|
|
|
|
<ノベル>
そこは、銀色の鳥籠。
そこは、鳥籠を模した温室。
咲き誇る花もなく、辺りは闇に包まれ、銀のテーブルと銀のイスが置かれているだけの場所。
けれどそこには、一羽の小鳥が囚われているという。
歌も忘れ、飛ぶことも忘れ、眠り続けるその小鳥にまつわるひとつの噂。
それは――
*
極彩色の夜の帳が下りて、喧騒と派手なネオンライトに照らされた街は一層深い《闇》の中に沈んでいく。
レオンハルト・ローゼンベルガーは署内の自席から、職場復帰して間もない同僚と、彼を取り囲むものたちを眺めていた。
「エドガー、調子はどうだ?」
「今夜一晩が平穏でありますようにって、神様に祈っててやるよ」
「くれぐれも無理しないように」
短く長い、研究センターでのカウンセリングとメンタルケアの期間を終えて戻ってきたエドガー・ウォレスに、仲間たちはあたたかい言葉をかけていく。
彼はソレを穏やかな笑みで受け、手を振って彼らを送り出した。
そして。
「今日の当直はレオンと一緒だね。よろしく」
「ああ」
にこやかな笑みのまま、エドガーはレオンハルトのそばまでやってきた。
――目には目を、能力者には能力者を。
刑事部特殊捜査課、DP警官としての務めはある意味非常に明快であり、同時に他者には理解しがたいほどに特殊な環境でもある。
起こり得ないことが起こることが日常。
非日常こそが日常。
例えば何気ない日――満月の晩でもなければ、特別に制定された記念日でも不吉な数字を思わせる日付でもない『何でもない日』であっても、決して平穏は望めないのがこの街であり、自分たちの職業だ。
不穏な呼び出しや連絡、通報なども多い。
平穏な夜など、望むべくもない。
当直の時間に入って一時間もせずに、早くも呼び出しがかかり、レオンハルトは一時的に席を外すこととなる。
こちらからすればほんの数分で済むような案件であっても、呼び出した側にとっては手出しのきかない重大な問題となることもあるだろう。
そんな他部署とのやりとりもまた日常であり、他愛ない当直の夜のひとコマで終わる、はずだった。
しかし。
「何も問題はな――」
戻ってきた瞬間、空気の質が変わっている――咄嗟にそう判断できたのは研ぎ澄まされた感性、あるいは危機回避の本能ゆえか。
レオンハルトはかすかな違和感にほんのわずか眉をひそめ、詰所へ半歩踏み込むのをやめた。
次の瞬間。
ためらいもなく振りおろされた白刃が、レオンハルトの顔面を狙う。
「――っ」
とっさに出た右手が、攻撃をかわす代わりに抜き身の日本刀を握りしめていた。
ふつり、ぽた、ぽたた……
素手で受け止めれば、当然起こるべき現象。血の赤、濃厚な赤の色彩が流れを作り、レオンハルトの指、手首、そして、スーツの袖を汚して床へ、伝い、落ちる。
正面には、たった今攻撃を仕掛けてきたモノの顔がある。
「なんのつもりだ?」
抑揚のない声で、冷静に、至近距離に相手の顔をとらえて問いかける。
「その目をくれないか?」
エドガー・ウォレスでありながらエドガー・ウォレスたり得ない存在が、歪な笑みを浮かべて、囁きかける。
「きれいな血の色だ。君の双眸は煉獄の炎よりも繊細で美しい」
眼鏡の奥で目を細め、彼は嗤う。
「君の瞳が好きなんだ。ずっと手に入れたいと思っていた。今夜は素晴らしい機会を得られた、この幸運に感謝しないと」
ぎりぎりとさらに力で押しながら、彼は告げる。
だがレオンハルトは無言のまま、彼の言葉を至近距離で受けながら思考を巡らせていた。
二重人格の特殊能力者。
温和なエドガー・ウォレスの裏側に潜む存在。
では本来のエドガーは今どこにいるのか。呼び戻すにはどうすればいいのか。この《影》の要求に応えず退けるにはどうすべきなのか。
冷静な分析の視線を注ぎ、レオンハルトは思考する。
だが――
「『愚昧の徒が、分を弁えよ』」
一瞬、炎がレオンハルトの左手から噴き出した。レオンハルトの意志ではない、なのにそれは行使された。
本当に一瞬、視界をわずかに閃かせただけで、紅蓮の炎は消え失せる。
エドガー・ウォレスの《影》は、押し当てていた刀を薙ぎ払うようにして振りほどき、反動でレオンハルトのノンフレームのメガネをはじきながら、後ろへと飛びのく。
軽やかな跳躍は、多くのひしめくデスクやイス、パソコン、私物を一切傷つけず、そして一切を障害としない。
彼は散らかった同僚のデスクの上に悠然と立ち、冷たい好奇心に彩られた視線でレオンハルトを見下ろした。
「面白い芸当だ」
嗤っている。
歪なままに、愉快そうに、くつくつくつくつ、笑みをこぼし続ける。
「まさか素手で受け止めるとはね。少し驚いたが、まあ、でも、面白いものを見せてもらったからよしとしようか」
「……」
「それに、その炎にはとても見覚えがある。さて、どこでだったかな?」
次の攻撃を予期して身構えていたが、相手が仕掛けてくる様子はない。
なぜ、攻撃を仕掛けてこないのか。
《彼》はサイコキネシスを持っているはずだ。
だが、当然行使すべきだろうその能力を駆使してこない、これは不自然だ。
いや、不自然であるというのなら、今この瞬間も自動的に表へ出ようとする自分の中の《存在》の自由さもまた問題だ。
それに対する答えはひとつ、だろう。
「おや?」
《彼》の視線がある一点へと注がれ、その声音に怪訝の色が混じる。
「僕は手加減なく君を切り裂いた。君の手は皮膚が裂け、肉が断たれ、美しいルビー色の血を流していたはずなのに、なぜ止まっているのだろう? ヒーリング能力はないはずだ。いや、そう、そもそもそんな能力があった所で、この状況下で能力は使えない。そう、《アンチサイ》が発動しているからね、忌々しいことに」
なのになぜ君の手の傷はすでに治りつつあるのかと、そう言葉をつづけ、
「君の中に別の存在がいるね? 声が聞こえたよ。聞き覚えのない声だ。でも、ああ、そうだ、思い出したよ、レオン。君の中にいるソレは、以前、別の事件の時に会っている」
そして、触れるべきではない《秘密》を手にしたもの独特の、暗い笑みを深くした。
「ああ、隠し事はいけないな。隠し事は実によくない。君はもう純然たる《人》ではなくなったということをなぜ公言しない? それとも、ヒトをやめた君でも気になるのかい、仲間にバケモノだと思われるのが怖いと、そんなことに怯えてひた隠しにしているのか?」
止め処なく滔々と紡がれていく辛辣な棘を、しかしレオンハルトは顔色一つ変えずに受け止めていく。
何を思うでもない。
何を感じるでもない。
ただ、この状況の打開を考える。
しかし、
「『いつまで斯様な言葉を繰り返す?』」
うるさげに、レオンハルトの口からレオンハルトならざる声が漏れる。
再びその手が、炎を生み出そうとかすかに動く。意識しなければ、集中しなければ、レオンハルトは自身の《炎》を抑えられない。
すべてを塵に返す、この世ならざる炎の制御が甘くなっているのだと認めなければならないことに、ほんのわずか、不都合を感じた。
《彼》にはそれが不快なのかもしれない。
愉しげに饒舌に語り続けるその笑みが、不意にその表情から消え失せた。
ぴたりと口が閉ざされ。
「バケモノめ」
次の瞬間、放たれるのは鋭利な悪意。
「バケモノにはバケモノなりの奉仕の方法があるということだ。君の綺麗な瞳がほしい。君の血のように赤い瞳、君のその瞳は君から離れてなお赤く輝いているのかも確かめたい。抉っても、またすぐに元通りになるんだろう? なら、俺のこの願いを叶えたところでそちらには何の不都合も生じないじゃないか。素晴らしい。さあ、僕に君の瞳を――」
けれど、この心に突き刺さることは何もない。
受け流すだけだ。
しかし。
(レオンを、化け物と呼ぶな――っ)
怒号にも似た《声》は、可聴域を超えた所からまっすぐに発せられた。
すべてを覆す、すべてを打ち払う、ソレは悪意を塗りつぶす強い言葉。
ぐらりと、エドガー・ウォレスの体が揺れる。
意識の消失、あるいは空白の瞬間の訪れ。
人格の、交代。
「エドガー!」
デスクから床へ、バランスを崩し、落ちる寸前で、レオンハルトはエドガー・ウォレスの体を支えた。
とっさに伸ばした腕は、決して軽くもきゃしゃでもない同僚の体を、それでも受け止めることができた。
「レオン……レオン、すまない……」
大きく肩で息をしながら、エドガーはしきりに謝罪の言葉を落としていく。
「『ほう、戻ってきたか。だが――』」
ぶつり。
言葉を引きちぎるように、レオンハルトは取り戻した《能力》によって強制的にソレを自身の中に封じ込める。
一言も発することは許さない。
一切の言葉を、エドガーに向けることは許さない。
内なる世界から戻ってきた今の彼に、あの存在の言葉は猛毒だ。あるいは致命傷となりうる武器だ。簡単に彼の心を砕いてしまうだろう。
そんな真似を、許すはずがない。
「ひどいことを……君を、化け物だなんて、なんてひどい言葉をぶつけてしまったんだ」
エドガーはレオンハルトに支えられ、それでも立つことが辛いのか、ずるずると床に崩れ落ちた。
「……すまない、レオン……レオン……」
「いや、いい。気に病む必要はどこにもない」
無表情に近く、けれどわずかに労りの色を持って、レオンハルトは首を横に振った。
「事実、私はすでに変質している」
そうして、一片の自嘲もなく、感傷もなく、ありのままの事実を無味乾燥な報告書を読み上げるような感慨のなさで応える。
「私はひとつの猛毒を内に封じている。猛毒は、長く触れていればそれ自体も変質するものだ。すでに人ならざる者へと肉体が変じていることを否定するつもりは」
「君は、化け物なんかじゃない」
こちらのセリフを遮るように、エドガーは自分をまっすぐ見つめ、
「どれほど肉体が変わろうと、君の本質は何も変わらない。レオンはレオンだ。俺を仲間として受け入れてくれた、俺の大切な仲間だ」
繰り返し繰り返し、真摯な瞳で訴えてくる。
「レオン、君は何も変わらないんだ……」
もしバケモノと呼ばれるのなら、それは自分の中にあるモノの方だと、人の心をもたない、あの存在にこそ与えられる言葉だと、告げて――
「俺は……今、この瞬間、君を失わなくてよかった……」
そっと微笑むその中に、レオンハルトは一抹の予感ともつかないモノを見出す。
いつか、自分はこの同僚を、やさしい彼の精神と存在の尊厳を守るために、《影》を殺す日が来るのかもしれない。
エドガー・ウォレスという、二つの精神を宿すひとりの人間を、この手にかけてしまうのかもしれない。
同僚を殺してしまうという恐怖に怯え、悪夢に支配されて狂う前に、彼を、この手に。
そんな日の訪れなど未来永劫ないようにと願いながら、それでも、いずれくるかもしれない喪失の予感に、レオンハルトはため息ともつかないため息を小さくひとつ落とした。
ちゅぴり。
ちゅぴり、り、りりりりり……
耳を打つ、それはかすかな小鳥のさえずりだ。ガラスのように澄んだ、透明な歌。透明すぎて儚い、遠い日の記憶のような旋律。
「……んっ……?」
エドガーは軽い酩酊感と浮遊感を覚えながら、ゆっくりと目蓋を上げた。
視界を占めるのは闇色に包まれたガラスの温室。
ガラスの向こうにはいかなる景色も広がらず、ガラスの内側にはただ、自分と、そして自身が座している銀のテーブルといすがあるばかりの、ここは《鳥籠》を模した温室だった。
温室。鳥籠。花のない、植物園。
そう、噂を聞いたのだ。
ここには囚われの小鳥がいるという、その話を聞いて、エドガーは好奇心に駆られた。
「しかし、これは……」
どこをどう歩き、どうやってここへとたどり着いたのか、まるで思い出せない。
導かれたのか。
あるいは、引きこまれたのか。
エドガーは、薔薇のモチーフが刻まれたアンティークチェアから立ち上がり、状況検分をするごとく、ゆったりと視線を巡らせながら歩き出す。
歩きながらも、考えてしまうのは、先ほどの《夢》だった。
夢の残滓はまだ胸に刺さったままだ。
たった今見ていたのは、レオンハルトの視点でもって語られた、レオンハルトの中に封じられているモノと、自分の中に棲まうモノとの対峙の一幕だ。
あの時は何も起きなかった。
あの後も、何も起こらなかった。
銀幕市に実体化し、あそこにいたころとはまた違った非日常の中に身を置いている今も、大きな変化は何もない。
だが、可能性が消えたわけではないのだ。
いつか、自分は同僚たちを殺す日が来るかもしれない。
いつか、自分はいつか同僚に殺されなければならない日が来るかもしれない。
いつか、自分は相手との決別を覚悟しなければならないのかもしれない。
「俺は、いつか」
溜息が落ちる。
しかし。
――運命は変えられる。願うこと、行動することで、変えられることをこの街で学んだはず
再び、小鳥のさえずりが耳元をかすめる。
透明すぎるほどに透明な無色なさえずりに取り巻かれ、浸透するその旋律の内に、ひとつの答えを見出して。
そして。
気づけばエドガーは、《映画の中》の部署でも空っぽの鳥籠でもなく、銀幕市の《民宿みなと》にあつらえたDP警官詰め所兼生活スペースで目を覚ました。
オフィスデスク代わりの食卓テーブルの上には山のような書類が散乱しており、
「……これは……?」
その中にまぎれるようにして、海よりも深く融けそうなほどに濡れた藍の《卵》がひっそりと置かれていた。
「いや、卵じゃない。これは、石……?」
そっとつまみあげ、吸いつくような冷たい手触りを感じながら、障子戸の方へかざして覗き込む。
日差しを受けてきらめくその中に、エドガーは何かを見出そうとするが、しかし、
「どうしたの、エドガー?」
「居眠りか、エドガー? 顔にアトがついてるぜ」
「昼寝なら部屋に戻ったらどうだ?」
「あれか? 疲れ過ぎか?」
「もうすぐ面倒な案件を一個片づけに行くんだからな」
買い出しにでも行っていたのだろう仲間たちの、からかいを含んだ声に瞬く間に囲まれた。
その時初めて、自分の肩に、薄手のブランケットが掛けられていることに気づく。
温かさはここにある。
だからエドガーは、喪失の予感を封じ込めたかのような藍色の石をそっと胸の内ポケットにしまい、
「いや、疲れていたわけじゃないさ。ちょっとした“春眠暁を覚えず”といったところだよ。それで、その大荷物の中には、当然俺の分もあると思っていいのかな?」
そうして仲間たちに、その中にいてなお無言のままのレオンハルトに向けて笑いかけた。
銀幕市というこの魔法のかかった街での日常は、今日も仲間たちと当たり前の顔をして綴られていく。
それを心の底から喜びながら。
その幸福を確かに感じながら。
いつか来る《喪失の日》が、いつかのまま永久に訪れることなどないようにと、そんな予感を抱いていたことすら笑い話にできる日が来るようにと、そう願いながら。
END
|
クリエイターコメント | 《鳥籠》の中にて語られるふたつ目の《夢》をお届けいたしました。 今回舞台は過去(映画の中)であり、また、現在に至るまで《喪失の予感》を抱き続けるシチュエーションでもあったため、異変と気付きと信頼とを意識しつつ、四者の言葉の応酬を重視させていただきました。 役者はふたりであり、同時に四人でもある。 不可思議な鳥籠の中で垣間見た《夢》から続く銀幕市という《夢の中の現実》でも、どうか皆様が幸せでありますように。
小鳥が眠るこの鳥籠へとお立ち寄りくださり、ありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-04-24(金) 18:10 |
|
|
|
|
|