い雪の下に閉じ込められる。雪が溶け、刹那の夏が訪れるまで、人々は息をひそめ身を寄せ合い、厳寒をやり過ごすしかない。
 ふと、視界を塞ぐ吹雪の向こうにぼんやりと薄い人影が見えた。二人だろうか。視力の弱いシキではこの位置から姿形をはっきりと確認することはできない。
(本当に行くのか?)
 それでも声は聞こえる。無秩序な暴風に紛れて耳朶を打つその声は、間違いなく義理の兄のもので。
 びょうと風が鳴り、ごうと雪が吹きつける。
(本当に……軍隊なんて、そんな危ない所に行かなくても)
 続いて聞こえてくるのは義理の母の声。
 吹雪の中から現れたのは、血縁のない家族――シキを育ててくれた母と兄の姿であった。
「……と、そうか」
 ここに至ってようやく思い当たり、シキは軽く肩を揺する。
 あの桜には奇妙な噂があった。曰く、大切な人や過去の思い出を、訪れる者に幻として見せるのだと。
(おまえが選んだ道にけちをつけるわけじゃないが……無事に帰れよ)
 真っ直ぐにこちらを見つめる兄。母も肯き、心配そうに義理の息子を見る。こうやって家族と正面から目が合ったことなど、以前はなかった。シキが生まれた精霊の一族の中では、家族の目には彼の姿が半分透けて見えていた。だから、こうやって“家族”が真正面から自分を見つめてくれるなどという経験は新鮮でもくすぐったくもあり、戸惑いでもあったのだ。
「ガンガン稼いでたっぷり仕送りしてやるさ。期待しててくれ」
 あの日のことはよく覚えている。だからシキはあの日と同じ台詞を口にし、あの日と同じようにふいと目を逸らす。
 十三歳のあの雪の日、軍への入隊を志願し、シキは育った街を後にした。貧しい家族のためにというのは口実だった。血の繋がりがないこの家族の中に自分の居場所はないと一方的に感じて出て行っただけだった。
 だが、母も兄も良くしてくれた。居場所がないなどというのは自分の思い込みだったのだと、今なら分かる。
 そして結局、母にも兄にもこの日以来二度と会えなくなることになる。ある日突然、従軍中のシキの元に兄から一方的な手紙が届き、その後一切連絡が取れなくなった。そして、急いで戻った街には家族の姿はなかった。
 自業自得と言われればそれまでかも知れぬ。だが、だからこそシキはこの兄に問いたい。目の前のこの姿がたとえ幻であったとしても。
「なあ」
 びょおう。
 頬に吹きつけた雪が体温で溶け、まるで涙のようにすうっと流れていく。
「本当は俺をどう思っていたんだ?」
 兄は優しかった。血の繋がりこそないが、本当の兄弟のようにして育った。
(――――――)
 兄がわずかに口を開いたのが見てとれたが、その声はシキの耳に届くことはなく。
 雪も街並みも家族の姿も煙のようにほどけて消え失せ、視界いっぱいに桜の花びらが舞っているだけだった。



 改めて周囲を見回し、ようやく我に返る。
 見上げれば、桜。幾重にも重なった淡い紅の絨毯の向こうに濃い藍の空が透けて見える。
 頬を撫でるのはゆるゆるとした夏の夜風と、舞い散る花弁。雪も、簡素な家が並ぶ街の風景も嘘のようになくなっている。それでも、頬の上で溶けた雪がまだ残っていることには気付かないふりをした。
「そっか、そっか。幻だもんな」
 クーラーボックスの重さを確認して思わず苦笑いをこぼす。幻を見せられるかも知れないと予め聞いていたというのに、つい感傷的になってしまった。単なる幻とはいえあの光景を見せられたのでは無理もないかも知れないが。
 壁を作るようにして舞い踊る花びらをかき分け、歩を進めたシキは「へえ」と軽く目を細めた。
 噂通りだ。古ぼけた軍服と軍帽に身を包んだ青年が桜の大樹の下にぼんやりと佇んでいた。
 上から下までずたぼろの着衣は水を吸ったようにぐっしょりと濡れ、ぽたりぽたりと水滴がしたたっている。目深にかぶった軍帽のせいで顔立ちは読み取れない。標準的な身長の割に、体はずいぶんと薄い。戦後何年も経ってから復員した兵士という役どころだから、栄養不足で痩せ細っているという設定だったのかも知れない。
 藤川誠一という名のその青年に話しかけようとしたシキであったが、藤川の後に寄り添うようにゆらりと現れた別の影に気付いて口をつぐんだ。
「へえ」
 そして、思わずひゅうと口笛を吹く。それほど立派であったのだ。藤川から一歩下がった位置を保ちつつも、ぴったりとそばを離れない狼の姿は。
「こいつの知り合いかい?」
 藤川のほうを軽く顎でしゃくって尋ねると、緑青に覆われた青銅のような色をした狼は顎を引くようにして軽く肯いた。どうやら言葉を解するようだ。銅像のような風体をしている辺り、もしかしたらムービースターなのかも知れない。
「ふうん。で、何やってんだ?」
「何も。ただ見ているだけだ」
「おっ、喋るのか」
「何をしているのかと尋ねられたから答えたまで」
「愛想がないねえ。名前は? 喋れるんなら名前くらいあるんだろ?」
 軽い自己紹介を付け加えて尋ねると、ラストという名の青銅の狼は軽く口許を歪めてみせた。
「私を呼びたければ、ただ“銅像”と」
「銅像?」
「それ以外の呼び名など不要だし、無意味だ」
 自らを揶揄するような口調の中にも、凛と芯の通った矜持が滲み出ていたことにシキは気付いたであろうか。ただ苦笑まじりに「愛想がないねえ」と繰り返して肩を揺すってみせただけである。
「まあいいや。じゃ、銅像。藤川に話しかけてもいいか?」
「私に許可を請う必要はない」
 話しかけたければ好きにすればいいと静かに言い、ラストはゆっくりと藤川の傍らに腰を下ろした。口は出さないが、見守るつもりでいるらしい。
 藤川の表情は軍帽に隠されて判然としない。だが、戸惑いと警戒を含んだ視線が己に向けられていることくらいは気配に敏いシキでなくとも容易に察せられる。生気というものがほとんどない、憔悴が色濃く張り付く虚ろな眼差しが。
「気分転換に、どうだい」
 シキは肩からかけていたクーラーボックスを地面に下ろした。がちゃりというやけに大きな物音にラストの表情が緊張する。「安心しなって」とでもいうようにシキはおどけて右眼をつぶってみせた。
「季節外れの花見酒ってのも粋(いき)だろ?」
 クーラーボックスの中から現れたのは酒と、つまみになるような軽食一式。どこにでも売っているような缶入りのビールや発泡酒、チューハイといったポピュラーなものから、ワイン、日本酒、焼酎まで、オーソドックスな酒類が一通り揃えられている。
 藤川は軽く首をかしげたらしかった。だがいささか興味はあるらしい。戦時中を生きた彼にとっては、アルファベットとビビッドカラーで彩られた缶入り酒などはずいぶん珍しい物なのであろう。
「どういうつもりだ?」
 警戒よりも戸惑いを露わにしてラストが問う。シキは「ふん?」と語尾を上げて笑ってみせた。
「見たまんまさ。季節はずれの花見酒、ってね。一緒に遊ぶか、飲んだくれるかしようぜ」
 続いてどこからともなく取り出してみせたのはカードや昔ながらの白いサイコロ、それに正八面体の透き通ったダイスだ。それでもまだシキの真意を図りかねたのだろう。ラストは無言であったが、眉間に軽く皺が寄ったのが見てとれる。
「俺にできることなんてそうないと思うけどね。話くらいは聞くよ」
 乾いた笑い声が夜風と潮風に吹かれ、細かな桜の花弁と一緒に舞い上がっていく。
「話」
 初めて、藤川がぼそりと声を発した。弱々しくも案外はっきりとした声にシキは目をぱちくりさせる。ラストも初めて藤川の声を聞いたのだろうか、引き締まった鼻面をついと持ち上げた。
「話をすれば、あの人は戻って来るのですか」
 シキは「ん」と曖昧に相槌を打っただけであった。ひょいと肩をすくめ、持て余したダイスを手と一緒にボトムスのポケットに突っ込むしかない。
 藤川はラストの鼻面にそっと掌を置いた。誇り高き銅像は鼻面から後頭部、後頭部から背中へと移動する愛撫に身を委ね、少しだけ気持ち良さそうに目を閉じる。
「桜の下で再会しようと約束しました。だけど、あの人は戻って来ませんでした」
 閉じられた青銅の瞼の上にぽたりと落ちた雫は、藤川の着衣から滴る水滴だったのだろうか。
「私は、裏切られました。私は、どうすればいいのですか」
 それは問いというよりも確認に近かっただろう。ぼんやりと持ち上げられた藤川の視線は救いを求めているわけでもシキやラストに縋ろうとしているわけでもなく、ただ疲れ切った絶望が色濃く張り付いていて、そこに灯る他の感情を他者の目からはすべて覆い隠してしまっていた。
「あの人のことだけを考えて、死ぬよりつらい屈辱に耐えました。だけど、あの人は約束を守ってくれませんでした」
 びょおうと風が渦を巻き、花びらの群れがざざあと波打った。
 ふらりと傍を離れた藤川をラストが追う。藤川が崖の縁に向かっていることに気付いてシキが警告の声を発するが、藤川もラストも聞く様子はない。
「待てよ。なあ――」
 ほとんど同時だった。シキがほとんど反射的に地を蹴って飛び出したのも、崖際に立った藤川が闇の中に身を躍らせたのも。
 シキが崖下を覗き込むが、もう遅い。風に翻弄される木の葉のように、青年兵はなすすべもなく落ちていく。やがて眼下の真っ黒な海に白いしぶきが上がったのだけが見てとれた。
「……止めないのか?」
 ずっとそばにいるんじゃないのかと、シキは右眼を眇めてラストを振り返る。
「言ったはずだ、私はただ見ているだけだと」
「止めたいとは思わねえの?」
「思う。だが、人間の決めたことには口出しも手出しもせぬ」
「ふうん。それが銅像サンの流儀ってことなのかしら?」
 皮肉げに語尾を持ち上げてみせるシキにもラストは動じない。
「この銅像は人間の手によって作られた身。されば銅像は人間に従うのみ。人間が創造主たる神を敬うのと同じこと――」
 明快な答えを返し、すっと鼻先を持ち上げてラストは咆哮した。崖の先の闇に向かって、藤川の御魂に届けとばかりに。
 荒々しくもどこか悼みに満ちた雄叫びに包まれ、シキは軽く息をついて腰に手を当てる。
 崖の向こうは虚空の闇。振り返れば、どこか現実離れしたような風情さえ漂う美しい桜。こちら側とあちら側を隔てる皮肉なまでのコントラストに、思わず口許が歪む。
「……ま、明日になったらまた元に戻ってるんだろ。明日の夜にまたお邪魔させてもらうわ」
「好きにすれば良い。私はずっとここにいるつもりだ」
 ラストはその場に腹這いになり、番をするかのように首を持ち上げる。誇り高き銅像が見せる忠実な番犬のような姿に苦笑した後で、そういえば狼はイヌ科だったとシキは妙に納得した。
 その様子の一部始終を、離れた場所から見守るふたつの人影がある。
「――ふむ。今宵も身を投げてしまわれましたか」
 物陰にさりげなく身を隠し、軽く嘆息するのはルーファスだ。
「意志が固いようですね。無理もありませんが。――どうしましょう?」
 俳優の早川巧はルーファスをちらりと横目で見やる。
「とにかく、分かっていることはただひとつ。藤川さんがひたすらに彼女を愛しているというだけです」
 ルーファスは軽く唇を引き結び、両手を腰の後ろで組んで背筋を伸ばす。
 とりあえず、藤川が他者の言葉を聞くことは分かった。ならば明日、ICレコーダーを携えてもう一度彼女の元を訪れてみるのも良い。彼女の声を録音して藤川に聞かせるという方法もある。



 時間は少し遡る。
 対策課を出たルーファスが早川の車に乗って皆川サエ子の元を訪れたのは、まだ明るい時間帯のことであった。
 郊外に建つ古ぼけた小さな借家がサエ子の住まいである。空家なのではないかというような荒れようだ。玄関は古めかしいガラスの引き戸になっていて、その脇の呼び鈴を二、三度押しても応答はない。いないのではないかと問うたルーファスに早川は「いつものことです」と苦笑いを返し、雑草が伸び放題の敷地に踏み入って庭先へと回り込んだ。
 早川の言葉通りであった。だが、ルーファスは軽く顎を引いてその老婦人の姿を見つめた。
 雑草が腰まで伸びた庭に面して設けられた縁側、垢と埃で黒ずんだ板敷のその場所に持ってきた籐椅子に、齢八十は超えているであろうと思われる老婦人が座っていた。ルーファスと早川が近くまで寄っても気付く気配はない。落ちくぼんだ眼窩にかろうじておさまっている眼球は小さく、濁っている。陽に焼けた籐椅子に痩せた体を半ば埋め、ぼんやりと口を開けて虚空を見つめるその姿は、幾本もの点滴やチューブに繋がれて病院のベッドに横わたる物言わぬ患者を連想させた。いや、病に臥せる患者のほうがよほど生気があるであろう。彼女の姿はそれほど希薄で、生者らしい気配がまったくうかがえなかった。
「みー、なー、がー、わー、さん」
 両手でメガホンを作った早川がゆっくりはっきり彼女の名を呼ぶ。返事をしたつもりなのだろう、サエ子は骨と皮ばかりになった喉から気の抜けたような息を漏らし、白濁した眼球をのろのろと動かした。しかしその目はどこかうつろに宙をさまよい、二人と視線が合うことはない。白内障か何かで視力が極端に衰えているのだろう。
 それでも早川の姿は分かったらしく、深い皺の刻まれた口元がかすかに緩む。
「こんにちは、急にお邪魔してすみません。皆川さんに会いたいという人をお連れしました」
「初めまして。ルーファス・シュミットと申します、お見知りおきください。実は……」
 軽く自己紹介をした後で簡単に事情を説明する。サエ子はワンテンポ遅れて肯きながらも懸命にルーファスの言葉に耳を傾けていたが、藤川の名と、『いつか、桜の木の下で』という映画の名前を聞いた途端、大粒の老人斑が浮き出た頬をかすかに歪めたのだった。
「彼が身を投げた経緯は皆川さんもご存じでしょうから、簡単に会いますとは言えないでしょうが」
 言いつつ、ルーファスはさりげなく庇の下の日陰に入った。タフという形容詞に縁のない紳士がいつまでも真夏の炎天下にいたのでは冗談ではなく行き倒れてしまう。
「彼は皆川さんをお待ちです。皆川さんが他の男性と結婚せざるを得なかった理由を話せば、その時代だったからこそ選択するしかなかった理由だったと理解して貰えるかも知れません。それに、御夫君が亡くなった今なら藤川さんを愛していると口にしても大丈夫でしょう。老いた今の姿でも藤川さんは貴女だと分かってくれそうな気はします。貴女を思って身を投げて仕舞う位に愛していた訳ですから」
 そして、「秘めた恋を年月を経て咲かせてみるのもよいのでは」と続けて静かに言葉を切った。
 どこかでセミが鳴いているようだ。郊外のこの地域ではアブラゼミよりもミンミンゼミのほうが優勢であるらしい。涼しいとは言い難い風に乗り、息切れしたようなせわしない鳴き声が幾重にも重なってここまで届いてくる。
「あの藤川って人は……恭一さんじゃ、ない、よ」
 のろのろと視線を逸らし、サエ子は呟いた。
「恭一さんは、死んだんだから」
 軽く眉根を寄せたルーファスに、早川が「藤川誠一というのは役名です」と耳打ちする。
「藤川のモデルになったのは……つまり、皆川さんのかつての恋人は青野恭一さんという方です。ちなみに、映画の中で皆川さんとしてえがかれた女性の役名は鳥井瑛子といいます」
「なるほど。言われてみれば」
 ふむ、と軽く唸ってルーファスは顎に手を当てた。あの映画はノンフィクションだというが、藤川誠一は青野恭一そのものではない。モデルになっているとはいえ、青野とは違う人間が演じた別の存在なのだ。
(しかし……)
 青野とサエ子をモデルにしたノンフィクション映画であるという特性に鑑みればそうとも言い切れまい。鳥井瑛子の元になったのは間違いなくサエ子なのであるし、藤川誠一は青野恭一という人間から生まれた存在である。銀幕市に魔法がかかった後に引っ越してきたサエ子とて、もしかすると同じようなことを考えているのではないか……。
「ああ、恭一さん」
 しわがれたサエ子の声でルーファスはふと黙考から引き戻された。サエ子はもう一度想い人の名を呼び、骨の間に皮が張りついたばかりの手を虚空に向かって差し伸べる。
 否――虚空ではない。鶏の骨のような指は確かに早川に向かって縋るように伸ばされている。
「恭一さん。いつ帰ったの? ああ、待たせてごめんなさいね、私、桜の木の下に行けなくて――」
 ルーファスは相変わらず背筋を伸ばしたまま無言でいたが、その眉根がほんの少しだけ中央に寄せられる。
 ぞっとするような、というのは失言だろうか。しかしルーファスは確かに寒気にも似た感覚に襲われたのだ。
 かつての恋人の名をうわごとのように繰り返すサエ子の表情といったら、どうだろう。白内障に侵された眼球には少女のようなきらきらとした光が瞬き、しっかりと意志を持って早川を見つめている。深い皺ばかりが目立つ頬もほんのりと染まって、かさかさに乾いた唇には恥ずかしそうな、しかしこの上なく幸せそうな笑みが浮かんでいる。
 抜け殻のように縁側で座っていた老婆は今、辰野サエ子という名の初心な娘に戻り、その瞳にしっかりと青野恭一の姿を捉えているのだ。
「皆川さん。僕は早川といいます」
 早川はそっとサエ子の前にかがみこむ。
「映画の中で藤川役を演じた俳優です。青野さんではありませんよ」
 ほう、とルーファスは軽く眼を細めた。
「何をおっしゃるの、ああ、だって、恭一さんじゃありませんか。恭一さん、私は、私は」
 サエ子は子供がいやいやをするように首を横に振り続ける。すっかりしわがれた声には時折ひゅーひゅーと空気が漏れるような音が混ざり込んでひどく息苦しそうに思えたが、サエ子は青野の名を繰り返すだけだ。
「いつものことです。どうやら僕には青野さんの面影があるらしくて」
 ルーファスを振り返った早川は苦笑交じりに説明した。
「僕が藤川役に抜擢されたのはそのせいもあるんですが」
「……成程」
 ルーファスは軽く息を吐いた。少し事態が込み入って来たようだ。
「恭一さん、ねえ、恭一さん……」
 頂を超えた太陽の光は暴力的な激しさこそ失っているものの、湿り気を帯びた熱を運ぶことには変わらない。とろとろと溶け出しそうなけだるい暑さの下、痩せ衰えた老婆は目を輝かせながら恋人の名を呼び続けた。



 偶然藤川の姿を目撃したのは何月何日のことだったか、もはや覚えていない。だがラストにとってはそんな日付など大した問題ではなかった。藤川に寄り添い、ただ傍に居てやろうと決めている。
 藤川が何を思っているかは解らないし、尋ねるつもりもなかった。だが、対策課で依頼が出ていることを聞き、それがきっかけで藤川が抱えている事情を知った。藤川誠一の恋人・鳥井瑛子のモデルとなった皆川サエ子という女性が銀幕市内に住んでいるということも。
 どういうからくりになっているのか知らないが、毎夜身投げを繰り返す藤川は翌日の夕方近くになるとどこからともなく現れて桜の下に佇んでいた。ずっと桜の下で腹這いになっているラストでさえ藤川がいつどのようにして現れるのか見たことはない。まるで紙の裏にインクが滲み出すように、いつの間にかとしかたとえようがない状態で桜の下にいるのだった。
(それも桜の力なのか)
 はらはらと。ひらひらと。
 この現実離れした桜ならばそんな力が潜んでいても不思議はない。際限なく散り続ける桜を見上げていると本当にそう思いたくなってくる。ラストは錆びた牙がずらりと並ぶ口を皮肉っぽく歪め、「まさかな」とひとりごちる。
 だが、聞いた話によればこの桜には不思議な力があるという。噂だとばかり思っていたが、昨晩現れたシキ・トーダは桜の下でしばし呆然としていた。まるで誰かに話しかけるようにひとりごちていた姿もラストは見ている。
(もし、まことであるならば)
 せめてもう一度。彼の姿を見ることはかなわぬものか。
 はらはらと。ひらひらと。
 問いかけたところで桜が答えるはずもない。澄んだ海の面(おもて)に黄昏の空の色が照り映え、空気全体が静かな茜色に染まっているかのようだ。夕焼けの空を舞う桜も美しいが、どこかけだるい風情を漂わせている。やはりこの桜が一番映えるのは夜だとラストは思う。すべてを覆い隠す夜の帳の中、これほどまでに儚く美しく、そして静かに烈しく自己主張をするものが他にあろうか。
「今日もいるんですね」
 ふと静かな声がして、ラストは腹這いのまま振り返る。
 昼と夜の狭間、中途半端な薄い闇に包まれて、ものが一番見えにくくなる時間帯。その薄暮の光の中に溶け入りそうな希薄さで藤川が佇んでいた。
「この銅像はただ人間の……貴方の元に在るのみ」
 最後までともに居ると言葉少なに付け加え、ラストは体の前で揃えた前足に顎を乗せる。
「そうでしたね」
 脇腹から背中の辺りにかけてひやりとした感触が押し当てられる。青銅の体に藤川が背を預けるのを感じたが、ラストは動かなかった。
 藤川の軍服からは常に水が滴っている。初めて見かけた時からそうだった。海に身投げした後の状態で実体化したというから、きっと海水を吸って濡れているだけなのだろう。だが、全身を重く濡らすこの水がそのまま藤川が流した涙の量を表しているのではないかとラストはふと思う。
「少し……眠ってもいいですか」
「この硬い体は枕には不向きだが、それで良ければ」
 いらえはない。代わりに、後頭部に軍帽をかぶった頭がもたせかけられ、静かな寝息が聞こえてきた。
 はらはらと。ひらひらと。
 緩やかに舞う花びらがカーテン代わりになってくれるだろう。ふうわりとたゆたうほのかな花の香も心地良い。ゆるゆるとした暑気の残滓を褥代わりに、今はただ眠れば良い。
 ふと冷たい物が眉間から口許へと伝い落ちて来て、ラストは目を上げる。
「……塩辛いな」
 もたれかかる藤川の軍帽から滴ってきた海水は、舌先に涙と同じ味を運んだ。



 空を、海を、地を、漆黒の闇が押し包んでいる。市街地から離れたこの辺りは繁華街の喧騒やネオンとも無縁だ。緩くたゆたう闇の中にあの桜だけが薄明るく浮かび上がっている。まるでそこだけが現世から切り離された結界であるかのようだ。それほどまでに非現実的で、美しい光景だった。
「ああやってずっと散り続けているのでしょうか」
 学者としての本能がそうさせるのだろうか、興味深いといった風情でルーファスは桜を見つめ、ひとりごちる。今日は早川は同行していない。
(幻を見せるという噂は気になりますが……それで心身に異常をきたしたという報告は聞いておりませんしね)
 大丈夫だろうと内心で呟いてルーファスは桜に歩み寄った。
 近くで見れば、見事としか言いようがない大樹だ。どっしりとした幹を固い樹皮が幾重にも覆い、それがそのままこの樹が経た年月を雄弁に物語っている。四方に伸ばされた枝も均整が取れ、美しい。だが、やはり圧巻なのは花であろう。潮風と夜風に波打つ薄紅の絨毯は重厚で、妖しささえ漂わせている。鼻腔をくすぐる季節外れの甘い香りもあいまって、浮き立つような奇妙な高揚感に包まれるのだ。
(彼が桜から離れられないのはどうしてでしょうか)
 桜と同化しているからなのか、はたまた桜が先か藤川が先かということなのか。
 あるいはこの妖艶さに囚われて離れられないということなのだろうか。この桜を見上げているとそんな現実味のない仮説すら立ててしまいたくなる。
「しかし、不思議ですね」
 はらはらと。ひらひらと。
 いったいこの樹はどれだけの花びらをつけているのだろう。これだけ桜吹雪を降らせ続けているというのに、頭上には重みで枝がしなるほどの満開の花。まったく花びらが減る様子がない。
 目の前を舞う花びらに触れてみようと手を伸ばす。だが、落ちてくる紙切れを掴むのが案外難しいのと同じで、風にあおられて闇を漂う花びらはルーファスの手の中から巧みに逃げていく。一枚くらい掴めないものかとふらふらと花びらを追うルーファスが、鈍い音とともに後頭部を桜の幹に打ち付けたのは十数秒後のことだ。
「ふむ。スタンダードなソメイヨシノでしょうか。特に変哲はないような……」
 後頭部にじんじんと響く痛みなど意に介さず、くるりと振り返って樹皮に手を触れた瞬間だった。
「……おや、これは」
 桜に見入っていたルーファスがその変化に気付くまでにはやや時間を要した。
 高揚感を誘う甘い香りは消え失せ、鼻腔によくなじんだカビと埃のにおいが流れ込んでくる。辺りは相変わらず暗かったが、夜の闇とは異質だ。それに、しんとしたこの冷気と静けさは夏の夜には似つかわしくない。
「成程」
 腰の後ろで手を組み、注意深く周囲を見回したルーファスの唇が薄い笑みを形作った。
 夜空も視界を覆う桜も崖の風景も消え失せ、ルーファスは今、遺跡の中に立っている。
「幻の割にはよくできていますね」
 石造りの内壁にひたりと手を当てれば、手袋越しにリアルな感触が伝わってくる。ひんやりとした冷たさも表面を覆う苔の湿った手触りも、遺跡というものが持つ息吹そのものだ。
 ゆっくりと歩を進めれば靴の踵が精緻に組まれた石の床を踏み鳴らし、かつんかつんと小気味良い音が反響する。その音の響き具合に耳を澄ませ、遺跡内部のおおよその面積に見当をつけたルーファスは「ああ」と呟いて手を打った。
 かつて前人未踏の遺跡に踏み入ったことがある。この幻はその時の風景ではないのか。
「これは懐かしいですね」
 丹念に見回し、手を触れ、時にはしゃがみ込みながら見て回る。それは探索というよりは満喫に近かっただろう。胸一杯に息を吸えば、この場所に一緒に閉じ込められた古代の空気までもが肺の腑を隅々まで満たしていく。
「では、しばし堪能させていただきましょうか」
 かすかに鼻歌を歌いながら歩き回るルーファスの表情は、学者というよりも趣味に没頭する一人の紳士のようであった。



 ルーファスの訪れにいち早く気付いたのはシキである。ルーファスが桜の下に入ってくるずっと前から彼の気配に気付いていた。
「どしたよ。嫌いか? それとも紙コップじゃ気分が出ないか?」
 桜の下でラストに酒を勧めるシキは既にほろ酔いだ。だが、当のラストは珍妙な顔をして紙コップに注がれた焼酎を見つめるだけである。
 はらりと、コップの中に花びらが落ちた。酒の上にわずかな波紋を浮かべて花びらが揺らめくさまなどは――器が紙コップであるという点を差し引いても――たいそう風雅なものだが、あいにく青銅の狼はその趣を楽しむには生真面目すぎた。
「……銅像が飲むものではない」
「相変わらずおカタいねぇ。まさか錆びるから嫌だってわけでもないんだろ?」
「この通りRust(緑青)に覆われた身だ。今更多少の錆びなど」
「じゃ、いいじゃねえの。人間が飲めって言ってるんだぜ? 人間に従うのが銅像の流儀と違うのかい?」
「む」
 人間を敬愛する銅像はぐっと言葉に詰まる。融通の利かないその様子にシキはまた乾いた笑いを浮かべた。
「ほら、おまえも」
 そしてぼんやりとこちらを見つめている藤川を手招きする。
「一緒に飲もうぜ。軍にいたんじゃこんなのもろくに飲めなかっただろ」
 こちらのほうが良かろうと注いで渡したのはスタンダードな種類の清酒だ。戦時中のものとは味が違うだろうが、いきなり洋酒を飲ませるよりは違和感を与えずに済むだろう。
「飲んだくれて憂さを晴らすのも悪かないぜ」
「……憂さを晴らしたところで、現実が変わるわけではありません」
 一時的に忘れるだけにすぎないと藤川は呟いた。その生真面目さにシキは思わず苦笑したが、これならばラストと気が合うのも分からぬではないと妙なところで得心する。
「ま、何となく分かるがな……絶対に変わらないと思っていたものが変わっちまう寂しさは」
 ちびりとビールの缶に口をつけたシキの横顔に銅像と青年兵の視線が注がれる。
 雪に閉ざされた街を出て、何年か経ったある日のこと。
 軍での稼ぎをほとんど実家に送り、家族と定期的に手紙のやり取りもしていた。だが突然、母が病死した旨の手紙が兄から一方的に届き、その後まったく連絡が取れなくなったのだ。
 急いで街に戻っても兄の姿はなかった。それ以来行方は知らない。十代も終わりの頃だった。十数年経った今でもあの寂しさと虚無は忘れられず、深々と打ち込まれた楔のようにシキの中に居座り続けている。
「俺もさ、おまえとおんなじなんだぜ」
 だがそれをおくびにも出さず、シキはいつもの気安い笑みを浮かべて藤川に向き直った。
「昔、軍にいたのよ。赤紙じゃなくて志願したクチだけどな」
「志願……」
 ようやく藤川は目を上げる。
「つらくはなかったのですか? 大切な人や家族と引き離されるというのに」
「ん。まぁ、貧しい家のためってやつさ」
 曖昧に言葉を濁したシキの心の奥底にこの場の誰が気付き得ただろう。
 ふと、紙コップを凝視していたラストが顔を上げる。見ていた幻が解けたのだろう、ルーファスが歩いてくるところだった。



「その女性と対面させることで彼が救われるとは思わぬ」
 あくまで銅像の意見だが、と前置きをしてからラストは口を開いた。
「彼は映画の中の人物。だが皆川というその彼女は、元になったとはいえ映画の中の人物ではない。顔も違えば名前も違うだろう。逢わせたとしても混乱させるだけだ」
 サエ子と逢わせるよりは今のこの状況を藤川に説明し、身投げをせずに鳥井瑛子が実体化してくるのを待つよう説得した方が良い。いつ実体化するとも解らないが、しないとも言い切れない。一筋ではあるが希望はある――。決して口数が多いほうではないはずの狼は静かに、しかしやけに滑らかにそう語った。
「ですが、こうも考えられませんか?」
 丁寧に肯きながらラストの言葉を聞いた後で慇懃に口を開くのはルーファスだ。
「件の映画はノンフィクションです。藤川誠一さんという存在は青野恭一さんから切り離すことはできません。いわば、藤川さんという人格を形作っているのは青野さん……鳥井瑛子さんと皆川サエ子さんの関連もまた然り」
 もし青銅の狼に眉毛があるとするならば、その時のラストは眉間に皺を寄せた表情を作っていたであろう。だが反論することはしなかった。誇り高き銅像が人間に対して必要以上に声高に自説を主張することなどありはしない。
「昨日、早川さんという俳優さんの案内で皆川さんに直接お会いしました。ああ、早川さんというのは藤川さんの役を演じた方なのですが」
 シキに勧められたワインを舐めるようにして一口。器が紙コップでは甚だ不本意であるが、この場では我慢するしかあるまい。
「藤川さんには青野さんの面影があるそうなのです。正確には、藤川さんを演じた早川さんに……でしょうか。皆川さんも時々早川さんを青野さんだと勘違いすることがあるようでして」
「ふうん」
 クーラーボックスを腰掛け代わりに脚を組んだシキがけだるげに頬杖をつく。
「なーんかややっこしいことになってるみたいだな。で」
 どうする? と藤川に水を向ける。ラストがゆっくりと立ち上がり、藤川の傍に控えるようにして寄り添った。
 しかし、藤川の手がラストの鼻面を撫でることはない。
「瑛子さんはいないのですか?」
 代わりに、そんな問いが落とされた。答える者はない。どこか虚ろな目が、ラストの、シキの、ルーファスの顔の上を順々に撫でていく。
「――ちなみに」
 答えの代わりにルーファスが取り出したのは掌におさまるサイズのICレコーダーだ。
「これが皆川さんの肉声です。もちろん今は八十を過ぎたおばあさんですが」
 今日の昼間にもう一度サエ子の元を訪れ、本人の許しを得て録音してきたものである。ルーファスは藤川の返事を待たずに再生スイッチを押した。
 『恭一さん』
 ラストは無言で目を閉じ、シキはがりがりと首の後ろをかいて小さく嘆息した。
 音質はクリアだった。だがそれだけに、レコーダーから聞こえるそのしわがれ声が間違いなく皆川サエ子のものだという事実を冷厳にこの場に突きつけている。
 『恭一さん……ごめんなさい。ごめんなさい』
 恭一さん、恭一さん、恭一さん。老婆の声は藤川ではない名をうわごとのように幾度も呼ばわる。藤川は反応しない。見慣れぬデジタル機器から聞こえる声と聞き慣れぬ名をただ怪訝そうに聞いているだけだ。
 『ずっと、心はずっと』
 だが、藤川の表情にかすかな変化の兆しが見えたのはその瞬間であった。
 『ずっと……ずっと、待っていました』
 ぱきりと、乾いた音が聞こえたような気がした。陶器か何かにひびが入るような、そんな音だった。
 『恭一さん。ごめんなさい。許してもらおうだなんて思っていない。だけど』
 私も、ずっと、辛かった。
 サエ子の言葉はそこで途切れた。後にはただむせび泣くような音声が続くだけ。
「約束が守られなかったのは残念なことですが……戦後の混乱の時期であったからこそ、生き抜くために必要なことだったのでしょう」
 かちりと停止ボタンを押し、ルーファスは静かに顔を上げた。
「皆川さんも、皆川さんを元に生み出された鳥井さんも、同じです」
「――生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」
 藤川が唐突に呟いた台詞は、日本人ならば一度は耳にしたことのある一節である。だが、現代日本人ではない二人と一体の銅像には耳慣れぬフレーズであった。
 それでも従軍経験のあるシキには思い当たることがあったらしい。開いているほうの右目がすっと細められ、唇からわずかな吐息がこぼれた。
「敵の捕虜になって生き恥をさらすくらいならてめえで死ねってか。――それがこの国の軍隊の教えか」
 シキの言い回しは些か乱暴であったが、ある程度的確であっただろう。
「戦地では最前線に立たされ、死線を幾度も潜り抜けました。戦争が終われば終わったで、今度はシベリアに連れて行かれました。シベリアで生きることは死ぬよりも辛かった」
 藤川の声は震えていた。相変わらず軍帽を深くかぶっているため、表情はうかがえない。頬を濡らしているのは帽子から滴る海水だったのだろうか。
「疲労と栄養失調で仲間が次々に死にました。私は仲間の遺体を荷車に乗せて、スコップを使って穴に投げ捨てたのです。まるで生ゴミか何かを放るように――」
 その時の感触をまざまざと思い出したのだろうか。持ち上げた藤川の手がぶるぶると震えている。
 極寒、飢餓、疲労、絶望、憔悴。永久凍土の上で、戦敗国の捕虜たちはろくな睡眠も食事も与えられずに働かされた。それは強制労働という呼称ですら生ぬるい、奴隷、否、道具としての扱いに他ならなかった。力尽きて命を落とす者は数えきれないほどいたし、屈辱と苦痛に耐え切れずに自ら命を絶つ者も同じくらいいた。どちらにしろ、死ねば無造作にリヤカーに乗せられて、ゴミと同じように穴を掘って捨てられた。シベリアとはそういう場所だった。
「死んでしまおうと何度も思いました。でも祖国には私を待っている女性がいる。彼女のために耐えるのだと言い聞かせ続けて日本に帰ったのです」
 ルーファスは直立不動の姿勢を保ち、軽く顎を引いて沈黙を押し殺す。
 サエ子が他の男性と結婚したのは仕方ないことだと思っているし、その考えは今でも変わらない。それでも、藤川の告白を聞いて無感慨ではいられない。
 この国には生きることが死ぬより辛い時代が確かにあったのだ。捕虜として敵に惨めな姿を晒すくらいならいっそ己で死ねと、是も非も考えるいとますらなく叩き込まれた価値観は絶対的で、疑問や反論を差し挟む余地など存在するはずがなかった。
 それでも彼は生きた。唯一絶対と信じた神にも等しき“皇国”の教えに悖り、苦痛も屈辱も謗りも血反吐を吐いて甘受して、想い人のためだけに生き抜いた。彼女が待っていると信じたからこそ生きられた。
「私は……何のために」
 ひょおうと風が吹き、花びらがごうと舞い上がる。
 はらはらと。ひらひらと。
 音もなく降り注ぐ花びらの中、がくりと膝を折って涙を流す藤川にラストが寄り添う。
「いつか鳥井という彼女が現れるかも知れぬ、この街でなら映画とは違う結末を望めるやも知れぬ。この銅像で良ければそれまで付き合おう」
 だから身投げなどやめて、静かに待つことはできぬか。
 幼子を諭すようなラストの言葉にも藤川は答えず、ただむせび泣く。
 青銅の狼はまっすぐに背筋を伸ばし、ついと顎を持ち上げて目を閉じた。
(ああ――桜よ、おまえに慈悲があるならば)
 このまますべて隠してほしい。
 彼の絶望が誰の目にも触れずに済むよう、どうか今は隠してほしい。
 シキはぬるくなりかけた缶ビールを一気に喉に流し込み、殊更に勢いをつけたしぐさで頭上を振り仰いだ。ざあざあと音を立てて鳴る花の群れが妙に滲んで見える。酔いが回って目が潤んでいるだけなのだと思いたい。
 その刹那。
 舞う花と鳴る風の向こうにふたつの気配を感じ、弾かれたように振り返る。シキの視線を追ったルーファスは眼鏡の奥の双眸を軽く見開いた。
「恭一、さん」
 杖をつき、覚束ない足取りで現れたのは皆川サエ子だった。



 ルーファスが真っ先に感じたのは驚きよりも疑問であった。サエ子の自宅からこの崖までは健康な大人でも徒歩で来られるような距離ではない。付近に駅やバス停もないというのに、杖をついてすらふらついているサエ子がどうやってこの場所までやって来たというのか。
 ラストは軽く眉間に皺を寄せるようなしぐさをしたが、それだけだった。目の前の老婆は皆川サエ子であって鳥井瑛子ではない。サエ子が熱に浮かされたように繰り返し呼ぶのも藤川の名ではない。
 それでも、青銅の狼は動かない。口出しもしない。ただ藤川に寄り添い、見守るだけだ。
「と。あぶねえって」
 杖をついたまま懸命に歩を進めようとしている老婆の姿はあまりにも危なっかしく、シキは思わず立ち上がった。走り寄りたい気持ちばかりが強すぎて体のほうがついていかないのだろう、前のめりにつんのめるような格好でふらふらと歩き続ける。小走りに駆け寄ったシキは傾きかけた体を支えようとして――思わず、ぎょっとした。
「どうしました?」
 その様子に気付いたルーファスが怪訝そうに問うが、シキは「いや、別に」と曖昧に言葉を濁すだけだ。差し出しかけた手をサエ子の背中に置き、軽く背を押すようにしながらゆっくりと藤川の前まで誘導した。
「恭一さん」
 サエ子は縋るように藤川の手を取った。虚ろに濁った眼球が溶けて流れ出してしまうのではないかというほどに涙を湛え、それが皺という皺にくまなく入り込んで顔全体がくしゃくしゃになっている。
 藤川は答えない。藤川の手を握るのは大粒のシミが浮き出た骨と皮ばかりの痩せこけた手で、藤川が知っている白くて華奢で柔らかな鳥井瑛子の手とはかけ離れたものであっただろう。
 だが、今のサエ子は若かりし日の辰野サエ子に戻っている。そして目の前の藤川があの日の青野恭一だと信じ切っている。藤川もサエ子の手をほどこうとはしない。ただ黙って目の前の老婆を見つめている。
「ああ……無事でいてくださったのね」
 くしゃりと音を立ててサエ子の顔がまた歪んだ。泣いている時に笑おうとしたら失敗した、そんな表情だった。
「やっと会えた。ずっと――」

 ずっと、ずっと、待っていました。

 サエ子がしわがれた声で途切れ途切れにそう言った瞬間だっただろうか。
 ぱきりと、乾いたひびが入るような音が再び聞こえたような気がしたのは。

「待って、いた?」
 藤川はゆるりと首を傾けた。傍らのラストがわずかに耳を動かし、顔を上げる。
「他の相手と結婚してしまったのに?」
 ぴきり。
 サエ子の顔が音を立てて歪む。
「藤川さん、それは」
 諌めるように言葉を挟むのはルーファスだ。ぎぎ、と軋むような音を立て、藤川はゆっくりと首をめぐらせる。
「生きるためには仕方なかった。彼女もつらかった。確かにそうでしょう。だけど……」
 言葉は続かない。軍帽の下できつく唇を噛み締める気配ばかりが伝わる。
 言いたいことも、納得できないことも山ほどあるのだろう。それでも目の前の老婆を責めることだけは絶対にしない。藤川とはそういう人間なのかも知れない。
 だからこそ、言葉に出せぬ思いが胸の中で黒々ととぐろを巻いているのであろうことも確かだ。
「彼女は皆川さんと同じだとおっしゃいましたね」
 やがて藤川は誰にともなく問うた。
「ならば、彼女も皆川さんと同じことを言うのでしょうか?」
 ラストは答えない。シキは傍観を決め込んでいるようだが、どこか苦い表情でサエ子を見つめているのは気のせいか。ただルーファスだけが「ええ、恐らくは」と答える。
 その瞬間。
 ふわりと、藤川が微笑んだような気がした。
 否――顔を微笑の形に歪めた、とでも形容したほうが適切だったかも知れない。
「そうですか」
 くく、と藤川の喉が鳴った。笑ったのであろうか。
「ならば、同じことですね」
 そして、そっとサエ子の手を引く。親に手を引かれる幼子のように、泣き濡れた顔に信頼と安心の色だけを浮かべてサエ子は藤川に身を預けた。
 
 それを察したシキの全身をぞわりと寒気が貫いた。
 ラストは足を踏み出しかけたが、とどまった。
 ルーファスの眉が険しい音を立てて中央に寄った。

 ざざ、ざ、ざあああああ。

「よせ!」
 
 ごおう。
 海から湿った風が吹き上がり、空からはやけに冷たい風が吹き下ろす。
 獰猛なまでに渦巻く風の音にシキの声は掻き消された。わずかに音を立てて息を吸い込んだルーファスの姿は花弁の屏風に遮られた。
 だが、視界を覆うような花びらの隙間から、二人のムービースターと一体の銅像ははっきりと見たのだ。
 軍帽の下で唇を歪めた藤川の顔を。藤川の腕の中で、至福と安堵に満ちた笑みを浮かべるサエ子の姿を。



 ああ。
 落ちていく。
 歪に微笑むムービースターと狂った老婆が抱き合い、真っ逆さまに落ちていく。
 これが望みだったのか。ボタンをかけ違えたようなこんなちぐはぐな結末が、二人の望んだものだったのか。
 分からない。それは誰にも分からない。
 二人は死んだのだから。もう、誰にも分からない。



「……嘘だろ、おい」
 眼下の暗い海に白い飛沫が広がったのを見とめたシキは半ば呆然としていた。声も心なしかかすれているようだ。
「皆川さんにとっては、藤川さんは青野さんでした」
 崖際に歩み寄り、ルーファスはぽつりと呟いた。一枚、また一枚。開いた両の掌の上に花びらが降り積もっていく。
「藤川さんのほうはどうだったのでしょうね。いえ……そもそも、“彼”は“彼女”にどんな思いを抱いていたのでしょうか」
 彼は彼女を愛していた。愛していたからこそ裏切られたと感じ、絶望と悲しみ以外の感情が生まれていたのではないか。
 二人がいなくなってしまった今、それを確かめる術などありはしない。代わりに、ルーファスはただ両手を闇の中にまっすぐに差しのべる。
 はらはらと。ひらひらと。
 掌に積もった桜が風に吹かれて海に舞う様は、まるで死者に花を手向けているかのようで。
「――せめて、ご冥福を」
 手の中の花びらをすべて送り出し、ルーファスは二人に敬意を表するかのように右手を胸に当てて背筋を伸ばした。
 だが、その姿を横目でちらりと見やったシキはがりがりと頭をかく。
「ご冥福を、ってのはどうかな」
「とは?」
「あのばあさんはとっくに死んでるよ」
 妙に冷たい風がルーファスの頬に吹きつけ、ラストの背を撫でた。
「さっき支えた時に分かったんだ。この国で言うユーレイってやつ? にしちゃあ、ずいぶんはっきり目に見えてたが。思いのたけがなせる業(わざ)ってやつかね」
「成程。……それで住民名簿に名前がなかったわけですか」
 小さな疑問がようやくすとんと腑に落ち、ルーファスは安堵とも嘆息とも知れぬ溜息をついた。
「それも良かろう。彼と……彼女が解放されるのならば」
 それまで無言でいたラストが静かに巨体を揺らし、崖際ぎりぎりまで進み出る。
 すうと息を吸い込み、天空に向かってぴんと鼻面を持ち上げた。

 アオォォォォォ――――……ン……
 ウオォォォォォ――――……ン……

 高く、低く。海からの風と空からの風が混じり合い、狼の咆哮を増幅して、花弁と一緒に漆黒の空へと巻き上げていく。身を切られるような悼みに満ちた鎮魂の雄叫びは二人に届いたのだろうか。

 オォォォォ……ンン……
 オォォォォ―――……ンンン……

 誇り高く、そして慈悲深い銅像の狼は虚空に向かって吠え続ける。どうかこの儀式が今宵で最後であれと、そう願いながら。
 花が散る。闇に紛れて、踊り狂う。
 桜色のカーテンの向こうにちらりと懐かしい光景が見えた気がして、ラストはぴたりと口をつぐんだ。

 ざざ、ざああああ。
 風の中でうねりながら桜色の幕が上がっていく。

 その先に現れたのはこの国の風景ではなかった。ラストの故郷――ロンドンの情景。ラストが意志を持ち始めた頃の景色だろうか。大通りを行き交う様々な人々。街は整備された石畳に包まれ、正装の紳士が乗る馬車が行き交い、着飾った淑女たちが笑いさんざめく。
 街角の美術館の門柱に飾られた一対の銅像は狼と獅子だ。精巧に、緻密に作られた銅像は、忠実な番兵のように美術館の入口に佇み続ける。
 青銅の獅子は狼に劣らぬほど見事な体躯をしていた。無駄というものが見当たらぬほど引き締まった体は重厚なのに、若々しいしなやかさをも感じさせる。そして見事な毛並みと、王者たる証の堂々たる鬣。だが、雄々しいその外見とは対照的に、往来を見つめる瞳には人間に対する慈愛の光が灯っているのだった。
 それを知っているからこそ狼も何も言わない。ただ彼とともに、目の前を行き来する人間たちを愛おしげに眺め続ける。
(こんにちは、銅像さん。今日もかっこいいね)
 母親らしき女性に手を引かれた男児が、二体の銅像に向かって親しげに笑い、手を振って通り過ぎて行った。
 狼は人間を愛した。獅子もこの頃はまだ、狼と同じように人間を愛していた。

 ざざ、ざああああ。

 もう一度風が吹き、ラストはふと我に返る。
 ロンドンの街並みは嘘のように消え失せていた。代わりに目の前に広がるのは黒い海と黒い空。視界を覆っていた桜の花びらも既になくなっている。振り返ると、ほとんど花を散らして裸同然になった桜の大樹だけが佇んでいた。
「礼……なのか?」
 問うてもいらえはない。
 はらはらと。ひらひらと。
 みすぼらしい姿になった桜は、残り少ない花びらを惜しげもなくラストの上に散らす。
 ふと、ラストの口許がほんの少しだけ緩んだように見えた。あるいはそれはごくごく薄い笑みであったのかも知れない。
 自らの半身ともいえる獅子が、ともに人間を愛していたはずの獅子がなぜ人間に反旗を翻したのか、狼には分からない。だが狼は変わらずに人間を愛した。だから彼を止めるため、そして人間を守るために、戦うことになった。
 だが、それでも。
「……銅像にはもったいないほど、美しいものだな」
 静かに感謝を告げると、それを待っていたかのように桜の大樹はふうっと掻き消えた。まるで夏の浅いまどろみが見せた夢のように、跡形もなく。
 ひらり、ひらり。
 後には数枚の花びらだけが残され、闇の中をたゆたっていた。



「ずっと見てたんだろ?」
 名残を惜しむように留まるラストを残し、ルーファスとともに崖を後にしたシキは不意に物陰に向かってそう問うた。
「最初から分かってたぜ」
 サエ子が現れた時にシキが感じた気配はふたつだった。気配に鋭敏なシキだからこそ、勘違いなどでは有り得ない。
「おや……早川さん」
 悪びれるでもなく姿を現した男の姿にルーファスは軽く眼を開いた。見れば、少し離れた所に早川のものとおぼしき乗用車が止まっている。
「成程。早川さんが皆川さんをお連れしたのですね」
「どうしても会いたいとおっしゃるもので」
 にこりと微笑む早川にシキは軽く舌打ちする。
「早川っていったか。藤川を演じた俳優だそうだな? ただの偶然だと思っていいのかしら?」
 まるでお膳立てをして見守っていたようじゃないかとシキは皮肉っぽく唇を歪めてみせる。
 だが、早川はまたにこりと微笑んでそれをかわした。
「僕は皆川さんのお願いを聞いてあげただけです。藤川は僕が演じた役ですから気になっていたことは確かですが、それだけです」
「ですが」
 口を開きかけた瞬間、ざあと風が吹き、ルーファスは髪の毛が乱れないように軽く手で押さえた。
「ある程度予想はしていたのではありませんか? ご自身が出演された映画だからこそ、登場人物の性格や考え方などもよくご存じのはず」
「そうですね。まったく予想していなかったわけではありません。僕ね、少し前に、リザさん――僕が出演した映画のヒロインなんですけど――というムービースターに会ったんです。彼女は僕が演じた稲葉という男に片思いをしているという設定なのですが、一人で実体化した今でも、稲葉が来てくれると信じてこの街で待っているんです。稲葉は僕が演じた単なる“役”なのに」
 整えた髪形が風で崩されるのには頓着せず、早川はすっと目を細めた。
「それ以来この街に興味を持ちまして。市内にアパートを借りて滞在しているんですよ。危ないので家族は元の家に残したままですが」
「それで皆川さんともお知り合いだったというわけですか」
「ええ。藤川が実体化したという噂を聞いて、調べているうちに。青野さんと勘違いされて大変でしたけど」
 慇懃で静かなやり取りが続く中、シキはポケットに手を突っ込んで早川を斜めに見据えている。
「皆川さんは銀幕市にかかった魔法の噂を聞いて転居されてきたそうです。たとえ映画の中の人物でもいいからかつての恋人に会って詫びたいと。もっとも、皆川さんが既にお亡くなりだったことには気付きませんでしたが」
「んでおまえはその望みを叶えてやったってわけか、こんな形で。大したバッドエンドだな?」
「バッドエンドでしょうか?」
 早川の瞳がすいと動き、シキの片方だけの目を真正面から捉えた。俳優とはいえ一般的な成人男性の目に海賊のシキが怯むほどの眼光などありはしない。しかしその目の中では、怒りとも悲しみともつかぬ感情がゆるゆるとマーブル模様をえがいているのだった。
「ご覧になったでしょう? 皆川さんの顔。とてもお幸せそうでした。そして桜も消えました。きっと藤川が現れることはもうありません。丸くおさまった……とは言えませんが、とりあえず事態は収拾したじゃありませんか」
 ね? と続け、早川は柔らかに唇を歪めてみせる。
「映画という名の夢がこの街を狂わせていると聞きました。ならばその夢を作る僕たちはどうすればいいのでしょう? 僕たちが形作った夢が元でひとつの街がおかしくなっている。もちろん、この魔法に感謝している人が沢山いることは知っていますが、本来ならば起こるはずのなかった悲しみや痛みや犠牲がいくつも生み出されていることも事実です」
「何をおっしゃりたいのでしょうか?」
 早川の饒舌を半ば遮るようにルーファスが口を開いた。その口調は相変わらず慇懃で物静かであったが、くいと持ち上げた眼鏡の奥の目は決して笑ってはいない。
「何も。ただ、映画に携わる者として無感傷ではいられないというだけのことです」
 早川はにこりと微笑んだ。
「夢は人の楽しみや慰めです。人の力にもなるでしょう。だけど、時として人を狂わせる。それならば夢は……夢の担い手である僕たちは、何のために在るのでしょうね?」
 ルーファスも、シキも、無言だった。答える術を持たなかった。



 数日後。あの崖に程近い浜辺に、一巻のフィルムが打ち上げられた。
 以来藤川が現れることも、季節外れの桜が咲き誇ることもなかったという。
 早川はまだ、銀幕市内に滞在しているようだ。



(了)



クリエイターコメント 大変お待たせいたしました。シナリオ【ナツハナ】、お届けいたします。
 参加者御一同様、ご覧になってくださったお客様、ありがとうございます。

 ええと。
 すっきりしない、分かりにくいと思われたでしょうけれども、それが狙いなんですごめんなさいとしか言えません…。
 どことなく、ボタンをかけ違えたようないびつさを感じていただければなぁと。
 解釈は色々と別れるでしょうけれど、お好きに想像していただければ嬉しいです。

 背景として少しだけ戦争を題材にしましたが、軽々しく扱って良いテーマではないので、掘り下げることは避けました。
 お盆という行事がいつから存在しているのか無知な宮本は知りませんが、お盆と終戦記念日が重なっているのはただの偶然なのだろうかと、ふと考え込んでしまいます。

 途中、作業が遅れている旨をブログで報告申し上げ、お客様をやきもきさせてしまったかも知れず、申し訳ありません。
 結果的にはぎりぎり間に合いましたが、お待たせしてしまった分、楽しんでいただけることを願って。
公開日時2008-08-15(金) 13:00
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