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<ノベル>
1
腕いっぱいに抱えていた駆除剤の缶がこぼれ落ちて、市役所の床の上に高い音を立てた。あわてて拾おうとしたが、身体を傾けた拍子に次々に缶が落ちて騒がしいことになってしまう。その様子を、何やってるのといわんばかりのわりとひややかな視線でベルが見ている。彼と、セバスチャン・スワンボートはお揃いの作業服。ベルが拾うのを手伝わないのは片方しかない腕に掃除道具を持っているからであって、ふたりは気の合う相棒――のはずだ。
「あ、セバスチャンさん。××町のほうに行くんですよね?」
植村が声を掛けてきた。
結局――
衛生課もそう暇というわけではなく、対策課から回された内線のもたらした仕事を、手近にいたムービースター二人組に委託したのだ。対策課の依頼ではないが、収入になるなら引き受け手はいくらでもいる。
「実はですね、その地域でちょっと不審な――うわっ!?」
転がった殺虫剤のスプレー缶のひとつを踏んで、植村直紀は見事にすっころんだ。
手から離れた資料の紙束が、バラバラになって、雪のようにフロアに舞った。
「……」
そのうちの一枚を、拾い上げた手のぬしは。
長身の白人の男だった。隙のないスーツスタイルにフレームレスの眼鏡。
赤い瞳が書面を追い、そしてスプレー缶を拾い集めている植村とセバスチャンを見た。
「僕らハエ駆除に行くんだけどー?」
ベルが言うのへ、植村はわかってますと頷く。
「現場が近いんですよ。様子見るだけでも、ね? ちょっと不可解な状況なので、セバスチャンさんの能力が役に立つんじゃないかと」
「デモ、ナンカ危ナソーナ事件デスヨネ」
セバスチャンはカクカクと棒読みで、自分には向いていない仕事だとアピールしたがあまり成功したとは言えなかった。そのうえ、ベルが、まあいいけど、と引き受けるようなことを言ってしまう。
「わかったぞ。これを見てくれ」
ファイルを手に、あらわれたのはノルン・グラスだ。
「あ、調査はノルンさんにお願いしていましたので、一緒に向かって下さい」
と植村が紹介する。
ノルンは挨拶もそこそこにファイルを開いてみせる。
「一件だけだが似たような状況の報告がある。これは野良猫だ。気持ち悪い死骸があるんで片づけてくれって話で――飼い猫じゃないから事件扱いになっていないが、場所は近いだろ? 近くで蠅が多いってんなら、伝染病のようなものかもしれん」
病気と聞いて、セバスチャンはうへえ、といった表情になった。
「そうですね……。十分に注意してください。あれ、一枚足りないな」
植村が探していた書類が、すっと目の前に差し出される。
「その調査」
男は静かに口を開いた。
「よければ私も加えてもらえないだろうか」
その男――レオンハルト・ローゼンベルガーを加えた4人は、対策課の手配したタクシーで現場へと向かった。男4人で車内は広々というわけにはいかなかったがやむをえまい。
「でも植村さんはムービースターかもって言ってたけど? 相手がヴィランズだったら手加減なしでいーんでしょ?」
ベルが言った。
「まぁな……。念のため、該当する能力をもつスターがいるか調べてみたんだが」
助手席のノルンが応える。
「データば膨大でな。まあ、あてはまるといえばあてはまるというヤツらもいたが、まずは現場を見てみないことにはな」
そうこうしているうちに、問題の場所へ到着する。
話には聞いていた通りだが――、何の変哲もない住宅街だった。
民家の屋根の向こうに、抜きん出ているのが例のマンションの工事現場らしい。工事の音が聞こえてきていた。
対策課から来たと説明し、遺骸を確かめさせてもらう。
無残な様子に、ノルンは眉をひそめた。
「蠅」
口を開いたのは、レオンハルトである。
「何?」
「蠅に食われたような状態だ」
「蠅が? 犬を食う蠅がいるのか?」
「むろんいない。そういう意味ではなく、この状態の話をしている。一部の種類の蠅は、獲物の肉を溶かして食う」
「そうなの? あのちいさいのがー?」
「多くの捕食者は肉を食いちぎって飲み込み、体内で消化する。蠅の場合は消化液を吐き出して先に消化した肉をすする」
「じゃあこれって……」
「近所で聞き込みしてみるか」
険しい顔つきで、ノルンが出て行った。
レオンハルトは、もう犬には興味ないといった風で、あたりの風景に視線をさまよわせていた。血の色の瞳に、建設中の建物の影が映り込む。
哀れな犬の飼い主も、近隣住民も、これといって有力な手掛かりは持っていなかった。
ただ……、ふと水を向けてみれば、ここでも、たしかに蠅は多いという話は拾うことができた。
ハエ。
そうだ。セバスチャンとベルは害虫駆除の仕事を請けたはずではなかったか。
なのにベルは腐食能力をもつヴィランズとどう戦うかということばかりしゃべっているし、セバスチャンはどうにも浮かない顔だ。
なにかが起こっている。それは確かだ。
(ハエ……虫……。まさか、な――)
それこそ虫の羽音のようにつきまとう不安のようなもの。
「ハエが多いっつってんだろ、その工事現場も」
ノルンが髭のはえた顎をなでながら言った。
「犬を襲ったのがハエなら……調べてみる価値がありそうだ」
提案に反対するものはいなかった。
一同は、工事現場のほうへ足をむける。
ブン――、とどこかで羽音が唸った気がした。
2
「あン、何だって? 犬?」
「それで、ここでもなにかおかしなことが……」
「知らねェな。とにかくさっさと始めてくれ。俺は忙しいから」
「いや、だから、これはただのハエじゃないかもしれなくて」
「なんでもいいから駆除してくれりゃいいんだよ!」
取りつく島もなく、現場監督は作業服の背中を向けて行ってしまった。
セバスチャンは頭を掻く。
あるていど話を聞くなどしてとっかかりを掴まないと過去視の対象にできない。そこらの品物から行ってもいいが、あてずっぽうで手がかりが得られるとも思えなかった。
「ハエを駆除すればいいんでしょー? 簡単じゃん」
ベルが呑気に言いながら、しゅっしゅと殺虫剤をまき散らしていた。
「しょうがない。本来の仕事に戻るか」
ベルに倣って、殺虫剤を選び始める。
「しっかし、こういうのはだな……元から断たなきゃ駄目なんじゃね?」
「そうだね。ハエといえば……臭いとこ、汚いとこ……」
ふたりは顔を見合わせた。
「「下水だ」」
一方、ノルンとレオンハルトは、監督の許可を経て現場に立ち入っていた。
それが決まりらしく、安全第一と書いたヘルメットをかぶらされ、業務用のエレベーター(というよりリフト)で、やっと躯体ができたばかりの階上へ。むき出しのコンクリのあちこちで、さまざまな作業が行われている。
「……っと」
ノルンが顔の前を横切る影を払った。
「蠅?」
「ああ。本当に多いらしい。まさかとは思うが、どこかに死体でもあるんじゃないだろうな」
「……。私もその可能性を考えた。今のところ死者の姿はないようだが」
レオンハルトが真顔で言うのを、ノルンは冗談と思ったのか、ふん、と鼻を鳴らして頬をゆるめた。
「なあ、あんたたち」
猫車を押している作業員は一目で人間でないとわかった。ありていにいえばゲームに出てきそうなリザードマンだ。
「なにか変わったことはないか」
「変わったことって?」
皆、忙しそうである。
「ハエが多いと聞いて」
「そうかもな。たしかに鬱陶しいがいちいち構ってもいられないから」
レオンハルトはあたりを見回す。
この蜥蜴男だけではない……、サイボーグらしい金属の肌のもの、翼をもつもの、一見して人外の姿でなくとも月代を剃った髷の男や、妙に整った顔立ちのあの男も、おそらくムービースターだろう。
「……きみも派遣か」
彼は訊いた。
「……そうだけど?」
「皆、そうなのか。ムービースターは」
リザードマンは笑った。
「俺たちは正社員にはなれやしないだろう」
「厳密には派遣社員にもなれないわけだが」
「違いない」
それだけ言い交わすと、仕事に戻っていった。
「……犬を殺したら、どういう罪に問われると思う?」
それを見送って、レオンハルトはぽつりと言った。
「ああ? どういうって……犬だからってむやみに殺すのはそりゃあ……」
「道義ではなく法律の問題として、だ。……ここ日本の法律では『器物破損』だ。飼い犬は所有物とみなす。飼い犬と、部屋の花瓶に法的な差はない。……ではそれがムービースターなら?」
「……」
ノルンは彼の言わんとしていることをうっすらと感じとって、ただ無言で続きを待った。
「犯罪は構成されない。ムービースターは人でもなければ物ですらない。法律の想定外だから。……だからこうして働き手として遣われていても、なんの保障も受けることはできない。法律には守られていないから」
海賊団のために対策課以外の仕事もいろいろ引き受けているノルンであったから、説明されなくても知っている話だった。だが。
「同じことを考えていると思うが――そのことと今度の事件が関係あると?」
「それはまだわからない。確証のないことはみだりに口にしたくないので」
ノルンは肩をすくめた。
そんな彼の視界の端に、ひとりの青年が入り込む。他と同じ作業服にヘルメット。尖った耳が彼もまたムービースターであると示している。ずいぶんスターの多い現場だ、とノルンは思った。先ほどのレオンハルトの言を敷衍すれば、徹底して安価な労働力を求めたということか。そういうケースは銀幕市にはいくつもあるのだろうが、ここほどの現場はないのではないだろうか。
「かわったこと、あるよ」
声に振り返ると、子どもほどの背丈の、直立し擬人化された鳥といった感じのムービースターがいた。サイズの合う作業服がないのかヘルメットだけをかぶっている。
「働いてた人で、突然、いなくなった人がいるんだ。3日ほど前。工事会社の人は無断で辞めたって思ってるけど」
「そいつもスター? どんなふうにいなくなったんだ」
「彼に聞いてみたら。いなくなる前の日、ケンカしてたから」
翼が変化した手で、指す。
まるでなにかの告発のように、指されたのは、あのエルフの青年だった。
「すまんが……」
ノルンとレオンハルトが近づいて声を掛ける。
そのときだ。
ぐらり、と傾いた身体が、コンクリートの床に倒れた。
「お、おい!?」
まっさおな顔で、青年は呻いた。
「痛い……頭が……」
3
「本当にいくのか。うええ、たまんねえな」
セバスチャンの声が、反響する。
マンホールの下へ、錆びたステップを下りていく。
「こういうのは元を断たない限り、何度だって沸くからねー。セバンだってそう言ったでしょー?」
「そうだけど……」
先に底へ降りたベルは懐中電灯の光を周囲へめぐらせる。
光の輪のなかを、ドブネズミとゴキブリが逃げ惑った。
「ハエよりもゴキブリが多い」
「たまらんなそりゃ! 殺虫剤なんか焼け石に水じゃないのか!?」
とセバスチャン。
とりあえずスプレーを噴射してみるが、淀んだ空気に溶け込む薬剤がどの程度効果を発揮してくれるものか。
「真っ暗だ。懐中電灯だけじゃムリじゃないか。臭いし、寒いし……それになんか不気味だぜ」
「この雰囲気……」
ゆらゆらと、ベルの尻尾が揺れている。
「思い出すね」
「何を」
「ネガティヴゾーン」
セバスチャンは鼻白んだ。よりにもよってネガティヴゾーンか。銀幕市における不吉や災厄の代名詞。
「あのときも、横穴を越えて……あの世界へ行った」
「いやいやいや、この穴とあの穴はぜんぜん違うだろうが」
「蟲の怪物の話――。聞いたでしょ」
つい先日、市内のホテルを占拠したムービーキラーの話を、知らないものはいなかっただろう。
「いや……でも……ネガティヴゾーンにいたのは、みんな魚で……」
「セバンだって知ってるはずでしょ。虫型の連中がいたことだって、ちゃんとジャーナルには載ってはずだ」
「……」
もちろん知っていた。
しかし考えないようにしていたのだ。
だってそうであるなら、まるでそれは……。
「まさか……」
「……これ、なんだろ」
ベルが、セバスチャンの足もとを照らす。
そこにこんもりと積み上がっているものは、一見、ボロ布のかたまりのようだったが……
「い!?」
「骨」
おもわずとびすさったセバスチャンは、すんでのところで下水の奔流にダイブしてしまうところだった。
「死体か!? 死体なのか!? これが、蠅の原因か……?」
崩れかけたしゃれこうべが、「安全第一」と書かれたヘルメットをかぶっていた。
その瞬間――
セバスチャンの目は、今ではない時間の流れを見る。
振り返った、青白い顔。尖った耳。
相手の胸倉をつかむ手。そして、羽音――
ブウウウウウゥゥゥゥゥゥウウウウゥゥゥンンンンン。
「おい、まだ休憩時間じゃないだろ!」
現場監督が吠えた。
プレハブの事務所に、ノルンが、エルフの青年に肩を貸して入ってきたのだ。
「何言ってる。見りゃわかるだろ。急病人だ。医者に診せてやらなきゃ」
「はあ? なんだそれ。使えねえな。だったら邪魔にならんよう医者でもどこへでも行け。日当は払わんからな!」
「おい」
あまりと言えばあまりな物言いに、ノルンが口を開きかけたが、それより先にレオンハルトが、監督の前に立った。長身から見下ろす眼光に、なんだよ、と相手は怯んだ。
そのとき、青年がひときわ苦しそうな声をあげる。
「大丈夫か? おい!」
彼はノルンをふりほどき、逃れるような素振りを見せたが、そのままよろけて事務所の床に突っ伏してしまった。
「だ、だめだ……。もう……抑えられない……」
苦しい息の下で、彼は言った。
「何だって? 何がだ」
「この……蟲を」
ブウウウウウウウウンンン。
「!?」
「なんだこりゃ!」
現場監督が声をあげて、ぶんぶんと腕を振るった。
蠅だ。
事務所内を、蠅が飛び交っている。いつのまにこれほど、というくらい、小さな影が無数にあって、羽音が耳につく。
「ど、どこから……」
「蟲――は……俺の……中……」
「なに」
「離れろ、様子がおかしい!」
レオンハルトが警告する。
ブワアアアアアアンン。
糸をひっぱられた操り人形のように、青年が不自然な勢いで立ち上がった。
ぐるり、と振り向いたその顔を――大量の蠅が這っている。
見開いた目の、その上さえ蠅に這われるままにしながら、もはやその目の中に理性はなかった。
「こいつの――しわざか」
ノルンはコートを脱ぐと、わんわんと飛ぶ蠅の群れを払い落とした。
そのノルンに向かって、青年がまっすぐに突進してくる!
「おい、耳の尖った、エルフみたいなやつがいるだろ!」
セバスチャンが手近な作業員をつかまえて訊ねた。
「ああ、さっき気分が悪いって事務所のほうへ連れてかれたぜ」
それを聞いて、駆け出す。
「セバン、何を視たのさ!」
あとを追うベル。
「わからん!」
「なにそれ!?」
「わからんが……なんかヤバイもんだ。あれは……もしかしたら……」
彼の視界の前方で、プレハブの建物から飛び出してくるものがある。
作業服の青年と組み合っているノルンだ。
ふたりはそのまま地面を転がり、ノルンが相手をそのまま投げ飛ばす。
人々は、見た。
起き上った青年が、ぱっくり開いた口から、黒い靄のようなものが吐き出されるのを。
いや、靄ではない。それは唸りをあげる蠅の群れだ!
しゅん、と音を立てて、ベルの手甲が刃を吐く。彼が駆け出していく先で、すでに戦いは始まっていた。
4
「こいつ!」
ノルンがコートを振るって蠅の群れを薙ぐ。
ひとかたまりになって飛来した蟲たちは、バラバラになって飛び散り、再びあやしい生きた気体のように、かれらを襲おうとしていた。
ノルンのあとから事務所を駆けだしてきたレオンハルトが、蠅たちを眼光で射抜いた。瞬間、電流にでも触れたように蠅の群れの一部が弾けとび、ばらばらと地に落ちる。見えざるなにかの力が作用したらしい。
その隙を突いて、ノルンが間合いを詰める。
避ける間もなく、作業服の襟元を掴んでひきよせると――、背負い投げ、一本!
もんどりうって、青年の痩せた体が地面に転がる。
先ほどと同じように、本人の運動神経のなせるわざとは思われない異様な動きで、彼は立ち上がる。ノルンはそれを見越してバックステップで飛びのいていた。青年の手が空を掻く。
そこへ飛び込んできたのがベルだ。
白刃が閃く。
弧を描く軌跡が、青年の腕を一撃のもとに切断する。
だん、と斬り落とされた手が地面の上で弾んだが、そのショッキングな光景を誰も見ていなかった。腕が飛んだ切り口のほうで、もっと驚くべき異変があったからである。
「何なんだ、こいつ」
ノルンが表情をゆがめた。
腕が切断されたというのに、血は、ただの一滴も零れなかった。
かわりに、蠅が――蠅の群れが、大量に傷口が噴き出してきている!
体内に、これほどの蠅がいたというのか?
いや、違う。
斬られたところから、青年の肉体そのものが蠅の群れに変わりはじめているのだ。
その証拠に、腕はもう肩口までなくなりつつあるではないか。
「これ……まさか」
ノルンは、銀幕ジャーナルの記録を思い出していた。
蟲の化け物。
一言で形容するならそうだろう。そしてそれはあの……、先日、熾烈な戦いのすえにようやく討伐された、あのムービーキラーの様子を連想させずにはいなかったのだ。
「これ、殺虫剤じゃ追いつかないかな!」
ベルは剣をふるい、巧みな体捌きで蠅の群れの襲来をかわしていた。おそらくこの群れにつかまってしまえば、あの犬と同じ運命をたどる。しかし逃げるのはいいが、これでは有効なダメージを与えることができない。
ノルンも地面の上を転がりながら、反撃の機会をうかがう。どうにか本体に一発お見舞いしなければ。
『どきたまえ』
そのときだ。
レオンハルトの声が言った。
『もろともに焼き払われたくなければな』
レオンハルトである。
しかし、離れた場所で、他の作業員ともども身を隠しながら様子を見ていたセバスチャンは、それが彼であって彼でないように思えた。
まるで、別人が乗り移りでもしたような……。
『煩い……文字通り、五月蠅い』
レオンハルトは言った。
『蟲ごときが――わきまえよ!』
瞬間――
ごう、と炎が巻き起こった。
それは一瞬にして蠅の群れを包み込む。
たちまち燃え上がった蟲たちはそのまま四方八方に散り散りになり、すぐに消し炭になってぼろぼろと落ちていく。
火は、エルフの青年の着衣にも燃え移っていた。
恐怖か、苦痛か、それとも憤怒か……、彼は獣のような咆哮をあげて、むちゃくちゃに暴れまわる。
ノルンが足払いを仕掛けた。
バランスを崩した彼の――今度は首を、ベルの剣が刎ねる。
胴体を離れた首は、地面に落ちると蟲になってぞわりと崩れ、それもレオンハルトがにらみつけると炎に呑まれた。
一方、胴体のほうは……一巻のフィルムとなって、ノルンとベルの間に落ちた。
しゅしゅうと煙をあげるそれは……焼け焦げたというわけではなく、黒いボロボロの姿で。
「やはり……、ムービーキラー」
ノルンが呻いた。
ざらざらと、風化し、消えていく――変異したムービースターの証し。
「おおおおい!」
悲痛な声だ。
「火を! 火を消してくれえ!」
現場監督が叫んでいる。
蠅を焼き払った炎が飛び火したようで、置いてあった資材が火の手をあげていた。何人かの作業員が消火器を取りに走ったようだ。
レオンハルトが、無感動な眼差しでそれを見遣ったが、現場監督は彼に食ってかかる。
「おまえ! なんてことをしてくれるんだ! 蠅を退治してくれとは言ったが、火事にしてくれなんて頼んじゃいないぞ!」
ふう、と息をついて、彼は冷ややかな目を向ける。
それは先ほどのレオンハルトではないように思えたが、ならば彼こそ本来の彼なのだろう。
「では」
厳然と言い放つ。
「訴えるかね? 人でもモノでもないムービースターを」
ぐ、と監督は言葉に詰まった。
法の範囲にないムービースターを訴訟の対象にすることは不可能だ。まっとうな保障のもとに労働契約を結ぶことができないように。
「しかしまあ、このままにして帰るわけにはいかんしなあ」
ノルンだった。
燃えていない資材の上に飛び乗ると、仁王立ちに現場を見下ろした。そして叫ぶ。
『俺達ギャリック海賊団だぜ!』
大津波が、一切合財を押し流した。
★ ★ ★
「確認したぜ」
ノルンは、青年が籍を置いていた派遣会社に電話をしていたらしかった。
火は消えたが、それ以前になされていた通報にもとづきあらわれた消防車と、警察車両のライトが、あたりに不吉な赤い光を投げかけている。
現場監督はびしょぬれで、放心したように、地面に座り込んでいた。
「なにかわかったことが?」
レオンハルトも、たぐいまれな状況判断と反射神経で、高い場所に飛び移り、津波の難を逃れていたため、仕立ての良いスーツはまったく汚れていなかった。
「去年の末に下水道内の仕事に派遣されてたらしい」
「……」
「気になるよな。いろいろと」
「……」
「念のため、同じ仕事をして具合が悪くなったやつがいないか、調べるように言っといたぜ」
レオンハルトは頷くと、これで用は済んだと思ったのか、鷹揚に、しかし大股に歩きだし始める。ノルンは、そういやあいつらどこいったんだ?と、セバスチャンとベルの姿を探したが、見当たらなかったので、まあいいか、と彼のあとに続く。
「ムービーキラーになったものは救えないと聞く」
ぼそり、とレオンハルトが言った。
「あの青年も……すでに戻ることはできなかった。手遅れだった」
「ああ……でもそいつは……」
仕方ないことだろう、と言いかけたノルンだったが、レオンハルトの言わんとしているのは、別のことだった。
「この街も、そうかもしれない。すでに、病は進行しているのかも」
「おいおいおい!? ホントにまだやんの? これってもう依頼終わってね!? 帰ろうぜ、おい!」
「言ったでしょー。元から断たなきゃダメって」
下水道だ。
つかつか歩くベルのあとを、セバスチャンが追う。
「元って何だよ、元って。ムービーキラーの元って言ったらおまえ――」
セバスチャンの鼻先に、それが突き付けられた。
「う……」
ベルの手首にもいつのまにか嵌まっている。それは……ゴールデングローブ。
セバスチャンは、それを受け取った。
「……あると、思ってんのか」
「このまえのひとつだけだなんて誰も言ってない。ディスペアーは2種類いた。だよね?」
「けど……だったら……」
「おおい、きみたち!」
ふいに、声と、光がかけられた。
作業服の人物が幾人かあらわれる。
「何してるんだ。ムービースター? この先は行っちゃだめだ」
銀幕市の腕章をみとめ、ふたりは何があったのかと目で訊ねる。すると相手は言ったのだ。
「この先で……ネガティヴゾーンが見つかったらしい。中央病院の地下あたりでだ」
(了)
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クリエイターコメント | お待たせしました。『蠅の王』をお届けします。 おおむね、みなさんの予想されたとおりの展開かと思います。 本筋なんだかどうなんだかわかんないところで社会派なものも盛り込みつつ。 ラストのその先で起こっていた出来事は別のシナリオで語られるはずです。 銀幕市の今後に思いを馳せつつ。
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公開日時 | 2009-02-07(土) 17:00 |
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