★ フォーリング・ポイント ★
<オープニング>

 あらためてその『穴』に近づいてみれば、気づくだろう。
 ベースの音よりも、地響きよりも低い低い音のような振動が、周囲のすべてのものを震わせているということに。そして何より、これほど不気味で、恐ろしげなものが、自分たちのすぐそばに在ったのかという驚きに。
 震動は空気や素肌ばかりか、心ある者の心さえ震わせる。
 それはあまりにも、
 深淵。
 そして漆黒。


 市民を集めての対策会議は、さしたる混乱もなく、ほぼ時間通りに終了した。それも、会議に参加した市民の意見の根本的な部分が一致していたからかもしれない。
 誰も、『穴』の存在を無視できなかったのだ。
 監視するにしろ封鎖するにしろ、まずは内部や周辺の調査を行ってからにするべきだ――市民の意見を総括し、市が出した答えは、そういったものだった。実際『穴』に近づいて目の当たりにした者はあまりいなかったが、奇妙な予感のようなものを、各人が感ずるところはあったらしい。市をあげての大規模な調査を求める声は少なかった。
 なぜかはわからない。
 ただ、あまり刺激しないほうがいいような、と……、
 あたかも穴は眠れる怪物であるかのように……、
 かれらは認識していたのである。
「今日、対策課を通じて、調査隊のメンバーを募集することになりました。いつものように……と言うのもなんですが、総指揮はマルパスに一任します」
 資料を揃えて、市長は言う。彼の前には、マルパス・ダライェルと植村直樹、灰田汐といった「いつもの面々」がいたが、その他に――東栄三郎とミダスの姿もあった。
 市長の言葉が終わると、ミダスは懐から錆びた黄金色の砂時計を取り出し、ちらりと目盛りを確かめる。ものも言わずにそれをしまうと、今度は古ぶるしい天秤を取り出し、やはり黙って傾きを調べていた。隣の東は、取り出されては消える神の道具を、いちいち舐めるように見つめていた。
『このミダスも検分に立ち会おう』
「そうですか。助かります」
『すでに理解しているだろうが、穴には夢の落とし子を不用意に近づけるべきではないようだ』
「夢の落とし子……、ムービースターのことですか。確かに、かなりの危険性があることは通達しているのですが……」
「正義感も好奇心も強い方が多くて。それに、厳しく取り締まるわけにもいきませんからね……。あの、本当に、穴に入ったムービースターはキラーになってしまうんですか?」
 植村が怖々と尋ねると、なぜか東が胸を張った。
「100%という可能性はめったに算出されないものである。仮に! もし、仮にだぞ。穴に接触したムービースターが100%キラー化するのであれば、すでに市内にはざっと見積もっても100体以上のムービーキラーが存在することになる。しかし、実際に報告されているムービーキラーはまだ10体そこそこではなかったか?」
「では、入れば絶対にキラー化してしまうわけいではない、と」
「しかしながら、市内にいるよりもキラー化する確率は桁違いに高いという結果も出ている。ああいや、あくまで計算上の結果だぞ」
 うむ、と腕組みをした東は自分の言葉に納得したように頷いた。かと思うと、ころりと表情を変えて、また胸を張る。
「我が研究所も調査には全面的に協力しよう。そのかわり、調査結果は完全に共有させてもらいたい」
「ええと、協力というのは、どのような……」
 また急に言い出した、と言わんばかりの困惑顔で、汐が東に尋ねる。
「備蓄や実験用のファングッズもすべて提供する」
「そうですね……お願いすることにしましょうか」
 柊が決断した。
 いつも、銀幕市が大きな危機に見舞われたときは、多くのムービースターの善意に助けられてきた。今回は、あまり彼らに期待を寄せるわけにはいかない。不死性も「夢のような」身体能力も持たないムービーファンを守るためには、アズマ研究所の力も必要だ。
 日時や募集人数といった具体的な部分を決め始めたところで、市長室に、数枚の航空写真が届けられた。
 これから調査隊が赴く、郊外の『穴』。上空から撮影された写真に写っているのは、真円と言ってもいいほどの完全な円。そして深淵。
「待て。ここを……」
 市長の机に並べられた写真のうちの一枚を見て、マルパスが動いた。指が、漆黒の中心を指し示す。
「光がある」
 言われて、市長と植村と東が、写真を覗きこむ。灰田汐が入りこむ余地はなく、彼女は一生懸命爪先立ちで、男たちの頭の間から写真を見ようとしていた。
 彼らは写真の中の深淵と漆黒を見つめる。マルパスの指の先を、じっと、睨みつけた。
 光沢のある写真の中の漆黒に、彼らの顔が映りこみそうだった。
 しかし――
「光だと?」
「マルパス、私には何も」
「私にもです」
「なに……見えないのか。ここに、確かに、星のような――」
 ハ、とマルパスが息を呑んだ。
 いつも軍帽のつばの影に落ちている顔の右側を押さえて、彼は弾かれたように後ろに下がった。爪先でやっと立っていた汐にぶつかる。倒れかけた汐の腕を、慌てて植村が捕まえた。しかし彼も、汐も、マルパスを見て、凍りつく。
「マルパス!」
 白手袋が、
 右目を押さえている手が、マルパスの手が、見る見るうちに真っ赤に染まった。真紅はたちまちどす黒く変色し、こぼれて、床に落ちる前にほつれて消えていく。
「う……、く……」
「マルパス、どうしました!」
「わからない……、記憶……光が……ああ、堕ちる。私の艦が! ……うう……ッ」
 がくりと膝をついたマルパスが、ゆっくりと顔から手を離す。顔には脂汗が浮かび、肩で息をしていた。……だが、血などどこにも、ついていなかった。流れてもいない。彼の手袋は白いまま。マルパスはのろのろと軍帽を脱いだ。
 柊は『スター・フォウル』シリーズの大ファンだ。マルパス・ダライェルが軍帽を脱ぐ貴重なシーンも見たことがある。市長が見る限り、マルパスの素顔は、そのレアなショットのままだった。ひどい火傷の跡だ。右目の金の光はくすんでいるのだが、これももとからそういう設定だ。
 少なくとも、流血するような生々しい傷は、どこにもない。
「柊君。やはり『穴』は危険だ。私にだけ見える光と色があり……私は、今、何もわからなくなった。写真を見ただけでこの結果だ。調べる必要はあるが……『我々』は行くべきではない」
 ごくり、と柊と植村と汐は息を呑む。
 さきまで懸命に写真を見ようとしていた汐は、そろそろと市長の机から離れた。東だけが写真に近寄り、また、食い入るように覗きこむ。
 やはり、光など写っていなかった。
 収められているのは、ただの漆黒。

 ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
 ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……。

 その日の夜、背筋が凍りつくような警告つきの依頼があった。対策課から、銀幕市民へ。
 何が起きるか、何が潜んでいるのか、何もわかっていない郊外の『穴』。
 今はミダスがひとり、その聞こえないほど低い音の中で、勇気ある者を待っている。


==<重要な注意!>========================
このシナリオに参加して、『穴』に降りる行動をとったムービースターの
キャラクターは、一定の条件下で「ムービーキラーになってしまう可能性」
があります(必ずなるとは限りません)。

ムービーキラーになったキャラクターは、「NPC」となり、以後、PL
さまご自身で使用していただくことができなくなりますので、ご注意下さ
い(シナリオ参加、プライベートノベルやイラストの発注、掲示板での発
言、キャラクター詳細画面の編集など一切の操作が不可能になります)。

ムービースターのPCでこのシナリオにご参加になった時点でこの点にご
同意いただいたものとみなします。
==================================

種別名特別シナリオ 管理番号418
クリエイター諸口正巳(wynx4380)
クリエイターコメント 対策会議、お疲れさまでした。イベントの結果を受けて、特別シナリオでの『穴』調査を決行します。なんとも恐ろしい注意書きをよくお読みになられた上での参加をお願いします。殺ると言ったら本当に殺るかもしれない諸口です。よろしくお願いします。
 内部や周辺で何が起きるかはお楽しみですので、万全に準備を整えてください。また、せっかくのイベントですから、ちょっとゲーム要素も取り入れたいと思っているので、いくつか本シナリオではルールを設けたいと思います。

■原則として「プレイングに書かれた内容のみ」、ノベルに反映いたします。キャラクター情報の設定欄やクリエイター向け説明の中に、このシナリオのための補足として書かれた「心情」「行動」「持ち物」は反映されません。400文字で勝負をかけてください! なお、キャラクター同士の呼びかけ方や、能力、設定はちゃんと反映させますのでご安心を。
■応募締切直後のキャラクター情報を保存して参考にいたします。これ以降に設定を変更されても参照しませんのでご注意ください。
■今回は研究所の全面的な協力があるので、ファングッズはいくつでも持っていけます。ただし、ファングッズの性質上、同時に使えるのは1バッキー(1ファン)につき1コ(1種)だけです。

 ちょっと堅苦しくなってしまいましたが、実際重要局面でもありますし、緊迫感のあるシナリオにしたいので、ご協力いただけると幸いです。
 マルパス司令は今回市役所で安静にしています(笑)。もうケロリとしているので心配はいりません。
 募集期間が若干短めなので、ここにもちっよとご注意ください。
 それでは、ご武運を!

参加者
須哉 逢柝(ctuy7199) ムービーファン 女 17歳 高校生
斑目 漆(cxcb8636) ムービースター 男 17歳 陰陽寮直属御庭番衆
ランドルフ・トラウト(cnyy5505) ムービースター 男 33歳 食人鬼
吾妻 宗主(cvsn1152) ムービーファン 男 28歳 美大生
薄野 鎮(ccan6559) ムービーファン 男 21歳 大学生
レナード・ラウ(cvff6490) ムービースター 男 32歳 黒社会組織の幹部候補
リゲイル・ジブリール(crxf2442) ムービーファン 女 15歳 お嬢様
取島 カラス(cvyd7512) ムービーファン 男 36歳 イラストレーター
<ノベル>

■見えない光はどこにある?■


「なんであれほど危険だって言われたのに、あんたたちは来るんだ!?」
 調査隊の面子が揃ったところで、会議室内に怒声が響きわたる。それは最後に会議室を訪れた、取島カラスのものだった。
 ムービースターは『穴』に入る以前に、近づくことさえ危険であると、対策課からは半ば脅しじみた警告が出されていた。にも関わらず、2名のムービースターが調査に参加することになった。ランドルフ・トラウトと斑目漆だ。カラスに対してランドルフはかすかな苦笑を返したが、漆の表情は狐面の下に隠されていた。
「それに、あんたと、あんたもだ。ムービースターも行けないほど危険なところに、ろくに戦えない人間が行ったって、足手まといにしかならない!」
 カラスは厳しい口調をゆるめず、薄野鎮とリゲイル・ジブリールを指さした。いきなり指をさされて役立たずは来るなときたものだ。怒るよりも先に、守とリゲイルは呆気に取られ、目を点にしてカラスを見つめた。
 薄野とリゲイルとは面識があるが、取島カラスのことはよく知らない――そんな須哉逢柝が、露骨に顔をしかめてカラスに詰め寄る。
「ちょっと。あんた、そんな言い方はないだろうが。ふたりとも、町の……皆のために覚悟決めてんだぞ。あんたがどんだけ強いのか知らんけどさ――」
「まあまあまあ。カラスさんはアツい人間でね、正義感も思いやりも人一倍強いんだ。彼も皆のために頑張ろうって、気合が入ってるんだよ。許してやって」
 一触即発の空気をなだめすかしたのは、吾妻宗主のおだやかな一声だった。不機嫌な顔のまま逢柝が振り向くと、宗主は声色そのままに、ふわりと微笑した。
「わたしは平気です、物理的にムービーキラーになんかならないんだし。だいたい、会議じゃムービーファン中心で調査隊を組むって意見が強かったでしょう? それに……、…………」
 リゲイルの反論が、尻すぼみになった。
 彼女の視線だけが動いて、部屋の隅のスチールラックに腰かけた漆をとらえる。漆は狐面をかぶったままで、会話に参加していない。寝ているのか起きているのかもわからない。忍ということもあるだろうが、ひどく気配が稀薄だ。
「取島さんも、わかってるんじゃないですか? ここに来てるということは、みんな止めてもムダなんですよ。だいいち取島さんも、行くなって言われたって行くでしょ?」
 鎮がかすかに笑って、そう言った。カラスはもう、何も言わなかった。論破されたというふうではなく、自ら口を閉ざすかたちだった。彼は部屋の隅に目を移す。
 そこには、アズマ研究所の研究員が数名いた。ファングッズの点検をしたり、ランドルフの大柄な身体に怪しげな装置を取り付けたりと、忙しそうだ。
「出発はランドルフさん待ちなんだよ」
「すみませんね。時間も手数もおかけしてしまってます」
「なんかちょっと目離してたらスゴイことになってる……動きづらくないですか、それ」
「いえ。重くもありませんし、服を着ればコードが引っかかることもないでしょう」
「……何の装置をつけてるんだ?」
「こういう機会もめったにないでしょう。研究所の皆さんにはきっちりデータを取っていただこうと思いましてね。『マイナスの魔法エネルギー』に接触した私達に、どんな変化が起きるのか」
「いやいやいや、変化しちゃマズイだろ。なあ、あんたたち。このデッカいオッサンの数値おかしくなったらあたしたちにもすぐ知らせろよ。あたしが責任持って穴の外まで殴り飛ばしてやる」
「ははは。もしものときはよろしくお願いします、須哉さん」
 ランドルフが豪快な笑い声を上げたとき、彼に取り付けられた各種センサーの調整が終わった。
 出発だ。
「それで、穴に入って調査するなら、どうするの? ランドルフさんは命綱用意してるみたいだけど」
「ミダスさんが『ゆっくり落ちる魔法』みたいなもの、かけてくれるらしい。上がりたくなったら言えばすぐ上げてくれるって」
「一応念のために命綱はつけておくつもりです。壁伝いに降りて調べてみようと思いますので……」
 面々が調査の計画を立てている間も、斑目漆は無言のままだ。彼はラックから飛び降り、狐面を額の上に押し上げた。思いつめたような無表情がそこにあった。
「……」
 リゲイルは彼に声をかけようとしたが、漆は彼女の視線や気持ちに気づいていない素振りで、黙って会議室を出て行く。
 ――漆くん。
 けれどリゲイルも、黙ったままだった。伸ばした手も、届かなかった。


『黒き影。汝も穴の検分に向かうのか』
 それは、会議室に全員が集まる、少し前のことだ。
 市役所の裏に潜んでいた男の前に、黄金のミダスは現れて、静かに問いかけた。黒き影、と呼ばれるに相応しい男だった。レナード・ラウだ。イヤホンから漏れる会話に聴覚を集中させたまま、彼は器用にミダスをあしらう。
「やあ、市長さんちの庭師さん。見てのとおり今取り込み中なんだけどねぇ」
『強い意思の流れを感じた。汝のものに相違ない。揺らがぬ決意だ』
「褒めても何も出ないよ」
『穴に降りる心づもりであれば、術を施そう。自由落下の定めから逃れるためのものだ』
「……。便利な道具だねぇ、あんたは」
 ようやく、レナードは振り向いた。ミダスと彼の間の空気が、きュいん、と音ではない音を立てる。レナードに、見た目の変化は現れなかった。しかし彼だけはその瞬間から、地に足がついていないような、痺れたような、奇妙な違和感を覚えるようになった。神の魔法にかけられたのは、確かなようだ。
「礼は一応言っとくよ。これで小姐とあのニンジャと……大哥のために働けるってもんだ」
『生ある者は死ぬ』
 ミダスが不意に、独り言のような呟きを漏らした。その独白さえ、声帯から発せられる『声』ではなく、レナードの頭の中に響くことばであったが。
『それをわきまえながら生きるのが人間という獣だ。かのものどもは、常に悔い無き死を目指して生きている』
「……石像がいきなり哲学しだすなんてねぇ。あいにくこっちは講義受ける余裕がないんだけども。……何が言いたい?」
『このミダスは死の神の尖兵。死を思い、死に赴かんとする獣の前に現れたとて、神奇はあるまい。汝は獣にあらねども』
 ミダスは消えた。かさかさというバラのささやきも遠のき、市役所の裏には、黒い影がひとつあるきりだ。影は細い苦笑のため息を漏らして、イヤホンからの情報に集中しようとした。
「……つまり、死神に目をつけられたってわけだ」
 ふと、レナードは呟いた。
「……そんなの、今に始まったことじゃないか」
 また、苦笑いした。


 現場に向かうまでの間も、取島カラスの諌言は続いた。彼は、戦闘能力のない者やムービースターは、穴の周辺の調査にとどめるべきだと主張していた。
 それは確かに正論だろう。温厚で冷静なマルパス・ダライェルにも、写真を見ただけで異変が起きたのだ。その写真から得られた内部の情報もない。
 誰もカラスの言い分が理不尽だとは思っていなかったが、誰もその正しい主張に従おうという素振りは見せなかった。
 空気が重い。誰もが、他の誰かの言葉に容易に従えないほどの決意を抱えている。
 自分の言葉も感情も、今は鉛のように重い。
 やりきれず鎮がついたため息に、白い色がついた。
「なんか、寒いね……」
「うん。予報じゃ、今日は4月並みに温かくなるって言ってたのに」
 二の腕をこするリゲイルと肩をすくめる鎮の、足元から……見えない冷気は這いのぼってくるのだ。まだ春先ということもあるが、『穴』の周辺は見た目にも寒々とした荒野だった。枯れ草一本見当たらず、石や土まで凍えているかのようだった。
「で、ふたりとも。体調はどう?」
 先頭の宗主が足を止めて振り向いた。ランドルフは笑顔で軽く両手を広げた。
「特に異状はありません。少し肌寒いですが」
「……」
「あ、おいおい!」
 一行が足を止めたことにも、宗主の問いにもまるで気づいていないふうで、漆はつかつかと足早に前へ進んでいく。逢柝が慌てて手を伸ばしたが、わずかに間に合わなかった。漆の足取りはどんどん速くなり、ついには走り出していた。
「ま、待って! 待って、漆くん……!」
 リゲイルが精一杯声を上げて制止さながら後を追う。彼女にとって、彼は『家族』だった。昨今の彼の様子がおかしいことは、誰よりも心得ているつもりだ。
「待って!! 行っちゃだめ!」
 聞こえているはずだ。聞いてくれると信じている。
「行かないで、漆くん!」
 しかし、斑目漆がリゲイルの制止に従う様子はみじんもなかった。耳が聞こえていないはずはない。だが、漆は立ち止まらず、ちらと振り向きもしなかった。ずっと押し黙ったまま、リゲイルにさえ目もくれない。彼の暗い瞳に映っていたのは、あの、大きく口を開けた『穴』だけ。
「これはまずいでしょ、ちょっと……」
 やむを得ない、と鎮がスチルショットを構えたとき――漆とリゲイルを追う者が、黒い風のように彼の横を駆け抜けていった。黒い影はさっとスチルショットの直線軌道内に入りこむ。偶然ではない。影は意図的に鎮の射撃を妨害したようだ。
「えっ、誰――」
「ラウさん!」
 宗主が声を上げた。
 漆とリゲイルを追うのは、レナード・ラウ。一行には何も告げずに、行ってしまった。逢柝は彼とリゲイルと漆の関係をよく知らない。背後を振り返り、それからまた穴を見て、呆気に取られるしかなかった。彼女の頭に載ったココア色のバッキーがずり落ちかける。
「あたしたちを尾けてたのか、全然気づかなかった。あいつはスター? リゲイルの知り合い? ……なにがなんだか、もう……」
「彼はムービースターだ。これで穴に入るスターが3人になってしまった」
 カラスは唇を噛んだ。視線の先で、漆が真っ先に穴の中に飛びこんでいる。リゲイルが、忍者の俊足に追いつけるはずもなかった。それどころか、レナードと宗主に追いつかれて、制止されていた。
「離して! 離して、漆くんが! 漆くんが!」
「小姐。ここは俺に任せてくれ。必ず連れ戻してくる」
「で、でも、ラウさんだって……」
「あんたにあいつは必要で……あんたは大哥に必要な人だ。俺は、もう必要な人のために何もできない脇役なんざまっぴらだよ。あんたと大哥に恩を返す。返させてくれ」
 リゲイルの両肩に手を置き、息もつかせぬ勢いで、しかし静かに、レナードは言った。
 制止など無意味だ。
 レナードが穴に飛びこんでいく――いや、漆を追いかけていく。リゲイルはもがいたが、宗主は真顔で彼女の腕を掴んでいた。うっかり関節をひねったり、白い肌に傷をつけたりしないように注意はしていたが、確かな拘束だ。彼女のことを思いやっていたから。
「ラウさんは一撃でやられるようなヤワな人じゃないだろ。信じよう」
「どうして行かせてくれないの? わたしはキラーになんかならないんだから、危ないことなんてないのに……!」
「危ないか危なくないかをこれから確かめに行くんだ。あの穴の中は、いわゆる前人未到だよ。そんなところに女の子をひとりでなんか行かせられないじゃないか。常識的にも、俺的にも」
 リゲイルが黙りこんだとき、残りのメンバーが穴のふちに駆けつけてきた。
 覗きこんでも、底はもちろん、漆やレナードの姿さえ見い出せない漆黒が広がるばかりだ。
 ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
 ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
 音のようなものは途切れることなく、周辺の空気と、調査隊の心や聴覚を震わせる。鎮も言っていた天気予報は、この一帯ではあてにならない。春の陽気どころか、青空もなかった。空は今にも落ちそうなほどに重い灰白で、手足がかじかむむほどに寒い。
「どんだけ深いんだ、これ……」
『面妖なことだ』
 これまでずっと一行や周囲の様子をうかがっていたミダスが、穴のへりに歩み寄ってきて、そう言った。
『この「穴」が歪みの中心と化しているのは確かだが、神の力の比重は、我が推測よりも遥かに小さい』
「え?」
『夢の神子の力は触媒に過ぎぬ。膨れ上がる力も、歪みを構成する力も、全く相違のものだ』
「あー、あたしそういう難しい話苦手なんだよなあ」
 逢柝が頭をかいたせいというわけでもないが、カラスがミダスの言葉にこう返した。
「ここから発生してるのは、研究所が言う『魔法エネルギー』だけじゃないということか」
「ミダスにもわからない何か、ね。なおさら、入って調べてみないといけないわけだ」
 ふう、と宗主の口の端に笑みが浮かんだ。呆れたような、自虐的でもあるような、少し虚ろな笑みだった。本人に笑おうとした医師があったかどうかもわからない。
 黒いコートの裾をひるがえして、宗主はリゲイルの手を取りながら、穴の中に飛びこんだ。カラスが、鎮が、逢柝が、続いた。
「命綱をお願いします、ミダスさん」
『相判った』
 神の兵なら、自分の体重も支えてくれるだろう――ランドルフはそう判断して、死神の遣いに命綱を託した。ぞわぞわと、見えない手が肌を撫でまわしているような感覚に悩まされながら。



■そこ、で。■


 斑目漆の中の鉛が、どんどん大きくなっていく。忍装束の下にある皮膚も、露出している皮膚も、等しく冷気に侵されて、今にも凍りつきそうだった。それとは対照的に、体内の鉛のようなものは、ぢぃぢぃと熱を帯びてきている。
 自分も、銀幕ジャーナルを狂気色に染めた、ムービーキラー側に名を連ねるのか。
 それとも、これまでさんざん悪夢に悩まされてきたぶん、自分には耐性があるのか。
 もしも自分が狂いきってムービーキラーになってしまうなら、その前に自分で自分の生を絶つつもりだった。
「生?」
 漆の中から笑みが漏れてくる。
「始めから俺は、生きとらんやないか」
「何言うてん。お館様のところにかえるんやろ」
「ああ」
「なんもかんも、もう、たくさんや」
 自分が目を開けているのか、閉じているのかもわからない。神の魔法でゆっくりと落ちていく漆の周囲には、黒しかなかった。いくら進んでも視界に変化は訪れず、ただ、寒さと熱さが増していくばかりだ。
「お館様のためだけやろ」
「なに?」
「俺が死ぬんは、お館様のためだけなんやろ。お館様なんか、どこにおんねん」
「……。ここや。ここにしか、おらんのや」
 にやにやしながら、漆が懐からDVDを取り出した。タイトルは、『陰陽師 蘆屋道満』。斑目漆は、その中にもいる。斑目漆の主も、その中に。物語の中に。
 少なくとも、この『黒』の中には、いないのだ。
 漆はかぶりを振り、DVDを抱えたまま、視線を下に、落ちていく先に向けた。マルパス・ダライェルが見たという光など、どこにもない。底も見えず、壁までどれくらいの距離があるかも、もうわからない。もはや、自分がちゃんと落ちているのかどうかも――
「つかまえた」
 場違いな、少しだけおどけた他者の声。
 それが起こると同時に、漆の足は何者かに掴まれていた。
「な、誰や!」
「俺」
 聞き覚えのある声と含み笑い――漆が何とか首をひねると、声と手の主の姿が見えた。レナード・ラウ。さほど親しいわけではないが、漆の知人だった。
 ここには光がない。暗闇があるだけだ。しかし、レナードの姿ははっきり見える。ミダスの魔法の効果なのか、それともこの空間にそんな親切な作用が備わっているのか、さだかではない。
 ただ、ふたりが互いの表情をはっきりと確認できるのは、不可思議な事実だった。
「あんたも、来たんか……」
「やっと正気に戻ったのかい。小姐……リゲイルがあれだけ呼んでたのに、まるで聞こえてない雰囲気だったよな」
「俺は、ずっと素面や」
「おかしくなったやつは大抵そう言うんだよ。……なあ、あんた。どこに行こうっていうんだ?」
 レナードの顔から人を食ったような笑みが消え、静かに、漆は問いかけられた。
 どこへ。
 決まっている。
 お館様のと……
「この、奥や」
「だったら、ひとりで突進しないほうがいいんじゃないか。せっかく7人でチーム組んでるんだから」
「心配せんといてくれ。独りで調べもんすんのが隠密ってもんやろ」
「……あんたと一緒に行こうって思ってたやつの中には、リゲイルがいるんだ」
「……」
「リゲイルは、あんたにとって、どうでもいい存在なのか」
「……」
「わかった、仮にどうでもいい存在だったとしよう。でも、小姐にとっては、違うんだ。小姐はあんたを家族として、必要としてる。あんたを追っかけてるときも、あんなに……怯えてた。家族をなくすのがどんなにつらいか、彼女は知ってるんだよ。だから怖がってた。あんたがいなくなるんじゃないかって」
「……なんで、あんた、ここまで、すんのや。俺と……メシ食うたことも、ろくにないくせに」
「そりゃ、彼女のためだ。彼女は、俺と違って、善人だからさ。善人には幸せであってほしいもんだろ。実現するわきゃないけどさ、……それが、人類の夢だ。皆が幸せでありますように、っていうのは……」
 レナードの口元に浮かんだ笑みは、いつもの皮肉めいたものではない。
 優しささえ孕んだ、穏やかなものだった。
 まるで、天寿をまっとうせんとする老人が浮かべるような。
「あんた、帰ってやりなよ。彼女のところに」

 沈黙。

「いや や。」

 ぐさりと、レナードの手の甲に苦無がめりこんだ。

 暗闇の中にしぶくルビー。
 レナードはさすがに、手を離した。
「俺は奥に行くんや。俺は奥に、もうたくさんなんや。好き勝手されるのは。始めから俺なんか、奥に、どこにも、生きていなかったんや、そうやろ。お館様。俺は、好き勝手に。俺はお館様のところ行くんや。嫌や。なんでこの気持ちが、踏みにじられなあかんねん」
「漆!」
「あ、あ、あ、あああああああ……!」
 ぐさりと。
 苦無が、漆の喉もとにめりこんだ。胸元にめりこんだ。DVDにめりこんだ。
 ぐさりぐさりぐさり。
 暗闇の中にしぶくのは。ルビーと柘榴石、虹色の破片。
 それは光であったのだ。
「……!」
 ずっと続いていた低い唸りが、噴き上がるような爆音と化し、漆とレナードに迫ってきた。ゆっくり落ちるふたりの身体と、猛烈な勢いで飛んでくる『黒いもの』。闇の中の黒を、誰が避けられるだろう。
 ふたりのムービースターの身体は、一瞬で呑みこまれた。
 その、一瞬の間に――
 レナード・ラウは、どれほどの声にささやかれ、罵られたか。どのくらいの映像を、目の前に突きつけられただろう。おおよそ直視したくないのは、いずれも彼が敬愛してやまない男のものだった。次から次へと切り替わる、否定的で絶望的な場面のカット。凍える夜、凍える心。主の亡骸を前に、レナード・ラウはただ立ち尽くすだけだ。何もできない。何もできなかった。
 俺はあの人のために、一度でも何か役に立てただろうか。
 今はいい。こうして銀幕市に生まれて、斑目漆とは違い、同じ映画から実体化していた主のもとで働いている。映画のとおりに、持たせられた設定のままに。
 けれども、肝心の『本編』の中で、レナード・ラウは一度でもあの人を助けられたのか。
「気にするな、ベイビー・フェイス」
 あの人は、一度でもレナードをこう呼んだか? 耳元でささやくように、死んだはずの男は言う。
「俺が憎むのは、無能な部下ではなく、俺の墓を掘り起こした奴だ」
「命令だ、レナード・ラウ」
「私の望みを果たせ」
「王大哥。ありがとうございます。俺はこれで、やっと、本当に、貴方の役に立てそうだ……」
「神を殺せ」
「はい」
「お館様を救え」
「はい」
「わかったなら行け」

「捨て駒ふぜいが、せいぜい役に立ってみせろ」

 そしてレナードの目の前で、彼はリゲイル・ジブリールを抱き寄せた。
 チョコレートを贈られ、クッキーを返す。幸せそうな微笑。
「あんな顔」
 頭を下げて退室し、レナード・ラウは呟いた。
「映画の中じゃ見せたことないんだよな」

「だからなにもかも嘘っぱちだよ」

「あの子供が好き勝手やってくれたせいで」
「俺のお館様の設定はもうめちゃくちゃなんだよ」
「殺してやる」「殺してやる」「殺してやる」

 レナードは主の部屋に戻った。
 そして、ソファーの上で仲むつまじく語らう男女の脳天に、一発ずつ銃弾をぶちこんだ。
 もとい、贈りつけた。
 それから、夜だというのにカーテンが開きっぱなしの窓を見る。窓の向こうにあるのは、夜の黒よりも黒く染まった、銀幕市――。

「王大哥」
 それが、一瞬の出来事。
 どこまでも堕ちていくレナード・ラウが、意識を手放す前に見たまぼろし、あるいは現実。
「見えますか、王大哥。あれが、俺の、最後の、贈りも……の――」

 ぶ、ち。


                    ★  ★  ★


「光なんか、見えないな」
 暗黒の中を下りている間、会話らしい会話はなかった。宗主がぽつりとそう呟くまでは。
 ランドルフの様子を見ながら、レナードと漆を探しながら、暗闇を手さぐりで調べながらの落下だった。宗主の呟きどおり、マルパス・ダライェルが見たという光はいっこうに見出せない。
「司令は、何を見たのでしょうね」
「市役所で聞いておいたんですけど、よく覚えてないって」
 ランドルフのそばにはスチルショットを抱えた鎮がいる。食人鬼という設定のランドルフに少しでも異変が生じれば、ムービーファンはひとたまりもないだろう。人のいいランドルフを疑うような真似をするのは鎮も気が引けたが、用心しないわけにはいかなかった。ランドルフのほうも、複数のスチルショットが視界でちらつくことに嫌悪感を示すほど心は狭くない。
「本当に、光だったのかな。もっと別のものだったんじゃ……」
「ここから観測されているのは、『マイナスの魔法エネルギー』でしたね。マイナスになるようなもの……自分の最も恐れているものとか……そんなものなのかもしれません」
「マルパスさんはそれ見たとき、『艦が堕ちる』って言ったんだって。で、その話とは別になるけど、俺はここに来る前にちょっと予習しておいたんだ」
 ランドルフの推測を受け、宗主が真顔で話し始めた。
「マルパスさん、若い頃に1回派手に戦争で負けて、乗ってた戦艦なくしてるらしい。1000人近く乗ってたのに、脱出できたのはマルパスさんも含めてほんのひと握り。顔の火傷はそのときの。あ、いや、そういう設定ってこと」
「それは随分と、軍人にとっては厳しい過去ですね。知りませんでしたよ。司令はそういうことをわざわざ話の種にはしない性分でしょうけれど……」
「そこが問題なんじゃないか?」
 逢柝が眉を下げた。
「誰にも話さないで、ずっと自分ひとりで抱えてたやな思い出……。それを突きつけられるんだ。なんでこの穴見て急に思い出すのか、あたしには理屈なんてわかんないよ? わかんないけど、そういうおっかない力があるってことなんじゃないか。ここには」
「自分を、否定したくなるんだとしたら……」
 それは希望を打ち消す力か。
 絶望。
 否定。
 なるほど、この漆黒は、夜がもたらす安らぎのようなものなど持ち合わせていないように見えた。
「では、もし、司令のように……私が、あの二人を見てしまったら……」
「ドルフ君? え……、なんだって?」
「どうしたらいいのでしょうね。私は」
 自嘲とともに吐き出されたランドルフのつぶやき。それを聞いて、カラスと鎮は顔を見合わせる。
「あ……!」
 そのとき、リゲイルが声を上げた。
 彼女は、ずっと暗闇に懐中電灯の光を向け、赤外線カメラで限界までズームして下を撮り続けていた。
 何も映らない、何も動かない、緑色の画面の中に――
 光が。
「ひゃ……っ!?」
 そしてそれは、凄まじい勢いで広がってきた。いや、近づいてきた。ミダスに、上げてくれと言わなければ。そう考えるいとまも与えられなかった。光がまばたきした。

 目、
 だったらしい。



■おしまい。■


 ず、ぉッ!!!!!!


 巨大な穴の直径に等しいほど大きなものが、冷気や乾いた土を吹き飛ばし、地上に飛び出した。穴のふちにいたミダスすら、その襲来に備える余裕がなかった。命綱はいとも簡単にちぎられた。爆音と衝撃波を、ミダスは吹き飛びながら展開した結界で軽減したが、その身体は地面に叩きつけられ、マントと肩当てにヒビが入った。人間ならば全身打撲程度ではすまないだろう。肉塊になっていたかもしれない。
 顔を上げたミダスが見たもの。
 市街から双眼鏡やカメラのレンズごしに『穴』のある方角を見た者も、それを視界にとらえただろうか。
 まことに形容しがたい、暗黒の塊の怪物が、魚や海蛇のように身をよじり……
 おお……
 ずぼぶ、と『穴』に飛びこんで、底があるともしらぬ奥へと、舞い戻っていくのだ。
 顔があったのかなかったのか、手足があったのかはたはたヒレだったのか、イモムシのような筒状だったのか、それとも不定形であったのか。
 誰にもわからなかった。あまりにも一瞬で、あまりにも突然の出来事。
 ただ、『穴』から生じた凄まじい衝撃と冷気、悪臭、おびただしい不安は、ほぼ光速で銀幕市を駆け抜け、蹂躙した。子供や気の弱い者などは、わけもわからず、泣き出した。そしてすべてのムービースターは、身体を貫く悪寒と熱気を確かに感じて、身震いを禁じえなかった。すべてのバッキーも、ほんの一瞬失神して、ムービーファンの肩や頭の上から、ぽろりと落ちる。
 何かが現れた。なにかが。
 だがそれがなんなのか、わからない。
「本部より調査隊へ!」
 我に返ったマルパスが、机から通信機をもぎ取る。
「何があった、……報告を!」
 たらたらと、彼の右目からはまた血が流れだしていた。
「頼む、……報告を。無事でいてくれ……」
 市役所の奥にいた彼は、『穴』から飛び出したものを直接見てはいない。しかし、見たのだ。弾けるような痛みを放った右目に、光と、黒い化け物が映って――。



『穴』の底から噴き上がってきたものが、意思ある生物なのか、非実体のものなのかも、はっきりしない。ただ、呑みこまれた者たちは、消し飛んだわけでも消化されたわけでもなかった。凍えそうな冷気と焦げつくような熱さの中であっても、彼らの意識はあったし、身体を動かすこともできた。
 だが、自分たちが何かに囚われていることは、漠然と理解できる。
 ここから逃げ出さなければ。誰もがそう思った。
「ち、ぃ……!」
 カラスが持ってきたもの、ことにムービースターから譲り受けたものは、まるで使いものにならなかった。頼りの龍氷剣はどろどろと溶け、美しいフォルムは錆びて腐った褐色へ、醜く変貌していく。
「こ、の……肝心なときに、役立たず、が!」
 龍氷剣のかわりに、サバイバルナイフを抜く。切りつける。どこへ。なにを。わからないまま振り回す。手ごたえは、あるような気がする。
 そのときだ。
 ぱずッ、と奇妙な音が上がって、
「わッ」
 と、鎮が驚きの声を上げた。
 傍らに転がっていたスチルショットを手に取ったとき、誤って引き金を引いてしまったのだ。狙いもろくにつけられずに放たれた射撃は、当たった。
 どこかに。
 ずっと耳を打つ低い低い唸りがねじ曲がる。暗黒が身をよじり、怒りをたぎらせたのがわかる。
「効いてる、……ファングッズが効くぞ!」
 逢柝の声、そして銃声。銀色の光。
 ぎゅお、と漆黒の何かが歪んで、ムービーファンたちは再び仲間の姿を視認することができた。各人の位置はそれほど離れていないが、皆倒れて這いつくばっている。
 宗主がディレクターズカッターのスイッチを入れた。
 光だ。
 まばゆい刃は希望に見えた。光は三日月を描き、確かに、何かを大きく斬り裂いた。
 ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……、
 そして、彼らを包む未知の暗黒は、震え、膨張し……
「バカバカバカキモウザバカアホバカマヌケマヌケマヌケデブバカバカバカアホバカ」「ば」「か」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「やくたたず」「役立たず」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「神め」「呪ってや」「る」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「どうして」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ねえあなた」「しつけは」「だいじ。」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「逢柝」「どうしてこんなこともわかってくれないの」「だからしつけ」「は」「だいじ。」「知ってる? あの子」「親が死んで」「遊んで暮らすの」「親の金」「使い放題」「ず」「る」「い」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ひとごろし」「人殺し」「デスマッチ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「し」「ね」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「あんたが死ねばよかったのよ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「そしたらさみしくないでしょ」「さみしいって、ぴーぴーわめかなくてすむでしょ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「どうしてみんな」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「どうしてわたしだけ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ウザ」「ウザッ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ひとくいおに」「だあああ」「たすけ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「オーガ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「役立たず」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「お前さ」「そういうの毒舌って言うの」「ムカツクんだよ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「そういう言い方」「思ったこと全部口に出すのがさ」「カッコいいとか思ってるわけ?」「ずるい」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「キモイキモイキモイ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「あっち行って」「マジ汚い」ぉぉぉぉぉぉぉ「金よこせ」「早く出せ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「出して」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「神を殺せ」「命令だ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「あいつなんで空手やめたの」「さあ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「わけわかんねーやつだし」「ま」「どうでもいいか」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「あんなのいなくなったってどうにかなる」「から」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「死ねばいいのに」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「どうしてわたしだけ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ブッサイクな顔」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「もっと遊びたい」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ずるい」「みんなずるい」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「あの子は」「親が死んだおかげで」「大金持ち」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「う」「ら」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「や」「ま」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「し」「い」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「もうたくさん」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「もうやめて」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「記憶にございま」「せん」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「もういやだ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ぜんぶぜんぶ」「壊れちゃえばいい」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「いらない」「どうしようもない子」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「だ」「ま」「した」「なああああ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「デブは黙って肉食ってろ」ぉぉぉぉぉぉぉぉ「あっそ」「ふーん」「で?」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ごくつぶし」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「キモッ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「役立たず」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「どこほっつき歩いてた」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「お」「し」「お」「き」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「あいつですあいつがぜんぶ悪いんで」「す」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ぶっ殺すぞてめえ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ぎゃああああ熱い熱い痛い」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「死んだほうが負け」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「やめて痛いやめて」「うぐあ」「あ」「あ」「あ」「ぎぃ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ま」「け」「い」「ぬ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「ぎゃっは」「ぎゃっはっは」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「辞めちまえ」「止めちまえ」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ「よくも」「なんで」「どうして」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
「殺してやる」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
「許さない」ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
「殺してやる」
「殺してやる」
「殺してやる」
「こんな世界」「もうたくさん」
「神を殺せ」
 ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおッ!!

 わからない。
 わからないまま、ムービーファンたちは冷えた地面の上に投げ出されていた。
 黒い霧が、虫の大群のように唸りを上げ、弾けて、再び『穴』の中へ戻っていく。ムービーファンとランドルフの腰や腕には、イバラの長い蔓が巻きついていた。顔を上げた彼らは、ヒビが入ったミダスの背中を見た。
 誰かが、あの騒音の中、ミダスに引き上げを要請したのだ。誰が助けを求めたのか、それもわからない――だがともかく、これで、何とか助かった。……はずだ。
 リゲイルは辺りを見回し、顔ぶれを検める。
 吾妻宗主。須哉逢柝。取島カラス。薄野鎮。そして、ランドルフ・トラウト。
「う……漆くん? ラウさんは……? どこ……? ねえ……」
 いない。斑目漆とレナード・ラウが、どこにも いない 。
「ランドルフさん? ランドルフさん、おーい、……大丈夫か?」
 ランドルフは、皆に大きな背を向けてぐったりとうなだれていた。宗主が声をかけると、わずかに、反応があった。
「大丈夫です。だと……思います」
 いつもの彼らしくない、弱気で、かすれた声だった。
 しかし反応があったことには安心し、近くにいた鎮と宗主が、ランドルフの正面に回る。見たところ、彼の屈強な身体には、目立った外傷もなかった。ただ……、その目は虚ろで、指は何かをしきりにいじっていた。
 彼の小指にもはまりそうにない、細身の、小さな指輪。
 ランドルフがぼんやりと触れているのは、指輪である。
「血の匂いがしました。それだけでは、なかった気も……」
 その太い指が、震えている。指輪が落ちる。地面に落ちた指輪を、ランドルフはどこか呆然とした面持ちで見つめた。
「どうすることもできなかった。どうすることも。私たちは、『いい夢』でいなければ……ならないのに。人喰いの私に何ができた? どうすることもできなかったんだ。……許してください!」
 最後の慟哭に、獣のような咆哮が混じっていた。
 鎮と逢柝が顔色を変える。ランドルフはムービーキラーにならずにすんだが、それは、今のところというだけなのかもしれない。そう思っていた。
「くそッ!」
 取島カラスが地面を殴りつける。
「くそ、くそッ! だから! 近づけたくなかったんだ。やっぱり、スターが入るべきじゃなかった。きっと俺たちも。でも他にやりようがなかったじゃないか! くそォ!」
「反省会はあとだ。すぐここから離れよう!」
 宗主と逢柝がランドルフを助け起こす。
 ランドルフ同様、5人のムービーファンも、大きな怪我は負っていない。ただ、見えないもの、触れられないものを、めちゃくちゃにされた気がしていた。粉々になったその破片を、見えない自分の指が、震えながらかき集めている。元通りに直せるかどうか、本人たちにもわからない。
 否定。
 何かが、自分を、否定した。徹底的に。
「待って。漆くんと、ラウさんが。待ってよ……、まだ、いないじゃない」
 か細い声を上げながら、最後尾をリゲイルが歩きはじめる。一歩前に踏み出した拍子に、ポケットからICレコーダーが落ちた。
 すべての会話を録音していたはずだ。容量がいっぱいになったことを告げる赤ランプが、チカチカとまたたいている。液晶画面には、『録音件数:2件』の表示。
 ――え? 2件?
 はずみで誤作動したということもなければ、録音件数は1件になるはずだ。大容量であることに安心して、ずっと回しっぱなしだったのだから。
 リゲイルは2件目の録音データを再生した。
『小姐』
 ざりっ、ぉおぼっ、というひどい雑音混じりで、その声は、入っていた。
 まるで彼がレコーダーを手に取り、台風の最中で、メッセージを吹きこんでいるかのような、乱れた音声データだ。
『 ありが とう。 これからも   大哥と……』
「ラウさん」
『仲良く…… な 』
「……」
『俺は』
「……」
『「これから神を殺しに行くんだ」』
「!?」
 最後の台詞は、レコーダーだけが発したものではない。
 背後、から。


 リゲイルの悲鳴に、誰もが振り向く。
 そこには、ついさっきまでどこにもいなかったはずの、男が立っていた。
 狐面をかぶった黒服の男。黒服にはべっとりと赤黒い汚れが付着している。さながら、黒スーツに赤のまだら模様がほどこされているかのよう。
「あ、あんた、」
「ラウさ……」
「あはは……、心配し、なくて、いいさ」
 ぐるりと首をならして、がくんとうなだれ、肩をくつくつと上下させて、
 まだらの蜂は笑うのだ。
「神を。殺しに行くんだ、俺 たち、 。なぜって……あはは。だって、神さえいなければ大哥は苦しまずにすんだんだ。ろ? 俺も、こ、こんな、お館様のところから離れなくてすんだ。いらないんだよ。神なんて……俺たちを、あはは、もてあそんで楽しむだけ、だ から」
 ひゅ、と黒い影は亜音速で動いた。
 さながら、蜂か、忍の者か。
 その手に握りしめた己の針は、苦無である。
 再び姿を現したとき、まだらの蜂はミダスの眼前にいた。無言のまま、かれはミダスの胸に苦無を打ち込んだ。神の尖兵は悲鳴も上げなければ表情も変えなかったが、胸には大きくヒビが入って、大きくよろめいた。
「やめろ!」
「あはは。なにもかもたくさんだあああああ!!」
「やめて、ラウさん、漆くん、やめてえ、やめてぇぇええええ!」
 リゲイルが、まだらの蜂に飛びつき、すがりつこうとした。
 しかしその腕は、何も抱けない。狐面の男は、さっと黒い影になって、立ち枯れた木が落とす影の中に飛びこんだ。
 それきり、まだらの蜂は消え失せた。気配も感じられない。
「まさか、今の……」
 鎮はそれ以上続けなかった。ミダスはゆっくりと体勢を立て直し、辺りをうかがう。
『二つの夢が堕ちたようだ。神への恨みが同調を生んだか』
「神って、もしかして、リオネちゃん……!」
『神子を殺めるのは容易ではない。が、それに気づいたとき、堕ちた夢の憎悪が何に向けられるか、懸念せねばならぬだろう』
「結局俺たちは、ふたり仲間をなくしただけか? ……これが結果か!」
 カラスが声を荒げ、そばにいた逢柝は軽く耳をふさいでかぶりを振った。
「でも、あたしたちは、見ただろうが。穴の中に何があったか」
「ああ見たさ。正体も何もわからないものを。それが情報か?」
「大事な情報だろ!」
 とうとう逢柝も大声を上げる。
「ここはヤバいんだ。ほっとくのも近づくのもヤバいくらい、ヤバいところなんだよ! いくら馬鹿なあたしにだってわかる。ここは封鎖して、ずっと監視しないとダメなんだ」
「それに、わかったことはまだある。ランドルフさんは無事だ」
「ちょっとショック受けてるみたいだけど……」
 逢柝とカラスの間の剣呑な空気に、宗主と鎮も割って入る。そうでもしなければ、逢柝とカラスは取っ組み合いのひとつでも始めそうだった。
「『穴』に入っても100%キラー化されるわけじゃないってことは、ランドルフさんのおかげで立証できたんだ。研究所もデータ取ってるだろうし――」
「……プラスになることを……」
「え?」
 言い争いのような議論を、ランドルフの、まだ呆然としたような声が断ち切る。
「この銀幕市に来てからの、皆さんとの、楽しい、素晴らしい思い出を。私の気持ちにとってプラスになるようなことばかりを、考えていました。私が壊してしまった二人に出会ったらどうしようかとも思いましたが、その不安を少しでも紛らわせようと思って……いい夢ばかりを……見ていました。それが、ひょっとすると、私を助けたのかもしれません」
 それから、
 一行はまた歩き出した。
『穴』から遠ざかるにつれ、温かな、初春の空気が戻ってくるのを感じた。いや、彼らのほうが、やわらかい季節の中に戻ってきたのだ。曇天も嘘のように晴れわたり、一行もいつのまにか、これからの前向きな計画について話し合っていた。
 ただ、リゲイル・ジブリールだけが……
 対策課への報告に同行せず、まっすぐ帰宅していた。帰宅、とはいっても、まっとうな邸宅ではない。彼女が戻る先は、銀幕ベイサイドホテル。
 出迎えてくれるのは、恐らく、留守番させていたバッキーだけ。
 そのうち、彼女にとって必要な、大切な人が、彼女のもとに駆けつけるだろう。
 けれど肝心の『今』、彼女を出迎えるのは、物言わぬバッキーだけだ。



■こそひそこそひそ……■


「これであの『穴』を手なずける計画は切り捨てることになった。1日で監視の目がこれまでの倍以上に膨らんでいる」
「見ろ。早めに手を打つべきだったではないか」
「タナトスの兵が思ったよりも早く動いたからな」
「兵? 今はただの園丁だろう。枷を嵌められた道具なぞ、恐るるに足らぬ」
「その園丁に感づかれるな。今は夢の神と通じているのだろう。奴を経由して我々の動きがオリュンポスに伝わってみろ……我々の計画は振り出しに戻る」
「ちょうどムネモシュネが手筈を整えたところだ。下手を打てばあれの計画もつまずくぞ」
「やつのやり方はまわりくどい。時間がかかりすぎるのではないか」
「では、その間に貴様も動けばよかろう。せいぜいムネモシュネに遅れをとらぬようにな」
「ふん。それにしても、『穴』があれほどの破壊の可能性を秘めていたとは。……惜しい方法を失ったものだ……」



■そして、これからは、さくらのきせつ。わかれのきせつ。はじまりのきせつ■


 ぱち・ん。
 柊邸の庭に、今朝は、鋏の音がある。
 ぱち・ん。
 日曜だった。
 ぱち、
「おはよ、ミダス」
 顔も洗って歯も磨いたが、まだ寝ぼけ眼のリオネが、庭に下りた。
 黒い大振りな鋏を手にした死の彫像が、無言で振り向く。リオネは彼に歩み寄ると、マントに入ったヒビを指でなぞった。
「だいぶふさがったね。あんしん」
『そう悠長に構えてもいられぬ。神子よ、貴殿を狙う獣が現れた』
「だいじょうぶだよ。パパがまほうかけてくれてるもん。それに、ミダスもいるし……みんなが、いるから」
『……』
 ぱち・ん。
「ねえ、ミダス。さくら、さく?」
『確実に』
「ほんと? よかった。きょねんはね、このおにわ、くさぼーぼーでさくらよくみえなかったの。ミダスのおかげで、ことしはここでおはなみできそう」
 ぱ……
『……』
「あ、あれ。ミダス、おはなみ、したくない?」
『庭が荒れる』
 ち、ん。
「だ、だいじょうぶだよ。リオネ、みんなとおはなみしたい。みんなと」
『左様か。神子の御意思にあらせられるならば、このミダスは従うまで。しかし随分と桜に思い入れがおありのご様子だが、なにゆえ』
「きょねんはね、こうえんで、みんなでおはなみしたの。みんな、とってもたのしそうだった。いっぱいわらって、いっぱいたべて。ね、だから……さくらのしたでおはなみしたら、みんなげんきになるよ。みんな……さいきん、げんきないの」
 リオネが目を伏せて、ミダスは手をとめ、静かに神の子を見下ろした。
「リオネのせいなんだよね。たのしくしててもらいたかったけど……そっとしておいてほしいひとも、いたんでしょ?」
 ミダスは何も答えない。
 初春の、まだ冷たい風が、寒々とした裸の枝の間をすり抜けた。


 この日、アズマ研究所が銀幕市に向けて、ムービーキラー研究調査内容の定期報告書を出した。更新されたムービーキラーのリストに、新たな名前が付け加えられていた。
〈まだらの蜂〉の名。
 そして、まだらの蜂を構築する、ふたりのムービースターの名が。




〈了〉

クリエイターコメントお疲れ様でした。『フォーリング・ポイント』をお届けします。これからの銀幕★輪舞曲の主軸ストーリーにかかわる内容になりますので、できるだけ多くの皆さんに目を通していただきたいです。
つらい結果ですけれど。
判定は事務局のご意見も交えて、話し合いながら行いました。最終判断はわたくし諸口が下しましたが、キラー化するか否かの基準がなんだったのかは、ランドルフ・トラウトさんの台詞を参考にしてご判断ください。
〈まだらの蜂〉、『穴』の今後の対処方法については、いずれ続報があると思います。
それでは、
どうか、皆さんだけは、良い夢を忘れないで。
公開日時2008-03-05(水) 23:00
感想メールはこちらから