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<ノベル>
車上から放たれる赤色灯が、騒音とともに夜の闇を切り裂いていく。
「また例の事件と同じ現象が起きたんですね?」
市民からの通報を受けて駆けつけた刑事の中に、流鏑馬明日はいた。わずか19歳ながら事件と向きあう視線は冷静かつ的確で、彼女と主にコンビを組む年配の刑事も最近ようやく彼女を子供扱いしなくなった。
「正解だ。いま対策課と連携で身元調査してっけどな、どうもガイシャはつい最近実体化した吸血鬼で間違いねぇわ。なのに、コレだ」
シートを持ち上げれば、もの言わぬ遺体がそこに横たわっている。
カラカラに干乾び、朽ちた姿は、一瞬ミイラを連想させたが、それよりもっと生々しく、そしておぞましい。
「パル、アナタは見てはダメよ。かなり、酷いわ」
「お、ちみっこいのと一緒か、メイヒ」
「はい。被害者がムービースターだと聞いて」
「ずいぶん前にこんな映画を観た気もすんだがな、覚えてねえわ。こりゃ、またお前さんの単独捜査もアリになっちまうな」
「前回のこともあるし、ある程度の自由は認めてもらえたら助かるとは思っています」
遺体の脇に屈み込んで、白手袋を着用した手でそっと触れる。
「どうなっちまってんだろうな、この街は」
大袈裟な溜息とともに吐き出された彼の呟きに、明日は返すべき答えを持たずに俯く。
ムービーハザードがらみの事件は、どんどん常軌を逸している。
エスカレートして行くこの状況で、果たして警察はどこまで動けるのだろうか。多様化していく動機の中で、果たしてどれだけのモノを掘り起こして行けるのだろうか。この事件はコレだけで終わるのだろうか。
思いは巡る。
そして、その思いは杞憂とはならなかった。
この吸血鬼の殺害でもって、銀幕市を襲う『異常事態』にして新たな『連続殺人』の幕開けとなったのである。
*
月は密やかに、そしてひどく冷たく、朽ちていくモノを見下ろしている。
*
愛すべき優美なカフェテラスから東の空に張り付いた月を見上げ、ベルヴァルドはかすかに目を細めた。
「おや、これは……」
黒い丸眼鏡越しに見える世界、その向こう側にあるものを探るように睥睨する。
一瞬、この手にしている以外の紅茶の香りが、ふわりと鼻先をかすめたような気がしたのだ。
やわらかく、濃密な、深みのある心地良いローズティの香り。
いや、おそらく気のせいではないだろう。
目を閉じれば、とろける極上スイーツにも似た甘美な味が舌先を撫でていく。
「フフ、ずいぶんとおいしそうな誘惑をしてくださいますね」
いま彼の手元に置かれたプレート上では、桜の葉を生地に練りこんだシフォンケーキがほのかな誘惑を放ち、添えられた桜のアイスと熟した苺が味覚と視覚に絶妙なアクセントを与えてくれている。
だが、このカフェの限定スイーツを軽く上回る魅力がこの夜空の下で待っているのだ。
無類の甘党を誇る悪魔をも唸らせる、至福のひとときを約束する味。
なるほど。
この銀幕市でこれほどの味を出せる者が、いかなる代償も厭わないとばかりに強烈な悲鳴をあげて『自分』を呼んでいるようだ。
誰かに捕らわれるより先に、この手の中へ。
凍りつくほどに冷ややかな笑みが、その口元に浮かぶ。
「今夜はとても楽しい時間が過ごせそうですよ」
給仕に来た女性に暇を告げて、ベルヴァルドは華麗な身のこなしでふわりと空へ舞う。
長い長い夜の散歩の行き先は、久しく口にしていない『味』を堪能できる場所だ。
「お待ちしておりました、ブラックウッド様」
正門で迎えた執事は恭しく一礼し、客人たるブラックウッドを茶会の開かれている庭へと導いた。
冷たい屋敷を抜けた先。
黄昏に染まり行く庭園の中心には、アンティークテーブルと二脚の椅子が据えられる。クロスの上には、白磁のティーセットが華奢な蔓薔薇をモチーフにしてひっそりと控えていた。
「それではわたくしはこれで失礼いたします」
「ああ、有難う」
執事が下がるのを待って、ブラックウッドはゆっくりと庭園の中心へと歩を進める。
迷宮のごとく入り組んだ、広大な庭。
ここはかつて、緑の生垣に守られた数多のバラが咲き誇る美しい世界だった。
けれど、いまは見る影もなく、灰色に染められ静まり返っている。
そして時折、嗚咽とも囁きともつかない声がかすかに風に乗って、哀切の旋律を奏でるのだ。
「静謐なるこの月の夜に、貴女のような美しい方が嘆く姿はあまりに似つかわしくないね」
細く頼りなげな肢体を包む純白のドレスが、闇の中、月光を反射してわずかなキラメキを宿しながら浮かび上がっていた。
彼女は虚ろな瞳で振り返る。
レディMの話していた『奇妙な赤』はまだ彼女を染めてはいないらしい。
「私でよければ話し相手にどうだね? もちろん、食事のついでで構わないよ」
ブラックウッドのやわらかな笑みと、低く深く耳に心地よい声が彼女へと届く。
身を委ねたくなるほどの、優しい瞳。
「助けて……」
風が、白のベールを揺らめかせ、彼女の苦痛に歪んだ声を巻きあげていった。
「もちろん、そのつもりできたのだよ」
差し伸べられた手、その腕に抱かれるように、彼女は身を投げ出し、彼にすがる。
そして。
ほのかな紅茶の香りは、瞬く間に別のものへと取って変わられた。
診療時間を終えた銀幕市立中央病院のラウンジで、ランドルフ・トラウトはいくぶん緊張した面持ちで彼と向き合う。
ここへ来るのは二度目だが、そうそう慣れるものでもない。
「申し訳ありません、ドクター。こんな時間に押しかけてしまって」
「いえ、構いませんよ。それに今夜はもうひと方お迎えすることになっておりますし」
相変わらずというべきか。
つくりものめいた美貌を誇る精神科医は、静かな微笑をたたえてそこにいる。
「もうひと方、ですか?」
「ええ。ですが、まずはトラウトさん、あなたのお話を先にお伺いしておきましょう」
自分の相談があまり他者には聞かれたくはない内容を含んでいると、彼は察しているのだろう。
眼鏡の奥の穏やかな視線に促がされるようにして、ランドルフは覚悟を決める。
「あの……ドクターは、既に事件のことは? その、吸血鬼や狼男などが犠牲になっているという……」
「ええ、知っていますよ」
言葉につまり掛けたランドルフをフォローするように、ゆったりとした肯定を返す。
「その件について、いくつかの問い合わせも頂いておりますから」
「それでは、単刀直入にお聞きするのですが。あの、不死者たちを喰らう彼女は、どうしてそうするようになってしまったんでしょうか?」
自身の中にある食人鬼としての本能をなぞるように、彼女の行動に思いを馳せながら、問いを投げ掛ける。
もしかすると彼女は自分と同じモノを抱えているのではないだろうか。
その身に宿ったものでありながら持て余し、制御するには多大なエネルギーを費やさなければならない『本能』を抱えているのではないだろうか。
同族か、あるいはソレに近いモノかもしれないという思い。
これは想像だ。
ひとつの可能性に過ぎない。
だから、ドクターのもとにきた。レディMのつきとめた庭園へ向かう前に、廃園の主と思しき女性と直接対峙する前に、掛けるべき言葉を得るために。
「……ドクターは彼女について何かご存知ではないでしょうか?」
医者という立場から、想像することは出来ないだろうか。
「お力になると約束した以上は、語るべきことを語りましょう。ただし、医師としての守秘義務はありますのでご容赦ください」
精神科医はそっと顔を上げ、物憂げな瞳で首をかすかに傾げて見せた。
「あ、はい……ということは、先生は犯人と思われる彼女と面識がおありなんですか?」
「私の知っている彼女かどうかは分かりません。ですが、内科病棟の先生からご紹介いただいた方がお一人、最近自主退院されたまま連絡の取れない状態が続いていましたから」
なので、と彼は続ける。
「あくまでも私個人の見解であるということで、よろしいですか?」
念を押す相手に、ランドルフは緊張しながらも了承の頷きを返す。
「はい、よろしくお願いします」
「何故彼女はそうするのか、ですが……端的に言うならば、体の病が心へと浸食していくというのは、そう珍しいものではない、ということです」
けれど、そこで紡がれているのは、とても婉曲で、自分が知りたいと思う『彼女の心理』に重なるのかどうかもつかめない概念的なものだった。
「治る見込みはなく、ただひたすらに緩慢なる悪化を辿るという事実、そして不意に襲ってくる苦痛に怯えながら過ごすということに、果たして人の精神はどのくらい耐えられるか、ということです」
「ドクター……すみません。私にはやはりうまく理解できそうもないんですが、その……」
「つまり」
不意に差し込まれた、もうひとつの声。
「犯人は不死者や長命種を標的としています。これは、短命なるモノの呪詛であり嫉妬であると、そう判断していいのかしら?」
「流鏑馬さん」
声のした方へ振り返り、思わずランドルフは腰を浮かせて彼女の名を呼ぶ。
前回の事件を共にした明日がバッキーとともに、ラウンジの、このテーブルへやってきた。
彼女はランドルフを認め、無言のまま会釈を返してはくれたが、その表情はピンと張りつめていて、どこか挑むような厳しさすら感じられる。
「ドクター、前回の事件の犯人は非常に危険な精神状態にありました。それと似た状況に彼女も置かれているものと、警察は考えています」
席には着かず、彼女はドクターの傍に立ち、まっすぐに彼の目を捉えて話し始めた。
「心に何らかの不安や恐怖を飼っているモノの犯行。そう考えていますが、どうでしょうか?」
確かに、被害者の共通点はただひとつ。限りない生を約束された者たち、あるいは限りある時間の枠の外にいる者たち、だ。
明日の話を遮らないよう口をつぐみながらも、ランドルフは思いをめぐらせる。
「短命な者による呪詛であり、嫉妬であり、報復なのだと、そう考えても?」
「でも、あの、そうすると彼らを食べるという意味が分からなくなるような気もしないではないのですが」
捕食者でありながら、『彼女』は自分とは本質的に違うものなのだろうか、と。だが、それならば一層、気に掛かる。
「なら、食べて、朽ちさせ、滅ぼすという行為に、儀式めいた意味合いを加味してもいいわ」
明日は刑事ではあるけれど、別にプロファイリングが得意な訳ではない。
ただ、バッキーを相棒に持つことができた者特有の想像力が、『彼女』の在り方の可能性を推理させるのだ。
そしてその推理を、自分の考えを、彼女はまとめるためにここへきた。
「……そうですね……そう、短命者、更に言うならは『既に死にゆく者』による犯行とみることは間違っていないでしょう」
そっと目を伏せて、ドクターは言う。
「ただし、この事件もまた、銀幕市だからこそ起こりえたものだという可能性を念頭に置いていただければと思います」
彼が見上げた先、天窓の向こう側に月が覗く。
太陽が罪なき者たちを守り育てるのなら、月は罪深き者たちをそっと庇護するのかもしれない。
ドクターはゆっくりと瞳を閉じ、それから静かに首を傾げ、ふたりを見やった。
「私からもひとつ、おふたりにお伺いしてもよいでしょうか?」
「どうぞ、ドクター」
「はい、なんでしょうか?」
改まって彼は、深い影を宿す瞳で2人を見上げた。
「救いを求める心、救われたいという願いをあなたがたは否定しますか?」
「え」
とっさに疑問の声がランドルフの口から漏れる。
「不可避の死と直面した際、宗教によって心を癒すもの、民間療法に打開策を見出そうとするもの、藁にもすがる思いでありとあらゆる情報を古今東西から掻き集め奔走するものたちを、バカバカしいからやめろと言って止められますか?」
厳粛な雰囲気をまとい、医師は訪問者たちに問いかける。
否定した先に、なにを用意できるのかが問題なのだと、そう言われている気がした。
沈黙。
けれど、ソレは長くは続かない。
「救いを求めることを否定しないわ。でも、それで他人を犠牲にする罪が許されるわけじゃない」
キッパリと告げて、明日は踵を返す。彼女の迷いのない背中に、ランドルフは一種、尊敬にも似た思いを抱く。
自分は、ドクターの問いに揺れた。
揺れて、一瞬、彼女の行いの正当性を探そうとした。
「有難うございました、ドクター。何が出来るかは分かりませんが、私は彼女と話してみようと思います」
丁寧に頭を下げて、既にラウンジの扉を押し開いている明日を小走りに追いかける。
19歳の少女ですら、揺ぎ無い信念があるのだ。自分もまた、自分らしく、彼女に対峙すべきだろう。
「ところで、トラウトさん」
「は、はい。なんでしょう?」
思いがけず呼び止められ、反射的に振り返る。一瞬心臓が跳ね上がったのは、相手がこれから告げようとしている言葉が何かとても不吉に感じたせいかもしれない。
リズムを乱した心臓が、今度はいやに早く脈打っている。緊張か、不安か、何とも言い難い反応に自分で戸惑う。
だが、ドクターは構わず言葉を綴る。
「あなたは……おそらくとても引き摺られやすい方です。もしこれからもこのような事件に関わるのでしたら、どうか十分お気をつけください」
「え……あ、分かりました」
思わず気圧されるように頷いてしまったが、疑問はそのまま胸に残る。
引き摺られるとは、何に対してなのか。
何を自分は気をつけるべきなのか。
憂いに満ちたドクターの微笑とまなざしに見送られ、ランドルフは明日とともに、レディMから得た情報を元に『廃園に囲まれた館』を目指す。
ぐしゃり。
ぱきん。
しゃぐ。
ぼた、ぼたたたたたたたた………べきっ。
闇と霧を髣髴とさせる漆黒のマントを解き、スーツの上着とシャツのボタンを外し、露になった首元から胸元に掛けて、濡れた咀嚼音は続く。
彼女の唇が触れた場所、彼女の歯が立てられた場所は徐々に色を失い、張りを失い、不死であるはずのブラックウッドの身体に不可逆的な滅びが刻まれていく。
朽ちていく。
食われ、枯れ、蝕まれていく様を眺めていると、なるほど、この身は緩慢なる死へと向かっているのだと否応なく意識させられる。
その先に待っているものが、明確に示される。
驚くべきことに、吸血鬼の長老として得た驚異的回復力すらも、凌駕するらしい。
しかも。
突き刺さるのは、爪と牙だけではない。
乾き、狂いそうになるほどに身を焼く灼熱の飢えが、ブラックウッドの中にフラッシュバックを起こす。
ソレが精神的楔となって、抵抗することもできず、彼女に囚われるのだと分析するだけの余裕はまだ残っている。
そして。
「ああ……朽ちていく記憶すらも、キミは鮮烈な嘆きの歌に変えるのだね」
彼女の内側もまた、途方もない『痛み』に覆い尽くされている。
苦痛。悲鳴。慟哭。否定。己に降りかかる運命に狂おしく悶え、足掻き、そこから逃れるように彼女は爪を立てるのだ。
「なるほど。この嘆きに同調し、自身の傷をも直視しては、そうそう無碍に打ち払うことも出来ないね」
「……あ」
飢えを癒すかのごとく無心で皮膚を破き、肉を掴み上げていた彼女の指先が、ふと、止まる。不思議そうに瞬いた両の瞳がブラックウッドを捉えた。
「ん? ああ……その傷痕は遠い昔のものだよ」
やさしく彼女の髪を撫でつけ、彼は微笑む。
不死者でありながら永遠に治癒することのない傷を抱え、彼は千を越す時間の中で存在し続けていた。
同時に、『同族殺し』を取り扱った過去も思い出す。だが、その時も、自分は自分の立場から冷静でなければならなかったし、事実、冷静に対処したつもりだ。
レディMから同族達の死を見せられても心は動かなかったのだ。どんな感傷も浮かんでは来なかった。それでもここへ来て、こうしているのは、義憤に駆られてのことではない。
それに、かつて自分は捕食者としての業を背負い、罪を犯し続けていた。
暴走を繰り返し、幾度となく目の前の者たちを貪り、死に至らしめ、破壊してきた自分に彼女を糾弾する資格はないだろう。
ただ、気になっていることはある。
彼女はこうして不死者の血肉を喰らう。喰らいながら、強く強く願いを口にする。けれど、叶うはずはないのだ。
何故なら。
そう、なぜなら彼女は―――
彼女の内側へと更に意識を滑りこませていきながら、ブラックウッドは深い溜息を落とした。
彼女の髪をなでる手が、捕らわれ、指を絡ませ、ゆっくりとベールに隠れた彼女の口に含まれていく。
ブラックウッドの意識がこの世界から消えるのとほぼ同時に、廃園にひとつの影が降りたった。
「おや、先客がいらっしゃるとは驚きですねぇ」
月は『魔』を呼ぶものだ。
虚空から優雅に舞い降りたベルヴァルドは彼女を睥睨し、嘲るように嘆息した。
「他者の血肉を喰らってでも助かりたいとは、なんと愚かしく、浅ましいのでしょうね」
「……どなた?」
ベールの下に鮮赤に染め上げられた唇を隠し、彼女は首を傾げる。
「あなたの絶望を喰らいに来た悪魔ですよ」
嫣然と微笑み、彼はブラックウッドから引き剥がすかのように彼女の身体を抱き寄せる。
けれど。
「―――っ?」
唐突な痛みがベルヴァルドを襲う。
彼女が抵抗し、伸ばされた手に牙を立てた瞬間に走った、あり得るはずのない激痛。
本来、神経(あるいは回路)のない場所に刺激を与えても反応は得られない。他者の魂を己の糧とし、一切の感情と感覚を有しない悪魔に精神攻撃など無意味極まりない、はずだった。
だが。
ベルヴァルドは痛みを感じたのだ。久しく覚えのない『何か』が鋭く細い針となって全身を貫いていく。
ソレは、あまりにも痛烈にして鮮やかなビジョンだ。
指の先から、全神経、細胞のひとつひとつに至るまで、強烈な灼熱の痛みが余すところなく突き刺さり、意識を侵す。
悪魔の滅び。
煉獄の炎すらも超越する、絶対的破滅。
もしかすると、そう、並の悪魔であったなら、あるいは一片の自我すらも残さずに取り込まれ、朽ちていったのかもしれない。
だが、彼は違う。
「おやおや、こういう攻撃をなさいますか」
こざかしいですね。
口元をわずかに笑みの形に歪めて、彼は嘲り、右腕で優雅に払いのける。
霧散する、悲鳴。
「それほどに喰らいたいのなら、ご自分の血と肉を召し上がってはいかがですか?」
黒い丸眼鏡に表情を隠し慇懃に提案する彼の、額に宿る『第三の目』が開かれる。
視神経から脳を貫く強烈なチカラによって、彼女の魂が揺れる。支配者階級からの絶対命令。精神の崩壊を約束する、恐るべき呪い。
けれど。
「食べたら、治るのかしら?」
数多の不死者たちを葬ってみせた廃園の主は、暗い昏い、途方もなく暗い光を宿して、逆に悪魔へと縋るように問い掛ける。
「ねえ、食べたら、これを食べ続けたら、ねえ、私は救われるのかしら……」
「おや」
ベルヴァルドは片眉を器用に上げ、ごくわずかながら意外な反応への驚きを老獪な表情の上に乗せる。
「なるほど、貴女はそれほどまでにお望みでいらっしゃいましたか。フフ、困った方ですねぇ」
「困った、方……」
オウムのようにその台詞をなぞりながら、彼女はゆったりとした動作で自分の腕に爪を立てる。
「困った方、なのね……私は困った方……誰にも救えない、困った困った困った子……」
虚ろに壊れた台詞を響かせて、爪が皮膚を破り、その下の『肉』に食い込んだ。
べきり。
不吉な音が、またひとつ。
悪魔は椅子に腰掛け、ゆっくりと彼女の猟奇的奇行を鑑賞する。その腕に、五体の半分を引き裂かれ、食われた悪魔のよき隣人、麗しき吸血鬼の長老を抱いて。
鋼鉄の正門は、来訪者を拒むように冷たく固く閉ざされている。
しかも。
「申し訳ございませんが、お嬢様はいま大切なお客様とのお時間を過ごしておいでです。どうぞお引き取りくださいませ」
数回に渡る呼び出しの末にようやく門の向こう側に姿を見せた老執事は、にべもなく明日とランドルフふたりの訪問者を追い返しに掛かる。
冷ややかな視線を受けながら、明日はなぜか彼の顔に既視感を覚えていた。
初対面であるはずの老人に何故こんなにも見覚えがあるのだろうと不思議に思いつつ、言葉を続ける。
「そういうわけにはいかないわ。彼女にはどうしても聞かなければならないことがあるの」
「お受けすることはできません。どうかお引取りを」
「できません。私たちは彼女の為にも、彼女のしていることを止めなくてはいけないのですから」
目を細めた執事の気配が、不意に禍々しいものへと変じる。
「あくまでも強行突破をなさるなら、わたくしも別の手段にてお引取り願うことになりますがよろしいですね?」
その手にはむき出しのナイフが数本。
ソレは、一瞬のためらいもなく、ランドルフの身体をその場に縫い止めるように放たれた。
「くっ」
とっさに腕を交差し、打ち払う。わずかに反れた刃が、薄手のコートを切り裂きながら地面に落ちる。
「殺人幇助の罪でアナタを訴えることも可能だけど、そこに傷害罪と公務執行妨害も追加できそうね」
つとめて冷静に、刑事としての本分で明日は告げる。
「なぜ、彼女をそのままにしているのですか? 少なくともドクターが彼女の心を救ってくださるはずです」
「お嬢さまのお心を慰められるのは、あの医者ではございません」
キッパリと、否定する。
「何が分かるというのです? 突然見舞われた不幸、理由なき責め苦を負ったお嬢様の筆舌に尽くしがたき慟哭を、わたくしはずっとずっとお傍に仕えながら見て参りました。けれどあの病院の医者はお嬢様をお救いにはなれなかった!」
血が滲むほどに強く、彼は叫ぶ。
明日は知っている。『現実』の世界が持つ『限界』を。
ランドルフは知っている。『ムービースター』とは『フィクションの世界に生きるもの』だということを。
この銀幕市は夢を見ている。
時にその夢は、現実の世界では対処しきれないほどの難題をいとも簡単に差し出してくるのだ。
「お嬢様をお救いするためならば、わたくしはいかなる犠牲も厭わない覚悟でございます」
執事は目を細め、再びナイフを構える。
悪人ではけしてないのだ。
悪人ではないのに、彼を傷つけなければならないということにランドルフの胸が軋む。
と。
鋭敏なランドルフの嗅覚が、庭園から吹き出す新たなの血の匂いをかぎつけた。
来訪者の存在は既に把握していた。ヒトならぬもの2人が、『お嬢様』と対峙しているのだということは分かっていたのだが、まさか――
「その、アナタの大切なお嬢様に身の危険が迫っています!」
「お嬢様に?」
驚愕に見開かれた彼の服を、門の間から腕を伸ばして掴み、明日は告げる。
「ひとつ忠告させてもらうわ。他者を傷つけるということは、他者に傷つけられても仕方がないという状況を作り出すんだってこと」
「それでも、それでもわたくしはお嬢様の望みに従いたいのです」
「一刻を争う事態になっているんですよ? それでも通していただけないというのであれば、こちらも少々手荒な方法を使わせていただきます!」
すみません、という言葉とともに、ランドルフは気合の咆哮を放ち、『覚醒』する。膨張する筋肉と、人ではない凶相へと変貌を遂げ、鋼鉄の扉に両手を掛ける。
ギシリ。
掴んだ両手が凍えそうなほど冷たい扉が、たやすく押し開かれる。
「不法侵入……」
「緊急事態ということで、できれば目をつむってください」
明日のぼそりとしたツッコミに慌てて弁解ながら、その巨体を門の内側へと押し込んだ。
そして。
「さあ、急ぐといったら急ぎますよ」
「ちょっ」
「何を――」
明日と執事の驚きと抗議の声は聞こえないふりをして彼女らを両手で抱えあげると、濃厚な血と肉と狂気の迸る場所へと跳躍した。
静寂すらも飲み込む月の光のもとでしか、打ち明けられない秘密がある。
暗く落ち込んだ『内側』で、ブラックウッドはもうひとつの庭園に佇んでいた。彼女の内側にのみ存在する、幻の世界。彼女の内面世界。
美しい歌姫がそこにいる。
「どうしてそれほどまでに嘆くのだね?」
声に驚き、振り返り、彼女は彼の問いに答えようと唇をわずかに動かす。
しかし、植物の蔦がしゅるりと伸びて彼女の口を覆ってしまった。
それでも彼女の嘆きを押し留めることは出来ない。
眉は顰められ、かすかな苦痛を示すかのように彼女の瞳が揺れ、訴えかける。声にならない悲鳴を迸らせながら。
声にも言葉にもならない代わりに、彼女を取り巻く彼女の記憶は、直接ブラックウッドの中へと流れ込んでくる。
かつては天上の使者、あるいはセイレーンの乙女と呼ばれ、数多の賞賛をその身に受けてきた、美貌の歌姫。
その彼女が、歌を奪われ、肉体を病魔に蝕まれていく過程が、まるで無声映画のように雪崩を起こして奔流となる。
彼女の愛した人は、彼女の前には現れなかった。
彼女が求めたものは、彼女の救いとはならなかった。
だから、彼女は。
彼女はここで自分だけの救いの方法を見つけ、実行した――
「貴女はただ、ヒトであっただけなのだね」
優しい笑みをたたえて、夜と闇に生きる不死者は、歌姫をその腕に抱き寄せた。
庭園の中心部へと辿りつき、明日と執事とを地面に降ろし、そして――目の当たりにした惨状に悲痛な叫びをあげたのは、ランドルフだった。
「何をしているんですか!」
半身を食われ、その傷口から血と灰を滴らせながら椅子にもたれかかる漆黒の吸血鬼。
その傍で自分の腕をちぎり、胸を裂き、血にまみれて己を貪り続ける鮮赤の女性。
そして、そんな2人の間に立ち、優雅に眺めるひとりの紳士は、明らかにこの事態を引き起こした張本人として彼等の目に映る。
「お嬢、様……」
呻くように絞り出される執事の声。
「これは……これは、あなたがなさったんですか?」
「おや、なぜそのようなことを言われるのでしょう? 彼女は自ら望んでそうしているのですよ」
「おのれ、おのれ卑しき悪魔め! 招かれざる客がお嬢様に一体何を――っ」
「フフ、何度言わせるのでしょうね。いくら紳士を自任する私でも些か説明疲れをしてしまいますよ」
老執事の憤怒の表情も、悪魔の心を動かしはしない。
「彼女は他者から血と肉を奪い、己だけが助かろうと浅ましくさまよう者。ならば相応の罰を受けるべきではありませんか?」
正しく罰を与えられるものがいないのなら、自分がその役を負ったまでだとうそぶく。
そう悪魔は微笑み、答える。
「やめてください。いえ……やめさせて下さい! 彼女は確かに血肉を喰らい、その罪を負ったものかもしれません。ですが――」
そんな罰を与えないでほしいと、ランドルフは痛切に思う。
「彼女は自分で望んでこうしているのですよ。何故君が止めるのです?」
冷笑を貼り付けたベルヴァルドは、新たな獲物を得たかのように楽しげに視線を向ける。
「フフ、いけませんよ。君に私の楽しみを邪魔する権利はないのですからね」
「あなたの楽しみよりも、彼女の痛みを取り除きたいと望むことがいけないと言うんですか!」
声を張り上げ、拳を振り上げる。
「お嬢様に咎などない。罪深きモノは、あやつらなのだ!」
それよりなお強く、限りない憎悪を込めて、執事は告発する。
「お嬢様をそのような姿に変えたのは、貴様のような輩だ。貴様のような存在が、美しいお嬢様に死にも勝る苦痛を与えたのだ!」
ランドルフの声を描き消すほどに強い慟哭は、彼を押しのけ、ナイフとなって悪魔に差し向けられる。
彼女がもといた世界にはいなかったモノの手によって、彼女の元いた世界にはなかった病に侵された。
これは、本当に不可避の運命だったのか。
それは彼女の身に起こるべきものだったのか。彼女が選ばれた理由は何だったのか。この苦痛に値するだけの罪を既に抱えていたのだと言うつもりなのか。
だが、彼の攻撃はベルヴァルドには届かない。直前で、大きな壁に遮られる。
「ランドルフ様――なぜ」
「おや、そのようなことをなさらずとも、かの者の攻撃を喰らうつもりはないのですがね」
肩を竦めた悪魔の声を聞き、更なる怒りを持った執事だが、その言葉はすぐに飲み込まれた。
ランドルフは確かに自分のナイフを己の肉体を壁にして防いだ。
だが、同時に彼は、執事をも守っていたのだ。同時に放たれた、悪魔からの攻撃から。それは焼け爛れた彼の背を見れば十分に理解できる。
「……いけません……彼女の支えとなるべき方がそのような真似をしてはいけないんです……」
この手は既に、悲劇にまみれたひとつの命を一度奪っている。だからこそ、今度こそ救いたかった。どのような理由かを問い、彼女とともに、人を食わず、生きる道を模索したいと願ってここに来たのだ。
だから、ドクターに助言を求めもした。
「ですが……それほどに許されないと、貴方が彼女を断じることも許せません!」
ぐるりと向きを変え。
あり得ないほどの俊敏さを持った豪腕が唸り、空を裂き、超然と構える悪魔の右頬にみしりと音を立ててヒットする。
加減はしたが、ためらいのない一撃だ。
だが、彼はまだ嗤う。
「私は女性には常に紳士であろうと努めております。ですが……フフ、私に刃向かう者に慈悲を与えるつもりはありませんよ?」
いまの攻撃は甘んじて受けてやったのだとでも言いたげに、口の端から血を流しながら、笑ってランドルフの腕をギシリと掴みあげた。
「慈悲とかそういう話をしているんじゃないんです」
しかし、純粋な力の掛け引きならば、分は覚醒したランドルフにある。
捉えられた腕を無理矢理引き剥がし、距離を取って、再び彼の行いを止めるために拳を叩きこもうと構える。
「やれやれ、私は肉体労働は得意ではないのですがね」
それに、魂を喰らうことを無言のうちにこの街から禁じられたベルヴァルドにとって、彼女は久しぶりに手にした獲物なのだ。
長く口にできずにいた、極上の味が、渇きと飢えを刺激し続けている。
「私の食事の邪魔をした報いは受けていただきましょうか?」
何かが、空間で弾けた。
新たな血が、彼女たちを置き去りにして空を舞う。
だが、そんな彼等の激しいやり取りを前にしても、明日の表情は動かなかった。
彼女はひたすらに、自分の心臓が軋む音を聞いていた。
ようやく思い出したのだ。ここに来てようやく、自分が執事に見覚えがあると感じた理由を。
明日は彼女を知っている。
あの衣装、あの声、あの歌は、自分がかつて観た恋愛映画の主人公だ。セイレーンの声を持ち、愛しい人へと愛を歌い続ける彼女――
「ディアナ……」
思わずこぼれたその言葉に反応し、呪によって自らを喰らい続けていた彼女が不意に顔を上げ、明日を見やった。
暗く淀んで虚ろな視線からは、どんなモノも読み取れない。
あの映画はコミカルさを持った、明るい世界を描いていたはずだ。天上の歌姫と謳われ、舞台に立ち、脚本家の青年と恋に落ちる。お約束のドタバタ劇を演じながらも、彼女は幸福を掴み取るのだ。
憧れた。明日は確かに好きだったのだ。彼女の生き様、彼女の恋、彼女の真剣な想いを見守り、感情移入し、胸を高鳴らせながら映画にのめり込んだ。
なのに、今の彼女にその面影は一切ない。
ベールに隠された顔の半分は、醜くひび割れている。一体どのような病なのかは分からない。その名を知るものは、この病をもって現れた者の世界にしかないのだろう。それでも、凄惨さだけは十分すぎるほどに伝わってくる。
「なぜ、こんなことに……」
こうして問いかけることに、奇妙な違和感を覚える。
何故そんなことを。何故こんな真似を。何故あんなことを。何故……何故と問うことで得られる解答の虚しさと痛みを、一瞬にして思い出す。
「ディアナ、どうしてアナタがそんな姿にならなくちゃいけないの」
そんな姿を晒さねばならないのか、分からない。
「あら……何故と、あなたは問うの?」
食事を続けながら、その唇におぞましいほど歪な笑みを浮かべる。
「永遠の命、永遠の幸福、苦痛とは無縁の人々の、その血をすすり、その肉を食めば、私は救われる」
夢見るように、うたうように、彼女は告げる。
血を振り撒きながら、優雅に、明日のもとへと近付き唇を寄せて囁き掛ける。
「ソレがここにいる。なのに、どうして願ってはいけないのかしら?」
虚ろな瞳に月の光が揺れる。
自らの肉を食み、ブラックウッドと自身の血で純白のドレスをぐっしょりと重い真紅に染め上げた彼女が、問う。
だが。
明日の頬に彼女の爪が突き立てられようとしたその瞬間、
「あ」
ディアナは地面に崩れ落ち、そのままうずくまった。
彼女を襲ったのは、予告のない苦痛。自らを食むことすらも凌駕する、全細胞を貫き焼き尽くす熱の痛みに悲鳴が迸る。
眉をひそめ、きつく目を閉じ、他者の血と肉にまみれた細く弱々しい体を自ら抱きしめても、震えは止まらない。
「……まだ、抜け出せない……まだ、終わらない……ねえ……まだ、足りないのかしら……まだ、ダメなのかしら」
助けて、と彼女は呟く。
永遠の命、永遠の安息、この苦しみから抜け出したい。
願いはたったひとつ。
それを叶えるためには、ムービースターの血が必要なのだ。吸血鬼なら、悪魔なら、天人なら、狼男なら、喰らうことでクスリとなるだろうと、彼女は信じ、そして、執事とともに実行した。
「ねえ……ねえ、あなた? キレイな黒髪のお嬢さん。当たり前の幸福を、どうして私は望んではいけないのかしら?」
あの人をただ、待っていただけなのに。歌いながら、ひそやかに月の下で待っていただけなのに、彼女を襲ったのは愛しいヒトではなく、醜悪なる異形と呪、だったのだ。
「他人を犠牲にして成り立つ幸福は、諸刃の剣となるから。だから、ダメなのよ、ディアナ」
明日は知っている。
刑事として、いわゆる裏側の世界を見つめなければならない立場だからこそ、分かるものがあるのだ。
「……でも、私は犠牲になったわ」
「分かっている。分かっているつもり……だけど、アナタにはそんな真似をして欲しくない」
不条理に幸福を奪われる恐怖なら、明日にも覚えがある。被害者達の無念の声だって数え切れないくらい聞いてきた。
だが、認めるわけにはいかないのだ。
「ディアナさん!」
そして、ランドルフもまた、ベルヴァルドへの抗議ではなく、彼の攻撃によって死が間近に迫っていた執事を腕に捕えて、彼女のための言葉を叫ぶ。
「私は人を食いました! どうしようもない本能に従って、与えられた運命に抗えずに大切な人を食ってしまいました! ですが――っ」
泣きたくなるほどの痛みを抱えて、懸命に思いを重ねていく。
「何も、何ひとつ、そこからは生まれないんです。そこに救いはないんです!」
だからもうやめようと、声を限りに訴え続ける。
「だから、この銀幕市のどこかで、アナタを救う方法がきっと見つかるはずだと、信じましょう!」
彼女の瞳がまた揺らぐ。
不安定に、悲しげに、戸惑うように揺れ続ける。
なのに――
「ねえ……あなた達に、腐り朽ちていくこの身体から、醜悪なる病魔から、私を護り、安息を約束してくださるかしら?」
選んだのは、かすかな問いだった。
そして、その問いに答える術を、明日は持っていない。
「ドクターが言っていたのは、こういうこと……」
明日もランドルフも言葉に詰まる。
犯罪者の心理をトレースし、分析する能力に長けた美貌の精神科医は言った。
これは、銀幕市だからこそ起こり得た事件なのだという可能性について。
そして、死に直面したものが求める救いを、ソレは間違っているからやめろと止められるのかと。
だが。
「……もう、嘆くのはおよし……ディアナ……」
全ての動きを止める程のチカラを持った深く優しい声が、狂騒に静寂を与えた。
「おや、お目覚めですか、ブラックウッド殿? いささか遅いような気もいたしますが」
傍観者となってやり取りを眺める側にまわりつつあったベルヴァルドの片眉が、楽しげに上がる。
アンティークに椅子にもたれ、己の血だまりの中に身を置きながら彼女の内面世界へと滑りこんでいたブラックウッドが、ゆっくりと身体をもたげる。
「……美しい女性とともに、長い語らいを楽しんでいたものでね」
吸血鬼の長老は、我が同族をも殺した罪深き娘のために、悪魔に向けて願いを口にする。
「すまないが、彼女の呪いを解いてやってくれないかな、ベルヴァルド殿?」
「何故です?」
「私は彼女の痛みを引き受けると約束したのだよ。ソレがどれほどに深い傷となろうとも、彼女を受け止め、彼女の魂を救う。これは、かつて捕食者として罪を重ねてきた私の、長老としての役目であり、贖罪でもあるのだ」
愛しいモノを見つめるように、彼は彼女へ視線を投げ掛ける。
全てを許し、全てを受け止め、全てを受け入れる、純然たる愛の証として、彼女の名を呼ぶのだ。
「まったく、あなたはなんて方なのでしょうね」
執事の憤怒にも、ランドルフと明日の静止にも、一切心動かされることのなかった彼が、あっさりと了承してみせる。
ことのほか興味深いモノを見せてもらったと、その価値を認め、応えるために。
「フフ、いいでしょう。ほかならぬブラックウッド殿の願いとあらば、私も多少の融通は利かせようというものです」
既に肉体の半分以上を失った吸血鬼の長老にベルヴァルドは微笑み、指を鳴らす。
パチンッと弾けた軽いその音が、あれほどに願いながらも解くことを許さなかった『呪』を解いてしまう。
途端。
彼女はいっそ幼子を思わせるほど透明な瞳で、その場に佇む。
まるでたった今までやってきた全ての行いとやり取りを忘れてしまったかのように、ボンヤリとした表情でブラックウッドにのみ視線を向ける。
「ディアナ、さあ、私の元へ……」
差し伸べられるのは、砂と化し、ぼろぼろと崩れ掛けている左腕だ。
「貴女の願いを、私ならば叶えてあげられるのだがね……さあ、この手を取るかね?」
彼女は、小さくコクリと頷く。
「お嬢様……」
「何故終わることを願うのですか?」
思わず、執事と、そしてランドルフの声が重なる。
だが。
「終わりのない責め苦を君は負いたいですか?」
ブラックウッドのしようとしていることに気付いた彼等を押し留めるように、ベルヴァルドは冷ややかに笑う。
「彼女は彼に委ねたのですよ。罪深き自分の最期を。ならば、君らはそこでしっかりと彼の為すべきことを見届けるべきではないでしょうか?」
「永遠の安息を……与えるつもりなのね」
明日は知っている。知ってしまった。一瞬だけ触れ合ったディアナから流れ込んできた感情によって、全てを了解していた。
本当は、彼女の願いはたったひとつだったのだ。
自ら命を絶つことが許されず、治療法もないまま、ゆっくりと苦痛を抱えていくことの恐怖に終止符を打つことこそが願い、だ。
その願いを、あの男だけは叶えられる。
自分にはソレが出来ない。
だから彼女は沈黙する。ベルヴァルドに言われるまでもなく、沈黙以外に自分の為すべきことがなかったのだ。
それでも、言わなくてはいけない。伝えておかなくては後悔する。
「ディアナ」
彼女の名を呼ぶ。
かの腕の中で、そのヒトはゆっくりとこちらを振り返る。
「ディアナ、あたしはアナタが好きなのよ」
ディアナの紡いできた物語がとてもとても好きだったのだと、胸が軋む痛みに耐えながら明日は言葉を尽くす。
彼女は。
嘆きの悲鳴を迸らせていた歌姫は、ほんの僅か、微笑んだようだった。
嬉しそうに、小さく小さく、本当にかすかではあるけれど、感謝の笑みを、明日と、理解者であるランドルフと、そしてこれまで傍に仕えてくれた執事へと、優しく口元をほころばせたようだった。
「さあ、いいかね?」
ブラックウッドは彼女のベールを持ち上げ、優しく頬に伝う涙を指先で拭い、そのまぶたに口付ける。
醜くひび割れ、焼け爛れたその素顔に優しくキスを落としていく。
血肉を分けた彼女を、ブラックウッドは自らの支配化に置くこともできる。従者として、一切の権限を握ることすら吸血鬼には可能なのだ。
彼女を止められないのなら、そうすべきかもしれないと考えてもいた。
だが。
「少なくとも私は、ありのままの貴女を愛しているよ……そして、彼女も、そして彼等も、貴女を愛し、許してくれるだろうね」
彼女に触れることで、不死であるはずの彼の肉体もまた崩壊を始める。
けれど構わずに、強く、強く抱きしめる。
もはや左腕と、頭以外のほとんどを失いながら、ブラックウッドは彼女を抱く。嘆き悲しむ彼女をあやすように。
「永遠の美しい夢を、至福の時を、この世ならざる快楽を、貴女に与えよう」
彼女の全生命力と引き換えに――たとえソレがまやかしであったとしても、望むだけの幸福感を約束する。
「ありがとう……私を諌め、私の名を呼び、そして許してくれたヒト……」
一瞬。
凄絶なほどの美しく透明な笑みを浮かべて、彼女は、『快楽』と『死』を享受した。
高く細くガラス細工のごとく済んだ歓喜の歌を響かせて。
そして。
ただ一本残されたブラックウッドの腕の中で、彼女はフィルムに変わる。
その前面に『Decay』の文字を刻んで。
抱きしめる対象を失って、ブラックウッドもまた緩やかに地面へと崩れ落ちた。
「フフ、本当に、あなたはどこまでもお優しい」
その身体をするりと抱き止め、指先で彼のほつれた前髪を分け、血にまみれた額に冷たい唇をそっと押し当てる。
本来は精気を喰らうものからの、『贈り物』だ。
朽ちかけた身体は時の呪縛から解放されたかのように回復し、肉がちぎれ骨を砕かれた四肢も、何事もなかったかのように再生される。
そして、同時に彼は自らの力で、この朽ちかけた廃園にすら、己の精気を分け与える。
時折見せる悪魔の気まぐれ。
灰色と血にまみれた植物たちが、一斉に息を吹き返す。
ディアナが愛し、ディアナの心を癒し、ディアナと共にあった庭園にかつての美しき姿が蘇る。
「これは一体……」
呆然と、ランドルフはこの光景を見つめる。
「お嬢様」
彼女のフィルムを抱いて、執事もまた言葉を失い、何事かを問うように悪魔を見る。
だが、彼は表情の読めない一瞥とわずかな微笑、そして、
「これは、罪深き彼女の為に果敢なる挑戦をなさったお二方への、私なりの敬意の評し方に過ぎませんので」
いくぶん皮肉めいた台詞をひとつくれただけだった。
「それでは、私はそろそろお暇いたしましょうか」
「ならば私の屋敷に来るというのはどうかな? 願いを聞き届けてくれた対価に、極上のワインとスイーツでもてなしたいのだがね」
「フフ、それは素晴らしい提案ですね。貴方のもてなしとあらば、受けないわけにはいきません」
ベルヴァルドは全ての結末に満足したのか、完全なる優美さをたたえた笑みを浮かべ、頷く。
「では失礼するよ。お嬢さん、またいつか」
明日にのみ、目眩がするほどの魅惑的な笑みを向け、ブラックウッドは悪魔の腕に身を任せ、彼とともにふわりと空に消えた。
あとには、明日とランドルフ、そしてこの庭園をこれから管理していくのだろう執事だけが残される。
「……被害者の方も、フィルムに戻っている頃でしょうか」
「多分」
明日は短く答え、小さくうなずいた。
おそらく、彼らもまたあるべき姿に戻っているだろう。前回と今回の事件がこれほどまでに近似しているのなら、結末もまた、同じはずだ。
そこではじめて、明日は思い至る。
不条理な被害者は、加害者を憎む。そうして自らも加害者となった時、そうならざるを得なかった背景と相手を思い、同情することはたやすいだろう。
だが、その報復の犠牲となった者たちの思いはどうなるのか。
哀しきディアナもまた、不条理な死を他者に与えたものなのだということを忘れてはいけないのだ。
そして、ベルヴァルドは、あの残酷な悪魔は、この矛盾と不公正な状況に審判を下す役目を自分に課したのかもしれない。
そう考えるのは、けして間違っていない気もした。
「でも、何故なのでしょう……何故彼も、彼女も、終わりを望むのでしょうか」
喉の奥から、絞り出されたランドルフの問い。
救いたいと望んでここに来たのだ。一度は叶わなかった願いをかなえるために。罪人を死以外の方法で救いたいと願って。
なのに。
「どうして」
後悔とともに呟く言葉は風に掻き消される。
けれど、隣に立つ明日にだけは届いていたのだろう。
「……もしかすると、改心することは許されないのかもしれない……罪を犯してなお、生きる道を選ぶことが許されないとしたら……」
そこには何がしかの『意思』が介在しているのではないだろうか。
「流鏑馬さん?」
「この事件には、もしかすると『裏』があるのかもしれない」
許されざる罪を背負った者たちの『運命』を握る何かが、この銀幕市に広がり始めているのではないだろうか。
「今回の件も含め、もう一度ドクターに話を聞くべきかしらね」
これは刑事の勘。
そして、二度にわたって犯人を看取る側になってしまったモノの感傷であり感想であり、予感だった。
風が、頬を撫で、バラの花びらを舞いあげる。
「……お客様……よろしければ、お嬢さまのためにお茶を召し上がっていかれませんか?」
「え」
「あの、でも、我々は結局何も」
「いえ、お嬢さまのお心を認め、お嬢さまの名を呼んでくださり、お嬢さまとわたくしに罪の深さを教えてくださった礼をさせてくださいませ」
何よりランドルフは、適わない相手へと憎悪をたぎらせ掛かっていった執事をも守ってくれたのだ。
だから、これはせめてもの償いとして受け止めて欲しいと彼は続ける。
「なら、彼女の話をしましょうか……パル、出ていらっしゃい。もう大丈夫だから」
芳しきバラの咲き誇る庭園で。
明日は鞄にずっと身をひそめていた相棒をテーブルの上におろし、ランドルフとともに、老執事の給仕を受ける。
哀しい罪を犯した彼女の魂を弔うために、美しかった彼女の輝かしき世界の物語を想い出として語りながら、月が西の空に消えるまでお茶会は続いた。
END
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クリエイターコメント | はじめまして、こんにちは。高槻ひかるです。 この度は、シリアルキラー連作【死に至る病】第2弾にご参加くださり、誠に有難うございます。 いくぶんグロくなるかもと募集当初に言ってはみたものの、フタを開けたらこの通り、です。 『血肉を喰らう殺人者』を相手にしていながら、PC様の顔ぶれゆえでしょうか。グロさよりはむしろ、物悲しさや耽美さがほのかに漂うノベルと相成りました。 お待たせした分も含めて、楽しんでいただければ幸いです。
>流鏑馬明日さま 冷静沈着にして凛々しき刑事さま、二度目のご参加有難うございますv 本職の関係から、登場シーンをあのようなカタチとしてみましたが、いかがだったでしょうか? 好きに動かして良いというお言葉に甘えつつ、『彼女』との接触に恋愛映画好きな一面を仕込ませて頂きました。 また、明日さまの洞察力(刑事の勘?)により、この事件を担う謎の一片が垣間見えたことをお伝えしておきます。
>ブラックウッドさま 魅惑のベルベッドボイスを持つ魔性の美壮年様、ようこそいらっしゃいませv あえて捕食対象となる行動選択と、お噂に違わぬ徹底したレディファーストに感嘆の溜息をついてしまいました。 優美にして大胆、そして無限の包容力を少しでも表現できておりましたでしょうか? また、ベルヴァルドさまとコンビを組まれてのプレイングでしたが、この物語がお二方のコンセプトどおりの描写となっていれば嬉しいです。
>ベルヴァルドさま スイーツを愛する、麗しき悪魔の紳士さま、ようこそいらっしゃいませv 『悪魔』の本分を全うされるかのごときプレイングを拝見し、いくぶん悪役めいたスタンスと相成りましたが、いかがでしたでしょうか? 個人的美学に則って冷酷さを表現させて頂きましたが、イメージや狙いを外していないかとドッキドキしてます。 ブラックウッドさまと対を為すカタチではありますが、残酷さの中に一瞬ほの見える『優しさ』めいた気まぐれが表現できていればと思います。
>ランドルフ・トラウトさま 己を律する心優しき食人鬼さま、二度目のご参加有難うございますv 前回に引き続き、明日さまとコンビを組んで動いていただきました。そして、前回に引き続き、肉体労働に従事して頂いております。 懸命に『彼女』を救おうとされる姿勢に、変わらぬ優しさを感じた次第です。 その為ドクターに少々分析されてしまうのですが、その『犯人』に寄り添う思考こそがひとつの救いとなったかと思います。
それではまた、銀幕市を取り巻く事件、あるいはこの連続する事象のいずれかで、また皆様とお会いできる日を楽しみにしております。 |
公開日時 | 2007-04-02(月) 19:30 |
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