★ 渡せないチョコレート ★
<オープニング>

 女性は、対策課のソファにちょこんと腰かけている。
 二十歳を少し出たばかりであろうか。特徴のないいでたちだ。栗色の緩やかな巻き毛に白い肌、黒い瞳。標準的な身長に、細身の体躯。何の変哲もないベージュのコート、枯葉色のフレアスカートにブラックのブーツ。ただ、顔の造作は良いほうだ。美女の類に入るだろう。白い肌やふんわりした髪の毛と相まって、細密に作られた愛らしい人形のような風情を感じさせる。揃えた手と一緒に膝の上に置かれているのはプレゼントか何かであろうか。真っ赤な包装紙にピンク色のリボンがあしらわれた、両手に乗るほどの小箱を大事そうに持っているのだった。
 それにしても、このはっきりとした眼差しはどうしたことだろう。ただ壁の一点を見つめているだけだというのに、その瞳には確かな意志が感じられるのだ。
 「二日ほど前に市民からの通報を受けて保護したのですが」
 女性の方を振り返りながら植村直紀が説明する。「公園のベンチでああやって座り続けていたそうです。座ったまま、何日もずっと動いていなかったそうで。……ええ、こういう場合、普通ならば警察に知らせが行くのでしょうけど」
 大体お分かりですよね? とでも言いたげに植村はちらりと目を上げる。
 警察ではなく、この銀幕市役所の対策課に知らせが入った。つまり、彼女がムービースターであるということだ。
 「こちらで少し調べました。彼女は『ファースト・バレンタイン』という邦画のヒロイン、リザです。ジャンルとしては現代物の恋愛映画ですね」
 世間ずれせずに大事に大事に育てられた箱入り娘が、成人してからようやく初恋に巡り合う。相手はヒロインが通う大学の独身の助教授。世間知らずのお嬢様であるがゆえに純真無垢なヒロインは、学生と助教授という間柄や、相手が自分より一回り近く年上であることに苦しみ、悩み、葛藤し、それでも純粋な思いを貫く――。ありふれたストーリーだ。
 「映画公開後の法改正によって『助教授』は『准教授』という名称に改められましたが」と付け加えて植村は続ける。
 「タイトル通り、ヒロインはラストシーンで生涯初めてのバレンタインチョコを助教授に渡します。いえ、正確には、チョコを渡そうと助教授を待っているシーンで終わるのですね。大学の近くの公園で、研究室帰りの助教授が通りかかるのを待つヒロインの姿にエンドロールが重なるといった感じで」
 ちなみにそのチョコレートはヒロインの手作りトリュフである。初めてチョコレート作りに挑戦するヒロインにとってトリュフはさぞハードルが高かったに違いない。映画の中では、手や台所をチョコレートまみれにしながら徹夜でトリュフを作り上げる様が時間を割いてえがかれている。ああ、また失敗しちゃった、などとぼやきつつ、それでも幸せそうに作業を続ける彼女の顔を幾度もアップで写しながら。
 「彼女は普通の現代恋愛映画の普通のヒロインです。いわばただの人間のムービースターですから、ハザードのような要素はないでしょう……が、いつまでもああして座っていられるのもちょっと。既に職員が何人か説得に当たったのですが、“先生が来るまで待ってる”の一点張りで。公園からここに連れてくるのも一苦労だったんですよ。外では寒いから暖かい場所で待ったほうがいい、先生が通りかかったら市役所に来るように伝えるから、とか何とかなだめすかして」
 植村は辟易したように息をつき、軽く首を左右に振る。「何とかしていただけませんか? 初恋の相手である助教授に会わせてあげれば何とかなると思います。ただ……助教授のほうはムービースターとして実体化しているかどうかは分からないので、難しいでしょうが」
 それに、と植村は口元を手で覆って声をひそめた。
 「彼女は銀幕市で起こっている現象についてまったく理解していないようです。従って、自分が『ムービースター』であることも……自分や助教授が映画の中の登場人物であるということも分かっていません。説得には少し難儀しそうですが、ひとつよろしくお願いいたします」
 彼女はソファに座ったまま微動だにしない。ただ壁の一点を見つめ続けている。大きな瞳に、待ち人への思いをきらきらと輝かせながら。




種別名シナリオ 管理番号365
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
クリエイターコメントご覧の通り、バレンタイン物です。
リザを助教授(准教授ではなくここでは『助教授』とさせていただきます)と会わせてあげてください。
ただ、植村氏の言葉通り、助教授が実体化しているとは限りません。
「ムービースターとして実体化した助教授を何とか探し出して連れてくる」という以外の方法を考えてみると、案外興味深いかも知れません。

それから、純粋なリザに、自分や助教授が「映画の中の登場人物」であるということを知らしめるのかどうか。
純粋な彼女が、自分や助教授が「映画の中の登場人物」であると知った時、どうなるか。
その辺りを考えてみるのも一興かと存じます。
なお、「先生を探すためだから」などと説得すれば、リザは皆さんの後にくっついてどこにでも移動するはずです。

シリアスで淡々とした、静かでちょっと悲しい物語になる予定です。
制作期間をぎりぎりいっぱいまで上乗せさせていただいておりますが、バレンタイン前後にお届けできるよう鋭意努力させていただきます。
それでは、皆さまとお会いできることを心より楽しみにしております。


参加者
西村(cvny1597) ムービースター 女 25歳 おしまいを告げるひと
清本 橋三(cspb8275) ムービースター 男 40歳 用心棒
斑目 漆(cxcb8636) ムービースター 男 17歳 陰陽寮直属御庭番衆
<ノベル>

 『ばれんたいんでえ』という催しがあるという。
 居候先の雪村一家の若頭代理補佐によれば、「チョコレートをダシにして女の子が男に愛を告白する日」だそうである。
 (催しの多い街なのだな)
 内心でそんなことを呟き、清本橋三は急ぐでもなく大通りを辿る。時代劇出身である清本は『ちよこれいと』なる甘味ですら最近覚えたばかりなのだが、『ばれんだいんでえ』がどうやら華やかな行事であるらしいことだけは読み取れた。大通りに翻る赤や桃色のなんと賑やかなこと。『かふえ』や『こーひーしよっぷ』なる茶屋の前を通れば甘いにおいが鼻をくすぐる。桃を上下逆さにしたような奇妙な形をした飾りは『はあと』という代物らしい。
 「ご試食いかがですか? バレンタイン限定商品です」
 においにつられてふらりと『すいーつしよっぷ』に入った清本の鼻先に、銀色の盆に乗った小さな『ちよこれいと』たちが差し出される。清本は自分が硝子の中に並べられた色とりどりの『ちよこれいと』を熱心な眼差しで見つめていたことに初めて気付いた。そうでなければ店員もバレンタイン商品の試食を男性に勧めたりはしないであろう。
 「……むう」
 少々奇妙な光景ではあった。黒の着流しに草履、ぼさぼさの頭という風体の男が、若い娘に菓子を勧められて低く唸っている。見れば店内の客も若い娘ばかりだ。彼女たちはおしゃべりをやめ、女性店員の前で硬直している強面の浪人を物珍しそうに眺めている。
 「……おいくらか?」
 清本はようやく口を開いた。店員は笑って首を横に振る。銀幕市で働いていれば異世界や違う時代のムービースターに接する機会も多いのであろう、戸惑った様子もなく、試食が無料である旨を丁寧に説明してくれた。
 「かたじけない」
 武骨な手で『ちよこれいと』を一粒鷲掴みにすると、清本はそそくさと店を後にした。
 「まったく。日本人なら饅頭を食え、饅頭を」
 とぼやきながらも『ちよこれいと』をしっかり口に放り込み、上品な甘みにゆるりと頬をたゆませる。すると、
 「あのー……」
 と不意に背後で若い女性の声がした。ためらいがちなその声がまさか自分に向けられたものだとは思わずに、清本は「あの、お侍さん」とさらに呼び止められてからようやく振り返る。
 そしてひょいと眉を持ち上げた。
 「お名前は分からないけど、ムービースターさんですよね?」
 「絶対そうですよね? 時代劇か何かで見たことありますもん、顔」
 二人の若い娘が、目をきらきらと輝かせながら清本を見上げていたのである。



 平日の昼前という時間帯のせいか、公園には人影がない。園内のほぼ中央に位置する噴水の前のベンチ、彼女が初めて目撃されたその場所に、リザはちょこんと腰かけている。
 冷たい風が、栗色の髪の毛を、透き通るような白い肌の上を、容赦なくさらっていく。しかしリザの表情は揺らがない。控え目な薄化粧を施した頬がほんのりと染まっているのは寒さゆえか、それとも助教授への想いゆえか。
 ざあ、と強い風が吹く。
 風に乱される赤い首巻きを直そうともせずに、斑目漆は少し離れた木の陰からリザの様子を見守っている。
 似ている、と思った。大切な相手と隔てられてしまったという状況と、公園というこの場所が。
 ここではないが、あの時、一通りの基礎知識と情報を把握した後で漆が最初に流れ着いたのも公園であった。自らの意志とは関係なく突如としてわけの分からない世界に放り出され、混乱と疲労と絶望と空腹がごちゃまぜになって、行き場に困った捨て犬のように遊具の陰で雨宿りをしていたのだった。
 (――いや)
 ほんの少し回想に浸った後で、狐面の下の唇に軽い自嘲の笑みが浮かぶ。(少しちゃうわな)
 あの時の漆は途方に暮れていた。状況を受け入れることができなかった。なぜこんな所に引きずり出されなければないのか、何よりも大事な主と何故引き離されなければならないのか、静かな怒りにも似た思いをくすぶらせながら降りしきる雨をぼんやりと見つめているだけだった。
 だがリザは違う。想い人が必ず来ると信じて疑いもせずに待っている。
 漆は青い瞳をすいと細め、手の中の『銀幕ジャーナル』をくるりと丸めてベンチに歩み寄った。
 「何しとるん?」
 できるだけ柔らかに言ったつもりであったが、弾かれたように顔を上げたリザの目が大きく見開かれるのが見てとれた。大粒の瞳に浮かぶ色は警戒と恐怖が半々ずつといったところか。ああ、と漆はかすかに苦笑いを浮かべて狐面を軽く持ち上げてみせた。忍装束にこの面では現代人を警戒させるのも無理はない。面の下から現れた顔立ちが少年のものであることに安心したのか、リザの表情が少しだけ和らいだ。
 漆がふらりと対策課を訪れた時、既にリザの姿はなかった。植村が少し目を離した隙にいなくなってしまったのだという。経緯を説明してもらった漆は「多分あの公園に行ったのだと思いますが」という植村の言葉を聞くまでもなく、銀幕ジャーナルの編集部に立ち寄ってからこの場所に足を向けていたのだった。
 「先生を待ってるんです」
 言って、隣にどうぞとでもいうようにリザは少し左へと詰める。漆は面を着け直し、礼を言って腰かけた。
 「先生って、姐さんの学校の先生?」
 経緯は既に把握しているが、漆はあえてそう尋ねた。助教授が研究員であると同時に『学校の先生』のようなものであるという点も植村から聞いて知っている。
 リザは答えずにぽっと頬を染めてうつむいてしまった。どんな言葉よりも、彼女のその態度が事実を雄弁に物語っている。
 「だいが、くーの? 助……教授、ですよ、ね」
 不意に背後から聞こえる透き通った声。漆は思わず身構えた。リザも弾かれたように背後を振り返る。同時に、ばさっと空気を薙ぐ音が響き、黒い翼が視界に飛び込んできた。
 立っていたのは黒いダッフルコートに身を包んだ女性であった。標準的な体躯に黒い髪、黒い瞳という容貌には特異な要素は見当たらない。だが肩にとまらせている大型の鴉とどこか不自然な喋り方、それに色に乏しい表情がやけに目を引く。女性は西村と名乗った。対策課で話を聞いてやってきたのだという。が、漆ですら彼女の気配に気付かなかったのはどういうわけか。
 「私、先生がいらっしゃるまでここにいます」
 『対策課』という単語を聞いて警戒したのだろうか、リザの表情と体がにわかに硬くなる。何かのお守りのように膝の上に置いたチョコレートの箱をきゅっと握り締めながら。
 「待ー、ち、続けて……いる、だけでは、意味が、ない、と思い、ま……す」
 西村の言葉は相変わらずたどたどしかったが、彼女がリザのことを思って言っていることだけは読み取れる。「待ってい、るだ……けより、探し、に行きーま、しょう」
 「探すって、どういう意味ですか」
 リザはきれいに整えられた眉をかすかに寄せる。「わざわざ探しに行かなくても大学の帰りに必ずここを通る」と言いたいのであろう。
 「なあ」
 漆はリザに向き直って問いかけた。「この何日かの間、先生はここを通りはったんか?」
 リザの瞳が初めて揺れた。よくよく見れば髪の毛も風に吹かれて少々乱れているし、ブーツの爪先には乾いた土がこびりついている。彼女がこの世界で経た時間をそのまま物語るかのように。
 「そのチョコレート、なあ」
 リザが大事そうに手にしている小箱に視線を投げて漆は軽く目を細めた。綺羅星学園に通う高校生でもある漆は、チョコレートがどんな食べ物であるか、バレンタインがどんな行事であるか、その辺りのことも大体は心得ている。
 「古くなってまうやん、いつまでもここで待っとったら。とかした髪の毛も綺麗な服も埃まみれになってまうで。そないな姿、好きな男に見せとうないやろ?」
 固い決意は覆せなくとも、好きだからこそ女としての見栄えだって保ちたいはずだと漆は考えたのである。だがリザはやはり答えない。小さく唇を噛んでうつむいたままだ。
 「な。どっかで少し休まんと」
 漆はわざと明るく言ってリザを促すように立ち上がった。西村もそっとリザの腕を取る。リザは尚も少しの間体をこわばらせていたが、やがて小さく肯いて腰を上げた。
 


 リザのしていることははたから見れば愚かかも知れない。無意味だと、滑稽ですらあると人は笑うかも知れない。だが西村はリザの行動を否定する気もないし、止めるつもりもなかった。リザは自分と同じなのだから。
 もしかしたらリザを自分と重ねて見ているのかも知れないと、ぼんやりとそんなことすら考える。
 自身と同じ恋愛映画出身であること。大事な相手を向こうの世界に残したまま自分だけがこちらの世界に出て来てしまったこと。リザの心境を思うにつけ、他人事とは思えないのであった。
 「西村の姐さんも、あったかいうちに」
 脇に座った漆の声で西村はふっと我に返る。いつの間に店員が運んで来てくれたのか、目の前には温かい紅茶のカップが置かれていた。二人の向かいの席に座ったリザは、冷えた指先を温めるように両手でカップを持ってゆっくりとココアをすすっている。やはり疲れていたのだろう。ひとくちココアを飲む度、彼女の顔にじんわりと安堵の色がにじんでいくのが見てとれた。
 リザが体を休める場所を探すという名目で、三人は公園から少し離れた場所にある小さなカフェに入った。窓際のボックス席で温かい飲み物を注文したところである。橋の下で寝起きする西村にとっては一人で入る機会はほとんどなさそうな場所だ。肩の上で小さく鳴いた鴉に促されるようにして西村はカップに口をつけた。
 「先生がいらっしゃるかも知れません」
 リザはしきりに窓の外を気にしている。「あの、ご厚意はありがたいんですけど、私……」
 早く公園に戻りたいんです、とでも言いかけたのだろうか。リザは自分を気遣ってくれる二人の顔を申し訳なさそうに見やった後で目を伏せる。だが西村は彼女の言葉を遮るようにかぶりを振り、ことりとカップを置くのだった。
 「あそこ、にいるー、より、探しに行き……ま、しょう」
 「さっきもそうおっしゃいましたけど」
 リザは訝しげな視線を西村に向ける。表情と口調は穏やかであったものの、それはきっぱりとした反論の意志であった。
 「先生は大学の研究室にいらっしゃいます。お仕事中に押しかけてお邪魔をするわけにはいきません。先生のお帰りまであそこで待っていればいいんです」
 西村は何も言わない。瞬きすら忘れたように、鏡のように滑らかな漆黒の双眸を開いてただリザを見つめている。そこに浮かぶのは憐憫でも同情でもなく、ただ静かな共感の色。
 リザは自分が『ムービースター』という存在であることを知らない。自分が映画の中から実体化した存在であるということも、助教授が映画の中の登場人物だということも。自分や想い人が現実世界に実在する現実の人間だと――それが当たり前のことだと、信じきっている。
 漆が、手にした『銀幕ジャーナル』をテーブルの上に差し出した。公園に来る前にジャーナルの編集部から譲り受けてきた物だという。銀幕市に魔法がかかった直後、街の混乱を取材して急遽出版されたあの特別号である。
 「これ、何か知っとる?」
 と漆は表紙に躍る『映画』という単語を指した。その瞬間、面の下の唇がわずかに歪んだことに西村は気付かない。リザはなぜそんなことを聞くのかとでも言いたげに小さく眉を寄せた。
 漆は指の腹で狐面に軽く触れてから口を開いた。
 「読んでもろたら分かるけど――」
 漆が核心に触れようとした時、西村の肩の上の鴉がばさりと羽ばたいた。三人の注意を喚起するかのように。西村はハッとして振り返る。その視線の先には、良い子は学校に行っている時間帯だというのに女子高校生とおぼしき三人組が頬を上気させて立っていたのだった。
 「あの、リザさんですよねー? 『ファースト・バレンタイン』の」
 「すっごく泣きましたぁー。もう切なくて切なくてぇ」
 「お侍さんが言ってた通りじゃん? マジで会えるなんて思ってなかったんだけどー!」
 「サインください! あ、一緒に写メ撮っていいですかぁー?」
 きゃあきゃあと騒ぐ女子高生らに囲まれ、リザは目を白黒させるばかりである。
 「行くー、です」
 「行くで」
 西村と漆はほぼ同時に言い、リザの腕を取って席を立った。「あーん」だの「ケチィー」だの喚き散らす三人組を尻目に会計を済ませてカフェを飛び出す。
 (お侍さ、ん……って?)
 彼女らの言葉を怪訝に思った西村であったが、詳細を質すために店内に戻る気にはなれなかった。今はリザをこの場から引き離した方が良い。漆も同じことを考えているようで、ただ黙々と歩き続けていた。



 「むう」
 リザが最初に現れたという公園のど真ん中で、清本は本日何度目かの唸り声を上げる。昼過ぎの園内にはベビーカーを押す女性やウォーキングにいそしむ年配の夫婦の姿がちらほらと見られるのであるが、通行人は決まって清本の姿を目にすると逃げるようにそそくさと進路を変えるのであった。老婦人が引っ張るリードに繋がれた小さなマルチーズまでが清本に向かって吠え立てる有様である。
 清本が振り返ると、犬はずりずりと後ずさってしまった。強面の侍が苦虫を噛み潰したような顔で仁王立ちになっていればさもあろう。
 聖林通りで声をかけてきた二人からリザのことを聞いた清本は、銀幕市役所の対策課に足を運んだのであった。ムービースターのことならば対策課に何か情報が入っているかも知れないと考えたのである。そして植村から経緯を聞き、ついでに幾人かの通行人を捕まえて「リザという娘御を見かけなかったか」と尋ねながらこの公園までやって来たのだが……。
 (入れ違いになってしまったのやも知れぬ)
 ベンチの周囲に残る足跡と気配の残滓を確認して小さく息をつく。植村によれば、他に二人の人間がこの依頼を受けて動いているそうだ。その二人も現在リザと行動をともにしているのであろうか。
 清本としてもリザに会わなければならない理由がある。通りすがりの人間に片っ端から聞きこんで彼女の手がかりを探すしかない。早速買い物袋を提げて歩く女性の姿を視界に捉え、清本はずんずんと歩き出した。



 実体化していることを信じて助教授を探そう。それが西村の主張であったし、漆も特に異存はなかった。リザが助教授に会えるのならそれに越したことはない。二人の求めに応じて、リザは不審がりながらも助教授の風貌を詳しく教えてくれた。
 人通りを求めて三人は聖林通りへと足を向けた。ちょうど昼と夕方の間の中途半端な時間であったが、昼の休息を終えて動き出した人々で往来はそこそこ賑わっている。
 「なまー? え」
 「え?」
 「な……まえ、教えて、です。先……生、の」
 「あ、はい。稲葉……雅宏先生です」
 好きな相手の名前を口に出すだけでも照れ臭いのか、リザはほとんど囁きに近いような声でそっと名を教える。そして「いい、名前でーす、ね」という西村のありふれた台詞にも嬉しそうに肯いて頬を染めるのであった。傍目には仲の良い女友達同士がお喋りをしているようにしか見えないであろう。
 「先、生は、いつも、どこに行ー、きますか?」
 という西村の問いにリザは眉を寄せ、震えるように首を横に振った。稲葉とは完全に『学生と助教授』という間柄であるため、彼のプライベートのことなど何ひとつ知らないのだと悲しそうに付け加えて。
 「趣味とか、好きな食べもんとかは?」
 数歩後ろを歩いていた漆が尋ねる。趣味や食べ物の嗜好が分かれば彼の立ち寄りそうな場所が絞れるかも知れない。リザは「自信はありませんが」と前置きしてから言った。
 「甘い物が大変お好きだと伺ったことがあります」
 「甘い物、なぁ。ほんなら茶屋か甘味処でも当たってみよか」
 漆はそう言い残し、音もなく人ごみへとまぎれていく。その背中をリザがやはり怪訝そうに見送るが、漆はそれには気付かないふりをした。
 (ま、多分いないとは思うけどな)
 そして内心で冷めた呟きを漏らす。西村と違い、漆は稲葉が実体化していると信じているわけではない。少なくとも、公園に赴く前に対策課で閲覧した住民名簿の中には稲葉の名は見当たらなかった。
 「甘いも、の、好きー、なら」
 西村は相変わらず無表情であったが、その声音は心持ち優しさを帯びているようにも感じられた。「きっと、喜びーま、すね。チョコレー……ト」
 コンビニでバイトができるくらいの西村だから、バレンタインデーがどんな日であるかということくらい心得ている。だがリザは困ったような微笑を西村に返しただけだった。長い睫毛に縁取られた大きな瞳ははにかんでいるようにも見えるし、小さな悲しみが頼りなく揺らめいているようにも見える。
 「カフェで会った女の子たち、何だったんでしょうね」
 そして腰の後ろで手を組み、他愛ないお喋りでもするかのように口を開いた。形の良い唇を無理に笑みの形にし、ことさらに明るい声で。
 「私のことを芸能人か誰かと勘違いしたんでしょうか。私、芸能人に間違えられたことなんて一度もないんですけど」
 おかしいですよねと、そう言ってリザは小さな鈴のような笑い声をわざとらしく転がす。西村は答えずに、静かな瞳をそっと眇めてみせるだけだった。
 「あ」
 交差点近くのショウウインドウの一角に何かを見つけたリザが不意に駆け出した。鴉が注意を促すように西村の頭をくちばしで軽くつつくのと、西村の眉がわずかに動くのとはほとんど同時であった。
 リザが見つけたのは映画グッズの量販店だった。バレンタインシーズンだからであろうか、磨き抜かれたガラスの中には恋愛映画のDVDがきれいに揃えて並べられている。
 そして――その片隅には、ご丁寧に『バレンタインといえばこれ!』という手書きのポップまで付された『ファースト・バレンタイン』が置かれていたのであった。



 「そういえば、先程いらした背の高いお侍さんもリザさんのことを聞いて行かれましたけど」
 稲葉の姿など見かけていないと答えた後で、喫茶店の店員は笑顔でそう続けたのであった。
 ぼさぼさの頭。それほど上品でもきれいでもない黒の和服。腰には刀。強面で、年齢は四十くらい。それが店を訪れた『お侍さん』の風体だという。それだけ聞くと漆はさっさと店を出た。
 (侍、なぁ)
 あのやかましい女子高校生たちも『お侍さん』と口走っていた。今回の一件にその侍も絡んでいるのだろうか。もっとも、単に漆たちと同じように対策課から依頼を受けた者なのかも知れないが。
 そして、偶然というものは時に出来すぎたタイミングで訪れるもので。
 「済まぬが、そこの面の忍の者」
 その声とともに、長身痩躯の浪人が不意に漆を呼び止めたのである。
 「なんでっか?」
 上方特有の柔らかい抑揚とは裏腹に、面の下の目は素早く浪人の全身を観察していた。
 ――浪人の姿は、店員が話していた侍の特徴とぴたりと一致する。
 「リザという娘御を探しておる。『むうびいすたあ』だ。見かけなんだか?」
 鋭い眼光に低い声。痩せているというよりは無駄な部分をきれいに削ぎ落としたという印象の体つき。身に纏う雰囲気は手練れのもののふそのもの。腰に佩いている刀は古ぼけてはいるが、それなりの業物であることが一目で察せられる。
 「さぁ……知りませんなぁ」
 漆はひとつ肩を揺すってうそぶいてみせた。
 清本橋三と名乗ったこの男が対策課から依頼を受けた人間だという保証はどこにもない。敵か味方かも分からぬ相手にいきなりリザの所在を教えるほど漆は無警戒でも無思慮でもないのだ。
 「そのリザっちゅうお人に会って、どないしはりますん?」
 短い礼の言葉とともに踵を返しかけた清本に向かって漆は問うた。
 「……用がある」
 清本は顔を半分だけ漆に振り向け、やや間を置いてから答える。「それだけだ」
 そして、着流しの背中はそのまま人通りの中に消えた。
 漆はそれを見送った後で足早に歩き出した。もし対策課から依頼を受けたのであれば真っ先にそれを言うはずだ。なのに清本は何も言わなかった。疑う証拠としては弱いが、信用できると断ずるには足りない。
 ほどなくして交差点の一角に佇むリザと西村の姿をみとめる。二人が立っているのが映画関連のグッズショップの前であることに気付いて漆は一層足を速めた。



 元々色の白いリザの顔は更に白くなっていた。整った顔からは蒼白と言ってよいほど血の気が失われている。
 「“純真無垢な女子大生の切ない初恋の行方は……”」
 ひたりとガラスに掌を当てて読み上げるフレーズはポップに記された『ファースト・バレンタイン』のストーリーであろうか。
 「ムービー、スター」
 やがてゆるゆると西村に向けられた大粒の瞳は濡れた膜に覆われ、どうしようもないほど揺れていた。
 「『対策課』の人たちが私のことをそう呼びました。その時は理解できませんでしたけど……私が『ムービースター』なら、先生はどうなんですか?」
 西村は答えない。ただじっとショウウインドウの中を見つめていた。『ファースト・バレンタイン』のジャケットには、チョークを手に黒板に向かう稲葉の姿と、その姿を頬杖をついてじっと見つめるリザの姿が映っている。助教授の姿を遠くから見詰めるリザの表情はもどかしさと苦悩に満ちていたが、それでもどこか幸せそうで、満ち足りたようにすら見えるのであった。
 肩の上の鴉が気遣うかのように西村の顔を覗き込むが、西村はただその場に立ち尽くしている。
 リザは西村と同じ。
 西村という存在は確かにある。この銀幕市に。同時に、映画の中に。
 けれど、この銀幕市と映画の中には決定的な違いがあるのだ。
 「……貴女ー、を」
 やがて西村はぽつりと呟いた。涙をこらえていたリザがやや驚いたようにして西村を見る。
 西村が、いつの間にかぎゅっとリザの手を握り締めていた。
 「放って……おけな、い、んです」
 そしてリザの意志を確認せずに、やや強引ともいえる足取りで歩き出す。西村に引っ張られるようにして足をよろめかせるリザが戸惑いの声を上げるが、西村はお構いなしだった。
 「探し……ま、しょう。先生ーを」
 「だから、どうしてですか?」
 リザは甲高い声とともに西村の手を振りほどき、立ち止まった。無言で振り返る西村の瞳をリザはややきつく見据える。華奢な肩をわずかに上下させながら。
 「先生は大学にいらっしゃるんです。お仕事が終わればお帰りになられます。探す必要なんかありません!」
 西村は黙っていた。肯定することも否定することもせずに。
 雑踏。ざわめき。行き交う人々が作り出す無機質な静寂が二人の間に満ちる。
 「――せやからな」
 沈黙は不意に破られた。冷たい風に乗って届く乾いた声。いつの間にか戻ってきていた漆が、ずっと手にしていた『銀幕ジャーナル』を広げてリザに差し出してみせた。
 「これ読んでみ。リザの姐さんや先生みたいなお人らのこと、書いてあるから」
 リザに共感できる身だからこそ、たとえ彼女を悲しませることになったとしても漆は真実を伝えたかった。そして出来る限り支えてやりたかった。だから半ば無駄と悟りつつも聞き込みに精を出したのだ。稲葉を捜索する姿を見せてやったほうが少しは救いになるかも知れないと。『探したけれど見つからなかった、だから今は彼はここにはいない』という結論のほうが幾分ましではなかろうかと。
 戸惑いながらもジャーナルを受け取り、誌面に目を落としたリザの瞳が決定的にこわばった。
 銀幕市に魔法がかかってしまったこと。『映画』の登場人物が『実体化』し、『ムービースター』として現れるようになったこと……。事実が余すところなく記されている。誰にも覆しようのない冷淡な真実が、容赦なく。
 「……先生は」
 やがて顔を上げたリザは震える声で呟いた。蚊の鳴くような、わずかな声であった。漆に向けられた瞳は、縋るように、救いを求めるように、哀切に満ちていた。
 「稲葉先生は……いらっしゃるんですか?」
 どこにいらっしゃるんですか、とは言わなかった。それは稲葉の所在を尋ねる言葉ではなかった。まぎれもなく、稲葉の存在そのものを尋ねる問いかけであった。
 漆はゆるりと首を傾けた。
 「おるよ」
 そして、その場にかがんで目線の高さをリザに合わせる。「あっちの世界に」
 あっちの世界、という言葉が何を指すか瞬間的に悟ったのであろう。高圧電流にでも触れたかのようにか細い体が激しく震える。漆は「けどな」と彼女の腕を軽くさすってやった。その手つきは淡々とした声音には似つかわしくないほど穏やかだ。
 「そのうちこっちに来るかも知れん。それがいつかは分からん。ひと月後かも知れんし、一年後かも知れん。せやけど――」
 「実体化」
 リザはぼつりとその言葉を反復した。映画、実体化、ムービースター。そんな単語をぼつりぼつりと繰り返している。
 「映画……フィクション。ムービースター。登場人物。架空」
 面の下で漆はわずかに眉を持ち上げる。
 リザの瞳はぼうやりと宙をさまよい、虚ろい始めていた。
 「姐さん、あのな」
 「待っ、て」
 それまで黙っていた西村が不意に漆の言葉を遮った。それは一般人の基準で考えれば何ということのない物静かな口調であったが、無表情を常とする西村にしては驚くほど強く、はっきりとした反論と否定の色を帯びていた。
 「まだ、決まーっ……て、なんか? ない」
 正面から漆を見据える漆黒の瞳は深い湖の面(おもて)のように凪いでいる。だが底は見えない。すべてを吸い込んでしまうかのような深い深い、黒。
 「実体化し、ているか、も、知れない」
 そして西村はリザの手を取り、有無を言わさず早足で歩き出した。「探すん、で……す」
 抵抗する暇もなく、リザは西村に引きずられて漆の視界から遠ざかって行く。



 西村は黙っていた。ただリザの手を引いて、目についたドーナツショップやケーキ店、和菓子屋等に片っ端から入って聞き込みを行った。しかしどこでも答えは同じである。そんな男性など知らない、と。
 「西村さん」
 手を放そうとしない西村に対して発せられるリザの声は抗議か、それとも戸惑いか。
 「もう、いいです」
 ぼつりとしたリザの呟き。だが西村は聞こえないふりをして歩を進める。
 「先生は」
 リザの声はどうしようもなく震えていた。「先生は……」
 西村は初めて足を止め、リザを振り返った。ぼんやりとした瞳が西村を見つめる。
 「同ー、じ」
 「え?」
 「同じ……です。貴女ーと。私も、ムービース、ター」
 その言葉に反応するように、どこか頼りなくたゆたっていたリザの瞳が西村の顔の上で焦点を結んだ。
 「大切なー、人、が、いるで、す。映画の……中、に」
 西村も恋愛映画から実体化した。想い人である青年を映画の中に残したままで。
 もしももう一度人間に生まれ変われたら西村と共に在ることを誓うと、青年はそう言った。それは映画の中の台詞ではあったけれど、銀幕市に実体化してからも西村はその言葉を信じ続けている。
 はたから見れば愚かかも知れない。
 無意味だと、滑稽ですらあると人は笑うかも知れない。
 しかし、西村にとってはまぎれもない真実なのだ。
 「一度、似たの……人に、会いまーし、た」
 青年役を演じた俳優と出会ってしまったことがあった。西村は俳優の中に青年の面影を見た。だがそれは西村の求めるものではない。同じ形をしているけれど、彼ではない、まったく別の存在。だからリザにも同じ選択肢は絶対に選んでほしくなかった。リザを稲葉に引き合わせるとはいっても、彼を演じた俳優を連れてくるつもりはなかったし、もし誰かがそれを提案したら断固反対するつもりでいた。
 「だか、ら」
 西村は握ったままのリザの手をさらに強く握り締める。「探しま、しょう」
 そしてリザの顔を見ずに再び歩き出した。自分の願いを重ねているのかも知れないと、そんなことをちらりと考えながら。



 清本は粘り強く聞き込みを続けていた。姿を見かけたという証言はいくつか得られたものの、実際にリザを見つけるには至っていない。しかし清本がリザの行方を尋ねた人間の中には『ファースト・バレンタイン』を観たことがあるという者も何人かいて、彼ら彼女らが口にする映画の感想を聞くにつけ、清本はある確信を深くするのだった。
 (そうよな)
 袂にしまい込んだ預かり物の感触を確かめて清本はひとり肯く。道中で数が増えたこともあり、袂は少し重みを含んでいるようだった。
 (それが『むうびいすたあ』の本分よ)
 リザは己がムービースターであることを知らないという。今頃はもしかしたらその辺りの真実を聞かされているのかも知れないが、絶望して自暴自棄になるようなことだけはあってほしくないと清本は切に願っていた。
 「済まぬ。そこの御婦人」
 清本は三十過ぎと思われる女性を捕まえ、リザを見かけなかったかと尋ねる。女性は『ファースト・バレンタイン』を知らないようだったが、清本がリザの風貌を詳しく話して聞かせると「もしかして」と前置きして口を開いた。
 「その人かどうか分かりませんけど、似た女の子を見かけました。肩に鴉を乗せた女性と、お面をかぶった忍者みたいな人と一緒に歩いてましたよ」
 「忍」
 清本は眦を厳しくしてその言葉を鋭く反復する。「して、面とはどのような?」
 「ちょっと不気味な感じの……狐か何かのお面だと思います、多分」
 「むう」
 清本は彫りの深い目を見開き、唸り声を上げた。
 先程の狐面の忍に間違いなかろう。ムービースターが闊歩する銀幕市においては忍者などそれほど珍しくもないが、面を着けている者はそうそういない。清本は軽く舌打ちをし、女性に礼を言うことも忘れて駆け出した。鬼気迫る形相に怯えた女性が道を開けてくれたことなど頓着せずに。



 西村はリザの手を引いて稲葉を探し続け、漆も片っ端から聞き込みに回った。嘘、やだ、『ファースト・バレンタイン』のリザさんですよね? 稲葉助教授を探してるんですか? 稲葉先生も実体化していたら素敵ですよね……。そんな映画ファンの無邪気で残酷な励ましを幾度か受けながら。
 しかし――というよりは、やはり、というべきであろうか。
 懸命の捜索も空しく、稲葉は見つからなかった。
 「おらへんのかなぁ」
 漆が独り言を装って呟く。わざと断定を避けた口調で。西村は何も言わない。リザは疲れた表情をしていたが、やはりその双眸はどこか虚ろなままであった。チョコレートの箱を握る手にも力がない。
 三人は再び最初の公園に戻り、噴水の前のベンチに腰を落ち着けていた。少し前まで学校帰りの若者で賑わっていた通りは静かになり、周囲の民家には暖色の明かりがともり始めている。
 「ムービースター……」
 昼から夜へと移り変わろうとする中途半端な薄闇に包まれ、リザの声が震える。「映画。映画のキャラクター」
 くすくすくす。幼い笑い声に西村は思わず顔を上げる。
 リザは、笑っていた。
 「ふふ。映画。映画ですって。映画の登場人物なんですって、先生と私!」
 西村はかすかに息を呑み、漆は氷の刃で腹を撫でられたような錯覚に捉われた。
 「おかしい。ねえ、おかしいですよね? 映画。映画ですって。先生も私も映画の登場人物なんです。テレビと同じ。全部フィクションなんです。先生も、全部。先生もフィクション! 全部、全部、ぜーんぶ架空! 何もかもが!」
 ころころと、鈴を転がすようにリザは笑った。目尻に涙すら浮かべて。とにかく愉快。心底おかしくておかしくてたまらない。そんな笑い方。愛らしい笑顔に夕焼けの残滓が斜めに差し込んで、どぎつい陰影を落とし込んでいた。
 「私、たーちは」
 静かな黒い瞳でリザを見つめ、西村は平素通り無表情に口を開いた。「人々のー、見た……夢。けれ……ど、私たちーが、見て……聞い、て感じて、きーた、想い、は、私たち……にとって? は? 真実……ではない、のですか? ……その、答えは、貴女ーが、一番……良くご存、じ、の筈です」
 たとえ存在が何であろうとも。いつかは消える運命にあろうとも。
 西村の気持ちも、西村が両方の世界で経験したことも、西村にとってはすべてまぎれもない真実。今ここにリザがいることも、リザが稲葉に対して抱き続けている想いも、すべて等しく真実であるはずだ。
 「そうかも知れません」
 長い睫毛が震え、瞳の上をうっすらと涙が覆っていく。「どこにいても、会えなくても……気持ちは変わりません。けれど、私たちが夢だとおっしゃるのなら」
 リザの唇はあどけない笑みの名残をまだ留めていて、奇妙に歪んでいるのであった。
 「――夢って、実在しないものでしょう? 先生は実在しないんでしょう? そもそも、夢なんか生き物でもないじゃないですか?」
 その瞬間、平素から感情をほとんど表に出さない西村の顔にほんの少しだけ悲しみが滲んだ。己を、そして想い人を『虚構の存在』と自ら断じてしまうリザの心が悲しかった。絶望のあまり自暴自棄になっていることが痛いほど伝わるだけに、その絶望の深さが想いの強さと比例することを知っているだけに、そしてリザと自分の境遇に共通点を見出しているだけに、どうしようもなく悲しかった。
 西村はちらりと漆を見た。尋ねたわけではないが、察するに彼もリザに共感できるような理由と境遇の持ち主なのであろう。しかし漆は軽く腕を組んだまま沈黙を押し殺しているだけである。
 だが、狐面の下の彼の唇が引きつっていたことに誰が気付いたであろう。漆の中でとぐろを巻いている鉛のような『何か』がどろりとうごめいたことなど、誰が気付き得たであろう。
 西村が、そして漆が口を開きかけた時、不意に背後から低い声が聞こえてきた。
 「……探したぞ」
 その声とともに歩み寄ってきたのは、街で漆に声をかけてきた浪人・清本であった。
 怯えたように肩を震わせるリザの視界を塞ぐように漆が清本の前に立ちはだかる。西村はリザに写真やサインをねだった女子高生の言葉を思い出したが、漆の様子から何かを読み取ったのか、かばうようにリザの肩を抱いた。
 「リザ殿だな」
 「不躾と違います?」
 漆を押しのけてリザに歩み寄ろうとした清本の腕に漆が手を置いた。漆の口調は相変わらず穏やかだったし、腕に置いた手もちょっと力を入れればすぐに振りほどける程度の力であった。しかし状況次第ではどうなるか分からない。無表情な狐面が無言でそう物語っている。
 「……おまえさん」
 清本は腕を引っ込めて斜めに漆を見下ろした。「対策課の依頼で動いておるのか? 俺が娘御のことを聞いた時、知らぬと言ったのはなぜだ?」
 「さて。覚えがありませんなぁ」
 「なぜ嘘をついた? 俺は対策課で話を聞いてこの娘御の後を――」
 「ほんならそれを初めに言うてくれたらよろしかったのに。こそこそ嗅ぎ回るような真似なんかせんでも」
 柔和ながらもどこかなじるような漆の語調。「むう」と唸った清本の眉間の皺が深くなる。
 「……言葉が足りなかったことは詫びる」
 やがて清本は腕を組み、漆の背中の向こうのリザをちらりと見やった。鋭い眼光に射られたリザの顔に怯えの色が浮かぶ。
 「だが、俺はその娘御に用があるのだ」
 「相手はいたいけな娘さんですやん、そない怖い顔せんと。リザの姐さんには俺が伝えますさかいに、用件言うてもらえまへんやろか」
 「俺が直接言う」
 「はぁ。俺らに聞かれたらなんぞまずいんでっか?」
 ぴん、と音を立てて空気が張り詰めた。
 どちらからともなく、離れた。漆は二、三歩下がって清本と距離を取り、清本はやや腰を落として左手を腰の鞘の上に置く。
 「お察しの通り、俺ら対策課から依頼受けてますねん」
 じり、と漆の足が動く。その影は清本に向って濃く長く伸びていた。「この姐さんに危害を加えさせるわけにはいきまへんのや」
 「危害など。渡したい物があるだけだ」
 「ほな俺が代わりに渡しますさかいに」
 「直接渡す。リザ殿に言いたいこともある」
 西村の腕の中でリザの体がびくっと震えた。ほとんど咄嗟のことであろう、何かを感じた西村がリザの上に覆いかぶさる。まるでこれから起こる光景をリザに見せまいとでもするかのように。
 「分からんお人でんなぁ。ちぃと脅しが必要でっしゃろか」
 「……やむを得ん、か」
 二人は同時に地を蹴り、踏み込んだ。――はずだった。
 「むっ!」
 清本はびたりと足を止めていた。漆の姿を見失ったのだ。目の前にいたはずの漆は忽然と消えていた。上か、と弾かれたように頭上を仰ぐも、茜色から藤色へと移ろいつつある空が広がるだけである。
 目標を喪失して惑う清本の背中で、その影が不意にざわりとうごめいた。
 ひゅっという風切り音が耳を掠める。振り返った清本の視界の中で赤いマフラーが翻った。己の影から清本の影の中へと移動した漆が背後から現れたのだ。同時に閃く二条の光、やや遅れて耳障りな金属音。切り落とされてはらりと舞う黒い髪の毛はどちらのものか。馬手(めて)で繰り出された漆のクナイを清本の日本刀ががっちりと受け止めていた。振り向きざまにふるわれた太刀は万全とはいえなかったが、手首に伝わる重さと衝撃に漆は軽く舌打ちする。
 「面妖な。忍の術か?」
 清本の声には余裕が感じられる。答える代わりに漆の弓手(ゆんで)が一閃した。目にも留まらぬ速さで襲い掛かった二本目のクナイをぎりぎりで見切った清本は後方に跳ぶ。しかしそれすらも読んでいたのか、漆は弓手を振り抜くや否や一気に間合いを詰め、肩を入れた体勢で清本の懐に飛び込んだ。
 清本が瞠目するいとますらなかった。漆の全身が音もなくしなり、クナイが一気に下段から上段へと払い上げられる。目一杯引き絞られた弓から放たれた矢のように。
 「ぐうっ!」
 清本の体が大きくのけぞった。乾いた金属音とともに刀が落下する。低い唸り声は手負いの獣よりも荒々しく、脂汗と苦悶にまみれた形相は鬼の面ですら及ばぬほどに恐ろしい。そして――苦痛を噛み殺すようにぎりぎりと歯を鳴らしながら、清本はそのままどうと崩れ落ちた。
 「……ちょ、旦那さん」
 漆はやや呆気にとられて清本を見下ろしていた。手を抜いたわけではないが、威嚇は威嚇だ。深手を負わせる気まではなかったし、実際、致命傷は与えていないはずなのであるが……。
 「てが……み?」
 倒れた清本のそばに散らばる封筒に気付いて西村が首をかしげる。清本が袂にでもしまい込んでいたのか、幾通かの封筒がこぼれ落ちているのだった。封筒を拾い上げた漆はわずかに目を丸くした。どうやら清本がしたためたものではないらしく、差出人の名は様々だったが、宛名はすべてリザになっている。
 心当たりなどないのであろう。リザは怪訝そうにしていたが、西村に促されて手紙を受け取り、封を切った。幸いベンチの上には街灯が差しかけられており、手紙を読めるくらいの明るさは確保できる。



 『リザさん。稲葉助教授が見つかるといいですね』
 『ファースト・バレンタイン、何度も観ました! 大好きです! 応援してます!』
 『映画はチョコを渡す前に終わっちゃいましたけど、銀幕市ではきっとちゃんと渡せますよ』
 『歳の差なんて関係ないです、好きなものは好き! 私、もし稲葉先生を見かけたら対策課にちゃんと連絡入れますから!』



 リザは便箋から顔を上げようとしなかった。二人に顔を見られまいとしているかのように。
 どれもこれもが、『ファースト・バレンタイン』の『ヒロイン』であるリザに対するものであった。
 だが、どれもこれもが、間違いなく、リザへの励ましの言葉であった。
 「皆、おまえさんを応援しているようだ。文(ふみ)の中身を見ずとも、町でおまえさんの評判を耳にすればそれくらいは知れるというもの」
 不意に響いた声に三人は一様に目を丸くする。着流しは無残に切り裂かれたままでいるものの、何事もなかったかのように腕組みをして漆の脇に佇む清本の姿があった。 
 「『ふあんれたあ』だそうだ。公園で座っているおまえさんを見たという二人組の娘にたまたま声をかけられてな。娘らは同じ『むうびいすたあ』なら渡せるだろうと言って俺に文を託したのよ」
 「それ……で」
 あることに思い当たった西村が清本を見上げた。「色々な人……に、聞きなーがら、さ……がして?」
 「うむ。対策課で事情を聞き、町人を手当たり次第に捕まえてその娘御の行方を尋ねたのだ。その道中で他の者からも文を預かった」
 事情を悟った漆が清本の脇で小さく肩をすくめる。清本は「何、構わぬさ」とでもいうように軽く笑んでみせた。
 「リザ殿。絶望して自棄にならぬことだ」
 清本の物言いはぶっきらぼうだった。だが声音は温かで、深く彫り込まれた瞼の奥の目にもどこか穏やかな光が灯っている。
 「精々この思いを裏切らぬよう。人々の憧れ……それが『映画の主人公』の本分なのだから」
 かさり、とリザの手の中で手紙が音を立てた。握りしめられた白い便箋にひしゃげたような皺が寄る。うつむいているせいで表情は読み取れない。
 ぱたた、と便箋の上に水滴が落ちた。
 「映画の主人公」
 かすれた声。震える唇。大きな瞳の縁に盛り上がった涙が堰を切り、音もなく溢れて滴り落ちたのであった。
 「私は……先生は……」
 くしゃ、と音を立てて歪んだのは手の中の便箋か、それともリザの顔か。「私たちは……何なのですか……?」
 リザは映画のヒロイン。それはすなわち、稲葉も等しく『映画の登場人物』にすぎないということ。それは何よりも残酷な宣告であったのかも知れない。
 片時も離さず持っていた手作りチョコレートの箱がリザの膝から落下し、コンクリートの上に落ちて、転がる。真っ赤な包装紙の四隅はややすり切れて毛羽立ち、リボンもほつれて、よく見れば箱の角も少しつぶれていた。
 「――さっきもゆうたけど」
 漆は真っ赤な箱をひょいと拾い上げ、リザの前にしゃがみ込んだ。リザは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を隠そうともしない。乱れた髪が涙で頬に張り付いたその様子は『お嬢様』にはふさわしからぬ風体であった。
 「今はあっち側でも、先生も今後こっちに出てきはるかも知れんのやで。もし先生が会いに来てくれはった時に姐さんが不幸な女になってたら、どないやろなぁ」
 一言ひとこと、子供を諭すように、漆は穏やかに言葉を継ぐ。「先生、きっと後悔しはるよ。自分のせいで姐さんを苦しめてしもた、って」
 リザは顔を歪め、きつく目を閉じた。そして幾度も強くかぶりを振る。子供がいやいやをするかのように。
 「な。好いた男を悲しませとうないやろ? そんならこの街でちゃんと生きよう。やってけるて。俺でええなら出来る限り支えになるし、この手紙みたく姐さんを応援してくれはる人もようけおるさかいに。ちゃんとここで生きて、もっとええ女になって、先生に堂々とチョコ渡そ。な?」
 目を開いたリザの視界にチョコレートの小箱が差し出される。無表情な狐面がじっとリザを覗き込んでいた。
 「先生を悲しませない、ため……」
 リザの唇がぎゅっと噛み締められる。嗚咽をこらえるかのように。引き結んだ唇はすぐにほどけてしまったが、それでも……やがて彼女はおずおずと漆に手を伸ばしたのだった。
 白い手の中に箱を置いてやり、漆は「よし」とリザの肩を叩いた。
 「ま、そのうち先生よりええ男が見つかるかも知れんけどな?」
 わざとおどけるように言ってみせた漆にリザの表情が少しだけ緩み、泣き笑いのような妙な顔になった。西村がいたわるように彼女の肩を抱く。相変わらず無口な西村であったが、リザを見つめるその黒い瞳を見れば、彼女が心からリザの選択を喜んでいることは明らかであった。
 「む」
 袂の中で何かがかさりと動いた感触を覚え、清本は組んだ腕を解く。袂に差し込んだ手に一通の封筒が触れた。清本が倒れている間に漆がすべて回収したつもりだったのだが、取り残しがあったようだ。
 「……あ」
 リザに渡された手紙の裏を見て声を上げたのは西村だった。促されてリザも封筒の裏に目を落とす。そして息を呑んだ。

 『稲葉雅宏』。

 白無地のシンプルな封筒の裏には、確かにその名がしたためられていたのだ。
 リザは性急な手つきで封を切って便箋を広げる。



 『貴女の噂は聞いていました。僕より後に実体化したのですね。
  貴女が僕にそんな思いをいだいていたなんて、ちっとも気付きませんでした。
  すみません。昔から鈍いんです。駄目な先生ですよね。

  けれど、どうか映画に捉われないで。
  この街で暮らして、いろんなことを経験して、いろんな人と触れ合って……
 “映画の設定”ではない、本当の想いを見つけてみてください。
  映画のヒロインではなく、一人の女性としての。
  ――それでももし僕を想い続けてくれるのなら、その時はきっとチョコを受け取りに行きます』



 「……似てます。先生の字に」
 大きく見開かれた瞳に新たな涙が満ちる。しかしリザは慌ててそれを拭った。大事な大事な手紙を涙で汚したくなかったのであろう。だが涙は止まらない。一時便箋を預かろうと西村がそっと手を差し出すが、リザは拒んだ。片時も便箋を手放したくなかったのかも知れない。代わりに便箋を握り締めた手を体の脇に置き、西村の肩に顔をうずめて泣きじゃくった。
 「まことに稲葉殿だと思うか?」
 顎に手を当てて首をひねりながら清本が漆に問う。清本は稲葉の顔を知らない。確かに二、三人の男からも手紙を預かったものの、その中に彼がいたかどうかなど知る由もなかった。
 「だとええですなぁ」
 その言葉は確かに漆の本心だったが、脳裏からもうひとつの可能性が消えないことも確かだ。
 手蹟が似ているからといって本人が書いたものとは限らない。
 対策課で依頼を受けた時、植村が簡単に説明してくれた。大雑把にいえば稲葉は研究員であると同時に教員でもあり、『学校の先生』のようなことも行っていると。ならば映画の中には、漆が通う学校の教師と同じように、稲葉が黒板に白墨で字を書いて『講義』という名の授業を行う場面も収められているのだろう。何とかリザを励まそうとした熱心なファンがそのシーンを幾度も見て筆跡を真似たということも考えられるのではないか。
 「……何に、しろ」
 西村がぽつりと呟いた。「良かっ、た」
 あるいは気休め程度にしかすぎないのかも知れない。しかしリザには稲葉の存在を少しでも信じるためのよすがが必要なのだ。たとえこの手紙がまがいものであろうとも、今は信じるしかないのだから。
 良かった。
 西村は心からそう繰り返し、泣きじゃくるリザの背中をぎごちなく、しかし優しくさすり続けた。



 翌日。誰が提案したわけでもなく、三人はリザを連れて再び稲葉を探したが、やはり彼の所在は知れなかった。
 しかしリザは泣かなかった。少し悲しそうにはしていたが、それでも気丈にかぶりを振っただけで、三人に丁重な礼を述べたのであった。
 その後でリザはレターセットを買い求め、愛らしい花柄が舞うパステルオレンジの便箋に手紙をしたためた。届くことのない恋文を、一文字一文字、願いを込めて。


 
 『稲葉先生。私、この街でやっていこうと思っています。
  自分のために。何より、先生を悲しませないために。
  いろんなことを見て、聞いて、経験してみます。
  だけど、それでもきっと先生への気持ちは変わりません。
  だから一年後、きっとまた……

  私……ずっとずっと、待ってます』



 (了)



クリエイターコメント皆様こんにちは、この度のご参加まことにありがとうござます。
宮本ぽちが銀幕市で初めてお送りする当シナリオ、いかがでしたでしょうか……。

物語の筋書き自体は単純にして、リザに対する皆様の感情に重点を置いて書かせて頂きました。
ハッピーエンドかバッドエンドかは皆様のお心に委ねますが、当初の予定よりだいぶ柔らかい幕切れとなったことだけは確かです(初めは悲劇的な結末にするつもりでしたので)。
皆様がお寄せくださったプレイングのおかげです。心より感謝いたします。

後程、拙ブログ(http://lovely-nyajira.at.webry.info/)にて皆様への御礼を個別に申し上げますので、もしよろしければご覧くださいませ。
尚、口調・行動その他諸々でおかしい部分がありましたら、どうか御遠慮なくお知らせくださいますようお願い申し上げます。
それでは、今回のご参加重ねてありがとうございました。
公開日時2008-02-12(火) 23:40
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