見上げれば、森を作る木々の合間を埋めるように無数の星がキラキラと夜空を飾っている。
カグヤ・アリシエートはひとり、無言のまま、しばらくその光景に見入っていた。
こうしている今も、城では華やかな宴が催され、村のどこかでは異端審問によって《魔》であると断じられた誰かが裁かれている。
吸い込まれそうなほどに美しい光の群は、地上のありとあらゆるもの、例えば教会によって《罪深き存在》と断じられた者の上にも等しく瞬いているというのに。
いつからヒトは迷信を怖れるようになったのだろう。
いつからヒトは、ヒトならざるチカラを排斥するようになったのだろう。
カグヤの頬を風が撫でていく。
風に乗って、囁きが聞こえる。
遠くの嘆きも聞こえる。
たすけてくれ、と悲鳴をあげている。
壊れ歪んだ風の悲鳴
――帰りたい、戻りたい、タスケテクレ、どうして、何故、タスケテ、タスケテヤッテクレ、どうして、なにをしたっていうんだ、どうして、なぜ、なぜ……ッ
突き刺さる悲鳴。
ソレが現在のモノなのか、過去に叫ばれた残響なのか、それとも両方なのか、カグヤには分からない。
ただ、その嘆きが心からの悲鳴であることだけはたしかで――
「カグヤ、ここにいたんだな」
「シヴ」
特別驚くわけでもなく、カグヤは声の主――深い森に自ら踏みいり、望んで自分の元を訪れる少年を振り返った。
「月光浴でもしようかと思っていたんだけど、……そっちは違うみたいね?」
「ああ、まあな……」
シヴと呼ばれた少年――シグルス・グラムナートは聖別された神父の法衣をまとい、その手には聖書を抱いている。
彼を取り巻く空気が赤や橙といった緊張の色をはらんでいるのまで見てとれた。
星空の下で、ささやかな茶会でも。
そんな誘いを口にできるような雰囲気ではなかったし、なによりカグヤはすでに彼がこれから口にするだろう言葉を予測していた。
「教会から正式に《退魔》の依頼が来た。今夜、これから行ってくる」
「そう……司祭の初仕事ね」
だから、微笑むこともできた。
覚悟をしていたから、笑って送り出すための心の準備もできていた。
「どこへ、なんて聞く必要もないわね。少し前に大きな悲劇が起きた。あなたはそこに行くんでしょ?」
「……正確には、ソレを引き起こしたモノのもとへ……話を聞きに行くって感じになるんじゃねえかな」
「話し合いになるわけ?」
「教会からの命令は《退魔》だからな……どこでどうなるかまではわかんねぇけど」
「そう」
「……とりあえず、初仕事だから報告しといた」
シグルスが視線を逸らす。
その視線を追いかけることはせずに、カグヤはまっすぐに彼だけを見つめる。
はじめて出会った時、彼はまだ10歳の子供だった。
けれどいま、彼は18歳の司祭だ。
カグヤは年を取らない。精霊と契約しながら永遠を生きる自分には、ヒトと同じ時間は流れない。時の流れの枠から外に出てしまっているのだ。
だが、そんなカグヤの前で、シグルスは時の流れの中に生き、変化していく。
幼かった少年は、祖父から司祭を継ぎ、ついに今夜、教会から《退魔》の仕事を与えられた。
8年の歳月は、彼の何を変えたのだろう。
あるいは、彼の何を変えないでいてくれるのだろう。
そしてこの仕事が、司祭としての彼の初仕事が、彼に一体どんな変化をもたらすのだろう。
「……シヴ」
せっかく笑って送り出そうとしていたのに、彼の名を呼んでしまう。
「なんだ?」
自分を見つめる彼の瞳の中を覗きこんでも、いまの自分ではきっと何も読み取れない。
今の自分の想いを、彼に読み取られることも怖い。
だから。
「……いってらっしゃい。気をつけて」
「……ああ」
伝えたいことがあった。
かける言葉があった。
そのはずなのに、結局どんな台詞も浮かばず、カグヤはそのままシグルスの背が森の木々と夜の闇の中にとけていくのを見つめることしかできなかった。
少年は、静謐で厳格な《司祭の顔》をして自分の前から去っていく。
「……シヴ……シグルス……」
彼の名を呼ぶ。彼の耳には届かない小さな声で、囁くように、名を呼び、想う。
彼は今夜、《魔》と対峙する。
彼は今夜、教会の依頼により、《司祭》として《聖》の力で対峙する。
彼は今夜、歪んでしまった哀しい存在と対峙する。
その結果、彼はどうなってしまうのか。
彼は帰ってくるだろうか。
分からない。
帰ってきてほしいと思う。
けれど、分からない。
分からないまま、空を見上げた。
星が瞬く。
降り注ぐほどに眩しく光り輝く星々を瞳の中に映して、カグヤは言葉にもカタチにもならない《願い》と《祈り》を空に捧げた。
*
聖とはなにか。
魔とはなにか。
正とはなにか。
邪とはなにか。
この問いに、明確な答えを返せるか?
*
断崖絶壁の上に佇む教会は、すでに朽ちた廃墟も同然だった。
掲げられた十字架は折れ、風雨にさらされたステンドグラスは半ば砕けてくすんだ色をばら撒いている。石を積んだ囲いも崩れ、壁という壁に崩壊の兆しが見えた。
だが、なによりも問題なのは、そこに吐き気がするほど濃厚な瘴気が立ち込めていることだろう。
魔に堕ちた異形が棲まう場所。
教会が説き、人々が思い描く《おぞましい魔物の棲家》そのものだった。
「……何もかも、歪んじまってるな……」
思わず、シグルスの唇から呟きが洩れる。
空すらも、今にも落ちてしまうそうなほどに重く淀んでいた。
これほどに病んだ領域に足を踏み入れるのははじめてかもしれない。
肌を浸食する不快な刺激にかすかに眉を寄せながら、シグルスは今夜退けるものに関する情報を反芻する。
対象は、《かつて魔導師と呼ばれていたもの》だ。
その男の捩れ歪んだ《負のチカラ》は、数日前、ひとつの町を壊滅させた。
一体ソレがどれほどの悲劇をもたらしたのか、一体ソレは今後どのような悲劇を生み出していくのか、想像することにすら痛みと苦しみを伴う。
しかも、シグルスはかつて破壊され荒廃してしまった町を訪れたことがあったのだ。
あの時感じたあたたかな日常のすべてがなくなり、今、そこには瓦礫に死の匂いが覆い被さり、悲壮感は病んだ色をして地面を這っているのだろう。
何故、そんなことが起きてしまったのか。
何故、そんなことになってしまったのか。
何故、そんなことをしてしまったのか。
シグルスの問いに、教会はただ一言、《罪の贖いをさせろ》とだけ告げ、明確な事情を示さなかった。
教会は《邪》と定めたモノをけっして許さない。
神の名のもと、《聖》を行使する。
だが、それは本当に滅せられるべき存在だったのだろうか。
あれほどの事態を引き起こした存在は、確かに裁かれるべきなのかもしれない。
けれど。
そう、けれど……
例えばソレが起きてしまうより前に、語られるべきストーリーがあったとしたら、そしてそのストーリーを正しい方向へ進めることができていたとしたら。
悲劇は、未然に防げたのではないだろうか。
彼女ならきっとその可能性を考えるだろう。
彼女なら、きっとその可能性を示唆し、その裏側にあるものへ目を向けるだろう。
例えば、その《男》に何か――
「ほう……ついに教会は《司祭》を差し向けてきたか」
思考がひとつの仮説に辿り着くより先に、もしくはソレを遮るように、ひどくしわがれた《声》が降ってきた。
天上から、あるいはどこか近くて遠い場所から、その声は響く。
シグルスはゆっくりと顔を上げた。
いつからそこにいたのか。
廃墟の教会の扉を背に、男――いや、かつて男だったはずの《異形のもの》がそこに立ち、歪な笑みを浮かべている。
長すぎる腕を鋭い爪で飾り、肌を漆黒の毛皮に覆われた異形は人狼を思わせた。
そして、被ったフードのその奥で光る瞳には、狂おしいほどの憎悪が虚無とともに渦を巻いている。
「《司祭》シグルス・グラムナートだ。教会の命により、《邪》であり《魔》であるてめぇを排斥するために来た。だが、その前に――」
「まさかこんな若造だとは思わなかったが……見くびられたものだな」
ぐにゃりと、空気がたわむ。相手が口の端に浮かべる笑みは、嘲笑のようにも自嘲のようにも見え、彼にならって、あまりのおかしさに空間そのものも体を折って笑い転げている気がした。
だが、笑いはすぐに掻き消える。
「この私を罰するとは……実に傲慢だな、若造。そして実に滑稽だ。何も知らぬお前が一体何を断じようとしているのだ?」
歪な男は、歪な声を洩らす。
「聖とはなんだ? 邪とは? その基準をおまえは誰に授かった? お前はそれに答えられるのか?」
冷たく凍えた瞳の中に、絶望に歪む深淵があった。
「異端審問を見たか? 吊るされた者たちを、磔にされた者たちを、火あぶりにされた者たちを、水責めにあった者たちを、礫を受けた者たちを、災いの烙印を押された者たちの悲劇を貴様は見てきたのか」
知らないわけではない。
まったく見たことがないわけでもない。
「聖とは教会が認めた教会の都合の良い存在だろう? 邪とは、教会が脅威と感じた勢力への戒めにすぎんだろう? 自らを聖と定めた《教会》が、他を排斥した。異端審問の有様を知らぬとはいわせんよ、若造」
燃えさかる炎の中で幼い子供の声が聞こえていた。
しなるムチと血の飛沫に、神に救いを求める悲鳴が重なっていた。
目にしてこなかったわけではない。
笑いながら残酷な刃を振るう、おそろしい世界を、シグルスはすでに知ってしまっている。
「お前は本当にそやつらが、あのような責め苦を負わされてしかるべき罪人だと思うのか?」
思わない。思ってなどいない。だから、自分は――
「教会がどれほどに罪深く傲慢であるのか、人間がどれほどに非常でおぞましく恐ろしいものか、お前は見てきたか!?」
男は語る。
男は糾弾する。
男は、
「見るがいい、この絶望を! 知るがいい、この果てのない憎悪を!」
風を起こした。漆黒の、病んだ瘴気を孕んだ風がシグルスを取り巻き。
直後。
目の前で鮮赤の火花がはじけ、直後、視界が闇に閉ざされた。
強烈な睡魔にも似た眩暈に襲われて、引きずり倒されるような奇妙な感覚に陥る。
ぐるぐると回り続ける。
まわりながら落ちていく。
意識だけが、夢ではない夢の底に落ちて行く。
――『神父さま』『パパ、ママ、あのね』『ねえ、神父さま』『ママ』『困ってる人がいるの』『神父さま……』『ね、お客さまなの』『助けてあげて』
子供たちの声がする。
遠い遠い、丘の向こうから届く風を聞くような、そんな声がする。
シグルスは目を開く。
どしゃぶりの雨の中、大声を上げながら駆けて来る幼い子供たちと、子供たちに手を引かれながら困ったように後について走る男。ソレをむかえるのは小さな教会と年嵩の神父、そして子供の親たちがいた。
ソレを眺めるように、シグルスは立っていた。一滴の雨水も受けずに、立っている。
これは、幻影。
これは、幻覚。
土がぬかるみ、空が光る、ひどく嵐の中で、子供たちは男を見つけ、ともに避難しようと誘ったのだろう。
しかし、この光景が一体何を意味するのか――
「――っ!」
子供たちが男を連れて教会に足を踏み入れた、その刹那、雷が建物を直撃した。続いて、すぐ傍に茂る木々にも。
砕き壊れる轟音。
十字架が折れ、屋根が破壊され、倒れかかる大木と瓦礫と狂える炎が、教会も、そこに集う敬虔なる信者やその子供たちをも呑みこもうとする。
だが、そこには《男》がいたのだ。
書物を右の手に、宝玉を左の手に掲げ、《彼》は詠唱する。
純白の炎を打ち払い瓦礫を退けるため、木々が燃え、教会が燃え、人々が燃えようとしたその瞬間を止めるため、《彼》は自ら漆黒の風を召喚する。
子供たちのために、目の前で起こる悲劇を止めた。
そのチカラで、彼らを救った。
なのに。
なのに。
なのに――
人々の視線が凍りつく。
『……悪魔だ……』
最初にその単語を発したのは、神父だった。
やわらかな笑みをたたえていた顔は冷たくこわばり、驚愕と憎悪に歪んでいた。
純白の炎は『彼』がもたらしたもの。
漆黒の風雨もまた、それをあおるためのもの。
けれど、そう、教会の加護が、その信仰が、神の愛こそが自分たちを守ったのだと告げられて。
そして、おぞましき《魔》が踏みいることを神は許さないのだと、神父は言った。
神の奇跡を信じるものたちは、神の愛を説く者の言葉によって、己を救った存在に冷たい刃を向けた。
降りしきる雨の中、迫害と断罪の刃が振り上げられる。
待ってくれ、と言う声はどこにも届かなかった。
腕を掴まれ、髪を引き抜かれ、足を引き摺られ、地に倒されて、《善良なる者》たちが、子供たちの眼の前で暴虐を尽くす。
男は叫んだ。
男は悲鳴をあげた。
頭から、口から、腹から、腕から、心から、至る所から血を流し、傷を受け、痛みに苛まれながら、男は慟哭した。
『それほどに仕立て上げたいというのなら、それほどに魔を演じろと言うのなら、それほどに断罪したいというのなら、いいだろう、望み通りの存在に堕ちてくれよう!』
土と血にまみれた魔道書を這いつくばり、自らの手元に引き寄せて、彼は涙を流し、呪を放つ。
まばゆいほどに黒い光。
絶望の淵で、ぐわりと大きく男の影が歪み、踊った。
「……これは……」
シグルスは小さく呻き、そしてたったいま目の前で展開された光景と、そこに重なる悲劇に衝撃を受ける。
「……守るためのチカラを、持っていたのか……」
子供たちの歓声。
明るい笑顔。
受けた優しさ。
純真。
守りたいと願う、愛しい存在。
けれど、そのために行使した《男》のチカラは、奈落の底に繋がってしまった。
迫害が歪みをもたらす。
弾圧が、悲劇を生み出す。
「正しく生きているのだ、心ある存在だ。なのに歪められ、堕とされる。教会によって堕ちていく者たちがいる。なのにお前たちはなお、教会が振りかざす《聖》を妄信するのか」
「……俺は別に、すべてが教会の言うとおりだなんて思ってねぇよ」
「ほう? だがお前はそうして聖書を持ち、私の前に立っているのだろう?」
「ソレはてめぇが罪を犯したからだ」
「罪か? 罪とはなんだ? わたしの行為が罪であるというのなら、あの日私に為したあの者たちの行為もまた、断罪されるに足るものではないのか?」
憎しみがあふれている。
「愚かだ、人間はあまりにも愚かだ、愚かすぎて憎いぞ! 救ってやったものを、助けてやったものを、教会は、そう、《教会》はこの俺に魔の烙印を押した!」
哄笑と嘲笑を交えながら、かつて善良なる男だったもの、かつて魔導師だった異形が、《司祭》シグルス・グラムナートを視線で刺し貫く。
「救いはすべて神の手によるモノなのか? 願いを叶える力はすべて神のものでなければならんのか? あらゆる恩恵は教会を通してのみ与えられるモノなのか!?」
異形の糾弾は、シグルスの記憶をも刺激する。
幼い日、シグルスはカグヤと出会い、その出会った事実そのものを両親にも村の人々にも秘密にした。
今でも彼女と初めて会った日のことを鮮明に思いだすことができる。
純銀に輝く髪が泉の水をまとってなびく、目に焼きついた鮮烈で美しい光景だった。
一瞬で心を奪われた美しさでありながら、それほどのものでありながら、誰にも知られてはいけないと本能が告げていた。
彼女は精霊を傍に置く。
彼女は、教会の定めた《聖職者》ではない、教会の定めた《聖》ではないチカラによって存在している。
ソレが何を意味し、どこに繋がるか。
カグヤ。
もしも彼女が誰かを守ろうとしたら、もしも彼女が大切な何かのために行動を起こしたとしたら。
彼女もまた、歪められてしまうのか。
彼女もまた、絶望の淵に立たされ、慟哭するのか。
「見えるぞ、若造。貴様の中に棲まうモノが!」
影をまとった異形は、裂けんばかりに口を吊り上げて笑う。
耳を貫く哄笑が響き渡った。
「貴様、出会っているな? 永劫のチカラを手にしたものに出会っているな! 精霊を操り、数多の術を行使する、チカラある存在に出会い、匿っているな!?」
森を、廃墟を、男を取り巻く影がぐわんと大きくたわみ、人型のソレは手に手を取って踊り囲むようにまわりまわる。
シグルスを囲み、踊り、責める。
「何故そやつを見逃す」「この私を《邪》とするのなら、その女もまた《邪》ではないのか?」「ソレは魔女ではないのか」「ソレは火あぶりにされるべく告発された女たち以上のチカラを持っているのではないか」「ソレは教会の定める《魔》ではないのか」「ソレは罪深きものではないのか」
不定形に揺らぎ揺れながら、影は次々に問う。
指摘の棘は、鮮やかな毒を含んでシグルスの全身に突き刺さる。
「エルーカは……あいつは、そんなんじゃねえよ」
「なにもしらんのだな? 何ひとつ気づいていないのだな? 幸せなヤツだ、愚かなヤツだ、哀れなヤツだ、まったくもって貴様はどれほど無知なのだろうな!」
影は口々に責め立てる。
「問わなかったか? 貴様はそやつに《魔女》ではないかと問わなかったか?」「問うたはずだ」「貴様はそやつの存在を秘密にしておるな?」「何故秘密にする?」「何故誰にも明かさずにいる?」「迷っているのだろう、疑っているのだろう、惑っているのだろう、愚かだな!」「惹かれているな、その女に」「司祭でありながら魔女に魂を傾けているな」「愚かだな、若造!」
暴かれる。
見透かされる。
それは途方もないくらいに。
確かにかつてシグルスは一度、カグヤに問うた。
魔女ではないのかと。
彼女は答えなかった。少なくとも否定も肯定も返さなかった。何故否定してくれないとのかと悔しくなったことまで思いだす。
「いま一度問うぞ、若造」
影の中で、鮮赤の稲妻が走る。
「聖とはなんだ?」
漆黒の風が刃となってシグルスの頬や腕や腹を切り裂こうと襲い掛かる。
「魔とはなんだ?」
吐き出された猛毒の瘴気がその傷を抉ろうとまとわりつく。
「神の名の元に罪を作りだす、歪められた権力崇拝者どもが本当に神の代理人になれるとでも思っているのか!?」
だが、そのすべての攻撃を全身で受けながら、なお、シグルスはその場に立ち続け、問いへの答えを探し続ける。
聖とは何か。
魔とは何か。
「チカラはただのチカラでしかない、聖も魔もない、正も邪もない、チカラはチカラ、ただ純粋にそこにあるだけのものだろう?」
男だったモノの腕が、鋭い爪が空を薙ぐ。
「チカラに優劣はあっても善悪はないのだ、若造、覚えておくがいい、諸刃の剣だ、チカラとは行使するたびにリスクを負わせる恐ろしきものだ、聖でも魔でも邪でもなくただそこにあるものだ!」
シグルスの肩に鉤爪の歪んだ指が食い込み、ケモノとも髑髏ともつかない鼻先がつきつけられる。
「だが、教会がソレを歪めるのだ――思い知れ! お前は己の愚かさと教会の浅ましさと罪深さを眼前にさらされるがいい!」
刺し貫く哄笑が牙となってシグルスの喉元に喰らいつこうとする。
『……シグルス』
ふいに、耳元でカグヤの声がした。
すぐ傍で囁きかけられたかのような、そんな錯覚に陥るけれど、彼女はどこにもいない。
それでも、シグルスの意識は彼女を求めた。
8年の時を経てもカグヤはまるで変わらず、自分だけが時を刻んでいる奇妙な感覚。
彼女は永遠を生きているという。
埋めようがないほどの時間の隔たりがカグヤと自分の間には横たわっている。
カグヤ。
自分はカグヤの何も知らない。
ほとんど語ろうとしない彼女の過去に、自ら踏み込むこともできないままに8年の時を過ごしてきた。
惹かれたのは、彼女の笑顔。
カグヤの笑顔。
照れたように笑う彼女が好きだ。
だから。
子供扱いされるのは気にいらないが、ふとした瞬間に哀しげに遠くを見つめる彼女に儚さを感じて、自分が守らなければと思う。
彼女は精霊のチカラを借りて、雨を降らせ、ひっそりと花を育て、実りを与え、村人が餓えて苦しんだり、災害に見舞われることがないようにそっと守っていてくれる。
時には森の外に出て、彼女は誰かを、あるいは何かを、救っている。
彼女の力は、優しさに満ちている。
カグヤ。
だが、その彼女のチカラを知るものはいない。彼女がそうしてチカラを使っていることを知っているものはいない。知らないままに、その恩恵を受けている。
だが、知ってしまったら。
知った時、村人たちは彼女に感謝するだろうか。
教会を訪れた『男』が人々を救うために行使したチカラは、《教会》によって断罪された。
だとしたら、いつか彼女も弾圧される日が訪れるのだろうか。
いつか、森の中でひっそりと過ごす彼女の安寧な日常が壊される日が来たとしたら。
自分はどうするのだろう。
自分は何ができるのだろう。
「予言してやろうか、若造。愚かなる人間、浅ましき教会の木偶よ」
くつくつと男は笑う。
愉悦の笑みをこぼしながら、その手に召喚するのは鮮赤の皹が走る漆黒の刃だ。
「貴様はその女のために命を落とす。貴様はその女のために死に、貴様の死がその女に破壊という名の災いをもたらす存在に変えるのだ!」
「あいつはそんなことをするようなヤツじゃねぇよ」
「するのだ、そうさせるのだ、それほどにおぞましい存在だ、貴様の信じる《聖》が行使された瞬間から、災いは振り撒かれる!」
断罪だ。
男にとって、その予言はまさしく罪の告発なのだ。
だが。
シグルスは聖書に手を置き、どこか苦笑めいたものを口元に浮かべた。
「あいつは、俺のためにそこまでしねぇよ」
彼女が笑う。
彼女が微笑む。
彼女が静かに唇を持ち上げて。
彼女はどこか遠くを見つめている。
彼女の心はどこか遠くの誰かに捧げられている気がする。
手を伸ばしても届かない。
まだ、届かない。
けれど、でも、彼女を守る力がほしいとシグルスは望み、願った。
そこに迷いはない。
そこに穢れはない。
そこに歪みはない。
そこにはただ、彼女への純粋な想いがあるだけ――
「もう、眠れ。てめぇはもう、……眠った方がいい」
はじめてシグルスは聖書を開き、そこに右手を添え、顔を上げ、真正面から《かつて魔導師と呼ばれたもの》を見据えた。
天使の囁き、神の息吹をその身に降りるのを感じながら。
告げる。
「我が魂の聖の有なるをもって、堕ちたる汝の魂に安らかな無の眠りを――」
光が生まれた。
純白の、すべてを塗り替える強烈な白い光が、シグルスの足元から螺旋を描き、波紋となり、そして踊り狂う影を取り込む。
キラキラと光り輝く神のチカラ。
神の守護を受け、神の寵愛を受けた、司祭が謳う神の声。
影が身悶える。
その身を灼かれ、浄化される痛みにのたうちながら、それでも影は、かつて魔導師と呼ばれたモノは、呪詛を吐く。
だが。
白は黒を塗りつぶし。
白はあらゆるものを浸食し。
白はあらゆるものを飲み込んで。
白は、朽ちた教会も、捩れた森も、歪んだ男も、穢れた空気も、ありとあらゆるすべてのものを無に還した。
何も残さない。
跡形もなく、消し去る。
教会に認められたチカラ、白い光、聖なるモノは、歪みを正す代わりに、森に囲まれた教会に棲まう哀しき存在をなかったことにした。
ここはただの、草木のない崖の上。
遠くに海を望むことのできる、背後に森の存在を感じさせる、突き出た岩場でしかなもの。
ここに誰がいたのか、思いださせるものは何ひとつ残っていない。
なにひとつ。
そこに慈悲はあるのだろうか。
わからない。
わからない。
わからない。
だが、男が残した予言、その棘はしっかりとシグルスの胸に突き刺さったままだ。
触れれば、鋭い痛みが走る。
それでも。
「……俺は、あいつを守りきってみせるから……」
彼女を守るために自分は司祭の道を選んだ。
教会の内部に入りこむことで、彼女を救う術を得られると信じている。
彼女のためのチカラ、彼女を守るためのチカラ、彼女の笑顔を見つめ続けるためのチカラ。
そのためのチカラ。
天使が微笑み、神の加護を受けて、行使するこのチカラはすべて、彼女へといつか捧げるための――
「……てめぇの予言なんざ全然あてにならねぇってこと、証明してやるさ」
聖書を閉じ、まぶたを閉ざし、呼吸を整え、黙祷を捧げて。
そしてシグルスは踵を返した。
空が白々と明けはじめ、世界はゆるやかに目覚めの時を迎えようとしている。
*
聖とは何か。
魔とは何か。
正とは何か。
邪とは何か。
愛しい者を守りたいと願う、ソレは聖なのか。
愛しい者を守るために他者を殺める、それは魔なのか。
愛しい者を守るために戦う、それは正なのか。
愛しい者を守るために全てを切り捨てる、それは邪なのか。
教会は神の愛を説く。
教会は神の慈悲を説く。
教会は、では、何をもってして『神の愛』と『神の奇跡』を定めるのだろうか。
*
東の空に光が生まれ、あれほど天を埋め尽くしていた星々は徐々に消えてゆき、いまは明けの明星だけがただひとつ残り輝いている。
真理を求めるモノに啓示を与えるその星に向けて、カグヤは気が遠くなりそうなほどに祈り続けた。
彼の無事を。
彼の帰りを。
ひたすら祈り続けたその耳元に、ふ、と精霊が囁きを落とす。
弾かれたように振り返り、カグヤはそこに彼の姿を認めた。
「……シグルス」
帰ってきた。
だがその姿はひどく切なげで、苦しげで、まるで……
「……なんだか泣きそうなカオね。どうしたの、シヴ?」
笑ってみせる。
わざと、憎まれ口を叩いてみせる。
シグルスはそんなカグヤを正面から見つめ、
「ごめん」
言いかけた言葉を飲み込む代わりに、聖書ごとカグヤを抱きしめた。
彼に、抱きしめられた。
「ちょっと、……シヴ?」
シグルスの肩から、血のニオイがする。
シグルスの髪に、闇のニオイが絡まっている。
シグルスの腕は――熱い。
押し当てられた彼の胸の奥で、鼓動が驚くほど早く打っている。
その音に、自分の鼓動が重なるのを感じた。
心臓が彼と同じ速度になっていくのを、そして肌が同じ温度になっていくのをはっきりと感じながら、カグヤはシグルスの背中に自分の腕を回した。
「……子供みたいね……何だか、はじめて会った頃を思いだすわ……」
何があったのか、とは問わない。
どうしたのか、とも問わない。
返ってくる答えが怖いのかと問われたら、そのとおりだと答えるだろう。
シグルスが司祭となり、そして今夜ひとつの仕事を終えた、その意味をずっとずっと一晩中考え続けていたのだから。
いつか来るかもしれない、別れの時。
シグルスが司祭の正装で、《教会》の人間として、自分と対峙する日を。
自分を《邪》であると断じて、そのチカラを行使する日を。
愚かだった過去のカグヤが犯した罪を知り、断罪者となる日を。
彼が法衣をまとい、聖書を手に、神の名の元に自分と対峙する日が来たら、自分はどうするのだろう。
どうなるのだろう。
わからない。
わからない。
わからない。
それを思うだけで、カグヤの心臓が苦しいくらいに軋んだ悲鳴をあげる。
けれど……
「……しかたないわね」
子供をあやすように優しくシグルスの背を叩き、ゆっくりと彼のあたたかな腕の中から自分を放す。
そして。
「ねえ、シヴ」
静かに微笑む。
静かに、静かに、彼がいつか自分から遠く離れて行くだろう未来を思い描き、胸に鋭い痛みを感じながら、微笑んで。
痛みを堪えるように無言のまま押し黙る彼に、手を差し伸べた。
「シヴ、せっかくだもの。一緒に朝ご飯、食べましょ?」
END