★ 【慈雨の季節に】邂逅・灰空抱擁譚 ★
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
管理番号102-3631 オファー日2008-06-25(水) 22:56
オファーPC 月下部 理晨(cxwx5115) ムービーファン 男 37歳 俳優兼傭兵
ゲストPC1 太助(czyt9111) ムービースター 男 10歳 タヌキ少年
ゲストPC2 片山 瑠意(cfzb9537) ムービーファン 男 26歳 歌手/俳優
ゲストPC3 十狼(cemp1875) ムービースター 男 30歳 刀冴の守役、戦闘狂
ゲストPC4 刀冴(cscd9567) ムービースター 男 35歳 将軍、剣士
ゲストPC5 ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
ゲストPC6 理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
ゲストPC7 ヴァールハイト(cewu4998) エキストラ 男 27歳 俳優
<ノベル>

 1.日常・不思議の町で

 午前八時。
 昨日から降り続いていた雨は、今は止んでいるらしい。
 水分をたっぷり含んだ灰色の雲が、六月の空を覆っているのもまた事実だが。

 そんな朝の、とあるマンションの一室でのことだ。
 強い水音が浴室を満たしていた。
「ったく……」
 余計なものなど何ひとつない、しなやかに引き締まった、滑らかな褐色の身体を冷たい水に打たせながら、月下部理晨(かすかべ・りしん)は浴室の壁に向かってぶつぶつと愚痴をこぼしていた。
 非生産的だ、などと言ってはいけない。
「俺んちはヒルトンでもハイアットリージェンシーでも銀幕ベイサイドホテルでもねぇっつーの。何で家主が自分の仕事を中断してまでサービスとかいうふざけたもののために駆け回らなきゃならねぇんだ……?」
 愚痴りながらシャワーのコックを捻り、水を止める。
「あーくそ、昨日のうちに、もっと色々調べたかったのに……」
 眉根を寄せたまま、乱雑に身体を拭き、手早く服をまとう。
 エスニックな絵が描かれたTシャツと使い込まれたジーンズ、そして手首に黒革のブレスレットという出で立ちは、理晨の、銀幕市でもハリウッドでも、場合によっては戦場ですら変わらないスタイルだ。
「んで今日は市内観光かよ……そんなもんひとりで行けっつぅの。俺をなんだと思ってんだあのセレブ様は」
 コットンのタオルでがしがしと頭を拭きながら文句をこぼす、理晨の不機嫌の理由は、つい三日前に日本へやってきて、月下部宅に当然のように居座った、押しかけ居候にある。
 映画『ムーンシェイド』で共演して以来親しい(と、理晨本人は思っているが、向こうが理晨のことをどう思っているのかは正直不明だ)付き合いを続けている彼、俳優としての名をヴァールハイトという男は、三日前の未明頃、連絡も寄越さずに来日するや否や銀幕市へ直行し、まるでそれが真理や法律でもあるかのように自分の荷物を理晨のマンションへ運び込むと、自分が百年来のこの部屋の主だとでも言うようにすっかり寛いで、あれやこれやと理晨を使っては欲求を満たしているのだった。
 お陰で、勝手気ままに銀幕ライフをエンジョイしていた理晨のフラストレーションは溜まる一方だ。
 昨日も、調べ物をして早めに寝たかったのに深夜というか夜明け前まで付き合わされ、五時には起きて活動を始めるつもりがこの体たらくだ。自分の思うように動けないというのは、どうにも歯痒い。
「ぅおら、そこのくそジーク! また勝手に何やって……って入れてんじゃねぇよそんなデカいもん!? 邪魔で仕方ねぇだろうがよ!?」
 4LDKという、日本という国の土地事情に則って考えれば、ひとり暮らしという意味ではかなり広い、しかし海外にお住まいのセレブの皆さんからすれば猫の額のようなマンションのリビングへ理晨がずかずかと戻ると、
「何を言う、広い画面で観てこその映画だろうが」
 ヴァールハイト、本名を略式でジークフリート・フォン・アードラースヘルムという、長身痩躯の、驚くほど美しい男は、居心地のいいチェア(ちなみに本人の持込品だ)にゆったりと腰かけて、100インチはあろうかという超薄型TV、いつの間に持ち込まれたのかすら判らないそれの画面を見上げていた。
 確か、昨日理晨が眠りに就いた時にはなかったはずなのだが。
 ちなみに、上映されているのは、FT映画『ムーンシェイド』の第二作目、漆黒の傭兵の過去が語られる章だ。
 最新鋭の技術を駆使して作られているTV本体は絵画の額程度のすっきりとした厚さで、武骨さや圧迫感はないが、壁一面をその画面が覆っているとなると話は別……というか、あまりに大きすぎて目がチカチカしそうだった。
「ちょ、おま、俺がこないだ買ったばっかりのヤツはどこやったんだよ……!?」
 こちらに来て初めて受けた対策課の仕事の報酬で手に入れた、32インチの薄型プラズマTVの姿がどこにも見えず、あれで料理番組を観るのが俺の楽しみなのにっ、などと、顔や職業に似合わないことを言いながら問うと、ヴァールハイトは詰まらない話を聞かされたような、どうでもいい、とでもいった表情を浮かべた。
「ああ、あのミニサイズのか」
「ミニとか言うな! 俺にはジャストサイズだっ!?」
「……あれなら、このTVを搬入させた時に持って行かせたぞ、邪魔だったからな。欲しい奴にくれてやれと言っておいたから、今頃誰かの手に渡っているだろう。……いや、あんな小さくてみすぼらしい代物では、誰も欲しがらないかもしれないが」
 当然のように言われて、理晨の額に青筋が浮かぶ。
「ああああああアホかおまえええええええええええッ!?」
 普段の、飄々とした理晨しか知らぬものが見たら目を剥きそうな絶叫を放ちつつ、ヴァールハイトの首を絞めにかかる理晨だったが、億以上の金を一夜で軽々と動かすセレブ様はまったく動じておらず、彼は心底不思議そうに首を傾げているだけだった。
「なんだ、何をそんなにカリカリしている? ああ、排卵日か?」
「俺に卵巣があってたまるかボケッ! いやまぁそれはさておき、32インチを小さくてみすぼらしいとか、日本の住宅事情に手をついて謝れ、あと家電メーカーに土下座しろッ!」
「……俺が頭を下げるのは先祖の墓の前でだけだ」
「俺が言ってんのはそういう意味じゃねぇだろうが――――ッ!?」
 もう嫌だコイツ、とへこたれそうになりながらヴァールハイトの肩を掴んでがくがくと揺さぶるが、天然セレブ様には堪えた様子もない。
 とにかく、ヴァールハイトと理晨とでは、それぞれにおける一般常識の位置が違いすぎるのだ。むしろそこは、ヴァールハイトと庶民では、と置き換えるべきなのかもしれないが。
 理晨は、生まれ育った環境や生業こそ特殊だが、経済的にも感情的にも一般人そのものだ。セレブとかゴージャスとかラグジュアリーなどと言った言葉とは、まったく無縁な場所に生きている。
 それだけに、この三日間でヴァールハイトが繰り広げた無意識のセレブぶりには恐れ戦くしかないし、恐ろしい勢いで疲労させられた。そして何度指摘してもまったく判ってくれないヴァールハイトが面憎い。
 そもそも、俺はなんでコイツと付き合いを続けてるんだろう、と、唐突に素朴かつ根源的な疑問が浮上し、思わず黙り込んだ理晨の腰に、ヴァールハイトの腕が回される。
「……何をそんなに怒っているのかは判らないが」
「いや、そこは判れ。頼むから」
 抱き寄せられつつも突っ込みは忘れない。
 ヴァールハイトには通じていないようだったが。
「せっかく半年ぶりに逢えたというのに、お前は嬉しくないのか、理晨?」
 椅子に腰かけたままで理晨を引き寄せ、ヴァールハイトが、アイスブルーの双眸を細めて見上げてくる。
 普段は飄々と、かつ淡々としているくせに、こういう時ばかりは直球のヴァールハイトに、理晨としては溜め息をつくしかないし、これだからたちが悪いのだ、とも思う。
 当然、嫌いな人間のわがままを許せるほど、理晨は寛大ではないのだ。
「嬉しいっつっても嬉しくねぇっつっても、俺の扱いに変化がない気がすんのって、気の所為か?」
「気の所為だ」
「うわー嘘臭ぇ断言……」
 大仰な溜め息をついた理晨が、まぁ嬉しくねぇわけじゃねぇけど、と答えようとするよりも早く、ダッシュボードに置かれた携帯電話が高らかに鳴り響き、理晨はあっさりとヴァールハイトの腕を振り解いてそちらへ歩み寄る。
 実は、案外自分の方が酷な扱いをしているかもしれない、ということには、一切思いが至らない理晨である。当然、腕を振り解かれたヴァールハイトが、普段の彼を知るものが見たら驚愕のあまり失神するのではないか、という珍しさで、ちょっぴり切なげな表情をしていることにも気づいてはいない。
「はいもしもし……って、ああ、あんたか。――どうだ?」
 電話の主は懇意にしている情報屋だった。
「ああ、ああ。そうか……判った、ありがとう。謝礼は明日にでも振り込むよ」
 再度礼を言い、通信を切る。
「仕事か?」
「ん? ああ、対策課で受けた奴な。賊か何かのメンバーで、悪役会と揉め事を起こした男を捕獲しろって依頼だ。居場所が判らなくて、ずっと探ってもらってたんだが……ようやく見つかったらしい」
「ほう」
「ってことで、俺は行って来る。悪ぃけど市内観光ってのはなしだ」
 趣味で蒐集したサバイバルナイフの中でもお気に入りの一本と、お気に入りのハンドガン、チェコスロバキア製の名銃Cz75 SP-01とを仕込みながら理晨は言う。
「誰を連れ込もうが、何をしようがお前の勝手だが、俺が帰って来た時まさに濡れ場、ってのだけは禁止だからな! いかに温厚な俺でもさすがに堪忍袋の緒が切れるから、そこだけ遵守しろよ!?」
「……お前は俺を一体なんだと思っている」
「あ? そんなの決まってるじゃねぇか、タチの悪い変態ブルジョワジーだろ。あ、でもお前の家系って元々は貴族だっけか。んじゃ性悪変態ブルーブラッドでいいや」
「……」
 身も蓋もない理晨の言いようにヴァールハイトが沈黙する。
 恐ろしく弁の立つヴァールハイトを、珍しく言い負かしたことに満足感を覚え、理晨が機嫌よく出て行こうとすると、がしっと腕を掴まれた。
「なんだよ、俺は忙し……」
 振り向くと、ヴァールハイトは、胡散臭いほど晴れやかな、満面の笑みを浮かべていた。
 当然、相当な勢いで怯む理晨である。
 十も年下の人間に情けない、と言われるかもしれないが、それに相当する扱いを日々受けているのだから当然だ。
「仕方がない」
「え」
「家主のお前をひとりで働かせるのも申し訳ないことだしな、その仕事とやらを手伝ってやるとしよう、ありがたく思うといい」
「は? お前が『申し訳ない』とか鳥肌が立つぜ……って、いや、どっちかってーとここで大人しくしててくれた方がありがてぇっつーの」
「……無論、代価は支払ってもらうがな。厳しく取り立てるから、覚悟しろ?」
「何が覚悟しろだくそジーク! 人の話を聞こうぜ、ひとまず!?」
「さて、そうと決まればぐずぐずしているわけには行くまい」
 お前と出歩くと人目につくから嫌なんだよ、という理晨の主張を無視してヴァールハイトが立ち上がる。
 理晨は頭を抱えそうになった。
 ――そもそもが自分ルールでのみ行動する男なので、すっかりその気になっているヴァールハイトを止めることなど不可能に近い。
 ということは、今日一日、この天然セレブ様と一緒に、ヴィランズの追撃と捕縛に精を出さなくてはならないのだ。
 ヴィランズの捕縛よりも、ヴァールハイトの守りの方が大変な気がして、
「俺が一体何をしたってんだ……ッ」
 魂の底からの声を絞り出す。
 とはいえ、実は、割と自業自得な部分も含む理晨の不幸ぶりである。
 呻きつつも、やるべきことは、変わらない。

 窓の外では、雨がまた、ぽつりぽつりと降り出し始めていた。



 2.日常・雨もまた楽し

 それは、理月(あかつき)が実体化してから迎える二度目の梅雨だった。
 街角の大きな時計は、午前十時を示している。
「風情のある季節だよなぁ」
 傘を差して歩きながら理月が言うと、
「そうだな、俺、雨の日のにおいって、すきだ」
 彼の頭の上に陣取った仔狸の太助(たすけ)がうんうんとうなずく。
 しっとりした空気の質感と、空や雲の風合い、風の運ぶ土の匂い。
 そんなものが、ふたりに、郷愁を思わせる、懐かしい何かを届けてくれる。
「んじゃあかっちー、これからどこいくんだー?」
「ん? いや、太助がいるならどこにでも」
「ああ、うん、そう言ってもらえんのはうれしいけどな。正直なとこ、まがおがこえぇよあかっち」
「え、そうかなぁ? だって、本当のことだしなぁ」
 心の底からの言葉に、俺ってほんとうはつっこみキャラじゃねぇんだけどなぁなどと太助が呟いているのが聴こえたが、理月にはそれすら幸せだ。仔狸に裏拳で突っ込んでもらったら死ねるとすら思う。
 しかし理月の、デフォルトとでも言うべきそんな反応、そんな喜びは、どうやら一般的には普通ではないらしく、周囲からは馬鹿だ馬鹿だと呆れられている。その度にそんなことねぇって、と否定しているが、理月が言ったところで信憑性があるかどうかは微妙だ。
「あー、うん。んじゃあかっち、ちょっと行きてぇとこがあるんだけど、つきあってくれるか?」
「おう、もちろんだぜ。どこに行くんだ?」
「ついさいきんできた和小物屋さんなんだけどな、これがすげーかわいいんだ。そこで売ってたきんちゃくを、ばあちゃんにプレゼントしてぇなっておもってさー」
「おお、いいんじゃねぇの? ばあちゃん、きっと喜ぶぜ」
「えへへ、そうかな」
「絶対そうだって。同じこと、してもらったら、嬉しいだろ?」
「ああ、うん、そうだよな。してもらうのも、嬉しいよな」
「――よし、んじゃその小物屋に行って、ばあちゃんへの贈り物を買って、そんで昼飯にすっか」
「そだな、そうしようぜ。なに食おう? 俺、なんでもいいけどなっ」
「俺も美味いものならなんでもいいや。あと、美味いデザートが出るとこなら。……あ、そういや太助、今日って『楽園』ランチの日じゃねぇ? 今日は確かトルコ料理とかいうのが出るらしいし、行ってみるか?」
「おおお、わるくねぇな。でも、こんでるんじゃねぇかな」
「あー、そういやそうだな。まぁでも、行くだけ行ってみようぜ?」
「ん、そうしよう。よし、あかっち、しゅっぱつー!」
 理月の頭の上に陣取った太助が、手綱よろしく彼の髪を引っ張る。
 それだけで、喜びのあまり眩暈がしそうな理月である。
「あ、やべ、幸せすぎて、死にそう……!」
 『あと一押しで鼻血噴出』級の幸せに、理月が断末魔めいた声を漏らすのと、
「ったく、何言ってんだお前は」
 という呆れた声音とともに、後頭部を軽い衝撃が襲ったのとはほぼ同時だった。どうやら軽くはたかれたらしい。
 そんなことをする人物は、この銀幕市ではひとりかふたりしかいない。
「おっ、とーご、ぽよんすー! ぶらっくうっどもぽよんすー」
 見上げると、太助が背後に向かってびしりと手を挙げていた。
「あ、刀冴(とうご)さん。それに……ブラックウッドさんも」
 振り返れば、背後には、天人の血を引く将軍と、魔性の美壮年が、めいめいに傘を手にして佇んでいた。
 いつもの動き易い武装に【明緋星】を佩いた長身の男と、趣味のいいスーツを洒脱に着こなした壮年という取り合わせは、異色と言えば異色だが、ご近所さん同士親しい付き合いをしているふたりなので、彼らを知るものには特別おかしなことでもない。
「やあ、理月君、太助君。雨の午前というのも、なかなかに風情があっていいものだね」
 太助の挨拶に笑った刀冴が片手を挙げ、ブラックウッドはくすくすと楽しげな笑い声をこぼして頷いた。
「なんだ、どっか出かけるとこなんだ? あんたたちが一緒にって、なんか、珍しくねぇ?」
 心底慕うふたりの姿に、理月は邪気のない笑顔になる。
「ん、ああ、日常品の買出しに行こうと思ってたら杵間山の麓で会っただけなんだけどな、実は。ブラックウッドは古書店に行くんだとさ。んで、まぁせっかくだし茶でも、と思ってこっち来たんだ。理月、お前たちは?」
「俺は太助とラブラブデート中なんだー」
「あれ、でーとだったんだ、これ。しらなかったぞ俺……」
「え、だって、デートって、好きなヤツ同士で出かけることだろ? だったら、紛うことなきデートじゃねぇか」
「あー……うーん、そういわれてみれば、そうかも……」
「ってことで、デート中」
「……ああ、うん、ホント幸せそうでいいな、お前……」
 丸め込まれたらしい仔狸が首を傾げる中、一片の曇りも迷いもない笑顔で理月が断言すると、刀冴は何とも言えない表情をした。が、理月にはあまり堪えていない。
「なぁなぁ、あかっち」
「ん、どした、太助」
「せっかくとーごとぶらっくうっどにも会ったんだし、みんなでひるめし食おうぜー」
「ああ、うん、いいな。――構わねぇか、刀冴さん、ブラックウッドさん?」
「おや、魅力的なお誘いだね。ありがたくお受けするよ」
「構わねぇぜ。飯は皆で食った方が美味いしな」
 理月にとって、今ここにいる三人は、自分でもびっくりするほど大好きで大切な人たちだ。彼らと一緒にいられる、彼らと心でつながっていることが判る以上の幸せを、理月は、知らない。
「んじゃさ、とりあえず、太助が和小物の店に行きてぇっていうから、そっち付き合ってもらってもいいか? 先に用事を済ませちまいてぇんなら、『楽園』かどっかの飯屋で待ち合わせ、でもいいと思うけど」
 理月が言うと、ブラックウッドと顔を見合わせて、刀冴は肩をすくめた。
「ま、急ぐようなことでもねぇしな。待ち合わせってのの方が面倒臭いし、一緒に行くわ」
「ブラックウッドさんも?」
「ああ、そうだね。太助君と理月君のデートの邪魔をするのは申し訳ないけれど、私も、可愛い理月君と一緒に街を歩きたいからね」
「いやあの、俺、可愛くねぇし」
「おや……そうかな? 私は、君ほど可愛い人間はいないと思うのだけれど」
 にっこり笑ったブラックウッドに意味深な視線を向けられ、一瞬詰まると同時に、『一緒に歩きたい』という言葉に嬉しくもなる理月だった。
 自分はとても大切にされていて、幸せだ、と、思う。
「よし、じゃあいこうぜ、みんな」
 と、理月の髪を引っ張った太助の、
「ふたたびしゅっぱつしんこーう!」
 元気な声とともに、四人は歩き出す。
 細かい、ひんやりとした雨が町をけぶらせていたが、それもまた心地がよかった。



 3.運命の一瞬・拒絶と痛み

「十狼(じゅうろう)さん、これってどう思います?」
 片山瑠意(かたやま・るい)は、古民家に持ち込むための様々なグッズを買い揃えていた。
 今、彼が矯めつ眇めつしているのは大きなクッションだ。自分のマンションと、ほぼ自室と化している客間の一室と、色々な意味で滞在することが多い離れに、お揃いで置いておきたいと思っている。
 銀幕市の特産品とでも言うべきバッキー型のそれら、パステルカラーの可愛らしいクッションを、あ、これまゆらみたいで超可愛い……などと親馬鹿全開で物色していると、隣で瑠意の手元を見詰める十狼が、かすかに口元をほころばせる。
「……さて、どう、とお返しすべきなのかは私には判らぬ、が。瑠意殿のお気に召したというのならば、それでよろしいのではないかと」
 銀の双眸にたゆたうやわらかい光に、瑠意は笑顔で頷いた。
 普段の、爽やかだが腹黒いと評判の瑠意しか知らぬものが見たら驚愕するのではないかというほど無邪気で幸せそうな笑顔は、ごくごく身近な、本当に気を許した人たちの前でしか現れないものだ。
 特に瑠意は、この、天人族の美丈夫を心から信じているし、無条件で甘えられる相手だと思っているのと同時に、我が身よりも大切だとすら思っているくらいだから、自然と、零れる笑顔も特別のものになる。
「うん、じゃあ、三つ買って、うちと、古民家の客間と、十狼さんの部屋に置いちゃおう。おそろいって、なんか、楽しいですよね」
 その言葉に、十狼は何も言わず微笑したのみだったが、瑠意はそれだけで満足だった。
 バッキー型クッションを三つ選ぶと、財布を手にレジへ向かう。
 そろそろ住民票を古民家に移すべきなのではないかというくらい天人主従宅に入り浸っている瑠意なので、あのただでさえ快適な家を更に具合のいい場所にするためならば努力は惜しまないのである。
 ――そのためのショッピングなのだから当然だが、お陰で、雑貨屋を出る頃には相当な荷物になっていた。
 半分は十狼が持ってくれたが、それでも大荷物だ。
 しかし、そこで、
「一緒に買い物して、一緒の紙袋を持って歩くとか、まるでデー……」
「瑠意殿、いかがなされた?」
「えっ、いや、あのっ、な……何でもないです、はい」
 色々想像して幸せな気分になった挙句、十狼に訝しげな表情をされ、思わず赤くなるのが瑠意なのかもしれない。
「……?」
 首まで赤くなった瑠意に、十狼が首を傾げる。
 瑠意はわたわたと手を振り、
「そ、それはさておき、時間も時間ですし、お昼にしません? 俺、腹減っちゃって」
 話題の転換を図った。
 これ以上突っ込まれると絶対にぼろが出る、と思ったのだ。
 熱心に買い物をして回ったお陰で、相当空腹だったのも事実だが。
 十狼はしばらく不思議そうな表情をしていたが、瑠意の言葉に頷いた。
「では、お付き合いいたそう。瑠意殿のお好きな場所を選ばれるがよい」
「あ、はい、ありがとうございます。どうしようかな、今日は『楽園』でトルコ料理のランチがあるんですよねー」
 などと言いつつ、雨にけぶる銀幕市のショッピング街を歩くこと数分。
「……あれ?」
 前方に、見慣れた人々の姿を見出して瑠意は首を傾げた。
 雨が少しきつくなって、視界はあまりよくなかったが、それで見誤るほど彼らのことを知らないわけでもない。
「いつも通りとでも申し上げるべき組み合わせだな」
 ずいぶん前から気づいていたらしく――何せ彼は、半径1km以内の気配を読み取ることが出来るらしい――、特に驚くでもない様子の十狼が、白くて長い、武骨な指を顎に添えてふむ、と呟く。
 理月、太助、刀冴、ブラックウッド。
 『よくある取り合わせ』と表現するしかないような四人が、連れ立って歩いている。向こうもこちらに気づいているようで、刀冴と理月、そして理月の頭の上に乗った太助が手を振った。
 当然、すぐに合流という運びとなり、
「よっす、瑠意。あんたもデートなんだ?」
 太助に乗っかられてものすごく幸せそうな理月に、直球でそんなことを言われて、
「えっ、い、いやそのっ、で……デートとかじゃ……ッ」
 瑠意は思わずしどろもどろになる。
 同時に、
「俺は太助とデートなんだぜ、いいだろ」
 などと、本来の……というか基本的な『デート』の意味合いをどうにも履き違えていると思しき理月にひどく誇らしげに言われ、ホントいつも通りだなぁと呆れ顔にもなったのだが。
「お前らも昼飯か? 俺たちもなんだ、一緒に行こうぜ」
 そこへ刀冴が、このメンバーが集まったらそうならないわけがない、という提案をして、異存のない瑠意は頷く。
 十狼とふたりきりで、というのは当然嬉しいが、大好きな人たちと賑やかに摂る昼食もまた楽しい。
「よし、きまりだなっ」
 一気に六人になった一行が、混んでいることを承知で、『楽園』に移動するべく歩き出したその時、たあぁん、と、高らかに銃声が鳴り響き、ショウウィンドウの大きなガラスが粉々に砕け散った。
 誰かが悲鳴を上げる。
 刀冴が、十狼が、鋭い眼差しで銃声のした方向を見やった。
 ブラックウッドは周囲に被害が出ていないか確認しているようだったし、理月は太助を腕の中に抱え込み、庇う態勢に入っている。
 と、
「退けっ、クズども!」
 着崩れたスーツ姿の、まだ三十は行っていないだろうと思われる男、チンピラ然とした風体の人物が、右往左往する通行人を突き飛ばしながら、水溜まりを蹴立てるように走ってくる。
 男の手には、黒光りする拳銃が握られていた。
「退けっ、死にたいか、クソッタレ!」
 誰かに追われているのか、ひどく焦った様子で、口汚く罵り、道行く人々を突き飛ばしては転ばせ、銃を振りかざして悲鳴を上げさせながら、男は一直線にこちらへ突っ込んでくる。
 瑠意は眉根を寄せた。
 ――彼は、今、とても空腹なのだ。
 時刻は十一時四十五分。
 昼時まであとわずかしかない。
 瑠意は、一刻も早く、大好きな人たちと一緒に、美味しいものにありつきたい気分なのだ。
「ああもう、せっかくの楽しい気分が台無しじゃないか」
 今更拳銃一挺に怯えるほど可愛い神経はしておらず、瑠意が容赦なくぶん殴ってやろうと拳を固めるより早く、音もなく天人主従が動いていた。
「うるせぇ、雑魚が吼えんな」
「まったく……無粋な」
 瑠意の目には、ふたりの姿が一瞬掻き消えたようにすら映った。
 瑠意が、目の錯覚かと瞬きをするのと、ふたりが男の両脇に移動していたのは同時だった。
 刀冴の拳が男の腹にめり込み、十狼の手刀が男の首筋を一撃する。
「……っ!?」
 見事としか言いようのない連携に、男は悲鳴さえも上げられずに昏倒した。
 手から離れた拳銃が、硬い音を立てて地面を転がる。
「で、コイツ、何なんだ?」
 受身ひとつ取れず、顔面からアスファルトとのランデブーを楽しむ羽目になった男を軽く蹴飛ばして、刀冴が首を傾げる。
「……さて、何かに追われておいでのようでしたが――……」
 言いかけた十狼の視線が、男が逃げて来た方向へ向けられる。
 激しさを増した雨の向こう側から、誰かが走ってくるのが見えた。
 目を眇めてそれが誰なのかを確認した瑠意が、
「あ、」
 注意を呼びかけるよりも、
「ったく、逃げ足だけは速ぇんだからな」
 ひどく見慣れた顔立ちの、褐色の肌の青年が、銀髪の美しい男とともに走り寄って来る方が、速かった。
「悪ぃ、助かっ……」
 月下部理晨。
 ファンタジー映画『ムーンシェイド』を代表作とする、俳優だ。
 ――そう、理月を演じた。
「え……」
 上がった、訝しげな声は、理月のもの。
 彼の腕に抱かれた太助は、ふたりを交互に見比べてきょとんとしている。
 理晨が、しまった、という顔をした。
 理月は、自分を演じた人間が銀幕市に来ていることを、知らなかったのだ。
 理晨自身が、知らせぬようにしていた、というのもあるのだが。
「あんた、は……」
 白銀の視線が、理晨と、彼の隣に佇む長身の男に向けられる。
「……ナギ……?」
 ナギことナギ・スイ=メイは、映画『ムーンシェイド』で、理月の相棒のような立ち位置をつとめた神聖騎士の名だ。『ムーンシェイド』の過去編におけるクロカと人気を二分するキャラクターでもある。
 その名を聞いて、髪の一本一本までが美しい、怜悧な印象の男は、刃のような眉を跳ね上げ、肩をすくめた。
「それは俺の一部であって、俺そのものではないな」
 だとすれば、彼は、ナギを演じたドイツ人俳優のヴァールハイトということになる。
「……理月」
 まったく同じ声で理月を呼び、理晨が一歩踏み出す。
 理月の表情は、強張っているようでもあったし、凍りついたようでもあった。
 白銀の双眸が、弱い光を宿して揺れる。
「理月、俺は」
 手を差し伸べようとする理晨に、
「なんなん、だ、それ……」
 理月は首を横に振り、一歩後退した。
 それを察してか、理晨の動きが止まる。
「あんたが、俺の、」
 何かを言いかけて、理月は口を閉ざした。
「あかっち? どうした、なあ?」
 様子がおかしいことに気づいた太助が、不思議そうに……心配そうに、理月の胸にしがみ付くと、彼はそれをきつく抱き締めた。
「理月」
 気遣わしげな理晨の声。
 四つの白銀が絡み合い、揺れ、そしてふたつが一方的にそらされる。
 理月はぎゅっと唇を引き結び、
「あんたなんか……知らねぇ……!」
 わずかに震える、しかし、頑ななまでに強い語調で言って、踵を返した。
 傘が手から転がり落ち、理月と太助とを濡らしたが、そのことには思いが至らないようで、彼は、足早に――まるで逃げ出すかのように、その場から、走り去る。彼の蹴立てた水溜りが、いくつもの水滴を跳ね上げた。
「あっ、理月……!?」
 後を追おうとした瑠意だったが、
「やれやれ……仕方ねぇな」
「ふむ……とはいえ、気持ちは判らないでもないからねぇ」
 肩をすくめた刀冴と、穏やかに微笑んだブラックウッドが歩き出したので、ふたりに任せることにした。
 理月が慕うふたりならば何とでもしてくれるだろうという考えからだが、それと同時に、恐らく、『自分を演じた人間』との邂逅に衝撃を受けたのであろう理月の元へ、俳優の立場である自分が行ったところで無意味だろうとも思ったのだ。
 雨煙の中に消えて行く、ふたりの背中を見送ってから、瑠意は、困惑と苦笑とやるせなさをない混ぜにしたような表情をしている理晨と向き直る。
「理晨さん……その」
 何と声をかけるべきか判らず、名を呼ぶと、理晨はかすかに笑って首を横に振った。
「……いつもあいつによくしてくれて、ありがとうな」
「や、そんな。俺は理月が好きだし、礼を言われるようなことじゃない」
 瑠意が返すと、理晨は小さく頷き、
「それでも、ありがとう」
 理月が消えて行った雨の向こう側を、慈しむように見詰めた。
「理晨さん、」
「気持ちは判るんだよ、俺も。自分にとっての現実が、演じ手にとっちゃあ『お話の中の出来事』なんだ。……面白くは、ねぇよなァ」
「……」
 瑠意は黙り込んだ。
 自分が演じた連中は、例えムービースターとして実体化したとしても、多分、自分を見たところで特になんとも思わないんだろうな、と思いつつ、らしくない拒絶を見せた理月のことが心配で、眉根が寄る。
「太助と、刀冴さんと、ブラックウッドさんがいるんだから、大丈夫……ですよね……?」
 確かめるように十狼に問うたが、答えはなかった。
 ――ムービースターの、ムービースターとしての気持ちは、多分、自分には一生判らないのだろう、と思うものの、それでも、ムービースターの皆が大切だという思いにも、変わりはないのだ。



 4.灰色の日・交錯する心

「あかっち、あかっち、どうしたんだよう!」
 無言のままで走る理月が、彼の泣きそうな顔が心配で、太助は懸命に漆黒の傭兵を呼ばわったが、返事はなかった。
 ここで振り落とされたらきっと見失ってしまう、今この状態の理月を見失ったらきっとよくないことが起きる、と、太助は、風のような速さで走る彼に必死でしがみつき、必死に呼ばわる。
 冷たい雨がふたりの全身を叩いていた。
 太助は仮にも野生の狸であるから、雨に濡れることなど厭いはしないが、それでも、いつもの理月なら、太助が濡れないように気遣ってくれるはずだった。しかし、今はそれにも思いが至らないようで、太助の毛皮は、理月の髪や衣装と同じく、ぐっしょりと濡れそぼっていた。
 前ばかり見据えた悲痛な白銀に不安が募る。
「あかっち、あかっち! おちついてくれ、まずははなしをするんだ、なあ、あかっち!」
 太助の叫びが届かぬままに、一体、どれだけ、どこまで走っただろうか。
 風景が、見知らぬものへと変化していることに太助は気づいた。
「ここ……どのあたりだ……?」
 そもそも、仔狸の行動範囲はそれほど広くないし、ひとりで行ける場所も限られているから、銀幕市のすべてを知っている……とは言い難い太助だが、ふたりは今、本当に見覚えのない、薄暗い路地裏へ入り込んでいた。
 きょろきょろと周囲を見渡し、空を見上げると、薄汚れてしまったビルが、虚しいオブジェのように建ち並ぶ場所なのだということが判った。ひとけを感じないから、恐らく、一般人はあまり足を踏み入れることのない、本来なら閉鎖されているような区画なのだろう。
「あかっち、なあ、あかっち。こんなとこ来たってしかたねぇよ、なあ、はやくもどろう」
 前脚で器用に服を引っ張り、主張するものの、理月にそれが届いていたかどうかは、判らない。
「あかっち、なあ、どうしたんだよう……」
 ひげをひくひくと動かして、太助は耳を垂れさせる。
 理月とそっくりなあの青年を見たときの、そしてそれが一体誰なのかを察したのであろう彼の、眩しい銀眼に揺れた哀しみと、絶望とを、太助は、難しい言葉で、ではなく、理解していた。
 ムービースターと、それを演じた俳優と。
 太助は確かにまだ子どもだが、その決定的な違いが、まったく判らないわけではない。
 そして、ムービースターが、『自分にとっての現実』を、『演技』として行った俳優に対して、複雑な思いを抱くであろうということも。
 特に、理月は、詳しく話を聞いたことがあるわけではないものの、ひどく辛い、重苦しい過去を持っているようだったから――とはいえ、そんなものは一切関係がなく、太助は理月のことが好きだが――、何か思うところがあって当然だろうとも思う。
 それでも、
「だって、あかっちはあかっちじゃねぇかよう」
 理月が理月として『今』を生きていて、太助が理月を大好きだという、その事実に変わりはないのだ。
 一体、どうすればそれを伝えることが出来るのか、どうすれば理月の心を軽くしてやれるのか、太助が小さな胸を痛めながら懸命に考えていると、唐突に理月が立ち止まった。
 前方を見遣れば、すぐ目の前にコンクリートの壁がある。
 行き止まりに入り込んだのだ。
「あかっ、」
 再度理月の名を呼ぼうと、太助が口を開くよりも早く、
「……」
 理月は、無言のままで右拳を固め、コンクリートの壁を思い切り殴りつけた。
 ごつ、という、鈍い音がする。
 あまりの勢いに、地面が揺れたような錯覚すら、あった。
 それは一度では止まらず、理月は、声ひとつ漏らさぬままで、灰色の壁を何度も殴りつける。
 鈍い、嫌な音がして、彼の拳に血が滲んだ。
 ――当然だ、
「!? あかっち、だめだっ!」
 いかに理月が強い男だろうとも、彼の肉体は人間のものなのだ。
 岩やコンクリートに敵うはずがない。
「やめろよ、だめだ、手がこわれちまうようっ」
 虚ろな光を宿した銀眼で前方を見据え、憑かれたように壁を殴り続ける理月に悲鳴を上げ、太助は彼の腕にしがみつく。
 どんな悲嘆、どんな絶望が彼をそうさせるのだとしても、太助は、そんな理月を見ていたくはなかったし、理月が痛い思いをするのも嫌だった。どんな理由であれ、理月に、怪我などしてほしくはなかった。
 半べそで腕にしがみつき、必死で理月を呼びながら、だれかあかっちを助けてくれ、と胸中に叫ぶ。
 ――それが功を奏したのか、救いの手は、すぐに差し伸べられた。
「ったく……馬鹿が」
 低く心地のいい、聞き慣れた声がして、唐突に理月の身体が後方へ引っ張られる。
「……ッ」
 無防備だった理月は、太助ごと後ろへ倒れ込んだ。
 それを地面すれすれで抱き止め、
「お前が何をしようが勝手だが、友達を泣かすんじゃねぇよ、馬鹿」
 血塗れの拳を自分の手で包み込みながら、理月の身体を腕の中に抱え込んだのは、刀冴だ。
 その背後には、穏やかな微笑を浮かべたブラックウッドの姿がある。
「刀、冴、さ……」
 刀冴を見上げる理月の眼に、弱々しい理性の光が戻って来る。
 太助は尻尾をぴんと立てて理月に抱きついた。
「おう」
「俺、……」
「お前のことなんか、俺は知らねぇ。お前が、自分で、何とかしていくしかねぇんだろう」
「ッ、……判っ、て……」
「でもな」
「え?」
「お前のことが心配で心配でたまらねぇ、って友達を哀しませて、泣かせることが、お前の流儀か」
「あ……」
 刀冴の腕に抱えられたまま、理月が、太助を見つめる。
 太助はまだ半べそだったが、安堵もしていた。
「あかっち、だいじょぶか、なあ、いたくねぇか」
 理月の腹を、胸をよじ登り、ぺろぺろと顔を舐めると、漆黒の傭兵は泣きそうな顔で、笑った。
「一緒に……いてくれたのか、太助」
「……うん」
 太助が頷くと、濡れそぼった理月の腕が、濡れそぼった彼をきつく抱き締め、
「ありがとう……」
 搾り出すような感謝の言葉が紡がれる。
 太助はぎゅっと口を引き結んで、
「あかっちのばかやろう、俺、しんぱいしたんだからな……っ!」
 顔を理月の胸に摺り寄せた。
「うん、ごめんな、ごめん、太助……」
「しらねぇ、あかっちなんかしらねぇんだからな、俺っ」
 いつもの理月が戻ってきたことに安堵して、ぷいぷいと怒る太助に、理月がまた、泣きそうな顔で笑う。
 そこへ、
「……落ち着いたようだね、理月君。君は、よき隣人に恵まれている」
 手を差し伸べて、身体にしがみつく太助ともども理月を立ち上がらせたのは、ブラックウッドだ。
「ブラックウッドさん……」
「ああ、こんなに、血が」
 ブラックウッドの手が、血塗れになった理月の右手を、慈しむように包み込む。
「や、その」
 今更ながらに自分の取り乱しぶりが恥ずかしくなったのか、心持ち頬を上気させ、理月が俯くと、
「……勿体ない、などと言っては、怒られるかな……?」
 悪戯っぽく笑ったブラックウッドは、理月の拳に口付け、妖艶な仕草でその血を舐め取った。
「ぉわっ!?」
 予想していなかったのか、驚いたらしく、素っ頓狂な声を上げた理月が後方へ跳んで逃げる。上下動に振り落とされそうになって、太助は、慌てて理月の肩にしがみついた。
「おや、残念。でも……とても甘かったよ」
 ブラックウッドがくすくす笑うと、刀冴は肩をすくめて、太助は、彼らしい慰め、励ましに、尻尾をピンと立てて笑った。
 理月も、そのことには気づいているのだろう。
 太助を、刀冴を、ブラックウッドを交互に見て、小さく頭を下げた。
「ごめん……ありがとう」
「おうよ、こんどやったらぜっこうだからなっ」
「太助の絶交って気持ちもよく判るが……まぁ、お前がどうしようもねぇヘタレだってのは前から知ってるしな、そこは気にすんな。ちゃんと立ち直れるんなら、それでいい」
「ふふふ、刀冴君はなかなか容赦がないねぇ、否定はしないけれども」
 わりと身も蓋もないことを言ってから、ブラックウッドは、否定しねぇのかよ、と情けない顔をする理月に向き直った。
「それで、理月君」
「……うん」
 何を尋ねられるか判っていたようで、理月は頷いた。
 太助は理月を見上げる。
「びっくりした……ん、だろうと、思うんだ」
「ああ、そうだろうね」
「ナギがいたのにもびっくりしたし、そいつが俺はナギじゃないって言ったのにもびっくりしたけど、でも」
「でも?」
「……俺は、自分がちょっとおかしいってこと、よく判ってる。俺の中に、どうしようもなく狂っちまった部分があるってことも、よく判ってる」
 それを恐らく、絶望と呼ぶのだ。
 理月の根底に絡みつき、彼を縛るそれを。
「でも、あの人にとってそれは、物語の中の、『設定』ってやつに過ぎねぇんだよな。俺にとって消しようのねぇ、二度と返って来ねぇ全部が、あの人にとっては、自分が演じたワンシーンに過ぎねぇんだ」
 太助は、慈しみの表情で理月を見ていた青年を思い出す。
 ――本当にすべてが、彼にとってのフィクションなのか判らなくなるような、穏やかな共感の滲む表情だった。
「俺は、今の自分をすごく幸せだと思う。自分から死のうなんて今は思わねぇし、俺に出来ることをやろうとも思う」
「ああ、素晴らしいことだね。その境地に立ち入ることが出来た君は、やはり、幸せなのだろう」
「うん。でも……俺は、やっぱり、こんななんだよな。色んな部分が、もう、どうしようもねぇんだ。それも俺なんだって思ってるし、俺は今の俺を嫌いじゃねぇけど、――でも、あの人は、そんなのなしに、平和で穏やかな時間を過ごして来てんのかって思ったら、苦しくなった」
「……そうか」
 視線を俯ける理月は、三十路を超えているとはとても思えない、傷ついたまま癒されずにいる多感な少年のようだ。その眼差しはひどく無垢で、――だからこそ、彼の魂が、どうしようもない歪みを生じてしまったのだろうことが判る。難しい言葉で、ではなく。
 また少し心配になった太助が、ふんふんと鼻を鳴らして頬を舐めると、ちょっと笑ったから、きっと大丈夫だろうとは思うけれど。
 それらのやり取りを、静かな金眼で見つめていたブラックウッドが、
「私には、その真偽は判りかねるけれどもね」
 思案しつつ、
「もう一度会って、じっくり話をしてみればいいのではないかな」
 そう提案すると、理月が心底驚いた、という表情をした。
「えっ……で、でも」
「ああ、それ、悪くねぇんじゃねぇか」
「刀冴さんまで」
「君だって、もやもやしたままで終わるのは、嫌だろう? 『彼』がどんな人間であるのか、まずは知ることが大切だよ。そして、君は君の思いを、『彼』にぶつけてみればいい」
「……」
 迷っているのか、沈黙した理月を見上げ、太助は口を開く。
「あかっち、俺、しってるぞ」
「え」
「俺たちのじかんはかぎられてるんだ。いつ終わるかわかんねぇんだ。だからこそ、あとで、ああしといたらよかった、こうしといたらよかった、って思わねぇように、今できることをやらなきゃならねぇんだ」
「……ああ」
「あいつ、わるいやつには見えなかったもんな。だってあかっちのなかみのひとなんだろ? ぜったいにだいじょうぶだから、はなしをしてみようぜ、あかっち。そしたらきっと、なんかわかると思うんだ」
 太助はまだ子どもなので、何もかもを解決するような名案や、素晴らしいアイディアが出せるわけではない。
 しかし、自分が何をするべきなのか、そのときどうすべきなのかは、判る。だからこそ言えることもある。
 その率直さが、大人たちにものを考えさせていることまでは、判らないが。
「……そうだな」
 理月が小さく頷いた。
「もう一回、会ってみよう。判り合えるのか、全然駄目なのか、判らねぇけど、何もかもを決めるのは、そのあとでいい」
 迷いを振り切るような理月の言葉に、刀冴が笑って彼の肩を叩き、ブラックウッドは微笑んだ。
「よしっ、んじゃ俺、あかっちのつきそいってやつをやるぞっ」
 太助は、理月の肩によじ登り、えへんと胸を張る。
「あかっちがちゃんとはなしあえるように、俺、てつだうからなっ!」
 高らかに宣言すると、理月が嬉しそうに頷いた。
「……頼りにしてる」
 理月の言葉に、まかせとけっ、とテンション高く返してから、太助は首を傾げた。
「あ、ちがう、つきそいじゃなくて、なこうどだったかな?」
「……それは結婚の仲立ちをする人間のことだと思うんだが。誰と結婚させられるんだよ、俺?」
「あ、そうだっけか、まぁ気にすんな、あかっち」
「ってか、理月に突っ込まれるようじゃ終わりだぞ太助」
「刀冴さん、あんたは俺をなんだと……」
「え、逐一、こと細かに説明して欲しいのか? いくらでもしてやるぞ?」
「ええと、うん、遠慮する……」
 ようやくいつも通りに戻ったそんなやり取りを、ブラックウッドがくすくすと笑いながら見つめている。

 こんな時間が、このまま続けばいい、続きますように、と、太助は思った。



 5.実存の意味・招かれざる客

 三日後。
 その日もまた、雨だった。

 話がしたい、という理月の望みを、理晨は当然のように受け入れ、街角の一角にある静かなカフェに席を設けた。
 そこは街中でありながら瑞々しい緑に囲まれた、隠れ家的な雰囲気を持つカフェで、室外の、屋根のあるテラスで、雨の匂いをかぎながら、『話し合い』は行われている。
「……」
 理晨と向き合って、ものすごい勢いで固まっている理月を、刀冴は、やれやれ、と言った風情で見ていた。
 結局付き添うことになったいつもの面々が、心配そうに、案じるように、励ますように理月を見つめている。理月の右拳に巻かれた包帯には血が滲んでいるが、いつものことでもあるので誰も気にしてはいない。
 理晨は、緩やかな微苦笑を浮かべて、弟を見るような眼で理月の言葉を待っているし、その隣のヴァールハイトは、怜悧な無表情ではあったが、この場に不満を感じている様子はなかった。
 今のこの場所が、ひどく優しく理月を包み込んでいることに間違いはなかったが、理月が、思い切りその雰囲気に呑まれていることもまた事実だった。
 繊細な奴だ、と、思う。
 もっとも、だからこそこの傭兵を可愛く感じるのだろうと、つい甘やかしてしまうのだろうとも思うのだが。
 ――刀冴にとって自分は自分だ。
 映画も設定も役者も、心底どうでもいい。
 お前を演じたのは自分だと、俳優とやらが出てきたとしても、特別な感慨はないだろうと思う。
 脚本がそうだったから、自分がこういう言動をし、こういう歴史をたどってきたのだとしても、それを創り物の命だと誰かが嘲笑おうとも、だからどうした、と返すに過ぎない。
 刀冴は、創り物だと自分を嗤う人間がいたとして、その誰かの生が、真実、誰からも創られていないことを、ひとりとして証明することが出来ないのだと、知っている。
 彼らムービースターの命は仮初めかも知れないが、刀冴は自分の魂と力とを信じるし、同時に、ムービーファンやエキストラと呼ばれる人々の命が、真実本物であるかどうかを決めるのは、その人間の生き様であり、魂のありようでしかないのだと、それのない人間の生に、意味などないのだと、知っている。
 だからこそ彼は揺るがないが、だからこそ、彼は我が身に執着を持たない、持てないのかも知れない。
 それもまた、刀冴の業なのだった。
 刀冴自身、それを悔いても厭ってもいないが。
「……その」
 たっぷり二十分間は固まっていただろうか。
 ようやく口を開いた理月を、理晨が、同じ色彩の眼で見る。
「ああ」
 穏やかな声は、やはり、理月と寸分違わない。
「あの、俺……」
 いざその場面になると、何を言ったらいいのか判らなくなったようで、しどろもどろになっている理月を、子どもかお前は、などと思いつつも、悲痛すぎる別れによって歪んだ、『大人』になりきれない魂こそが理月の根本なのだろうと、見守る。
 自身の魂の奥底に、ひび割れて二度と戻らないものがあることを理解しているのと同等に。
「……ッ」
 混乱してきたらしく、口元を覆って目をそらしてしまった理月の背を、何故か紋付袴姿の太助が前脚で撫でている。どうも、『なこうど風』というコンセプトらしかったが、仲人となると、理月は理晨と結婚してしまうことになる。今更突っ込みはしないが。
 理晨は苦笑して、手を伸ばし、理月の、少しほつれた前髪を整えた。
 それだけでびくりと震える理月は、頑是ない童のようだ。
「焦る必要はねぇから、な? ちゃんと、待つから」
「……」
 理月が小さく頷く。
 同じ人間であるはずなのに、兄と弟のようなふたりを、刀冴は見るともなしに見ていた。
 自分が口出しをしても仕方のないことだからだ。
 そこへ、カフェの店員が、ティーセットとスイーツとを運んでくる。
 好きなものがあった方が気持ちもほぐれるだろう、と、瑠意が注文しておいたものだ。
 どうやらそれは功を奏したようで、マンゴーとパインアップル、パパイヤにバナナ、そして真っ赤なラズベリーという、南国風の飾り付けがなされた色鮮やかなケーキに、理月と理晨の視線が同時に吸い付く。
「あ、美味そう」
「お、美味そう」
 同時に言って、理月は驚いたように、理晨は嬉しそうに、顔を見合わせる。
 それでやっと、ほんの少し、理月は笑った。
 十狼の隣で、瑠意が、拳を握り締めて小さくガッツポーズをしているのが見え、刀冴はブラックウッドと視線を交わして笑う。ブラックウッドからは悪戯っぽい微笑が返った。
「ええと、その、俺」
「……ああ」
 穏やかに、真摯な眼差しで、理晨が次の言葉を待っている。
 理月は、居心地が悪そうにもぞもぞと身動きをしたあと、
「別に、あんたのことが嫌いってわけじゃなくて、その」
 やっと決心した、という風情で、ようやく、それだけ言った。
 理晨が頷く。
「……どうしたらいいか、判んねぇだけだから」
「ああ、知ってる」
 端的に、静かに、そんな答えが返り、理月が肩の力を抜くのが判った。
「俺は、お前に、何が何でも好かれようって、思ってるわけじゃねぇから。お前が銀幕市から出て行けって言うなら、そうしてもいい」
「え、いやあの、そんなことは別に」
「……俺はただ、お前が、お前の好きな、いい人たちに囲まれて、幸せでいてくれたら、それだけでいいんだ」
「そ、ん……」
 理月が言葉に詰まる。
 自分が演じた役柄だから、というだけではない、切実ですらある何かを感じ、刀冴は理晨を見遣る。理晨は静謐だったが、同時に、理月と言葉を交わすことを、ひどく喜んでいるように見えた。
 そこにあるのは、確かに、自分以外の誰かを思う気持ちだった。
 理月の目が、三日前とはまったく反対の理由で揺れるのを見て、刀冴が、これなら心配は要らねぇかな、と思った、その時。
 十狼が、冷徹な銀の視線をスッと前方へ投げかけ、冷ややかに笑った。
「……無粋な」
 と、侮蔑めいた冷笑を浮かべて立ち上がった十狼が、腰の双剣を引き抜きながら雨の中へ足を踏み入れる頃には、刀冴もまたそれに気づき、同じことに気づいたらしいブラックウッドとともに席を立っていた。
 理月が不思議そうな顔をする。
「刀冴さん?」
「気にすんな、お前は親交を温めとけ」
 刀冴がそう言ったのと、雨天下に銃声が響き渡ったのとは、同時だった。
 カフェの店員が、怯えた目で音のした方を見遣ると同時に、気持ちのいい緑色の芝生を踏みしだいて、カフェのテラスを包囲したのは、めいめいに武器を手にした、スーツ姿の男たちだった。
 ざっと数えただけで百人くらいいる。
 このメンバーに戦いを挑む、という意味においては決して多くはない数だが。
「ふざけた真似をしてくれたらしいじゃないか」
 凄味のある、厳つい顔をした禿頭の男が、理晨を睨み付けて言う。
「……誰だ?」
 理晨は首を傾げたが、
「うちの下っ端を痛めつけてくれたそうだな?」
 禿頭の男のその言葉に、ああ、と頷いた。
「正直痛めつけたのは俺じゃねぇけど、三日前のあいつのボス……ってとこか。で、お礼参りってやつかな。暇な連中だぜ」
 呆れた声音で言って、理晨が立ち上がる。
「俺たちで何とかするから続行してろよ」
 刀冴はそう言ったが、理晨から返ったのは苦笑と肩をすくめる仕草だった。
「別にあんたたちの実力を疑うわけじゃねぇけど、気が散って仕方ねぇっつの」
「ああ、そりゃそうだ」
 男たちが無言で銃を構えるのが見えた。
 いきなり連射せず、わざわざ姿を見せたのは、報復すべき相手に恐怖や絶望を与えるためだったのだろうが、残念ながらここにいる連中はその類いには鈍感だ。
 とはいえ、急襲などしていたら、むしろ、問答無用で十狼に滅殺されていた可能性もある。
 どちらが幸せなのかは、刀冴には判りかねるが。
「鬱陶しい連中だな」
 何もかもが様になる動作でヴァールハイトが席を立つ。
 俳優で大富豪である以外は一般人であるはずの彼だが、何故かその怜悧な美貌には一点の恐怖もない。立ち居振る舞いからして只者でないことも、実は判っているのだが。
「今一番大事な場面なんだから邪魔するなよ今世紀最大級のアホども。容赦なく迅速に潰すからな、ったく」
「……瑠意って結構過激だよなぁ」
「え? こんなの普通だろ?」
 心の底からそう思っているらしい瑠意の言葉に、理月がそうかなぁと首を傾げていた。武人の常で油断こそないものの、ここにもあまり緊迫感というものは存在しない。
 理月に促された太助が、渋々室内へ引っ込む。
 と、
「……ふむ、では、まずは周囲への被害を軽減するとしようかな」
 森林浴でもしているかのような穏やかな声でブラックウッドが言い、唐突にロケーションエリアを展開した。
 雨雲に被さるように、空が夜を思わせる暗雲に覆われる。
 遠くからはどろどろと雷の轟きが聞こえてくる。
 周囲は唐突に湧き出た濃霧によって閉ざされてしまった。
 鼻孔をよぎるのは、仄かな死臭と、死を感じさせる静かな香の匂いだ。
 襲撃者たちがざわりとざわめくのが、銃が使えない、と誰かが呟く声とともに聴こえてくる。
「はは、面白ぇじゃねぇか」
 刀冴は笑い、白霧に閉ざされた視界の中へと踏み込んでゆく。

 とっとと終わらせて続きをやるぞ、などと思いつつ。



 6.相思・だれかのために

 あちこちから、肉を打つ鈍い音や悲鳴、呻き声が聞こえてくる。
 しかし、そこに銃声はない。
 皆、ずいぶんやりやすくなっただろうと思う。
「ふむ……では」
 ブラックウッドは周囲を見渡し、ざっと状況を確認すると音もなく動いた。
 無言でナイフを引き抜いた鋭い目つきの青年が、こちらへ突っ込んでくるのを軽くかわし、その背後へと回り込む。
「やはりここは、見目のよい、顔立ちの整った子にしよう」
 小さく呟くと腕を伸ばし、軽く関節を絡め取ったブラックウッドは、
「ああ、きっと君なら、うちのものたちも満足するだろう」
「な、」
 青年が驚愕の声を上げて抵抗するよりも早く、首筋を圧迫し、あっさりと意識を奪うと、催眠術をかけて、一足先に自宅へと帰らせる。
 驚くべき手際のよさで同じことを何度か繰り返し、見目のよい、若くて活きのよさそうな人間を、十人ばかり黒木邸へと帰らせて、ブラックウッドは満足げな、穏やかだが黒い笑みを浮かべた。
「このくらいストックしておけば、しばらくは持つかな」
 ――現在、黒木邸にはふたりの同居人がいる。
 片方は刀冴とも馴染みのある美貌の女吸血鬼、片方は某所で行き倒れかけていたところを保護したヘタレ吸血鬼だ。
 面倒見がよく、長老格としての責任感や同胞への愛情も強いブラックウッドは、同族であるふたりを養うべく、常に食料の確保につとめているのだが、今日のこの襲撃は非常にいい狩場となった。
 きっと、ふたりも喜んでくれるだろう、と満足していたら、目の前で、漆黒の傭兵が襲撃者のひとりを殴り倒すシーンに行き逢った。
「おや、理月君」
「あ、ブラックウッドさん」
 特に息を乱すでもない理月は、ブラックウッドを見つけて目元を和ませ、唇を笑みのかたちにした。
「ごめんな、ブラックウッドさん忙しいのに、なんか、手間ぁ取らせちまって」
 今回のこの付き添いと、そして襲撃とを言っているのだろう。
 微苦笑とともに詫びる理月に、ブラックウッドは微笑んで首を横に振る。
「構わないよ、他ならぬ君のためなのだから」
「……うん」
 ブラックウッドにとって理月は、特別な、独特の存在だ。
 理月はブラックウッドの『おやつ』のひとりだが、飲んだ血を介して『血の絆』が出来ていると言う事実をなしにしても、ブラックウッドは理月が可愛くて仕方がない。
 そう、『寝所』へ招き入れながら、生身のままで帰す程度には。
「それで……どうかね、理月君」
「え、何がだ?」
「『彼』のことだよ」
「……ああ」
 理月がかすかに笑った。
「まだ、よく判んねぇけど……」
「ああ」
 ブラックウッドは頷いた。
 『彼』の姿を求めて周囲を見渡しても、濃く重い霧に覆われて、他のメンバーが何をしているのかは判らないが、初対面に近いヴァールハイトを勘定に入れても、あの面々なら、特に心配することもないだろうと思う。
「なんか、悪くねぇかなって、思った」
「ああ、それは、いいね」
「うん……あの人が、俺のこと、すごく大事に思ってくれてるって、それはなんか、よく判ったから」
 三日前と比べると格段に落ち着いた様子の理月に、ブラックウッドは微笑む。
 ブラックウッドには、どんな理月であっても愛しいので、泣き顔の理月もまた可愛らしいとは思うが、脆さや純粋さを残したままのこの傭兵は、笑顔が一番似合うとも思う。
「そうか……」
 理月が舐めてきた辛酸のすべてを知っているわけではないものの、重苦しいトラウマを抱えて今に至るらしい理月が、ムービースターが自分を演じた人間に対して抱くであろう複雑な思いを乗り越え、『彼』が自分を慈しんでくれているという事実に辿り着けたこと、それをブラックウッドは貴ぶ。
 そして、それと同時に、
「少し、妬けるね」
「えっ」
 魔物としての独占欲や、他愛のない悪戯心が頭をもたげるのもまた、事実だ。
「いやあの、ええと……?」
 濃霧が視界を閉ざしているのをいいことに、漆黒の傭兵を壁際へ追い詰めて、彼の腰に腕を回す。
 抵抗も拒絶も逃亡も出来ず、なすすべもなく壁際へ張りつけられ、どうすればいいのか判らなくなって硬直している理月、自分よりもほんの少し背の高い彼の、すらりとした首筋に唇を触れさせると、
「ええと、あの、ブラックウッドさん。今はそれどころじゃねぇような気がするんだけど、気の所為か……!?」
 理月から狼狽というよりは驚愕の声が上がった。
「もちろん、気の所為だよ」
 当然、ブラックウッドが返す言葉など、決まりきっているが。
「こうしていると、浮世の些細な喧騒など忘れて、このまま君をどこか遠くへ攫ってしまいたくなるね」
「どこへだかは知らねぇけど攫われんのは困るってツッコミ以前に、今の状況を『浮世の些細な喧騒』で済ませちまうあんたがすげぇと思う……!」
 理月の言い分はもっともでもあったが、そんなことを気にしているようでは、ブラックウッドはブラックウッドではないので、特に問題にはしない。
「ふむ、せっかくだから、少しばかりご馳走になろうかな」
「うわぁ脈絡が掴めねぇ……って、『せっかく』じゃねぇし、それ!」
 さすがに慌てたらしい理月が、ブラックウッドの腕から逃れようと無駄な抵抗をする。よほど必死になるか、人体の弱点を知り尽くしたプロとしてブラックウッドを『破壊』する覚悟なしには、魔物の膂力の前に、理月が彼の腕から逃れることは難しい。
 ブラックウッドはくすくすと笑い、理月の耳朶、こんなところまでが滑らかな黒檀の色をしたそれを緩く噛んだ。
「ぎゃーっ! ちょ、だから、そういうのはもっと別の場所でやってくれ……ッ」
「おや、そうか」
「えっ?」
「……別の場所でなら、いいのだね。承知した」
 言質を取るかたちでブラックウッドが黒く微笑むと、自分がまずいことを言ったらしいと気づいた理月が言葉に詰まる。
「い、いやあの、だから……ッ」
 しどろもどろになって視線を泳がせている理月が可愛くてたまらず、くすくすとブラックウッドが笑うと同時に、夜の闇のような暗雲がさっと晴れ、通常の曇り空が戻ってきた。
 ゆっくりと霧が晴れてゆく。
 ロケーションエリアの効果が切れたのだ。
 地面のあちこちに、スーツ姿の男たちが伸びているのが見えた。
 あそこで倒れている彼と、あっちで引っ繰り返っている彼も『持ち帰り』をしよう、などと黒いことを考えつつ、
「おや、残念」
 ブラックウッドは腕をほどいて理月を解放した。
 あからさまにホッとした表情をする理月に、悪戯っぽい視線を向ける。
「理月君の可愛い表情は、やはり、独り占めしたいからね」
「……それ、独り占めしてどうなるもんでもねぇと思うんだが……」
 首を傾げる理月。
 周囲を見れば、意識や戦意を保っている襲撃者たちは、もうあと三分の一も残ってはいない。その残りもまた、次々に、妙に生き生きとした瑠意や刀冴によって打ち倒されてゆく。
「ふむ、では」
「ああ」
「残りを片付けてしまうとしようか」
「うん、そうだな」
「では理月君、またあとで。言うまでもないだろうが、気をつけるのだよ」
「うん……あんたも、ブラックウッドさん」
 何でもない言葉を交わしてから、別々の方向を目指して踏み出す。

 雨はまだ、強く降り続いている。



 7.銃下の抱擁・鏡のふたり

 あっ、と思った時には、膝を撃ち抜かれて崩れ落ちていた。
 ――多分、理晨を気にしすぎていたからだ。
 映画の登場人物でもないのに、飛ぶような速さであちこちを駆け回り、軽く拳を揮っては、次々と脱落者を作ってゆく理晨の、その姿から目が離せなかったからだ。
 自分と同じ顔、同じ声の、けれど違う道を歩んできたはずの男。
 何で、という悲痛な疑念と、もやもやとした憤りと、無条件に慕わしく感じる矛盾した思いを、理月は理晨に対して抱いている。
 戦いの最中にそんなことを考えていれば、隙が出来るのも当然だ。
 ブラックウッドに気をつけろと言われていてこれでは、世話はない。
 だから、これはこれで仕方ない、と、態勢を整えようとしていた理月は、
「理月ッ!」
 鋭い叫びとともに、強い雨など気にも留めず、当の理晨が駆け寄って来るのを見て、目を見開いた。
 最後のひとりとなった禿頭の男の銃口が、自分を向いていることに気づいたのは三秒後だ。
 男の指が引鉄にかかったのはその一瞬あと、重苦しい銃声が響いたのは次の瞬間。
 ――それは、自分の目の前に理晨が立ちはだかったのとほぼ同時だった。
 そのときの理月は、何が起きたのか理解できなかった。
 激痛を訴える膝を無視してようやく身体を起こし、何とか立ち上がった理月の腕の中に、低い呻き声とともに理晨が倒れ込んで来る。
「え……」
 咄嗟に抱き留めると、左手がぬるりとした生温かいものに触れた。
 手の平は、赤く染まっている。
「こんんんッッの、クソッタレ!」
 激怒していると思しき声の瑠意の、華麗で見事な飛び蹴りが、二発目を撃とうとしていた禿頭の男の顔面を捕らえ、吹き飛ばす。
 更に瑠意は、吹っ飛び、ごろごろと転がってから地面に叩きつけられた男に追いすがり、情け容赦なく彼を踏み躙っている。聞き苦しい悲鳴が漏れたが、瑠意はお構いなしだ。
「この大事な場面に乱入ってだけで許し難いのに、理晨さんに怪我させるとかあり得ねぇし! 粉々に砕けて詫びろ、KYども!」
 瑠意の言葉でハッとなり、腕の中の理晨を見下ろす。
 激しく出血しているのは、左肩だ。
 意識があるのかないのか、伏せられた目を彩る長い睫毛が、褐色の肌に影を落としている。
「……りし、ん」
 たどたどしく名前を読んだら、伸ばされた指先が、理月の頬をなでた。
 命に別状はないようで、理月に支えられてゆっくりと立ち上がりながら、理晨はかすかに笑っている。
「ああ、なんか……くすぐってぇな、それ」
「……え」
「名前呼ばれる、っての」
「そんなこと、言ってる場合じゃ……」
 理月が眉をひそめ、傷の様子を確かめようと傷口に再度触れた、その瞬間。

 ざ、ざざ、ざあああああああ。

 何かが、理月を、包み込んだ。
 風だったのか、ノイズだったのか、判らない。
 何故それが起きたのかも。

 いくつものヴィジョンが、ざあざあという音を伴って、理月の脳裏を行き過ぎていった。

 八歳までは『普通』に幸せだったのだ。
 考古学者の父と、画家の母とともに、世界のあちこちを回った。
 世界は広く、美しく、残酷で潔かった。
 しかし。
 八歳の夏。
 ――武装組織の襲撃。
 血溜まりの中で息絶えている両親の姿。
 泣いても怯えても助けはなく、両親の死を悼む間もなく、そのまま誘拐されて、心身ともに惨い扱いを受けながら、捨て駒として育てられた。
 十四歳になったばかりの頃、武装組織は、ひとりの男と、彼の指揮する小規模な部隊によって壊滅させられる。
 組織への復讐心から洗脳を免れていたお陰で、指揮官たる男に拾われることになった。

 時を同じくして設立された新しい傭兵団。
 名を、白き竜と。
 そこには、同じように拾われて来た金の目の少年がいて、彼とは兄弟のように育った。彼とは今も、どれだけ離れていても、魂でつながっていると感じている。
 傭兵団の人々は、一癖も二癖もあり、乱暴で大雑把だったが、誰もが優しくて、たくさん愛してくれた。
 そのお陰で、自分を見失わずに長ずることが出来た。
 確かに、幸せだった。
 たくさん愛してもらったし、たくさん愛することを許されていた。
 あの日々によって自分は作られたと断言することが出来る。

 転機は、十二年前。
 どうしても断れずに受けた仕事。
 欲に目のくらんだ雇い主の裏切り。
 倍以上の人員を擁する凶悪な武装組織に取り囲まれ、銃火器の一斉掃射を浴びて、――次々に、なすすべもなく斃れて行く、『家族』。
 あの時以上の絶望を知らない。
 百人近くいた『家族』は、そこで半分以下に減ってしまった。
 それでも半分生き延びたことを喜ぶべきなのだろうか。
 今でも答えの出ない問いだ。
 激しい哀しみと復讐心、そして死んで行った大切な人々のために何かしたいという思いに衝き動かされて裏切り者を殺し、自分もまた生死の境を彷徨う重傷を負った。

 頭を冷やして自分を見直せ。
 団長の言葉は簡潔だった。
 命に執着のない人間を団においてはおけないと――それは恐らく、団長の不安、心配の裏返しでもあったのだろう――、一度、日本に戻された。金の目の兄弟を初めとした『家族』は、皆寂しがったが、誰も反対はしなかった。

 奇妙な縁で、親日家の米国人映画監督を助けたのをきっかけに、映画俳優をやることになった。
 お人好しで誠実な、映画への情熱と『人間』への愛が服を着たような彼とは、今でも親友だ。年に一度くらいの割合で会う『家族』や、映画の撮影がきっかけで出会った恋人とは違った安らぎを、彼は与えてくれる。
 過去を問われて、自分だけではなく誰かにも、失われた人々のことを知っていてほしい、覚えていてほしいと、素直にそれを話した時の、顔中の穴という穴から液体を流して、両親や『家族』を悼んでくれた彼の顔を、今でも鮮明に覚えている。

 ――そして、その三年後に、映画『ムーンシェイド』の撮影は開始された。
 精緻に、リアルに描き出された人間像、たくさんの思い。
 それらは、失われたすべてのもののために、紡ぎあげられた。
 生命への慈しみと、誰かを愛しいという思いと、生きることの困難さ、そこに含まれた、それ以上の貴さとを高らかに歌って。

 “あの事件”から、もう、十二年。
 なすすべもなく喪った虚無感はまだ消えてはいないが、『家族』が生きろと願うから、生きている。
 たくさんの気持ち、たくさんの祈り。
 それらに、今も、生かされている。

 そんな理晨の過去や思い、そのすべてが、理月の中に、流れ込んだ。
「あんた、も、」
 声が震える。
 理晨に添えた手に、力がこもる。
「同じ、なのか……?」
 あれは『白凌(はくりょう)』だ。
 『白凌』の写し身。
 死んで行った人々と、『白凌』の傭兵たちは、ひどく似ていた。
 姿かたちも、好きなものも、生き方も。
 理月に生きろと言って死んだ『家族』たち。
 それを、なんて残酷な愛だろうとずっと思っていた。
 だが、理晨の過去を垣間見た今、判った。
 何故『ムーンシェイド』という映画が作られ、理月たちが生み出されたのか。
「あんたも、なくして、それで」
 ――あれは鎮魂の物語だったのだ。
 死んだ『家族』を忘れたくないという理晨の思い、願いに応えて、彼の親友だという映画監督が創り上げた物語。
 たくさんの祈り、慈しみが込められた、愛するものへの鎮魂の歌だ。
 遺して逝かざるを得ない、置き去りにせざるを得ない自分に歯噛みしつつ、それでも生きてほしいと願いながら斃れて行った、優しい人たちのために織り上げられた物語だった。
 そう、断じてそれらは、娯楽のため、金銭のためだけになされたことでは、なかった。
「……ッ」
 自分たちが『創られたもの』なのだとして、何故こんな運命を背負わせるのかと、自分たちを創った人々を恨めしく思いもしたし、自分を演じた理晨に複雑な思いを抱きもした。
 だが、理晨は理月だった。
 理月と理晨は、同じ痛みを、同じように映す、鏡そのものだったのだ。
「なんで、こんな……!」
 何をどう表現したらいいのか判らない、自分でも言い表し難い感情が込み上げて、理月は理晨にしがみついた。
 ずぶ濡れになった胸に頭を、耳を押し付けると、心臓の音が聞こえる。
 ああ、生きているんだと、そう思ったら、
「う……」
 堪えようもなく、涙があふれた。
 頬を滑り落ちて行くのが、雨粒なのか、涙なのか、判らない。
「……ごめん」
 嗚咽しながら、情けない、とも思ったけれど、止め方も判らず、
「ごめんな、理月」
 理月を抱き締め、背中をそっと撫でてくれる理晨の手が優しくて、
「お前にひどい運命を押し付けておきながら、お前がここにいてくれてよかったって、お前が幸せでいるだけで嬉しいって、勝手なことばっか思ってて、ごめん」
 そこに滲む共感と慈しみが哀しくて、同じくらい心に沁みて、身体を叩く冷たい雨が奇妙に温かく感じられ、もう少しこのままでもいい、と、思ってしまったのもまた、事実だった。



 8.晴空にて・通い合う音色

 あの雨の日から、一週間ほど経っていた。
 理月も理晨も、傷はひどかったが、ふたりともいつものことであるらしく、簡単な魔法で血を止めたあとは、普通の手当てをするだけで済んだ。
 なんとも手のかからない人々である。

 晴れ間の見える、正午前のことだ。
 梅雨は、どうやらもうじき明けるらしかった。
「おや、理月殿。それに理晨殿も」
 瑠意と連れ立って、彼の言う『必需品の買い物』に出かける途中、行き逢ったのは、衣装以外そっくりなふたりの傭兵だった。
 声をかけると、頷いた理月が邪気のない笑みを見せる。
「うん、今日は、十狼さん。それに、瑠意も」
「傷の具合はいかがか?」
「ああ、もうあんまり痛くねぇし、すぐ治ると思う。なぁ、理晨?」
「ん、ああ、そうだな」
 あの時、何があったのかは知らないが、どうやら判り合うこと、受け入れることが出来たらしいふたりの表情は穏やかだ。まるで、ずっといっしょに育ってきた兄弟のような、絆めいた何かを、ふたりからは感じる。
 瑠意が、ホッとした表情をする。
 瑠意は、ふたりのことをとても心配していたから、当然と言えば当然なのかもしれないが。
「ふたりとも、今日はどこに行くんだ?」
「ブラックウッドさんち。理晨が、俺がいつも世話になってるし、挨拶に行こうかって」
「ああ、なるほど」
「これ、土産な。ジークに言って手に入れてもらったんだ」
 理晨の手には、明らかに年代物と判る赤ワインのボトルがある。
「ヴァールハイトってすげぇよなぁ、何でもすぐに用意出来ちまうんだもんな」
「馬鹿お前やめろって、変に褒めたら調子に乗るぞアイツ」
「理晨って、ヴァールハイトには厳しいよな。何でだ?」
「……そうするに足る扱いを受けてるからに決まってんだろ」
 溜め息交じりの理晨に、何故か瑠意が共感の眼差しを向けている。
 十狼は、髪の毛の一筋までが美しい銀髪の男を思い出しながらかすかに笑った。
 彼には、非常に身近な匂いを感じる十狼である。
 そこへ、
「あかっちー、おーい」
 元気いっぱいの声とともに、ぽすぽすと走ってきた太助が、理月の身体を駆け上がり、頭の天辺にしがみつく。
「みんな、ぽよんすー!」
 可愛らしい挨拶に、理月の目尻が下がる。
「ぶらっくうっどのとこ、いくんだろ? 俺もいっしょにつれてってくれよ、つっちーとあそびてぇしさっ」
「ああ、もちろんだぜ」
 定位置に腰を落ち着ける太助に、理月が心底幸せそうに笑った。
 それを、理晨が、年の離れた弟を見るようなやわらかい目で見ている。
「ああ、なんか」
 三人のそんな様子に、瑠意が目を細めた。
「いかがされた、瑠意殿?」
「や、その。すごくいいなって」
「――……ああ」
 十狼は死や破壊のために存在すると言って過言ではない、規格外の、聖よりは魔に近い、天人にあるまじき純血の天人だが、それでも、瑠意の言う意味を理解することは出来る。
 十狼が世界すべてよりも大切だと断じる彼の若君ならば、きっと瑠意と同じことを言うだろうという事実と同じく、十狼自身もまた、通い合う思いを貴く思うからだ。
 そしてその変化は、十狼がこの銀幕市に実体化したがゆえのものであり、彼を取り巻く環境のゆえのものでもある。
「あの、十狼さん」
 彼を変えた環境の一旦である瑠意が、神秘的なアメジストの双眸で十狼を見上げる。
「ふむ?」
 十狼が首を傾げると、瑠意は頬をほんのり薄紅に染めて、
「あ……いえ、その、何でもないです」
 照れ笑いをしてから目をそらした。
 十狼は再度首を傾げたが、わざわざ目くじらを立てて追求することのようには思えず、また、言葉にせずとも伝わっているようにも感じて、そうか、と返すに留めた。
「んじゃ十狼さん、瑠意、行って来るわ、俺たち」
 太助を頭に乗せた理月が言うと、瑠意が頷いた。
「ああうん、行ってらっしゃい。また皆で飯食いに行こうな」
「おう、今度こそ『楽園』でな」
「太助も理晨さんも、行ってらっしゃい」
「おうよっ。るいはじゅーろーとでーとなんだろ、気をつけてなっ」
「え、いや、デートとかそんなんじゃ……」
「あんたのそういうとこ、可愛いよなホント」
 理晨が笑うと、首まで真っ赤になりつつ、可愛くないし、と瑠意が返す。
 そういうところが可愛らしいのだと十狼が言えば、瑠意は多分、絶句してまた赤くなるのだろうが。
 理晨はそうかな、と肩をすくめてから、
「まぁ、よければうちにも遊びに来てくれよ、あんたの主人と一緒に」
 十狼に向かってそう言い、踵を返した。
 その隣に、笑顔で手を振った仔狸つきの理月が並ぶ。
「……さて、では、我々も行くとしようか」
 みっつの背を見送って、十狼が傍らの瑠意を促すと、瑠意が、無防備な笑みを浮かべて頷く。
「今日は、いずこへお付き合いいたせばよろしいか」
「ああ、はい、ええと……まずは太助に教えてもらった和小物屋さんに行って、刀冴さんにケーキを焼いてもらうための材料を輸入食料品店に買いに行って、お気に入りのショップとCD屋に行きたいんですけど。あと、今日の昼飯は中華がいいです」
「……承知した」
 他愛なく、穏やかに流れて行く日常。
 ゆくりなく、しかしそれでいて運命のように出会えた様々なもの。
 隣を歩く紫紺の青年が、ムービースターやファンやエキストラという枠組みを超えて、自分たちを大切に思っていることが判るからこそ、十狼は、自分もまた、残された時間いっぱい、彼らを愛し、守り、貴ばなくてはならないと思うのだ。
 限られているからこそ、最後まで、と。
 その思いに、いかなる垣根も存在しないことを十狼が学んだのも、この町で、なのだった。

クリエイターコメントオファー、どうもありがとうございました。

いつもの、お馴染みの皆さんに新しいお仲間を加えての物語、大変楽しく、わくわくしながらも、とても愛しく書かせていただきました。

ムービースターとムービーファン、そしてエキストラという在り方は、存在という意味ではまったく違うけれど、心や魂、誰かを思うという意味では何ひとつ変わらないのだと、そう強く思わされました。

決して平穏のみとは言えない我らが銀幕市ですが、新しく仲間となられた方々が、この町で、精一杯、誰かを愛し大切に思う気持ちとともに日々を楽しまれるよう、祈ってやみません。

それでは、素敵なオファーを本当にどうもありがとうございました。
皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
公開日時2008-07-29(火) 22:10
感想メールはこちらから