<ノベル>
1
カエルである。
等身大のカエルが、ベッドでさやさやと眠りについている。
そこは銀幕ベイサイドホテルの地下ボイラー室。紆余曲折のすえ、いったんはここを寝床と定められたカエル男爵だったのだが……。
「……ずるい……」
幽かな呟き。
いつのまにか、部屋の隅にひとりの少女がいる。
黄色い傘を携えた、小学生くらいの女の子だ。無造作に、垂れ下がった黒髪。前髪のあいだから、じっと、黒目がちな瞳が、カエル男爵を見つめていた。佐々原栞だ。
「……人が寝てるのを邪魔して……自分だけしあわせそうな顔して寝てるなんて」
カエル男爵はむろん気づかない。大平楽の夢の中だ。
「……」
部屋の隅で、影からあらわれたかのようにしていた栞は、次の瞬間にはベッドのすぐそばにいる。
じっと大きなカエルをのぞきこむ。
「……なんとか言ったら……」
カエル男爵は眠り続ける。
栞は、手にした傘で、男爵を――
「よく寝てんなー」
ふいにドアが開いて、ボイラー室に入ってきたのは太助だった。
カエルとタヌキ、しばらくぶりのご対面。
「しーっ、太助くん、あんまり大きな声出しちゃだめだってば」
彼に続くのは三月薺である。
「あ、佐々原さんもいたんだ。今日はよろしく」
「……」
「……じゃあ、まずエレベーターだね。そこの荷物用エレベーター使わせてもらったら駐車場にすぐ出られるから。そこまでは……」
「そこに台車があったぞー」
「じゃあ、それを借りましょうか」
再び、出ていくふたり。
地下室には、ただ、ボイラーが唸る音と、カエル男爵の静かな寝息だけ。
「……」
栞は、傘の先で、つんつん、と、男爵をつついた。
それでも、彼は目を覚まさなかった。
円い黒眼鏡の上で、ベルヴァルドの眉がぴん、と跳ねた。
「必要なら使い魔に運ばせようかと思いましたが……」
駐車場で待っていた彼は、台車で運ばれてきたカエル男爵を見てそう言った。
「ありがとうございます、ベルヴァルドさん。でも兄に車を借りて来ましたし。……さ、積むから、太助くん、手伝って」
「おー」
「おっと、レディに、力仕事をさせるわけにはいきませんな」
薺に変わって、男爵をひょいと持ち上げる。太助の力は必要なさそうだった。
「行き先は近いのか?」
太助が薺に訊ねる。
「うん。車ならすぐみたい」
「薺、車の運転できたんだなー?」
「免許取り立てだけどね!」
「え」
「さあ、乗って。栞ちゃんと、ベルヴァルドさんも」
「……近いんだったら、このまま台車で行ってもいいんじゃ――」
太助がもごもごと言った言葉をよそに、薺は、
「さあ、レッツ・ゴー!」
思いっきり、アクセルを踏み込むのだった。
2
「信号、赤! 赤!」
「え? あ、ホントだ」
「どわーーーー」
急発進。交錯するクラクションと急ブレーキの音。そして太助の悲鳴。
「あー、ブレーキと間違えてアクセル踏んじゃった」
「ホントに免許取れたのかーー!?」
「これは愉快」
助手席ではベルヴァルドが楽しそうに笑っていたが、後部座席では薺の運転に肝を冷やした太助がわめいている。ちなみに、後部シートのまんなかにカエル男爵は寝かされていて、太助の反対側では栞が、男爵の皮膚をつまんでひっぱっていたが、それでも男爵はぐっすりと眠っているのだった。
「やっぱ台車にしようぜ。事故とかしたら……」
「大丈夫。もうすぐそこなんだもの。あの林のあたりじゃないかな」
薺の指す防風林の方向へ、ベルヴァルドはちらりと視線を遣る。まだ目指す館の姿を視認することはできなかった。
「っつうか、男爵、よく起きないよな……」
「ずっと寝てる。カエルのくせに」
ぼそり、と栞が言った。
「……ムム……」
その声が聞こえたわけではなかろうが、ふいに、カエル男爵がむにゃむにゃと寝言めいた声をあげた。……と思った、次の瞬間――。
「!」
「おっと」
ベルヴァルドが横合いから手を出して、薺から奪ったハンドルを切った。
車のすぐ前に、電柱ほどの太さのあるイバラの蔓がうねっていたが、車はかろうじてそれを避ける。しかしすぐに、地面を這う蔓の上に乗り上げたらしく、がくん、と衝撃とともに、車輪が浮き上がる感触があった。
「き、きたー」
あたりは、イバラの森に閉ざされていた。
頭上は星空。
茂みの中で虫のすだく声だけが聞こえてくる、それは深い深い夜の森――『忘却の森』の風景だった。
「これは車は無理ですね」
ベルヴァルドが肩をすくめていったが、表情と声の調子は、どこまでも、状況を楽しんでいるようだった。
「しかたないですねー。太助くん、うしろに乳母車積んであるの」
「……車より安全かも……男爵の自己防衛本能だったりして」
「え、何か言った?」
「な、なんにも!」
かくして……車を降りた一行は、イバラの森の中を行く。
ベルヴァルドの手の中に、ぼう、と小さな火が灯って、暗い路を照らし出してくれた。乳母車に男爵を載せ(サイズ的に窮屈だったが致し方ない。これでもまだ起きないのだから、いちど冬眠に入ってしまえば多少ぞんざいに扱ってもよいものだったのだろうか)、太助と栞がそれに続く。
「方角、こっちでよかったのかな」
「よいようですな」
ベルヴァルドが顎で示した方向に、ぼんやりと灯りがまたたく。
「早くいこうぜー。お茶会楽しみだな!」
「……お茶会って……?」
「お茶会だよ。聞いてないのか?」
「……。大きなカエル見に来ただけ」
太助の声にぼそりと応える栞。
そうこうするうちに、洋館とそれをとりかこむ塀が見えてきた。周囲のイバラの森と、不思議に調和した光景だった。
「ようやく到着です。まったく世話のかかる方ですね。本人は気持ち良く寝ておられるようだが」
皮肉に唇をゆがめるベルヴァルド。
その額に、ぎょろり、とひとつ目があらわれた。
その第三の目の眼光を受けて、門扉を覆うイバラが、しなびて、急激に枯れ、ぼろぼろと崩れ去っていく。
門扉を押しあけ、一行は、その敷地へと足を踏み入れた。
シャトー・ロゼ=ノワール――《黒薔薇館》へと。
3
「ようこそいらっしゃいました。お嬢様がお待ちです」
出迎えたのは青白い顔をした執事服の男だった。
抑揚のない声で、一同を案内する。
「あの……男爵は」
「わたしどもでお部屋へ案内しますので」
「そうですか……じゃあ、よろしくお願いします」
「お客様はどうぞこちらへ」
建物の中は、うす暗かった。
厚い絨毯が敷かれた廊下には、しかし、暗い灯火に照らし出されて、等間隔に絵画が飾られており、ちょっとした画廊といってもよいくらいだ。
「ほう、これは見事だ」
ベルヴァルドはときおり立ち止まって、絵をまじまじと見つめた。
「どうぞ」
執事が、戸口に立って、皆を促す。
「うわ……、豪華……」
建物に入ってからここまでも、豪奢な調度類に気圧されていた薺だったが、部屋の中はいっそう、贅を尽した様子であったので、思わず言葉を失う。
一切は、黒を基調にまとめられている。
黒字に暗紅色と金とで複雑な紋様が編まれたペルシア絨毯の上に、黒檀色のテーブル。そのまわりを取り囲む大きなソファーは、限りなく黒に近い赤褐色の天鵞絨地であった。天井では銀のシャンデリアが控え目な光を投げかけ、部屋のそこかしこには大理石の台座に乗せられた磁器の花瓶に、あふれんばかりの黒薔薇が活けられていた。
窓には黒いレースのカーテンがかけられ、陽射しが直射せぬようになっている。
その窓辺に、そっとたたずむ姿があった。
「……どうしよう。もっと素敵な格好してくるんだったかな……って、太助くん!?」
いつのまにか、薺の隣にいたのは、エリザベス朝時代のごとき分厚い襟をつけ、コートの裾を長くひきずった衣裳の太助であった。
「なにそれ!」
「なにって、お茶会だろ? お茶会の正装っていえばこれだろ?」
「そ、そうだっけ!?」
「薺ももっとマシなカッコしてこいよなー」
「……シェイクスピア風のタヌキに説教されるって、なんかすごい敗北感……」
がくりと膝をつきたくなる感覚を味わっている薺をよそに、ベルヴァルドはすっと前に出て、恭しく身を折った。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。お会いできるのを楽しみにしておりました、レディ」
もとより、ベルヴァルドは板についた黒いスーツ姿。その動作も生まれながらの貴族のように様になっていた。
「ようこそ、黒薔薇館へ。……お待ちしておりましたわ」
ベルヴァルドの挨拶に振り向き、すっと部屋の中央に、そのひとが歩み出る。
(わ……)
薺は、内心、目を見張った。
(なんてきれい……、まるで、お人形みたい……)
少女であった。
この館を借り上げた女主人という触れ込みだったので、相応の婦人を想像していたものたちはすこしあてがはずれた。もっともムービースターのことであるから真実はわからないにせよ、少なくとも外見は十代か、せいぜい二十歳をいくつも出ておらぬ年頃と見えた。
人形のよう、という薺の感想がもっとも的を射ている。彼女は幾重にも切り替えしのついた釣鐘型のスカートと、ありったけのフリルとリボンで飾られたカーディガンを着て、まさに動き出したアンティークドールといった風情であった。そして当然のように、衣裳は皆、黒である。
服地は天鵞絨のようだったが、その服とはすこし色調の違う黒い流れが、ゆたかなその髪であった。髪にはいくぶん茶色がまじっているのだろうか、背まである長さで、優雅に波打っていたが、重々しい印象は与えなかった。そしてのその髪にふちどられるようにして、小作りな顔が、すこし傾げられて、客人たちのほうへ向けられている。
「わたくし、オフィーリアと申します」
そう名乗って、うっすらと微笑んだそのおもては、あどけなさの中にも、不思議な艶をそなえた、端正な造作だった。ほころぶ桜の花めいた唇、すっとかたちよく整った鼻すじ、そして……はっとするほどに、人の目をひきつけずにはおかない、大粒の瞳。長い睫が精緻な装飾を施された台座なら、瞳はその中に収まったダイアモンドだった。
「どうぞ、おかけになって」
オフィーリアは婉然と微笑んだ。
ベルヴァルドはいかにももの馴れた様子で、栞と太助は促されるままに無造作に、そして薺がおずおずとソファーに腰を降ろすと(そのやわらかさに、また薺は仰天した)、青白い顔の執事が、テーブルの仕度をはじめた。
黒薔薇館のあやしいお茶会の、はじまりであった。
4
「あのー……まず、カエル男爵を引き取って下さってありがとうございます」
薺が、『対策課』に変わって礼を言う。
「いいえ。わたくしの黒薔薇館に、新しい仲間が増えるのは嬉しいことですわ」
「あんなカエルどうするの?」
子どもゆえの無邪気なぞんざいさで、栞が思ったままのことを言った。
「食べるの?」
「ちょ――栞ちゃん」
「カエルっておいしいんだって。男爵は大きいから、いっぱい食べれるよ」
「まあ」
くすくすと、オフィーリアは笑った。
「どんな味がするのか、興味はあるけれど……、食べてしまったら、男爵はいなくなってしまうでしょう?」
「……」
「この屋敷に暮らすのだから、男爵はもうわたくしのお友達ですわ。お友達はずっとずっとここにいてほしいの」
「ふーん……」
わかったようなわからないような様子で、とりあえず頷いてみせる栞。
「さ、みなさん、どうぞ、召し上がってね」
オフィーリアがすすめた。
そのときまでに、テーブルの上には完璧なアフタヌーンティーのセッティングがなされていた。
「おおおおぉ」
太助の瞳がきらきら輝く。
三段重ねのティースタンドにはそれぞれ、ケーキ、スコーン、サンドイッチが乗せられた本格的なスタイルだ。
「これ全部、食っていいのか?」
「ええ、もちろん」
「英国式のようですが、オフィーリア殿はイングランドのご出身なのですか?」
紅茶のカップを手に取りながら、ベルヴァルドが訊ねた。
紅茶は先だってそれぞれの好みを執事が聞きに来ていた(薺はまずミルクティー、と応えたが、すぐあとにベルヴァルドが「ヌワラエリヤを、マハガストータのものがあれば是非」と言ったので、銘柄のことを聞かれていたのだと気づき、「あの……お、同じもので……」と続けることしかできなかった)。
「そういうわけではないの。……でも、素敵でしょう? 時間をかけて、完成されたものが、わたくしは好き」
オフィーリアも、カップとソーサーを持ち上げ、そっと口をつけた。
「……わたくしのことよりも、みなさんのお話がうかがいたいわ?」
そして水を向ける。
「わたくしはあまりこの館から出ることもないけれど……みなさんはいろいろなことをご経験されているでしょう?」
「おう、そうだなー」
口のまわりにクロステッドクリームをいっぱいつけて、スコーンをもぐもぐしながら太助が応えた。
「何からお話すればよろしいでしょうね。たとえば、そう……」
ベルヴァルドが微笑を浮かべ、話しはじめた。
(あれ……)
薺は、ふと、部屋の隅にある柱時計に目をとめた。
(あの時計、止まってるんだ)
それもアンティークと思われる時計は、針が動いていなかった。
それはこの館の空気感を象徴しているようにも思われた。
インテリアはなにもかも古色蒼然として、大時代的なものだった。ここは特別な賓客を遇するための場所だったというから、もともとここにあったものもあるのだろうが、この女主人が用意させたものもあるだろう。彼女はいつも、この時間が止まったような屋敷の中で、かように優雅な日々を過ごしているのだろうか。
サンドイッチはやわらかな軽いパンに、ハムを挟んだものと、キューカンバー(胡瓜)のものの二種。
スコーンは焼き立てで、クロステッドクリームとラズベリージャム、マーマレードが添えられている。
そしてケーキは、木苺のムースを挟んだショートケーキ、ブラックベリーのタルト、キャラメルクリームのミルフィーユ、ガトーショコラといった組み合わせだった。
それらがティースタンドの顔ぶれだったが、それとは別に、テーブルの上には、マカロンやチョコレートボンボン、その他、種類豊富な焼き菓子が用意されていた。
ベルヴァルドは、ベイサイドホテルの本館でハングリーモンスターと戦った時の話や、先日のチョコレート事件で遭遇した出来事、そして銀幕市で出会った人間たちについてなどを語った。
オフィーリアは、彼の話に逐一、頷き、目を円くしたり、小さく笑い声を立てたり、ときには手を組み合わせたりするなどして、聞き上手な娘らしい反応を返した。
太助は、お茶菓子に夢中だったが、一応、話は聞いていて、とことどころで口を挟んだりもした。
薺は、最初は緊張がほぐれなかったが、時間が立つにつれ次第にリラックスして、お茶やお菓子の味も味わうことができるようになった。
(あら?)
そのときになって、ようやく彼女は気づく。
(栞ちゃん?)
いつのまにか、佐々原栞の姿が消えているのだった。
5
栞はひとり、黒薔薇館の回廊を歩んでいた。
館の中は、奇妙なくらいに静かだ。これだけの屋敷なのだから、使用人はいるはずだが、不思議と気配がない。
栞も、ほとんど足音を立てずに歩くものだから、暗い廊下は静寂に包まれている。
栞は、誰に案内されているわけでもないのに、まるで行くべきところがわかっているかのように歩く。手にはいつも握っている黄色い傘。
「……」
黒薔薇館にいくつの部屋があるのかわからないが……いずれもこのような有様なのだろうか。そこは厚いカーテンが窓を覆っていたので暗い部屋だったが、壁には大小いくつもの額が架けられている。
部屋には他に家具はなく、ただ中央に、ベッドが置かれているだけだ。
そしてベッドにはもちろん……カエル男爵が眠っている。
栞は、とことこと、男爵に近付いていく。
つんつん、と傘でつつく。
それから、そっと触れてみる。カエルの肌はしっとりしていて、ひんやりと冷たい。
「……つまんない……」
栞は呟いた。
そしてきびすを返して、部屋をあとにしようとして――
「――」
いったいいつからそこにいたのか。
ほとんど頭が天井に届きそうな大男だ。
そいつが、大きな手を伸ばして、むんず、と、栞の首ねっこを掴んだのだ!
「……」
普通の少女なら悲鳴をあげていただろう。まったく動じた様子がないのは、栞ならではだった。
男もまた無言だ。
そして、こわもてな顔に血の気はなく、仮面のように無表情だった。
「……なに。……なにか用?」
低く、栞は訊ねた。
「……オマエ……客人――カ……」
ぎこちなく、男が言う。
そして、栞を離すと、
「行ケ。ココニハ来ルナ……」
「どうして?」
それっきり、男は話しもしなければ、そこに突っ立ったまま動くこともなかった。まるでスイッチの切られたロボットのようだった。
「…………つまんない……」
もういちど、ひとりごちると、とてとてと歩き出す栞。
彼女がいなくなった後も、大男はそこに立ち尽くしている。
部屋のそこかしこで、ざわざわと、闇がわきたちはじめた。
ぬう、と大男をもしのぐ巨大な影が、絵画で埋め尽された壁に落ちたが、その本体となるものの姿は誰にも見えなかった。
ただ、虚空に、なにかのまがまがしい気配だけが漂う。
「ふむ……」
くだらなさそうに鼻を鳴らした声は、ベルヴァルドのものだった。
「あの、これ……男爵に」
おかわりのお茶が何杯も入れ直されたあと、薺は、持参したものを女主人に手渡す。
「ぬいぐるみと……、いらないかもですけど、念のため替えのパジャマ……それから、遅くなっちゃいましたけど、お土産です、『茶柱一番』――って、玄米茶なんですけど……」
「まあ、嬉しいわ」
オフィーリアがにこりと微笑んでくれたので、薺は胸をなでおろす。玄米茶など好まれないのでは、と思っていたのだが。
――と、そのとき、栞が、何事もなかったかのように戻ってきて、すとん、とソファーに坐った。
ベルヴァルドはうっすらと唇に笑みをのせて、
「さあ、ずいぶん長居してしまいました。私たちはそろそろ失礼致しましょうか」
と、言った。
「あら、そう? ……またいらして下さる?」
「ええ、もちろん」
「嬉しいですわ。とても楽しいお話でした。この街で、そんなにいろいろなことが起こっているなんて。……近いうちにまた、街のみなさんをお招きして、いろいろお話をうかがいたいですわね」
と、オフィーリア。
「……じゃあ、男爵のこと、よろしくお願いします」
「ご心配には及びませんわ」
薺に向かって、女主人は応える。
「カエル男爵は、わたくしの館で、誰にも邪魔されずに眠り続けることができるはずです――」
そのときだ。
薺は、ぐでん、となにかがよりかかってくるのを感じた。
「ちょっ、太助くん!?」
「腹いっぱいだぁ~。お茶会いいな~。お茶会たのしいぞ~」
「な、なんか、ろれつ回ってないよ!?」
よく見ると、目の焦点も合ってない。
「おやおや」
ベルヴァルドが、テーブルの上から持ち上げたのは、あくまでも紅茶の香りづけのために用意されていた小瓶のブランデーだったが……、その瓶はからっぽになっていた。
*
外に出ると、カエル男爵のロケーションエリアはむろんとっくに消滅していたが、日はすっかり傾く頃合だった。
「男爵……、目覚めたら、また会えるよね」
なんとなく去り難いものをおぼえて、薺は黒薔薇館を振り返る。
腕の中には、眠りこんでしまったタヌキ(シェイクスピア風)が一匹。
黒薔薇の館は、ものもいわず、黄昏の空を背景に黒々とした威容を見せているのみ。
「……そう簡単にしっぽは見せないというわけですか……」
「え?」
ベルヴァルドが小さく呟いた。
「いえ……。……彼女、なぜカエル男爵を引き取ろうなどと言い始めたんでしょうね」
「え……、それは……」
「……食べるんじゃないって言ってた……男爵、寝てたよ……」
栞も加わる。
「ええ。危害を加えるつもりはなさそうですが――しようと思えばいつでもできたのですから……ただ、なんというか……見た目通りの人物では、なさそうです」
ククク、と、面白そうに笑った。
*
「素敵だわ……」
うっとりと、オフィーリアは呟く。
「カエル男爵……、等身大のカエルですって。素敵……」
4人の姿を見送った窓辺から離れて、再び、ソファーへ。
「この街には、素敵なものがいっぱい。まだまだわたくしの知らない、素敵なものがあるはずだわ。全部全部……わたくしのものにしてしまいたい。……この館で、わたくしとともに永遠に過ごすにふさわしい伴を見つけなくては」
ふふふ、と桜色の唇からこぼれた笑いを聞いていたのは、黒い薔薇たちだけだった。
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