★ 月の落つる暗寧の底にて 〜異聞・雨〜 ★
クリエイター高遠一馬(wmvm5910)
管理番号96-4271 オファー日2008-08-27(水) 23:20
オファーPC 刀冴(cscd9567) ムービースター 男 35歳 将軍、剣士
ゲストPC1 理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
ゲストPC2 月下部 理晨(cxwx5115) ムービーファン 男 37歳 俳優兼傭兵
ゲストPC3 十狼(cemp1875) ムービースター 男 30歳 刀冴の守役、戦闘狂
<ノベル>

般若は経の名にして苦海をわたる慈航とす。しかるにねためる女の鬼となりしを般若面といふ事は、葵の上の謡に、六条のみやす所の怨霊行者の経を読誦するをききて、あらおそろしのはんにや声やといへるより転じて、かくは称しにや。
/今昔画図続百鬼より抜粋


 
 霧のような細かな雨の降る初秋の晩も更けいった頃、まちの外れの橋に女の霊が姿を見せるのだという噂がある。都市伝説的な、とも言えるそれによれば、現れる女は細身の身体を見事な織りのなされた和服で包み込んでいるのだという。
 向かう先も戻る先も杳として窺えないような濃霧の中、女は橋の中央ほどの場所の隅で膝を折り、ひっそりと泣いているのだそうだ。
 女を無視してその横をすり抜けてしまう事も出来るらしいが、けれど、そうすると再び橋の始まりに戻ってしまう。霧が出ている間はそれを延々と繰り返すはめになり、そこから抜け出すにはいつ消えるとも知れない霧の晴れるのをひたすらに待つか、あるいは女に声をかけるかの二択しかないらしい。
 ”らしい””〜なのだそうだ”。――そう、どれもが確証のない、ひどくあやふやな噂に過ぎない。けれど、噂が生じるにはその元となる現象も存在していなくてはならない。
 現に、その噂が流れ始めてからというもの、行方をくらます者の数が地味ながらも増えている。また、その橋の近くでは無残な遺骸となって発見される者たちの数も少なくない。
 辛うじて皮一つで身体と繋がっている首。それは鋭利な刃物などで斬られたものなどではなく、例えば獣や何かの牙や……あるいは歯。そういったものでぐずぐずに噛み千切られた状態に近い。血と臓物と汚物と。そういったものをぶちまけた状態で見つかる被害者の大半は若い男、もしくは女。
 橋のたもとで半狂乱気味になっているところを保護された少年は、どうやらバイク仲間が無残な末期を迎える現場を目撃してしまったらしい。精神に衝撃を受けた彼から得られる証言では、それはなんとも非現実的な作り話のようなものでしかなかったのだけれども。
 ――そう、けれど。
 けれどもこのまちは特殊な魔法の下にある特別なまちだ。
 非現実的で作り話にしか思われないような証言であっても、決して頭ごなしに否定は出来ない。
「女の鬼が出たんだ、あの橋に! 鬼があいつらを喰ったんだ!!」
 例えそんな内容のものであったとしても、だ。


 ★ ★ ★

 
 降っては止み、止んでは降り始めるという秋雨も二日ばかり続いた。
 その日の午後遅く、月下部理晨(カスカベ・リシン)は親しくしている刀冴(トウゴ)と十狼(ジュウロウ)の主従が住む古民家の敷地内に足を踏み入れた。
 市内の賑わいを後にした頃にはまだ強い雨がアスファルトを鳴らしていたが、古民家が見える位置にまで着いた頃には雲間から薄い陽が射しているのが見えるほどになっていた。
 湿った土と草花の匂いの中を進み、古民家の主の名を口にしようとした矢先、庭の端から十狼が顔を覗かせて理晨を検めて微笑んだ。
「ほう、理晨殿」
 言いながら視線を理晨の周りに向けている。
「理月ならいねぇよ」
 先手を打つようにそう言い放ち、理晨は十狼が手にしている大きなカゴの中身に目をやった。カボチャや大根、水菜。どれもたった今採ったばかりなのだろう。雨雫のついたそれらは見るからに瑞々しい色をたたえている。
 理晨の言葉に、けれど十狼はほんのわずかに眉を動かしただけで、表情には大きな変調を浮かべはしなかった。微笑みを浮かべたままゆったりとした歩幅で歩き進め、ほどなく理晨の隣を過ぎてようやく足を止める。そうしてカゴを置いて横目に理晨の顔を見やった。
「理月殿がこの場におられぬのは、見ずとも知れること。――理晨殿、今日はひとりで遊びに参られたか」
 若がお喜びになられる。十狼はそう続けつつ頬を緩め、井戸水をすくいあげて野菜の泥を落とし始めた。
「遊びに来たんじゃねぇけど」
「ほう? ならば如何様な?」
 心なしか口重くそわそわとしている理晨に気付き、十狼が野菜を洗う手を休ませたときだった。
「おう、十狼。客か?」
 空腹に耐えかねたのか、刀冴(トウゴ)が家の中から顔を覗かせ、そうして理晨を見つけて満面の笑みで頬を緩ませた。
「誰かと思えば、理晨じゃあねぇか。ちょうどいいや、こっち来いよ。一緒に呑もうぜ」
 理晨を手招きしながら声をかけ、刀冴は手にしていた猪口をひらひらと揺らしてみせる。十狼は刀冴に小さく会釈をし、夕餉のしたくにとりかかろうと踵をかえした。そうしてふと足をとめて肩越しに理晨を振り向き、わずかに首をかしげて口を開けた。
「そういえば、先刻の問いへの応えをいただいておらぬな。理晨殿、如何様な用事がおありか? 若と酒を交わすために参られたにしては」
 十狼の言に、理晨はふと視線をはずし、両手で拳をつくって握りしめる。浮かべた表情の変化を見てとったか、天人の主従は互いに視線を交わした後にそれぞれ理晨の傍へと歩みを寄せた。
「どうした、理晨」
 刀冴が声をかける。理晨は銀色にひらめく双眸を足もとに落とし、何事かを躊躇しているような面持ちを浮かべていた。
「――理晨殿」
 十狼が静かに問う。「よもやと思うが、理月殿に関わるものではなかろうか」
 訊ねた十狼の声は静かで穏やかなものだった。が、そこには否応なく相手から応えを引き出そうとする、揺るぎない強さも含まれている。
 理晨はしばしの間そのまま視線を足もとに落としたままでいたが、やがて顔をあげて十狼を、刀冴を見据えた。
「理月がいなくなった」
「理月が?」
 刀冴が眉をしかめ、十狼は表情を崩すことなく、手にしたままでいたカゴを静かに下に置く。
「一昨日の昼に理月の部屋に寄ったら、あいついなくてさ。……別に珍しいことでもねぇし、っつうか俺もふらっと寄っただけっつうか。……だからなんとも思ってなかったんだけど」
 しかし、理月の不在はその後も続いた。理月の自室の電話にかけても携帯にかけても一向につかまらず、ふと覚えた小さな不安を胸に、理晨は理月の行方を捜し始めたのだ。
「部屋にも何度か行ったし、悪ぃなって思ったけど留守電も聴いてみた。あいつが行きそうなカフェとかも全部あたってみたし、……でもどこにもいねぇんだ」
「どっか出かけるとか、そんな話はしてなかったのか?」
 刀冴が理晨と十狼の顔を順に見ながら訊ねる。それに対し、理晨は小さく首を横に振り、十狼はいくぶんか難しい顔をつくった。ふたりとも心あたりはないらしい。そう判断し、刀冴は首をこすりながら低く呻き声をあげる。
「なんか、また依頼でも受けたんじゃねぇのか」
「だと思うんだ。……でも」
 そう。理月はもしかするとただ単に仕事をこなしに行っているだけかもしれない。それを逐一報告してよこす必要はないのだし、理月の行動のすべてを理晨が把握しておかなくてはならないといういわれもない。
 けれど――。
 理晨の胸にじわりと広がる例えようのない不安は、理月の足取りがどこからも途絶えているのを確認するごとに色を濃くしていた。その反面、理月の笑顔ばかりが鮮やかに思い起こされもする。陽だまりに包まれたような、安寧にくるまれたやわらかな笑顔。あれは理月がこのまちで出逢い手に入れた、かけがえのない存在たちによるものなのだと、理晨はこれまでに幾度となく確信してきた。
 そこにはむろん、今自分の眼前にいて理晨の言葉を真摯に聞いてくれている刀冴や十狼という存在も含まれている。彼らのおかげで、あれほどまでに絶望の底に追いこまれていたはずの理月が再び笑顔を取り戻せたのだ。
「……貴殿のどこかが、理月殿の危機を感じ取っておるのだな」
 刀冴と理晨のやり取りを静かに聞いていた十狼が、そこでようやく口を開けた。鈍色の光彩を得た銀の双眸が、まっすぐに理晨を見据えている。理晨は十狼の目を捉え、肯いた。
「俺なりに探ってみた。……あいつの部屋になんか残ってねぇかとか……ここで作った情報網なんかもさんざん」
「それで?」
 刀冴が理晨の言葉の先を促す。理晨はちろりと目をあげて刀冴を見、悔しげな表情を浮かべてかぶりを振った。
「……そうか」
 眉をひそめ、刀冴は理晨の後ろに控えている十狼の顔に目を向けた。
 理晨にとって理月がどれほどに大切な存在であるのかを、刀冴は(きっと十狼も)深く理解できているつもりだ。理晨がいま抱いている不安や焦燥、そういったものはたぶんはかりしれないものだろう。けれど、刀冴にとっての理月もまた、無二の、かけがえのない存在だ。血脈のつながりも義兄弟の繋がりも持たない理月だけれど、刀冴にとっては兄弟と呼ぶにふさわしい相手なのだ。
「じゃあ、まずは理月がいまどこにいんのか、見つけねぇとな」
 十狼の反応を待たず、刀冴は己の意識を研ぎ澄ませた。
「若……!」
 十狼が一瞬焦りのような表情を浮かべたが、刀冴はそれを諌めるような視線をぶつけ、十狼の言動を制する。
 次の瞬間、理晨は、眼前の刀冴の眼が白金に色を変えていくのを見た。その瞳孔の奥で銀の焔がちらちらと揺らいでいるのがわかる。
 次いで周囲を満たしたのは耳が痛くなるような静寂。
 古民家の屋根や枝葉から滴り落ちる雨の名残りが打つ水音も、夕暮れていく世界を撫でる風のうたも、鳥たちの声ですらも鳴り止んでいる。ただ、刀冴が口にした言葉だけが理晨の耳に触れた。
「俺が今すぐに見つけてやる」


 ★ ★ ★

 水が土を打つ音が聞こえて、理月はゆっくりと瞼を持ち上げた。
 ――眠っていたのだろうか。あるいは気を失っていただけかもしれない。
 ……どっちでも同じか。
 腹の奥底でそう呟いて、頭を軽く振る。と、全身に激痛が巡り渡った。
 持ち上げたはずの瞼は思うほどに快適な視界を得てはおらず、むしろまばたきすることさえもが気だるくすら感じられる。
 どこか、夢を見ているような感覚。ぼんやりとする頭の片隅で、理月は自分がいま置かれておる状況がどういったものであるのかを思い起こした。

 理月が新たに仕事の依頼を受けたのは数日前のことだった。
 銀幕市の賑やかな場所から外れた、古い家並みの続く場所。そこには古い時代には用水路としても使われていたのだという川がある。
 その川には老朽の進んだ木造の橋が架かっていて、いつからかそこに”鬼”が住み着いたのだという。
 艶やかな着物姿の美しい女の姿をした鬼は、その橋の真ん中ほどで小さくうずくまり、しくしくと泣いている。袖で顔を覆い隠しているとはいえ、その女が美しいということは誰しもが”理解できる”のだという。
 あまりにも哀しげにむせび泣く女を捨て置いて橋を進めば、なぜか、渡りきれたはずの橋の入り口に戻されているのに気がつく。そうして幾度となく同じことを繰り返し、やがてなにかに化かされたかのような感覚とともに朝を迎える。
 ――そう、鬼は夜にあらわれる。それも、深い深い濃霧とともに。
 中には女を捨て置けずに――あるいは邪心をもって、女に声をかける者もいる。そういった者たちは、そのまま、鬼によって無残な姿に喰いちぎられるのだ。
 もっとも、それならば女に声をかけずにいればいいのかというと、必ずしもそうとも言いきれないらしい。濃霧の中、橋を渡りきれず、そのまま姿を消してしまう者も決して少なくないのだという証言もあるほどだ。現に、興味本位でその橋に向かうと言い残したまま行方不明になっている者も少なからずいるらしい。
 喰い殺された者はその死骸を現実の世界へと戻される。時には生きた証言者が戻されることもあるが、彼らはいずれも目の前で仲間を喰い殺されているせいもあってか、精神に異常をきたしている場合がほとんどだともされている。
 橋に出る鬼の話は、すなわち、限りなく事件性の強い、けれどもどこか信憑性に欠ける、都市伝説的な位置付けをされている。
”その橋で消息を絶った者たちの行方を捜してきてほしい”
 理月のもとにまいこんだ依頼は、つまりそういう内容のものだった。

 理月は、湿気と、おそらくは長い歳月によって侵食されたのであろう、古い腐った柱に繋がれた自分を検めた。腐ってはいるものの、それでも、容易にどうにか出来そうな柱ではない。体格のいい男が両腕をまわせば辛うじて抱え込むことが出来そうなほどの太さをもっている。
 しかも。
 理月は虚ろな視線をうろうろと移ろわせながら周囲に気を配る。――が、それも長くは持続しない。すぐに全身がひどく疲弊し、神経が集中することを放棄するのだ。
 それでも記憶できている。茅葺の屋根を戴いた、小さな、木造のほったて小屋のような建物。湿気が強く、呼吸することすら躊躇するような臭いが満ちている空間。
「げ、ぎょぎょぎょぎぎぎ」
 形をすら成せていない叫び声が腐敗した空気を震わせた。同時に水しぶきがひとつふたつ跳ね上がり、理月の頬について流れる。理月はうっそりとした目をもう少しだけ開いて、水しぶきがあがった方に視線を向けた。
 そこには和服姿の女がいた。赤い花を散らせた着物を着くずし、細く白い肩を露わにしている。黒々とした髪は背でひとつにまとめられ、その華奢な手にはもぎとられたばかりの人間の腕が握られていた。
 女の足もとには今にも絶命しそうな風体の若い男が転がっている。すでに両足をもがれ、片腕も失われていた。女にもぎとられた腕は、おそらく、男に残されていた四肢の名残りだったのだろう。
 陸にうちあげられた魚のようにビチビチと痙攣している男は、とうに正常を手放していたようだ。口には血を混ぜた泡を吹き、頬を大きく歪め、哄笑しているかのような表情を浮かべている。
 理月はこれまでにも同じような末期を歩んだ人間を数人見てきている。そうして、次にああなるのは自分なのかもしれないという確証をも持っていた。
 全身をめぐる血のほとんどを吸われ、体力も気力もほとんど削りとられている今となっては、それから逃れる術は皆無に近いのかもしれないとも思う。
 
 橋で女と出会ったとき、理月は迷わずに女に声をかけた。振り向いた女は顔に般若の面をつけており、素顔は窺えなかった。
 刃渡りの長い鎌を両手に持った女は、膝を屈めた理月に向けて躊躇せずに襲いかかってきた。兇刃を避けることができたのは理月だからこそだっただろう。それほどに迷いのない行動だった。
 けれど女を押さえ込もうとした矢先、ほんの刹那、理月の意識を奪い縫い止めたのは、耳に触れた”声”だった。
 聞こえるはずのないその”声”に意識を捕られた瞬間、女がふりかざした兇刃が理月の肩に食い込んだのだ。

 ――あの声は、
 女が餌食の腕を喰らい悦楽に浸っているのを見ないよう、理月は再び瞼を伏せる。今すぐにでも女を斃し、もしもまだ囚われている人間がいるのならば彼らを救い出したい。けれど、今の自分ではおそらく動くことすらままならないだろう。
 ――あの声は、どこから聞こえてきたんだったか
 思い出そうとしても記憶はずいぶんとおぼろだ。低くくぐもった笑みを含んだものであったことは確かなのに。その声が何を告げたのか、鮮やかに憶えているはずなのに。
 ――――思い出せない
 自分の無力が憎い。自分はこれほどまでに弱い存在だっただろうか。
 ああ、でも。
 ――それでもまだ死ねない。ここから逃れ、犠牲者を救い、そうして、
 そんなことを考える余地のある自分を、理月は口の端だけを歪め嘲笑った。

 ★ ★ ★

 覚醒領域というのだという。
 目の前で展開された天人の能力というものを、理晨は初めて目の当たりにした。十狼が言うには、その能力を押し広げることによって刀冴は理月の居場所を知るのだという。
 確かに、ほどなく、刀冴は理月を”見つけた”らしい。何を言うでもなく真っ先に走り出した刀冴を十狼が追い、それを追いかけるかたちで理晨もまた走り出した。が、走る速度もまた天人たりうるものなのだということか。瞬く間に遠くなっていく刀冴の背を見つめて目を見開いた理晨の傍らで、十狼が小さく頬を緩めた。
「若はすぐに前後を忘れてしまわれる」
 言って十狼は足を止め、天空を仰ぎみた。つられて足を止めた理晨もまた同じように空を見る。十狼の、よく通る声が風にのって空にのぼる。そうして辺りは一息に夜の暗色に沈められた。
 否。
 十狼の声に応じて現れた巨大な黒竜がそこにいた。両翼を広げて空を覆っている。黒竜が落とす影があまりにも大きく、そのために辺り一面が一息に暗く翳ったのだった。
「さあ、参ろう」
 烈しい風を伴い降り立った黒竜に触れながら振り向いた十狼に、理晨は小さなため息を落とした。
「あんたらって……」
 めちゃめちゃだな。
 そう言いかけた声を飲み込む。
 それよりも今は理月のもとに向かうのが先決だ。
「……ああ」
 理晨はそう応え、十狼に続いて黒竜に手を伸べた。 

 ★ ★ ★

 時おり、女が何者かと会話しているのが聞こえる。そのたびに薄く意識を揺り起こし、重い瞼を持ち上げて、その相手を検めようと試みるのだが。
 粗末な造りの引き戸が低い軋みをあげている。風が吹いているのかもしれない。――それを確かめようにも、すべての音が遠い夢の中で響いているかのようだ。果たしてどこからどこまでが夢で現実なのか、その境目すらもあやふやなのだ。
 けれど、と、理月はふと断ち切れてしまいそうな意識を奮わせ、力なく唇を噛む。
 あの声だ。
 橋の上、突然降ってきた、あの。
 女は号泣しているらしい。強く嗚咽する声がする。そうしてそれを宥めているのか――いや、違う。
 耳に触れる細かな音に意識をとどめる。それは男の声だった。どこかで耳にしたことのあるような、……それとも、そう思えるのも気のせいだろうか。
 男の声は女を決して宥めているわけではなかった。薄く嘲笑めいたものを含み、まるで言い聞かせるような口調で、呪詛のように繰り返し囁いている。
 虚ろな視界を持ち上げて男の姿を探す。それはひどくあっさりと見つかった。
 全身を黒い装束で包み込んだ男。その顔も黒い頭巾のようなもので覆われている。女は床に崩れ、男はその傍で静かに佇んでいた。
 囲炉裏がある。小さな火が焚かれ、ちらちらと暗い灯が闇を揺らしている。その火影に照らされて、時おり何かがひらひらと閃いているのが見えた。それは男の指先から伸びているようだった。
 男は、たぶん、理月が自分を見ていることを知っている。そんな気がした。布で覆われているためもあって、その表情を窺い見ることはできない。が、目があったような気がするのだ。
 ――あなた様も、もう、用済みですかねぇ
 低く笑みを含んだ声がそう告げている。女は強く嗚咽するばかりで、応えているらしい声は形を成していない。
 ――もうすぐあなた様を終わらせる方々がここへおいでになりますよ。良かったですねェ。あなた様が御子を産まずとも、あなた様みずから御子のもとへ行けるんですから
 嗤い、女の上にかざした両手を振るう。
「……あんた」
 ほとんど無意識に、理月は口を動かしていた。口中がひどく渇いていて、声を放つたびに痛みがはしる。
 男がこちらに顔を向けた。
「あんた、……用済みって……なんだよ」
 口を動かす体力すらも危うい。身体中から血液や水分の大半が失われているのかもしれない。少し気を抜けば容易く意識は深い泥の底に沈んでしまいそうだ。
「わかんねぇけどさ……その女も……理由は知らねぇけど、どっちにしろすげぇいっぱい……殺してきたんだろ。……でも」
「あなた様は、以前、あっしの失敗作を終わらせてくださいましたっけねぇ」
 男の声が応える。理月は言いかけた言葉の先を飲みこんだ。
「……失敗……作?」
「春頃でしたかねぇ。あっしが捨てた人形をひとつ、壊されましたよねぇ」
 言いながら、男はくつくつと嗤う。嗤いながら指を動かし、そこから伸びていた――おそらくは糸のような何かを火影の中へ一本一本放り込んでいた。
「春……」
 呟き、ぼんやりとする意識を懸命に揺り動かす。そうしてほどなく、理月は目を見開いた。
「あの……女」
 脳裏に浮かんだのは、まだ桜が綻ぶ前の時節だった。薄紅色の椿が咲いていた。女は椿の赤を吸い上げたような唇をしていた。脂をささねば四肢が動かぬと、罪も縁故もない人間たちを殺めていた。
 主に捨て置かれたのだと、嗤っていた。
「あんたが……あの女の」
 呟いたそのとき、嗚咽していた般若面の女が突如として気狂いじみた笑い声を張り上げた。糸のようなものはもうすべて焔に焼かれて失われたらしい。
 男の手から解放されたのだと、なぜか、そう思えた。
「これも失敗作でやんした。……どうにも、あっしには弟ほどには人形を造りだす器用はないようで」
「あんた……! あんた、なんで彼女を……そいつを捨てるんだ……!」
 声が枯れそうだ。
 男は火影の揺らぎにあわせてゆらゆらと揺れ、そのままふっと闇の中に溶けこんでしまいそうに見える。
「なぜ、と問われますかい」
「なんでそんなに簡単に、そいつらを……!」
 春先に会った女も、いま目の前で気狂いじみて嗤う女も、もちろんどちらも赦し難い罪を犯している。そうするに至った経緯はどうあれ、罰せられてしかるべき存在だ。
 だが。
 男は小さく嗤っていた。理月の言葉がどうしようもなく愚かだとでも言いたげに。 
「理由なんざありやせん。……まぁ、しいて言うなら、退屈しのぎ、でやんすかねぇ」
「退屈……!?」
「ところで、あなた様の御心にも、ぽっかりとした虚無がございやすねぇ。――どれほどに愛され必要とされても、決して消えることのない、……深い深ァい穴のような虚ろが」
 男の指が理月の頬を撫でる。ひやりとした、温度の感じられない指だ。
「あなた様のような御方を糸でくくれば、あるいは良い人形ができるんでやんすかねぇ」
「……なにを」
「あっしはねぇ。このまちが嫌いなんでやんすよ。弟もそうだったんでやんすかねぇ。あっしやあなた様のような者も、そうでない者も、みんながみんな、死んでしまえばいいんですがねぇ」
 言って、男はくつくつと嗤った。そうしてぐにゃりと大きく揺らぎ、――あるいは喋りすぎた理月の視界が揺らいだのかもしれないが、ともかくも、闇に溶け込み消えてしまったのだった。
 残された女が発狂したように辺りのすべてを壊し始め、囲炉裏の中の焔が小屋に燃え移り、黒い煙が一面に広がりだす。
 女は鎌を手に理月の傍に歩み寄り、激しく嗚咽しながらそれを振りかざした。
 抵抗する術をすら持たない理月は、いま自分の眼前に押し迫っている死を見据えながら、頭のどこかで懸命にそれから抗う術を模索する。
「俺は、生きて、帰らなくちゃいけないんだ」
 呟き、女を見据える。
 大きくなった焔が小屋の中を強く照らし、そこここにあるものを理月の視界に映し出した。
 手作りのものであるらしい産着、湯浴みのための小さな桶、でんでん太鼓や手鞠。
「あんた……」
 言いかけた、その時。

 十狼が召喚した黒竜は瞬く間にまちの中心部を越え、鄙びた川の傍、すすき野の中の掘っ立て小屋の上空に着いた。
「ここでござろう」
 言って、十狼は竜に合図を送る。黒竜は大きな両翼で強い風を巻き起こしながらすすき野を目指し、地鳴りと共に降り立った。
 ほどなく刀冴もまた現れ、自分よりも先んじて着いていた十狼と理晨に小さな笑みを向けるとすぐ、目指す小屋の引き戸に手をかけようとした。
「若!」
 が、それはすぐに十狼によって制される。
「止めんな、十狼!」
「火の手が中で広がっております。迂闊に開ければ勢いを強めてしまうやもしれません」
「だったら火を消せ、十狼! 今すぐにだ!」
 小屋の中に理月がいるのは間違いない。どういった状態でいるのかも知れないのに、そこで万が一にも炎を暴発させてしまうわけにはいかない。
「御意」
 刀冴が咄嗟に口にした無茶な命に、けれど十狼はあっさりと肯いた。片手を持ち上げると、それに合わせたかのように川の水が空を目指して立ち上がる。
「理月ははずせよ」
「御意」
 肯き、手を振り下ろす。
 水は龍のようなうねりを見せながら小屋を目指し、茅葺を貫いて内部に降り注いだ。同時に刀冴が引き戸を蹴り破って侵入し、帯刀していた明緋星を抜き構え持つ。
「理月!」
 続いて乗り込んだ理晨は、刀冴の肩越し、柱に縛りつけられぐったりしている理月の姿を捉え見た。
「理月!」
 繰り返し名を呼びながら理月のもとに走り寄る。十狼が繰った水は一滴ですらも理月を汚してはいない。が、誰の目にも明らかに弱り青ざめたその風貌から、理月がこの場所で何がしかの害悪にさらされていたことは容易に知れた。
「理月、こいつだな!」
 後ろで刀冴の声がして振り向いた理晨の目に、ずぶ濡れになり、腹のあたりを両手でかばいながら悲鳴をあげている女が映った。おそらくは血で染められたのだろう、赤い柄の着物を身につけている。顔には般若面をつけ――否、その顔そのものが般若を思わせるものと変じていた。
「こいつがおまえを!」
 刀冴が明緋星の切先を女に差し向けると同時、女の周囲を取り囲むようにして、ずぶりとした泥が湧きあがる。それらはすぐに小さな人間の形を形作り、すなわち何体かの赤ん坊の姿を造り上げたのだった。
 赤ん坊たちはぐずぐずに崩れながらもよたよたと歩き、刀冴の足にしがみ付いてキャアキャアと明るい笑い声を響かせた。女はその赤ん坊たちに気がつくと懸命に手を伸ばし、泣き喚いている。
「刀冴さん!」
 叫び、自分の足にしがみついてきた赤ん坊――その形を形成しようとしている何かを睨みつけ、蹴り上げる。蹴り上げられたそれは瞬間土の塊のようなものを宙に撒き散らし、そうして消えた。
 刀冴は、しかし、それに向けて剣を振り下ろすことに躊躇した。それが赤ん坊の形をしているだけのものであろうことは理解できても、滅することができない。赤ん坊たちは刀冴の足をよじ登り、腰の位置にまで達していた。
「こいつらは偽モンだ、刀冴さん!」
 理晨は言いながら刀冴の身体にしがみついているそれらを叩き殴り、落とす。落とされたそれらはやはり土の塊へと変じて消えていく。
 女が悲鳴をあげながら宙へ手を伸ばし、消えていく赤ん坊らの行方を追いかけている。そうして憎々しげに理晨を睨みつけ、鎌を振り上げて憎悪を叫んだ。
 
 ふわりとやわらかな感触を得たのに気がついて、理月はゆっくりと目を開けた。
「理月殿、気がつかれたか」
 そこには安堵の表情を浮かべた十狼がいて、理月は思わず目を瞬かせた。
「――十狼、さん」
「若も理晨殿もおられる」
 言われ、示された方に顔を向ける。
 刀冴が女を斬り、斬られた女は乾いた音をたてて一巻きのフィルムへと身を変じさせていた。
 理晨は気味の悪い笑い声をたてる暗い影の塊を蹴り上げ、それらを一蹴している。
 ――あの男の姿は、その気配すらも残さずに消えていた。
「刀冴、さん」
 刀冴の名を呼ぶ。呼ばれた主はすぐに理月に顔を向け、一瞬後に安堵の表情を浮かべた。
 ――言わなくては。……あの男のことを。
 そう思うが、皆の顔を見て安心しきったのか、意識がふつりと途切れて落ちた。

 ★ ★ ★

「黒ずくめの男」
 十狼が顔をしかめる。
 人形を使う、黒ずくめの男。それには確実に覚えがある。だが、あれはもうとうの昔に消えたはずだ。
「例の人形遣いってやつか」
 刀冴が訊ね、十狼は眉をしかめたままで肯いた。
「弟、って言ってたんだ。……自分は弟ほどには器用じゃないからうまく人形を造れないって」
「イカレてやがる」
 理月の言葉に、間をおかずに理晨が吐き捨てる。
「ヒトを操ってヒトを殺すとか。ここが湧いてんだ」
 続けてそう言い放ち、理晨は頭を強くかきむしった。
「しかし、いずれにしても聞き捨ててはおけぬ話」
 十狼の静かな声が、場に静寂をもたらす。四人は押し黙ったまま、あの掘っ立て小屋にあったもので唯一残ったもの――手鞠に目を落とした。
「残ったのが手鞠ってんのも、皮肉なもんだな」
 刀冴が独り言のように呟く。
「たぶん、あのひとは子供がほしかったんだと思う。……でもたぶんそれがかなわなくて、それでおかしくなったんだ」
 理月が続け、十狼が目をすがめた。
「その男の足取りを追わねばなるまい。……あの人形遣いに関わりがあるにせよ、贋者であるにせよ」
「ムカつくしな」
 理晨が続けたのを耳にしながら、理月はふとんの上でそっと目を伏せた。 
  
 あなた様のような御方を糸でくくれば、あるいは良い人形ができるんでやんすかねぇ

 男が残したその言葉は、どうしても三人には明かすことができないままだった。
 知られてはいけない。
 あの人形が言った通りに、あるいはあの男が残した通りに。
 自分の底にある虚ろな混沌は、他の誰に知られてるわけにもいかないのだ。

「理月? 痛むか?」
 理晨に名を呼ばれ、理月は伏せていた目を開けて笑った。
「大丈夫だ。――ありがとう」
   

クリエイターコメントお届けが遅くなりましたこと、まずはお詫びいたします。大変にお待たせしてしまいました。
今回のオファー文には、今後わたしが展開していこうと予定しているシナリオに触れる部分も含まれておりましたので、タイトルはあえて異聞、という扱いにさせていただきました。まだ本編も出してないのに異聞かよというツッコミが聞こえてきそうですが。

秋雨の夜の、うっそりとした空気を描けていればと思います。またその中にあって、皆様の深いご縁、そういったものをきちんと書けていれば幸いに思います。
公開日時2008-10-15(水) 18:20
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