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<ノベル>
そこは、銀色の鳥籠。
そこは、鳥籠を模した温室。
咲き誇る花もなく、辺りは闇に包まれ、銀のテーブルと銀のイスが置かれているだけの場所。
けれどそこには、一羽の小鳥が囚われているという。
歌も忘れ、飛ぶことも忘れ、眠り続けるその小鳥にまつわるひとつの噂。
それは――
*
空は黄昏時を経て、ゆるやかに夜を迎え入れる。
天上に掲げられた月は大きく、鮮やかな冷光を放っていた。蒼すぎるほどに蒼く、白すぎるほどに白く、太陽ほどの熱は持たないけれど、確かな存在感を示す。
昇太郎は事務所からほど近い廃ビルの屋上に佇み、傍らに控える『鳥』とともに、そんな夜の下で終わりの予感に身をゆだねていた。
その身には抱えきれないほどの想いを抱いて。
本来ならばありえないほどの《傷》と《創》と《疵》で覆われているにもかかわらず、朽ちゆく身体はただ一点を除いて一切の傷から守られている。
幾度、生と死を行き来しただろうか。
幾度、この街でも我が身を投げ出そうとしただろうか。
幾度、不死を認められたこの身で、自ら贄となることを選ぼうとしただろうか。
それでも、変わったのだ。
自分は、変わった。
永劫の修羅の道を歩み、他者のために死を選び、他者のためならばいくら傷を負おうと構わないと思い、他者のために半ば投げやり気味に己を扱ってきた自分は、この街で変わった。
いつ終わってしまって構わないと受け入れたはずの命を、そう簡単に差し出してはいけないと考えるようになった。
すべてはこの街のおかげ。
すべてはこの街で出会い、共に過ごしてきた彼――作業着じみたつなぎに軍手、そしてモップを持った、どこか眠たげな友人のおかげで。
「昇太郎」
不意に背後から声が差し込まれた。
「ミゲルも来たんか」
ちょうど今お前のことを考えていたところだと、そう告げるつもりで笑みを浮かべて振り返った昇太郎はしかし、次の瞬間、床を蹴っていた。
「な――っ?」
大きく羽ばたいた『鳥』が、非難を交えた鋭い声を発する。
思わず本能で一歩引いた昇太郎の目の前ぎりぎりを一閃したのは、モップと見せかけた仕込み刀の刃だった。
月の光を反射して輝くその刃の軌跡に、はらりと、前髪数本が空を舞う。
あと数瞬でも反応が遅れていれば、おそらく両目を失っていた。
「なんじゃ、なにを」
「その目はどこを見てんだ、昇太郎?」
仕留め損ねたことを残念がるそぶりも見せず、彼はぐるりと全身で円を描くようにして体勢を整え、そうしてダンスでも踊るように再び剣を振るう。
「ミゲル?」
その彼を追いかけるようにして視界を舞うのは、燐光を帯びたアゲハ蝶だった。堕ちた芸術の神を彩る蝶の群れが、夕闇の中に光の軌跡を生み出し、瞬く。
「ミゲル――!」
「誰かに終わらされるくれェなら、俺がお前を楽にしてやる」
蝶が舞う、月の光がちりばめられる、思わず抜いた昇太郎の剣と振りかざすミケランジェロの剣とが打ち合い、火花を散らす。
訪れた闇の中に描き出されるそのひどく幻想的な景色の中で、ミケランジェロは笑っていた。
その動きに無駄はなく、その動きにためらいはなく、その動きはただひとつの目的を達成するためだけにあった。
「お前を解放するんだ、昇太郎」
金属音が鳴り響く。
いくつもの蝶を引き裂き光の粒子に変えながら互いの剣を交え、月の光を刃に反射させながら互いの皮膚を切り裂いて。
「もうじき夢が終わる、夢が醒める、夢から醒めたお前がどこに還るのか、俺には分からねェが、お前の苦しみが終わるとは思えない」
だから、と彼は告げる。
「誰かのためにお前が苦しみ続けるくらいなら、お前がお前の罪で苦しみ続けるくらいなら、俺がお前の苦しみを綺麗に消し去ってやるよ」
昇太郎の胸に突き刺さるのはミケランジェロが発する言葉そのものではなくて、むしろそれを告げながら見せる表情だ。
笑っていながら、涙を流せずに泣いている。
声も出さずに、慟哭している。
こんなにも激しく、こんなにも切実に、彼は願ってくれるのだ。
鮮やかな笑みをみせながら、こんなにも痛烈に、彼は自分の解放を願う。
昇太郎は己の刀を抜きながら、その刃を本当の意味でミケランジェロに向けることはできない。
前にもあった。前にも見た。前にもこうして彼は、自分のために狂い、自分のために刀を振りかざした。
覚えている、忘れるわけがない、幾度でも鮮明に思い出せる、あの瞬間のやり取りこそがいまの昇太郎を作っているから、だから――
「――っ」
肩から先の腕が片方、血だまりの中に飛沫を上げながら転がった。
昇太郎の右腕が、昇太郎の体から切り離されて、ただの物体へとなり下がる。
噴き出す血の量は、これまでの比ではない。
「もう、耐えらんねェんだ」
片腕を失ってランスを崩した昇太郎の体を、ミケランジェロは捕え、そのまま冷たいコンクリートの床へと叩きつけるように押し倒す。
「ミゲ――っ」
背をしたたかに打ちつける。
思わず呻いた自分に、友人の顔が寄せられた。
「昇太郎……夢が終わるぜ……」
怠惰で面倒くさがりで激情に駆られることなどなさそうな友人が、哀しいくらい幸せそうに微笑みながら、言葉を落としていく。
「夢が終わる。夢が終わっちまったら、俺たちは消える。お前の視界から俺が消えるんだ」
ミケランジェロの両手がそっと昇太郎の首にかけられた。
「どういうことか、わかるか?」
鮮血で汚れた手袋ごしに、彼の温度を感じる。
彼の温度を感じながら、彼の手の中に捕えられた己の首の拍動を感じる。
「つまり、なあ、お前の眼が別の誰かを見る、お前の体を別の誰かが傷つける、お前の命が見知らぬヤツらの贄となる、お前の心が俺の手の届かねェ場所で切り刻まれるってェことだ。お前は修羅に戻る、お前は永劫の苦しみの底でもがき続ける、俺の知らない、俺には行けない場所で、お前が俺を忘れて俺の知らない場所で苦しむってことじゃねェか!」
ふいに口調が変わる。
みしりと、昇太郎の首の骨が軋んだ。
『鳥』が悲鳴じみた声をあげようとする。
『鳥』がいる限り、昇太郎は死なない。
たとえ死んでも生き返ってしまうから、何度死んでも死なないことになっている。
罪を贖い、咎を償い、永遠の修羅の道を進むことこそが存在理由で、存在意義で、それ以外の何物も心に入り込む隙などなかった。
この街に来るまでは。
この街で、安城ミゲルと名乗った彼と出会うまでは。
だが、昇太郎は変わった。
おぞましい異形の天使が群がる中で、昇太郎はミケランジェロと出会った。
鮮血が撒き散らかされ、ガラスの破片が飛び散り、地獄の業火と断末魔が踊り狂うあの場所で、この街でありながらこの街ではない《ハザード》によって生み出されたあの場所で、あの日出会った時から、変化は始まっていたのかもしれない。
あの日出会った時から、こうなることもまた運命づけられていたのかもしれない。
「……のう、……ミゲル……」
ミケランジェロの手の温度が心地よい。
こんなにも激しく己に執着してくれる、こんなにも強く自分だけを求めてくれる、その存在にどうして抗うことができるだろうか。
どうして、受け入れずにいられるだろうか。
こんなにもこんなにもこんなにも、泣きたくなるほどに胸を満たす存在に、どうして……
「……ミゲル……」
自然、昇太郎の口元に笑みが浮かぶ。
愛おしくてたまらない、切ないのにその痛みすらもひどく甘美に感じてしまうほどに、彼の手に己を委ねる幸福を思う。
「……ええよ。お前がそないにまで思うてくれてんなら……えぇんじゃ……このまま、お前の手で、終わって……」
『鳥』が声をあげようとする。大きな翼を広げ、ミケランジェロを止めようとするけれど、その行為を昇太郎は拒絶した。
鳴くなと、呼び戻すなと、『鳥』の干渉を絶対の意思でもって排除する。
『鳥』が鳴けば、たとえ塵になろうとも自分はその中から蘇るだろう。
だが、ミケランジェロの手にかかってなお生き続けるわけにはいかないから、だから呼び戻さないでくれと願うのだ。
ふと見れば、ミケランジェロの瞳の中にもアゲハ蝶が舞っている。自分を映す双眸に蝶の光が瞬いている。
この世ならざる蝶たちはきっとミケランジェロが己の絵筆で生み出したのだろう。
だが、なぜ彼は蝶を引き連れてきたのだろう。
「蝶は……誘いだ、昇太郎。誘いで餞だ。俺たちはこいつらが見る夢の中に溶ける」
幸せそうに、夢見るように、彼は微笑む。
夢見るように、幸せそうに、昇太郎もまた微笑み返す。
力が込められる。
ゆっくりと、息の根を止めるための行為。
確かに自分の手が相手の命を奪うのだと、確かに自分の命が相手の両手によって奪われるのだと、互いの熱を交換しながら感じられる儀式めいた行為。
昇太郎はミケランジェロを映す。
ミケランジェロだけを映す。
届かない、触れられない、永遠にひとつになどなれない、交わらない、叶わない、分かり合えない、その絶対的な境界線を、《死》でならば、踏み越えられる気がして――
だが。
「……俺に……お前を殺せる訳がねェんだ……」
ミケランジェロの笑みが変わる。声が変わる。昇太郎の首を絞めていた鮮血まみれの両手の力からふっと力が抜ける。
「……ミゲ、ル……」
かすれる声で、引きつれた喉を傷める咳の合間に彼の名を呼ぶ。
何かが起ころうとしている、何かが終わろうとしている、その何かが恐ろしくて、昇太郎は不安のにじむ声で彼の名を呼ぶ。
「昇太郎」
まるで怯えた子供を安心させるように、ミケランジェロは笑った。
その瞳に宿る光は清浄な色。狂おしいほどの渇望に揺れるのではなく、愛おしいものを前した静謐で優しい色だ。
ミケランジェロは笑っている。
笑いながら、その手が、剣を握りしめたままの昇太郎の手に重ねられる。
「生きろ、昇太郎」
「な――っ」
昇太郎の目の前で、昇太郎の手に自分の手を重ねて、昇太郎の剣で、ミケランジェロは己のノドを刺し貫いた。
深く深く、恐ろしいほどに深く正確に己を貫かせながら、それでも彼は笑う。
かは……っと、かすかに咳きこむように血を吐いて、それでも満足げな、ひどく幸せそうな笑みを浮かべて。
ミケランジェロの体が、ゆっくりと昇太郎の上に倒れ込む。
「ミゲル……、なあ、なんでこんなことになっとんのか、俺にはわからんけぇ、……なあ、なんでこんなことになったんか……説明してくれんのか……」
からん。
抱きしめようとした腕から掻き消えるように、ミケランジェロはフィルムに変わる。
硬質な響き、うつろな金属音、ソレを伴って、ミケランジェロの亡骸は、ただ一巻のプレミアフィルムと化して床に転がり。
そして。
昇太郎からあふれ出た血だまりの中で、静かに止まった。
「……ミゲル……なんでこうなるんじゃろう……」
抱きしめ損ねた片腕の空虚さに戸惑う。
「なんで、そっちを選ぶんか、分からんけぇ、教えてくれ、ミゲル……ミゲル……」
胸が痛い。
胸が、痛くて痛くてどうしようもなく痛くて――
「なんで“いっしょに消えよ”言うたくせして、ひとりで逝って、ひとりで生きろというんじゃ、ミゲル――!!」
絶望が、悲鳴に換わる。
ちゅぴり。
ちゅぴり、り、りりりりり……
耳を打つ、それはかすかな小鳥のさえずりだ。ガラスのように澄んだ、透明な歌。透明すぎて儚い、遠い日の記憶のような旋律が、まるで終演の合図であるかのように『舞台』に流れて――
「――っ」
さえずりによって、昇太郎は目を覚ます。
伏していた体をテーブルから引きはがすようにして、痛みと重みを覚えながら顔を上げた。
「……これは……」
ほとり…と、自分の瞳から頬を伝い、己の手の甲へとこぼれおちた雫に驚く。
頬を伝った一筋の涙。
泣いている自分がいる。
愛した『神』を殺しても、感情に大きな揺らぎは起きなかった。
常に傍らにいた『鳥』の死の瞬間すらも、自分の中にこれほど大きな漣は起きなかった。
なのに。
夢を見た、夢を見ていた、だがその夢のあまりに痛烈な痛みに引きずられて、自分は夢から醒めた今も涙を流している。
「……ミゲル」
失いたくない、傍にいてほしい、できることなら隣で、ソレが叶わなくともどこかで、彼が幸せであればいい。
愛おしい。この世のあるすべてが愛おしく、やさしく、かけがえのないもので、護りたいと願い、護るために戦うのながら、この身を惜しいとは思わないのに。
なのに、昇太郎はたったひとりの存在に執着する。
『もしお前に何かあったとしても……たとえ俺の前からいなくなろうが消えちまおうが、その時ァ俺が必ず見つけ出してやる』
彼は誓いをくれた。
神殺しの修羅に、堕ちた神が約束をくれた。
だからだろうか。だから、自分はそこに救いを見出し、同時に執着を覚えたのかもしれない。
これまで過ごしてきた永遠とも言える時間を塗り替えるほどに。
「これを……ヒトは《奇跡》と言うんじゃのう」
起こるはずのない奇跡が起きて、日常は非日常に変わり、やがて非日常は日常となり変わる。
こんなにも強く大きく心を占める存在に出会えてしまった。
世界が色を変えた。
昇太郎は小さく微笑み、そして、ゆっくりと席を立つ。
帰らなければならない。
彼の待つ場所へ。
立ち上がり、改めて周りを見回してみる。
ここは何もない空間だった。
銀の格子にガラスがはめ込まれた鳥籠、大理石の床、ただ一脚しかないアンティークのテーブルと自分が座している椅子、それ以外には一切が存在し得ない場所だ。
だが、ここには何かが満ちている。
満たされている。
「ああ……そういうことなんじゃろうなぁ」
ふいに、自分がここを訪れた理由を思い出す。
噂を聞いたのだ。
終わりを望む小鳥がいるのだという噂を。
歌うことを忘れ、夢見ることを忘れ、そうしてただ眠り続けながら、自分を解放してくれる存在を待つような、そんな小鳥がいるのならば、その闇から救いたいと願った。
だが。
夢から醒めた昇太郎は思う。
小鳥は望んでここに囚われているのだと、そう思えてしまったから、だからたった今見た夢だけを胸に、自分はここから去ることを選ぶ。
「……のう、俺の考えは間違ってるんか?」
どこにもいない、けれどどこかにいるのだろう小鳥に向けて、そっと声をかける。
返事は返ってこない。
しかし、その想いを肯定するかのような小鳥のさえずりが、どこからともなく聞こえた気はした。
昇太郎は天井を振り仰ぎ、ふわりとやわらかく笑いかけ、そうして一歩を踏み出した。
「……なんじゃ……?」
一歩を踏み出したと思った、その瞬間、昇太郎の目の前に現れた景色は、ひどく見慣れたものだった。
当然だ。
片付いているとはあまり言えない生活感にあふれたこの場所は、《掃除屋》の看板を掲げた事務所の一角であり、自分が居候させてもらっている部屋でもあるのだから。
「立ったままで転寝でもしたんじゃろか……」
眠いわけではないのに、意識はかすかなまどろみに捕らわれているようにも思える。
だが、ソレもすぐに消えた。
視界の正面に、イスにもたれかけ、眠りこけるミケランジェロの姿を見つける。
その有様に、昇太郎はつい口元を緩めた。
堕ちた芸術の神は、無意識下であっても創り出すものに己が本分を映すものらしい。
ソレはヒトの体から溢れる鮮赤によって描きだされる狂気の彩ではなく、ただ無造作に置かれたカップであったり衣類であったりペンキ缶であったりするだけなのだが。
彼が隣にいるという奇跡。
本来ならばすれ違うことすら不可能なもの同士が、互いのために誓いを交わせるという奇跡。
自分はいま幸福の中にいる。たとえこれが夢だとしても、夢の終わりを恐れる必要もないくらい確かに自分は幸せなのだ。
「……のう、ミゲル」
眠りこけている友人はどんな夢を見ているのだろうか。
その夢を妨げるのではなく、その眠りが安らかであることを願い、昇太郎は彼のために何か掛けるものを探そうと動く。
途端。
こつん……、と、足先に触れて転がったのは、卵のようで卵ではない、《卵》を模した小さな小さな石だった。
「なんじゃ?」
不思議な面持ちで拾いあげ、昇太郎は小さく首を傾げながら目の前にソレをかざす。
ワインレッドに限りなく近い、とろりとした赤の色彩は妙に艶めかしくもあり、温かそうでもあった。
命の色なのだと言われたら、その通りなのだろうと納得してしまう。
流れる血潮と同じほどに紅い。
「命の重み言ぅんかのぅ」
赤い卵を懐にしまいこむ。
そして、
「ミゲル」
昇太郎はようやくみつけたブランケットを友人にかけると、そのまま腰を下ろし、彼が身を預けるソファに自らの背を預けた。
間もなくやってくる《別れ》の瞬間まで、自分は彼の隣にいたい。
できることならこの夢の日々が終わった後も、彼と再び出会い、彼と共に過ごしたい。
また同じ場所でともに同じ夢をみたい。
そう願いながら、昇太郎は友人の隣でまぶたを閉じる。
そんなふたりの眠りを見守るかのように、ひらりふわりと一匹の蝶がふたりの間を舞い、やがてガラス窓の向こう側へと透けて飛んでいった――
END
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クリエイターコメント | 《鳥籠》の中にて語られる十一個目の《夢》をお届けいたしました。 この街でなければ出会うことのできなかったおふたりが抱える執着ゆえに生まれた悲劇、毒となるほどの情、そして夢を経て向き合った自身の願いを《鳥籠》への映させていただきました。 ありえそうで決してあり得ないだろう《終わりの瞬間》を蝶に変えて、あふれる想いとともにお届けできていれば幸いです。
小鳥が眠るこの鳥籠へとお立ち寄りくださり、ありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-06-30(火) 18:00 |
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