★ Harvest Rain ―彩幸讃歌― ★
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
管理番号102-5149 オファー日2008-11-01(土) 00:34
オファーPC 片山 瑠意(cfzb9537) ムービーファン 男 26歳 歌手/俳優
ゲストPC1 刀冴(cscd9567) ムービースター 男 35歳 将軍、剣士
ゲストPC2 十狼(cemp1875) ムービースター 男 30歳 刀冴の守役、戦闘狂
ゲストPC3 理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
ゲストPC4 月下部 理晨(cxwx5115) ムービーファン 男 37歳 俳優兼傭兵
ゲストPC5 ヴァールハイト(cewu4998) エキストラ 男 27歳 俳優
ゲストPC6 ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
ゲストPC7 太助(czyt9111) ムービースター 男 10歳 タヌキ少年
<ノベル>

 1.秋は楽し

「やー、大漁大漁」
「たいりょーたいりょー! 秋っていいな、あかっち!」
「本当だな。なんつーか、こう……うきうきしちまうのは何でかな」
 上機嫌で畑から戻ってきた理月(あかつき)と太助(たすけ)は、腕に、山のように野菜や果物が入った籠を抱えていた。
「土のにおいもいいよなぁ」
「うん、なんか……生きてるって気がする。地面にしっかり足をつけて踏ん張ってる匂いだ」
「そだな。そんな場所で育った野菜が、うまくねぇはずがねぇんだよな。今日の夕飯なにかな、たのしみだ」
 場所は天人主従の住まう杵間山中腹の古民家。
 今日は皆がオフの日で、古民家の畑の農作物も収穫日和だったので、じゃあせっかくだから、とれたての野菜をふんだんに使って皆で宴会でも……となったのは、ごくごく当然の流れだった。
 大騒ぎしながら野菜を収穫して、山菜を採りに行ったり山鳥や野うさぎを獲りに行ったりして、今から夕飯の準備である。
「ジーク、こっちだこっち。丁寧に扱えよな、刀冴と十狼さんの気持ちがこもった野菜だぞ、ぞんざいに扱ったら蹴り倒すからな」
「……蹴るな。俺の生家にも畑はある。作物を育てているのは使用人だが、その大変さくらいは判っている」
 色とりどりの野菜が詰まった籠を抱えた月下部理晨(かすかべ・りしん)と、少々溜め息交じりのその同居人、ヴァールハイトことジークフリート・フォン・アードラースヘルムとが厨につながる土間へと戻って来ると、その背後からは、つい先刻仕留めて来たと思しき野趣あふれる獲物を手にした刀冴(とうご)と十狼(じゅうろう)が顔を覗かせ、周囲の密度が途端に高くなる。
 何せ、太助以外のメンバー全員が身長百八十cm以上という長身ばかりなのだ。窮屈にもほどがある。
「あ、十狼さんお帰りなさい! とりあえず、お湯の準備とか、竈の準備とか、しておきましたから」
 厨から顔を出した片山瑠意(かたやま・るい)は、満面の笑みで十狼に手を振った。
「そうか、それはかたじけない」
 十狼が穏やかに微笑んで頷くと、それだけで瑠意の頬に朱が差す。
「幸せそうだなぁ、瑠意」
「いいんじゃね? しあわせなのはいいことだぞ、あかっち」
「まぁそうだな、俺も太助と一緒で幸せだからな!」
 理月と太助の会話に、更に赤くなる瑠意。
 それを刀冴が、少し呆れた顔で見ている。
「まぁいいや、とりあえず俺はメシの準備すっから、客は居間で待ってろ」
「え、刀冴さん、俺も手伝うって」
「俺も手伝うぜ? そこの邪悪なセレブはあてにするだけ無駄だろうけどな」
「……無駄で悪かったな……」
 傭兵ふたりが主張し、ヴァールハイトがぼそりと呟くのへ、刀冴は首を横に振った。
「嵩張りすぎて邪魔だ。理月、お前は太助と一緒に食器の準備をして、それからブラックウッドと使い魔の相手して来い。退屈……はしねぇだろうけど、ほったらかしってわけにもいかねぇだろ」
「あ、なるほど、了解。んじゃ太助、行こうぜ」
「おっけーだぜ、あかっち!」
 仔狸を頭に乗っけた理月が、食器棚をごそごそやり始めるのを横目に、刀冴は次に理晨とヴァールハイトを見遣った。
「あんたらはとりあえず、その辺の散策にでも行ってくればいい」
「え、何でいきなり散策」
「ははは、決まってんだろ、嵩張るからだ」
「笑顔で邪魔者宣言かよ!? いやまぁ実際俺らがここにいても邪魔になりそうだからいいけど。そういやこの辺、何度も来てるわりに、何があるとかあんまり知らねぇんだよな。……探険にでも行ってみるか」
 理晨がヴァールハイトを見ると、髪の毛一筋までが美しいドイツ人の男は、軽く肩を竦めて好きにしろ、と言った。
「よし、んじゃ決まり。小一時間くらいで戻ってくりゃいいかな?」
「ん、ああ。まぁそんな心配する必要もねぇだろうが、危険な場所もあるから気をつけろよ。二時間経っても帰ってこなかったら探しに行ってやるから心配すんな」
「はは、精々気をつけるさ」
 軽やかに笑った理晨に促され、彼とともに、無表情のヴァールハイトが出て行く。
 それを見送った刀冴が、さて、と呟き、包丁を手にまな板の置かれた台に向かうと、その隣に十狼が並んだ。
「俺は、山鳥で炊き込み飯を、兎肉で焼き物や汁を作るか。山鳥は串焼きにしてもいいよな。メインはその辺りとして……今日は理月が『楽園』のタルトを持って来てくれたから、デザートは作らなくていいみてぇだし、何かつまみも作ろうかな。十狼、お前は?」
「……では十狼は、付け合せの菜を」
「判った」
 それからふたりは、特に言葉を交わすでもなく、黙々と、しかし呼吸の合った連携で様々な惣菜を作り始める。
 包丁を片手に食材を整えていく刀冴はどこまでも楽しそうだし、楽しそうな刀冴を片目に見ている十狼はとことん嬉しそうだ。
 そんな十狼のフォローたるや素晴らしく、刀冴が何かを探す素振りをした瞬間彼の目的のものを差し出すといった充実ぶりで、瑠意は、この人どんだけ刀冴さんが好きで大切なんだろう、と三分の一呆れ、三分の一羨み、残りの三分の一でそんな十狼さんも以下略、などと思った。
 三十分ほどふたりの手際に見惚れてから、瑠意は声をかける。
 このまま見ていたとしても問題はなさそうだが、それではつまらない。
「刀冴さん十狼さん、何かお手伝いすること、ありますか?」
 すると、大きな鉄鍋の中身を掻き混ぜていた刀冴が振り向き、首を横に振った。
「いや、俺たちふたりいたら何とでもなるし、理月たちと一緒に寛いでてくれりゃいいんだが」
「あ、やっぱり。いや、うん、判ってるんですけどね、その……何て言うか」
 耳の先をほんのり赤くした瑠意がもごもご言うと、刀冴はかすかに笑って十狼を指差した。
「まぁ……どうしてもそいつと一緒に厨に立ちてぇってんなら、そっちの七輪で、岩魚と山女を焼いてくれても構わねぇぜ」
 土間に近い地面に置かれた七輪を指差した刀冴に、手伝いを申し出た最たる理由を言い当てられて、首まで赤くなりながら、瑠意は小さく頷く。色恋に興味のない天然朴念仁の癖に、こういうところばかり鋭くて困る……などと若干失礼なことを思っていると、くるりと振り向いた十狼がにやりと笑った。
「おやおや、ずいぶんと可愛らしいことを仰せなのだな、瑠意殿は」
 猛々しい天人の美丈夫の、揶揄と親しみを含んだ視線に、瑠意は頭に血が上りすぎて鼻血を噴くか、もしくはそのまま卒倒するかと思ったが、ここで倒れたら何をされるか判らない上に美味な食事を食いはぐれるということもあって(この辺りが食欲魔人)、必死で踏み止まる。
「か……可愛いとか言わないで下さい、いい年こいた男に……!」
 何とか呼吸を整え、火照った頬を鎮めながら、炭火が赤々と燃える七輪の網に、串に刺して塩を振った川魚を載せて行く。
「……綺麗な魚だなぁ」
 岩魚も山女も、鱗が艶々と輝く、とても美しい身体をしていた。
 こんな美しいものを食べることが出来る自分たちは幸せだと思うし、感謝しなくてはならないとも思う。
 自然を友とし、自然に愛され、自然とともに生きる天人たちの傍にいると、尚更そう思わされる。
「よし、こっちは完成だ」
「うわ、いい匂い。これ何ですか?」
「兎の脳味噌を使った真薯(しんじょ)だな。蒸したのを一旦焼いてから、昆布出汁と葛で餡を作ってそれに絡めてある」
「脳味噌……へぇ……」
「ん、十狼の方も出来たみてぇだな、んじゃ運ぶか」
「あ、はい、魚もそろそろよさそうです」
 瑠意が焼きあがった魚を、焼き魚用の長細いタイプの皿に並べていると、
「うひょーたまんねー超うまそうなにおいだな、あかっち、つっちー!」
「ホントだな。刀冴さん腹減った、飯ー!」
『ぷっぎゅぷっぎゅぷぎゅーむ(ぼくたくさんたべたいのです)!』
 匂いを嗅ぎつけて、頭の上に太助、肩に使い魔を乗せた理月がやって来て、惣菜の入った皿を運ぶ手伝いを始めた。
 こんがり焼けた川魚の皿を運んでいた瑠意は、理月の頭に陣取った太助が箸の束を、肩の上の使い魔が小さな醤油差しを一生懸命抱えているのを目にしてうっかり萌える。
 小さいものクラブの破壊力はここでも健在だ。
 そこへ、
「あー、楽しかったー」
 髪の毛のあちこちに赤や黄色の葉っぱをつけた理晨が、髪一筋の乱れもないヴァールハイトとともに戻って来る。
「杵間山って面白ぇな、色んなハザードが隣接してて。夢中になって登っちまったぜ。向こうの方で山葡萄見つけてさ、すれ違った天狗の爺さんに半分やったら、酒くれた」
 理晨の、嬉しそうに大きな徳利を掲げて見せる様は、とてもではないが瑠意より十一歳も年上のようには思えない。年下だと言われても信じるだろう。
 何であんなに童顔なんだろ、と瑠意が思っていると、理月が居間から戻って来て、まったく同じ顔を覗かせた。
「あ、理晨お帰り。もう飯らしいぜ」
「ん、ただいま。んじゃ手ぇ洗ってくるわ。ジーク、行くぞ、裏の井戸だ」
 賑やかに、入れ替わり立ち代り人が出入りする。
 誰もが楽しげで、活き活きとしている。
 瑠意は、酒器を運びながら、もうじき始まる賑やかな宴会に思いを馳せて、笑った。



 2.宴

 古民家の食事風景はいつも賑やかだ。
 誰が訪れても、家主である刀冴は快く迎え、美味な食事を振る舞ってくれる。
 そして、それが誰であっても――無論、ともに一時を楽しもう、という気持ちがあれば、だが――、分け隔てなく、構えるでも取り繕うでもなく、自然に、ありのままに接してくれる。
 だからこんなに気持ちがいいのだろう、と、理月は箸を操りながら思った。
「刀冴さん刀冴さん、山鳥の炊き込みご飯、お代わり! 肉多めで!」
 一杯目をぺろりと平らげた食欲魔人・瑠意が、自分用の飯椀を掲げて言うと、
「この、もちみてぇなの、なんとも言えねぇはごたえで、たまんねぇな。うめぇえええ」
「ん? ああ、それはな、大根おろしにねぎだの桜海老だの小麦粉だのを加えて油で揚げたもんだ。あっさりしてんのに味わい深くて、幾らでも食えちまうだろ? この、かぼすの絞り汁をかけて食うともっと美味いぞ」
「へええ、これ、大根なのか! さっき俺たちが引っこ抜いたあれだよな? 大根が、こんなもちもちしてうまくなるのか……とーごはすげぇな! いや、大根もすげぇんだろうけど」
「どっちかってーと、すげぇのは大根かな」
 瑠意の飯椀に再びこんもりと炊き込みご飯を盛り付けてやりながら、刀冴が笑う。
「なぁ、刀冴。俺、あったら白飯ほしいな」
「おう、別に炊いてあるから持って来てやるぜ?」
「あ、マジで? や、太助の持って来た漬物、マジ美味いからさ。交じりっけのねぇ白米でガッツリ食いてぇ」
 太助がお世話になっている老夫婦が仕込んだ漬物に醤油を垂らしながら理晨が言い、隣で赤い液体の入ったワイングラスを傾けているヴァールハイトの脇腹を肘で小突いた。
「ジークお前何ひとりで気取ってワインなんか飲んでんだ、ここは日本酒だろ、日本酒!」
「何を言う、この兎肉には、どう考えても赤ワインの方が合うだろうが」
「……そういうもんか。それって、お前が持って来た奴だろ? また邪悪な値段の奴か?」
「何をもって邪悪と評するのかは俺には判らんが。カレラ・ジェンセンの2001年だ。味わいのわりに安価で、人気も高いと聞くぞ」
「カレラ? 何だそれ。人名か?」
「銘柄だ」
「知るかそんなもん」
「……」
 細かいことにはとんと無頓着な――理月もあまり人のことは言えないが――理晨に一刀両断にされ、ヴァールハイトが無表情のまま沈黙する。ふっと吐き出された呼気が、妙にやるせなかったのは気の所為だろうか。
 理晨ってヴァールハイトには無体だよな、などと思いつつ、兎の内臓を生姜醤油に漬け込んで焼いたものを理月が齧っていると、隣でくすり、という笑い声がした。
 品のよい上質な黒のスーツ、洒脱に調えられた髪、穏やかでありながら妖しい、理知的な美貌と、やわらかな物腰。彼の目の前のテーブル上では、蝙蝠に似た黒いものが、ぷぎゅぷぎゅ言いながら山鳥の炊き込み飯(お握りヴァージョン)を頬張っている。
 そのすべての要素をかね添えた人物が、魔性の美壮年・ブラックウッド以外にいるはずもない。
「ヴァールハイト君の言うそれは、カリフォルニアのロマネ・コンティと名高いワインだね。……私にも少し、いただけるかな」
「無論だ」
 ようやく話の判る奴が現れた、とばかりに目を細め、ヴァールハイトがブラックウッドのグラスにワインを注ぐ。
 驚くほど深い紅紫が、ゆるゆるとグラスを満たしていく。
「ほう……素晴らしい色合いだね。並のブルゴーニュワインでは、太刀打ちできない美しさだ」
 理月は、穏やかな微笑とともに礼を言ったあと、金の目を細めてワイングラスの赤を見詰めるブラックウッドを見遣る。
「ブラックウッドさん、知ってんだ?」
 首をかしげて問えば、小さな頷きが返った。
「ワイン好きの間では有名だよ。残念ながら、実物を目にする機会に恵まれなくてね、これが初めてだけれど……」
 ブラックウッドの手が、グラスを持ち上げ、中の液体をあかりにかざす。
 ちなみに、和の極みのような古民家にワイングラスがあるのは、この家でワインが飲みたいと思った誰かが、以前にここに持ち込んで、戸棚にそれを保管する場所を確保して行ったからだ。
 理月にワイングラスのよさを云々する基準はないが、ブラックウッドの手の中にあって赤い液体をたゆたわせているそれは、幻想的で、どこか倒錯的で、美しかった。
「ふむ……この、強烈なまでのベリー香、花束の心地よい薫り、そして樽香……ああ、いいね」
「概ね同じ意見だが、素晴らしいのは香りだけではないぞ」
「そのようだ……甘味、酸味、渋味のバランスが完璧だ。ディキャンタージュして一日置けば、更に素晴らしい味わいになりそうだね、これは」
「そうだな。纏めて仕入れておいたから、試してみるとしよう。ブラックウッドと言ったか……お前のところにも、十本ばかり届けよう」
「おや、それは嬉しいね」
「お前が喜ぶと、理月も喜ぶからな」
「ああ、なるほど」
「しかし、この値段でこの品質とは、恐れ入る。俺はあの国は今ひとつ好かんが、国という境など関係なく、こういう努力の出来るワイナリーには、素直な感嘆を捧げたいとも思う」
「そうだね、私も同感だよ。ところでヴァールハイト君、君は“オーストラリアのロマネ・コンティ”を知っているかい――……」
 ともにセレブ街道まっしぐら、なブラックウッドとヴァールハイトが、安価で美味なワインから超高級ワインまで、様々な種類と味わいのワイン談義で静かに盛り上がるのを横目に、理月は皿に箸を伸ばした。
「太助、山女の塩焼き要るか?」
「食う食う。んじゃあかっち、白菜と干し海老のくたくた煮、要るか?」
「もちろんだぜ。使い魔も、川魚の焼いたの食うか?」
『ぷっぎゅーむ(たべるのですー)!』
 太助と使い魔に両脇から挟まれて、理月は幸せ笑顔だ。
 それを見て、缶ビールを傾けながら、十狼のこしらえた牛蒡の唐揚げにんにく風味をつまんでいた理晨が嬉しそうな顔をする。
「どした、理晨?」
「ん? や、お前が幸せそうにしてると、なんか俺まで嬉しくなっちまう、って思っただけだぜ」
「……ああ」
 兄のような理晨の言葉に少しはにかみ、理月は無防備に笑った。
 ほんの数ヶ月前まではまったく彼のことを知らずにいたのが嘘のように、そして初めて顔を合わせたときの激しい拒絶感が嘘のように、理晨は、いまや理月にとってなくてはならない存在だ。
「よかったな、あかっち」
 川魚の塩焼きを頭から齧りながら太助が笑う。
「――……ん、そうだな。太助のお陰でもあるんだよな、ありがとう」
「れいにはおよばねぇぜ。俺だってあかっちのこと、大好きだからな! なあ、つっちー?」
『ぷぎゅ、ぷぎゅーむ(ぼくもすきなのですー)』
「……うん」
 実体化したばかりのころは、色々な記憶が苦しくて、ここに自分しかいないことが寂しくて、生きなくてはならないと思いつつ、いつも、一刻も早く消えてしまいたいと思っていた。消えたところで、誰にも何の問題もないと思っていた。
 しかし、今、理月の命は理月ひとりのものではない。
 理月が死ねば――ここからいなくなれば、哀しみ、憤る人たちが、確かにいる。それと同時に、同等の位置づけで、理月の幸いを祈り、彼の笑顔を喜んでくれる人たちが、確かにいる。
 理月は、その人たちの思いに応えなくてはならないし、それゆえに、自分を大切にしなくてはならないのだ。
 もちろん、悪夢に魘される夜がまったくなくなったわけではないし、有事に際して『無茶をする』自分というのは、自分では何ともし難いのもまた、事実なのだが。
「理月、何ぼんやりしてんだ、春菊とはんぺんの煮浸し、食うか?」
 視線を上げると、どこまでも晴れやかで曇りのない、天人の将軍の笑顔が目に入る。
 理月は何故か少し気恥ずかしくなって、はにかみながら小さく頷く。
「いっぱい食えよ、腹が満たされると、気持ちも満たされるからな」
 瑠意に兎汁のお代わりをよそってやり、太助と使い魔に山鳥肉の串焼きを出してやり、出汁をとったあとの鶏がらを十狼の黒竜エルガ・ゾーナの前に置いてやってから、理月の前に色鮮やかな緑色が乗った小皿を置いて、刀冴が笑った。
「こっちのは、瑠意が作ってきたカボチャの煮付けな。惣菜っつーより酒のつまみっぽいけど、飯と一緒に食っても美味いぜ」
「ああ、うん……」
 気持ちが満たされるのは、空腹が満たされるからだけではなくて、この場所にいるからだ、と伝えたかったが、言葉を口にしたら感極まって泣きそうな気がして、頬を上気させて頷くに留め、理月は瑠意の作ったカボチャの煮物に箸を伸ばした。
 こっくりとした素朴な味わいに、気持ちがやわらかくなる。



 3.歌と舞

 賑やかな夕飯が終わり、デザートが終わると、刀冴はとっておきの玉露を出してきて丁寧に淹れ、皆に供した。
 食後の火照った身体に、開け放たれた障子の向こう側から吹いてくる風と、縁側の向こう側の、夜の景色が心地よい。
「今日のデザート、美味しかったけど……びっくりしたなぁ」
 湯呑み茶碗を片手に瑠意が空を見上げる。
 理月が持って来たカフェ『楽園』の薩摩芋とクルミのタルト・メープル風味は、特に問題なく、危なげもなく美味で、甘いものが大好きな瑠意や太助や使い魔、理月や理晨が、嫌いなわけではないがそれほどこだわりもない他メンバーの分までぺろりと平らげた。
 理晨は自分が大好きだというブランド物のチョコレートを大量に持ち込んでおり、これもまたあっという間に甘味好きたちの腹へ収まった。
 圧巻だったのは、ブラックウッドの『手土産』だった。
 ブラックウッドは、彼お気に入りの、隠れた名店のシェフが手作りした、季節の果物を使ったスイーツを供してくれたのだが。
「うん、俺もちょっとびっくりした。あれって……ブラックホークだよな。バリバリの強襲ヘリが空輸サービスに使われてんの、初めて見たわ。……銀幕市って、面白ぇところだよなぁ」
 理晨がしみじみと呟くように、作りたてを最短時間で味わってもらいたいというブラックウッドの考えにより、色鮮やかな葡萄や梨、林檎やベリーなどで美しく彩られた大きなタルトは、デザートのタイミングに合わせてヘリで空輸されたのである。
 しかも戦争映画出身者が、一緒に実体化した軍用ヘリを使って行っている空輸サービスを利用したらしく、戦闘用ヘリコプターであるブラックホークと乗員がスイーツを携えて降臨するというカオスぶりだった。
 とはいえ刀冴は、ヘリコプターのプロペラ音が聞こえる前から、精霊たちが、何か近づいてきているとか、何かお届け物があるとか、そういうことを耳打ちしてくれていたので、物凄い大音響が周囲に響き渡っても、一軒家だから近所迷惑にならなくていいか、などと思っていた程度なのだが。
「楽しんでもらえたら、嬉しいよ。甲斐があるというものだ」
 湯呑み茶碗を片手に微笑むブラックウッドは、それだけで様になっている。
「うん、マジで美味かった。ブラックウッドさんのお勧めって、外れがねぇからすげぇよな。安心出来るっつぅか。――まぁ、たまに値段の関係で目ん玉飛び出るかと思うことがあるけど」
「あー、それはアレだな、ウチの邪悪なセレブと一緒だ。いいもんばっか知ってるけど、金に頓着してねぇから俺ら一般人には危険、っていう」
「判る判る。アドバイスしてもらったはいいけど、値段が凄過ぎて手も出せねぇ、みたいな感じだよな」
 セレブなパートナーを持つ同じ顔のふたりが、うんうんと頷き合っていると、
「おや……金銭の話をしておいでか」
 片腕に仙胡と呼ばれる独特のかたちをした弦楽器を抱えて十狼が戻ってきた。
「あ、十狼さん」
 二胡を手にした瑠意が、嬉しそうな表情になる。
「ここに来ると、お金のこととか全然気にしようとも思わなくなりますけど……実際、天人って、特にお金なんかなくても生きて行けるんですか?」
「ふむ。そもそも私は食わずとも死なぬゆえな。純血の天人にとって、金銭とは別段大切なものではない。無論、刀冴様に不自由な暮らしをさせるわけには行かぬし、若がお入り用と仰るのならば、いかようにしてでも、幾らでも手に入れて参るが、な」
「そりゃまぁ俺は食わなきゃ死ぬしな。金で贖う必要のあるものもたくさんあるけど、金なんかなくても、何とでもなるからなぁ。必要になったら、必要なだけ稼いで使えばいいんだ。俺は武人で軍人だ、金銭のためにあくせくしてぇとは思わねぇから」
「……ああ、刀冴さんらしいですね、その返し」
 刀冴の言葉に、瑠意がくすりと笑った。
 刀冴は軽く肩を竦める。
 彼の抱く欲求は、物欲からはもっとも遠い。
 刀冴の魂を刀冴の色にする欲は、彼の矜持、彼の生き様に関することに他ならないのだから。
「まァ、いい」
 玉露の入った茶碗を手に、刀冴は守役を促す。
「奏でろよ、十狼。せっかくの、佳(い)い夜だ」
「――……御意」
 不思議な流線型を描く弦楽器を手に、十狼が恭しく一礼した。
 その十狼の視線が瑠意に向けられると、瑠意は幸せそうに微笑んで、十狼の隣に腰を下ろす。
 物好きだ……などと言えば瑠意は怒るかもしれないが、紫髪紫眼のこの青年が、天人族最強の男を憎からず思っていることは確かなようで――そして十狼が、瑠意を、特別な存在として扱っていることもまた事実で――、並んだふたりの間に、穏やかな友愛が満ちるのを、刀冴は感じ取ることが出来た。
「さて……では」
 言った十狼が、弓を弦に当てる。
 きゅ、おう、と、弦が鳴いた。
 瑠意が目を閉じ、十狼に倣うと、
「――……スゲ」
 溢れ出すのは、神代の音色だ。
 感嘆の声を漏らしたのは理晨で、太助を抱き締めて聞き惚れるのは理月。
 ブラックウッドは金の眼を細め、ヴァールハイトはアイスブルーの双眸にかすかな感嘆を載せて、奏でられる神代の音楽に耳を傾けている。
 それを、何と表現すればいいだろうか。
 魂を掻き毟るような郷愁と、意識を明晰にする怜悧さと、恐怖すら込み上げるほどの甘美さを伴った、意識を打ち据える音の塊でありながら圧倒的にして絶対的な、壮絶な旋律でもあるその音楽を。
「若」
 誰もが、天人の美丈夫と紫髪の青年のセッションに聞き惚れる中、静かに言葉を紡いだのは十狼だった。目を閉じたまま、手だけを動かしている様子は、出来過ぎた演奏人形にも、魂を吹き込まれ動き出した彫像のようにも見える。
「何だ、十狼」
「若の舞を願うことは、従者として出過ぎたことでありましょうか」
「……いいや」
 刀冴はかすかに笑うと、部屋の片隅に立てかけてあった【明緋星】を手に取った。反対の手には、いつの間にか、銀の鈴を赤い絹紐でまとめたものがあり、刀冴の動きに合わせてシャンと鳴る。
「久しぶりだな……お前の演奏で舞うのも」
 一度、キラーと化した憐れなムービースターが死んだとき、その鎮魂と、やるせない思いを昇華させるために舞ったのと、親しい友人たちが絶望の穴に触れて変化した《まだらの蜂》が斃されたあと、悪役会の呼びかけで集まったときに、皆で奏でたレクイエムの中で舞って以来のはずだ。
 あの時の刀冴は、双方、少し沈んでいたけれど、今は違う。
 絶望に打ち勝つ強い意志と希望、そして愛情とが、ここに満ちていることを、刀冴は知っている。
 唇が、飄々とした笑みを刻む。
「……悪くねぇ」
 体重を感じさせない動きでふわりと庭へ降り、髪を宙に躍らせながら剣を抜く。反対の手は、涼やかな鈴音とともに、ゆったりとした動きで空へ掲げられ、宙を撫でている。
 しゃん、と鈴が鳴った。
 そこへ、仙胡と二胡のメロディが重なる。
 刀冴はゆったりとした動作で地面を踏み、全長百六十cmの大剣の切っ先で満月を描く。真紅の刃が、月光を受けて宝石のように輝いた。
「綺麗だ……」
 ぽつりと呟いた理月が立ち上がる。
 彼の手に、『白竜王』の姿を認めて刀冴は笑い、小さな動作で手招きをした。
 嬉しそうに笑った理月が、軽やかな足取りで舞の輪に加わる。
 教えようと思って教えたわけではないが、理月は、何度かそれを目にする機会があったからか、刀冴の剣舞を身体で学びつつある。
 刀冴にとって剣舞は、戦い以外での、数少ない自己表現のひとつだが、理月もまた、《まだらの蜂》や、その事件で命を落とした人々への鎮魂の宴で舞った時のように、言葉ではない何かで感情を表現するすべとして、舞を選択しているのかもしれなかった。
「……なんかさ」
 『白竜王』の、銀の星を鋳込んだかのような切っ先を宙に舞わせ、理月が低く囁く。
「どしたよ」
「や、なんか……奇跡みてぇな気がするなって」
「……ああ」
 ふたりの指先が、ぴたりと揃って月を指す。
 ふわり、くるりと宙をすべった赤と銀の切っ先が、阿吽の呼吸で交わる。
「俺……」
「ああ?」
「もし、魔法が解ける日が来ても、この日のことを、ずっと覚えてられたらいいのに、って思うよ」
「……そうだな」
 穏やかに微笑む理月を、ヴァールハイトと並んで縁側に腰掛けた理晨が、静かな慈しみの眼で見ている。太助と使い魔も、幼いなりに今この瞬間をともにあれる幸いが判るのだろう、縁側で、手をつないで楽しげにくるくると踊っていた。
「ああ……佳(よ)い夜だ。胸の奥から、音が埋まれいずるかのようだね」
 神代の音楽に重ねられる、重厚にして洒脱、優雅にして軽やかな、ブラックウッドの美声。
 朗々と、滔々と流れ行く、圧倒的な音の中で、刀冴は、理月とともに、時間を忘れて手を、髪を、刃を、夜空に舞わせた。
 幼い刀冴に剣舞を教えた父が、そうしたように、世界と、今自分がここにあることへの感謝を、仕草のひとつひとつに込めながら。



 4.きみと、あなたといっしょなら

 神代と幻想の交錯する音楽でつながった一時の、興奮覚めやらぬ深夜。
 ブラックウッドは、古民家の縁側に腰掛けて、金の月光と銀の星が散りばめられた夜空を、眼を細めて見上げていた。
「……すごかったなぁ」
 隣で、同じように夜空を見上げる理月の眼は、まさに空を彩る銀光と同じで、そこにはいかなる邪気も屈託も、浮かんではいないのだった。
「楽しかったな、ブラックウッドさん」
 実年齢にそぐわぬほど無防備な笑顔を向けられて、ブラックウッドは微笑む。
 泣き顔も怒った顔も拗ねた顔も、ブラックウッドにはどれも愛しいが、やはり、この漆黒の傭兵は、無邪気な、幸せそうな、曇りのない笑顔でいるのが一番似合う、とも思う。
「そうだね、とても楽しかった。――君が、とても楽しんでいて、幸せを感じていることが、伝わってきたからかな」
 ツ、と手を伸べて、理月の、滑らかな黒褐色の頬に指を滑らせると、彼は、くすぐったげに、はにかんだように、笑った。
「うん……すげぇ幸せだった。大好きな人ばっかりで、皆が俺に優しくて、俺、自分はこんなに幸せでいいのか、って思っちまった」
「ああ……それは、君が、皆を幸せにしているからでもあるのだよ。私もまた、君から、たくさんの幸いを受け取っているのだからね」
「……うん」
 そもそもが死人なので、嗜好としての飲み食いにも、さほど執着のないブラックウッドだが、今日のこの宴は、とても充実した楽しい一時だった。
 気の置けない友人たちと、賑やかでありながら和やかな時間が過ごせたし、どうにも放っておけない可愛い傭兵氏が、彼の隣で、ずっと笑っていたのもまた、ブラックウッドにとっての充足の一端だ。
「俺さ、ブラックウッドさん」
「どうしたね」
「今、こうしてるのも、すげぇ幸せだ」
「……そうか」
「なんかさ、こうしてじっくり話が出来るって……いいよな。あんた、いつも忙しいし、邪魔しちゃ悪ぃかなって時々思うから」
「おや、つれないね、そんなことを気にしていたのかい?」
「え、や……だってさ」
「君がそれと望むのならば、私はいつでも門を開き、腕(かいな)を広げて迎えるよ? 他ならぬ、君のためなのだからね」
「あ、う、うん……」
 ブラックウッドの言葉に、目元をほんのり上気させて理月が頷く。
 とてもではないが、三十路を幾つか過ぎたようには思えない可愛らしさだ、と、ブラックウッドは密やかに笑った。
「あ、そうだ、ブラックウッドさん、明日って時間あるか?」
「そうだね、特に予定は入っていないけれど?」
「じゃあ、遊びに行ってもいいかな。古本屋でさ、すげぇ綺麗な写真がいっぱい載ってる百科事典を見つけて、つい買っちまったんだ。それ、一緒に見ねぇ? ホントに綺麗なんだぜ、世界中の景色とかさ、びっくりするくらい綺麗な鳥とか魚とか、色んなものが載ってるんだ」
「ああ……それはいいね。では、是非ご一緒させてもらうとしよう、――勿論、私の許しなどなくとも、いつでも遊びに来てくれて構わないのだけれどね?」
「あ、うん、知ってる、ありがとう。や、ほら、せっかくだからいて欲しいじゃん。そういう時はさ」
「ふふ、それは嬉しいね。――そうだ、食事の準備もしておくよ、何か、食べたいものはあるかい?」
「んー、そうだなぁ……ブラックウッドさんちの飯も、何でも美味いもんなぁ。あ、クロエの作るグラタンとクロワッサンが食いてぇかな」
「判った、そう伝えておこう。君が楽しみにしているとなれば、彼女も張り切るだろう」
「うん、じゃあ、すっげぇ楽しみにしてる」
 やっぱ俺って幸せものだなぁ、と笑う理月に、ブラックウッドは慈愛の笑みを向ける。
 先日の、渇望に端を発した事件で、闇が囁いた『声』に醜い利己を突きつけられて落ち込んでいた彼を、ブラックウッドは少し心配していたのだが、ブラックウッドが――そして恐らく、理月を愛するたくさんの人々が――力づけ、彼の弱さもずるさもすべてが愛しいのだと諭したからか、今の理月は、どこか晴れやかだった。
「理月君は――……」
「え、何、どした、ブラックウッドさん?」
「……いや……やはり、可愛いな、と思ってね」
「可愛くねぇって」
 苦笑しはにかむ理月に、ブラックウッドは笑い、青白く優美な指先を、彼の頬に、頤に、滑らせた。
 誰にでも優しいと評判の、『愛』の守備範囲が驚くほど広いブラックウッドだが、愛の伝道師と噂される彼にも、特別というものはある。
 この理月という青年がまさにそれで、以前、地獄で催された武道大会での一幕をきっかけに親しくなり、彼の弱さや脆さ、強さや純粋さを目の当たりにしてきたブラックウッドは――彼の、人間としての心は――、ただひたすらに理月の幸いと笑顔を望むのだ。
 ――無論、ブラックウッドは、彼を喰らい尽くしてしまいたい、自分だけの獲物として手元に閉じ込めてしまいたいという、魔物の本能を否定も拒絶もしないけれど。
 それでも、人としてのブラックウッドも、魔物としてのブラックウッドも、時に自分でも不思議に思うくらい、理月を愛しく、可愛く思うのだ。
 そして、そんな風に思える誰かがいる、銀幕市での自分を、幸せで満ち足りている、と、思う。



 5.冬は近い、けれど

「……やれやれ」
 呆れたような息を吐き、刀冴が肩を竦める。
「どうした、とーご?」
 刀冴の、逞しく硬質的な肩に陣取って、太助が顔を覗き込むと、刀冴は、何でもねぇ、と首を横に振った。
「もうじき冬だってのにどいつもこいつも春爛漫だな……ってのはさておき、まぁ……とりあえず、今夜は離れと縁側と客間には近づかねぇ方が賢明ってこった。あんたたちを強制的に大人の仲間入りさせるわけにはいかねぇしな」
「……へ? そうなのか?」
「おう。めくるめく大人の世界って奴だ、太助も使い魔も、内容を知るのはもう少し大きくなってからでいい」
「ふーん……なんか気になるけど、そういうもんなのかー。んじゃ、大きくなったら勉強すっかな。な、つっちー」
『ぷぎゅう、ぷぎゅ(はいなのです、おべんきょうするのですー)』
 太助と使い魔は、古民家で、刀冴曰く『大人の時間』が開催されるということで、将軍閣下の肩を拝借して森の中を運ばれていた。
 刀冴が、月を見に行こうと言ったからだ。
 夜はもう遅くて、お腹も心もいっぱいの太助は、少し眠たかったのだが――きっと使い魔もだ――、杵間山で一番月が綺麗に見える場所、というのが気になって、一生懸命刀冴の肩にしがみついていた。
「さて……じゃあ、ちぃっと飛ばすぜ? しっかり捕まってろよ……?」
 言って刀冴が足に力をこめた。
 そう思った瞬間、青狼将軍のしなやかな身体は、森の木々の天辺にあった。
「すっげぇー……!」
『ぷぎゅうー(はやいのですー)!』
 刀冴は、枝から枝へと、地面を駆け抜けるのと同じ容易さ、速さで飛び移ってゆく。
 太助の耳元で、びゅう、と風が笑った。
 くすくすという親しげな笑い声が聞こえたような気もした。
 それが、天人たちが常々言っている精霊のものだったのかどうかは、太助には判らない。ふと振り向けば、背後に小さくなってゆく木々は、太助たちを見送るように、楽しげに、親しげに揺らめいている。
 妙に明るい、と空を見上げれば、びっくりするほど大きな、黄金の月が、太助たちを見下ろしていた。
「吸い込まれちまいそうだ」
 呟いて、太助は刀冴の肩にしがみつく力を強くする。
 月の光に、穏やかな慈愛が満ちていることを、太助は何となく理解していたが、それでも、あまりに大きな、あまりに美しい月の姿に、気後れしどこか恐怖を覚えたのもまた事実だった。
 びゅうびゅうと、耳元で風が声を上げる。
 ついて行きたい、そう聞こえた気がして、太助は笑っていた。
「いっしょに見ようぜ、月」
 夜の森を、木々の枝から枝を駆け抜ける刀冴の黒髪が、金の光に満たされた夜空に踊る。
 ――月がそれを、見ている。
 そこに存在するだけで周囲の環境を快適に整えてしまう天人がすぐ傍にいるのだ、晩秋の、真夜中の空気は、決して太助たちを傷つけはしなかったが、しかしそこに、じきに訪れる冬の匂いが含まれていることにも、太助は気づいていた。
 冷たい眠りの季節が、すぐにやってくる。
 終焉を感じさせながら、しかし今はゆっくりと過ぎ行く日常も、じきに、冬の凛冽な空気に染まるだろう。
「……着いたぜ」
 気づいたら、刀冴は、杵間山の一角の、大きな岩山の天辺で立ち止まっていた。断崖と称するのが相応しい、足を踏み外せばただではすまないだろう場所だったが、そこには、彼らと空と月の間を遮るものの何もない、広々とした空間が広がっているのだった。
 手を伸ばせば届きそうなくらい近い月を見上げて、太助は鼻をひくひくと動かす。
「なぁ、とーご」
「ん」
「今日……たのしかったよなぁ」
「ああ、そうだな」
「ずっと……なんて、わかんねぇけど。でも、」
「でも、どうした?」
「何回も何回も、もう、いやんなった、ってくらい、同じような日があればいいな」
「……ああ」
 刀冴の、夏空のような双眸がやわらかさを孕む。
 太助には難しいことは判らない。
 しかし、この不思議の街で出会えた奇跡と喜びは、判る。
 何が大事なのか、絶対に間違えないのと同じくらいに、判る。

 ――もうじき冬がやってくる。
 世界は凍てつき、停滞し、人々は首を、身体を縮めて道を行くだろう。
「みんなにも、この月……みせてやりてぇなぁ……」
 そんな冬だって、悪くはない、と太助は思った。
 賑やかな、楽しくて美味しい、幸せで愛しい、今日のような日々は、きっと季節を問わず、太助たちを温めてくれるだろうから。

クリエイターコメント大変お待たせいたしました!
たくさんお時間をいただきながらこの体たらく、本当に申し訳ありません。

ともあれ、オファーどうもありがとうございました。
毎度のごひいき、ありがとうございます。

今回は、気の置けない人々の、幸せな秋の一日を描かせていただきましたが……いかがでしたでしょうか。派手な賑やかさよりは、どちらかというとしっとりした、穏やかな時間を重視して描かせていただきました。

皆さんが銀幕市で出会い、心を通わせているという事実、不思議な運命に、記録者は感嘆し、その出会いを羨み、また、皆さんがいつも幸せであるよう、皆さんをいつも深い絆が結ぶよう、祈ってやみません。

何にせよ、楽しんでいただければ、幸いです。

それでは、どうもありがとうございました。
またの機会がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。
公開日時2009-02-07(土) 19:30
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