★ 【死に至る病】#5 Despair ★
<オープニング>

 蛍光灯が瞬き、闇の世界にほの青い光を散らす。
 リノリウムの床が、わずかにソレを反射する。
 けれど一瞬あとには、白も青も一切がただ一色に塗りつぶされてしまう。
 血が。
 あまりにも多くの血が、視界を埋め尽くし、死の連鎖を生み出していく。
 あるモノは斧を手にし、あるモノは牙を剥き、あるモノは使い慣れた己の武器をかざして、涙を散らし、慟哭し、ひたすらに『死』を生み出していく。
 転がる。刻む。打ち据えて、また新たな標的を求めてさまよう。誰の声も届かない。誰ひとり、誰かの想いを受け止められない。受け止められずに、心は暴走する。
 そして。
 そこに『彼』はいた。
 心を殺しヒトを死に至らしめる病――『絶望』に侵された者たちが引き起こす惨劇の只中で、静かに書物を繰りながら微笑んでいた。
「……思いがけない副作用というのでしょうかね」
 彫刻のように美しい顔に笑みをたたえ、彼は、傍らに佇み、同じく悲劇を見つめるものへと告げる。
「なぜか、死体が残る。きっと、罪の重さを見せつけたいが為なのかもしれませんが……これはあなたの願いの具現化でしょうか」
 アア、ホラ、窓の外でも悲鳴が聞こえますよ。いえ、コレは『産声』と称した方がよいかもしれませんね。
 その言葉に重なるように、またひとつ、狂おしい嘆きの『赤』が闇の世界に生まれ。弾けた。
 『塔』から外へとさまよい出たモノたちが振りかざす、真黒の狂気によって。



 リオネは悲鳴をあげて飛び起きる。
 自分があたたかく優しいベッドの中にいると分かりながら、それでも心臓が恐ろしく早く内側から胸を打つ。
 いまだ強烈な血の迸りが残像となって目の前で踊っていた。
 あれは夢。いま見たものは確かに夢。けれど――ただの夢ではない。
「止めなくちゃ」
 冷たい汗と冷たい涙にぬれた頬を拭い、彼女はなすべき事をするためにまどろみとぬくもりが残るベッドから飛び出した。
 植村に伝えなければいけない。一刻も早く、昼も夜も関係なく、とにかくあの『病院』に急いで、と。

 食い止めなければ、銀幕市は『病』に侵されてしまう――

種別名シナリオ 管理番号137
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメント【死に至る病】をテーマとしたシリアルキラー連作も、この『第5弾』で最終回となります。
今回の舞台は『銀幕市立中央病院』の五つ目の棟である『特別棟』の一角、そしてお相手は、『絶望を振り撒くもの』でございます。
リオネの予知が現実となる前に、『病』の根絶をお願いいたします。
ただし、参加者さまによっては『感染』する可能性もありますし、無自覚だった自分の病巣を覗きこむことになるかもしれません。場合によっては戦闘もありうるかもしれません。
また、この特別棟はその名の通り『特別』であるがゆえにセキュリティも厳重ですので、合わせてご注意下さいませ。

なお、このシナリオはシリーズキャンペーンものではありますが、どこから参加頂いても大丈夫ですし、全てに参加しなくてはいけないということもございません。
それでは、お気に召しましたら、この一連の事件の着地点をともに見届けてくださいませ。

参加者
シャノン・ヴォルムス(chnc2161) ムービースター 男 24歳 ヴァンパイアハンター
流鏑馬 明日(cdyx1046) ムービーファン 女 19歳 刑事
ランドルフ・トラウト(cnyy5505) ムービースター 男 33歳 食人鬼
ヘンリー・ローズウッド(cxce4020) ムービースター 男 26歳 紳士強盗
<ノベル>

 店員の声に送り出され、扉の外へ一歩踏み出した途端。
 陽射しがすっと注ぎ、初夏の風が黒髪を軽く躍らせ、たったいままで店の中にあふれていたふんわりと甘い香りを鼻先まで届けにくる。
 細いリボンでそっと飾られた小さな白い箱を大切に抱えながら、流鏑馬明日は、不思議な心臓の高鳴りを感じていた。
 柄にもなく緊張している。
 しかも、それは事件に対峙する時のような張り詰めたモノではけしてなくて、むしろやんわりとした甘みがあった。
 一人暮らしの部屋の一角を占めるDVDの中で描かれてきた物語、そこに漂うかすかなくすぐったさと予感が調子を狂わせる。
 自分は何をしているのだろうかと、思わず自問自答したくなるほどだ。

 『――今はゆっくりとおやすみなさい』

 甦るあの人の台詞、心の底は見えないけれど深い優しさを宿した瞳。
 覚えているのは、ゆるやかな眠りの中で告げられたその言葉と、あとに続く暖かな揺らぎだけ。
 まるで恋愛映画のヒロインのように抱き上げられ、告げたはずのない自身の部屋まで送り届けられ、そうしてベッドに寝かされたのだろうと、想像はできるけれど本当にそうしてもらったかは分からない。
 分からないのに、非番の今日、自分はこうして『お礼』を用意した。
 義理ゴトに厳しい祖父母の言いつけが染み付いているから、世話になればそのお返しをするのは至極当然なコトではあるのだが。
 頭の片隅で、刑事としての自分と幼い少女の自分が小さく小さく呟いてくる。
 あの人に近付いてはいけない。あの人は信じよう。あの人と関わってはいけない。あの人を信じるなら、じゃあ、あの人が言う『病』を広げているものは一体何……?
「……ねえ、パル」
 だが、ピュアスノーのバッキーへ自問自答めいた言葉を掛けるより先に、携帯電話が鳴り響いてしまった
 パルは鞄の中からソレをぐいっと押し上げ、明日に存在をアピールしてくる。
 手に取って。
 ディスプレイに表示された『名』を確認し。
 明日は、複雑な思いで苦笑めいた溜息をひとつこぼした。



 対策課の緊迫した空気は、たったひとりの幼い少女によってもたらされたものだ。
 銀幕市立中央病院――その名称の通り、市が母体となっている施設での問題に、市長が緊急招集を掛けた対策会議はいまだ終わる気配を見せない。
 にわかに慌しさを増した市役所の応接間で、ランドルフ・トラウトは備え付けの電話へ受話器を置いた。
「まもなく流鏑馬さんもこちらにいらっしゃるでしょう」
 言いながら振り返った先に立つのは、巨躯を窮屈そうなスーツに押し込んだ凶相の自分と対を為す、宗教画のごとく美しい青年だ。
 シャノン・ヴォルムス。
 黒衣に身を包む彼は、自分の手の中に視線を落とし、告げられた言葉と銃の感触とを確かめているようだった。
「流鏑馬もくるのか。そうか……」
「ええ、ずっと追いかけてきた事件ですから。きっと今回で終わるはずだと信じて、彼女といっしょに最後の惨劇を止めたいと思います」
 電話越しではあるが一通り手短に事のあらましを告げた時、なぜか彼女は苦笑を浮かべたようだった。
 めったなことはするもんじゃないわね、と、そう呟いたようだが本当の所はよく分からない。聞き間違いかもしれなかった。
「ああ、貴様は確かソレ以外の3つに関わっているんだったか? 流鏑馬とともに最初から最後まで難儀なことだな」
「シャノンさんは、私が辞退した『4つ目の事件』にいらしてたんですよね」
「……ああ」
 子供たちが関わった、あの事件。真夜中の狂乱は、世明けの風といっしょに灰となって消えた。
「あれすらも、誰かが引き起こしたものだったとはな」
「……あの子供たちも……本当なら……」
 本当なら、辛い現実を乗り越えて、仲間たちとともにここでの幸福を手に入れていたのかもしれないとランドルフは思う。
 誰かの役に立ちたくて、誰かのために何かしたいと考えて、そうして反射的に名乗り出た『対策課の依頼』がここまで大きくなってしまった。
 フィルムに戻らないムービースターの死。
 発端は斧を持った殺人鬼だった。
 彼の心臓を貫いてからずっと、救うために伸ばした腕は届かず、慟哭ばかりがこの耳にこびりついている。
「私はこれほど深く関わりながら、今になってようやく何が起こっているのか分かったように思います」
「……誰かが書いた脚本どおりにコトが運んでいるといえばそれまでだが、気にいらん」
 シャノンは片眉を上げて、悔恨を滲ませる代わりに、不愉快そうに小さく溜息をついた。
 例えどのようなカタチであろうと、リオネの予知が実現する様を目の当たりにするのは、けして気分のいいものではない。
「せいぜい気を付けろ。俺は先に行く。やることもあるしな」
「あの」
「ん?」
「ひとつ、頼まれてくれませんか。ひどく面倒で、そして、とてもムシのいい願いかもしれないのですが」
 応接間の扉に手を掛けたシャノンを、ランドルフは言葉に詰まりながらも何とか引き止める。
 心底申し訳なさそうに、けれどどうしても今しかないのだと切羽詰った感すら漂わせながら、彼を見る。
「なんだ、言ってみろ」
 聞いてやらないこともないと、流し目で肩越しに見上げる。
「……おそらく、あなたにしか頼めないので……」
 そうして俯いたまま切り出した『願い』は、シャノンの形のよい唇を皮肉に歪ませた。
「貴様が本当にそれを望んでいるのなら……いや、そうだな、言われなくてもそうするだろう」
 そうしてハンターは扉の向こうに消えた。
 ランドルフは拳を握り、開いて、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 『約束』は取り付けられた。
 後は、覚悟を決めるだけ――



「いっそ、すべてが『病』にまみれてしまえばいいのに」
 青白い光を放つ電子機器に囲まれたほの暗い部屋の中心で、ヘンリー・ローズウッドは皮肉げに口元を歪めて笑う。
 惨劇を予知する少女の夢は、対策課を通じて広がりつつあった。
 ほんの遊び心で植村のパソコンと靴の裏に盗聴器を仕込んでいた『探偵にして強盗』たる彼のもとにも、必然的に切迫した事態の進捗が届くこととなる。
 リオネの声は市役所へと通じる。
 対策課を経由して、件の場所へ向かうものは3名。
 場所が場所なだけに、そうそう派手な攻防戦とはならないだろう。
 けれど、『様子見』などという選択ができるほどの余裕もない。
「ついに『異常心理』の悲喜劇の最終幕が開演、なんてね」
 そして、芽生えるのは抑えようのない感情。
 病んだ惨劇はこの銀幕市に振り撒かれ、至るところで彼等や彼女たちは他者の血を浴びながら崩壊のレクイエムを奏でるだろう。
 素晴らしい計画だ。
 一切の慈悲を持たない、徹底的な終末の予感。
 なにもかもが罪の海に沈みこみ、この街は阿鼻叫喚のカーニバルに突入するのだ。廃墟となった遊園地で行われるはずだったパレードなど目ではない。
 壊れてしまえばいい。異常な世界にこそ、装飾され尽くしたこの【惨劇】は相応しい。
 そして、その惨劇の黒幕は誰か。
 裏で糸を引いているものは誰なのか。
 ヘンリーはとっくにその答えに辿り着いている。辿り着いているけれど、だからこそ見届けたくてたまらない。
「さあ、愛しの主宰者に会いにいこうか」
 奇術師は喝采の花束の代わりに賛辞の言葉を携えて、人工の光で溢れた箱から惨劇の舞台裏へと軽やかなステップで向かった。



 厳重に閉ざされた箱庭の奥底で、彼はゆるやかに己の書物をなぞり、傍らのキーボードに指を滑らせ、またページを繰る。
 物憂げな視線。
 ひとつふたつとこぼれる溜息。
 そして彼は、ガラスの向こうに視線を投げ掛けた。



 ここには一体何度訪れたことになるのだろうか。
 5つの棟からなる銀幕市立中央病院は、近代的かつ映画の町に相応しいフォルムで明日とランドルフを迎える。
 陽は傾いているが、まだ沈みきるには3時間ほどの猶予がありそうだ。
「事件のことで、ドクターDと面会したいのだけど」
 診療終了時間ギリギリを狙い、明日はランドルフとともに特別棟の案内窓口へ向かった。受付事務員の女性に提示するのは、自らの警察手帳だ。
 ストレートに事件が起こるから通してくれと訴えるつもりだったランドルフに対し、より効果的な提案を明日は示した。
 そのひとつが、刑事という立場である。
 事実、事務員はにこやかに来訪者の意図を汲み取った。
「流鏑馬明日様とランドルフ・トラウト様でございますね……確認して参りますので、そちらで少々お待ちくださいませ」
 観葉植物がポツリポツリと配置された白く清潔な待合所で、ふたりは彼女の返事を待つこととなる。
 賑やかな昼の時間とは対象的に、いまは入院患者や外来通院者、見舞い客と思しき者たちの姿も疎らにしかない。
 クラシックの有線放送も、別れの曲に似た旋律を紡いでいて、黄昏の訪れを告げているかのようだった。
「……あの、明日、さん」
 つい会話の接ぎ穂を失って押し黙ったままだったランドルフは、ドギマギとしながらも意を決して彼女に声を掛ける。
「なにかしら?」
「ええと、ですね……」
 黒い瞳が自分をまっすぐに見上げている。
 思わず逸らしてしまったランドルフの視線は、彼女の手元へと落ちて、止まった。
 待ち合わせた時からずっと明日はプレゼントと思しき白い箱を携えていて、もちろんその中にはケーキが入っているのだ。
 しかしこの状況で一体誰に渡されるべきモノなのか、聞いてみるにはかなりの勇気がいった。
 それを問うくらいなら、こちらを切り出す方がずっと気は楽な、はずだ。
「コレを、預かっていてもらえませんか?」
 シャラ…とかすかな音を立てて、自分の首からネックレスのチェーンに通された指輪が明日の手の中に落とされる。
「これは」
「お守りになるはずです……あの、どうしても嫌な予感がして、きっと明日さんに持って頂くのが一番良いような気がするんです」
 誤解されるのではないかという不安とともに懸命に言葉を続ける傍で、彼女はじっと自分の手の中に預けられたモノの意味を考えているようだった。
 男には不釣合いに細く華奢で、明らかにランドルフにあつらえたものなどではないのに、持っているという意味ありげな代物。
 深読みしようと思えば、いくらでもできそうな品物。
 意味はある。とても深い罪の代償であり、拭いようのない不吉さがあり、けれどそれらを全て打ち明ける勇気もない。
 これを託された理由を、彼女はどう考えるだろうか。
「終わったら、あなたに返すわね」
 だから明日がそれだけを告げて指輪をスーツのポケットにしまった時、ランドルフはひたすら恐縮し、そして安堵した。
 これで、少なくとも自分はひとつの罪を免れる、だろうと。
 まもなく、事務員は申し訳なさそうに二人の前に姿を現した。
「大変お待たせいたしました。本日ドクターは不在のため面会はできませんが、上の者より捜査の協力はするようにとの指示は受けております」
 そうして、恭しく彼女から差し出されたのは二枚のIDカードだった。
「凛々しい女刑事と心優しき超人……銀幕ジャーナルでご活躍の『美女と野獣コンビ』のお2人には可能な限りの計らいを、とのことでございます」
 顔を上げた事務員は、ほんの少しイタズラっぽい笑みを浮かべていた。
 私もおふたりのファンなんですよ。
 そう小さく笑って、後押ししてくれる。
 だから、明日とランドルフは互いに顔を見合わせ、そして、名も知らない誰かが自分たちのために用意してくれた好意を有難く受け取ることにした。
 植村は特別棟の図面を用意してくれている。
 リオネの夢に合致する場所は、おそらくそこしかないだろうと彼は言っていた。
 ならば、向かう場所に迷うことはない。
 IDカードを手に、二人は連れ立って事件の核心が眠る場所を目指す。



 厳重な管理が必要とされているらしい特別病棟を抜けて、シャノンは忍び込んでから5つ目の扉に偽造IDカードを差し込んだ。
 特別棟と一口で言っても、その内部構造はかなり複雑だ。患者の医療レベルで階も分けられ、ひとつひとつがホテルのような設えとなっている場所すらある。
 周囲に神経を張り巡らせ、慎重に立入禁止区域へと進んで行く。
 厳重な監視体制でも敷いているのかと思ったが、いまの所、すれ違うものも静止するものもいない。
 緊急警報装置の作動も視野に入れていたが、なにかが反応する気配もない。
 奇妙なくらいに静かなのだ。
 対策課で、この施設の図面を広げながら説明してくれた植村の言葉が思いだされる。

『いま、この中央病院にはあまりにも多くの人々が入院されています。例えば、そう、ムービーハザードに巻き込まれ、普通の医療機関では対処不能な方もまた、こうして回復の機会を待っているのですが……』

「まさか、ここで新たなムービーハザードが重なり出現したということはないだろうが……」
 ムービーハザード。満開の桜も、砂嵐の中から出現したピラミッドも、海岸に近づいて来る怪獣の島も、全て魔法の掛かった銀幕市だからこそ起こりうるコト。
 積み重ねられてきた時間と世界を根底から覆し、関わるものに変質を求める不思議な街。
 だが、もといた世界では考えられないほどに暖かな人々と触れ合い、自分の価値観を気持ちいいくらいに覆してくれる優しい人々の中に馴染めば馴染むほど、内なる声は大きくなるのだ。
 貴様の、その両手は、その身は、本当に、キレイか?
 シャノン自身への問いかけ。
 幸福の眠りが醒めた後に襲いかかってくる途方もない痛みを避けるための、自己防衛本能のようなもの、かもしれない。
 間接照明の薄ボンヤリとした明かりと、白すぎるほど白い匣の中の静寂は、佇むモノの精神にいらぬ負荷を掛けてくる。
 ギシギシと胸が軋む。
 彼女はそこにいた。手を伸ばせば届く場所で確かに微笑み、佇んでいた。
 喪失の痛み。
 呻き。
 生きて、と彼女は願った。
 ソレはもしかすると、彼女を護れなかった自分への『呪い』だったのではないだろうか。
 違う。
 そうではない。
 そうではないと否定しながらも、心は黒く蝕まれていく。
「いっそ身を任せてしまえたら、楽になれるのだろうな」
 口元に刷いた自嘲の笑み。
 考えたところで、どうしようもなく『意味のないこと』なのだ。
 悔やんで取り返せるのなら、とっくの昔にしている。
 この場所には、いやな空気が満ちている。
「……ここか……」
 プレートには、情報管理室の文字。
 辿り着いたのは、灰色のコンクリートが打ち出された天井を持つ無人のコンピュータルーム。
 非常灯だけが明かりを落とす、薄暗い地下の部屋。
 コの字型に設置されたカウンターの下に並ぶノートパソコンでならば、中央病院に掛かった全患者と全職員の電子カルテ閲覧が可能なはずだ。
 パスワードさえ入手できていれば、『秘密』は秘密でなくなる。
「目のつけどころは一緒、みたいだね」
「……誰だ」
 不意の言葉。
「誰だというのはご挨拶だね。ここまでずいぶんと楽に進んで来られたのは、ひとえに僕の催眠ガスによるものだっていうのに」
 褒めてくれないかな。
 そう言って笑い、物陰から姿を現したのは、仕立てのよい灰色のスーツにシルクハット、そして深い青の瞳に人懐こい笑みを浮かべた青年だった。
「こうして会うのは初めてじゃないかな? ヴァンパイアハンターという役柄をお持ちのシャノン君、お噂はかねがね」
「もう一度聞く。貴様、誰だ?」
 研究施設のスタッフではない。
 服装というレベル以前の問題だ。
 明らかにこの目の前の男からは血と犯罪の匂いがたちこめているのだから。
「ああ、うん、そうだね。名乗らせてもらおうかな。僕の名はヘンリー・ローズウッド。おぞましく醜悪な悪夢に踊る奇術師さ」
 以後お見知りおきを。
 恭しく礼をして、彼はおもむろに右腕を頭上に掲げ、パチリと己の指を鳴らした。
 途端。
 シャノンが開いていたパソコンどころか、電源が落ちていたはずのコンピュータ達までが一斉に閃き、ずらずらとデータを並べはじめた。
 画面の中に作り出されていく、いくつもの窓、窓、窓。
「……前田サトシ、湊マサユキ……ディアナ……北條リカ……ティッシ・ビート…………マリア……美原のぞみ……」
 呪文のように名前を読みあげていくヘンリーに誘われるまま、画面の連なる文字群を目で追いかける。
「医療者というのは面白い。どこまでもどこまでもディープに他人の人生に介入して、時には一生すらもたやすく左右してしまうんだから」
 血液データ、これまで受けた検査一覧、そして、あらゆる科に分けられてファイリングされている医師たちの診療記録。
「さて、ここまで挙げられた各診療科の患者たちのデータだけど、共通点をひとつあげるとしたら、なんだと思う?」
 試すように、ヘンリーはシャノンの顔を背後から覗きこんできた。
 コンピュータの中に陳列されたデータたちは、裏も表も関係なく、ただ事実だけをつづっている。
 答えは、あまりにも明白。
「ドクターDの署名……」
「正解」
 直接そのカオを拝んだことはない。だが、一連の異常事態に名を連ねていることは確かだ。
「Dの署名を受けたものの内、ムービースターに分類されるものだけが等しく事件を引き起こす。これは現段階での事実。そして、法則。介在する何者かの意思がそうするようし向けているということ」
 ヘンリーは踊るようにクルリとターンし、そして、目を細める。
「ドクターは以前、僕を直感の探偵だと分類した」
 探偵にもふたつのタイプがいると、彼は言った。
 一切の矛盾が存在しない緻密な情報と理論の後に真理へ到達するものと、犯罪者に寄り添い同調することで論理の飛躍を行い真実に到達するものがいるのだと。
「まあ、積み上げられてきた証拠がなければ、論理の破綻は免れないってことらしいけどね」
 でも悔しいからお返しはしようと思ってるんだと、ヘンリーは続けた。
「貴様は何を得た?」
「美しいロジック」
 にこやかに彼は笑う。
「言いなおそう。美しいトリックとロジックは僕の領域だ。ゆえに、ソレを手に入れた僕は真理へと飛躍する」
「一体何を」
「あ、ようやくお出迎えってところかな?」
 はぐらかされたかと思ったが、どうやら違うらしい。
「……そのパソコンのどれかがトラップだったようだな」
 緊急事態を告げるサイレンも閃く赤色灯もない代わりに、ガラスの扉の向こう側、廊下をふらり、ふらり、夢遊病者のような足取りで、男が数名、ナースステーションに向かって歩いてきているのが見えた。
 
『淋しい淋しい淋しい淋しい……』
『なあ、なあ、おかしいよな、どうしてアイツはここにいないんだ、どうして俺だけがこうして……』
『裏話なんか、聞きたくなかった。知りたくなかった。俺は精一杯に生きたのに、茶番劇だったなんて認められるわけ、ないだろ』
『笑ってる。アイツら笑ってるんだ』

 この耳に届くのは、限りない呪詛と呻き。
 彼らの瞳はドロリと淀んでいて、世界の全てを遮断しているかのようだった。
 男のウチのひとりは、手にどす黒い赤で濡れたアイスピックを握り締めている。この棟のどこかを探せば、おそらく、血を流した憐れな被害者がフィルムになることも出来ずに転がっていることだろう。
「それじゃ、いってらっしゃいミスターヴァンパイア。僕はもう用は済んだからね、ここはアンタに任せるよ」
「……囲まれているぞ」
「僕は脱出モノが意外と得意なんでね。それに、アレを止めようとも思っていない」
 にこやかに笑みを振り撒いて、インディゴブルーに染まった窓ガラスに自身を映すると、彼は白いカーテンを掴みあげ、大袈裟に広げて――
 奇術師の姿は、カーテンとガラスの境界で消えた。
 種も仕掛けもあるのかどうか。
 だが、今それを詮索している余裕はない。
 シャノンはひとり、シャットダウンされたコンピュータの黒い画面を横目に、溜息をひとつ。
 そして。
 ゾンビのようにゆらゆらと歩き出している者たちへ思考を切り替えた。
 気配を絶ち、呼吸を整え、一気に距離を詰める。
 死角に滑り込んで当身を食らわせ、後ろから迫る敵に振り向きざまにみぞおちを蹴り上げ、そのまま流れるように周囲の敵を沈めていき。
 背後から首の動脈を締め上げていた男の意識が途切れると、掛けていた腕を解き、だらりと弛緩した最後のひとりを床に落とした。


 消えた奇術師は、非常灯だけがかすかな光を落とす闇色の世界、特別棟最下層に降りたった。
 濃厚な血の匂いが鼻腔を刺激する。
「ここではもう宴は佳境なのかな?」
 惨劇を止めて欲しいとリオネは言った。
 けれど既に止めようがないくらいに病は進行し、この地下に蔓延りつつある。
 あるモノは呟き、あるモノは嘆き、あるモノは虚ろな視線で、重度の疾患を抱えた虚脱感や悲壮感を抱えて襲い掛かってくる。
 どんどんそれを広めていけばいい。壊せばいい。壊れたらいい。けれど、ふと思う。
 彼らに自分はどう映っているのだろうか。
 彼らにとって、自分を殺すという行為にはどういう意味付けがなされるのだろうか。
「……まあ、ひとつ言えることは」
 ヘンリーの口元が歪む。
「あんたたちはもれなくバカバカしいくらいに贅沢だってコトだ」
 胸を掻き毟りたくなるようなむずがゆさともどかしさを軽薄な笑みに隠して、ヘンリーは銃を構えた。
「あんたたちは狂えるだけの設定をたっぷりもらって、そうして絶望に酔っているんだ! 恵まれていることに気付かないほどに恵まれてるなんて羨ましいナァ、まったく!」
 ごつ。
 銃身で殴り飛ばし、怒りを叩きつけて、相手を捻じ伏せた。
 彼等には両親がいる。恋人がいる。幼い頃からの時間がある。戦う理由があり、戦わない理由があり、存在意義が示されて、役割を与えられ、そうなるまでの過程が記憶として刻まれている。
 例えこの世界に愛しいものが誰ひとり実体化していないとしても、例え『設定された』記憶ゆえにこの銀幕市という世界と相容れないのだとしても、ヘンリーにとってはこの上もない贅沢だ。
 どの世界にも一切の『説明』が用意されていない自分の異常さを目の当たりにしなくてもいいのだから。
 ユルセナイ。
 自身の境遇に酔い、勝手に絶望し、勝手に喚き散らし、そうしてこれほどまでに自分を不愉快にさせるものがユルセナイ。
 殺しあえばいい。惨劇が広まればいい。この世界が終わればいい。どうしようもなく歪んだ病で誰も彼もが崩れ落ちて行けばいい。
 ムービースターなど――
「失せろ」
 牙を剥く男に、ためらいもなく、むしろ面倒くさげにヘンリーは引き金を引いた。
 瞬間。
 違和感に眉をひそめる。
 眉間を撃ち抜かれ背中からどさりと倒れこんだ男が、蛍光灯の下、ダクダクと血液を垂れ流し、瞳孔の開いた目が天上を見つめていた。
 息絶えた男がフィルムに戻るまでに、タイムラグが発生。
 ほんの短い時間だ。
 それでも、十分。
「や、この現象にはずいぶんと覚えがあるね」
 声に出して状況を説明し、自分のために笑った。
「……死体にならないムービースターの死、か……」
 自分の指先を見つめる。
「そろそろ発症、かな?」
 くすくすくすくす。
 ひそかに笑い続け、笑いながら冷たい感情が内側に満ちていくのを感じていた。
 例えばソレは、地中の奥深くに沈んでいた漆黒の水がじわじわと溢れ、地表へとしみ出てくるのに似ている。
 頭上で、非常灯がチカチカと弱々しく点滅する。
 それだけでどうしようもなく目が眩んだ。
「早く会いたい……会って僕と話をしよう……アンタは僕に何を与えてくれるんだろうか」
 くつくつと、嗚咽とも笑みともつかない声が洩れる。
 どこもかしこもが痛すぎて、もう、どれが本当の感覚かすら分からなくなっていた――



「おかしいですね」
 スン、と周囲の空気を吸い込んで、訝しげにランドルフは眉をひそめる。
「……どこかでかなり濃厚な血が振りまかれているのに、ヒトの匂いがほとんどしません」
「特別棟の一区画が研究棟として機能としているという話だったから……リオネの予知が実現するならもっと奥なのかもしれないわ」
「……立入禁止区域、ですか……」
 受付嬢がたくしてくれたIDカードを拒む扉はなく、白い塔の一角に設えたガラスケースの研究棟もまたふたりを快く迎え入れる。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「……あの、どうしていつも一緒のパルさんを対策課に?」
 どんな時にも鞄に入れて、いかなる事件の解きもともにしてきた相棒の不在をランドルフは不思議がる。
 明日は言葉に詰まり、自分の感情をどう伝えるべきかを思案する。
 だが。
「……怖かったから、かしら」
「え」
「……怖かったから……あの子を失うかもしれないことが、どうしても怖かったから」
 気遣わしげなランドルフの視線を受けながら、スーツに包まれた腕をかばうように抱いて、それでもできる限り正直に告げた。
 この身にいまだ残る深い傷痕は、そのまま救いが届かなかった幼い日の罪の証である。
 海。
 一瞬の間隙。
 あの子は溺れ、自分は生き残った。
 守れなかった。何も出来なかった。喪失。その傷を抉るかのようにぶつけられる感情と言葉の数々。責められる。今も苛まれる。怖くて、近づけなくなる。
 ソレはもしかすると、これから向かう先で待ち受けている『運命』への予感であるのかもしれない。
「……明日さん……?」
「……大丈夫よ」
「あの」
 不安そうに言い募ろうとしたランドルフの言葉に被さり、薄闇に紛れて、鈍い音が響き渡った。
 俯き加減だった顔を跳ね上げ、明日は彼とともに周囲を険しい表情で伺う。
 惨劇は既に幕を開けているのか。
 それとも?
「急ぎましょう、明日さん! こちらです!」
 彼のあたたかな手が明日の腕を引き、進むべき道へと引っ張っていく。



 コポコポと、試験管の中でいくつもの水泡が生まれては消えていく。
 天井近くと壁の一面に設置された管理用モニター、そこに映し出される光景を時折一瞥し、『闇』が生み出されていく音に耳を傾けながら、彼は、書物を開き、描き出された文字たちを眺める。
 それは、引きずり出した混沌を掻き混ぜ、精製し、高純度の闇の結晶を得るのにも似た作業だ。
「今宵新たに生み出される絶望の名は……decadence…debunk……delimitation……そして……」
「会いたかったよ、愛しのシリアルキラー」
 視界を遮り、もうもうと箱の中いっぱいに立ち込めたドライアイスの煙は、いくつかの光を反射しながら灰色の影へと凝固し、さらにそれは艶然と微笑むひとりの紳士となった。
 彼は突然の訪問者にわずかに驚く素振りをみせ、小さく首を傾げた。
「おや、ローズウッドさん、先ほどEブロックの洗浄室でロッカーに閉じ込められていたのではなかったですか……?」
「どんな密室も、僕の前では屋根のない家も同然だよ」
「なるほど……奇術師と言うよりは、そう、まるで魔術師のようですね」
「僕は奇術師さ。種も仕掛けもないとうそぶき、マガイモノの奇跡を演じる強盗であり、探偵だ」
 ヘンリーは指先で彼のアゴをすくい上げ、そのまま輪郭をそっとなぞりあげる。
「どなたが最初にここへ辿り着くのか、楽しみにしていました」
「一番乗りというのは気分がいいね。他の連中はいま、とても真面目に一区画ずつあんたに近付く努力をしてる」
 だが、その努力によって、彼らは着実にここへ近付いている。
「こういう場合、探偵としては関係者を一堂に集めるか、あるいは真犯人とヒトリで対峙して、完璧なる自分の推理を披露するのがセオリーだからね」
 どちらを選ぶか迷うね、と笑う。
「ああ、その前に。あんたには僕からの感謝のキスと熱い抱擁を受け取ってもらわなくちゃいけない」
 言うなり、両手で頭を掻き抱き、頬や額や目蓋にキスの雨を降らせ、存分に抱きしめた。
「黒幕にはこうしようと決めていたんだ」
 拒絶はない。
 抗う素振りも見せずに、彼はヘンリーの『感謝』を受け止め、微笑する。
「見極めに来たよ……アンタが何をなそうとしているのか、そしてそこにどんな真意があるのか。僕の望むものであるのか、単なる茶番で終わるのか、ね」
 患者リストを見た。事件の経過もすべて辿った。警察に残されているモノ、対策課にのみ届けられていたモノ、知るべきモノだけが握るモノ全てを自分は手にした。
「あんたが、シリアルキラーを作りだすもの、だね?」
「何故そう思われますか?」
「簡単なことさ。履歴を辿る、事件の概要を知る、彼らと彼女たちの診療記録を細部に渡って検証する……そうして浮かび上がるのは、巧妙なマインドコントロールの実態だから」
 ただし、とヘンリーは続ける。
「ただし、シリアルキラーとなるべきものは、誰でもいいわけじゃない。絶望の種を宿し、それが能力として開花する才能をあんたはそこから眺め、選び、そして接触した」
 証拠ならいくらでも挙げられる。
 そう笑いながら、彼の抱く書物に指を這わせた。
 吐息すらも触れあう距離で、探偵は『彼』の罪をゆっくりと検証していく。
「誰だっけ? ヴィランズなら殺してもいいのだと言う、そんなシステムは解体してやると嘆いていたのは」
「Deal……ティッシ・ビート、ですね」
「自分が作られた存在だと気付き、存在の希薄さと曖昧さに嘆いたのは」
「Delete……湊マサユキ」
「理不尽な運命を憎み、朽ち果てる自身の呪いを嘆いたのは」
「Decay……ディアナ」
「幸福を奪われ、居場所を求めながらも全てを否定し、嘆いたのは」
「Deny……マリア、そしてマサキ、リィ、ショウタ、それから彼女と接触し、同調した子供たち全員」
 ヘンリーが彼の抱く書物を愉しげに開いていく。
 彼はそれを止めず、むしろ微笑ましげに眺め、次々と投げ掛けられる問いに答えていった。
 病巣がここにある。
 ここから生まれ、ここで刻まれ、ここから長い経過が記されていく書物。
「……これが元凶?」
「これは因子、あるいは『癌細胞』を作り出すためのキッカケにすぎないでしょう」
「素晴らしい! 実に素晴らしいよ! 絶望の深さが能力を開花させる。平凡な青年が特殊能力者を完膚なきまでに叩きのめすことも、歌姫が理の外にいるはずの不死者を朽ち果てさせることも、重傷を負ったはずの技術屋がいかなる障害もものともせずに全てを切断することも、生命を歪めて粘土細工で遊ぶようにキメラを作り出すことも、全て可能となる、なんてね」
 しかも、もとはたったひとりから派生した病が、感染し、感染者が更に別の能力者を生み出し、連鎖する。
 銀幕市というひとつのカラダに、絶望という名の癌が次々転移していくのだ。
「じゃあ、もうひとつ確認しようかな……そんな病んで狂ったこの街の全てに絶望し、嘆いていたのは?」
 視線が絡みあう。
 彼は微笑む。
「……ドクターD……ということになるのでしょうね」



 迷路のように入り組んだ廊下をいくどとなく折れ曲がり、時折衝撃音や銃声をかすかに遠くに捕らえながらランドルフの嗅覚と聴覚を頼りに駆け抜けて。
 明日は、鋼鉄の扉の前で足を止める。
 直感。
 ここに彼はいる。
 そして、この扉を明けた瞬間から、もうなかったことにはできない『真相』と直面することとなる。
「明日さん……?」
「行きましょう」
 戸惑い気遣うランドルフに頷いて、明日は自らIDカードを認証ホルダーに通した。
 短い電子音。
 重々しくスライドして行く扉。
 途端。
 闇に慣れた視覚を刺激して広がるのは、研究室と呼ぶにふさわしい光景だった。
 用途不明の実験器具や積み上げられた資料に占拠され、謎の文字が連なる背表紙がみっしりと並ぶ書棚の中央に置かれた机、その上でデスクトップのパソコンが二台、淡い光を放っている。
 そして。
 自分たちに背を向け座しているのは、ずっと探し、そしてできるコトならここで見つかって欲しくないと望んでいた相手。
「ドクター……」
「ああ、ここにはもう来てはいけないと言ったはずなのですが……いらしてしまいましたか」
 ほんのりと困惑の色を滲ませて、彼はゆっくりと椅子を回転させ、向き直り、そっと静かに微笑んだ。
「本当に困った方たちですね、流鏑馬さんも、そしてランドルフさんも」
「今日は刑事としてではなく、普通にあなたと話がしたいと思っていたのに……残念だわ」
 明日は構わず部屋に踏み入ると、できる限り無表情につとめながら、すっとリボンが揺れる白い箱を彼の前に差し出した。
「苺のチーズタルト……もしかすると中で崩れているかもしれないけれど、あなたに」
「わざわざそれを選ぶとは……本当にちゃんと調べられたんですね」
 さすが刑事さんだと、小さく笑った。
「あなたはあたしを送り届けてくれた。どういうカタチでかは想像するしかないけど。だから、礼はしなくちゃいけないと思っただけよ」
 だが、これがそもそもの『間違い』だったのかもしれない。
「……こんなモノを用意するから、こういうことになったのかもしれないけれど」
「運命論、もしくは因果律のお話、ですね」
「別にそこまで難しいものじゃないわ」
 難しい話にするつもりも、そこから話を広げていくつもりも明日にはなかった。
 非番だからと、自分はふだんならば絶対にしないことをした。
 彼を知るために、彼の出演するシリーズは全て借りた。山ほどとまでは行かないが、ドラマも合わせればけっこうな話数となる。
 いくつものエピソードは惨劇と悲劇と喜劇とに彩られ、痛烈な皮肉と優しい憐れみと哀しい優しさであふれていた。
 常に憂いを含んでいた彼が、あるシーンでのみ、まるで少女のようにはにかみ、幸せそうに微笑んでいたのだ。
 だから思い立った。彼に間違いなく届くだろう感謝の印とその表現方法の手段を。
「与えられた助言の数々と、差し伸べられた手と、差し出されたやさしさを信じたいと思ったわ」
 他意はないのだと言外に含ませてはいるけれど、無自覚な本心はもっと別の感情を極微量ながら含んでいる。
 気づけたモノがいるとすれば、明日に言葉ごと箱を差し出されたドクターひとり……いや、ソレを見守る男もまた、彼女のかすかな感情の変化を感じ取っていた。
「……明日さん」
 彼女を護らなくてはいけない。
 間違いなく、惨劇と悲劇の中心はここにある。彼を中心に、狂おしいほどの痛みと闇が吹き上げている。
「改めて、事件の話をさせてもらうわ」
 刑事の顔になり、明日はドクターと向きあう。
「ドクター……研究棟にいたということだけど、あなたは一体何の研究をしていたのかしら?」
 ずっと気になっていた。
 ずっと引っ掛かっていた。
 いくつもの言葉を交わす中で、最後に引っ掛かっていた小さな疑問が問いに変わる。
 ドクターはふっと視線をどこか遠くへ逸らし、
「人の内面を変質させる環境因子における自己解体の矛盾と操作方法、と言ったところでよく分からないかもしれませんね」
 そして、微笑んだ。
 だが、そこに無知や無理解を見下す色はない。答えに詰まったとしても、それは生徒の責任ではないというように、優しい教師のカオで言う。
「例えば、そう……この状況であなたが抱く思いをコントロールしているとしたら、それがどう言う意味を持つかお考えになれますか?」
「あたしの思い?」
「あなたはわたしを信頼してくださっているようだ。明白な罪の予感を覚え、不安に苛まれながら、それでもなお、大切にケーキの箱を抱いてここまで来てくださった。その理由と、そこに至るまでの思考過程を考えてみるのです」
 19歳の少女を前にして、精神科医は微笑み、告げる。
 恋愛映画が好きで、蝶のモチーフが好きで、夢見るような世界に惹かれる心を持った少女が流鏑馬明日なのだ。
 意図せず行うこともあるけれど、すべてが計算の上で成り立つ感情の経緯だとすれば、それは果たして純粋な『想い』と呼べるのか。
「わたしの研究は、その先にある……」
 そして、事件は幕を開ける。
「この街は異常です。ただひとつの理で動くはずが、数多の世界が入り乱れることで軸が歪み、想像を超えた病を作り出す」
「ムービーハザードのこと、でしょうか?」
「……たぶん、それだけじゃないわ」
 おずおずと声を発したランドルフに、明日は小さく首を横に振った。
「ドクター……あなたはあたしに、銀幕市そのものが事件の黒幕だと告げた」
「そういえば、銀幕市だからこそ起こりうるのだとも、言っていました」
「ええ、言いましたね」
「彼らの凶行の全てが『銀幕市に実体化してしまったから』という事実に帰着するなら……そして、救われることを望みながら、死の道を突き進むしかなかったのだとしたら……」
 それは明日たちにとっても、そして実体化したスターたちにとっても、途方もない悲劇。
 哀しいという言葉では語りつくせない、悪夢。
 気づいていながら、触れることを怖れた、事実。
「常識や価値観、能力、ありとあらゆる『設定』が、これまで信じてきた『現実』を凌駕するの……ヒトは空想を楽しむことはできるけれど、フィクションの枠からそれ、実際に降りかかる事件には弱い」
 しかも、それはムービースターもエキストラもムービーファンであっても関係ない、ヒトの心に当然起こりうることだ。
「ではその歪みはどのように人の心に作用し、環境を変えていくのでしょう……お分かりになられますか?」
 微笑んでみせたその表情は、いっそ無邪気で、そして禍々しいほどに美しかった。
「犯罪への、慣れ」
「そう。この街の人々はあまりにも慣れ過ぎてしまった……フィルムに戻る存在と、戻らない存在で明確な線引きを行うことで、殺戮に慣れ、命を奪うことにためらいがなくなった」
 憂いに翳る瞳が揺れる。
「……ならば、その感覚のずれを修正し、間隙を埋めるために何を為すべきか。わたしは“わたし”を分析し、病める人々と向き合い、データを収集し、やがてひとつの結論に達したのですよ」
 視線が、明日を正面に捉える。
 哀しいくらいに深く病んだ闇を宿した瞳に、吸い込まれそうになる。
「この研究がうまくいけば、無意識に植え付けられた住民たちの免罪符を剥奪し、そして否応なく常識として刷り込まれてしまったスターたちの救済処置として機能するかもしれません」
 彼の言わんとしていること、何を指し示し、告白しているのかを、突き刺すような痛みとともに明日は理解してしまう。
「あなたはフィルムに戻らなければ、罪はなかったことにならない……すべてが現実として受け入れられると考えた……ソレがあなたの研究?」
「あるいは、これがわたしの罪、と呼べるかもしれませんね」
 ことりと受け取った白い箱を机に置いて、彼はゆっくりと席を立ち、互いの距離を測るかのように、あるいは教師が時折教壇で見せるように、ゆっくりと明日とランドルフの間を歩く。
 彫刻のようにキレイな男は、子守唄のようにやわらかな音を紡いで、優しい言葉で説明をしようと試みている。
 ふたりの会話を聞きながら、なぜか意識が遠退いていくのを、ランドルフは感じていた。
 眠気とも違う、重い痛みが頭を覆っている。
 やはり、明日をそこに立たせていてはいけない。彼と対峙させてはいけない。彼に触れることで、彼女の心もまた侵されていくから。
 そう思うのに、一歩が踏み出せずにいる。
 斧を振り上げ、消滅の恐怖ゆえに慟哭をあげて襲い掛かったきた青年の、哀しい『心臓』をこの腕は貫いた。
 砕かれたささやかな幸福と、背負わされた悲劇とともに朽ちていくことを嘆いた女性の、死の選択をこの腕は阻止できなかった。
 世界の歪みに嵌り込み、存在意義を見失って哄笑を繰り返していた男の、下された死の制裁を眼前にしながらこの腕は護れなかった。
 何ができたのだろうか。何をしてきたのだろうか。守りたい、救いたい、わずかでも助けになりたいと願い続けていただけなのに、自分はどこで間違えてしまったのだろうか。
 勝てなかった自分。
 届かなかった自分。
 だが何よりも、自分は既に実体化する以前に大罪を犯している。
 ヒトを、喰ったという……そして、いずれは目の前にいる彼女をも喰らうかもしれないという業を背負っているのだ。
 一度でも血に染まってしまったら、ソレをすすぐことは永久に許されないのだろうか。
 ……「だろうか」、などという優しい疑問形を使うべきではない。
 許されるはずがないのだ。
 映画の中で自分は何をした。銀幕市の住民にとってソレは映画の出来事かもしれないが、その映画から出てきた自分にとってアレはまごうかたなき現実の罪だ。
「……ドクター」
 ランドルフはゆっくりと拳を握る。
 他者の血にまみれた己の手が許せなかった。
 罪深いこの身体が憎くて、悲しくて、辛くて、苦しくて、しかたなかった。
 自問自答のサイクルは、このまま病んだ色を孕みながら際限なく繰り返されそうだった。
 しかし。
「ご高説ご苦労だったな。だが、所詮貴様はヒトリで死ぬのが怖いだけの臆病モノだ」
 あらゆる惑いも揺らぎも叩き切るように、冷徹な視線と言葉が全てを遮断した。
 金属の扉が再び開かれ。
 そして、告発者ではなく、断罪者がやってくる。
「シャノンさん」
「シャノン……」
「どんな繰言だろうと、罪は罪」
 彼からは無数の血のニオイが立ちこめている。それは頼もしくもあり、同時に哀しくもある。
 明日と共にここへきた自分の手はまだキレイなままなのに、別れた彼の身体は十分すぎるほどに血にまみれていた。
 だがそれすら厭わず、彼はつかつかと歩みよってくる。
「俺は、俺の本分を忘れてはいない。例えどのような非難を受けようと、どのような罵りに晒されようと、取り除くことが救いとなるならそうするまでだ」
 彼はゆっくりと銃口を持ち上げる。
「……説得で変わるような相手ではない……まあ、こうして命を奪う選択を繰り返し、それ以外の方法を思いつかない俺も、十分にバケモノなんだがな」
 殺すべきなのだ。
 そして、自分も終わらなければならない。
 自分のようなものが存在しているというただソレだけで、いくつもの罪が生まれ、その罪が新たな罪を呼び、どこまでも果てしなく連鎖するのだ。
 シャノンの照準は、彼の額を正確に捉えている。
 彼は獲物を外さない。
「……選択肢はひとつじゃないわ、シャノン……ひとつに絞るべきじゃない……」
 思わず、ランドルフは明日を見た。
 シャノンの前に、銃口とドクターの間に、彼女は両手を広げて立ち塞がる。
 凛と立つ刑事としての彼女の姿を見、彼と対峙し、言葉を選びながら言葉によって戦う彼女の存在を感じる。
「ひとつしか選びようがないだけだ、流鏑馬」
「……ヴォルムスさんはお気づきになられているようですね」
「それでも、やめて」
 平行線の会話。
 それでも真摯に訴える彼女の姿が胸にきて。
「……他人の心の闇を覗くモノは、自らの闇をも覗きこみ、時には呑まれることさえあるといいます……ドクター、貴方もそうなのですか?」
 ランドルフはようやく、伝えたかった言葉を思い出す。
「私は、あなたとともに生きたい。あなたと色々な話がしてみたい。あなたが抱え込んだ痛みを分かち合いたい。あなたの絶望を癒し、この世界は素晴らしいものだというのをともに確かめたいんです、ドクター!」
 それが辿り着いた答え、自分が自分であることの証にして、この街に実体化してからずっと胸の中心にある信念だ。
 ゆっくりとドクターの元へ向かう、彼を背にして、明日の隣に立つ。
「どんなに辛い思いも、苦しい思いも、悲しい思いも私が一緒に背負います。お願いします、貴方だけでも救わせて下さい……救わせて、下さい……」
 お願いします、と繰り返すのに、ドクターはそれを聞き届けない。
「ヴォルムスさん……殺すことが救いとなる世界にいたあなたの選択を、誰が非難できるでしょう」
 優しい瞳、優しい声音、透き通るほどに淡い春の陽の幻影のようなあたたかさに、泣きたくなる。
「私を殺すことは、罪ではないのですよ。私に心を委ねることもまた罪ではない。バケモノだなどと、自分を貶める必要はないのです」
「ドクター、やめて……あなた自身が罪の境界を違えないで、罪を犯させないで」
「ドクター、それ以上誰かを、そしてご自分を追い詰めるのはやめてください! 贖罪の方法は死以外の場所にだってあるはずなんです!」
「トラウトさん……あなたの、銀幕市を、憐れな被害者を、病んだ者たちを、そしてわたしを救いたいという言葉を信じましょう」
 通じたのかと、一瞬安堵の笑みを浮かべかけたランドルフの表情を、再び彼は凍りつかせる。
 けれど、という接続詞を口にして。
「わたしはわたしの絶望から這い上がるつもりはありません。そして、自身の手で終わらせるつもりもありません。止めるものがいないなら、どこまでもどこまでも、まるで癌細胞のようにわたしの病は肥大し続けるでしょう」
 そして。
「そしてわたしが死なない限り、ひとり、またひとりと感染者は増えて行く。この銀幕市で絶望に打ちひしがれた者たちが殺戮の輪に加わるのです」
「……あなたがいる限り……病は消えない……? あなた自身が研究を進めることで、その病を押し留めることができるかもしれないという可能性を否定するの?」
「ええ、そうですよ、流鏑馬さん。なぜなら、わたしの存在そのものが病だから。解明すべき存在ではもうないのです」
 嘘をつかないとかつて約束してくれた彼は、だから残酷なほど正直に明日へと頷き、明言する。
 いま目の前にいる『ドクターD』は病の根源にあるもの。癌と捉えるなら、原発巣とでも呼ぶべきだろうか。取り除かない限り、病は進行するのだと理解してしまえる自分がいやだ。
 けれど逆に言えば、取り除きさえすれば完治の確率は格段に上がる。
 だから、彼は選択肢を差し出す。
 この場所まで辿り着いてしまった訪問者に、残酷な言葉で迫りながら、教え諭すのだ。
「ヴォルムスさん、神はなんと囁いていますか?」
「貴様を殺せと」
 皮肉めいた微笑の奥で、揺れる感情は複雑な哀切を刻む。
 けれどシャノンが絶望に染まりきることはない。ただひとりの、たったひとりの彼女の為に存在しているという揺るぎのない真理があるから。
 全てを見透かすように、ドクターは囁く。
「ならば、その声に従いましょうか」
 一瞬の静寂。
 緊張。
「あなたが為そうとしていることは、罪ではありません」
 そこへ差し込まれるのは、優しい声と、そしてガラスの向こう側に浮かぶふたつの人影。
 ランドルフの、シャノンの、明日の視線を集め、インディゴブルーの空を映しただけの窓がスライドし、姿を現したのは――
「流鏑馬さん……“わたし”は言ったはずですよ? 日常が日常であるうちにお逃げなさいと……」
「ドクター?」
 どうして。
 見開かれた明日の目に映るのは、今この瞬間も救おうと言葉を尽くしている男と寸分違わぬモノだ。
 ただひとつ違うのは、その手に1冊の書物が抱かれていること、そして、傍らには自分立ちの代わりにヘンリーが佇んでいること、だろうか。
「楽しいひとときを堪能させてもらったよ。素晴らしいショーだった。レディ、あなたの推理はとても興味深い」
 人懐こい笑みで、拍手の真似事までして見せる。
「……誰?」
「ミスターヴァンパイアに続き、またしても同じ質問を受けてしまったかな」
「ヘンリーさん? なぜ貴方が」
「やあ、ミスター食人鬼クン、この間はどうも。またこうして会えるなんて光栄だ。いや、なに、ちょっとした確認をしていたところなんだよ」
 僕が見たい景色が見られるかどうか、ね。
 そう謎めいた笑みを浮かべた彼に、戸惑いを隠せない。
「それでは続きと行きましょうか」
 すっと、ドクターの声が通る。
「そう、続きを……」
「わたしはわたしの闇を覗きこみ、分析を始めた」
「わたしはわたしの狂気とともに『病』の淵に立つ」
「それゆえに見つけてしまった病理。心を殺し、破滅させ、容赦のない狂気に駆り立てるもの。わたしに科せられ、わたしを蝕む病の名は」
 ドクターが、己の書持つの一節をなぞる。
「Despair……」
「……絶望、です」
 ふたりの医師は、己の罪業を明かすように言葉を繋ぐ。ひとりは自らの手を見つめ、もうひとりは己の抱く書物をなぞって。
「トラウトさん、流鏑馬さん、あなた達はわたしを救いたいという。この病を癒したいという」
「けれど、もし救われることを望むなら、『感染者』は死ななくてはいけない。どのような手段を講じようとも、死ぬ定めを持ち、それゆえに一瞬の能力を手に入れるのだから」
「感染者たちの結末は、もう十分に目の当たりになさって来たでしょう」
 これは違えることのない絶対規律なのだと医者は言う。
 だから、選択肢はひとつだと、彼らはこの場にいる人々に等しく絶望を囁きながら告げるのだ。
「死に至る病とは絶望である、とは、よく言ったものだな」
「ソレを唱えたのは、教会の庭、あるいは墓地と訳されるラストネームを持つ男だったね」
 シャノンの溜息に、ヘンリーが愉しげに言葉を挟む。
「あんたが大嫌いな存在だ」
「貴様にとってはそうでもなさそうだな」
「あいにくそういう『詳細設定』ってヤツの持ち合わせはないからね」
 鼻で笑いながら、それでも彼の瞳が大きく歪みを映す。
「さて、そろそろ終わりにしましょうか……そうしている内にも、あなたたちはどんどん“わたし”に心を蝕まれて行きます」
「ヒトの心は脆い……それゆえに、銀幕市が最終的に辿り着く場所は容易に想像出来ますが……」
 ゆるやかに笑みを浮かべて、彼は、いや、彼らは言う。
「ヒトは絶望に対峙した時、死を想い、他者を巻き込みながら急速に生と死の境界である夢へ逃避する」
 寸分違わぬ、文字通りの『もうひとりの自分』と向き合って、鏡面のごとき彼らはひそやかに笑みを浮かべあう。
 片方は翳りを帯びながら、片方は嘲りを含ませながら、誰も入りこむことのできない完全なる同調を見せつけるのだ。
 ふと、ヘンリーは目を眇めた。
「ドクター、アンタが見たい世界は、僕の見たいものとは違うんだね」
「ええ……あなたが見たい景色はあなたにしか作れないと、以前にも“わたし”は言いました」
「ふうん?」
 ヘンリーの瞳が、急速に凍えていく。
「シャノンさん、ヘンリーさん、やめましょう! ドクター、わたしはあなたを死なせたくありせん、救います、絶対に救わなくてはいけないんです! 病のルールとか関係ないじゃないですか、やってみなくちゃ分からないじゃないですか!」
 目の前で失う怖さを、彼女は知っている。
 彼女が受ける哀しみの深さと大きさを想像するだけで胸が張り裂けそうになる。
 だからランドルフは、標的たらんする精神科医を腕の中に彼を抱く。
 シャノンの弾から護るように。
 全てから護るように。
 華奢な彼の身体はすっぽりと腕の中に収まってしまう。
 だが。
「あ」
 銃声と同時に。
 ゆっくりと、力を失い、崩れ落ちていく。
 抱きとめた腕の中、白衣に包まれた華奢な体が瞬く間に真紅へと染まり。
 ヒトとしての重みがずしりと圧し掛かり。
 息を詰めて見つめる明日とランドルフの前で。
 彼は。
 ひとつの冷たい『物体』へと不可逆的に変わっていく。
「――っ!」
 声にならない悲鳴。
 何故と問う余裕すらなかった。

「貴様――」
 冷えたままの銃身からシャノンが視線を上げる。
「……ヘンリー……あなた……!」
 すり抜けた。壁となり盾となっていたランドルフの身体を、そしてとっさに立ちはだかった明日の身体すらも空気のように擦り抜けて、ヘンリーの弾丸がドクターの心臓を貫いたのだ。
 起こるはずのない現象。物理法則を無視した出来事。そんな『設定』などないはずの彼が。
「僕にどういう『名』が刻まれているのかは分からない……でもおそらく、感染しているんだろうな……楽しいね、たまらない」
 自らの手を見つめ、笑みを深める。
 愛憎の対象、忌まわしき同胞たちの死をこの手で叶えたいという願望の結末がそこにあった。
「これが僕の見たかった景色のひとつ……そう言うことでいいかな、ドクター?」
 にこやかに、彼はもうひとりの相手を振り返る。
 ランドルフは呆然としたまま、彼に取り縋る明日と、そして腕の中で失われていく命を見つめていた。
「どうして……どうしてこういう結末ばかり」
「ああ……流鏑馬さん……もし神がいるとすれば、この醜悪にして極上の悪夢が踊る銀幕市で、再び“わたし”とあいまみえるかも……しれません……」
 呟きは、まるで遺言だ。
「わたしたちがこうして同じ場所に同じように立ってしまったように」
 書物を手にした彼が、肩を竦めて補足する。
「覚えておくといいでしょう。ムービースターとは『そういう存在』です。映画から実体化するけれど、映画から抜け出たわけではない。唯一無二の存在足りえない、うたかたの夢の残像」
 だからこそ、都合のよい免罪符、自己防衛機能のひとつとして存在することを許されているのかもしれない。
「それでも、触れて伝わる距離と温度は、現実のものだわ……」
 明日はただひとり、ムービーファンとして、告げる言葉を選ぶ。
 考えないようにしていた。
 怖いから。
 けれど、優しかったあの人のために、声に出し、伝えておかなくてはいけない。
「……願わくば……あなたからのケーキを受け取れるわたしとの……幸福な、再会を……」
 尽きかけた息の下で、彼が微笑む。
「違う……あたしの考えを聞いてくれた、あたしを家まで送り届けてくれた、あたしが苺のチーズタルトをお礼として渡したいと思った人は……ただひとりよ」
 代わりなんていない。
 記憶を重ねてきた相手は、例え同じ姿形をしていたとしても、まったくのベツモノだ。明日にとっての『ドクターD』はたったひとりなのだ。
 だから。
「だから……」
 けれど最後の言葉は声にならずにくぐもり、途切れた。
「ありがとうございます……では、ここまで頑張ってくださった流鏑馬さんに、ご褒美を……」
 血にまみれた手が、明日の頬をそっと撫で、
「トラウトさん、あなたの想いはわたし以上にわたしの患者たちの救いとなっていたのかもしれません……だから、これはそのお礼、です」
「え」
 一瞬の空白。
 そして、銃声。
 ランドルフにもたれながら、血にまみれた細い手はまっすぐに標的を撃ち抜いていた。
「……そう、きまし、たか……」
 大量の血を吐きながら、崩れ落ちたのは、もうひとりのドクターDで。
「……では……わたしたちの研究は、これで、おしまい……ですね…………」

 からん。

 次の瞬間、全員の視線を釘付けにしながら、硬質な床にふたつのフィルムが転がり落ちる。
 予感はしていたはずなのに、覚悟はしていなかった。
 だから洩れる、恐怖にも似た呟き。
 一方は鮮赤に彩られ、表面に抉れ腐食した『Despair』の文字を刻みながらも手の中に残り。
「黒い、フィルム……凶星……」
 もう一方は、あからさまに病の浸食を現す姿をしばし晒して、塵となって消えた。
 跡形もなく。
 数多の人々の悲劇を引き連れて、絶望の名を冠したモノは白い箱庭世界から完全に消滅してしまった。
 もう、どこにもいない。
 どこにも存在していない。
「……変則的な自殺による終焉、かくして惨劇の幕が閉じられた、と」
 誰よりも先に自分を取り戻したのは、皮肉な笑みが張りつけ揶揄するヘンリーだった。
 この場でただひとり、もう病の元凶が何かを知る彼だけが、男の選択に呆れた笑いを浮かべることができる。
 彼は持ち主を失って落ちた書を拾い上げ、明日に放ってよこした。
「これはあんた達への贈り物だ」
「え」
「彼を殺すことは彼を救うこと、でも惨劇を終わらせるにはもうひとりの彼も殺さなくてはいけない、でもソレはつまりこれまでの研究を無に返すことになり、研究者たる彼にそれは選べないはずだったのにね」
 しかし、彼は選んだ。土壇場で、この街の変革を心から望みながら、この街の病巣を抉り作ることよりも、彼女たちのために隠しもっていた銃で全てを終わらせた。
「気づいていなかったんだろう? それこそが病の元凶、キッカケ。開いてみれば分かるだろうけど、ソレが彼らの研究の『結晶』さ」
 シャノンへと視線を向け、
「……僕の望む景色をドクターは見せてくれなかった……あんたは、あんたの見たいものが見れたかい?」
 誰かがそれに反応するより先に、彼の呟きは歪な笑みとシルクハットの影に隠れて、誰かの耳に届くより先に、彼の存在ごと闇に掻き消えた。
 それとタイミングを合わせたかのように、明日の携帯電話が対策課からの着信を告げた。
 泣くのではないかと思わせた彼女は、気丈にも刑事の顔で、すみやかに、かつ的確に事態の終結を報告する。
 いくつかの質問に頷き、短い言葉を返し。
 電話を切ることには、市長権限で対策課から派遣された『事後処理』の面々がここに到着し、何事もなかった状態にまでここを復旧してくれることまで決まっていた。
 その報告を受けると、
「後はお前たちに任せる……」
 シャノンはそう言って踵を返した。
「ああ、そうだ……貴様との約束、とりあえずは破棄させてもらうからな」
「……はい」
 背を向けたシャノンは、自らの胸に下がる十字架にそっと触れ、祈りを捧げる。
 そして。
 奇術師と同じように、彼もまた非常灯が瞬く薄闇の世界に溶けて消えた。
 あとにはただ、長いような短いような不思議な時間を共有し、ともに事件を追いかけたふたりだけが残される。
 疲労感を漂わせた沈黙を護りながら、彼女たちはゆっくりと地上に向かって歩きはじめた。
 階段を昇り、動かされることを待っていたエレベーターを操作し、涼やかな風は吹いて来るだろう場所を目指して進み続ける。
「そういえば……シャノンと約束をしていたの、ドルフ?」
 ふと。
 思い出したように明日が首を傾げた。
「ええ、ひとつだけ。ですが、もう必要はありません」
 明日を見、安心させるように優しく微笑む。
 そう、必要はないはずだ。
 自分に何かがあれば、そう、例えば彼女すらも識別できないほどに暴走し、凶悪な存在と成り下がってしまったら、その時は、自分を――などという約束は、破棄するべきなのだ。
「……わたしは強くありたいですから。明日さんのように」
「……」
 照れているのか、戸惑っているのか、明日は俯く。
「………そうだわ、返しておくわね、これ……大切なものなんでしょう?」
「はい」
 ネックレスに通された『指輪』が、渡された時と同じように華奢な光を反射して、無骨なランドルフの手の中に帰ってきた。
 それからも、言葉すくなに、いくつかの短い会話をかわしながら。
 深夜に向けてより静寂を増していく病院内からカードを使って扉を開いていき。
 そうして辿り着いたのは、計算され尽くした角度によって、天井から、あるいは天上から白く優しい陽射しが差し込んでいた癒しのラウンジだった。
 昼の間は賑やかで光溢れる庭も、今はただ月の光だけが降り注ぐ沈黙の場所。
 不思議と、ふたりとも、なんの疑問も撃ち合わせもなく、ここを目指していた。
 『想い出』と呼んでいいのかは分からないけれど、確かにそこで、自分たちは彼との時間を過ごした。
 明日はランドルフに見守られながら、しばらくの間沈黙に身を委ねていたが。
「……燃やしましょうか……」
 意を決し、明日はドクターが抱いていた書物をそっと地に置いた。
「……これで、全て終わり、でしょうか……」
 ランドルフが懐からマッチを取り出す。
 彼は明日とマッチを分け合い、それぞれが火を灯し、投下する。
 オレンジの奇跡が夜を切り。
 『D』の文字が並ぶ、絶望のウィルスを生み出す存在が、ふたりの炎によって鮮やかな光を放つ。
 なにもかもが灰に還るだろう。
 それで何が変わるかは分からないけれど、そうしなくては何も終わらないような気がしたから。
 やがて炎も小さく小さく揺らめき、静まっていき、それによって闇がまた深くなっていく。
 かくして、『死に至る病』は深く暗い地の底で眠りについた。
 いくつもの絶望と痛みと哀しみと傷を抱いて、炎の中でそれぞれに踊り、そして一瞬のきらめきを残して――

「あ、明日さん……流れ星ですよ、ほらまた」
「……プラネタリウムみたいね……」
 目を逸らすつもりで見上げた空に広がる、満点の星空。
 思いがけずめぐりあった流星群の美しい軌跡を、ふたりは様々な想いを胸に眺め続けた。



END

クリエイターコメント この度は、シリアルキラー連作【死に至る病】完結編にご参加くださり、まことに有難うございます。
 黒くダークにシリアスに…と呪文を唱えつつ、書き込めるだけ書き込んでいった今シリーズの着地点、いかがでしたでしょうか?
 4ヶ月お付き合いいただいた分、そしてお待たせした分も含めて、少しでも心に残るものとなっていれば幸いです。


>シャノン・ヴォルムス様
 第4弾から引き続いてのご参加有難うございました。
 仕事に関しては冷徹なまでの自己抑制をなさりつつ、その内面には様々な思いを抱えているのだというのをしみじみと感じた次第です。
 行動原理や他の方とのやり取りなどから、実は一番辛い役回りとなってしまったかもしれません。
 しかも過去の傷を抉られる結果となっておりますが、胸に抱いた決意と役割の享受における感覚をうまく表現できておりますでしょうか?
 個人的にはじんわりと優しい一面が垣間見えるプレイングがツボでございました。

>流鏑馬明日様
 シリーズ4度目のご参加、有難うございました!
 どちらかが欠席の時はどちらかがソレを補うことで、ドルフ様とおふたりでのシリーズコンプとなりますでしょうか。
 毎回核心を突く鋭い問いに唸りつつ、厳しく凛々しく強い探偵役としてここまで関わっていただけて本当に嬉しかったです。
 ちなみに、今回は『最後だから』ということでいただいたプレイングをもとに、ひそかに乙女で少女な一面を行間いっぱいに漂わせてしまいました。
 深読みしすぎかもとドキドキしているのですが、ほんのり笑って許していただければと思います。

>ランドルフ・トラウト様
 シリーズ4度目のご参加、そして、第1弾からずっと明日様とともにお付き合いくださり有難うございました。
 背負われているエピソードが切なく、『指輪』や『約束』に込められた悲痛な想いに胸を打たれ、相手に向ける言葉の優しさに泣けてきてしまいました。
 スタンスが常に明確で、それゆえ毎回身体を張って、精神を削って挑んでいただいた惨劇の終幕を、せめて少しでも優しいカタチで向かえることが出来ていればと思います。
 ドルフ様がいてくださるからこそ、今回のラストシーンが予定していたよりもずっとやわらかい着地となったコトをお伝えしておきたいと思います。

>ヘンリー・ローズウッド様
 第3弾から2度目のご参加有難うございました。
 激情を抱き、なおかつ独特のスタンスをお持ちのヘンリー様には、ちょっと変わった趣向をご用意させて頂きました。
 精神科医に『逆カウンセリング』、という面白いアプローチが大変ツボでございました。
 強盗紳士というよりは奇術師的探偵として、内に抱えた矛盾ともども表現できていればと思います。
 ちなみに。
 今回の件で罹患した『病』ですが、何故かヘンリー様はご自分が治癒するコトは望まれないのかもしれないとひそかに考えてしまったのですが、この解釈はアリでしょうか?


 さて。
 これにて死に至る病が引き起こした惨劇は幕を閉じますが、『事件』は様々なカタチを取って、不意に姿を現します。
 いずれまた銀幕市のどこかで皆様と再会できますことを、心より願っております。
公開日時2007-06-22(金) 22:30
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