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<ノベル>
そこは、夜の闇よりなお暗い場所。精霊の加護が届かぬ大地。
何も見えない。何も聞こえない。誰も手を差し伸べてはくれず、誰も見向きもしない。
草木や石でさえ、ただ黙って佇む。
そのような場所に、誰かがいる。恐らく、果てしなく長い間。
『誰? ……誰かそこにいるの?』
思わず、声をかけていた。それは、とても辛いことだと思ったからだ。
けれども、その者は笑った。静かに。厳かに。
二つの目が、こちらをじっと見ている。深い、深い、黒紫色の瞳。
その瞳の中に――希望を、見た。
その少女は、生まれながらにして精霊に愛されていた。
精霊たちは我先にと、その淡く艶めく金の髪を撫で、透き通る水のような青い瞳を愛で、滑らかで柔らかな白い頬にキスをした。
少女の名は、メル・ニーダ・リルケート。
周囲の者たちは、時に精霊たちと戯れる姿を微笑ましく見つめ、時に精霊の巫女として敬い、時にその身に受ける恩寵を羨んだ。
「メル! どこに行ったの?」
母の呼ぶ声がする。村長のところに使いに行けというのだろう。それも気が乗らなかったのは事実だが、逃げている理由はそれだけではなかった。
「――もうイヤっ!」
精霊からの寵愛を受けていると言えば聞こえはいいが、実のところ受けるのは、異常なまでの愛情。執着心と言い換えてもいい。
毎日毎日、受け取るには重過ぎる『愛』を浴びせかけられる。もう、メルの忍耐力は極限にまで達していた。
今日は今までよりもずっと遠くに逃げよう。
そう心に決めると、彼女は細い足に力をこめた。
「はっ……はっ……」
自然と息は荒くなり、肩は大きく上下する。生い茂っている木々の中を掻き分けて進んできたため、あちこちに傷が出来て痛かった。けれども、精霊たちから逃れたいという一心で、体は何とか動く。
しかし、精霊たちの気配は、なかなか遠ざからない。
いや、むしろ――近づき、増えている。
「あっ!?」
そこで、メルは気づいた。村からの方角、進んできた距離。ここは――。
精霊の谷。
世界に満ちている精霊たちが生まれる場所。
メルは、慌てて周囲を見回した。木ばかりで何も見えないが、それでも自分の感覚を頼りに探す。どこかに抜け道はないか――。
微かに。
メルの精霊使いとしての感覚は、その不自然な流れを捉えた。精霊が少ない方角がある。
「よしっ!」
考えるよりも先に、彼女の足は動いていた。
速く、もっと速く。
『駄目』
『ダメ』
『だめ』
『そっちに行っちゃ』
『駄目』
『ダメよ』
『やめて』
『待って』
『お願い』
精霊たちが必死に追いすがってくるが、そんなことは知ったことではない。メルは振り向きもせず、全力で走った。
自分の呼吸の音が耳元で鳴っているかのように響き、胸の鼓動も、手でつかめるかと思えるくらいに強く打つ。
しばらくすると、精霊たちの声は聞こえなくなった。メルは安堵の息を吐き、その場にしゃがみこむ。そして、背負っていたバッグから水筒を取り出し、水を飲んだ。冷たい液体が、喉に、体に染み込んでいく。
辺りを見回す。
精霊たちから逃れられたのはいいが、メルにはここがどこなのか分からない。
けれども、気がつけば彼女は、何かに導かれるかのように歩き出していた。
足を進めていくと、森が途切れ、岩壁に囲まれた細い道が現れる。上を見ると、切り立った崖は、かなりの高さがある。
ややあって、視界が開けた。そこは周囲をぐるりと岩壁に囲まれている空間で、メルは何となく、部屋のようだと思った。
そしてそこに、何かがいた。
ひと――だと思った。
野性味のある彫りの深い顔立ち。長い髪の間からは、太い角が伸びている。そして、その肩から下は、岩壁に埋もれて見えない。
露出している部分も、石のように硬くなっていて、その姿は、岩壁に掘られた彫像のように見えた。
メルは何も言えず、ただ立ちすくむ。
しばらくしてそのひとは、目蓋をそっと開けた。現れた深い黒紫色の瞳を見た時、メルは不思議な感覚に陥った。
何故か、彼を知っているような気がしたのだ。
彼は何も語らない。メルも、ただ黙って立っていた。静寂だけがその場に満ちる。
「あなたは……誰?」
メルが言葉を搾り出す。すると、彼はゆっくりと顔を上げ、静かに答えた。
「……魔獣の……王」
魔獣。
精霊とは似た性質を持つが、異なるもの。
その王である存在が、何故このような場所にいるのだろう。好き好んでこのような姿でいるわけがない。
そこで、メルは思い出した。村の老婆と母がしていた、精霊王を殺した魔獣の王の話を。
ならば彼は、囚われているのだ。
そう思い至っても、メルには、不思議と恐いという気持ちは起こらなかった。
「私はメル。あなたの名前は?」
メルの問いに、しばらくの間が空く。
「……覚えておらぬ」
やがて返された魔獣の王の答えは、まるで自分とは関係のない者の話をしているかのように、どこか投げやりだった。
「覚えてない?」
「ああ。長い時が過ぎたのでな」
「そう……」
その長い年月の間、せめて話し相手がいれば、名前を忘れることもなかっただろう。そう思うと、胸が痛んだ。
何かをしてあげられないだろうか。そう考えたメルの口から、自然に言葉が出る。
「じゃあ、私があなたの名前をつけるっていうのはどうかしら? ……ダメ?」
魔獣の王は、また静かに答えた。
「好きにするがいい」
「じゃあ、決まりね!」
メルは嬉しくなり、笑顔で手を叩く。せっかくつけるのならば、素敵な名前がいい。
彼女は腕を組み、空中に視線を彷徨わせる。
「ローダ……ジーク……うーん……」
それから、また魔獣の王に目をやる。彼に似合う名前とは、どんなものだろう。
そう思った時、パッと脳裏に言葉が浮かんだ。
「シューグ。――シューグなんてどうかしら?」
メルは期待をこめた目を向けて言ったが、魔獣の王は表情を変えず、ただこちらを見ている。
「……気に入らない?」
恐る恐る問うと、彼は少しだけ口の端を上げた。
「いや、悪くない。……俺は今からシューグだ」
「よかった!」
メルが喜びの声を上げると、今度はシューグが問いを投げかけてきた。
「……俺が恐くないのか?」
彼の表情からは、相変わらず真意は読み取れなかったが、何故だかその言葉は、ひどく悲しく聞こえた。
「恐くないわ。……そうね、精霊のほうがよっぽど恐い」
メルがそう答えると、シューグは今度は顔を少しだけ綻ばせる。厳ついその顔は、笑うと意外な魅力を見せた。
「貴様は精霊使いだろう?」
「……まぁ、精霊使いの村に生まれたからそうなのかもしれないけど、私はそうなったらいいなんて思ったことはないわ」
「そうか」
再び、静寂が訪れた。鳥の鳴き声や、木々が風で擦れ合う音が聞こえる。
安らぎが、メルの中を満たす。
ずっと精霊たちにつきまとわれる生活だったから、こんなにのんびりとした気分になるのは久々だった。
「ねぇ。またここに来てもいい?」
メルが尋ねると、シューグは瞳をこちらへと向ける。
「貴様の好きにしろ。どちみち、俺には止める権利はない」
「ありがとう!」
メルが笑顔を向けると、シューグも、また少しだけ笑った。
その日から、メルは毎日のようにシューグの元を訪れ、他愛のない話をしたり、ただぼんやりと時を過ごしたりした。
それは、メルにとってだけではなく、シューグにとっても、安らかな時となった。永久に続くかと思われた責め苦から、少しでも解放されることができた。
季節が巡っても、メルはいつもシューグのそばにいた。
穏やかな日々が続く。
しかし、メルが十歳になった年、母が死んだ。
そして、メルは村の長の元に引き取られることになる。
パタン、とドアの閉まる音がした。それに続き、足音が聞こえる。
その足音は、やがてメルの部屋の前を通り過ぎていく。
メルは部屋のドアをそっと開けると、外の様子を窺う。この家に家政婦として雇われている女性の後ろ姿が遠ざかっていくところだった。
彼女の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、メルは静かに部屋を出る。
廊下を、早足で進んだ。村長の家は広く、メルはまだ馴染むことが出来ずにいる。
母の亡き後、メルを引き取ってくれた村長は、とても優しかった。メルのことをよく考えてくれ、世話をしてくれた。彼は人望が篤く、村の皆からも慕われている。
けれども、メルは何故だか、村長のことが好きにはなれなかった。それはこの家に来る前、物心ついた頃からだ。
もちろん、世話になっているという気持ちはあるし、感謝もしている。しかし、時々優しげに笑う目の奥に、昏い光りが灯るような気がする。それは自分の勘違いなのかもしれない。けれども、その思いはなかなか拭えずにいる。
家から出たメルは、周囲の様子を窺ってから、森へ向かって走り出した。もう日は中天を目指しているが、村長は今日は帰りが遅いはずだ。急げば問題ないだろう。
もう、精霊を避けて進むのにも大分慣れた。それに、シューグのいる場所に近づくほど精霊は減っていくし、たどり着けば全くいなくなるのだから、それまで辛抱すれば良いだけだ。
時々道中で休みを取りながら、シューグの待つ場所へと向かう。
「シューグ!」
彼の姿が見えて来て、声を上げた時――突然、腕を何かにつかまれ、引っ張られた。
はっとして振り返る。
「メル。……君はこんなところに来ていたのか」
そこには村長を初め、数人の村人たちの姿があった。
「君がよく家を抜け出しているのが分かってね。心配でついてきたんだ」
迂闊だった。悟られないよう足を運んでいたつもりだったが、つけられていたらしい。
「危ないからこっちへ来なさい」
村長がいつものように穏やかに言う。そして、横目でシューグを見やると、メルの肩に手を置いた。
「この者はね、咎人なんだ。分かるかい? 悪い奴なんだよ。もしかしたら、君のお母さんが亡くなったのも、この者のせいかもしれない」
「そんなこと――!?」
そんなこと、あるはずがない。メルは頭に血が上り、体が怒りで震えるのを感じた。
確かに、母の死は突然だった。あんなに元気だったのに、急に痩せ衰え始め、寝込むようになり、息を引き取った。
でも、医者は病気だと言ったし、こんなところに、こんな姿で囚われているシューグに、何か出来るわけがないではないか。咎人だからといって、侮辱していいわけがない。自分が子供だからって、何も分からないと思って、そんな酷いことを言うなんてあんまりだと思った。
しかし、彼女が言葉を続けることを村長は許さなかった。
「メル、来なさい。――もうここへ来てはいけない」
そして村人の一人が、メルの腕を掴み、無理矢理抱きかかえる。メルは精一杯抵抗したが、子供である彼女が、大人の男に敵うはずもない。
「やめてっ! お願い! シューグにひどいことをしないで!」
必死の叫びは、あっさりと黙殺された。そのまま、シューグの姿は徐々に遠ざかっていく。
メルの体を絶望が撫でた。恐らく自分は、もうこの場所には来られないだろう。メルは大切な友人を失い、そしてシューグはまた、いつ終わるとも知れない責め苦の中に、独りで取り残されるのだ。
「シューグ! シューグ!」
涙があふれ、視界が霞んだ。伸ばした小さな手は、シューグに届くことはない。
シューグは何も言わず、村長たちを睨みつけていた。その眼光は鋭く、重く、視線だけで人を殺せるのではないかというほどの威圧感を放っていた。
そしてその目は、メルへと向けられる。メルは、思わず暴れるのを止めた。
シューグの瞳は、いつものように、不器用な優しさを秘めていた。
そして、その黒紫色の瞳の中に、メルは希望の光を見た。
「懐かしいわね」
メルは感慨深げに呟くと、周囲を見回した。
ずっと来ていなかった精霊の谷へと続く道。
精霊から逃れようと必死で走った頃が思い出される。今も精霊に好まれていることには変わりはないが、メルの放つ気迫は、精霊たちを怯ませ、遠ざけている。
幼い時、とても長く思えたこの道も、広く感じた森も、ずいぶん短く、狭くなったかのように感じる。それは、自分が成長したという証なのかもしれない。
あの後、メルは二度と精霊の谷に入ることを禁じられ、精霊の谷には封印魔法がかけられた。それから六年の間、メルはずっと修行を積み、召喚士としての自分を成長させた。
そして、あの頃には絶望とも思えた封印は、これから解かれることとなる。
精霊の谷が、徐々に近づいてきた。メルは何気なく立ち止まり、天を仰ぐ。
夜明け前の空は、不思議な紫色に染まっている。シューグの瞳が思い出された。
あの時メルは、彼の命運は自分に託されたと感じた。そしてそれは、自分の運命をも変えるだろうということも。
彼女は一息つくと、再び歩みを進めた。
始まりの場所へ――。
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クリエイターコメント | こんにちは。鴇家楽士です。 この度は、オファーをありがとうございました。お待たせしました。ノベルをお届けします。
僕は、ゲストPCさんがいらっしゃるプラノベの場合、それぞれの方の個別部分だったり、エピソードを作る場合が多いのですが、今回はPCさん同士の関係や、内容から判断して、メルさんの話に重点を置きました。 少しでも気に入っていただければ嬉しいです。
それでは、ありがとうございました! またご縁がありましたら、宜しくお願いします。 |
公開日時 | 2009-06-04(木) 21:50 |
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