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<ノベル>
■腐り果てた大地■
空気の下を、下水の臭気が這いまわっている。
しかし、そんな匂いも些細なものにすぎなかった。
壁と床を食いつぶす、カビの息吹。流れを止められ、澱んだ空気。息を吸いこめば、肺の中がそれで満たされる。後味のように嗅覚にへばりつくのは、腐った血や膿の匂いに似ていた。
ここに何日もとどまるのは、自殺行為に等しいのではないか。8人のうちの誰かが考えた。どんなに健康な人間でも、24時間で病気になってしまいそうだ。
ただ、8人が各自の判断で持ち寄った物資の量から計算すると、だいたい2週間はここに留まれそうだった。
「しかし、無理は禁物ですね。できれば、1週間ほどで切り上げたほうがいいでしょう」
ランドルフ・トラウトは慎重だ。怪力を見こまれて――それ以前に自主的に――彼は荷物持ちを務めている。自慢の嗅覚は役に立つかどうか、この世界に入った瞬間からすこし不安になった。ここは、肉の匂いがわからないくらい、不快な悪臭で満ちていたから。あるいは、嗅覚が鈍っているのは、ゴールデングローブの作用によるものなのかもしれないが。幸い腕力のほうは、ポーターの役割を果たすには充分な程度に発揮できている。
「でももし、あの街が『もうひとつの銀幕市』だとしたら、1週間だと調べ切れないかもしれない」
取島カラスは顔色を曇らせ、緑がかった霞の向こうの廃墟を指差した。
一見するかぎりでは、廃墟が銀幕市であるかどうかの判断ができない。しかし、ウィレム・ギュンターも含め、一行の数人がカラスと同じ考えを持っていた。以前のネガティヴゾーンの探索でも、銀幕市をそっくり模したような世界がいくつもあったからだ。
下水道につながっている出入り口からは、何度出入りしてもネガティヴゾーンの同じ場所に出るようだ。出入り口は今のところ、『安定』していると言っていいだろう。
二階堂美樹はすでに一度ここを訪れている。偶然迷いこんだそのときと、彼女が見た光景はまったく同じだった。
「匂いはちがう……、でも、雰囲気はほんとに、おんなじだ」
薄野鎮は、顔をしかめて肩をすくめた。彼もネガティヴゾーンに入るのは初めてではない。この空気に触れていると、嫌なことを思い出す。しかし――自分以上に嫌な想いをしている人がいるんだ、と、彼は無言でユージン・ウォンの背中に目を向けた。
ウォンは他のメンバーともほとんど口をきかない。相変わらず色濃いサングラスをかけていて、表情からはその心情が読み取れなかった。
「あの廃墟も確かに気になりますが……僕は『森』を探したいところです」
カメラを回していたルースフィアン・スノウィスが口を開く。その目が、ちらとほんの一瞬美樹の顔をうかがった。本当に、ほんの一瞬だ。
「ブレイフマンさんが、『森』に執着しておられましたからね……。『友達が必要』と言って、そこに拉致した人を連れて行こうともしていた……」
「……」
美樹は、ルースフィアンが自分の顔色をうかがった理由を知った。彼は彼なりに気を遣ってくれたのだ。
「私も、森のことは気になってるわ」
このネガティヴゾーンに入ってから美樹が真っ先にしたことは、テロ集団『ハーメルン』のメンバーがひとり、ムービーキラーとして死んだその場所に行くことだった。彼女はすこし距離を置いてくれた仲間たちに見守られながら、ゼンマイやキノコに似た異形の植物の根元に、ゴールデングローブとウォッカを供えた。誰もその行動を咎めなかったが、彼女をひとりにしておくわけにはいかなかった。とりわけ、キュキュとランドルフはそれを気にしたし、当の美樹も単独行動は避けるべきだと強く言っていたのだ。だから美樹も、仲間たちを追い払いはしなかった。
「しかし、『森』とは、あの廃墟そのものを指しているのかもしれません」
ウィレムが、異形の植物に侵食された廃墟を指差す。確かに、廃墟は遠巻きに見れば緑色に侵され、背の高い木々が身を寄せ合う森のように見えなくもなかった。
「ムービーキラーの言動は支離滅裂になってしまうこともありますし」
「そうですね……。ではまず、あの廃墟が銀幕市と同じものであるかどうかを確認してみてはどうでしょう」
「賛成。――あ、やっと帰ってきたよ」
鎮が振り返って、そう言った。
帰ってきたのは、東栄三郎とキュキュだ。東はネガティヴパワーの計測器に気を取られ、誰に行き先を告げようともせずふらふらと歩いていってしまうので、仕方なくキュキュが護衛についていたのだ。ふたりはそう遠くにも行っていなかったが、怪我もなく元気そうで、カラスは安堵した。
「どうでした? 数値は計測できましたか……?」
ルースフィアンが尋ねると、東は納得いかない面持ちで首を横に振った。彼のトレードマークとも言える怪しいゴーグルでは、デジタルの英数字が目まぐるしく動いている。
「我輩の装置がまるで役に立たん。原因も不明だ。うぬぬぬ、せめて原因がわかれば!」
「あの、博士のことは信頼しておりますが、行き先もおっしゃらずに出かけられるのは、どうかお控えくださいませ」
キュキュの言い分はもっともだったが、彼女はもじもじしながら小さい声でやっと言ったきりで、唸っている当の問題児にはほとんど伝わっていない様子だ。
「では、行くぞ」
ずっと黙っていたウォンが口を開いたので、全員の目が彼に向けられた。
「ここでは何の情報も得られないことがわかった。それに……美樹の大切な用事も済んだのだ」
■腐り果てた街■
世界は、不自然なほどに静まり返っていた。まるで深夜の住宅街のようだ。遠くで音が転がっているようにも感じられるのだが、実際に鼓膜を揺らす音は一切ない。
いろいろと準備があったので、一行がネガティヴゾーンに入ったのは、真上の中央病院が消灯時間を迎える直前だった。地下の排水施設から下水道に降りるはしごがあり、その周辺は有志が交替で見張りをしてくれている。
地上の時間は22時をまわっているはずだった。
ネガティヴゾーンの空は、曇天の昼間のようにはっきりとしない光を放っている。白夜のようですね、とルースフィアンは呟いた。22時のこの明るさがずっと続くなら、時計を頼りに1日を過ごすしかないと一行は考えた。美樹が「大切な用事」をすませてから徒歩で廃墟に向かい、その入口に到達した頃、日付が変わった。相変わらず空を覆う雲は身じろぎひとつせず、白々とした光を孕んだままだ。
廃墟の入口。
はっきりと、「ようこそ ここから廃墟です」というような気の利いた看板があるわけでもないが、9人はそこで足を止めていた。カビや菌類に侵された大地がつづくばかりであったのに、そこからは、ひび割れたアスファルトの道路が土から顔を出していて、消失点に向かってまっすぐ伸びていたのである。むろん、消失点の前には崩れかけた多くの建物が立ちふさがっていて、地平線も見えなくなっていたが。
近づいてみれば、廃墟の惨状がよくわかった。
人の気配などはない。うち棄てられた街ではなく、恐ろしい力によって打ちひしがれ、破壊された街並みの様相を呈していた。ビルから窓ガラスは失われている。コンクリートの壁や天井が崩落し、錆びた鉄骨をさらけ出している建物も少なくない。さらに、すべての建物の壁は、びっしりと異様な植物やカビに覆われていた。巨大なゼンマイやキノコに似た『木』が、幹や枝を伸ばし、窓や壁の穴から突き出しているのも珍しくはない。
湿気で黒ずんだ畳の匂いがする。
日陰の土の中に埋められた、猫の死骸の匂い。
汲み上げた下水を撒き散らした匂い。
数百のウジに食い荒らされるチーズの匂い。
「腐敗だ」
ウォンが表情も変えずに言った。吐き捨てた、と言ってもいい。
「この世界は腐っている。この腐敗した世界を、銀幕市は内側に抱えているのだ……行き着く先は悲劇ではない。死だ」
「でも、この世界はただの腫瘍なのかもしれない。それなら、切り離せば――」
「腫瘍ならば、なおのことたちが悪い。狂った細胞がひとつでも残っていれば、それは増え続ける。狂った二重の螺旋を見つけ出し、元から断たねばならない」
「あ……、こ、これ」
何気なく足元を見た鎮が、地面から紙切れを拾い上げた。下水の匂いの土をかぶった紙切れは、腐りかけている。鎮が人差し指と親指だけでつまみ上げた紙切れを覗きこみ、彼らは顔色を変え、或いは表情を強張らせた。
それは2009年2月発行の銀幕ジャーナルの一部だった。
発行日は、今日の日付だった。
カラー写真は赤色が飛んですっかり色あせ、印字は灰色ににじんでとても読めたものではない。今日の銀幕ジャーナルなのに、それは遠い過去のものになっているようだった。
「待って、ちょっと見せて」
捨てようか東にでも渡そうか迷った鎮の手から、美樹が湿った銀幕ジャーナルを取る。汚らしさをいとわず、彼女はしわくちゃの紙面を広げて、色あせた写真を見つめた。どうやらかなり大々的に取り上げられた記事のスクープ写真のようで、紙面のほとんどをその1枚が占めている。
何が写っているのか。
どうやら杵間山の中腹あたりから写した、銀幕市の遠景のようだが……。
街のあちこちから、黒煙が上がっているようにも見える。もしくは、黒い、大蛇のような怪物が、首をもたげているようにも。
食い入るように銀幕ジャーナルを見つめていた美樹だったが、傍らのキュキュと一緒に悲鳴を上げた。
突然、銀幕ジャーナルの真ん中に黒い穴が開いたのだ。穴はわしわしと音を立てながら拡がっていった――見えない虫が大急ぎで食べているかのように。美樹はほとんど反射的にジャーナルから手を引いていたが、黒い、蟻よりも小さな虫が数匹両手を這い回っているのを見て、また悲鳴を上げた。虫の動きはダニやゴキブリくらいすばやかった。しかし、咄嗟に両手をバタバタ振っただけで、虫は簡単に振り落とされ、地面に落ちて、すぐに姿が見えなくなった。
「だ、大丈夫ですか!?」
「び、びっくりしただけ。何ともないわ」
白衣でごしごし手を拭きながら、美樹は心配するランドルフやキュキュに答えた。
「どうかしましたか……?」
少し先に行って廃墟の様子を撮影していたルースフィアンとウィレムが戻ってくる。美樹がまったく無事であることを確認すると、ふたりはほっと息をつき、しかしすぐに硬い表情に戻った。
「どうやら、ここが『銀幕市』であることは間違いないようです」
ウィレムが撮影したムービーの中には、ズームアップで撮られたビルの看板がしっかり収められていた。
錆びつき、ぼろぼろになっていても、『ホテル ニュー銀幕』の文字は明らかだった。これは銀幕市が映画の街として栄える前から駅前に存在する、老舗のビジネスホテルの看板だ。街並みがアメリカ西海岸風に変わりゆく銀幕市の時世の中でも、このホテルは頑なに昭和のおもむきを感じさせるフォントの看板を掲げ続けている。そのため、洒落た宣伝広告であふれかえるビル郡の中で、逆にこの看板は目立つのだ。誰もがこの看板のある場所を覚えている――ホテル・ニュー銀幕に泊まったことがなかったとしても。
「でも、住宅街が見当たらないな。ホテルが向こうにあるなら……俺たちは、ダウンタウンを突っ切って歩いてきたってことになるはずだ」
カラスが、歩いてきた道を示した。ネガティヴゾーンの出入り口から現在地まで、民家らしい建物など一軒もなく、ただただ腐った大地が広がっているばかりだった。恐らく、『もうひとつの銀幕市』が廃墟として姿を晒しているのは、市街地の一部だけなのだろう。
「銀幕市と『同じ』であるならば……調べたい場所がある」
「中央病院だろ?」
ウォンと同じことを考えていたのは、カラスだけではなかった。美樹もそうだったし、ルースフィアンもそうだ。彼らが『真上』にもある銀幕市立中央病院のことをここでも真っ先に考えたのには、理由がある。
こうしている間にも、中央病院の一室で、美原のぞみという少女が、夢をみているのだ――。
廃墟の地理は確かに銀幕市のミッドタウンおよびアップタウンの一部のものに準じているようだったが、市立中央病院までの道のりは長かった。移動手段が徒歩しかないというのが大きいが、真上では整備されているはずの道の状況はひどく悪かったのだ。
ここでは、見覚えのある建物が倒壊して、道をふさいでいることも珍しくない。
大きく迂回するはめになり、余計な距離を歩かされた上に、今度は一行の行く手を『沼』が阻んだ。コンクリートとアスファルトの街並みの中に、突然、緑色に濁った水たまりがあったのだ。どうやら道路が陥没したところに、下水が溜まったらしい。ウィレムが、瓦礫の中から噴き出す汚らわしい噴水を見つけた。
「また遠回りかあ。このへんは道がごちゃごちゃしてるから面倒なんだよね。ほんとの銀幕市でもよく迷うところだよ」
鎮がわかりやすいほどに落胆した仕草を見せた。悪臭を放つ沼には、虹色に濁った泡が浮いている。風が吹いていないせいか、泡は動かず、いつまでも壊れず、ぬめった光を放ちながら浮かび続けていた。
「いえ……、なんとかできるかもしれません」
蒼い杖を手にし、ルースフィアンが沼の前に進み出た。
「凍らせてしまいましょう」
杖の先を沼に向け、この世のものではない言葉を放つ。効果音、としか言い表せない音が響いた。一瞬、身を切るような凍てついた風が吹いて、後ろで見守る仲間たちは目を細める。
めりッ、と音を立てて下水は凍りついた。いかにも滑りそうではあるが、まわり道をするよりはずっと時間はかからない。
「あ!」
しかし、仲間のほとんどがそこで驚いて声を上げた。ルースフィアンの身体がふらりと傾いで、その場に倒れかけたからだ。咄嗟にランドルフとキュキュが飛び出して、彼の痩身を抱きとめた。
「す――すみません」
「どうしたんですか!?」
「僕としたことが……これほど力を制限されているとは思わず……」
ルースフィアンは美しい顔にびっしりと汗を浮かべて、弱々しく咳をした。
「捨て置いてください。体力が戻る保障はありません。皆さんの手を煩わせるわけには……」
「何を言っているんですか。……あなたは、軽いですよ」
ランドルフが笑って、ルースフィアンをひょいと抱え上げた。
キュキュはしばらくおろおろして、ルースフィアンと凍った道を交互に見ていたが、やがて決心したように仲間たちに言った。
「私、真ん中まで行ってみます。あの距離からなら、ぎりぎり端まで私の触手を伸ばせます」
「えっと、キュキュさんがあの真ん中に立って、僕たちを端から端まで渡してくれる……ってこと?」
「そうです。皆さんの靴では、滑りそうですから」
「ちょっと心配だわ……」
「それじゃ、僕たちがキュキュさんの足を1本持っていればいいよ」
鎮が笑って言うと、カラスと美樹も笑ってキュキュの触手を1本掴んだ。
ウォンとウィレムも無言で頷く。キュキュはするすると掴まれた触手を伸ばしながら、凍った下水の上をゆっくり進んでいった。
ルースフィアンの魔法は、かなりしっかりと水を凍らせたようだ。氷には相当の厚みがあるようで、キュキュが這っても揺らぎもせず、不穏な音もしない。
沼の中央まで行き着いたところで、キュキュはほっと安堵した。
しかし、安堵ついでに足元をじっくり見なければよかった。
ゲジゲジの足だ。いや、ムカデかヤスデかもしれないが。
無数の節足が、氷の中に――自分の足の下、数センチ下に――閉じこめられているのが見えた。足の長さや大きさから考えると、この蟲の大きさは……異常である。
凍った沼の端に立っていた仲間たちは、顔を上げて自分たちを見たキュキュの表情に、鬼気迫るものを見た。しかしそれに気づいた瞬間には、キュキュが人数分の触手をびよっと急に伸ばしてきていた。
「わ!」
「きゃっ!」
7人はキュキュになかば投げ飛ばされた。それでも、彼らはなんとか無事に沼の向こう側に渡ることができた。地面に投げ出されてから、ほとんど間髪入れずに、ウィレムがキュキュの足を掴む。そして、力いっぱい引っ張った。ウォンも一秒後には無言で加勢していた。
ばりばりっ、と氷が裂ける音、キュキュの悲鳴。めくれる氷と飛ぶ水しぶき。そして、氷と水の間から現れたのは、数メートルはあろうかという巨大なムカデだった。
ムカデが鳴くはずはないが、そのムカデは吼えた。ムカデには顔があった。目のないヒトの顔によく似ている。
美樹のスチルショットが、その顔に命中した。
叫び声を上げてのたうつムカデの下で、氷は割れ、飛び散り、水たまりの中に沈んでいく。一行が沼と見なしていたものは本当に沼だった。水深が、まるで見当もつかない。
キュキュは幸いほとんど無傷で仲間のもとに辿り着いた。彼女の触手から手を離し、ウィレムとウォンが拳銃を抜く。弾丸はムカデの頭をとらえた。赤い血煙が上がり、巨大なムカデは高々と水しぶきを上げて斃れた。
その醜い姿は、ぶくぶくと沼の中に沈んでいき――
恐らくかれらは、目を覚ました。
明らかに空気が変わったのだ。
時刻は午前6時。
空の色も明るさも、ずっと変わっていない。だが、廃墟の片隅、地平線の向こう、空の彼方から、音が聞こえてくるのだ。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ、
きちちちちちちちちち、
かかかかかかかかかか、と。
「走れ!」
「建物の中に!」
けれど、どうして逃げられると思う?
蟲の大群は、廃墟の片隅、地平線の向こう、空の彼方からやってくるのだ。飛んでくるのだ、這ってくるのだ。翅にかかれば数メートルなどひとっ飛び、カマドウマの脚にかかれば数メートルなどひとっ跳び。
蟲どもは9人を追いかけてくる。
蟲に咬まれ、引っかかれ、刺されながら、9人が逃げこんだのは、小さな街角の交番だった。べつに警官に助けを求めたかったからではない。ふさがなければならない箇所が少なかったからだ。
■まっくらやみのなかで、ひそひそ、ひそひそ■
「スミルノフが言ってたの」
「スミルノフ? ああ……あのガスマスクの人」
「右腕をなくされた方ですね。……ここで」
「そう。無神経だと思ったけど、聞いたのよ。腕をなくしたときに、何か聞いたり見たりしなかったかって」
「どうしてそんなこと?」
「彼、キラーになりかけたのよ」
「……そうか。ミランダは、この世界と感覚がつながっているようなふしがある……」
「そう。もしかしたら、このゾーンからのメッセージみたいなものを受け取ってないかと思って」
「なるほど。……それで、彼は何と?」
「何も聞かなかったし、見なかったって。……でも……」
「……?」
「『自分はこれで一人ぼっちだ』って、思ったって。『自分はたったひとりで、皆とは違う世界に行くんだ』って。すごくすごく……寂しくなったって言ってたわ。痛くて痛くて苦しいのに、考えてたのは、『自分が一人ぼっちになる』ってこと……」
「『どうして、自分だけ』」
「……」
「のぞみちゃんはまぼろしの中に出てくるたびにこう言ってる。『どうして、わたしだけ』って」
「……」
「のぞみちゃんに伝えなきゃ。皆がそばにいるってこと。あの子は一人ぼっちじゃない」
「しかし、彼女は、自分が孤独だと思っているその心のままで眠り続けています。どれだけたくさんの方がお見舞いをしても、彼女に独りではないと呼びかけても、彼女はそれに気づかない……彼女の世界では、ずっと『自分は一人ぼっち』なのですよ」
「ウィレム君は、厳しいんだな」
「そうでしょうか。カラスさんが優しいのですよ」
「美原のぞみ……確かにあの娘はこの街の魔法の中心にいる。ネガティヴゾーンとも無関係ではない。しかし、あの娘ひとりだけの問題ではあるまい」
「え、……ウォンさん、どういうこと?」
「すべてのムービースターとムービーハザードの存在を、のぞみただひとりが夢みたと思うか? ありえない。相当な映画フリークだったようだが、私が登場した血なまぐさい映画を観たとは思えん。存在を知っているかどうかすらも怪しい。リオネの魔法は暴走したのだ……のぞみただひとりだけの夢を叶えるつもりが、それだけではすまなくなったのだ」
「では、映画に触れ、銀幕市に携わっていた、すべての人の……」
「負の感情」
「ムービースターが皆の希望なら……」
「ネガティヴパワーは、皆の絶望なのですね」
「考えてみれば、誰しもが生きているうち、必ず一度は思うことなのかもしれません」
「『自分は一人ぼっち』」
「『どうして、自分だけ』……」
「人間は独りでは生きていけないから、きっとそれが、いちばんの絶望」
「一人ぼっちで死ぬのは怖いわ」
「それならなおさら、のぞみちゃんには伝えなきゃいけない。彼女は一人ぼっちじゃないんだ」
「私たちもまた、ひとりではありませんよ。……ラジオを聴きましたか?」
「あ、聞いた聞いた! もー、危うく泣いちゃうところだったよー」
「カミングアウトしちゃうけど、私は泣いたわ」
「は、恥ずかしながら、私も少し……」
「ドルフさん……」
「みんな応援してくれてるし、頑張らなきゃね」
「皆さん、ご昼食の準備が整いましたよ」
「あ、はーい」
「キュキュさんが作るごはん、ほんと最高だよねー。でも乾パンみたいなパサパサの保存食ばっかりなのに、なんでごちそうにできるのか不思議で仕方ないんだけど」
「乾パン料理のレシピ、教えてもらわなくちゃな」
「あ、あ、ありがとうございま……す……」
「もー、もじもじしないで、自信持って! ほんとおいしいんだから」
「ウォンさんもどうですか? 今日くらい」
「いや、結構だ。……一人ぶん余計にあるのなら、ランドルフに食わせてやれ」
「あはは、さっきすごいおなか鳴ってたよね」
「う、お、お恥ずかしい」
「外の様子はどうですか?」
「変わらん」
「東博士、計器のほうは?」
「ううむ……何ともいえんな。しかし、改良の結果、興味深いデータが取れたぞ」
「え、どんな!?」
「すぐ言ってよ、進展があったんだったら!」
「何度かテストを繰り返していたのだ! はっきりとした結果が出たのはつい5分前だ。――まず、銀幕市ミッドタウンとアップタウンの地図をこのPCにインプットしてだな……」
「……話が長くなりそうですね。まず食べてからにしませんか。せっかくのキュキュさんの料理が冷めてしまいますから」
「あ、賛成」
「そして現在のパワー値を照合して表示すると……なんだ、訊いておきながら誰も聞いておらんではないか!」
3日間、彼らは狭い交番で篭城した。
中央病院はここからそう遠くはないはずだ。しかし、身動きが取れなかった――「やつら」の生態を掴むまでは。
4日目の20時過ぎ、ようやく一行は交番を出た。
3日間の観察で、蟲どもが20時から翌朝の6時までは活動しないことがわかったのである。凍らせた沼地で蟲に襲われたのは、べつにかれらを刺激したためではなかったようだ。
となると、かれらはミランダの言う『目覚めるもの』ではないのか――。
篭城に必要なものは揃っていた。ストレスのことを考慮しなければ、食料も水も2週間ぶんはあった。それに、睡眠も充分に取ることができた。ウォンの身体はすでに死んでいて、食事も睡眠も摂る必要がなく、彼は2日間文字通りの『寝ずの番』を務めたのだ。
交番に飛び込む前に全員が蟲から食らった傷は、どれも微細なものにすぎなかった。キュキュはスターが傷を負ったことをひどく気にかけていたが、幸い大事には至っていない。ルースフィアンの体調も、昏倒しかけたあのときよりはだいぶよくなっている。
ルースフィアンは相変わらず自分を見捨てでも調査を続けろと言った。
しかし相変わらず仲間はその言葉を受け入れなかった。何としても、9人揃って地上に帰る気だったから。
また、ひとところに長時間腰を落ち着けるというのは、東にとって好都合だったようだ。彼は計器を改良し、なんとかこの世界に満ちたネガティヴパワーの解析に成功していた。そのおかげで、一行が目指す場所はひとつだけに絞られた――この世界にも存在すると思しき、銀幕市立中央病院だ。
この世界に流れる絶望の力は、病院に流れ着いている。あるいは、病院から流れ出ている。とぐろを巻くように動いている力の中心があることは確かだという。
慎重に歩みを進めた一行が、廃病院と化した銀幕市立中央病院に辿り着いたのは、23時ごろだった。
■下の銀幕市立中央病院■
「これ……」
美樹はそれきり絶句した。鎮とランドルフの口はぽかんと開いてしまっている。
病院はまるでひどい火災にでも遭ったかのように、真っ黒に染まっていた。他の建物と明らかに違う点もある。それは、菌類のような謎の植物がひと株たりとも見当たらないところだ。カビの姿もない。ただ、ミイラ化した死体や炭化した焼死体のように、真っ黒で、ぼろぼろに朽ちて、そこに立ち尽くしているのだ。
病院を囲むささやかながらも華やかな花壇は見る影もなく、まったくひと気もない。この世界の建物の例に漏れず、窓ガラスは一枚も残っていなかった。
相変わらず、空は23時にはふさわしくない明るさだ。しかし、病院の中は23時の暗闇を抱えているのか、真っ黒い窓の奥を、外からうかがうことはできなかった。ライトの光を当ててもだめだ。誰かが病院の中で黒い煙を焚いているとでもいうのだろうか。
ただならぬ気配に、ウィレムは拳銃の弾倉に弾丸がこめられているか確認しなおした。
「タイムリミットは明日の6時だけど……できれば、もっと早くに出たほうがいいかもしれない。近くに逃げこめそうなところはあるかな」
カラスがそう言って周囲を見回す。
「あのコンビニくらいかな。……それにしても、ヤな雰囲気だね……」
鎮は黒い病院を見上げてため息をついた。悪寒がぞくぞくと背中を這い登ってくる。まるで質量を持たない蟲が、服のあいだに入りこんできたような錯覚さえある。深夜の心霊スポットなどより、はるかに『入ってはいけない』雰囲気があった。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず、ですね。時間にも限りがあります……行きましょう」
担いだ大荷物の中から大きなハンドライトを取り出し、ランドルフが一行を促して、先頭に立った。相変わらず、嗅覚はあまり頼りにならなかった。腐敗臭があまりにもひどい。
分厚い自動ドアは開きっぱなしで、電気が生きている様子はない。曇った自動胴のガラスには、べたべたと人の手形がついている――ように見えた。中に足を踏み入れると、世界が23時の暗闇を思い出したかのような暗黒が、一行をすっぽりと包みこんでしまった。懐中電灯やハンドライトで照らせば、なんとか、荒れ果てたロビーの様子を見ることができる。
誰もが一度は行ったことがあった。総合受付と会計窓口、そしてずらりと並んだ目に優しい色の椅子。もっとも、その椅子の色も、清潔に保たれた壁や床の白も、まるで死体のように汚らわしく黒ずんでいるのだった。
椅子は倒れていたり壊れていたりするものも目につくが、ただ汚れているだけで、ちゃんと並んでいるもののほうが多かった。具合が悪そうにうなだれて、長い長い順番を待つ患者が、どこかに座っていそうである。ひと気はないのに、予感ばかりが脳裏をかすめる。向こうを照らせば誰かがいるのでは、あの曲がり角から誰かが歩いてくるのでは。ポゥン、と呼び出しを知らせる音がスピーカーから聞こえてきそうだ。佐藤さん――佐藤太郎さん……鈴木さん――鈴木次郎さん……山本さん――山本花子さん……1番の診察室にお入りください……。いや、今では個人名を呼び出さなくなりつつあるそうだが。
「美原のぞみの病室はどこだ?」
ウォンが不意に、誰にともなくそう尋ねる。カラスと美樹が、よく知っていた。入り組んだ構造の病院だが、そこへ至るための最短ルートを覚えている。
「反応があるかどうかはわからないが……準備してきたものがある」
ウォンが懐から取り出したICレコーダーを見て、ウィレムは興味深げに頷いた。
「ご両親の声でしょうか」
「父親の声はない。SAYURIに依頼した」
「市長――お父さんの声なら、私が持ってるわ。……流してみる?」
「病室に着いてからでも遅くはないだろう。この世界に我々を阻む気があるのなら、とうに手を打ってきているはずだ」
「じゃあ、のぞみちゃんは俺たちが来るのを待ってる?」
「それなら、いいのですが……」
不気味な暗黒は、静けさの中に浮かんでいる。物影や部屋の中から何が飛び出してくるいうわけでもなく、一行は順調に先に進んだ。聞こえてくるのは自分たちの息遣いと足音だけだった。
しかし……美原のぞみの病室に近づくにつれ、新たな音が、加わり始めたのだ。
それは、ムービースターが身につけているゴールデングローブのうめき声だった。ジジジ、ぶぶぶ、といつも以上に強く反応し始め、熱がもってきている。ランドルフが何度も荷物を持ち替えるようになり、ルースフィアンが軽く咳をし始めた。
「数値が安定してきておるな」
そう言う東の表情は険しい。
「異常に高い数値に安定しておるのだ」
「私たちはこれ以上進まないほうがいいでしょうか? グローブがもし壊れたら……」
不安げに巨体をすぼめるランドルフに、東は胸を張って堂々と答えた。
「充分にテストは行っている。これまで故障したことはないぞ」
「大丈夫? みんな顔色が悪いわ。……もう、すぐそこなんだけど……」
美樹が、本当にすぐそこのドアを懐中電灯で照らす。これまでに見てきたいくつものドアとそのドアには、何の違いもないように見えた。
彼らは、互いの顔を見合わせた。
誰にも引き返す気はない。
キュキュがそろそろと触手を伸ばして、ノブに手をかける。がち、と固い音がした。それは、拒絶の音に似ていた。
「鍵が……?」
「のぞみちゃん、いるのか?」
カラスがドアに向かって声をかける。ひそめた声でもおびえた声でもなく、はっきりとした声と態度だった。
「お見舞いに来たんだ。……お父さんもお母さんも、いつだって君のそばにいるんだよ」
ウォンは黙って、ICレコーダーの再生ボタンを押した。
眠れ、眠れ 愛しき我が子
一夜眠りて 覚めてみよ
くれなゐの 薔薇の花
開くぞや 枕辺に。
一夜の眠りより、覚めるがいい。
「おかあさん……来てくれたんだね」
■ 1週間。 ■
「……おかあさんは? あなたたち、だれ?」
ドアは開き、中から怪訝そうな少女の声が投げかけられた。
中は真っ白だった。
清潔な床、清潔な天井。消毒薬の匂い。
しかし、窓には半透明の白いシートが貼られていて、外の景色がほとんど見えない。テレビがあった。DVDデッキとビデオデッキも。大きなカラーボックスが持ちこまれていて、中にはDVDとビデオがぎっしり並べられていた。
そして、ベッドの上には、リモコンを持ったひとりの少女。
顔色は蒼白で、長い髪ももつれているけれど、彼女は、オーディションを顔でパスできそうなほど美しかった。
銀幕市では3年もその目を開けることなく、ただベッドに横たわっているだけの彼女が……ついさっきまで、身体を起こして映画を観ていた。そして今は、病室に入ってきた9人の男女を訝しげに見ている。
「だれなの?」
「……お見舞いに来たんだ」
「こんにちは、のぞみちゃん」
「こんにちはー、はじめまして」
カラスと美樹、鎮が微笑む。
けれど少女は、戸惑ったように9人の顔を見つめるばかりだ。そしてやがて、息を呑んで目をぱちくりした。
「あなた、映画でみたことある。あなたも……あなたも」
おずおずと、キュキュとランドルフ、ウィレム、ルースフィアンを指差していき、最後にウォンで指をとめた。
「あなたは、映画のざっしで」
「それは何よりだ。子供が観るような映画ではないからな」
ウォンはICレコーダーをポケットにしまいながら、かすかに苦笑した。
「へんなの。夢みてるんだね、わたし。映画ばっかりみてるから、こんな夢みるの」
少女はリモコンをテレビに向けた。再生していたDVDが止まり、テレビの電源も落ちた。真っ黒な画面に、少女の姿が映りこむ。
「……けんさの時間だ」
少女はうつむき、ぽつりと呟いた。
「みんな夢よ。わかってるんだってば。だって、けんさの時間だもん。めんかいはけんさがおわってからだよ。おとうさんだっておかあさんだって、おみまいにこれる時間じゃないもの。それに、ありえないもん。わたし、ともだちだっていないんだから。だれもわたしに会いにこようなんて思わないわ」
「そんなことない。あなたは……ひとりじゃないわ」
「さっきも言ったよ。たくさんの人がそばにいるんだよ」
「やめてよ。ただの夢のくせに。夢にはなんのちからもないわ。ただの夢なんだから。みんなみんな、頭のけんさうけたほうがいいんじゃない? けんさの時間!」
ゴおうん!
9人の足元の床が消え失せた。
さながら、絞首台のごとく。
誰かのバッグから、落ちたのか?
偶然そのとき、スイッチが入ったとでも言うのか?
ラジオから聞こえる声が、遠ざかっていく。
*たこてきモンスターQ! たこてきモンスターQ! いつまでねている。きさまの でばんだ。
*へ、陛下……? こ、ここは……ええと……?
*ねぼけて いるのか!
ズビシ!
*うきゃ!
*たこてきモンスターPが なかまを よんだのだ! きさまが ゆうしゃのまえに あらわれるばんだぞ。
*ゆ、勇者が? しかし、あの……。
*なんだ きさま! もんくでもあるのか! ゆうしゃのレベルあげのために かっこうの てきモンスターなのだということを わすれたのか。コントローラーのエーボタンを テープでこていして ひとばん ほうち! たこてきモンスターは そのためにいるのだ。そのためだけの そんざいだ。じっぱひとからげ というやつだ!
*ち、ちがう……。
*なにが ちがうか!
ズビシ!
*きゃうっ! ち、ちがう、ちがいます! わ、わた……私……ゲームじゃない。ゲームのキャラじゃありません。私、映画の……!
ズビシ!
*ひぐっ!
*ちがわん! ちがわん! なにがちがう! ゆうしゃに たおされるだけの たこてきモンスター! けいけんちかせぎの モンスター! きさまは ただ それだけの! ただ それだけの じっぱ ひとからげげげげ!
ズビシ! ズビシ! ズビシ! ズビシ!
「クロウ? もうひとつの人格? 何を言ってるんだきみは」
本当なんです。俺の中に閉じこめた、といいますか……男性的で乱暴な部分が切り離されて。
「だから何を言っているんだ。マンガの読みすぎじゃないのかね。最近流行っているそうじゃないか……ビリー・ミリガンが最初だったのかな……いや、くだらない三流ドラマだったかな。多重人格なんてものは存在しないのだよ」
あんたそれでも医者か!?
「ほほう、きみがクロウ君なのかね。私には取島カラス君にしか見えないが。いいかね……多重人格などというものは、逃避の方法にすぎないのだよ。痛みやショックから逃げるために、今の自分は自分ではないと思いこみ、演技をするんだ。ただそれだけ。きみは逃げているだけ。いや逃げることは悪いことじゃない。ごく普通の、誰にでもできる、誰にでも許された反応なんだよ」
……。
「つまりきみは、他の人と何も変わらない。ごく普通の人間。普通。普通普通、ハハハどこにでもいるハハハただの人! ふっつーーーーーーの・ひ・と!」
「自分が特別だなんて思ってんの?」
「うっわ、キモッ」
「きンもー……」
「近づかないでよ」
「あっち行ってったら」
「この指輪は誰のものだ? おまえの指には小さすぎるな」
「この指輪の血は誰のものだ? 血管と肉と髪の毛まで絡みついている」
「この指輪をはめていた指はどこに行った? きっと細くて、美しい指だった」
「そうだ、おまえが喰って、消化した」
「おまえの無駄につきすぎた筋肉に、有り余る血に、彼女は溶けた」
「彼女だけでは腹五分目にも満たなかったようだな」
「おまえはいくらでも喰うんだ」
「おまえは一度でも満腹になったか?」
「おまえは一度でもやめようと思ったか?」
「そうだ、喰うことを、やめようとしたか?」
「本当に反省したと思っているのなら、おまえは、」
「いまごろその筋肉と血を捨てて、骨と皮になっているよなあ?」
「なあ?」
「なあ、くいしんぼうちゃん」
「もうさあ、そういう中途半端なベジタリアンみたいなのムカツクから、はっきりしてくんない?」
「喰うのやめたいんでしょ。さっさと死ねよ」
「わたしが死ねって言ったら……死んでくれるんでしょう? ドルフ……」
「そういや、おまえが昨日喰ったあの女、髪がきれいだったなあ。まだ19歳だったんだろ? うは、ざ・ん・こ・くぅ」
「この身体を見ろ。いくら傷つけてもご覧のとおりだ。こんなやつが人間のはずがない」
「そうとも。こいつは雑種だよ」
なぜ、それを。
「忌まわしい魔物の子よ」
知っているのは……僕が知っている人だけのはず……。
「母親が人間か。どうせ望まれて作られた子ではあるまいよ」
「穢れた血だ。存在していることが我慢ならん」
「抜いてしまえ」
「半分抜いただけではどうにもならんな」
「この肉と骨のすべてに、魔物の血が染みこんでいるのよ」
「ならば、肉はすべて削ぎ落とす」
「骨は砕いて火にくべてやる」
「血は煮詰めて空に還す」
やめろ……、やめろ、僕に触るな。
「こっちだって触るのなんか願い下げなんだよ!」
「我慢してやってやるんだよ、文句言うな!」
「ああ、きたねえ、きたねえよお!」
触るな! 僕に触るな。
触るな! それは、僕の血だ。
それでも、僕だけの血だ。
「ルウ」
……!
「この足はどうした。この足だ。ずっと叩いているのにわからないのか? 金槌で叩いているんだぞ、ルウ」
「いらないんだろ。切っちまおうぜ。どうせ役に立たないんだ」
「何が予言だ……。こんな病弱でこんな使えねえ状態で、何を変えられるっていうんだ。ええ? ルウちゃんよ」
……その名前で……呼ばないでください。人の名前くらい、ちゃんと……。
「何言ってんだ、ルウのくせに。どうせこっちの目は見えてねえんだろ。俺にはわかるんだぜ、てめえが泣き虫ルウちゃんだってことくらい」
「知ってるぞ、おまえを初めてルウって呼んだあのクズが、おまえに何をしたのかは」
「俺たちが再現してやろうか? 顔だけ見りゃあ女みてえなもんだ、やろうと思えばできるんだぜ」
「ルウちゃん、ろくに動けもしねえおまえは、寝ッ転がってるのがお似合いだぜ」
「ベッドでせいぜい転がってろ、ルウちゃん」
やめろ!
その、名前は!
その名前だけは!
「わめいてろよ、ルウ」
「だから言ったのよ。漆くんはぜったい止めなきゃいけなかったの!」
「俺が言ったことは正しかったろ。『穴』にスターを近づけるべきじゃなかった」
そんなこと、わかってるよ……僕にも。あそこで、スチルショット撃ってればよかったんだ。僕だってふたりを止めたかったよ。
「で、結局、鎮くんは何かしたの?」
「君、何してたっけ?」
「腕とか掴んだ?」
「走って、追いかけようとした?」
「本当にふたりを止めたかったの? どうでもいいと思ってたんじゃないの? いつもみたいに」
いつも、って……どういうこと?
「いつも人を馬鹿にしてるじゃない」
「いつも笑顔で『うん、馬鹿だね』って言ったりしちゃって」
「どうでもいいんでしょ? 他人のことなんか」
「自分以外の人間は、みんな馬鹿だと思ってるんでしょ?」
「そうでもないとそんな毒吐けないよね」
ちがうよ……、ちがう……、あのふたりのことだけは、ほんとにちがうんだ。ほんとに心配したんだよ。あんなにひどいことになるなんて思わなかったけど、でも、嫌な予感はしたから、だから……!
「でも結局あんたはなんにもできなかった、しなかった」
「この役立たず。消えろ」
「あんたのせいでキラーになっちゃったよおおおおお」
レン。何故、おまえがここにいる。
「俺が命をなげうって守ったひとが、どんなひとになったかと思いまして、ね」
おまえはもう、俺の前にはいない。背中にもいない。そばにも、いない。
「いますよ。だって、大哥の命は俺が助けたんですからね。あんたの命は俺の命なんですよ。そこ、わかってます?」
おまえはレンなどではない。
「ずいぶんなお言葉だ。命の恩人に対してそれですか。あんたはね、俺が『穴』に行かなけりゃ、どうせ自分で行っていたんですよ。自分のことなんか、なんとも思っちゃいないんだから」
私は……、すでに死んだ身だ。
「でも、あんたの命はとっくに、あんただけのものじゃなくなってるんですよ。わかってるでしょ? わかってないんなら、あんたは、大哥と呼ばれる価値もない、ただの動くクソだ」
……レン。何が望みだ。
「あんた、俺の気持ちもわからないんですか? こりゃ参ったな。俺はただの乾いたクソを拝んでいたらしいや」
「こ、この論文は……」
「正気の沙汰じゃない」
「前からマズイと思っていたが、どうやら本格的に頭のネジが飛んだらしいな……」
「神……いや……宇宙の定義さえ否定するつもりか……」
「また……貴様……か、ジェーブシュカ」
ブ、ブレイフマン!? どうして? ゆ、夢よね、だってあなたは……。
「ゴボ、ッ! どうしてだ……? どうして、いつもいつも……貴様は……自分の前に……出てくるんだ」
そ、それは、えっと……その……。
「なるほど、な」
え、ちょっと!
「自分を誘ってるんだろう。この、売女」
やめてよ! どうしてそうなるのよ、ちょっと、離して! お願いやめて、こんなのいや! せっかく夢の中にまで、出てきてくれたのに!
どうしてあんたは、びしょ濡れなのよ!
ねえ、苦しいの?
ねえ、死んだあとも苦しんでるの?
私、どうしてもっと早く、あなたが苦しんでることに気がつかなかったんだろう。しつこくつきまとってたのに、ぜんぜん気づかないで。馬鹿みたい。ごめん、ごめんね、ブレイフマン――ごめんなさい! 癌だって、早く見つけられたら治るのよ。あなただって、もっと早くにわかってたら、助かったかもしれない。あなたを助けられなかったの。私のせいなの。許して、お願い――
許してなんて、くれないわよね。
「――やめて!!」
自分にのしかかってきたガスマスクの男を、渾身の力で突き飛ばす。
しかし、思ったよりも力が出なかった。
それでも、美樹は身体を起こせた。
自分にのしかかる男など、いなかったから。
「気がついた?」
透き通った声に、美樹は左右を見回す。壁も床もないただの暗黒の中に、汚れたベッドが10台並んでいて、8人の仲間が寝かされていた。薄っぺらい、薄汚れた、おそろいの患者衣を着せられて。両腕も両足も固定され、点滴を打たれている。美樹の右腕にも針が刺さっていた。彼女はほとんど反射的に、その針をむしり取っていた。
「おねえちゃん、いますぐにげて!」
どうやら美樹の両手足も拘束されていたようだが、誰かが――透き通った声の主が、縛めを解いてくれたらしい。
少女の声だ。右手を握りしめてきている感触もある。だが、姿がどこにもない。あの、一人ぼっちの白い病室にいた、あの姿が見当たらない……。
「のぞみちゃん!? のぞみちゃんよね!?」
「はやくにげて! いまはあいつ、おなかいっぱいでねてるの!」
『あいつ』が誰なのか、問いただしている場合ではなかった。急かされるまま、美樹はベッドを転がり落ちて、隣のベッドに駆け寄った。寝かされているのはランドルフだ、ベッドがかなり窮屈そうだった。針を引き抜いて右手のベルトを外すと、ランドルフはものすごい咆哮を上げて跳ね起きた。それだけで、左手の拘束が外れてしまった。
「に、二階堂さん。あ、ああ、ここは現実なのでしょうか。ひどい夢を……」
「急いでみんなを助けて! のぞみちゃんが、すぐ逃げろって」
ランドルフは周囲を見回し、慌てて状況を把握した。美樹が最初に助けたのがランドルフだったのは好都合だった。拘束具は、彼の力にかかれば簡単に切れる。
「こっちだよ。はやく!」
見えない少女が、ぺたぺたと裸足で走る音。
そして……暗闇の中、何かが息を吸って吐く、風の唸りのような音が響く。下水と腐敗の匂いが、規則的に吹く生ぬるい風に乗っている。なにものかが、息をしている。それも、とてつもなく巨大なものが。
暗闇の中に、ドアひとつぶんの白色が現れた。
9人はその白枠の中に飛びこむ――。
「パンドラのはこのおはなし、けっこうすき」
■ごはんが にげたよ!■
「うわ!」
「きゃ!」
「いたたたた」
見慣れたくもないのに見慣れてしまった、腐り果てた大地の上に、どさどさと9人は倒れこんでいた。いちばん下になってしまったのはキュキュだ。ふわふわの触手がびろんと広がる。
つい一瞬前まで心もとない患者衣一枚しか身につけていなかった彼らだが、今はあの少女の病室に入ったときの装備に戻っていた。しかし、体調はそのときと違っている。ひどく空腹だ。力が出ない。手を見れば痩せていて、仲間の顔を見れば頬がこけていた。まるで一週間飲まず食わずだったかのように。飲食も休息も必要としないウォンだけが、なんとか無事だった。
周囲は、廃墟。
病院の外だ。
しかも、少し距離が空いている。彼らの背後50メートルばかり向こうに、真っ黒に染まった銀幕市立中央病院があった。
「ねえ、……なんか、揺れてるよ!」
鎮の言葉は正しかった。
地面が……。
まるで身じろぎをしたかのように――。
おお!
9人が見つめる中、病院が吹き飛んだ。
その粉塵は、病院が黒く染まっていたがゆえに、黒煙であった。
黒煙は脚によってかき回され、息吹によって吹き飛ばされる。
誰かが驚いて声を上げた。おののいて悲鳴を上げたものもいる。
ほとんど本能的に、彼らは、それが『目覚めさせてはならないもの』だと悟った。あまりにも巨大で忌まわしい姿の、ムカデじみた怪物が現れたのだ。
その無数の脚の長さは伸び縮みしていた。
その胴体の長さがどれほどのものなのか、見当もつかない。やつは病院を吹き飛ばし、その地下から身体を引き抜いている。地面の下では、やつの胴体がとぐろを巻いているにちがいない。
どこに行った!!
言葉でもない、声でもない咆哮で、怪物はわめいた。
誰がどこにやった! どこに逃がした。 どこにも行かせんぞ! わたしのものだ。わたしひとりだけのものだ! みんなみんな、わたしだけのものだ!
ああ、ムカデと呼んでもいいものなのか? 脚は、怪物の長い胴体の、片側にしかついていない。バランスなど取れるはずもないのに、脚を伸縮し、胴体をくねらせ、異形はあたりをうろつきまわる。建物などは紙の箱のように踏み潰された。
戦慄すべきは、胴体の、脚がついていないほうの側面だった。
ずらりと、楕円形の口がいくつもいくつもいくつも並んでいた。鋭い牙が、唇のない口の中に無数に生えている。牙のあいだから、下水の匂いを放つ涎が絶え間なく滴り落ちている。すべての口は、それぞれが別個の意思を持っているかのように、てんでばらばらに、気まぐれに、がつがつと開閉されていた。もしや、不可視の何かを食っているのか。仙人が霞を食うように。
あれは、今日の銀幕市民が、ディスペアーの呼んでいるものの……親玉だ。
レヴィアタン。大きさも、放っている『気』のようなものも、あの巨大な異形の魚と同じだ。
ルースフィアンは、荷物から取り出したカメラを取り落とした。手に力が入らなかったのだ。しかし、ウィレムが地面に落ちる直前になんとかカメラを受け止めて、巨大ディスペアーの姿をなんとか収めようとした。しかし、地面は激しく揺れている中、衰弱した身体でまともに被写体をフレームに収めるのはなかなかの大仕事だ。
さらに、瓦礫や建物の陰からは、羽虫や蜘蛛に似たディスペアーが、次から次へと飛び出してきていた。どうやらかれらも巨大ディスペアーとは折り合いが悪いらしく、9人を攻撃することより、一目散に逃げることを優先しているようだ。
理由はすぐにわかった。巨大なあれは、飛び回る羽虫の姿のディスペアーをも捕食している。
「逃げろ!」
カラスが声を絞り出す。
「この人数じゃ太刀打ちできない、逃げるんだ!」
誰もあの怪物に立ち向かおうとは思わなかった。カラスと考えはまったく一緒だ。逃げるしかない。ランドルフは、咳きこんでいるルースフィアンを抱え上げた。
「おお、何と言うことだ……あのディスペアーは、空気中のネガティヴパワーを食っておるぞ!」
「博士、計測してる場合じゃないでしょ!」
「食事中、か。怒り狂ってはいるようだが、食い意地のほうが強いのだな」
「に、逃げるなら今のうちってことね」
しかも。
「現在、午後7時45分です!」
キュキュが懐中時計を見て、歓声とも悲鳴ともつかない声を上げた。あと15分だ。あと15分死に物狂いで逃げ続ければ、少なくとも、小型のディスペアーの活動は止まるはず。
保身よりも敵意を尊重する個体もいるようだ。揺れる地面を必死に走る9人に、たまに襲いかかってくるディスペアーもいた。ディレクターズカッターの光がひらめき、銃声が響く。
「危ない!」
ウィレムがランドルフに向かって叫び、オートマチックの引金を引いた。ランドルフと同じくらいの大きさの、10本も脚がある蜘蛛が、飛びかかってきていた。
ウィレムが全弾を撃ちこんでも、その蜘蛛は死ななかった。ランドルフは身をかわすことをあきらめ、拳を握る。
「うわあぁっ!」
しかし、横合いから鎮が蜘蛛に体当たりした。蜘蛛の身体や脚についた棘が、鎮の腕の皮膚を裂き、血が飛び散った。彼はバングル型のゴールデングローブを持っていた――ほとんど捨て身で、彼は蜘蛛の脚の1本にそのバングルをはめた。
「す、薄野さん……!」
「見てください、ディスペアーが」
ぎしぃい、と蒸気が噴き出す音のような鳴き声を放ちながら、ディスペアーはもがいた。ゴールデングローブは今まで聞いたこともないような激しいハム音を響かせる。蜘蛛はその脚からバランスを失って、どうと倒れた。死んではいないようだったが、身体をうまく動かせないようだ。立ち上がることもできず、蜘蛛はもがいている。
「や、やっぱり、効くんだ!」
「無茶です! なんてことを……!」
「試したかったんだよ……、東博士、見てた!?」
鎮はそこで倒れた。
腕だけではなく、足まで傷を負っていたようだ。血が……、血が出ている。かなり出ている。走れない。
キュキュが、そんな鎮に触手を巻きつけて、かわりに走り出していた。
先頭を走っているのは、カラスだった。
彼は自分でも気づいていなかった――自分が、喉がかれるくらい叫んでいることに。彼は叫びながらディレクターズカッターを振り回し、ディスペアーを蹴散らし、道を切り開いていた。カッターの効果時間が切れて、柄だけになってしまっても、まだ振り回していた。
「時間だ」
ウォンの冷静な声は、この修羅場の中でも不思議とよく通る。
彼の腕時計が、20時を指していた。
蟲の大群は、潮のように引いている。しかし――
ぐる、おぉぉおおおおおおおおおおおぉぉぉぉおお……!
どこに行った……、どこに行く気だ……、どこに行ったあああああ!
ひとりはいや、ひとりはいや、ひとりはいや。
だれかわたしの、そばにいて。
わたしはひとりだ! たったひとりだ!
どこに行った! どこに行ったのだ!
わたし、ひとりぼっちね。
どうして、わたしだけしか、いないんだろう。
どうして、わたしだけ……。
建物が倒壊する音、長大な胴の腹が瓦礫を撫でる音、声にもならない咆哮が、もうひとつの銀幕市のすべてのうえで轟いている。
あの巨大なディスペアーは、目覚めてしまったのだ。
消灯時間を過ぎても、やつだけは眠らない。
■銀幕市、午後7時45分、震度5■
銀幕市立中央病院は大混乱に陥っていた。病院というのは、実際のところ、大地震に直面した際の対策はほとんど練られていないのだ。しかし、ネガティヴゾーン調査隊のランドルフとカラスから事前に注意があったおかげで、ある程度の避難準備は整っていた。地震は、調査隊が病院の地下に潜りこんでから、ほぼ2週間後に起こった。
調査隊が、まったく無事とは言えないまでも、ひとりも欠けずに『銀幕市』に戻ってきたのも、地震があったその夜のことだ。彼らは立って走れたことが不思議なくらいに衰弱していた。胃の中は空っぽで、背中に軽い床ずれができていた者もいる。全員が、市内あちこちの病院に飛ばされて、入院することになった。すぐそばにあった病院は、まともに機能していなかったから。
ろくに治療も受けず、入院もしなかったのは、ユージン・ウォンただひとりだった。彼はネガティヴゾーンで撮影したビデオ録画を、その夜のうちに市役所対策課に届けたのだった。
そして市役所の入口で、突然吐血して倒れ、彼もまた結局病院に送られた。
「19時45分……。この巨大ディスペアーが身体を起こしたことで、地震が起こったと考えたほうがいいだろう。これが、『震源』なのだ」
マルパスはビデオや写真を見つめ、顎を撫でた。以前、レヴィアタンの姿を見ただけで身体に変調をきたしたので、念のためゴールデングローブを身につけている。
「余震、と言ってもいいものなのかわかりませんが、微震が続いているようです。このディスペアーは、今も活動しているのでしょうね」
「活動といえば、報告によると、このゾーン内のディスペアーは午前6時から午後8時までと、活動時間を正確に定めているらしいな。興味深い習性だ。今後の作戦に役立てられるだろう」
「……病院です」
「?」
「中央病院の、起床時間が午前6時。消灯時間が午後8時です。偶然とは思えません。……ま、この巨大なディスペアーだけは、その規則を守っていないようですが……」
柊市長は大きくため息をついた。この怪物が暴れれば暴れるほど、銀幕市は揺れるのだ。巨大ディスペアーとは、一度対峙している。しかし今回は、同じ戦法を取るのは危険だろう。大喧嘩をしかければ、震度5ではすまないかもしれない。
「しかし……このまちの絶望は、レヴィアタンだけではありませんでしたか」
「レヴィアタンは海から現れた。これは……姿は蟲のようだが、地の底から現れている」
マルパスは、吐き捨てるような、ささやくような口ぶりで、『かれ』に名前をつけた。
「ベヘモットめ」
■地の底には■
わたしだけだ! わたししかいない!
どうして、わたしだけが!
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クリエイターコメント | 久しぶりの特別シナリオは長大になってしまいました(諸口基準的に)。 わかる人にはわかる「諸口狂言」シーンが、無駄にスクロールバーを小さくしています。 個別のネガティヴシーンは、PC様の設定欄や過去のノベルを参考に書かせていただきました。ネガティヴゾーンだから仕方ないのであって、べつに皆さんが憎いわけではないです(笑)。あと、どさくさに紛れて東博士もひそかにネガティヴってるのは笑うところです。
さて、やはりこのネガティヴゾーンにも存在しておりました……巨大ディスペアー。 名前は〈ベヘモット〉。 追って対策課やアズマ研究所から連絡があることでしょう。 調査隊の皆さん、2週間お疲れ様でした! |
公開日時 | 2009-02-28(土) 22:00 |
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