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<ノベル>
ムービーハザードか、はたまた怪奇スポットの類なのか。噂の出どころと真偽は定かではない。とにもかくにも、その池は銀幕市内のとある林の中にぽつねんと佇んでいるという。
不可思議な現象が起こるその場所を訪れる者もちらほらいるとかいないとか。最初に訪れたのは誰であったのか、噂が更なる噂を呼んで、いつしか池は“しのぶが淵”とあだ名されるようになったそうだ。
そして今宵もまた、奇妙な池は密やかに来訪者を吸い寄せる。
時節は真冬、刻限は深更。寂しい林の奥の奥、凍てつくような闇の底に小さな池がひっそりとわだかまる。
こんな日は炬燵に首まで潜って純米酒をあおっているはずの大教授ラーゴがわざわざこの場に足を向けたのはどういうわけだったのだろう。
辺りを覆うのはからからの裸木。闇の中に奇妙にほの白く浮かび上がる枝はまるで白骨のようだ。乾いた音を立てて震える木立を背景に、豊満な肢体を惜しげもなく晒したラーゴの銀髪が音もなく揺れる。
木乃伊のように乾き切った下草がかさこそと鳴る。
病者のように痩せ細った木々がカタカタとわななく。
虚ろに揺れる銀色の髪の下で、青い瞳は何を求めているのか。
現れるかも知れないし、現れないかも知れない。それでもラーゴは池の縁に佇んだまま微動だにしない。まるで待つこと自体に意味があるとでもいうのかのように。
(私を生き返らせないで)
記憶の底にこびりついた声が耳の中にまざまざと甦る。はっとして視線をめぐらせるが、そこには凍りつくような夜気と淀んだ淵があるだけだ。
眼前にぽっかりと口を開ける池は闇よりも深く、黒い。夜の暗闇すらも吸い込んでしまいそうなほどに。
ぱきぽきと、乾いた骨を踏みしだくような音が不意に静寂を震わせる。
ラーゴが振り返るのと、新たなる来訪者がラーゴに気付いたのはほぼ同時。
互いに舌打ちをしたのもほとんど同時であった。
枯れ枝を踏んでやって来たのは旋風とあだ名される侠客だ。余計な肉を削ぎ落としたような鋭利な顔立ちの彼は眼帯に覆われていないほうの目を眇め、不快の色を露わにする。
しかし先に口を開いたのはラーゴであった。
「貴様、確か旋風の清左とか言ったか」
白い息とともに早速厭味を吐き出したラーゴは皮肉っぽく鼻を鳴らす。「まったく……こんな時間にこんな場所へやって来るとはな。暇を持て余しておるとは羨ましい限りだ」
「はん。暇人はどっちでぇ」
清左はもう一度舌を鳴らし、ラーゴから距離を取って池に歩み寄る。清左はこの女――女性型アンドロイドの中に老爺の脳が移植されているのが現在のラーゴなので、正確には男と呼ぶべきだろうが――が嫌いだ。もっとも、ラーゴのほうとて清左の性格を嫌っているのだが。
ラーゴの存在など意にも介さず、清左は軽く腕を組んで池の傍に立った。暗い水面(みなも)は葛湯のように重く、頑なに沈黙したまま動かない。
木乃伊のように乾き切った下草がかさこそと鳴る。
病者のように痩せ細った木々がカタカタとわななく。
片方だけ覗く目は一体何を見つめているのか。
現れるかも知れないし、現れないかも知れない。それでも清左は池の縁に佇んだまま、やや険しい目鼻立ちを動かすこともしない。まるで待つこと自体に意味があるとでもいうのかのように。
眼帯の下の刀傷がずくりと疼いたような気がして慌てて目を瞬かせるが、目の前にはしんしんと冷える夜気と底の見えぬ淵が横たわるだけだ。
ゆるゆると時間だけが流れ、長い長い沈黙が凝る。
清左はただ待ち続ける。ラーゴもまた動かない。木枯らしがひゅうと音を立てて吹き抜けるが、澱んだ淵はそよとも波立たぬ。
からからの梢が風に揺れ、歯を鳴らすしゃれこうべのような音を立てる中、口火を切ったのは清左だった。
「噂を聞いたのか?」
清左はラーゴが嫌いだ。だから必要最低限の単語のみをもって尋ねた。
「酔い覚ましに来ただけだ」
ラーゴも清左が嫌いだ。だから必要最低限の単語のみをもって応じた。
再び沈黙の緞帳が降りる。
嘘か真か、この池は会いたい者の幽霊に会わせてくれるのだという。誰が名付けたのか、いつしか池はしのぶが淵と呼ばれるようになった。
「――しのぶが淵ってぇのは」
独りごちるように清左が呟く。「漢字で書くと“偲ぶが淵”だそうだぜ」
死者を偲ぶ生者の心に応えた池がほんのひと時霊魂を呼び戻してくれるのだと、そんな噂がまことしやかに囁かれているそうだ。もっとも、ムービースターという現実とは似て非なる存在の思いを聞き届けてくれるかどうかまでは分からないが。
「ほう。私が小耳に挟んだのとは随分違う話だな」
「どういう意味でぇ」
「私が聞いたのは“死延(しのべ)が淵”、それが転訛して“しのぶが淵”。死を繰り延べる淵、というわけだ」
どこか自嘲を含んだラーゴの言葉に清左はぴくりと眉を持ち上げるだけだ。
夜の底に沈む淵は何も言わぬ。
ただしんしんと、冷たい闇と沈黙が降り積もる。
虚ろな水面を見つめながら、ラーゴの意識は記憶の沼へと入水していく。
濃密な、しかし朧な記憶の中をたゆたえば、ホワイトソースのような靄の向こうから一人の女がそっと姿を現す。
覚えているのは彼女が死んだことと、彼女の儚い微笑だけ。
『私を生き返らせないで』
彼女は確かにそう言って微笑んでいた筈だ。
幾度も体を取り替えながら無理矢理寿命を延ばし、気の遠くなるような時を生きてきた。大切だった筈の記憶は長い長い生に押し流され、今となっては彼女の名すら思い出せぬ。
元居た世界、地球侵略を企むレークイム帝国軍の幹部たるラーゴは、死んだ彼女によく似た姿を持つ者を怪人として改造した。金の髪に金の瞳を持つその怪人はラーゴの持てる全てを注ぎ込んで作り上げた最高傑作だった。
紛れもなく最高傑作である筈だった。それなのに、この手で怪人を完成させた時、死んだ彼女の悲しそうな顔が不意に脳裏に浮かんだ。
理由は分からない。何故そんな顔が思い浮かんだのか、記憶の中の彼女が何故そんな顔をするのか、分からない。彼女の存在は何もかもが曖昧なまま、苛立つような、喉をかきむしりたくなるようなもどかしさとともにただラーゴの中に居座り続けている。
だから――この池に来て、彼女に会えばこの靄が晴れるのではないかと思った。馬鹿馬鹿しいと自分でも思う。そう自嘲しながらもしのぶが淵にやって来たのは、きっと淡い期待を捨て切れずにいるせいだろうけれど。
「貴様、なぜこの場所に来た?」
だが自らの心情は決して口には出さず、ラーゴは清左に問う。
「もし噂が本当だってんなら……幽霊が出てくれるんなら、会いてぇのが居る」
清左もまた秘めた思いを吐露することはなく、短く答えるのみだ。
会いたい者はただ一人。この手で斬り伏せてしまった、親友のあの男。
死者に思いは届くのか。分からないから会いたい。会って、顔を見て、言葉を交わして、胸を塞ぎ続けるこの感情が相手に伝わるのかどうか確かめたい。
許しを請う気などない。許されるはずがないし、償うこととてできやしない。だが会ってどうするのか。何を話すのか、話した後でどうするのか。積もる話はきっと尽きない。かつてのように他愛もない会話を交わし、このまま傍らで笑っていてほしいと切に願ってしまうだろう。
「会いてぇが……会ったらきっと引き留めちまう。そんなこたぁ絶対に許されねぇ。死んだ人間を呼び戻すなんざぁ生きてる側の自己満足でしかねぇんだ」
死者は死者だ。どれだけ渇望しようと、彼岸へと渡ってしまった者をこちら側に呼び戻すことなど許されぬ。
ならばなぜ清左はしのぶが淵を訪れたのか。引き留めてしまうと分かっていてなぜ再会を望んだのか。堂々巡りを繰り返す思考は緩慢な螺旋をえがき、ゆるゆると精神を絞め上げていく。
しかし、ラーゴはふんと鼻を鳴らした。
「私は引き留める」
「何だって?」
清左の眉が険しい音を立てて跳ね上がる。ラーゴはもう一度薄く笑った。
「幽霊を私の傍に繋ぎ留めると言ったのだ。それこそ死を繰り延べてでもな。自己満足だからどうしたというのだ? 自分の傍に居てほしいから引き留める、それの何がいけない?」
だからこそラーゴは執拗に彼女の面影を求めてあの怪人を改造し、盲目的な愛情を一方的に注いでいるのかも知れない。
記憶の底に居る女に関して覚えていることは少ない。名も忘れ、どんな関係であったかすらも忘却の彼方に押しやられてしまっている。だが、彼女に対する感情は今も、恐らくこの先も消えることはないだろう。彼女に会ってこの靄の正体を確かめたとしても、だ。
ならばやり場のない心を鎮めるため、このもどかしさの傍に、ずきずきと痛む切なさの傍に、永久に彼女を縛りつけておこう。たとえそれが理に背くことだとしても。
エゴイストはそんな愛しか知らぬ。相手の悲しげな顔と涙を何よりも恐れるくせに――自分がそれを恐れていることすら知覚できず、そんな形でしか愛情を表すことができぬのだ。
「死者を偲んではいけないのか? 死者に会いたいと思ってはいけないのか? 会いたいと思った者が現れれば……たとえ幽霊であっても、いつまでも傍に留めておきたいと思うのが当たり前であろう」
同じ池に佇み、同じ望みを抱えながら、ラーゴと清左の帰結点は決して交わることはない。
傲岸で不遜な大教授の物言いは、どこか自嘲を滲ませてはいたけれど。
淡々と夜は更ける。冷えた空気は水温すらも下回ったようで、暗い水面の上にドライアイスのような霧が侍り始める。
頭上の星屑はちかちかと瞬きながら身を震わせ、健気に寒さを耐え忍ぶ。
月はない。今宵は新月なのだろうか。凍えた星々が落とす光はあまりに脆弱で、地表にはわずかも届かない。
対照的だと清左は思った。
忘れもせぬ。この手で親友を殺めたあの夜は満月だった。
清左の前に現れたあの辻斬りは編み笠を目深にかぶっていた。剣を交えるうちに笠が取れて――透き通った月光の下に現れた顔は、紛れもなく親友のものだった。見間違いであればいいと思った。だが、中天に鎮座した満月が残酷なまでに冴え冴えと闇を照らし出すあの夜では違(たが)えようなどある筈がなかった。
しぶき上がる朱が清左の視界と記憶を染める。
肉を断って骨を割るあの嫌な手ごたえに意識を侵されそうになって、思わず喉に息を詰まらせる。
四方を覆うのは満月の夜ではなく新月の暗闇。目の前に横たわるのは親友の亡骸ではなく、暗く深い無言の池。
どこからともなく冷えた水音が聞こえてくる。近くを川が流れているようだ。ならばこの池もその川が流れ込んで出来たものなのだろう。
それでも池の面(おもて)はわずかも揺らぐことがない。静かに川が流れ込んでいるはずなのに、淀んだ淵は相変わらず不気味に凪ぎ、白く重い霧をまとわりつかせたままだ。
木乃伊のように乾き切った下草がかさこそと鳴る。
病者のように痩せ細った木々がカタカタとわななく。
無言のまま佇み続けるラーゴと清左を見下ろしているのは震えるように瞬く星屑だけだ。
とうとうと流れる水音が二人の記憶を緩やかに撹拌し、それぞれに追憶の波紋を広げていく。
それでも、待つ者は現れない。
「――所詮噂か」
やがて、小さな吐息とともに呟きを落としたのは清左だった。組んだ腕をゆっくりとほどく横顔には落胆とも安堵ともつかぬ色が滲んでいる。
「感傷に惑わされるなど無益な事よ。私には生命力に溢れた愛しき我が子が居る」
彼女は死んだ。だがあの子供は生きている。だから今はなりふり構わずあの金髪の幼女を守ると決めている。たとえあの子の中の彼女の面影に執着しているだけなのだとしても。
相変わらず高慢ながらもさっぱりとした態度に清左は浅く苦笑をこぼした。
「なら何の為に来たんでぇ?」
「酔い覚ましだ。ただのな」
野晒しにされた骨のような枝を踏みしだき、ラーゴは溺愛する我が子の元へと帰るべく踵を返す。
清左も立ち去りかけて――刹那、霧の立つしのぶが淵を振り返った。
(死を繰り延べることは許されねぇが……偲ぶだけなら構やしねぇだろう?)
幼い頃、親友と誓い合った。大切な者を守るために技を磨くと。
身の内にわだかまるこの懊悩が消えることはない。もう一度会いたいと願う気持ちもなくなりはせぬ。だが親友と再びまみえるのは自分が向こう側に渡った後だ。誓いを果たしたと胸を張って報告できるよう、今は全力でこの生を貫こう。
偲ぶ者の幽霊に会わせてくれるという池に再び背を向け、ラーゴとは別々に、別の方向へと清左は歩み去った。
木乃伊のように乾き切った下草がかさこそと鳴る。
病者のように痩せ細った木々がカタカタとわななく。
取り残された池、闇を吸い込んでしまいそうなほど濃厚な水面にぽこりと浮かんだ何かを見たのは、天球に散らばる星々だけであった。
もっとも――呆気なく消えた小さなそれは、単なるうたかたであったのかも知れないが。
(了)
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クリエイターコメント | お初にお目にかかります、宮本ぽちと申します。 この度はご指名ありがとうございました。
どことなく不気味な池での深夜のひとコマ、というシチュエーションで書かせていただきました。 お二人の考え方の違いを池の名の由来にさりげなく反映させてみましたが、どんなもんでしょう…か。 過去についてもっと書き込もうかと思ったのですが、清左様はともかくラーゴ様に関する情報がまだ少ないようですので下手な深読みはやめておきました。
とはいえ捏造した部分もないわけではなく…何か不都合がございましたら事務局さん経由でご一報くださいませ。 オファーありがとうございました! |
公開日時 | 2008-12-26(金) 22:50 |
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