――カグヤは、魔女なの?
そう彼女に尋ねてから、3年の月日が経っていた。
人知れず森の小屋に住み、人が好きで優しくて、そして神秘的。
村の人達と違う雰囲気をまとい、それ故になのかずっと1人で暮らしていて。
村の人達が彼女を見たら、きっと言うだろう。彼女は魔女であると。
本当は、そうじゃないと思うけれど。それでも、彼女のことを知られるわけにはいかないから。
だからシグルスは密かに森を行く。
決して人に見つからないように、有りもしないはずの罪で彼女が裁かれることがないように。
その日は、少し長居してしまった。
あまり帰りが遅くなるのはまずいが、彼女とはなるべく一緒に居たいのだ。
時々、彼女曰く「小さなお友達」を見ることはあるけれど。それでも全く寂しくない事なんてないはず。強がりな彼女は決して口にしないだろうけれど。
まだ守れるほど強くはないけれど、せめて笑顔の時間は増やしたい。
なもので、話が弾んでしまうと、彼女の笑顔が見られると、うっかり時間を忘れてしまうのだ。
アオォーン。
突如聞こえた鳴き声が、シグルスを現実に引き戻した。
狼の遠吠え、それも近い。
既に月の出ている時間、早く戻らないと祖父達が心配する。それに何をしていたのか問いつめられるとまずい。今の自分には、村の人達から彼女を守ることは出来そうにない。
アオォーン。アオォーン。
魔女は危険だと教えられた。悪魔と契約し、人々を貶める存在だと。
だったら、彼女は違う。村人のために身を隠しながら手助けなんて魔女がするわけないし、自分を優しく迎え入れてくれたり、ましてや身を挺して守ってくれたりするわけがない。
逃避だな、と思った。今はそんなことを考えている場合じゃない。
さっきのは、呼び声。シグルスはいつの間にか、狼の群に四方を囲まれていた。
――ここは危ない場所よ。
そういえば、彼女もそんな事を言っていたっけ。本当だ、ヤバいよなこれは。
どうにかしようにも、狩りに慣れた獣の群に隙はない。
こんな所で――。そんな考えが頭をよぎったまさにその時。目の前の地面が、爆ぜた。
宵闇月の隙間から 魔女は地上を笑ってる
幾多の不幸を産み落とし 涙の踊りで地を踏ませ
嘆きを象り鍋に入れ 黒い湯気は死を招く
魅入られ招かれたくなくば 惑わしに決して揺れぬこと――
小さい頃に幾度となく聴かされた歌が頭の中でこだまする。
それは、言い伝え。あるいは誘惑に負けて悪事に走らないためのお守り。
何故今その歌が浮かぶのか。それは、目の前で行われていることがあまりにも圧倒的だから。
突如現れた土の大男は、シグルスを襲おうとしていた狼達をこともなげに蹴散らしてゆく。腕を振れば近くの数匹がはじき飛ばされ、指さされた先の地面が爆ぜて離れた数匹を吹き飛ばす。
その力は、異端。恐るべきは、魔の力。そして、振り返ったそこにいたのは――カグヤ。
そう、それはカグヤだった。でも、それは今まで見たことのない表情で。
強大な力を持つ精霊を使役し獣たちを攻撃する姿は、初めて精霊の力を目の当たりにしたシグルスには刺激が強すぎて。
「魔女」――その言葉が、シグルスの頭にふと浮かんだ。
気付いたときには、辺りは静まりかえっていて。
シグルスの瞳は、優しく微笑むカグヤの表情が映し出されていた。
「大丈夫だった? 狼の鳴き声が集まっていたから慌てて出てきたのだけれど、何とか間に合ったみたいね」
そこにいるのはいつものカグヤ。優しくて、人が好きで、今も震える自分を気遣ってくれて。
そう、そこにいるのはいつもの彼女のはずなのに。
密かに想いを寄せる相手の知らない一面に驚いた? それもあるかもしれない。
守りたい相手の実力に少しだけ自信が揺らいだ? それもあるかもしれない。
でも、ここまで怯える自分の心は、震える指先は、それだけでは説明が付かない。
そこにあるのは、生きてきた年数とほぼ同じ時間聞かされてきた魔女への恐怖。
悔しかった。不可思議な力を目の当たりにしただけでここまですくみ上がる自分は、なんて小さいのだろう。守りたい人にあんな表情をさせる自分は、なんて情けないのだろう。
揺らがないと、誰よりも信じると決めていたのに。
それに彼女は自分のために駆けつけてくれたのに。
彼女の瞳に映る自分は、今何をしている? さっき、頭に何が浮かんだ? どうして彼女の微笑みに、寂しさが含まれているのだ?
「ちょっと、大丈夫? 何処か怪我でもしたの?」
思わず涙をこぼしたシグルスに少し慌てるカグヤ。どうして、彼女はこうも優しくできるのだろう。
「べ、つに、大丈夫だ、から」
涙で言葉が詰まる。お礼だって言いたいし訊きたい事だってあるのに、頭の中では色んな思いがぐるぐる回って口まで辿り着かない。
「もう、どこが大丈夫なのよ」
呆れた口調で麻のハンカチを差し出してくれたカグヤだけれど。
「怖かった、よね」
その一言は、今のシグルスにはとても重かった。
何も言えなかった――。
天井を見上げながら、シグルスは今日の事を振り返っていた。
彼女の寂しげな微笑みが、声が、頭から離れない。
もう遅いからと帰るようにとシグルスに促し、森へと戻っていく彼女を振り返る事が出来なかった。
どうしてこうなってしまったのだろう?
彼女への想いが揺らいだわけじゃないけれど。だから余計に、明日から会いに行っていいのか不安になる。知ってしまった以上、今まで通りに接する事が出来るかと問われると答えに詰まる。それで彼女を傷つけてしまうのならば、それはとても辛い。
でも、だからといってもう会いに行かなかったら。自分が離れたら、彼女はどうなる? 優しい彼女の事だ、きっと自分を責めるだろう。
じゃあ、どうすればいい?
翌日、シグルスはいつものように小屋を訪ねて。
「あ、シグルス。来たんだ……」
「カグヤっ」
「な、何?」
「俺に……魔法を教えてくれっ」
少し戸惑い気味に出てきたカグヤに、そう切り出した。
「……どうして?」
「どうしてって、知りたいんだよ。カグヤの事も、カグヤの力の事も」
どれくらい考えただろう。あるいは夢の中でまで考えていたのだろうか。
知ってしまった事は、もう無かった事には出来ない。ならば、ちゃんと知ればいい。
知識がないから怯えてしまうなら、学べばいい。それが何かを理解できれば、怯える事はないはずだから。
「そう」
「だから、お願いだ。頼む」
一晩考えた末の決意。しかし。
「……だめよ」
カグヤの返事は、つれないものだった。
「どうして」
「魔法は、そう簡単に触れていい分野ではないわ」
「それくらい分かってる」
「分かってないわよ。あなた、私みたいな生活をしたいの? いえ、それどころじゃないわ。村中の、下手をすればもっと多くの人に命を狙われる事になるのよ」
「それでも……それでも、知りたいんだ。嫌なんだよ、こんなの。俺は何も知らないで、それでカグヤの力に怯え続けるなんて、そんなのは嫌なんだ。だから――」
そう簡単には教えて貰えないだろうとは思っていた。でもそう簡単に諦めるわけにもいかない。他ならぬカグヤのためなのに、どうして分かってくれないんだ。
言葉を紡ぐたびに気持ちは熱くなる。このまま教えてくれるまで食らいついてやる、それくらいの気持ちだった。
「……シグルス・グラムナート!」
「っ!? カグヤ?」
それくらい、強い気持ちだったけれど。強い口調でフルネームを呼ばれ、はっとなった。
「あなた、少し冷静になった方がいいわ。魔法を学ぶ事がどういう事か、考えて言ってる?」
「くっ」
そこにいたのは、昨日の森のカグヤ。今まで知らなかった、魔法に関わる存在としての顔。
「気持ちは嬉しいわ。でも、だからこそ安易に踏み込んで欲しくないの」
熱意が急速に冷めてゆく。何かが決定的に欠けていた。魔法を学べば少しは彼女のことを理解できると思ったけれど、じゃあそもそも魔法って何だ?
「少なくとも、今のあなたには教えられないわ。ちょっと薬草を摘んでくるから、その間に考えてみて」
そう言って小屋を出てゆくカグヤに、シグルスはまたも何も言えなかった。
魔法を学べば近づけると思っていた。だから、魔法を学ぶ事の意味なんてこれっぽっちも考えていなかった。
小屋に残されたシグルスはしばし呆然としていたが、それではいけないと再び頭を働かせた。
今の理由では駄目、だからって正論で押せばいいわけでもない。問われているのはきっと、シグルス自身の覚悟だから。
シグルスが魔法を学びたいのは、彼女の事をちゃんと知って怯えたりしたくないから。
でも、それはどういう事だろう?
魔法の事を知らずにいたから怯えたけれど、学ぶ事自体が村ではいけない事だ。
そこに、何があるのだろう? 自分は何を知っていて、何を知らないのだろう?
「どう、落ち着いた?」
「ああ」
戻ってきたカグヤはハーブティーを入れながらそう訊ねてきた。
「魔法の事、ちゃんと考えたのね」
「考えたよ。だから改めて頼む。カグヤ、魔法を教えてくれ」
そう、いっぱい考えた。ここで諦めたら、きっとこれ以上彼女に近づけなくなるから。
「どうしてか、理由を聞かせてくれる?」
にわかに厳しい表情になるカグヤ。でも、今度はちゃんと言える。
「俺は、知らない事が多いから。カグヤの事もそうだし、どうして魔法が疎んじられているのかも、そもそも魔法が何なのかも知らない。だから、知らないといけないんだ。知らなくても生きていけるとは思うけれど、知る事で傷つく事もあるかもしれないけれど。それでも、知らない事で誰かを傷つける事があるのなら、俺は知る方を選びたいんだ」
それは、精一杯の覚悟。カグヤにしてみればきっと素人の域を出ないと思うけれど、それくらい魔法を教えて欲しいという気持ちは伝わって欲しい。
言い切って、カグヤの瞳をじっと見つめる。すると、カグヤは厳しい表情をすっとほどいて。
「……ふふっ、合格よ」
そう、微笑みながら言ったのだ。
「え、じゃあ」
「そこまでの覚悟があるなら、教えてあげてもいいわ。でも言っておくけれど、魔法に関しては厳しいわよ?」
「ああ、望むところだ」
認めて貰えた。それが嬉しくて、シグルスの表情もほどける。
「それと、今言った気持ちを忘れないこと。本質を見失えば、道を誤る事になるわ」
ほんの少しだけ、その時カグヤの表情が曇った気もしたけれど。すぐにいつもの表情に戻ったから、気にしない事にした。
「あ、それと。昨日は怖がらせてごめんね」
「こっちこそ、助けてもらっておいてお礼も言えなくてごめん。それと怖かったのは狼だからな」
「ふーん、本当かなぁ?」
「な、なんだよその目は」
「さーて、何でしょう」
気付けばお互い目を合わせて、どちらからともなく噴き出していた。
そう、これが2人の日常。シグルスが守りたいカグヤの幸せ。
そしてそのために、この日から2人の間には魔法という新たな日常が加わったのだった。