|
|
|
|
<ノベル>
●蒼穹の舞
ここ幾日か、銀幕市は晴天続きであった。
照り付ける陽は柔らかく、穏やかな風と共に、春の花々の香が運ばれて来る。
蒼き大海原を渡る船が如く、黒竜は低空飛行を続けていた。その目付きは一層鋭利な光を発しているようにも見受けられる。
次なる恰好の獲物を求めて、天空の覇者は彷徨うているのであった。
そんな時である。彼の『声』を耳にしたのは。
「なぁ、あんた!」
それは本来ならば、風の音や翼のはためきにより、黒竜には聞こえるはずのないもの。
かといって、決して騒音レベルの域でもない。寧ろ、安らかにして中性的な声音。来栖 香介 (くるす・きょうすけ)の能力によるものであった。
黒竜は直ぐにその言が自分に向けられたものだと解釈したらしく、疾風の飛翔を止めると、律儀にも空中に留まった。
長い首をにゅっと突き出して、地上を見下ろせば、2人組の青年がこちらを仰いでいるのが目に入った。どちらも、それぞれ異なる魅力を備えた美青年である。
「Wow! 俺、dragonって初めて見たよ」
あまりの身の丈の大きさに、感嘆の声を上げる葛城 詩人 (かつらぎ・しど) 。
この好青年、竜へ興味津々にして緊張感全くのゼロ。黒竜が手の届く位置にいたならば、「乗せてくれる?」と尋ねながら、有無を言わさず既に跨っていそうな勢いである。
表情こそ変化はないものの、竜が半ば呆気に取られていると見えるのは、金の眼光をほんの少しばかり緩めたからである。
もう一押し。
相手が事態の飲み込めていない今がチャンスとばかりに、香介が進み出る。
これまた、老若問わず、世の女性達のハートをどろっどろに蕩けさせそうな無邪気な笑顔で問い掛けた。
「最近ここら辺を飛んでるだろ。何やってんの?」
けれども、竜は答えない。
「な、乗せてくんねぇ? まだあんたみたいなのに乗って飛ぶってやったことねぇんだ、俺」
やっぱり答えない。
思いの他、竜という生き物は警戒心が強いらしい。これは一筋縄ではいかないだろうか。
否、ここで引き下がる様な香介ではない。
黒竜と対峙したまま、時にして、ほんの5秒。
結果、腕組みしたまま、余裕の笑みを浮かべる香介が一枚上手だった。
黒竜は下降出来るぎりぎりの高さまで下りると、短く鼻を鳴らした。
「こいつ、『背中に乗れ』って言っているみたいだな」
言い終わらぬ内に、案の定というべきか、嬉々として詩人青年が竜の背に攀じ登る。
一般的に幻獣の頂点に立つ存在と謳われる竜とて、所詮は獣。ちょろいもんである。
内心ほくそ笑みつつ、素直にはしゃぐ詩人に続いて、香介もまた、軽々と飛び乗った。
出発の声を上げる代わりに、もう一度、ふしゅーっと鼻を鳴らす竜。翼を大きく一振りすれば、いとも容易く舞い上がる。巨体に不相応な滑り出しであったが、残念ながら、期待通りの快適な空の旅とは言い難かった。
思っていた以上に黒竜の鱗は先鋭であった。加工せずともこれ1枚でちょっとした武器になりそうだ。つまりは、それらが尻やら太股やらに突き刺さるのである。おまけに鞍がある訳でもないので、乗り心地はよろしくない。
降りてみたらズボンに穴が開いていましたなどという事態になりかねないのだが、かといって、ここで降ろせと言うわけにもいかない。走り出した列車は止まれないし、飛び出した竜もまた然り、なのである。
転がり落ちぬよう、必死でしがみ付きながらも、香介は口を開く。
「おい、一体何処に向かってんだ?」
『声』で語り掛けているため、しっかりと聞こえているはずなのだが、またしても、竜の返答はない。
だが、今の彼はその程度で気を損ねることはなかった。
どちらにしろ、この先に答えがあるに違いないのだから。
●偶然なる必然、その名は救世主
「ああーっ! もうっ!!」
植村はクリップで一纏めにされた書類を机上に投げ出すと、頭を掻き毟った。
役所内でこうも露骨に感情を表すのは、職員として有るまじきことなのだろう。が、対策課を訪れていた何名かの市民が目を丸くしていようとも、今の彼には人目を気にする余裕はなかった。
先程、謎の美青年失踪事件において、またしても新たな被害者が出たと報告を受けたばかりなのである。追加された書類は、葛城 詩人、来栖 香介の2名分。
彼等が喜び勇んで黒竜に連れ去られた旨なんぞ、露も知らぬ植村は、もう一度、わしゃわしゃと頭を掻く。
これはもはや、一刻の猶予もならない。火急に手を打たねば、胃に穴が開いてしまいそうだ。いやもう、いっそのこと、入院したほうが楽かもしれない。
やけくそ植村は頭を抱えたままで、何の気なしに市役所の玄関へと目を向ける。多種多様な市民が慌しく往来する中、彼はある1人の浪人風の中年侍に目を留めた。
渋味の効いた彫りの深い顔にぼさぼさの長髪、黒の着流しと形こそ質素であるものの、腰の古惚けた刀から発せられる並々ならぬ雰囲気。彼がそれなりの御仁であることは、素人目にも明らかだ。
植村は動いた。
「あの、大変失礼ですが……少しお時間よろしいでしょうか?」
「む、俺のことか?」
怪しげなキャッチセールス染みた台詞を吐いて、侍を呼び止める。
元々は他の用件でここを訪れていたこの男、清本 橋三 (きよもと・はしぞう)は、「世間一般に言う所の『イケメン』とはまた一味違うタイプだからこそ、あなたにしか出来ない依頼なのだ」と、滔々と述べる植村の必死な様子に、終始口を真一文字に結んでいた。
無論、美青年とはほど遠い橋三ならば、ミイラ取りがミイラにならないから安心などと、口が裂けても言えない。
植村の企てに背くことなく、橋三は手で顎を撫でながら、
「ほほう。それはまた、珍妙な」
と、威厳たっぷりの表情を少しだけ崩した。
「そも、竜が如何様な存在か知らぬのでな。興味がないと言えば、これまた嘘になるが……よろしい。見聞を広げる意味でもその依頼、引き受けよう」
地獄に仏とは正にこのことだと、一も二もなく依頼書の束を橋三へ手渡す……つもりが、誤って床へ滑り落ちてしまった。
慌てて掻き集める植村。
散らばった書類はこれで全部かと辺りを見回していると、通りかかった翼人の女性が、拾い上げた最後の1枚を植村へと差し出す。
「ああ、有り難うございます」
礼を言い、受け取るつもりが、女性の眼鏡の奥は握り締めたままの依頼書に釘付けだった。
「あのー?」
「まあ、これは……お店のお客さんじゃない!」
「では、彼はその黒い竜に攫われた可能性が高いのね?」
勤め先の洋食屋の常連客が行方不明になったことを知り、こうして対策課を訪れていたマリアベル・エアーキア。彼女は、憂いを一杯に湛えた苺色の瞳を植村へ向ける。
深い溜息は、これで16回目。
「ええ、そのようです。そして、情報屋を名乗る方のご協力をいただいた結果、杵間山の麓に手掛かりがあるらしいという所までは分かっているのですが……」
マリアベルと、それから橋三を交互に見詰めて植村が言葉を濁すのは、それらが的確且つ確実な情報とは言い難いからなのだろう。
正直、マリアベルとて、あまりにも突飛な話だと思う。姿なき天空庭園なるものが市上空に浮かんでいるなんて。しかし、常軌を逸脱した事象が起こりうるのが、ここ銀幕市である。何より、ムービースターである自分自身が存在することこそ、その証拠ではないか。
「そうね……。目に見えるものだけが、全てではないわ」
「はい……?」
「いえ、その話、信じましょう」
ゆるゆると首を横に振ると、マリアベルは橋三と共に対策課を後にした。
植村から手渡された杵間山周辺の地図を手に、麓周辺を散策してみれば、目当ての場所は難無く見付かった。
言うまでもなく、それは力ある者達だからこそであり、もしも彼等が平凡な一般人であったならば、方々に生い茂る草木の陰に隠れた祠など、見落としてしまっていただろう。
朽ち果てている小さな社。年月と共に人々の記憶から忘れ去られた、侘しさ漂う場所だ。外観に倣って、これが纏っている魔力もまた儚いもので、ともすれば今にも消えてしまいそうである。つまり言い換えれば、それは天空への道が閉ざされてしまうということだ。
「これは、一刻の猶予もならないわ。急ぎましょう」
「うむ。しかし、見るからに『それいゆ』とか言う庭園への入り口らしきものはないようだが……」
祠の周りをぐるりと一周してみるも、橋三の言う通り、異の気を放っていることを覗けば、特に変わった様子はない。
「困ったわね」
ここに来れば、すぐさま天空庭園への道が開けるものと思っていたマリアベルは、予想外の事態にすっかりと考え込んでしまった。
そんな彼女を背に、橋三は転がっている陶坏を元通りに据えると、祠の奥を覗き込んだ。土やら枯葉やらに紛れて、罅割れた銅鏡が無造作に置かれている。これが御神体のようである。
「どれ、こうしておまえさんの下を訪れたのも何かの縁」
橋三は人一倍信心深いというわけでもなかったが、まずは合掌、それから銅鏡を静かに取り出すと、懐の手拭いでこびり付いた土埃を丁寧に払拭した。
「おお、これはまた、なかなかの逸品。古来の者がこの地の守り神として祀ったのも頷ける」
古物に関しては素人の橋三から見ても、鏡は一目で素晴らしい品であると認識出来る代物であった。
この艶かしくも鈍い輝き。見詰めていると、身も心も吸い込まれてしまいそうである。そう、自分という人間を形成している全てを、この魔鏡に――
いつの間にやら銅鏡に魅了されていたのか、夢心地の橋三はうっとりとした面持ちのまま、青い光に包まれていた。
「ちょっ……橋三さん!?」
これに驚いたのはマリアベルで、慌てて駆け寄ると、橋三から鏡を無理矢理引き剥がそうとする。しかし何故だろう、それはぴったりと彼の手に吸い付いているのである。
そして、マリアベルもまた、自身が青の輝きに汚染されていることに気付く。瞬時に遠退いてしまいそうになる気力を、全身全霊で何とか保った。
もしかすると、これこそがソレイユへの道なのだろうか。頭の片隅に、ふと過ぎる考え。
地上から2、3メートル程度、ふわりと浮かび上がると、マリアベル達の姿は空へと掻き消えていた。
●誠なる黒竜
辛うじてズボンの尻の部分に穴が開くという恥ずかしい事態を避けられた香介と詩人は、空にぽっかりと浮かぶ春野へ降り立った。
そこは不思議な力で満たされている。とはいえ、ちっとも不快に感じるものではない。どちらかといえば、心から癒されるものだ。
高度が幾つなどとは知る由もないが、黒竜は随分と高く飛んでいたはず。それが証拠に、ほら、今にも雲に手が届きそうである。であるのに、ここが地上と勘違いしてしまいそうなのは、何処の家の庭にも見受けられるような花々――チューリップやガザニア、アルストロメリア等で溢れ返っているということだ。
その事項を抜きにしたとしても、気温、気圧に日差しの強度……どれを取っても地上と何ら変化ない。これもきっと、前述の力によるものに違いない。
「うーん……空気が気持ちいいなぁ」
竜の背にへばり付いていたため、体のあちこちが強張ってしまったのだろう。詩人が両手を空へと大きく伸ばす。深呼吸を幾度か繰り返せば、心が洗われるようである。
一言で言い表すならば、『楽園』。興味のある物事以外は殆ど無関心の香介とて、今はこの空間を存分に味わいたいと思う。のだが、詩人程素直には喜べず、寧ろそんな気持ちが萎えてくるのは、この眼前の人物が大きく影響していた。
「んふふ〜、今回はかなりの上物が釣れたわぁ」
身をくねらせて、はにかむ輩に香介の氷の眼差しが向けられる。
「……おい」
「あ、ごめんなさぁい。アタシはアキランサスっていうの。アッキーって呼んでちょうだい」
これが清純可憐な少女であったならば、まだ可愛げもあるのだろうが、相手は人の姿をとった黒竜であり、現在は黒衣の大男。筋骨隆々とまではいかずとも、引き締まった肉の付き具合からして、戦人であることは明らかであった。黒竜時の名残か頭に角、背には翼を生やしており、正体が分からなければスタンダードな下級悪魔を思わせる風貌だ。
そんなギャップを物ともせず、ばっちーんと特大のウィンクに投げキッス付きで、アッキーは香介達を熱烈歓迎した。
「ほ〜ら、そこのア・ナ・タ。その涼しげな目元といい、スレンダーな体といい、もろアタシ好みだわぁ」
語尾にでかいハートマークが3つは付きそうな甘ったるい声を吐き、おまけにほう、と溜息まで漏らす始末。
「でも、お手付きは駄目だわね。だってアナタは神竜様の花婿になるんですもの。光栄でしょう? こんなチャンス、滅多にないもの。ねえ、勿論快諾してくれるわよね?」
熱っぽく投げ掛ける問いにも、香介青年何のその。
「頷くわけねぇだろ? 爬虫類の婿になんぞなるかボケ」
「んまぁ! な、何ですってぇ!」
口に手を咥えて戦慄くオカマ竜。
「酷いっ、酷いわっ! アナタが『乗せろ』って言うから、ここまで連れて来てあげたのにぃ〜!」
「んなもん知るか。鬱陶しい。微塵切りにして、ルシフの餌にすんぞ」
香介が一喝すると、彼の肩に乗っかっているピュアスノーのやさぐれバッキーが、心なしか鼻息を荒げる。
よろりと弱々しくくず折れ、さめざめと泣く大男のむさ苦しい図に端を発したのは、詩人であった。
「まあまあ、くるたん。そのくらいで許してやれば?」
「『くるたん』言うな!」
暴君香介を諌めるつもりが、可笑しな渾名によって神経を逆撫でしてしまっているこの逆効果現象。
けれども詩人は諦めない。流れを変えるべく、別の話題を切り出す。
「えーと……そうだ。ねえ、ここ見て回っても良い?」
本人が希望したとはいえ、半分は掻っ攫われて来たようなものであるというのに、危機感皆無の詩人は、天空庭園の散策を目論んでいた。
「え? ああ、構わないわよ。でも、あそこにだけは近付いちゃ駄目。いいわね?」
両手で覆っていた顔を上げ、涙目のアッキーが庭園端の東屋を指し示す。
「足元に気を付けてね。踏み外したら良い男が台無しの真っ逆様よー」
追い駆けて来る声に適当に手を振ると、今にもアッキーを足蹴にし兼ねない香介を(ついでにアッキーを獲物と認識したらしく、涎を垂らしているルシフも)引き摺って、詩人は呑気に観光と洒落込むこととなったのである。
●神の仔竜
一方その頃、マリアベル及び橋三組が淡い光に誘われるがまま、辿り着いた先は、簡素な造りの屋内であった。
円形の室内に窓はなく、代わりにドーム状の天井に空が映し出されている。
もしや、行き先を間違えたのかと一瞬、マリアベルは考えたものの、この空間全体が祠と同じ魔力によって支配されていることにすぐさま気付く。
それから若草色の絨毯にそっと足を下ろすと、隣で銅鏡を抱いたまま、未だ夢から覚めやらぬ橋三の頬を軽く叩いた。
「橋三さん、気を確かに!」
「うん? ……ややっ! ここは一体?」
正気を取り戻した橋三が素っ頓狂な声を上げて、辺りをきょろきょろと見回す。状況を理解出来ていないのだ。
「ようこそ。天空庭園ソレイユへ。君達を歓迎するよ」
返答は部屋の奥、薄いレースのカーテンの向こう側から聞こえてきた。その声に呼応するかの如く、カーテンがさっと左右に引かれる。彼等を迎え入れているのだ。
暗黙にマリアベル達が歩みを進めると、そこには大きなクッションに寄り掛かるようにして、一匹の竜が座していた。体長1メートル程度の、純白の仔竜である。
その周りを取り囲むような形で、3名の美しいニンフが控えていた。
「有り難う。来てくれるって、信じていたよ」
透き通った空色の瞳が、警戒の色を微塵も示すことなく、嬉しげに彼等を見上げた。2人がここを訪れるのを、薄っすらと感じていたような物言いである。
「もしや、おまえさんが神竜殿とやらか?」
まだ見ぬ竜へ、あれこれとイメージを膨らませていた橋三に、仔竜はこくりと頷いた。
「レシュノルティアといいます。あまりにも小さくて、びっくりした?」
くすくすと人懐っこく笑う神竜へ、拍子抜けした胸中をずばり言い当てられた橋三は、曖昧な笑みで返すしかなかった。
こちらは深刻な表情のマリアベルが、首を傾げるように会釈する。
「私はマリアベル。あなたにお会い出来て、とても嬉しいわ。でも……」
言い難そうに俯くマリアベルへ別段、気を悪くした風でもないレシュノルティアは柔らかな言を響かせる。
「捕らわれている彼等のことだね? 直ぐに解放してあげたいのは山々なんだけれど、残念ながらここと地上を結ぶ術は、黒竜しか持ち合わせていない」
とすると、他の方法を考えねばなるまい。首を捻る橋三は、幾許もせぬうちに単純たる妙案へ辿り着いた。
「この鏡を使えば良いではないか」
だが、神竜は申し訳なさそうに否定する。
「今回、君達を招くにあたっては、たまたまその銅鏡を媒介として、ソレイユへの道を開いたんだ。現在の魔力では、君達2人を飛ばすだけが精一杯なんだよ。それも、一度きりだ」
確かに光は今や、完全に失われ、唯の鏡に戻ってしまっている。
「ならば、黒竜殿を説得せねば、青年等を救うことは出来ないということなのか?」
「それは難しいだろうな。彼はなかなかに頑固者でね。一旦こうと決めたら、遣り遂げる主義であり、それを美学と掲げている。誰の言うことも聞きやしない。この神竜の言でさえだ。だから銀幕市役所へ念を飛ばして、君達の助けを求めたんだよ」
ほう、と溜息をつく白の竜へ、橋三がはっとする。
「もしや、植村殿の言っていた『情報屋』とは、おまえさんだったのか」
「ふふ。銀幕市民は実に優秀な人物ばかりだと、風の噂に聞いていたのでね」
つまり、植村にソレイユの情報を齎した人物こそ、レシュノルティアの具現化された念であったということに他ならない。
では、危険を侵してでも、今回の首謀者、黒竜との直接対決は避けられないのだろうか。
重苦しい場の雰囲気は、しかしマリアベルによってすぐさま打ち砕かれた。
「あなたの事情は伺っているわ。強引に結婚させられそうなんですって? でもね、女の子はもっとロマンティックな出会いが好きなものじゃない? 攫ってきて、さあ選べというのはロマンの欠片もなくてあんまりだと思うの。だから、あなたさえ良ければ出会いのお手伝いをしたいわ」
お客さんを救うという目的の他に、捕らわれの竜の姫君の心を開く使者になりたいと思っていたマリアベルは、胸の内を一気に吐露する。
「同じ女の子同士ですもの。お友達になりましょう?」
「女の子同志……お友達?」
目を丸くしながら、頬をほんのり赤らめるレシュノルティアの前足に、彼女はそっと手を添える。
そんな微笑ましい光景に、強面の橋三は思わず表情を緩めるのであった。
その時、建物の外から部屋全体を揺るがす爆音が轟いた。
●密やかなる計略
時は前後する。
マリアベルと橋三が神竜を訪ねている頃――
「例のあれ、どう思う?」
「どうって?」
にんまりと笑って、東屋を指差す香介。
「『近付くな』だなんてさ、『近付いて下さい』って言っているようなもんじゃん?」
やるなと言われれば、やりたくなるのが人間心理である。例え人型に変身出来たとしても、アッキーは人の本質たるものを全く理解していない。そう豪語する香介に、詩人もまた、「少しくらいなら良いかもしれない」とあくまで寛大だ。
2人が東屋へ向かう道すがら、何名かのニンフに出会った。彼女等は皆、整ったうら若き乙女の姿で、にこやかに会釈する者もいれば、あちらこちらで気紛れに任せて草花の世話をしているものも在る。まるで、精霊の園に迷い込んだようだ。だが、肝心の竜はといえば、アッキー以外に未だ遭遇することはなかった。
また、彼等がこうして自由に歩いているように、捕らわれの青年達も庭園のあちらこちらで、思い思いに過ごしている様子――といえば聞こえは良いが、実際の所はこの天空庭園、所詮は景色が抜群に良いだけの野原に過ぎない。要はテレビだのパソコンだのといった娯楽品がないので、暇なのである。
向こうからやって来る銀髪紅眼の男性もまた、例に漏れることなく手持ち無沙汰なのか、気負いすらせず声を掛けてきた。
「やあ、君達も捕らわれの身かい?」
「まあ、そんな所だ」
いちいち説明するのも面倒なので、適当に答える香介。
「そう。それは大変だったね」
他人事のように淡々とした調子の、ティアーズと名乗るその青年に、詩人が率直な疑問をぶつける。
「あの東屋について、何か知っている?」
すると、青年は視線をちらりと建物へ投げながら、興味なさ気に呟いた。
「ああ、あれは東屋なんかじゃない。神竜殿とかいう方の住居と聞いているよ」
「神竜?」
そういえば、アッキーもそのようなことを口にしていたと、今更のように思い出す。
この地を守護する守り神的存在らしいが、詳しいことは分からないと、控え目に瞳を伏せる青年。彼によってそれ以上の情報が齎されることはないと判断した詩人は、手短に礼を述べると、再び歩を進めた。
建物に近付いてみれば、一般的な東屋などよりずっと大きいことを思い知らされる。
「『神竜』なんて偉そうな名前の割には、誰1人として見張りがいないんだな」
「多分、それだけこの地が平穏であるってことなんじゃないのか?」
もしくは、黒竜がよっぽど間抜けなのか……。
屋内への侵入は容易いかと思われた。しかし、建物には肝心の入り口らしきものが見当たらないのである。
「どうなってんだ?」
「さあ? でも、住居というくらいだから、どこかに扉はあると思うんだけど……」
慎重に調べ始める詩人。そして、なぜだか彼の横で思いっきり壁に回し蹴りをぶっ放つ香介。すると、香介の蹴った辺りに大人1人が余裕で出入り出来るくらいの穴が、ぽっかりと現れたではないか。
「Unbelievable!」
ざっとこんなもんだという調子で、口を歪める型破りの香介に詩人は眩暈すら感じそうであった。
けれども、事はとんとん拍子に運んではくれない。
「ボクちゃん達ぃ、ちょっとオイタが過ぎたようねぇ」
ドスを利かせた声に振り返れば、例のオカマ竜が鼻息も荒く、仁王立ちでこちらを睨みつけていた。
竜の顎の下にある逆さに生えた鱗に触れると、竜が怒り狂うという伝説から『逆鱗に触れる』という語句があるが、現状況を言い表すならば、正にそれだ。
不吉な地鳴りと共に、晴れ渡っていた空へ瞬く間に暗雲が立ち込める。
「ここに近付くなって言ったでしょおぉぉっ!!」
「いやー、どうしてもこいつが行ってみたいって聞かないもんだからさ」
「えええっ!? 言い出しっぺはくるたんだろ!」
「だから、『くるたん』って言うなっつーの!」
「ええい、問答無用。喰らいなさい!」
アッキーが天空へ高々と手を翳し、2人目掛けて振り下ろせば、空を真っ二つに割らんばかりの落雷が走る。
ソレイユが轟音に包まれる中、哀れな2人のイケメン達は丸焦げか、と思いきや、寸での所で交わしていた。
彼等の背後に構える神竜の住居は特殊な材質で造られているらしく、雷が直撃しても傷1つ付いていない。
「むきーっ! 小賢しいったらありゃしない。良いわ。本気のアタシを見せてあげるんだから」
アッキーは地団駄踏みながら黒竜に変化すると、鼓膜を突き破らんばかりの雄叫びを上げる。
歴然たる黒の脅威が、牙を剥いていた。
●花散らす刃
「あーあ、怒らしちまってやんの。どうすんだ?」
「仕方ない。ちょっとは痛い目見た方が、頭も冷えるだろ?」
「へえ。そりゃまた大胆発言。でも、そういう考え方、嫌いじゃないぜ」
身構える詩人の横で、冷ややかな笑みを浮かべた香介も黒い手袋を嵌める。だが、この鋼の魔物にどこまで自分達の攻撃が有効なのだろう。皆目見当もつかない。
と、建物の内より靴音も高らかに駆けてくる者達が在る。
「これは一体、何?」
マリアベルと橋三であった。
「事の次第を尋ねている余裕はないな」
彼等に倣って、抜刀する橋三。
「でも、なるべくお花を傷付けないようにしたいものね。でないと、あのお姫様が悲しむわ」
出来れば説得で頑張りたかったマリアベルも、魔法武具『セリカ』を弓へと変化させ、握り締めた。
察し良く状況を理解した彼等へ、詩人が小さく笑って礼を呟く。
逃げ惑うニンフ達。何事かと向こうから走って来たのは、あの銀髪の青年、ティアーズであった。
竜が、もう一度狂ったように天へ吼える。それを合図に、4人は一斉に散った。
「こうなったら、楽しむしかねぇんだろうよ。覚悟決めなって。Aren't you ready?」
ティアーズへ美青年達の避難を任せると、柔らかな金髪を靡かせて、詩人が滑らかな動きで風に舞う。鋭利な刃の付いたピックを放つという竜の死角を突いた攻撃は、けれども簡単に跳ね返されてしまう。
畳み掛けるように地を蹴って間合いを詰めた橋三が、疾風の太刀を一閃。これまた、確実なダメージを与えることは出来ない。
ある程度予想していたこととはいえ、強靭な鱗は鉄壁の装甲そのものであった。真正面から挑んでも、まず勝ち目はないだろう。
暴れ狂う竜が、爪を振り下ろす。マリアベルが翼をはためかせて一気に舞い上がると、それまで足場としていた場所が大きく抉り取られた。
「こんなにも美しい花園を破壊するなんて、許せない!」
彼女は上空に留まってきりりと狙いを定めると、一気に弓を引き放つ。空を裂いて飛ぶ矢は、黒竜の右目へ突き刺さった。
憤怒の形相で吼え猛る声は、断末魔の悲鳴にも似て。
竜の様子を一見し、やはりとマリアベルは確信する。あの黒い鱗が如何な攻撃をも阻むとするならば、比較的柔らかい箇所を集中的に攻めるしかない。
香介は始め、この地の性質に合わせてえげつない罠を張れるだけ張るつもりでいたが、それも直ぐに断念した。草花が生い茂るだけの何もない庭園である。仕掛けに使用出来るような細々としたものは、何処を見渡しても見付からない。
黒竜の操る無数の落雷が、地面を穿つのを遠巻きに見て取ると、香介は動いた。野を駆け、神竜の住居へと潜り込む。行く手を阻むかの如くレースのカーテンを鬱陶しげに掻き分けると、行き成り白い仔竜に向かって得物を突き付けた。控えていたニンフ達が、怯えた表情で短い悲鳴を上げる。
「あんたが神竜か。外じゃドンパチやってるってのに、呑気なもんだな」
ニンフ達とは打って変わって、落ち着いた様子の神竜、レシュノルティアは柔らかい空気を纏ったまま、静かな笑みさえ浮かべて見せた。
「戦い方というものを知らないんだ。だから、しゃしゃり出たところで役に立たない。それに、全面的に君達を信頼しているのでね」
初対面の者をそこまで信じているなどと、随分と風変わりな竜である。少なくとも、自分には持ち合わせていないものだ。
「それじゃ、信頼ついでにちょいと面、貸してもらうぜ」
有無を言わせぬ香介の申し出であったが、レシュノルティアは暫しの思案の後、
「いいよ。君に協力しよう」
まるでこちらの心の内を見透かしているかの如く、面白げな光を空色の瞳にたっぷりと宿らせていた。
「こちらへ刃を向けるということは、それ相応の覚悟あってのこととお見受けする。ならば躊躇する理由はない」
橋三は刀を構え直すと、跳躍した。細部までも神経を行き届かせた剣技が冴え渡る。擦れ違い様の渾身の閃きは、紛うことなく黒竜の脇腹に傷を負わせた。
だが、例えオカマでも竜は竜。最強にして最凶の幻獣なのである。
痛みに任せて振り払った鋭い尾が、橋三の懐を大きく打つ。破けた皮膚から血飛沫が飛び散り、花弁を紅に染めた。
「うっ……!」
あまりにも重い一撃に、吹っ飛ばされた橋三は、そのまま天空庭園の外に放り出された。
「橋三さん!!」
視界から消えた橋三へ、詩人が手を伸ばして追い縋る。それはもはや遅く、指先に触れるは空のみ。一挙手一投足がスローモーションで展開していく。
いくら斬られ役のタフガイとて、この高さから落下しては、まず助かるまい。暗転する事態に、押し潰されそうになるプレッシャー。
だが――
「彼なら大丈夫よ」
橋三が転がり落ちた辺りから、マリアベルが顔を覗かせる。空中にて、寸での所で抱き留めたのである。空を自由に舞う者ならではの業である。
無論、彼が細身とはいえ、大の男を女性1人でいつまでも抱えていられるわけもなく、すぐさま詩人が駆け寄り、手を貸す。胸の傷の出血は少なくないものの、致命傷に至る程ではなさそうだ。
橋三の無事を安堵すると共に、冷静な感覚が蘇ってくるのが分かる。長期戦となる前に、方を付けねば悪戯にこちらの体力が奪われてしまうだろう。
「出来れば、この手は使いたくなかったけど……」
詩人は黒竜に向き直って呼吸を整えると、ゆっくりと息を吸う。そして、徐にメロディを紡いだ。
明瞭で穏やかな声質が、深い響きとなって大気を震わせる。と、伸びやかな歌声に包まれた黒竜の喉元が、見えない衝撃によってすっぱりと掻き切られた。あの漆黒の鱗すら剥ぎ飛ばして、幾筋もの血を滴らせる。
獰猛な竜の咆哮。金の瞳には、濃い狂気が一層強く浮かんでいた。なぜだろう。如何な攻撃を受けようと、どんなに血を流そうとも、全く倒れる気配がない。
「戦いが続けば続く程、強くなっているみたい」
寝かされた橋三に付き添うマリアベルが、信じられないといった表情でぽつりと呟く。
疲れ知らずの天空の覇者に、成す術はもうないのか。
これで、お仕舞いなのか。
誰もが諦め掛けた時――
「おい、オカマ竜。聞こえるか?」
口の端に薄い笑みを浮かべた香介が、黒竜を見上げていた。
傍らのレシュノルティアの喉元に、短剣『明熾星』をちらつかせて。
「あんたの一番大事なもんを預かった。返して欲しくば、大人しく降参しやがれ」
「そういうわけで、この人の言うこと聞いてあげてね」
場違いながらも、楽しそうに小首を傾げて見せる神竜は、余興に興じる幼子のようだ。
これに虚を突かれたのは黒竜で、あれ程までに猛々しく波打っていた殺気が、一気に冷めていく。血走り、ぎらついた瞳の色は、すっかりと失われていた。卑怯上等な香介は、その技で以って竜をも黙らせてしまったのであった。
「もし、神竜がホントに旦那さんを探してるならさ……こういう風に連れて来るんじゃなくって、自分から下りて行って探すのが礼儀なんじゃねぇの? それにさ、恋ってもんは、そうやって頑張って見付けた方が大事に出来るんだよ」
「第一、強いて夫婦になったとて、幸せになるとは思えんのだがな」
あくまで穏やかに諭す詩人と橋三(いつの間にやら何事もなかったかのようにけろりとしている)の言葉は、果たして届いたか。
黒竜は大男に戻ると、穴だらけの地面にがっくりと両膝を突いて項垂れた。
「アタシの、負けよ……」
●古の記憶 〜茜の子守唄〜
昔々、ある所に1匹の竜がおりました。
竜はとても賢く、そしてギヤマンの如く美しい容姿であったといいます。
神はこの竜を大層気に入り、可愛がりました。強大なる魔力を与えられ、天界と地上を自由に飛び回っていた竜は、人々から『神竜』と呼ばれ、尊貴と畏怖の象徴として崇められていたのでした。
そんな神竜にも、唯一の憂いがあります。
なぜ、地上から争いはなくならないのだろう。
なぜ、同じ生き物同士、仲良く出来ないのだろう。
神竜は考えました。
自分には、神より授かりし力がある。神がおやりにならないのならば、自分がここへ安寧の地を築こうではないか、と。
けれども、全ては神竜の驕りでしかありませんでした。
地上から争い事をなくすなどと、神すら不可能であることを、竜如きがどうして出来ましょう? それどころか、面白いように神竜の前に平伏す民へ、次第に抗い様のない支配欲が湧き上がっていきました。人間達を救うつもりが、逆に彼等を苦しめるだけの凶悪な魔物と化してしまったのです。
これを見兼ねたのが、天界の神々です。神に成り代わろうとした神竜は、天を冒涜した業により、天空庭園『ソレイユ』へと追放されてしまいました。そこは、嘗て栄華を極めた神の箱庭でしたが、今や誰の記憶からも忘れられた地、すなわち、楽園という名の牢獄です。
今まで神竜の力に恐れおののき、仕えていた殆どの者達は彼の元を去って行きました。
それからというもの、呪いの枷鎖によって魂を繋がれた神竜は、二度と天界へも下界へも行けず、大空を飛び回ることすら赦されなかったということです。
「神竜様はね、この地を離れることが出来ないのよ。何十代も前の祖先が侵した咎によって、ずっとずっと苦しめられている。でもねぇ、それってあんまりじゃない?」
鉛の雲は消え去り、清々しく晴れ渡った空の下。
レシュノルティアの癒しの力により、傷ついたあらゆるもの――人も、花も――がすっかりと回復した後。
アッキーが語った事実は、あまりにも虚しい竜族の歴史であった。彼は神竜に仕える最後の配下であり、何処からともなく現れ住み着くニンフ達は、気の向くままに自分達の世話を焼いては、また風任せに飛んで行くのだという。
「だから、せめて人生の伴侶を得れば、寂しくないと思ったのよ。だってそうでしょ? 恋をするって、とっても素敵なことよ。人生を何倍にも輝かせるわ。それは人間も竜も変わらない。だからアタシが代わりに下界に下りて、良さ気なコを適当に見繕っていたってわけ」
しんみりした空気と一緒に目尻の涙をも指先で振り払って、にかっと白い歯を覗かせる。
「それもこれも、全てはアタシの独断と偏見に基づいてだけどぉ」
「その独断と偏見が、根本的にずれている気がするけどね」
レシュノルティアと、ティアーズ率いる美青年集団にじと目で睨まれると、決まり悪そうにもじもじと巨体を丸めるアッキー。このような大事になってしまい、十分に反省したのだろう。人質達を全員、解放すると約束した。
「まあでも、彼も悪気があったわけではない様だし」
「エアーキア殿の言う通り。神竜殿のためを思っての所業とあらば、酌量の余地もあろう。主君に誠実な、良き家臣ではないか」
宥めるマリアベルと橋三に、神竜は困惑気味に俯く。
「うん。でも僕、男だし……その、美青年さん達には悪いけど、花婿とかそういうのは趣味じゃないんだよね……」
「……はあ?」
「いや、だから僕、男なんだけど……」
沈黙。
彼等の間を、ひゅるるーと風が吹き抜けていく。
「お、男ぉっ??」
誰しもが予期しない展開に、目を剥いた。
「おいおい、冗談だろ?」
「俺には竜を一瞥しただけで、雌雄の区別を見抜く知識はないけど……」
それでも、纏う雰囲気からして、完全に神竜を女性と決めて掛かっていたことに否定は出来ない。穴の開く程レシュノルティアを見詰める香介と詩人。
「あの……皆、僕を女の子と勘違いしているみたいだったから、何となく言い出し辛くて……本当に、ごめんなさい」
丸い瞳を瞬かせ、焦る竜の姿は嘗て神に仕えた竜の末裔といえども、所詮は子供そのもの。ぺこりと頭を下げる仕草一つを取っても、愛らしい少女の様であった。
「帰ってしまう前に、お願いがあるんだけれど……」
ふと、思い出したかのように、レシュノルティアが詩人へ耳打ちする。黒竜との戦闘時、詩人の歌声を耳にした彼は、もう一度、あれを聴かせて欲しいとねだったのである。
「ごめんな。俺、歌うのあんまり好きじゃないんだ」
少し困った、けれど優しげな目で覗き込みながら、神竜の頭を軽く撫でる。心底残念がるレシュノルティアが可哀想と思ったのか、詩人は再び口を開いた。
「代わりに、こっちのお兄さんが歌ってくれるって」
「おい!」
肩をぽむぽむと叩かれ、突然指名を受けた香介がぎょっとする。
「あら、良いじゃない。こんな小さな子供のお願いなんですもの」
「うむ。流行りの歌等は知らぬが、来栖殿の歌声は俺も興味深い。是非にも拝聴したいものだ」
マリアベルと橋三も、この案に大いに賛成する。
意に沿わないことを強制されるのを酷く嫌う香介であったが、今回ばかりは気紛れに応じることとなった。
彼は遥か彼方に視線を移して空を見詰めていたが、やがてすっと瞳を閉じると、ささやかなコンサートの幕を上げた。
それは、子守唄のように穏やかな調べであった。
透明な旋律が、羽根の如くふわりふわりと舞っては、空に溶けて消えて行く。
美しい歌声に、身を潜めていたニンフが1人、また1人と戻って来た。
歌とは、思いが形と成って生まれ出づるものであるとするならば、この神秘的な歌詞に香介は何を込めて歌い上げているのだろう。少なくとも、その思いは彼にとって幸せなものであって欲しい。
詩人は香介宅へ居候の身ながら実のところ、まだ互いをよく知っているわけではない。しかし、傍若無人で自信家な表面の中に時折見え隠れする影の部分。それを詩人は見付けてしまっていた。だからこそ、彼の幸福を願わずにはいられなかった。
圧倒的な歌唱力に聞き惚れるマリアベルの袖をくいっと引っ張る者があった。レシュノルティアである。
「さっきの話、覚えている?」
囁き声で、遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「えーっと……ごめんなさい。何だったかしら?」
指先で頬を押さえ、僅かに眉を顰めるマリアベル。
「神竜殿、どうしたのだ? 頬が真っ赤ではないか。むっ! まさか彼女に惚れてしまったのではあるまいな?」
橋三が茶々を入れると、レシュノルティアの顔が、更に火照った。
「ち、ちちち違うってば! そんなんじゃないよ」
首が千切れそうな程、慌てて首を横に振る姿はもはや、気の毒な気がしないでもない。
生真面目な竜の少年は、気を取り直して続ける。
「あの、ね。だから……女同士じゃないけど、これからも友達でいてくれる?」
「ああ、そのことね。勿論よ」
「本当?」
「僭越ながら、俺もおまえさんとは不変の友でありたいと思うぞ」
微笑むマリアベルと橋三に、レシュノルティアは、とびきりの笑顔で大きく頷いた。
心地良く転調するたおやかなメロディは、まだ暫く続く。
西に大きく傾いた陽が、世界を朱に染め上げていた。
暖かな光は、夜の帳が下りるまでのほんの一時の煌めきにすぎない。
けれども、どうかどうか、それらが全てのものへ平等に降り注ぎますように。
希望という名の、明日への灯となりますように。
End.
|
クリエイターコメント | この度は当シナリオへご参加いただきまして、誠に有り難うございます。
天空庭園の冒険、如何でしたでしょうか。意外にも説得行動を掛けていただいた方が殆どでしたが、プレイングを拝見しながら皆様のお心の優しさ、思いの深さに、WR、NPC共々癒されました。
可能な限り皆様の素敵プレイングを生かしつつ、作り上げたつもりですが、PC様もPL様も、少しでもお気に召していただけますと、幸いです。
最後になりましたが、ここまでお読みいただいた全ての方へ感謝を込めて。 あさみ六華でした。 |
公開日時 | 2008-05-07(水) 20:10 |
|
|
|
|
|