★ 【崩壊狂詩曲】Red delusion ★
<オープニング>

 その場所は、そのコンサート会場は、今まさに、ひとりの男の歌声に支配されていた。
 揺らめくような、たゆたうような、包みこむような、キレイな歌。
 その歌に身を委ねながら、制服姿の少女はゆらりと立ち上がる。
「始末、しなくちゃ……」
 彼女の手から1冊の【本】が滑り落ち、代わりに彼女の手の中に1本のナイフがしっかりと握られた。
 ゆらりゆらり、何かに操られるように、陶酔する観客たちの間をすりぬけて。
「始末しなくちゃ、殺される前に始末しなくちゃ」
 人と人の間に見える、金の髪の女にそっと背後から近づいて。
「あたしを殺さないで……」
 ナイフを、振り上げた。
「殺さないで殺さないで殺さないで――っ!」
 鮮やかに澄んだガラスを思わせる美しい夕闇色の空の元、彼女は自らの手で己の【不安】に刃を突き立てた。

 瞬間。
 ステージに設置されていた巨大モニターが、観客席を映す。
 悲鳴が血飛沫とともに巻き上がった。

 泣きながら、もがくように足掻くように、少女は女を切り裂いていく。
 何度も何度も何度も何度も。
「死にたくない、死にたくない、ねえ、殺さないで、お願い、消えて消えて消えて、お願いだから、消えてなくなって――っ!」
 レディMにとてもよく似た華やかでキレイな女がひとり、人々の目の前で驚くべき赤に染められ、こと切れ、フィルムに変わった。
 少女は慟哭する。
 ソレは悲鳴。ソレは願い。ソレは不安、ソレは望み、ソレは罪への怯え。
 少女の感情は恐るべき速度で連鎖する。
 呼応する、共鳴する、伝播して、混乱は更なる混乱を呼び込む。
 あらゆるものが壊れ。
 何かが終わり。
 駆けつけた警備員とスタッフによって、惨劇の『舞台』から少女が退場したあとも、血の余韻は消えずに残る。
 少女は捕らわれた。
 けれどソレは、第二幕の華々しい開演に切り替わるまでのささやかな暗転であり、そして幕間に他ならない。



「ドクター、すみません」
 銀幕市立中央病院研究棟、通称〈ガラスの箱庭〉と呼ばれる場所で外来診療を終えたドクターDを迎えたのは、焦燥と不安と戸惑いを露にした研究スタッフと、そして同僚の精神科医だった。
「コンサート会場での事件はすでに?」
「ええ、先程ご連絡を頂きました。精神的に危ういということで間もなくこちらへいらっしゃるとお聞きしましたが」
「ソレがちょっと……、いやかなり面倒なことになってしまいまして……」
 言い淀む精神科医に代わり、スタッフが口を添える。
「護送途中で、“彼女”が脱走しました。……それだけでも問題山積みですが、更に不味いことになってます」
「どう言えばいいのか分かりませんが、実は護送するスタッフ側に彼女に味方するものがいたようでして」
「院内でも、彼女の言動を聞いた方たちから様々な訴えが聞くかれるようになっているんです」
「コンサート会場での混乱も続いていますし、街中で不穏な動きも見られていますし」
 次々に語られていく状況に、ドクターはかすかに首を傾げた。
「……彼女は、特殊能力を有しない一般市民(エキストラ)であると聞いていましたが?」
「はい、それは間違いありません」
「……わかりました。少々気になることもあります。早急にこちらでも手を打つべきでしょう」
 ドクターはそう言って、スタッフルームの電話に手を伸ばした。
 掛けるべき場所は、決まっている。
 そうしながら、ドクターDは思考を巡らせる。
 彼女を駆り立てるもの、それは果たしてどこからきているのか。
 彼女に味方するもの、ソレは果たして本当に自身の意思によるものなのか。
 異様にして異常な速度で、感化されていくものたちを鑑みると、何らかの力の介在があると考えて間違いはなさそうだが、しかしそれは――
「ところで先生」
 ドクターが通話を終えた時、研究員のひとりがおずおずと声を掛けてきた。
「はい?」
「……先生は、殺したりしませんよね? 先生は……我々を裏切ったり、しないですよね?」
 揺れる、揺らぐ、彼の瞳に不安と怯えと戸惑いの色がほんのわずかだが揺れている。
 ドクターDはそんな彼を穏やかな深海色の瞳で見つめ、そして静かに微笑んだ。
「あなたが望んでくれる限り、わたしは力になると約束しましょう」



 アナタはあたしの世界を侵す人。
 アナタはあたしの大切な人をいつか殺す人。
 今はまだ、友好的なふりをしているだけの、危険な存在。

 あなたはあの人を殺した。
 あなたはあたしを殺した。
 あなたは、あなたは、あなたはいつかあたしからすべてを奪い去るから!

 あなたを、あんたを、おまえを、ムービースターを、殺さなくちゃ、
 自分の身を、自分の居場所を、自分の大切な物を、守るために――――

種別名シナリオ 管理番号761
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメントこの度、犬井ハクWR、神無月まりばなWR両名の胸をがっつりとお借りまして、三名によるコラボ企画とあいなりました。
当シナリオでは、コンサート会場でムービースター殺害事件を起こし、今現在逃走中の少女を確保することがメイン依頼となります。
何故彼女は犯行に及んだのか。
いかにして彼女を捉えるのか。
原因を求め、動機を探り、居場所を突き止め、暴走を止めてください。
そのための手段は問いませんし、もちろんその他のアプローチもアリでございます。
ただし、参加PC様によっては彼女の毒に当てられるかもしれません、あるいは攻撃の対象となるかもしれませんので十分にご注意くださいませ。
また、逃走中の少女自身はごく普通の特殊能力を持たない一般市民ではありますが、彼女に共鳴する方も多いことをお伝えしておきます。

*お願いとご注意点*
今回の三シナリオはすべて、同時系列による事件でございます。
同一PC様による複数参加はご遠慮ください。
また、募集期間も短めの4日間となっておりますので、お気をつけ下さいませ。

それでは皆様のご参加を、中央病院研究棟にてお待ちしております。

参加者
赤城 竜(ceuv3870) ムービーファン 男 50歳 スーツアクター
ヘンリー・ローズウッド(cxce4020) ムービースター 男 26歳 紳士強盗
エドガー・ウォレス(crww6933) ムービースター 男 47歳 DP警官
朝霞 須美(cnaf4048) ムービーファン 女 17歳 学生
ルーファス・シュミット(csse6727) ムービースター 男 27歳 考古学博士
ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
<ノベル>

 ブラックウッドは見ていた。
 ひとりの男が生み出す人々の魂を揺さぶる《音》の波紋の中で、歓喜と懺悔と許しへの涙がこぼれるその群衆の中で、ひとりの少女がゆらりと立ち上がる姿を。
 悲愴と悲観をまとった彼女を、ブラックウッドは遠目ではあったけれど、確かに見ていた。
 いま、《少女》を追いかけながら、いま逃走する彼女に引き摺られるようにしてパニックに陥っていく人々を目の当たりにしながら、ブラックウッドはかすかに悔いる。
「止めることもできたかもしれないのだがねぇ」
 自分ならば、手を伸ばせば、あるいは届いたかもしれない。
 しかし、それはなされなかった。
 そして、少女は壊れた。
 ブラックウッドの目の前で、慟哭とともに崩れ、壊れてしまったのだ。
 人の波。
 人の悲鳴。
 人々の、悲劇。
 せめて彼女が病院へと辿り着き、安寧な心を取り戻すまで見守ろうとしたのは、自身がなしえなかった救済への悔恨によるモノなのか。
 そしていま、ブラックウッドは夜闇に舞う漆黒の鳥となって混乱を俯瞰する。
 自身の影を別の場所へと放ちながら、自身は逃げ続ける少女を追いかけ続ける。
 耳を澄ませば、彼女の声が聞こえるだろう。
 目を凝らせば、彼女の怯えた表情が見えるだろう。
 街が赤い色に染まっていく。
 パトカーのサイレンが、夕闇に染まる町の騒動を赤い色で切り取っていく。 
 少女は逃げる。
 逃げる、逃げる、どこまでもどこまでも逃げて、逃げて、悲鳴をあげ続ける。
 人々は同調する。
 逃げる、逃げる、どこまでもどこまでも逃げる少女を見かけ、少女の逃避を助けながら、自らも悲鳴をあげ続ける。

 少女の悲鳴が、赤い光と群衆の声とサイレンの音の中にまぎれ、掻き消されていく。



 ――ムービースターはいつか、あたしの大切な人を殺してしまう。



「《不安》とは、はっきりとした原因や動機がなくても起こる漠然とした心理状態を言います。情緒的に混乱した状態であり、いわゆる外的な対象がはっきりした “恐怖”とは区別される心理状態ですね」
 ドクターDは、『生徒』たちへの問いに答えるように、精神科領域における簡単な講義を添えた。
「人の心はとても複雑に入り組んでいます。複雑であればあるほど、至る所に影は落ちるでしょう。ですがソレはけして悪いことではないのだと思いますよ?」
 ここは、銀幕市立中央病院研究棟、スタッフルーム。
 通称〈ガラスの箱庭〉と呼ばれるその場所には、ありとあらゆる『罪の記録』が収められている。
 夢を見続ける銀幕市が抱えた《罪》と《罰》がファイルされた資料とを前にして、そこにいま、赤城竜、エドガー・ウォレス、朝霞須美の3名の訪問者を迎えていた。
 逃走するひとりの少女を救うために、彼らはここに来た。
「なんでこんなことになっちまってるのかは分からんが、なんとかしてやりてぇんだよな、俺は」
 赤城竜はそういってドクターを見た。
「どうもな、友人の様子もおかしいんだ。あいつの所に届いていた【赤い本】が原因だってのは分かってる」
 本は届けられた。いまも、どこかで誰かの元に届けられているはずだ。
 至るところ、あらゆる者たちのもとへ。
 それによって引き起こされた弊害を、赤城はドクターに相談したかった。相談するつもりでここに来て、そして今回の件を知った。
「コンサート会場で事件起こした嬢ちゃん、ああっと井上ユカリだったな、その子も【本】読んで混乱しちまったんじゃねえかと思うんだよな。どうだ、ドクター?」
「そうですね。これまで報告されているパターンから考えますと、可能性としては高いかもしれません」
「俺もこの事件には【本】が関係していると思うね。パターンから考えて、この銀幕市にばら撒かれている【赤い本】そのものが特殊なチカラを持っているだとしたら、普通の少女が周囲に影響を及ぼすという事態も不思議はないだろうからね」
 エドガーが事件を知ったのは、偶然の力もあっただろうか。
 自身の内なる存在と対峙せざるを得ない状況である彼は、定期的にドクターDの診察を受けている。
 主治医の元を訪れて知った少女の逃走に心動かされたのは、ただの好奇心からではない。
「俺の元にも【本】は届いているんだ。差出人不明の書物が大量に出回っているということは媒介にしている可能性も高いだろう。なにより、賢い悪役とは自ら手を下さず高みの見物をするものだからね」
「でも……街中にばら撒かれているとしたら、もっと多くの人が類似の事件を起こしていても不思議はないんじゃないかしら」
 須美は、何かにずっと引っ掛かっている、といった表情で、伏し目がちに思案顔のまま言葉を発する。
「なのに実際にはごく一部だわ……バリケードの子供たちは徐々にエスカレートしたようだし、銭湯の件は実際に何か大きな悲劇が起こったわけじゃない。なのにあの子だけがどうしてあそこまで思いきった攻撃性を持てたのか分からない」
「俺の友人は、読んだ直後から妙に態度がおかしくなったが。そうだな、いきなり無茶な行動に移るってことはなかった。【本】を燃やしちまったら、一見ケロッとしてたんだよな」
「……なるほど。では、ここに来て【本】の影響力が少々大きくなったと考えるべきかな?」
「本の内容が知りたいわ。彼女が手にしていたと思われる【赤い本】を探して、そこから情報を引き出すことが出来れば……」
「あの本を読むことで、彼女を追いかけ、動機を探るヒントが得られるかもしれないね。ただし、それをどう探すかという問題は生じるだろうが」
 交わされる会話は、【赤い本】を主体に動いている。
 その本が持つ危険性を示唆しながら。
「あのな、これはおっちゃんからのお願いなんだが……」
 赤城が、エドガーへ、そして須美へと視線を移し、言葉を重ねる。
「もしその探してる【赤い本】が見つかったら、絶対に一般人を近づけないでくれねぇかな? そんで、読み終わったらすぐに燃やしてくれ」
 きっぱりと、そしてはっきりと告げる。
「媒介になってるっていうなら、そんなもの、なくなっちまうのが一番じゃねえか。なくなっちまえば少なくともでっかい混乱はおさまるだろ?」
 これは経験則。
 そして、これは勘であり、賭け。
「俺はな、この事件が気にいらん。またあいつと楽しく酒が飲みてぇし、新しく知り合ったヤツと3人でうまい酒を酌みかわしてぇ。それに嬢ちゃんにも、友達や家族とちゃんと笑って、ちゃんと楽しい時間を過ごしてもらいたいんだ」
 子供らの幸せと安全を自分は守りたいと思う。
 それはなにも赤城がスーツアクターを通して培った《ヒーロー》として特別な感性などではなく、ただ純粋に、地域の大人としての視点で抱く願いだ。
 神妙な顔を見せる赤城の願いに、須美が頷き、続いてエドガーも応える。
「わかった。そうさせてもらうよ」
「おう、ありがとな。もし俺の方で見つけたら、とにかくあんたたちに教えるから。頼むわ」
 安堵と感謝を混ぜた大きな笑顔とストレートな感情表現に、エドガーはかすかに戸惑い、それからもう一度了承の頷きを返した。
「あの、赤城さんはまずどうされるんですか?」
「とりあえず俺は警察と対策課にいってくるな。嬢ちゃんも心配だが、嬢ちゃんが他の『レディMに似たスター』を狙わねえとも限らんからな。バッキー保護のガードケージ借りがてら警戒呼びかけてもらう」
「……赤城さん、すみません。これは私の推測に過ぎないのだけど、彼女を見つけられても、ムービースターはもちろん、もしかするとムービーファンも警戒されるかもしれないわ」
「つまりバッキーは連れていかねえ方がいいってことか?」
「……ええ、おそらく……」
 ムービースターを排斥しようとするその考えの中には、彼等に味方する者への敵意も含まれているような気がするのだと続けた。
「おう、なるほどな。んじゃバッキーが留守番か。了解」
 ためらいながらもそう告げた須美に対し、気を悪くする風もなく赤城は大いに納得し、そして了解した。
「で、エドガーだったか、あんたは?」
「俺はひとまず【赤い本】の行方を探るつもりだが、竜、あなたと一緒に行動してみようと思う」
「おう、分かったぜ。頼むわ」
「ではエドガーさんにそれをお任せして、私は被害にあったムービースターのプレミアフィルムの確認をしてみようと思います」
「なるほど。殺害されたスターと彼女の関係が分かれば、そこから説得もできるかもしれないということだね。ではともにまずは対策課へ、かな?」
「一刻も早くあの嬢ちゃんを安心させて、大丈夫だって、なんも怖いことないって教えてやんねぇとな」
「ああ……それではシュミットさんが既に動かれています。ブラックウッドさんも関わってくださっているらしいとの情報もありますから、もし可能でしたら合流なさるといいかもしれません」
 ドクターDはそういって言葉を添え、微笑んだ。
「よろしくお願いします」
「な、ドクター。あんたにも、困ったら電話させてもらうな?」
 出ていきしなに、赤城はくるりと振り向いて、ニカッと大きく笑った。
「ドクター、俺は友人からも友人の相棒からもアンタが切れ者だって話を聞いてんだよ。頼りにしてるから頼むわ」
「はい、ありがとうございます」
「おう」
 3人がスタッフルームから出ていき。
 そして、ここには、ふたりきり。
「あなたも手を貸してくださるんですか、ヘンリー?」
 いつのまにかテーブルにつき、優雅に紅茶を飲んでいる灰色の紳士に向けて、ドクターは微笑み、問いかけた。
「そうだね。関わるのは面白そうだ。悪意と敵意というものの存在について考えさせられる興味深い案件だからね」
 ヘンリー・ローズウッドはにこやかに頷いて見せる。
「本当はもっと別の話をあんたとしようと思っていたんだけど、こっちの用事はあとまわしにしてあげよう」
「おや、ありがとうございます。ではこの件が片付いたらゆっくりと話しましょうか」
「いいね、そうしよう」
 次の茶会の約束を取り付けて、ヘンリーはするりと席を立った。
「それじゃ僕はちょっと護送スタッフ君たちにご挨拶へ行ってくるかな? 知らない仲じゃないしね」
「彼らとはいま、連絡が取れない状態になっているようですが」
「僕に辿りつけない場所などないよ、ドクター?」
 そう言って灰色の紳士は優雅にシルクハットを手にして礼をすると、別れのキスをするようにドクターの耳元に唇を寄せ、
「ああ、そうだ、もしこの事件がちゃんとしっかり終わったら。僕にも教えてほしいな、あんたの本当の名前を。この僕の物語の最後を素敵な言葉で飾ってよ」
 そんな囁きを残して。
 そしてスタッフルームから、またひとり、消える。



 ルーファス・シュミットは現在、夜の道を中央病院に向けてタクシーで移動している。
 ドクターからの連絡を自宅の書斎で受けてすぐ、件の殺害現場へと赴いていた。
 少女の身辺状況の確認、そして、この話を聞いて真っ先に気になった【モノ】を探すために。
 けれどコンサート会場は闇に包まれ、付近一帯が封鎖され、イベント関係者に話を聞くことすらままならない状態に陥っていた。
 いや、入ることはできるらしいのだ。だが出ることは不可能なのだと対策課から通達が来ていたが、確かにそこはルーファスの来訪を望んでいないようだった
 だからしかたなく別の手段を取った。
 彼女の護送にあたったのはイベントスタッフではなく、身柄を引き渡された警察関係者と依頼を受けた中央病院のスタッフ数名という情報はすでにある。
 ナイフを振りかざし、音楽で満たされた会場で、ひとりのムービースターを切り裂いた少女は逃走した。
 逃走する彼女を援護する存在は、どこから出てくるのか、そして、波紋はどこまで広がるのか、どこまでエスカレートするのか、いつか殺人者であふれてしまうのか。
「彼女を追い詰めるモノとは、さて、なんでしょうか……」
 子供たちのバリケード事件や銭湯【もりの湯】でのことを思い返し、照らし合わせ、ルーファスは思案する。
 影響力を考えると、今回は少し範囲が広すぎるようにも思えるのだ。
「例えば、例の【赤い本】が媒介となっているのなら……ソレははたして彼女とともにあるものなのか、それとも……」
 できることならソレがコンサート会場に残されていないかを確認しておきたかったのだが。
「僕が思うに、【本】はきっと動いているね。目的が住人の煽動なら、そしてソレを為し得るのが【本】という媒体であるなら、閉鎖された場所に長く留まっていることは非効率的だ」
「――っ!」
 ルーファスは悲鳴を飲み込み、自分でもおかしくなるくらい盛大にびくりと反応していた。
 空席だったはずの自分の横に、灰色の紳士がにっこりと笑いながら座っている。
「ごきげんよう、ミスター。驚いてもらえたようでなによりさ。さて、僕とあんたは偶然行く場所が一緒だったと言うことでね、文字通り便乗させてもらったんだ」
「……」
 タクシーを選んだのは、街で起きている騒ぎに対し、可能な限り自身の安全を確保するためだ。
 しかし相手によってはソレがまるで意味をなさないことを思い知る。
 いや、こんな真似ができるのはムービースターだけだと考えれば、考慮すべき対象ではないのかもしれないが。
「お客さん、つきましたよ」
 突然増えた乗客に驚きもせずに平然と、老年の運転手はふたりに声を掛けつつ、車を止めた。
 礼を言い、支払いを済ませ、そして車から降りたルーファスを絶句した。
 自分とヘンリーを迎えたのは、銀幕市立中央病院の正面玄関ではない。潮の香りのする、ここはベイサイドエリアの倉庫街だった。
「……これは一体どういう……」
 どういうことかと問うためタクシーを振り返ったが、すでに車のテールランプは遠い夜闇の中に紛れていた。
「やあ、これはなかなか裏取引の現場にちょうどいいかもしれないね」
 だがヘンリーはまるで気にしていないようだった。むしろここが本来の目的地であったと言いたげに微笑んでいる。
 その笑みの意味を、ルーファスは次の瞬間悟る。
「どうしてここが分かったんだ……」
 震える声がかけられた。
「ヘンリー・ローズウッド、なんであんたがここに……」
「護送にあたったスタッフ、つまりあんた達と話がしたかったから。こちらのミスターも話が聞きたいみたいだからね、ご一緒したのさ」
「話すことなんか何もない! お前たちのような存在がいるからオレ達のこの銀幕市はどんどんどんどん壊れていくんだ」
 ――くるな……
 怯えた視線、過剰な拒絶、ありとあらゆる存在の否定、そして慟哭と、恐るべき排斥行動。
 ルーファスは知っている。
 すでに一度、このような状態に陥ったものがいたことは記憶に新しい。
 それでも話はできるはずだと、一度は思い直す。
「彼女はなんと言っていたのでしょう? これ以上近づきません。約束します。ですからどうか、答えてください。会場の状況、彼女の状態、彼女が発した彼女の言葉を少しでも詳しく」
「くるな」「くるなよ」「おまえたちに何が分かる」「やめろ、それ以上何も喋るな――」
 しかし。
 どんなにこちらが冷静に話をしようと試みても、返ってくるのは『悲鳴』なのだ。
 繰り返される悲鳴が聞こえる。
 ルーファスは隣に立つヘンリーを見、彼が笑ったまま肩を竦めるのを見て、
「仕方ありませんね……」
 深い深い溜息を落とした。
 そして。
「では、あなたがたが持ち得る限りの『情報』を私に差し出して頂きましょう」
 空間が歪む。
 次元の軸が揺らぐような、位相がずれ込むような、奇妙な感覚に支配され。
 そして景色は、ベイエリアの倉庫街から類稀な美術品が並ぶ屋敷の一部へと切り変わった。
 ロケーションエリア、《ロングギャラリー》の現出。
 凝った額縁で演出された宗教画や田園風景の油彩、躍動感を持った彫刻、遺跡で発掘されたと思われる金の宝飾品、そしてガラス戸の書棚に並ぶ稀少本たち。
 息をのみ、目を見張る、贅と知の空間。
 興奮状態だった者たちは敵意も殺意も恐怖も不安もすべてを忘れて、そこに、まるで標本か彫刻のように立ち尽くしていた。
「へえ、面白いね」
 オルフェイスを模ったブロンズ彫刻の上に器用に腰掛けて、ヘンリーは足を組み、頬杖をついて傍観を決め込む。
 観客となった彼をちらりと一瞥し、しかしルーファスは何も言わず、もう一度溜息をついてからスタッフへ向き直る。
「このギャラリーにあなた方の【知】を収めるつもりはありませんが……話し合いにはなりそうもないですから……失礼」
 できることなら穏便に済ませなかった、けれど適わないのなら仕方がないと、どこかで諦め、そして問いかける。
「彼女は殺されると不安に駆られ、殺される前に殺すという行為を選択したようです。強迫観念に縛られているのだと思うのですが……具体的になにか言ってませんでしたか?」
 彼らは答える、従順に、問われるままに。
「この街では事件が起きすぎてる」
「探さなくちゃだめだ、まだ安心はできないって」
「彼女はいろんな姿になって人を殺し続けるから、姿を変えられたら見つけられないから、いま殺すんだって」
「あの子に賛同したものたちは多かった」
「あの子を止めようとしたやつは分かってない、あの子は責められる立場じゃないんだ」
 彼らは問われるままに語り、思い描き、記憶したものは映像となって《ロングギャラリー》内に二重写しとなる。
 彼女はナイフの他には何も持っておらず、ナイフを取り上げられた後は、何ひとつ持たずにいた。
 けれど、それでは目的は達成できない。
 少女へと差し出されるナイフ。
 少女に返された血まみれのナイフ。
 少女は泣きながら固く決意する、その想いを無碍にできないと強く感じた。
 彼らはそんな彼女に同調した。
 同調して、いまもこうしてムービースターに強い反感と怯えと不安を抱いているのだ。
「ありがとうございました」
 ルーファスは礼を口にし、そしてごく短い間の夢が終わりを告げる。
 夢が醒め。
 ロケーションエリアが解除され。
 まるで魂を抜き取られたかのように、スタッフたちはその場に座り込んだまま動かない。
「“あなたはいつか、あたしの大切なものをすべて壊す”……ですか……」
 ムービースターに向けられた敵意。
 謂れのないモノだ、などと本当に断言できるのか、正直なところルーファスには分からない。
 けれどバリケードの子供たちや銭湯の老夫婦のように、外部から操作された感情であるのなら、それはすなわち、知への侵害ではないかとは思う。
「ふむ……で、結局あんたたちは何がしたかったんだろう?」
 頃合を見計らってなのか、ヘンリーがふわりと彼等の前に降り立つ。
「……あの子を守らなくちゃいかんと思ったんだよ、あの子は何も悪いことなんかしてないんだからな」
「そうだ、あの子を助けなくちゃいけないと思ったんだ」
「あの子のいっていることはただしいから、あの子が口にする言葉は、確かだから」
「ムービースターは居場所を奪う。ムービースターによって一体どれだけの犠牲が生み出されて来たのか知らないだろう?」
「これからどれだけの犠牲が生まれるのか、わかりゃしないだろう?」
 彼らは頭を抱える。震えながら、怯えながら、何かから懸命に身を守ろうとしているのが見て取れる。
「ですが、それは――」
「そうだね、そのとおりだよ」
 ルーファスが何かいうより先に、ヘンリーが彼等の言葉を肯定する。
「僕たちは殺す、君たちも殺す、ヒトはすべて殺害によって循環する。悪役ならなおさらさ、理由もなくヒトを殺すだろうね、だってソレが役割だから」
 不安を煽るように冷ややかにそう告げて、そして
「さて、それじゃあ僕からはあんたたちにプレゼントをあげよう」
 揶揄するように、ヘンリーは携帯電話を差し出し、手を放す。
「ドクターと話をしてごらん。君たちは少々自分の頭でものを考えることに向いていない精神状態に思えるね」
 次の瞬間には、ソレは男の手の中に収まっていた。
 電話の向こうには、精神科医がいる。穏やかな、【理解者】がそこにいる。話に耳を傾け、けして否定せず、深い共感とともに名状しがたい感情にカタチと意味と解決を見出してくれる存在がそこに控えている。
「ついでに回収されるといいよ。僕たちはこれからいくべき場所ができた。あんたたちに追いかけられると面倒だからドクターに愚痴でも聞いてもらってなよ」
 まあ彼も自分と同じムービースターなんだけどね、とつけ加え、クスクスとひとり愉しげに笑った。
 彼らは電話の向こうから聞こえる声に、怯えながらも、耳を傾けはじめているようだ。
「ところでヘンリー。あなたはいま“私達に行くべき場所ができた”と言っていましたが、それは一体どういうことでしょう?」
「ん? ああ、言葉どおりの意味さ。偶然見つけたんだよ。これ、面白いと思わない? ある女の子のブログなんだけどね、分刻みで更新されてるんだけどね、なかなか面白いからあんたも誘ってあげようと思って」
 ヘンリーはいつの間にか別の携帯電話を持っていた。
 ちらりと揺れるダークブラウンの革のストラップを目にして、スタッフのひとりが驚いた顔をしているから、きっと彼のものなのだろう。
 まるで子供のように笑いながら、ヘンリーはルーファスの質問に答える代わりにその画面を開いてみせる。
「次々と更新されているのは、ある少女とその友人が引き起こした惨劇だ。タイトルは――」



 少女は逃げる。
 すでにどす黒く変色した血液で汚れた制服姿のまま、どこまでもどこまでも逃げて逃げて逃げ続けて。
 友人も信じられない、誰も信じられない、怖い、殺される、追い詰められる、そんな思いに支配されながら、逃げ続けて。
 彼女の声に共鳴した者たちが至るところで不安を叫び、ムービースターの排斥に移っていく。
 彼女はひとり、夜を走る。
 捕まえようとする者たちの手から、同士の助けを借りて逃げ、逃げるために走り続けて。
 そしてついに力尽き、辿り着いた自然公園の隅に置かれたあずま屋のベンチに、崩れるようにして倒れこんだ。
 荒い息を整えながら。
 ひどい速さで打ち続ける心臓をなだめながら。
 少女はうずくまる。
 固く目を閉じて、膝を抱える。
「スターが殺そうとするの、あたしたちを殺そうとしてる、助けて、彼女はあたしの大事なひとを殺した、あたしを殺した、いまは平気だけど、でもわからない、だから、あの本みたいにならないように、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺されちゃうから、殺して、でもまだ、たくさんの彼女が――」
 壊れたように呟きを繰り返すそんな彼女にそっと寄り添い、驚かさないように静かに話しかける者がいる。
 穏やかに優しくそっと、うずくまった彼女の頭を撫でる。
「だから殺すのかね? 私も誰かの大事な人かも知れないのに」
 彼は問う。
「何故殺さなくてはいけないのかね? 誰かの大事な人である君を私が手に掛けることなど、万にひとつもありはしないというのに」
 彼はやさしい声で、ささやき掛ける。
「でも、いつか殺すわ、あなたもまた殺す、あなたはいままでも殺してきて、これからも殺し続ける、だって赤い色がこの街を埋め尽くすんだもの、その赤はあなたの中からもあふれてくる……」
 赤い色。
 はじけた色彩。
 彼女は笑って、他人になりすます。
 彼女は彼女ではないものに変わって、そして――
「隣人は、恐れるべきものではないよ」
 やさしくやわらかく囁く。
 けれど、少女は怯え、泣き、耳を塞ぐ。
「奪うもの、全部、奪われてしまうもの、全部全部全部……ムービースターは、当たり前にヒトを殺すのよ、自分が生きてないから、だから生きてるあたしたちを殺すの……」
 一瞬。
 ほんの一瞬、少女に別の何かの影が重なり見えた。
 ムービースターへの不信と恐怖。
 手がつけられないほどに広がって行く不安と妄想と怯え、その根底にあるものを破壊しなければ、彼女に自分の声は本当の意味で届かない。
 赤い本。
 彼女の心を、正常な状態へと引き戻すために。
 そのために動いている須美やエドガー、赤城、ヘンリー、ルーファスの存在を自身から切り離したカゲによって知覚する。
 そうしながら、彼は少女へと手を伸ばす。
「ユカリ、私は君の力になりたいのだよ……」
 怯えて小さく小さくうずくまる少女の髪を、ブラックウッドはやさしくやさしくなでて行く。



 須美は対策課の一角に用意された映写室で、じっとひとり、その映像に見入っていた。
 血に染まって歪んだプレミアフィルムに映し出されているのは、細切れの断片的な映像だ。
 レディMにとてもよく似たキレイな女。
 ジェニファーという名で呼ばれる、花屋でアルバイトをはじめた優しげな女性。
 フィルムの中で、彼女はカフェでお茶と銀幕ジャーナルと思しき雑誌を楽しんでいる。
 彼女の前にはもうひとり女性がいた。
 ジェニファーは語る。
 自分の出身映画のこと、実体化してからの驚きと戸惑いと喜びがいり混じった感情のこと、それから、自分と同じ顔をしたムービースターのこと。
『同じ顔って、すごく怖かったわ』
 くすりと、彼女は笑った。
『どうしてかしらね。向こうには“変装がうまい”なんて設定があるのよ? なんだが不安になるの』

 ――ふつりと、シーンが切り替わる。

 黄昏色へ移り変わる空の下、彼女は歌の中にいた。
 ナイフ。
 白刃の閃き。
 彼女が最後にみたもの、彼女の視界に入っていたモノは、泣きながらナイフを振りかざす少女の姿。
 彼女は呟く。
 彼女は、ゆっくりと、唇をうごかして――

「“どうして”……それが彼女の最期の言葉……」
 須美は溜息を落とす。
 深すぎて、気が遠くなりそうな溜息をついて、俯いた。
 たったいま見終えたプレミアフィルムによって得たものに戸惑い、行き場のない遣る瀬無さと悲しみと使命感と衝撃を、自分の中でどう折り合いをつけるべきなのか考える。
 夕闇の中、彼女はいま、どこで何をしているのだろうか。
「……あの子、きっと怯えてる」
 須美はひとり、独白を落とす。
「だって、ヒトを殺すって、たぶん、簡単なことじゃないもの……」
 手に残っているだろう感触に、浴びた血潮の幻覚に、ひどく怯えているだろう。
 須美はミステリーを愛している。謎に満ちた物語は本も映画もドラマも魅力的だ。自分の予想もできなかったものが犯人で、しかもそこに至るまでに周到な伏線が張られていたとなれば、喝采を送りたくなる。
 けれど、それはあくまでも、物語の中で収まっていなければならない。
 現実であってはならないのだと、強く思う。
 会いに行くべきだろう、一刻も早く彼女に会って、そして止めなければいけない。
 エドガー達は赤い本に辿り着いただろうか。
 ルーファスは少女に辿り着いただろうか。
 ブラックウッドは、彼ならばもしかするとすでにユカリのそばについている可能性もある。
 誰か彼女の傍で彼女をなぐさめてくれていたらいいと、そう願いながら、須美はプレミアフィルムを片付け、対策課の職員に声をかけて、市役所を後にする。
 井上ユカリという名を知ってから、須美は少女の両親から聞けるものなら話を聞きたいと自宅を訪れていた。
 けれど不在だった。
 もしかするといなくなった娘を探しにでているのかもしれない。
 あるいは、彼らもまたユカリに同調し、この街のどこかで悲鳴をあげているのだろうか。
 では、彼女の友人たちはどうだろうか?
 コンサート会場での事件を受けて、誰かが何かを語っている、その語りの中にユカリの断片や赤い本のヒントを見出すことはできないだろうか。
 街中がひどく騒がしい。
 須美は携帯電話を開いた。
 慣れた動作で、検索ワードを入力していく。
 必ずヒットするはずだと、どこかで奇妙な確信を抱きながら――



「ユカリが、……あの子が理由もなくあんなことするはずないって思ってます」
 話を聞かせてほしいと自宅にやってきた赤城とエドガーを玄関先で出迎えてくれた『少女の友人』は、そう言って表情を曇らせ、俯いた。
 赤城は対策課でレディMとレディMの女優が演じたムービースター達への警戒呼びかけの依頼をした。
 その間エドガーは、少女に殺されたムービースターの素性――彼女の名がジェニファーであり、アメリカの田舎町を舞台にした恋愛映画の出身であり、ごく普通の女性であることを掴み。
 ふたりの目的が果たされたまさにそのタイミングで、騒ぎを聞いた女性の方から対策課に連絡が入ったのだ。
 交友関係を調べようとしていた矢先のことに、彼らはひとまず彼女の自宅へと向かい。
 そしていま、こうして向かい合っている。
 レディMと同じ顔をした、けれどまとう空気はとてもやわらかな彼女は、ミラーと名乗った。
「赤い本についてはどうかな? どんな話だったか分かる範囲で教えてもらえると助かるんだが」
「赤い本……最近、街とかで見かけるアレのことかしら。ユカリに届いたっていうのは聞いたけど、どんな内容かまでは教えてくれなかった。それ以来ずっと、連絡もなくて……」
 聞きたくても、教えてもらえなかったのだ。
 ユカリは彼女を拒絶した。
「わたしが、ムービースターだったから」
 どこか悔しそうに哀しそうに苦しそうに、彼女は唇を噛んだ。
「彼女が行きそうな場所に心当たりは?」
「分からないんです……わからない……ユカリのことが分からなくて……すみません……」
 そしてそのまま、彼女は俯き、言葉を切った。
「……なるほど、いや、分からないなら仕方がない」
 エドガーは彼女の話を聞きながら、一方で思考を展開させていく。
 彼女の身元、彼女の交友関係、彼女の存在、彼女というひとりの人間の中で起きた心因反応、そして同調する不安。
 それを取り除くことができなければ、悲劇は恐ろしい結末を迎えてしまう。
 エドガーもまた、【赤い本】を受け取った側の人間だ。
 あそこに綴られていたのは、狂おしいほどの赤で埋め尽くされた世界だった。〈銀幕市〉で新たな関係を築きつつあった〈DP警官〉の仲間達を切り刻み、殺し続け、彼らの内にいるだろう〈カゲ〉を解放しようとしていたもうひとりの自分。
 狂った理論で動く狂った自分。狂った理論で動いているのが狂った自分だとまるで気づかずに、仲間とともに捜査し続ける自分。
 そして最期に待っていたのは、自身の重罪に気づき、自らのノドを突いて自決する自分だ。
 あの物語は、あの話は、笑い飛ばすことのできない〈悲劇〉だった。
 ジャーナルにも載っていない、映画のパンフレットにも載っていないような、ごくプライベートな内容や心理状態すらも正確に網羅する、あの本は自分のために綴られた物語だった。
 少女の本は、ラストに何を用意していたかはわからないが、このままではまず間違いなく、少女の行きつく先は【破滅】だ。
 だが反対に、その【本】さえ手に入れることができれば、混乱は収まり、破滅は回避されるはずなのだ。
 その【本】さえ――
「辛いことを聞いちまって悪かったな」
 思考の海に沈んだエドガーの代わりに面会を終えようと、赤城がいたわりの言葉をかける。
 ミラーは無言ではあったが、ふるふると小さく首を横に振った。
「じゃあ、俺たちはそろそろ行くけど、アレだ、戸締りきっちりしてな、あぶねえから」
 赤城の台詞はそこで途切れた。
「“アナタを、殺さなくちゃ……”」
 背後からふいに掛けられた言葉――
「――!」
「“殺さなくちゃ、だってアナタはあたしのすべてを壊すから、アナタを殺さなくちゃ、アナタがたくさんいて、だから困っていたのよ、変装が上手なのね、騙されちゃった、殺さなくちゃ”」
 ユカリかと思った。
 だが、違う、そこに立っているのは、14歳くらいの少女だ。手には、携帯電話と、そしてナイフを持っている。
 そして少女の後にも、10代をはじめ、様々な年齢層の者たちがずらりと並んでいた。
「そうだ」「殺さなくては」「排除しなくちゃ」「こいつらを」「スターを」「このふたりを」
 伸ばされる手、手、手。
 押し寄せて来る、ヒトの波。
 瞬く間にできた人の壁が、赤城を、エドガーを、そして彼女を追い詰める。
「あの……っ、あの、ユカリを助けてください。ユカリを――ユカリがわたしを殺そうとしただなんて、信じられません……だから……っ」
「わかった」
「おっちゃんたちにまかせときな! 大丈夫、きっと友達を取り返してくっからな」
「さあ、家に入って、早く!」
 エドガーは彼女を家の中へ押し戻し、玄関の扉を後手に締め、そして背中で彼女の気配を追いながら、視線だけは群集から放さずに対峙する。
 彼らは完全なる殺意でもって自分たちを見ている。
 おそらくは何のためらいもなく、その手にもっている武器――カッターナイフや包丁を振りかざすだろう。
「……しかたない。――と、え、竜、なにをっ?」
 赤城が不意にエドガーの腕を掴んだのだ。携帯する刀に手を掛けたソレを止めるために、掴み、引き寄せ、そして唸るように告げる。
「手を出しちゃダメだ。例えどんな状況でも、絶対ダメだ。だからいまは逃げるぞ。俺たちで引きつけながら、ひとまず撤退だ」
 一般人には手を出さない。
 ソレが、赤城が自分で自分に決めたルールだ。
 不穏な気配を感じながら、誰も傷つけないために、赤城はひとまず少女追跡を諦めることを選んだ。
 齢50にして現役スーツアクターを務める彼の体力は、武術を操るDP警官の体力にまるで引けを取らないらしい。
「……分かったよ、あなたに従おう」
 エドガー自身にも、住民たちを傷つけようというつもりはなかった。抜刀するつもりもない。ただ必要最低限、彼らの動きを止めようと考えたに過ぎなかった。
 だが、それすらもしてはいけないと赤城は言う、その想いをしっかりと受け止めた。
「ではしばし防戦一方ということで……少々骨が折れそうだけどね」
「文字通りにならんようにお互い気をつけような」
 ユカリの悲鳴は共鳴反応を起こす。
 ユカリの言葉が、反響する。
 一体どこにこれほどの人がいたのだろうかと思えるほど、10や20ではない数が二人を追い詰め、じわじわと包囲する。
 はたしてこの人数を、誰も傷つけず、やり過ごすことができるのだろうか。
 分からない。
 だが。
「何を怖れているのかね?」
 そこに声が降ってきた。
 唐突に、あるいは忽然と。
 いつからそこにいたのか、あるいはずっとそこにいたのか、もしくはたったいま現れたのか。
 夜闇の中に黒い霧が立ち込め、やがてソレは外灯のもと、中空でひとつの形へ凝集する。
「うお、あれは、あれか?」
「ブラックウッド」
 赤城とエドガーに向けていた敵意の視線が一斉に、『彼』のもとへと集まる。
 彼は悠然と微笑んだ。
「私が彼女たちを引き受けよう。君たちはユカリのもとへ行ってもらえないかな? 彼女はいま私の影とともに自然公園にいるのだよ。【赤い本】を手に入れた者たちにもそこに向かってもらうつもりなのでね」
「なんだ、【赤い本】が見つかったってのか?」
「もう間もなく手に入るようだね。知識を探求するものは、時に手段を選ばないものなのだよ」
 どこか意味ありげに微笑み、答え、ブラックウッドはエドガーと赤城のために道を作る。
 彼の手が指し示す、その方向に向けて、地面に落ちていた影がずるりと立ち上がり、驚く人々の間に間隙が生まれる。
「行きたまえ」
「感謝する! ありがとな!」
「失礼」
 ふたりは、自分たちのために用意された道を駆け抜けていった。

 そして。

 怯えと敵意で彩られた無数の視線がブラックウッドを取り巻く。
 いっそ懐かしいと思えてしまうほどに、切りつけ抉るソレはかつてブラックウッドの最も身近にあった感情だ。
「“彼女はいつか、あたしからすべてを奪う”」
「“ひとの形をしたモノが、……いや、時にはヒトの形すらしていないモノが、悪夢となってあたしの大切な場所を壊していく”」
「“友達のふりをしていても、いつか必ず裏切る、だってスターは人間じゃないから”」
「“だから、殺さなくちゃいけない”」
 彼等が口々にあげる非難の言葉、まるで、それは誰かの書いた台本を読み上げているかのようだ。
 けれどそこから生まれる感情の波には攻撃性を孕んでいる。
 人、ヒト、ひとの波。波紋。伝わり、広がる、それは不安という名の漠然とした危機感であり焦燥。
 ヒトは異形を受け入れられない。
 ヒトは、異端を異端のままでは受け入れられない。
 何千という時が流れようと、本質的なところで、ヒトはヒト以外のモノを怖れるのだろう。
 だが、それでブラックウッドの中の『人への情』が揺らぐことなどない。
「いつか大切な者を殺すから、壊すから、狂わせるから、だから、ムービースターを排除するのだと言うが」
 ブラックウッドは悠然と微笑み、問いかける。
「なぜそう思うのかね?」
 群集に、そして彼らの後ろに控えているのだろう『存在』にチカラある言葉を発する。
「生きとし生ける者は糧を必要とするが、迫害は自身の糧とはなり得ないものだよ」
 そうして語る。
 ゆったりと響く声で、聴衆に向けて、けして威圧的ではなく、むしろ許容と抱擁とをまとってブラックウッドは語り掛ける。
「この類稀なるチカラを持った街は、あまたの危機をともに乗り越えてきた同士たちによって固い結束を得ているのではないかね? 君たちは手を差し伸べてくれた。君たちは我々を隣人と認め、受け入れてくれた。我々は君たちに感謝している。そんな君たちの、その行為は本当に自分の意思なのかね?」
 思いだし、もう一度考えてもらいたいと、ブラックウッドは言う。
 チカラを乗せた言葉が音となって浸透して行く。
 言葉によって動く者たちが。
 言葉によって、惑いはじめる。
 ゆるゆると、眼差しにひらめく敵意と脅威が、戸惑いに揺らいで行くのを見て取りながら、ブラックウッドは彼女等に願う。
 すべての情報を遮断し、このまま家に帰り、そして穏やかな眠りにつくようにと。
 怖い夢は見ないから、と。
 やわらかく諭す、その声は、ひとつの波長、ひとつの音階、ひとつの音楽として彼女等の元に届けられ。
 誰もが夢から醒めた夢の中に立っているかのような不可解な感覚を持ちながら、武器を手放した。



 窓を叩く、こんな夜更けに、部屋の窓ガラスをこつこつと叩くものがいる。
 少女は怯えた。
 怯え、携帯電話と、傍らに開いて置いていた本を取り、ベッドから自室のドアへ、ゆっくりとあとずさる。
 カーテンを開けて、ノックに応えることなどできない。
 二階なのに、ベランダもない窓なのに、外に誰かがいるだなんて思いたくなかった。
 けれど、声がする。
「やあ、ごきげんよう、レディ? 突然の訪問で悪いけど、君が拾って君が現在ブログに転載している【赤い本】を出してもらおうか?」
 声は要求する。
 声はまるですべてを見透かすように問いかける。
「……いや……」
 カーテンの向こう側にシルエットが浮かぶ。シルクハットをかぶった紳士の影は、「さあ、本を出してくれ」と言いながら、ゆっくりと銃を構える。
「いや……殺さないで、いや……いやっ」
 少女は弾かれたように背にしていたドアを開け、素足のままバタバタと、部屋を出て、階段を駆け下りて、助けを求めるつもりで外に飛び出し――
「――っ」
「わ」
 何かに激しくぶつかった。ぶつかり、巻き込み、諸共に倒れこんだ。
 自分がクッションにしたものがなんであったのか、少女は知り、そして反射的に相手を突き飛ばして家のドアノブに手を掛けた。
「……殺さないで」
 少女を受け止め損ねたルーファスの、転倒の痛みにしかめられた顔がそこにあった。
「殺したりしませんよ。あなたを殺す理由なんて、私のどこを探っても一切出てこないんんですから」
 けれど、少女はいまにも悲鳴をあげようとする。
 だが、悲鳴は音にならなかった。
 少女の口が塞がれる。
 ルーファスと少女の間に舞い降りた灰色のスーツの青年が、彼女の口を塞いだから。
「ああ、あんたのおかげで掴まえられた。ありがとう、礼を言うよ。さてレディ、声を出さないでくれないかな? 僕はね、君の持っているその本がほしいだけなんだ」
 にっこりと、人懐こい笑みで畳み掛けるように話しかけてくる、けれどその瞳はまるで笑っていない。
「さあ、僕に君の抱いている【本】を」
 少女の視界は涙で大きく歪んだ。
「ヘンリー・ローズウッド、そこでやめて。その子から離れて!」
 制止の声はルーファスではなく、思いがけない方向から飛んできた。
「おや、レディ。まさかこんなところで素人探偵くんと出会えるとはね。ごきげんよう」
 振り返り、立ち上がり、そしてヘンリーは座り込んでしまった少女に背を向けて、優雅に声の主へ一礼してみせる。
「ごきげんよう。あなたも探偵の端くれなら、もう少しスマートな行動を取るべきじゃないかしら」
「あいにく僕はいま探偵じゃない。強盗紳士は銃を突きつけて目当てのモノを奪っていくのが仕事でありスタイルなのさ」
「許されることじゃないわ」
「許されるよ、僕は悪役だからね」
 黒と青の視線が混じりあい、反発する。
 その間に挟まれるカタチとなったルーファスは、怯える少女を確認し、それから須美へと問いを投げかける。
「朝霞さんはどうしてこちらへ?」
 一触即発の緊迫した空気を肌で感じながら、それでもゆったりと。
「やはりブログでしょうか?」
「殺されてしまった彼女のプレミアフィルムを見て、検索したらここに辿り着いたのよ……」
「ああ、なるほど。やはり携帯電話といい、ブログといい、興味深いツールのようですね」
「……できることなら、もっと早くに動きたかったんだけど……」
 須美は悔しそうに呟いた。
「さてと、茶番はもういいかな? あいにく僕は僕を殺したいと思っているような相手に殺される趣味はないからね、遠慮させてもらいたいのさ」
 ヘンリーの手の中には、いつのまにか一冊の赤い本が収まっていた。
 少女の腕の中からは、いつの間にか一冊の赤い本が消えていた。
「〈Changing Red〉……〈変貌する赤〉とでも訳せばいいのかな?」
 鮮赤の表紙に金の飾り文字がつづるのは、〈Changing Red〉――コンサート会場でユカリとジェニファーの世界を狂わせた惨劇の書物。
 彼がページを開く。
 その瞬間、ざわりと、大きく空気が揺れ、歪んだ。
 不穏な気配が動き出す。
 少女からも、そして周囲からも、何かの意思が働こうとする気配を感じる。
「ここで読むのは得策ではないように思いますが、ヘンリーさん」
 ルーファスがヘンリーに手を重ね、本を閉じさせる。
 そのままごく当たり前のように【赤い本】を自らの手に取り、一体どこに持っていたのかと思われる革製の封筒を取り出し、そこへ収めてしまった。
 表には何かの呪が書き込まれているようだった。
「さて、これで封印完了です。私以外にこの封筒を開けることはできません。従ってあなたにもこれを読むことはできない」
「じゃあ、鑑賞会はあとで、かな?」
「ご不満はあるでしょうが、諦めてください」
「しかたがないね。いいよ、今回の僕はやさしいからね、いうことを聞いて団体行動に甘んじてあげよう」
 ヘンリーならば呪で閉じた封筒からでも本を取りだせるかもしれない。
 だが、彼は笑って肩をすくめるだけで、それをしなかった。
 ルーファスとヘンリーのやり取りに溜息をついて、そして須美は申し訳なさそうに、いまだ座り込んだままの少女のそばに行き、膝をついた。
「ねえ、ごめんなさい……ひとつだけ聞かせて。あなた、ユカリさんの本をコンサート会場で拾って、そして……どうしてブログに転載を?」
「広めなくちゃ、ダメだから……あの子の言ってること、正しいもの。ここに書かれてることを読んだら誰だってそう思う。あの子、怖がって、ずっとナイフ持ち歩いて、スイッチが入っちゃったんだわ……でも、しかたないもの……殺される前に殺さなくちゃ……スターを……」
 理由を問えば、恐ろしく矛盾ばかりなのに、少女は頑なにソレを信じてしまっている。
 訂正の聞かない心理。
 理論的な会話が成立しない、説得の聞かない状態。
 けれど、その状態ももうすぐ終わるはずだ。
「……怖がらないで……こんなことになってしまったけど、憎まないで、スターだから傷つけていいだなんて、思ったりしないで」
 少女はじっと須美を見つめる。
 怯えた視線で、じっと須美を見つめて。
 何も言わず、何も応えず、ふらふらとよろめきながら家の中へと戻っていってしまった。
 バタンと閉ざされた扉。
 拒絶の意思表示。
 ヘンリーは笑っている。
 ルーファスは静かに受け止めている。
 須美は、携帯電話を取り出し、エドガーの番号を押した。



 屋上から眺める小型の観覧車は、ついこの間恋愛映画から実体化した遊園地のものだ。
 赤い光がグラデーションを描き、観覧車を彩る。
 キレイなイルミネーション。
 ユカリはそこで彼女を見る。
 キレイな顔をした、年上のやさしい友達。
 けれど、彼女は微笑みながら、ナイフをかざす。
 キラキラとひかるそのナイフで、ユカリの心臓を狙う。
『ミラー……どうして……?』
 問いかける、その声は震えて、ちゃんとした言葉にはなりそうもなかった。
『同じ顔をしているの、たくさんの私がいるわ、でもアナタを殺せるのは、私だけ……』
 彼女は笑う。
 知っているはずなのに見知らぬ顔で、彼女はナイフを――



 アップタウンもダウンタウンもひどく騒がしい。
 けれど自然公園だけは、何かに忘れ去られているかのようにひっそりと静まり返っている。
 悲鳴は聞こえない。
 ただ。
 一同がハイキングコースのはずれに作られたあずま屋に辿り着いた時、少女はそこのベンチに腰掛け、そしてナイフを握っていた。
 彼女の傍らには、ブラックウッドが、まるで彼女の影のようにそっと寄り添っている。
「ユカリ……?」
 はじめに声を掛けたのは、エドガーだった。
 反応を確かめるように、少し離れた場所から声を掛けてみる。
「こないで」
 だが、ほのかな外灯だけが落とす光の中、少女から返ってくるのは拒絶の言葉だった。
 ノドは枯れ、声は掠れているけれど、それでも彼女は敵意の視線を向ける。
 それでもエドガーは気にせず、軽く片手をあげて、アイサツをする。
「ようやく会えたね、ユカリ。少し、俺たちと話をしてもらえないかな?」
 あくまでも穏やかに気さくに、言葉を重ねる。
 手にしていた刀をはじめ、携帯するすべての武器を彼女の目の前で放棄して見せ、自身が丸腰であるとアピールしながら、やわらかく微笑み掛ける。
「君の本を読ませてもらった。屋上で君は大切な人に刃を向けられたんだね」
 辛かったはずだ、怖かったはずだ、信じられなかったはずだ、ソレを追体験してしまったら、不安で不安で仕方がなくなるはずなのだ。
「俺にも分かる。俺にも君と同じように不安に駆られ、不安を殺すために刃を向けたい衝動に駆られるだろう。しかし、人に刃を向けるということは己自身に刃を向けると同じなんだよ、ユカリ。忘れてはいけない、それを知っていなければいけない、でなければ、君は身を滅ぼしてしまう」
 いまやめなければ、あとはもう、シリアルキラーとなってひたすらに堕ちていくだけだ。
「もしも本の内容が、彼女が被害者で君が犯人役だったとしたら――君が今やっている事を彼女にされるのは辛くないかい?」
 問いかける。
 その問いかけに、彼女は首を振った。
「……しないわ」
 短く否定し、続ける。
「あたしは人間だもの……あたしは、しない……ムービースターみたいに特別なことはなにもできない……」
「なるほど、すばらしいね!」
 場違いな拍手と賞賛の声が差し込まれる。
「君は実に勇気ある行動を取ったね、ごく普通の女の子が恐慌に走る、その行動力は賞賛に値するよ」
 クスクスとヘンリーは笑う。
 須美からの非難の眼差しを向けられながら、それでもクスクスと笑って拍手し続け、そして不意に真顔になった。
「だが、哀しいね。君は彼女を殺すことで、友人と、大切な人と、君自身を殺しているんだから、君は君の罪をもって、君自身を殺し続けるんだ」
「ねえ、彼女も普通の女性だったわ。恋をして、バイトをして、友人と遊ぶ、この銀幕市で暮らすごく普通のひとだった。なにもかわらない」
 彼の台詞を遮るように、須美が横から言葉を差し込む。
 けれど。
「変わるわ、スターは生きてない、悪い夢が実体を持っただけ」
「ムービースターだって、そこに生きているのよ」
 須美は言う。
 どこか厳しく、けれどひどく哀しい想いを抱えて。
「リアルな悪夢だなんて言われても、私は納得できないわ。だって、触れられるもの。言葉を交わせるもの。温度が、あるんだから……」
 それに、と続ける。
「殺されたくなくて殺すのは、たぶん、理に適っていないと思うわ。相手は無抵抗でもなければ、抵抗できないわけでもないんだもの」
 この街だけではない。ムービースターとムービーハザードだけが特別なわけではなく、この国では殺人事件が起こらない日がないのだ。
 人は人を殺す生き物だ。その理論から行けば、やがてスターだけでなく、全ての存在を殺さなくてはいけなくなる。
 毅然とした態度で少女の考えをそう否定する、けれど、その表情を須美はふっとやわらげた。
「ねえ、……手は、傷めていないかしら……」
 ゆっくりと歩みより、そしてユカリに手を差し出した。
「怖かったわよね……でも、そんな怖い思いをしている間も、ねえ、ブラックウッドさんはあなたをなぐさめてくれたんじゃない?」
「……」
 ユカリは須美に手を握られたまま、戸惑うように傍らに佇むブラックウッドを見上げた。
 彼はやはり無言のまま、そんな須美とユカリへやさしい視線を送る。
「怖い思いいっぱいしたんだな。大丈夫じゃないよな、でもな、もう心配いらないからな」
 赤城は怒っているような笑っているような複雑な表情を浮かべながら、須美に続き、彼女のもとへと近づいていく。
「でもな、もう心配しなくていいんだ」
 よく通る、あたたかでがっしりとした声が安心感を生む。
「大丈夫だ、全部大丈夫、思い切って眠ってしまえば大丈夫になっちまうから、だから安心しろ」
 力強くやさしい腕が強く強く少女を抱き締める。
「嬢ちゃんは友達がこわくなっちまったんだろ? でも、その友達は嬢ちゃんのこと、すごく心配してたぞ」
「……心配……?」
 抱きしめられていた少女の瞳が揺らぐ。
「あなたの本は、あなたのために書かれたモノではありませんよ。あなたのための物語ではなく、あなたを怯えさせるだけのモノです。純然たる書物としての存在価値を穢す存在とでも言えばよいでしょうか」
 ルーファスが封筒から赤い本を取り出す。
「それ……」
 一度閲覧し、再び封じていたソレは、彼女の前で赤城に手渡された。
「嬢ちゃんの心配の種は、おっちゃんがすっかり燃やしちまうからな」
 ユカリは本を凝視したまま、固まっている。
 やめて、と言う言葉すらなく、ただじっと、それを見つめ続けた。
 赤城は立ち上がり、ユカリから数歩離れ、そしてユカリの前でユカリの本にライターで火をつけた。
 瞬間、炎が上がった。
 燃える。
 本が燃える。
 かつて幕警察署の裏手に位置する焼却炉で燃やした時にも思ったが、この本は燃える瞬間、何とも言えない感覚をもたらす。
 全員の瞳の中に映り込み、反射する、血を燃やしているかのような鮮烈な赤い光。
 炎が闇の中に踊る。
 パチパチと爆ぜながら。
 少女が抱いた《赤い妄想》は、終わりを告げるのだ。
 長く赤い夢が、終わりを告げる。
「さあ、ゆっくりと休もう。君は今日一日、とても疲れただろうからね」
 最後にそっとブラックウッドがユカリを促がす。
 やさしい囁きとともに冷たく心地良い指先に額からまぶたをなでられて、少女はゆっくりと目を閉じた。
 眠りが訪れる。
 安寧の眠り。
 すべてが元通りになることなどあり得ない。
 一度壊れてしまったモノが、もう一度同じカタチになることなどない。
 けれど、それでも。
 血にまみれた少女は、すべての現実から切り離された穏やかで静かな眠りの淵へと落ちていった。



 ねえ、この赤い夢は、一体いつになったら醒めるのかしら……



 おだやかな午後の光が差し込むカフェテリアの一角で、ヘンリーはドクターDと向かい合う。
 互いの前にはそれぞれに暖かな紅茶のポットとカップ、そして季節のフルーツタルトが置かれていた。
 それだけならばごく当たり前の、茶会に過ぎない。
 しかし。
「さて、質問だよ。答えてもらいたい。ねえ、どういうことだと思う、ドクター?」
 ヘンリーの手の中にはいま、一冊の【赤い本】が収まっている。
 タイトルは見えない。
 彼の手が隠してしまっているから。
 誰のモノかも分からない。
 彼は意図的にソレを告げないから。
「最近増えてる。この街で急激に何かが増えるとしたら、それは異変のサインだと僕は思うんだけどね?」
「異変のサイン、ですか」
「これで気のせいとは言わせないよ。変な色のバッキーの目撃証言と一緒に、【赤い本】がずいぶんと増えている。【本】の中で、僕は何度殺されたか知れたもんじゃないけど、まあ、それはさておき、いや、まったくわざわざ一冊ずつ製本してはひとりひとりに送っているかと思うと、妙に笑えてくるよ、ご苦労なことだ、一体何がしたいのか、想像すると楽しくなるね」
 首を傾げながら、【死に至る病】という名の絶望を内に飼う奇術師は、そうして歪んだ笑みを見せる。
「あまり楽しそうではありませんね、ヘンリー?」
「いや、僕は楽しんでいるよ? 楽しい読みものがたくさん用意されていて、僕は退屈をまぎらわせることができる。実にステキじゃないか」
 クク……っと声を洩らしてまた笑い、そして目を細める。
「衝動で人を食ったり、絶望から救うために殺し続けたり、独占欲で近しい人を殺したり、芸術のための殺人もあれば復讐のための殺人もあった」
 赤い本は綴る。
 数多の事件を用意する。
「さて、そんなたくさんの物語があふれてるんだ。たったヒトリで完結する物語というのもあるんじゃないかな? どうだろう?」
 ドクターはほんの少しだけ首を傾げ。
 そうしてわずかの思案の後、否と答える。
「ヒトリで始まり、ヒトリで終わる――それはある種の円環ではありますが、おそらく【本】の発送者にとっては意図しえないものでしょう」
「それじゃあ、この本の〈作り主〉兼〈送り主〉は何がしたいんだろう?」
「あなたはどう思いますか?」
「さあね。で、精神科医からのコメントは?」
「感触としてあるのは、その本が原因と思われる【不安】の訴えはここ最近、急激に増えているということでしょうか。そう、潜在的な患者も考慮するとかなりの数に昇るかもしれませんね」
「ふむ。なるほど」
 問いに問いで返され、さらに重ねた問いへの返答に頷き、ヘンリーは肩をすくめた。
「まあ、結局のところさ、〈自主映画制作代行サービス〉だっけ。あの時にも思ったんだけどね、あまり勝手なことをされたくないっていうのはあるんだよ、僕としてはさ」
 笑っていながらどこか不快げに言葉を返し、そしてヘンリー・ローズウッドは種も仕掛けもない奇術でもって、手にした【赤い本】を一瞬の内に赤いバラに変える。
「ねえ、ドクター、この街はどんどん歪んでいくね? いつか歪みすぎて崩壊するんじゃないかな?」
 すっと相手にバラを差し出しながら、口元は笑みの形につり上がる。
 けれどその目は笑っていない。
 どれほど不穏な話を展開しようと、カフェテラスに差し込む陽射しは、変わらず穏やかなままだ。
 どんな不穏な事件も全て、夜が明ければうたかたの夢として消えるのだとでもいうように。



 杵間山の紅葉を背景としたブラックウッドの邸宅。
 優美なデザインのアンティークの調度品で整えられた客間にはいま、エドガーが訪れていた。
「銀幕ジャーナルと仲間達の協力でいろいろ情報を集めてみたところ、いくつか気になることがあってね」
 ブランデーを数敵落としたあたたかな紅茶の香りを前にして、ブラックウッドに対し、自身の思うところを口にする。
 彼は手土産に年代モノのワインと、そして分厚い封書をも差し出していた。
 持参した資料はいま、テーブルの上に広げられている。
「ディープパープルのバッキーだったかな。アレの発見からこれまで、他にもオフホワイトや濃黄、セルリアンブルーといったカラーがジャーナルで話題にのぼっているたび、不可解な事件が連鎖しているのは確かだ」
「昴神社の宮司の話は記憶に新しいところではあるね」
 そうしてブラックウッドはしなやかな指先で、資料のひとつを手に取った。
 レポートとして綴られているのは、精神分析に主眼を置いた一連の事件の分析だった。
「……ふむ、不安から強迫観念、そして妄想へと移行する精神状態は、【赤い本】の特徴のように見受けるが、これは遠隔操作によってヒトの心を動かすことができるという結論で良いのかな?」
「そうだね。そういうことになる。この街に混乱を呼び込み、事件を起こさせるためのアイテムと考えているよ」
 そして、とエドガーは続ける。
「赤い本に色違いのバッキー……夢の神に反発する何者かが意図的にしかけてきていると考えていいんじゃないか、とね」
「ではその【根元】はどこにあるのか、ということになるのだね。さてエドガー君、君は私に問いたいのではないかね?」
 脚を組み、手を組んで、ブラックウッドは悠然とした笑みを向ける。
「企むべきは、この街を舞台とした〈代理戦争〉ではないか、と」
「そんな大掛かりなものであってほしくはないんだよ。でも、不穏の種はばら撒かれていると言っていい」
 紫暗の瞳と金の瞳が交差する。
 互いの思考を読むかのように、視線によって言葉にならない言葉が交わされる。
 不穏の種。
 この街の異変。
 はたしてその先に待ちうけているものはなんであるのか。
「ところで……ユカリ嬢はその後?」
「ああ、彼女はいま自宅療養中なのだよ。中央病院でカウンセリングを受けながら、少しずつ自分を取り戻していると聞いているのだがね、時間はかかるかもしれない」
「彼女の負った傷は深い、ということかな?」
「彼女は自分が殺してしまったムービースターが『人違い』だったと知ってしまった、その罪の重さに苦しんでいるのだよ」
「……そうか」
 この街で、ムービースターを殺すことは法律上の『罪』にはならない。
 けれど、誰かを殺した感触はそのまま残る。
 不幸中の幸いというべきか、赤い本、少女、更新されたブログによって、街中で起きた騒ぎも死傷事件に発展するほどのものにはならなかった。
 けれど、これは手放しで喜べるような『ハッピーエンド』ではあり得ない。
 ジェニファーという名の、ひとりのムービースターが死んだ。
 殺されなくてもよかった、殺される必要のなかった、ミラーと同じ姿をもっていただけで惨劇の舞台に上げられてしまった彼女。
 レディMという、変装がうまいという設定を持った同じ顔のスターが存在していたために被害者となってしまった彼女。
 葬儀が行われることもない彼女の『死』を、誰かは悼んでいるだろうか。
 誰かは忘れずにいてくれるだろうか。
 そして自分は、どうなのだろうか。
 エドガーはブラックウッドの静かな視線を受けながら、紅茶を口に運んだ。



「ここが始まりだったのよね……」
 潮の香りを乗せた風が頬と髪を撫でていく中、須美はポツリと呟いた。
 黄昏時から朝方までかかった少女の逃走劇が幕を下ろしてから数日後。須美はルーファスと赤城とともに、すべての始まりともいうべき『コンサート会場』へ来ていた。
「ひでぇ事件がこっちでもあったんだろ?」
「そのようですね。こちらで情報を得ようとして対策課に止められましたが……あの光景はなかなか見られるものではありませんでしたよ」
 ここから始まり、ここから罪があふれ、ここからいくつもの事件が連鎖反応を起こした。
 けれど、いまはもう、ほとんど何も残っていない。
 閑散としたコンサート会場には彼らの他には誰の姿もなく、ただ、のどを締め付けるような、胸を重くするような、そんな空気だけが残っている。
「……あんであんなことが起きちまうんだろうな……ユカリも、他のヤツもさ」
 赤城の中にはまだしこりが残っている。
 本は燃やした。
 確かにユカリの本は燃やしたが、それですべてが終わったわけではないのだと感じているのだ。
 肌がずっとざわざわしている。
「ドクターは、『不安』と『妄想』の定義について教えてくれたわ。今回の事件も、冷静になって論理的に考えたり、周りの意見を聞いて振り返ることができたら、あんなことしなかったと思う」
 須美が赤城の問いに応えるように言葉を繋ぐ。
「それに、以前、街中にバリケードを作った子供たちは図書館で見つけた【本】を手にして変わったって聞いたわ。もりの湯のご夫婦は、誰かが銭湯に置き忘れた一冊の【本】によって不安に捕らわれたって」
 銀幕ジャーナルの記事から拾いあげられる情報を元に思案する彼女に、なるほど、と赤城は頷いた。
「たしかにユカリも他のヤツも、どっかで心の箍がぶっ壊れちまってたようには感じたな」
 心に作用し、ヒトを操る。まるで何かに感染するかのように。
「しかも、影響受けるヤツと受けねえヤツに分かれるってのも気になるんだよな」
「スターの異変がキラー化だとしたら、【赤い本】によってもたらされる異変はエキストラをはじめとする一般市民、ということですか?」
「そうね、そう、そんな気がするわ……」
 頭の中に描き出し、再構築するだけではたりない、これまで目にして来た情報を並べ替え、比較し、検討する場がほしいと須美は思う。
「……まだまだ、関連する事件があるはずだって思えるの。たぶん、ひとつひとつ拾いあげて検証していったら、この街で進行しているものが見えてくる気がして」
「この銀幕市で、厄介なモンがいろいろ同時進行しているなんて思いたくねぇんだがな」
「ええ、同感です」
 そこで会話が途切れる。
 途切れたまま、しばらく3人は思い思いに歩き、眺め、垣間見える海岸線と潮の香りの中で沈黙した。
 だが、沈黙は長くは続かない。
 不意に足を止めた須美が、少し離れた場所に立つルーファスと赤城を振り返り、告げる。
「ユカリは綺羅星学園の生徒だったわ」
 ソレはまるで天から受けた啓示であるかのように。
「ああ、……なるほど。そういえば子供たちは綺羅星学園の図書館で本を見つけたといっていましたね」
「おいおい、この街には綺羅星学園の生徒ってそりゃもうたくさんいるだろ? ってことは、それって偶然とは言えねえのか?」
「できることなら偶然だと思いたい……でも、見過ごしていい共通点ではないと思う。なぜか、そう思えて……」
 例えるならそれは、『探偵の勘』とでも言えばよいのだろうか。
 閃きが示唆する可能性。
 綺羅星学園。
 そこで何かが待っている――何かがひそんでいる。
 そんな予感だけがひしひしと伝わってくるのだ。
「確認するべきなのかもしれない。もう、こんな哀しいことが二度と起きたりしないように……」
 須美は俯き、
「そうだな」
「そうですね、そうかもしれません。疑惑が残るのなら、それを解消することは必要だと思います」
 須美の言葉を受けた赤城とルーファスは、強く頷いた。
 風が、3人の頬や髪を撫ぜ、漠然とした不安や重苦しい予感とを巻き込んで、会場から街の方へと抜けていった。




 誰かの元にひっそりと届く【赤い本】。
 真っ赤な本。
 血の色をした、それはありうるはずのない悲劇と【罪】を告発する。
 知らずにいた、考えもしなかった可能性を言葉に変えて、識ることで芽生える不安をヒトの心に植え付けながら。

 ――毒に侵されたこの街で、あなたたちは〈識ることの咎〉をその身に受ける。



END

クリエイターコメントはじめまして、こんにちは。
この度は犬井ハクWR、神無月WRとのコラボシナリオ、【崩壊狂詩曲】にご参加くださり、誠に有難うございます。
悲鳴をあげながら逃亡した少女の事件は、このような着地となりました。
微妙な後味の悪さを残しつつ、錯綜する【赤い本】の物語、そしてまとわりつく不穏な雰囲気を少しでも楽しんでいただければと思います。


>赤城竜さま
 プラノベから引き続きまして、ご参加有難うございます。
 友人の心配、少女へのおっきな愛情、そして思いきった行動に、力強さとあたたかさを感じました。
 一般市民への非暴力の徹底はさすが【ヒーロー】でございます。
 いまだ疑心暗鬼にかられているというご友人さまによろしくお伝えくださいませ。 

>ヘンリー・ローズウッド様
 5度目のご参加、有難うございます。お世話になっております。
 トリックスターな強盗紳士様は、今回もちょっと変わったスタンスで動いて頂いております。
 ご指名いただいた【赤い本】についての対話はあのような感じとなりました。
 もしかするとヘンリー様が一番ドクターとお茶をする機会が多いかもしれないと密かに思った次第です。

>エドガー・ウォレス様
 【赤い本】と関連するであろう事件群への推理、そして興味深い設定でのご参加、有難うございます。
 色々捏造をまじえているのですが、少女へのアプローチや思考過程、ラストにご用意いたしましたブラックウッド様との対話シーンともども、少しでもお気に召していただければと思います。

>朝霞須美様
 3度目のご参加、そして先日はプラノベのご指名有難うございます。
 推理する思考過程とプレミアフィルムへの着眼に唸りつつ、冷静さと同居する、逃亡する少女への繊細な配慮にじんわりしてしまいました。
 素人探偵様と強盗紳士様の対決は、あのようなやり取りと相成りましたがいかがでしたでしょうか?(ドキドキ)

>ルーファス・シュミット様
 ガラクタのバリケード事件から引き続いての、2度目のご参加有難うございます。
 【本】と【少女】と【暴走】に関係性についての考察を受けまして、ラストシーンで須美様と赤城様と対話を演出させて頂きました。
 実はひそかに気になっていたロケエリを今回展開させておりまして、捏造ともどもアレコレお許しいただければ幸いです。

>ブラックウッド様
 2度目のご参加、有難うございます。
 元政治家でもあらせられたブラックウッド様には、群集と少女への働きかけにちょっと変わった関わり方をして頂いております。
 あくまでも優雅に、優しく、包容力をもってと呪文のように繰り返しつつ。
 少しでもイメージにそうものとなっておりますようにと、ただただ祈るばかりです。

 それでは、変化し続ける銀幕市のいずこかで再び皆様とお会いすることができますように。
公開日時2008-11-22(土) 12:00
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