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<ノベル>
1.花の微笑、そのために
銀幕市の南端にある小さな病院が、“業苦の楽土”のもたらす渇望の毒によって暴徒と化した人々に取り囲まれることになったのは、この病院に贈られた、目にするだけで病を癒す青い花のためだった。
ヘヴンリィブルーと名づけられた、蝶と薔薇を掛け合わせて絹のヴェールで飾ったような、幻想的に美しいその花は、事件に巻き込まれて瀕死の重傷を負ったムービースターが、スタッフの手厚い看護と温かい励ましに感謝して、死した後――あるいはそれは死ではなかったのかもしれない――転じたものであるのだという。
毎朝、日の出とともに花が開く、その瞬間を目にしたものは、心身を疲弊させる病や傷が癒されるのだ。そして、日の入りとともに花が閉じる、その瞬間を目にしたものは、心の奥底にわだかまり続ける苦しみや懊悩を許しと甘受のやわらかなヴェールに包み込んで、静かで穏やかな眠りを得ることが出来るのだ。
腕のいい、真摯で誠実なスタッフが揃った小さな病院は、元から地元の人々に愛されていたが、病院の小さな中庭にひっそりと咲くヘヴンリィブルーのお陰もあって、日々、賑わっている。
守月志郎(かみつき・しろう)が、初めて銀幕南誠心病院を訪れたのは、半年くらい前のことだったと思う。
対策課で受けた依頼で大きな怪我をして、担ぎ込まれた先がそこだったのだ。
治療が済んだあとも傷の痛みで朦朧としていた彼に、スタッフは真摯な励ましをくれ、そして彼がこなした『仕事』に丁寧な感謝をくれた。
志郎は、たったひとりで実体化して、弟や同僚たちに会えないことを寂しく思いつつも、多種多様な在り方を許されたこの街で生きることを楽しみ、少しずつ友人を増やしてきた。
対策課で受ける依頼は時として難しく、人狼化して臨まねばならないことも多々あったが、この街の人々は――無論、すべての人々が、ではないものの――、ありのままの志郎を受け入れ、それでいいと笑ってくれる。人狼化した状態で助けた少女が、彼を恐れず、耳と尻尾を触らせて欲しいとねだったときの無邪気な笑顔を、志郎は今でも覚えている。
志郎は、銀幕市での日々を、わずかな寂しさを覚えつつも満喫し、和やかなやり取りを慈しんでいた。
銀幕南誠心病院のスタッフも、ムービースターへの偏見のない、ただ命というものに対して真摯な人々で、志郎はこの病院に何度もお世話になっているし、何かあった際にはすぐに駆けつけ、解決に協力してきた。
それゆえに、渇望に狂わされた人々がヘヴンリィブルーを狙って殺到したと聞き、大急ぎで駆けつけたのだが、花の咲く中庭へ雪崩れ込もうとする人々と、それを必死で押し留めようとするスタッフの攻防を目にして、志郎は思わず言葉を失った。
スタッフの髪を引っ張り、あちこちを引っ掻いたり噛み付いたりして、どうにかして彼らを退かせようとしている暴徒たちの中には、日頃親しく言葉を交わしたことのある、銀幕南誠心病院の常連たちの姿もあったからだ。
「あの花が手に入れば、健康な身体を取り戻せる! 私だけのものにして、元気になって……家に帰るんだ、家族の元へ帰るんだ! だからそこを退け、退いてくれ!」
金切り声で叫んだ老人に突き飛ばされ、看護師の女性が転んだ。
志郎には、どちらも見覚えがあった。
老人はこの病院の長期入院患者で、志郎と顔を合わせるたびに、お仕事ご苦労さん、と言って、お見舞い品だという、大きな、美味しい饅頭を分けてくれた。彼の病は重かったが、病院での治療と、スタッフの看護と、そしてヘヴンリィブルーの力もあって、状態は徐々によくなっていると聞いていた。
――『少しずつ確実に』治ってゆく自分を待てないほど、彼の、帰りたいという渇望は根深かったのだろうか。
あの笑顔と労いの裏側に、絶望めいた孤独が隠れていたのだろうか。
それを思うと、志郎の胸はぎゅうと締め付けられる。
家に帰りたい、家族に逢いたい、その気持ちが、志郎に判らないはずがないのだから。
「駄目よ樫原さん、あなたは今、あなたの意志ではない何かに衝き動かされているんだわ! 元の自分を取り戻した時、きっと後悔する……だから、目を覚まして、力尽くで奪ったものは、絶対にあなたのものにはならないのだから……!」
転倒した看護師の女性は、怯むことなく飛び起き、再度老人を説得にかかる。
「邪魔をするな沢野さん、止めないでくれ! 私はもう、耐えられない……自分が家族に迷惑ばかりかけていることも、思うようにならない自分自身も、もう、嫌なんだ……!」
「判るわ、私たち、ずっと樫原さんを見てきたんだもの! だけど……目覚めたあとのあなたのために、ここを退くわけには行かないのよ……!」
両手を広げ、樫原老人を抱き締めて、看護師が凜と告げる。
老人はもがき、暴れたが、彼女は手を離さなかった。
志郎と同い年だという看護師、名を沢野優衣子という彼女は、志郎が初めてこの病院に運び込まれた時から、親身になって世話をしてくれたスタッフのひとりだった。
病院を襲ったモンスターを斃すために人狼化し、血塗れになった志郎を怖れず、怖がられ罵倒され石を投げられるのではないかと――何せ故郷での彼に、それは決して珍しくなかったから――戦々恐々としていた志郎に、この狼さんはやさしい気持ちが滲み出ているから何も怖くない、と笑ってくれた、志郎の救いのひとつだった。
彼女と親しくなって、彼女にも寝たきりの弟がいることを知った。
二十歳まで生きられないかもしれないと言われながら、それでも二十歳を三年超えて、まだ命をつないでいる彼を、優衣子は慈しみ、大切にして、弟が生きていることが幸せだと言っていた。
それを聞いて、志郎も、自然と、弟の話をしていた。
そこに滲んだ穏やかな共感と、大切な誰かが生きている幸せを、志郎は今でも如実に覚えているし、そのために自分が何をなすべきなのか、自分の果たすべき責務を、優衣子と分かち合った時の、同胞愛めいた感情は、志郎の慰めのひとつでもある。
――放っておけない、ただその気持ちだけが込み上げる。
患者でありご近所さんでもある人々にもみくちゃにされながら必死で花を守ろうと――それは同時に今この場にいるすべての人々の心を守ろうとしているのと同義だろう――しているスタッフだけではなく、不可解な『場』によって渇望を増幅させられ、望むと望まざるとに関わらず暴走している、某操作せられている人々をも、放ってはおけない、と思った。
狂乱する人々、あまりにも切実な願いに狂わされ暴徒と化した親しき隣人たちを、そして彼らに罪を犯させまいと必死の攻防を続けるスタッフを、志郎は唇を引き結んで見詰め、周囲を見渡す。
小さな中庭へ入るための扉はひとつだけ。
そこの入り口に、スタッフ二十数名が全員でかたまり、栓のようになって、人々の乱入を防いでいる状態だ。
まだ、『それ』への躊躇はある。
築き上げた関係が、『それ』によって崩れ去ってしまうのではないかという恐れが、もうそのことで哀しい、苦しい、悔しい思いはしたくないという思いが、志郎の中には確かにある。
しかし。
「……それでも、俺のやるべきことに、変わりはない……か」
泣き叫び暴れる老人を抱き締め、必死で声を嗄らす優衣子の姿を見ていると、強くそう思う。
人は常に、自分の本分を全うするために、与えられた責務を果たし矜持を示すために生きているのだ。自分とはこういう存在なのだと、そのために生きているのだと、胸を張って言える最期の瞬間のために、志郎は戦うしかないのだ。
息を吸い、身体に力を込める。
全身の細胞を活性化させ、自分の本性を呼び覚ます。
(ほしい)
――どこかから声が聞こえてきた。
(なにものにも脅かされない確固たる自分と、誰もが自分を――自分たち異能者を認め受け入れる世界がほしい)
聞き覚えのあるその声は、
(命を懸けて守るにたる世界の中で、お前が必要だと切望されたい)
切々と、心の奥底に抱く渇望を訴える。
「……ああ、これは……俺か」
牙が伸び、毛皮に覆われた顔で、志郎は苦笑した。
(手に入れなくては。自分が壊れてしまう前に、どんな手を使ってでも)
自分の声が、自分に囁いている。
手を伸ばせば届くのだと、唆している。
「判ってる……俺は俺の在り方を疑問に思ってる。全部受け入れられたいってずっと思ってる。――だけど、俺は」
人狼化しても理知的な、黒曜石めいた双眸を、凪いだ光がかすめた。
「そのために、誰かの大切な何かを壊す方が、嫌だ」
すとんと落ち着いた、静かな心のまま、未だ狂乱のさなかにある人々に向かい、猛々しく咆哮する。
オオ・オ・オオオオオォ――――――――ンンンン!
長く長く伸びる、獣の雄叫びに、窓ガラスがびりびりと震え、病院全体が揺れた。
「な……」
あまりの大音響に、暴徒たちが一瞬固まる。
それから、そろそろと動かした視線の先に、身の丈三メートルに迫る人狼が爛々と目を輝かせているのを見て取って、
「う、うわあああああああっ!」
「化け物だ、食われるっ!」
「怖い、怖いよ、お母さん助けて……ッ!」
正気に返ったのか、それとも渇望を恐怖が上回っただけなのか、暴徒たちは、ほんの一瞬前まで花を奪おうと押し合いへし合いしていたことも忘れ、我先に逃げて行った。
あとに残ったのは、病院のスタッフと、逃げるだけの脚力も体力もない、そもそも入院患者だった人々。
ぽかんと自分を見上げる人々を、志郎は、人狼化したままで、居心地悪く見下ろしていた。
逃げて行った人々の姿に、胸は少し痛んだが、それもまた仕方がないと思うから、何を怒るつもりも、憤るつもりもなく、この場に残った人々にも怖がられたらすぐに出て行こうと思いながら、もぞもぞと身動きをすると、
「志郎さん……来てくれたのね、ありがとう!」
いち早く気づいた優衣子が、志郎に抱きついた。
「いや、え、あの、ちょっ……」
人狼化すると身体が1.5倍くらいになるため、衣装が破れて飛んでしまい、今は毛皮に覆われているからいいものの、実態としては全裸な志郎は、その状態で未婚の女性に抱きつかれて盛大に狼狽する。
しかし、同時に、
「ピンチを救ってもらうだなんて……本当に、スクリーンの中のお話みたい。少し、ときめいてしまったわ、ありがとう」
今の自分を怖れている様子のない優衣子や、微笑ましげな視線を寄越すスタッフ、拍手で感謝を伝えてくれる患者たちの姿に、何か込み上げるものがあるのもまた、事実だった。
「わ、私は一体、何を……」
樫原老人も、どうやら正気づいたようだ。
事情を知っているスタッフが、志郎のための衣装を持って来てくれて、それでようやく志郎は一息つくことが出来た。
口々に礼を言われ、気恥ずかしくなって来て、
「いや、その、俺は……皆に、嬉しい気持ちを、たくさんもらっているから。その……役に立てて、よかった」
樫原が優衣子に平身低頭で謝っているのを横目に見ながら、志郎は頭を掻く。
大丈夫、気にしないで、と首を横に振る優衣子の、やわらかい、包み込むような笑みに、ああ、自分はこういう笑顔が見たくて戦うんだと、怖れられる哀しみよりも、向けられる笑顔と感謝と善意のためにただ在ろうとすることが、一歩踏み込むための大きな原動力なのだと、唐突に悟った。
――ただ生きるだけでも、世界に苦しみは尽きない。
しかし、真摯に向き合うことで得られる喜びもまた、尽きはしないのだ。
「なんだ……そんなことか」
思わず呟くと、優衣子が首をかしげた。
「どうしたの、志郎さん?」
苦笑して何でもないと返した志郎は、
「……?」
病院のエントランスの向こう側に、見知った顔を見つけた気がして眉をひそめた。
「……唯瑞貴……?」
自動ドアの向こう側を、偶然なのだろうか、通り過ぎて行ったのは、夏の、刺激的な祭でチームを組んだ友人に違いなかった。
――確か、彼は、行方不明になっていたはずだ。
横顔しか見えなかったものの、横顔だけでも判る彼の眼差しの無機質さ、表情の虚ろさに、嫌な予感がして、志郎はエントランスへ向かう。
まだ気の抜けない、緊迫した場面ではあったけれど、優衣子を始めとしたスタッフや患者たちが、気をつけて、と声をかけてくれるのが、ひどく幸せで、くすぐったかった。
* * * * *
ベルナールがその依頼を受けたのは、恐らく歯痒かったからだ。
我が身に即して、銀幕市のあちこちにわだかまる重苦しい渇望を考えた時、どうしようもなく歯痒いと感じたからだ。
渇望に狂わされた人々が、街のあちこちで事件を起こしていると言い、その中心となっているのが、ティターン神族に操られたアンチファンであるという今の状況に、やるせない、居心地の悪い、もぞもぞと収まりのつかない気分を味わっていたからだ。
それゆえに、彼は、暴徒の鎮圧と、この事件の中核であるアンチファンの捜索及びティターン神族の排除を引き受けたのだ。
「……久我殿が、行くとしたら……」
どこかざわざわと落ち着かない街の中を歩きながら、ベルナールが呟くと、 隣を歩くフェイファーが、美しく澄んだ金の目を向けた。
久我正登の気持ちが、ベルナールには、なんとなくだが、判る。
「やはり……思い出の、多く残る場所、か……」
「……だろーな」
唯一絶対なる主人を守るため、彼の傍に侍りたいと願って、少年の頃からただひたすらに鍛錬の日々を送った。
彼の傍にいるため、傍に在って守るための最良の方法は、武人として……将として立つことだった。だからベルナールは、少年の頃に主人と出会って以降、騎士としての厳しい鍛錬を積んで来た。
――それが叶わなくなったのは、いつのことだったか。
いつものように主人に誘われて――そそのかされてと言うべきか、巻き込まれてというべきか――、王城を抜け出し、城下町へ遊びに出たその『運命の日』が訪れたのは、十代後半の頃だったように思う。
ベルナールはその日、主人を狙った暗殺者から彼を庇って利き腕に大怪我をし、剣が握れなくなった。
あの時の、目の前が――世界が暗くなるような錯覚を、ベルナールは今でも覚えている。
幸い彼には魔術師としての才があり、剣で主人を守れないと判るや、ベルナールは本格的に訓練を始めた。その結果、そちら方面でめきめきと頭角を現し、結果、かの王に従う十人の将の中でも随一と称されるまでに至ったのだから、運命の流れ、人生というものは、まったくもってよく判らない。
そして、いかなる方法であれ、主人の傍にあって彼のために尽くした人生を、常に厳しい選択とともにあった彼が、己が隣でふとした瞬間に見せた微笑を、ベルナールは充足と……誇りと思うのだ。
「久我殿の渇望……か」
ぽつり、とまた呟くと、フェイファーが小首を傾げた。
野生の、猫科の猛獣を思わせる、弾むようにしなやかな体躯に、その仕草はとてもよく似合っていた。
「ん、どした」
「……いや。彼の胸中が、判るような気がしてな」
「んー、どんなだ?」
「神音殿の影響で歌い手を目指したはいいものの、どんなに頑張っても自分はその境地には辿り着けぬことが、いやと言うほど判ってしまったのではないだろうか。歌うことも、楽器に触れることも止めても、まだ、音楽からすっぱり離れるほど諦めることも捨てることも出来てはいないのだ」
「あぁ……なるほど」
「久我殿は神音殿にとって弟のような存在のようだが……それは、久我殿にとっても同様だったのだろう。神音殿が気付かなかったのは、久我殿にも矜持があったから、ではないかと」
「そうかもな。俺も……あいつは、神音のことが、すんげー好きだったんだろーな、って思った」
「そうかもしれない。しかし、家族同然の付き合いであったがゆえに、音楽家としての神音殿の才能に恋い焦がれ、嫉妬に苦しみ、辿り着けぬ境地に身悶えていたのだとしても、そう言ったところを悟られないよう、必死に隠していたのでは、と思うのだ。……これも、想像なのだが」
「ん、いや、間違ってねーと思うぜ? 何だろーな、人間て、自分の持ってるいいものに気づかねーで、人のものをつい眩しく思っちまうんだよな。あいつにだって、そういう眩しいものが、絶対にあるはずなのに」
残念そうなフェイファーの物言いに、ベルナールはかすかに笑みを浮かべた。
善意と人への慈しみで出来ているのが、天使という存在なのだろうか、などと思い、では、と言を継ぐ。
「打ち合わせの通り、私は地上から」
「おう、俺は空から捜す。順路は、ツバキが言ってたみてーに、神音と縁の深い場所から、な」
「恐らく彼は神音殿の元に現れるはずだ、神音殿の身の安全にも気をつけねばなるまい」
「だな」
「発見の折にはサインを送り合う。単独行動は、恐らく、危険だ」
「ああ、連携してダイモーンてやつを引き剥がす。他にも依頼を受けたやつらがいたら、協力するってことでいいんだな?」
「そのように。……くれぐれも、気をつけられよ」
「ん、おまえもなー」
にかっと笑ったフェイファーが、背に大きな翼を広げ、空へ舞い上がる。
ベルナールはそれを見送ってから、周囲に意識を拡散させ、異質な気配を探り始めた。
ざわざわと、大気が、震えている。
叶わぬ願いへの悲嘆に、人々の心が震えているのが判る。
手に入れなければ壊れてしまう、という悲鳴が、どこかから響いたような気がして、ベルナールは唇を引き結んだ。
「それでも……」
ぽつり、言葉が漏れる。
「我々のように、どんなに足掻いても運命が変わらない、というわけでは、ないだろう」
届かぬ思い、叶わぬ願いを抱いたままで生きることは苦しい。
その悲嘆がベルナールには判る。
けれど、ムービースターではない人々の未来は、何ひとつとして確定してはいないのだ。この街の魔法が解ければ、否応なく終焉へと――悲劇へと向かわざるを得ない、ベルナールとは違うのだ。
みっともなくとも、情けなくとも、痛みに泣き叫び泥沼を這いずろうとも、もがいて足掻いて、土を噛み石くれを掴んででも、立ち上がり前へ進み、望む何かに辿り着くことも、彼らならば出来るのだ。
それに気づかぬまま彷徨う人々を憐れと思う。久我正登を憐れと思い、辿り着けぬもののために苦悩する辛さに共感するのと同じく。
だからこそベルナールは、手を差し伸べることで戻れるものならば、出来る限りのことをしようと思うのだ。
我が身の奥底にある、悲痛な渇望を自覚しながらも。
2.逢いたい、逢えない――けれど、だから
太助(たすけ)は神音の肩に乗っかって、道を進んでいた。
ハルワタートとアムルタートという名の、どうやらペルシャ神話の女神である二柱に会うために、心当たりがあるらしい神音に案内を頼んだのだが、道行の最中、神音が何も言わないので、太助も黙って、どこから何をどう切り出せばいいか、思案している。
とにかく、判らないことだらけなのが気懸かりなのだ。
どこかに何か、途方もない落とし穴があって、その落とし穴に銀幕市全体がすっぽりと落ち込んでしまうのではないか、という漠然とした不安が太助には圧し掛かっている。
あちこちで起きている、たくさんの根っこを持った事件の、どの端っこを掴めばいいのか、計りかねているというのが実際のところだ。
死した友人の肉を喰らい、罪の意識からこの世に縛り付けられていた少年が救われ、その事件に関わった全員であの場所を整えた時に、神音が呟いた名前を、太助は記憶していた。
それらを含めて神音に話を聞きに来たら、ハルワタートとアムルタートに、直接会った方が早い、と言われ、太助は今、神音の肩口にしがみついて、街の中を進んでいる。
「……なあ」
長時間沈黙が続き、さすがに意識がこんがらがりそうになって来て、太助は情報の整理を試みることにした。
「じんねは……なんで、ハルワタートとアムルタートって神さまを、知ってたんだ?」
問うと、神音はわずかに思案したあと、静かに言葉を紡いだ。
「……あの時、声が聞こえただろう」
「ああ、うん。優しそうな、おんなのひとの声だったな」
「私は、あれらの声に聞き覚えがある」
「それはつまり……映画をみたことがある、ってことか?」
「いや……あの声の持ち主を知っている」
「ん? それって……」
「以前、ともに仕事をしたことがある。まさに、あれらの存在する世界を創った……もう、十五年も前のことになるか。――あれらは、私が主題歌を担当し、登場人物を演じもした映画から実体化したものたちだ」
「じゃあ……」
「【ツァラトゥストラはかく語りき】。そういう題名の映画だった。ペルシャ神話を題材に、光と闇、善と悪の戦いを、光の虚しさと闇の苦悩、善の過ちと悪の哀しみを交えて描いた、二元論のみでは語れない映画だった」
「つぁら……?」
「ツァラトゥストラとはゾロアスターのドイツ語読みだ。そもそも『ツァラトゥストラはかく語りき』とは、フリードリヒ・ニーチェが示した、超人と永劫回帰を軸にした哲学書のことだが、それはこの映画とはあまり関係がない」
「ちょうじん、と、えいごうかいき……? よくわかんねぇ」
「ewige Wiederkunft des Gleichenすなわち永劫回帰とは、世界とは何度も同じ瞬間を繰り返す、平等に無価値で終わりも始まりもないものなのだ、という観念を差す。Übermenschすなわち超人とは、その無意味な世界を、自らの確立された意思で持って行動するもののことを言う。……簡単に言えば、虚しい人生においても、自らの善悪観、価値観が、世界に対して屈服しない生き方を提唱し、推奨している……ということ、かな」
「じんね、それぜんぜんかんたんに言ってねぇよ……」
いきなり飛び出した難しい言葉に頭を抱えそうになった太助だが、悩むべき部分はそこではないので何とか気を取り直す。
「んじゃ、じんねは、その映画の中の登場人物が、ハルワタートとアムルタートだって言うんだな?」
「ああ。光、アフラ・マズダ側に属するアムシャ・スプンタの二柱で、水と植物を司り、飢えと渇きに対抗する慈悲深い女神たちだ。あの、末吉を皆で見送った時、力を貸してくれたのも、そういう理由からなのかもしれない」
「優しい女神さまなのか。でも、だけど……今は……?」
「そうだな。私も、その理由を知りたい。……ああ、この辺りだ」
神音が立ち止まったのは、銀幕市の一角を流れる小さな川のほとりだった。
近くに民家がなく、工業用水などが流れ込むこともないため、小規模ではあるもののその流れは清らかだ。川べりには多種多様な自然が残されている場所で、そこには、素朴だが穏やかで鮮やかな光景が展開されていた。
ちぃちぃとさえずりながら、小鳥が空を渡っていくのが見える。
「……なんか、ホッとするような景色だな」
「そうだな。それだけで世界が完成しているかのようだ」
「じんねの言うことって……」
「ん、どうした、太助」
「しょうじき、こむずかしい」
「……そうか」
太助の言葉に神音が肩を竦める。
と、そこへ、
「……あら、見たことのある顔ね」
「ええ、本当に。お客様かしら?」
背後から、聞き覚えのある、優しげな声が響き、太助はピンと尻尾を立てて声の主へと振り返った。
「やはり……清らかな水と植物の傍に在るか、不可分の女神」
神音が小さく呟く。
太助の視線は、ベルベットのような黒髪に、清流のような青銀の目をした女性と、同じ質感の黒髪に、萌えいずる若草のような緑の目をした女性、非常によく似たデザインの、ペルシャ風ドレスに身を包んだふたりに、釘付けになっていた。
「あんたたちが……ハルワタートとアムルタート、なのか」
ふたりは、衣装と同じく非常に似通った顔立ちをしていた。慈母のように穏やかな雰囲気をまとった、やわらかい美貌の持ち主で、太助には、彼女らが、渇望を軸にした一連の事件に深く関わる、黒幕の一派だとは、とても思えなかった。
やわらかな、穏やかな雰囲気の向こう側に、意識を萎縮させ畏怖させる、絶大な神威が見え隠れするとしても、この二柱の女神から、悪意や邪気をうかがうことは出来なかった。
「ええ」
「……俺……聞きたいことがあって、来たんだ」
「あら、何かしら」
「あの、結晶、ってののことで」
結晶。
最近の銀幕市のあちこちで名を聞くものだ。
そのくせ、それが一体何なのか、何故彼らはそれを集めているのか、集めたら一体何が起きるのか、詳しいことは、ほとんど判っていない。
「……あんたたちは、なんで、結晶を集めてるんだ? それを集めて、何をしようとしてるんだ?」
渇望に暴走し、何者からか与えられた不思議な力で持って、心の深遠が狂おしく求めるままに、ムービーハザードやムービースターたちから様々なものを奪った、奪おうとした人々。
その彼らにも、狂おしい感情にも宿るという結晶。
それは一体、何なのか。
それが一体、何の目的で集められているのか。
「奇跡なんて自分でおこすしかねぇのに……ひとからとって、どうするんだ」
苦しい苦しいと泣く人々の気持ちが、太助には理解出来る。
太助にもまた、叶えたくて叶えられない望みがある。
どうしようもないと判っていて、それでも胸を張って前を向こうと自分に言い聞かせていて、常に実践しながら進んでいて、……けれど、そのことを思うと、胸は苦しい。
苦しいけれど、頑張りたい。
頑張ろうと思う。
吹っ切っているわけではない。
ただ、自分という存在の、確立のために――無論太助は、そんな小難しいことを考えているわけではないが――、諦めまいと、立ち止まるまいと、そう思うのだ。
だからこその、太助の言葉に、青銀の目の女神、ハルワタートが微笑んだ。
「そうね……そうかもしれないわ」
緑の目の女神、アムルタートもまた頷く。
「他者から力尽くで奪ったものを、真実、手に入れることは出来ないのでしょう。わたくしたちの望みもまた、他者を踏みつけにするものであるがゆえに、真実叶うということはないのでしょう。……けれど」
この時、圧迫感すら伴った神威の向こう側にある、自分と何ら変わりのない哀しみ、寂寞を、太助は敏感に感じ取っていた。
「けど、なんだ……?」
「その選択もまた、わたくしの結晶。それと同じく、彼らの結晶でもあるのだわ」
「故郷でのわたくしたちならば、きっと違う道を選んだでしょう……いいえ、そもそも、あの邂逅すら、なかった」
「そうね、ハルワ。そして、『彼女』と分かたれた自分自身を、こんなにも歯痒く思うなんて、予想もしていなかったわ。これが、存在の根本という意味なのかしらね」
「ええ、その通りだわ、アムラ。わたくしも、まさか……『彼女』を、タルウィを恋しく、分かち難く想う日が来るだなんて、思いもしなかった。これもまた、わたくしたちの、結晶なのね」
女神たちの物言いは抽象的で、謎かけめいている。
太助は腕を組み、首をかしげた。
「だから、結晶って、なんなんだ。あんたたちは、なんでそれを、ほしがってる?」
とはいえ、何となく判りかけている。
結晶とは、決してかたちのある『何か』ではないのだ。
それを奪われたからどうなる、というものでもなく、そもそもそれは『奪う』ものですらないのかもしれない。
「あなたはどう思うの、仔狸さん」
「あなたの結晶は、どんな姿をしていると思う?」
ハルワタートとアムルタートが歌うように問い、太助は腕組みをしたまま考え込んだ。正直、その日その日を生きることが仕事、という野生の仔狸に、難しいことは判らないし、必要もない。
ただ、グリゼルダという女騎士を助けたくて、黄昏の森に集った時、赤と青と呼ばれた少年たちが、結晶のことを、人の思いが行き着く先のエネルギー、だと言っていたことを、太助は覚えていた。
十人いれば十色存在する、その人その人の心の色。
その、心が、それぞれに選択した『何か』。
それを結晶というのではないか、と、太助は思っていた。
「結晶、は……そいつが『こう』だって決めて、えらんだ、生きかた……なのかな、って思う」
だとすれば、太助は、自分の結晶は、満月のように真ん丸で、満ち足りた、やわらかい金の光を放っていればいい、と思う。
「俺、逢いたいやつがいるんだ。でも、たぶん、もう逢えねぇんだ。俺は、うちころされて、はくせいにされちまうから。俺のまんまで逢うことは出来ねぇんだ」
もう一度逢いたくて約束をした。
――それは、ひどく惨いかたちで成就した。
病を克服し、立派に成長した彼はきっと、物言わぬ存在となって自分を出迎えた太助に、小さくない衝撃を受けただろう。
けれど、ユダが、あの神父が教えてくれた。
「あいつはきっと、それでも、逢えてよかったって、待っててくれてありがとうって、言ってくれる。それがわかるから、俺は、あいつのきもちに負けねぇよう、たくさんのことにむねをはれる俺にならなきゃいけねぇんだ」
故郷でのすべてと同じく、銀幕市での日々が愛しい。
たくさんの出会いが太助を彩り、彼を創った。
別れは辛い。
終焉は、寂しい。
けれど、築き上げてきたすべてを本物だと思うから、己が、少しずつ胸を張れる自分に近づいてゆくのが判るから、怖れない。――怖れずに進もうと、それを糧に頑張ろうと、思う。
「俺の結晶は、たぶん、それなんだ」
太助が言うと、女神たちは微笑んだ。
「……素敵な結晶をありがとう、仔狸さん」
「そうね……その通りよ。ヒトは魂に絶大なエネルギーを内包しているの。それは、ムービースターだとか、ムービーファンだとか、エキストラだとか、そういうカテゴリに関係なく、すべての心ある存在が、そのエネルギーを持っているのよ」
「そして、ヒトは、大きな岐路に際して、自らの意志でそれを選ぶ時、一際強く輝くエネルギーを放つの。わたくしたちはそれを結晶と呼んでいるわ。その輝きを目にすることが出来るものは、決して多くないけれど、――そうね、霊魂やオーラなどというものが見える人々には、見たり触れたりすることが出来るのだそうよ」
「そうか……だから、ぐりーが、生きることを選んだときにも……」
赤と青の少年ふたりを思い起こしながら、太助がぽつりと呟いたのと、
「そういうことだ」
「まぁ、火花みてーなもんだから、盗ったり盗られたりしても、そいつに何か不具合が出るわけじゃねーんだけどな。でも、火花みてーなもんだからこそ、『あの方』を呼び寄せる目印になるのかな」
唐突に、聞き覚えのある声が響いたのはほぼ同時で、太助は尻尾をぶわっと膨らませて神音の首筋にかじりついた。
「あ、赤と、青……!」
恐る恐る振り向くと、やはりそこには、赤と青の色をした髪以外すべてが同じ、黒ずくめの少年がふたり、佇んでいるのだった。
「よう、太助」
赤の少年が、屈託のない笑顔を見せる。
無邪気な笑顔だったが、太助は何故かそこに、寒々しさと虚ろとを感じていた。
生きている匂いの希薄さ。
彼らに感じる違和感を言葉にすると、そうなるだろうか。
肩にしがみついた純白のバッキーは、彼らが生身の人間であることを物語るのに、彼らからは、生活の匂い、日々の営みの匂いが漂って来ないのだ。
だからなのか、太助は、なんとなく、このふたりに会いたくなかった。情報を集める必要があるにしても、このふたりに尋ねることはしたくなかった。だから、ハルワタートとアムルタートに的を絞り、こうして会いに来たのだ。
「おまえの結晶は、きれいだな。きっと、『あの方』のための、いい目印になる」
「あ、あの方、って……誰だ……? あんたたち、いったい、何をしようとしてるんだ……?」
二柱の女神には感じなかった恐れを、太助はふたりの少年に対して抱いている。
何故なのかは判らない。
――否、判っているから、なのかもしれない。
彼らが、必要とあらば、太助も神音も、平気で犠牲にするだろうということが。
生身の、この世界本来の人間でありながら、日本という平和な国に属するものでありながら、彼らが、他者の命を奪うことに対して、何の躊躇も迷いもないことが判るから、なのかもしれない。
「『あの方』は『あの方』さ。――おっしょさまが言うんだ、全部の虚しい在り方を、『あの方』に正してもらおう、って。『あの方』に目覚めてもらうには、虚無の向こう側まで届く灯火が必要だって、おっしょさまが言ってる」
「ただす、って……」
「……きみたちの師は、半身と真理の不在にこれをなしたのか。きみたちも、また」
唐突に口を開いたのは神音だった。
不思議な風合いの双眸には、悼みとも苦悩とも取れぬ色彩がたゆたっている。
女神たちが微笑み、少年たちが頷いた。
「存在とは何なのか。生命とは何なのか。――それが師の抱かれる命題であり、わたくしたちすべてが求める真理よ」
命の、存在の、『ここにある』ということの、その根本。
「わたくしたちはこの世界に実体化して、あまりにもたくさんのものと分かたれてしまった。それでもなおここに在り続けるわたくしたちは、一体何という存在なのかしら? 不可分のものと分かたれてなお、わたくしたちはわたくしたちなのかしら? わたくしたちは、それが知りたいの。断罪され裁かれることになろうとも、その答えが欲しいのよ」
女神たちは、それへの疑問、探究心が、彼女らの『師』が求めるものだというのだ。
「俺たちは、生まれたばっかりのころ、親に捨てられたんだ。何でかは知らねぇ。どうでもいいし。なんにせよ俺たちは要らねぇものだったし、どこにも入れねぇものだった。青とふたりで、あっちこっち流れながら、ずっと思ってた。どこにも居場所のねぇ俺たちは、どういう存在なんだろう? って」
「映画は長い間僕たちの友人だった。『彼ら』は僕たちに、たくさんのものをもたらした。その中でも、【ツァラトゥストラはかく語りき】は、たくさんの問いを僕たちに与えた。僕たちは考え、証明しなくてはならなかった、僕たちの実存の意味を。――師がこの世界に実体化されたのは、もう、運命というしかなかった」
次々に、滔々と語られる、事件の背景、理由。
黒幕と目される人々の内に凝る、深く熱い渇望。
「……そのために、これを……?」
そんな理不尽な、とか、わがままな、とか、詰るべきなのか、太助には判らなかった。
ヒトを傷つけることは、悪いことだ。
ヒトを哀しませるのは、よくないことだ。
けれど、今、これをなしている人々は、自分たちの所業が善には属しないことを知っている。知っていて、なお、成し遂げようとしている。
――それを止めることがどれだけ難しいか、太助にも、漠然と、判る。
「『器』が揃い、結晶もじき揃う。陣の完成も近い。あとは、目覚めの灯火を、盛大に掲げるだけだ。僕たちは『あの方』に会い、そしてそれぞれに問いたい。答えが得られるのかどうかも判らないが、それでも、尋ねてみたい。――それだけだ」
青が淡々と言い、三人を促す。
頷いた三人が踵を返すのを、太助は、神音の首筋にかじりついたまま、息を殺して見送るしかなかった。
「あなたが、あなたの結晶を曇らせまいと思うのなら、どうかわたくしたちを止めに来てね、仔狸さん」
ほんのわずかな時間、立ち止まり振り向いたハルワタートの言葉を、太助は反芻し続けていた。
ヒトの心が生み出すエネルギー。
そのエネルギーを集め、なにものかを呼び起こそうとしている人々。
彼らの求める答え。
――生きる意味とは何なのか、存在とは、一体、何を指すのか。
それを指し示せたら、彼らを止めることが出来るのだろうか。
「……行こう、じんね。みんなに……伝えねぇと」
言葉には表せないような焦燥が込み上げて、太助は神音にしがみついた。
手遅れになどしたくはない。
救えるものならばすべて救いたい。
それだけの思いで、太助は前を見据える。
そう、まさに、自分の魂のために。
3.幻影を追い、真実を思う
「……ここにいたか、アナーヒター」
狩納京平(かのう・きょうへい)は、市街地の一角で、先の事件でも相見えた美しい女神と対峙していた。
広い銀幕市にあって、連絡も取れないたったひとりと偶然再会するなどということは奇跡めいているが、京平は、自分が彼女を探し出したのではなく、京平の思いを汲み取って、彼女が自分を招いたのではないか、と思っていた。
今、目の前には、色鮮やかな布を身体に巻きつけてヴェールを被り、四角い黄金の耳飾りと、星をちりばめた黄金の頭飾りをつけて、美しい刺繍のなされた帯を高く締めた、神々しい乙女の姿がある。
黄金の双眸が、穏やかに細められて、京平を見ている。
アルゾヴィ・スーラ・アナーヒター。
アケメネス朝での国教ゾロアスター教で、アフラ・マズダ及びミトラと並んで至高三神団とされた、ペルシャ神話中でももっとも人気の高い女神だ。
「一体何を目論んでる、清浄なる水。あんたたちの師ってのは、なにものだ……?」
勝てるか勝てないかはともかく、いざとなれば戦いも辞さない構えで、京平は師の形見である鬼斬丸を携えて来ていた。
アナーヒターはペルシャ神話では間違いなく善神だ。至高神ズルワーンの化身とされるミトラの従神で、たくさんのものを守護し司っていると言い、あちこちの神話と融合し、今でも様々な世界で生き延びている。
その彼女が何故、銀幕市を混乱に陥れる一派に身を置いているのかが、京平には判らない。
そして、アナーヒターの言う『師』とはなにものなのか。
彼女の『師』は、銀幕市で、ティターン神族と手を携え、何かをなそうとしている。その『何か』がこの街にもたらすものが、決して歓迎出来ない事態であろうことは、京平にも判る。
渇望を軸に、あれだけたくさんの慟哭を振り撒いた一連の事件の結末が、ハッピーエンドであるはずがない、と思うからだ。
「あなたはどう思うの、狩納京平」
アナーヒターは静謐で、敵意は欠片も感じ取れなかった。
……だからこそ京平は困惑しているのかもしれない。
この世への悪意や敵意、絶望が、彼女らにこれをなさせているのではないのだという事実は、すなわち、一連の事件の黒幕たちを、説得によって止めることの難しさを如実に表していると言えるからだ。
恐らく、彼女の師もまた、邪悪な思いでこれらの事件を引き起こしたわけではないのだ。
「……あんたらの教義とは、正直、縁遠いからな、俺は……」
だが、パラレルワールドの住民ではあれ、京平は、過去に興った信仰や神話をまったく知らないわけではない。
「アナーヒター、ハルワタートとアムルタート、アエーシュマ、ドゥルジ。神々であるあんたたちが師匠って呼ぶんなら……それは、アフラ・マズダ、なのか……?」
アフラ・マズダ。
オフルミズドなどとも呼ばれる、拝火教の一種であるマズダ教において悪を滅ぼす叡智の神の名だ。
「……でも、だったら、対になるアンラ・マンユは、どこにいる?」
独白めいた京平の呟きに応えることなく、アナーヒターは彼を見つめている。
師と呼ばれる男がどこかの映画から実体化したアフラ・マズダだとして、彼は、何のために今回の事件を起こしたのだろうか、と京平は思った。
アフラ・マズダは唯一神ではないが、至高神の一柱だ。
気高く勇敢なる全知の神にして、悪神アンラ・マンユと闘争を続ける武神。
「拝火教は……二元論、だったか」
善と悪という明確な在りようのゆえに、彼女の師は、映画の中でそうだったような役割を全うできない己に、ままならぬ思いを抱いているのだろうか。絶対の善でいられない自分を歯痒く思い、至高善たらんと思うあまり、これらの事件を起こしたのだろうか。
だとすれば、師とやらの目的が果たされることによって、銀幕市にどんな変化がもたらされるのだろうか。
「だが……世の中ってのぁ、善と悪で割り切れるようなモンでもねぇだろ」
所詮、善も悪も主観に過ぎない。
光と闇も、一定ではない。
それは、ゆくりなく移ろうものだ。
ヒトであれアヤカシであれ、それは変わらない。
神ですら不変ではない、と、京平は思う。
「光とか、闇とか、善とか悪とか、そんなのは、移ろうもんだ、どうしたって確実にゃァならねェ、そして、どこにも当てはまらねェから、そいつを山のように持ってる人間も面白ェって、前にも言わなかったか?」
脆弱で狡猾な、滑稽なほど利己的な、自分の奥底を京平は否定しない。
――否定するまいと決めた。
復讐を欲してどろどろと凝る、あの醜悪な熱ですら、京平をかたちづくる一角だ。それなしに、狩納京平という人間は機能しないのだ。
「俺は俺以外の何者でもねぇ、そいつァ誰かに決められるもんでもないだろうよ。……あの渇望に触れて、改めてそう思った」
「そうね……わたしも、そう思うわ」
そこで初めてアナーヒターが言葉を挟んだ。
京平は片眉を跳ね上げる。
「あなたの渇望には、二種類あるのね? お師匠様ともう一度逢いたいという願いと、あなたからたくさんのものを奪った仇敵を亡き者にしてやりたいという思いと」
「ああ……そうだ。師匠は俺の世界そのものだった。だから、俺は、あの人に還って来て欲しいと思うのと同じくらい、あの人を奪った奴が憎い。殺せるものなら殺してやりてぇが……そんなこたァ誰も望んでねェんだよな。それは俺の自己満足にすぎねぇんだ」
「それが……あなたが辿り着いた、結晶なのね?」
「結晶ってのは……ヒトの生き様そのものを言うのか? だとしたら、その通りだ。俺は、二元のみじゃァなく、移ろいゆくすべてを選ぶ。――だが、」
京平はそこで一旦言葉を切ると、
「誰かを踏み台にして大願を成就させようとするあんたらは……結局、あの男と変わらねぇんじゃねぇのか?」
あえて挑発的な態度をとり、アナーヒターを真っ向から見据える。
アナーヒターの静謐な微笑に変化はない。
黄金の眼差しは、京平を慈しむように見詰めているだけだ。
「善も悪も、併せ呑むのがこの世の、人間の面白さだ。あんたの師がなにものだとしても、別に故郷での在り方そのもののように振る舞う必要はねぇんだ、もっと自由に生きりゃあいい」
「ええ……そうね」
漏れた言葉には、憧憬が滲んでいた。
「そう生きられたら、どんなによかったでしょう、わたしも、師も、他のものたちも」
――それは、静かな断絶だった。
京平の言葉を理解し、首肯し、認めながらも、狂おしいほどの憧憬を覚えながらも、そこへ歩み寄ることは出来ないという、なすべきことは変わらないのだという、断固たる拒絶だった。
「けれど……違うのよ、そうではないの。偉大なるマズダがここに来ていたら、きっと、こんなことにはならなかったでしょう。きっと、わたしたちは同胞愛に則って手を取り合い、ともに歩むことが出来ていたでしょう」
「……どういうことだ」
彼女の物言いは、アナーヒターをはじめとしたペルシャ神話の神々が師と呼ぶ男が、アフラ・マズダではないことを知らしめる。
「善も悪も絶対ではないわ。わたしたちはそれを知っていた。そういう世界から来たのだもの。善は過ちに苦悩し、悪は断絶に涙し、光も闇も、互いに、自分たちの愚かさを、虚しさを知っていた。わたしたちは、光や闇、中枢に属し、敵対しながら、敵対することで互いの存在を証明していたのよ」
けれど、と、美しい唇が、淡々と静かに、嘆きめいた言葉を口にする。
「この世界で、わたしたちはそれぞれに、真理の不在、存在の意味の喪失と行き逢った。わたしたちは、わたしたちをかたちづくる要素とはぐれてなお、ここにいる。……それは何故なのかしら。そして、ならば、存在とは一体、何を持って十全と断じることが出来るのかしら」
真理の不在。
存在の意味の喪失。
――その、最たる存在が、師だと、前にアナーヒターが言っていた。
アフラ・マズダではない、もうひとりの至高。
「待て、なら……まさか、」
「――ああ、ごめんなさい、わたしはもう行かなくては」
答えに辿り着きかけた京平の言葉を遮って、アナーヒターが空を見上げた。アナーヒターにつられるように空を見上げた彼は、そこに、青い燐光を放つ蝶々を見い出し、眉をひそめる。
ジャーナルで読んだそれは、確か、『器』となった、別映画出身のムービースターが使役していたものではなかっただろうか。
「あんたら……『器』と結晶とやらを使って、何をする気だ」
『器』の話は、先の事件で関わった、某海賊団の青年から聞いた。
変貌してしまった――否、それは白紙に戻されてしまった、と言うべきなのかも知れない――ムービースターを『器』と呼ぶ、その言霊に、ひどく薄ら寒いものを京平は感じている。
阻止せねばならない、という、焦りにも似た感覚がある。
それゆえの京平の問いだったが、アナーヒターは答えなかった。
もしかしたら、実はもう、すべての答えは出揃っているのかもしれない。
「……許してとは、言わないわ」
それだけを言って、静かな微笑を浮かべ、アナーヒターは宙に浮かんだ。
「待、」
京平が手を伸ばすより早く、青い蝶が燐光を放ち、その光で持って彼女を包み込む。
ざあぁ、と、冷ややかな風が吹いた。
まるで、京平を嘲笑うかのように。
そしてその一瞬あとには、もう、アナーヒターの姿も、青い蝶の姿も、見えなくなっていたのだった。
「まさか……」
危機感が咽喉元を込み上げる。
――だからこそ、彼女は、自分たちを止めに来いと言ったのだ。
彼女は、彼女らは、決して渇望に囚われて我を失ってはいないのだ。
そのことをたまらなくやるせなく感じ、京平は拳を握り締めた。
「まずは……このことを、伝えねェと……」
何が最善なのか、京平には判らない。
判らないが、このままにしてはおけないとも思う。
だから、彼は、前へ進む。
このまま終わらせてはいけないと、彼の中の結晶が叫ぶから。
* * * * *
シャノン・ヴォルムスは背に翼を持った少年との戦いの真っ最中だった。
戦おうと思って戦っているわけではない。
前回の騒動でもたらされた情報を元に、更なる情報を得ようと、シャノンが調査の対象にしたのがこの有翼の少年で、子飼いの情報屋を駆使して探し当てた彼に会いに行ったところ、問答無用で襲われたというだけのことだ。
歌手の神音とそっくりの顔をした――実際、この少年を演じたのは神音なのだろう――、しかし格段に激烈な性質を持つらしい少年は、武骨で凶悪な、戦闘用の大きな斧を手に、恐るべき速さでシャノンに襲いかかって来る。
そのあまりの正確さ、容赦のなさに、シャノンは半ば呆れ、半ば感心した。
「……俺は、話がしたいだけなんだがな」
翼が風を斬った一瞬あとには、少年の揮う斧がシャノンに肉薄している。
それを類い稀なる反射神経で避け、華麗な足技で反撃に転ずるが、いずれも軽やかにかわされる。拳銃を使わない、使えないのは、神である少年にそれが効果を持たないのと同じく、ここで彼を殺してしまっては何も聞き出せないからだ。
最終的に手を下さねばならぬのなら、それを厭いはしないが、シャノンが今なすべきことは、事件の全貌を把握し、一連の騒動の解決のために動いている人々にその情報をもたらすことなのだ。
この、未だ行き先の見えない事件に、解決の糸口を見出すことなのだ。
「二元論の極みのようなゾロアスター教の、善神悪神が、敵対せずに協力し合う、か……」
その背景はなかなか面白い、などと思いつつ、シャノンは唸りを上げる斧を避ける。
「人々の渇望を利用して、何をしようとしている?」
答えがないと知りながら問いかける。
有翼の少年は、黄金の双眸を厳しく眇め、そして斧を振り下ろした。ごぉう、と空気を斬るそれは、とてもではないがただの斧だとは思えない。あれを脳天に喰らえば、いかに不死身のヴァンパイアハンターといえども、しばらくは行動不能に陥るだろう。
それはさすがに不味い、と、バックステップで距離を取り、少年の様子を伺う。
拳銃で翼を撃ち抜いて動きを封じる、という案は、ためしに撃った弾丸が、彼の翼に呆気なく弾かれた次点で却下された。
やはり彼は、神に属する存在なのだ。
人間の作った鉄の武器だけでは、恐らく傷つけることは出来ない。
「……この件には渇望がつきまとっているな」
じりじりと間合いを測り、距離を保ちながら独白する。
「確かに、渇望は身近に存在し、隣人のような、友のようなものではある。だが、それは律し支配すべきものであり、されるべきものではない。……もっとも、これは、俺が満たされているからこその考えだろうがな」
喪って涙し、復讐に猛り狂い、たったひとりで獰悪な戦場を駆け抜け、傷つき血を流しながら戦い、――それから、この街でたくさんの赦しと愛情に触れて、シャノンは今のシャノンになった。
知の魔王が引き起こした事件、渇望の発端で、愛するものを傷つけかけて、愛するがゆえに自分を取り戻した。
今のシャノンは、深い愛情とともにあり、それゆえに守られている。守っているつもりで、常に守られ、赦されているのだと、理解している。だからこそ、自分本位の欲望に踊らされ、自分を愛してくれる人々を傷つけるようなことがあってはならないのだ。
無論、今も、意識の深層に囁きかける、あの重苦しい『声』が聞こえている。
いっそ踊らされてしまえ、と唆す、その『声』を聞いている。
「それでも……自分の渇望で誰かを傷つけるくらいなら、自分を撃ち抜いて正気を保った方がましだ。――……俺は、もう、迷わんと、決めた」
シャノンのその言葉に興味を惹かれたのだろうか。
それとも、今まで、彼を試していたのだろうか。
「……おまえの渇望からは」
不意に、少年が口を開いた。
シャノンが片眉を跳ね上げて見遣ると、少年は戦意を和らげ、彼を真っ直ぐに見つめた。
「芳しく健やかな、友愛の匂いがする」
ぽつりとした、朴訥な口調だった。
「それは、俺を思ってくれる連中の匂いだろう」
冷酷非情な孤高のヴァンパイアハンターに、愛することの何たるかを思い出させ、彼をやわらかくした、たくさんの思い。
それらが、彼の渇望すら、やわらかに包み込む。
シャノンはそれを、ひどく幸せな、くすぐったいことだと思った。
だからこそ、不可解に重苦しい渇望の満ちる戦いの場にあって、彼は、自分を見失うことも、己の深遠に呑まれることもなく、ただ一個のシャノンという存在として、そこに立つことが出来ているのかもしれなかった。
「おまえの結晶は、完成しかけているな」
「……何だって?」
「おまえを彩る数多の友愛が、おまえに渇望に打ち克つ力を与え、その結晶を輝かせるのか」
真摯に言い、少年が斧を腰に戻した。
そこからはもう、戦意、敵意は感じられない。
「僕はスラオシャ……偉大なるミトラの従神にして、師の翼。……おまえは?」
「シャノン・ヴォルムス。始祖の吸血鬼で、ヴァンパイアハンターだ」
「そうか……ならばシャノン、おまえの結晶の美しさに免じて、おまえの問いに答えよう。――次に出会う時を、最後の戦いと断じるのだとしても」
居丈高な物言いだったが、口調は静かで、真摯だ。
「唯瑞貴はどこにいる? 彼は一体、どうなった?」
シャノンは小さく頷き、気懸かりのひとつを口にした。
先日、七つの場所で起きた暴動、集団パニックの鎮圧の折、姿を見せた青年剣士は、シャノンの知る彼ではなくなっていた。
それまで、決して豊かではなくとも、様々な表情を見てきた彼の、寒々しい虚ろな眼差しに、危惧ばかりが募る。もはやこれは『器』でしかない、と断じたスラオシャの言葉が反芻されるとともに。
「『器』か。あれならば、恐らく、師とともに。……いや、今頃は、結晶の採集を手伝っているかもしれない」
「その、『器』とは、一体何なんだ」
「『器』は『器』だ」
「……もう少し具体的にならないか」
敵と知りつつ、マイペースな言葉に溜め息をつくと、スラオシャが片眉を跳ね上げた。仕方がない、と言った風情の呼気が漏れる。
「結晶によって描かれた陣に、『器』を安置する。形式的なものになるだろうが、儀式を行うのは、師だろうな」
「儀式……?」
「――そのすべては、『あの方』をこの世界に顕現させるためのものだ。『器』とは、『あの方』を覚醒させるための、扉であり重石。あの『器』はそもそも虚ろでありながら広大な魂を抱えていたからな、『あの方』を注ぎ込むにはちょうどいい」
「また判らないことが増えたな。『あの方』とは誰なんだ?」
スラオシャはそれには答えなかった。
「おまえの渇望は、昇華されつつあるのだな。僕は、それを少し、羨む」
「……?」
おまえの渇望は、という表現に、スラオシャ自身はどうなのかという疑問が根差す。
こうして見ている限り、スラオシャは正気だ。眼差しにも、言葉の端々にも、そのどこにも、かつてシャノンが味わったような、渇望に飲み込まれ我を見失う狂おしさは感じられない。
「では……貴様のそれは、未だ昇華されていない、と?」
しかし同時に、我を見失うことも出来ぬまま、正気を保ったままで、灼熱のごとき渇望に身を焦がされるなどということがあるとすれば、それは狂うよりもなお苦しいだろうとも思った。
「そうだな……恐らく、永劫に」
ミトラの従神スラオシャは、従順と規律を意味する名を持つ、助力と導きの神だ。心優しいこの少年神は、病人や弱者に救いの手を差し伸べ、その営みを守るという。
「……守るべきものたちが、いつまで経っても救われないことに、苦しんでいるのか」
シャノンのそれは、半ば思いつきだったが、間違ってはいなかったようで、スラオシャの唇に、薄い苦笑が滲んだ。
「今にして思えば、故郷に……ああ、映画、というのだったか、もともとの世界にいた頃から、僕は渇望していたのかもしれない。完全なる救い、完全なる幸いを、ひたすらに求めていたのかもしれない」
「完全な幸いなどというものが、真実存在するのか?」
「……判らん。だからこそ、『あの方』に尋ねてみたいと思う。そしてそれが存在しないのならば……」
「何だって?」
「……いや」
スラオシャがかぶりを振ると同時に、彼の背の大きな翼がはためいた。
ごう、と、つむじ風が巻き起こる。
「……どこへ行く? まだ、二三、訊きたいことがあるんだが」
シャノンが言うと、スラオシャはかすかに笑った。
「済まないが、時間切れだ。最後の陣を描くのは僕の役目だ、それに遅れるわけには行かない。……おまえの結晶も、ありがたくいただいて行くぞ」
「また、その結晶か。一体いつの間にそんなものを取った……?」
引き止めることは出来ないと感じ、シャノンはつむじ風に巻き込まれないよう一歩下がる。スラオシャの翼が巻き起こす風が、シャノンの頬を叩き、彼の見事な金髪を躍らせる。
「では……いずれ、また。――終焉の日の、最後の戦いに」
「俺としては、出来れば別の道を模索できればと思うが、恐らくそれは、無意味なんだろうな」
シャノンの、溜め息交じりの言葉に、薄い笑みを寄越し、スラオシャは空へと舞い上がった。
そしてそのまま、颶風となって、空を駆けていく。
「……渇望の、その果て、か」
ぽつりと独白し、シャノンは、スラオシャの消えた空の彼方を見詰めた。
『あの方』と呼ばれる何者かが、呼び出されようとしている。
それは、決して、佳きものばかりをもたらしはしない。そんな予感があった。
避け得ない、戦いの予兆とともに。
「調査を続行するしかない、だろうな……」
呟き、シャノンは携帯電話を取り出す。
無論、次の一手を講じるためだ。
4.対峙、それぞれに
千曲仙蔵(ちくま・せんぞう)は、刀を手に二柱の神と向き合っていた。
ペルシャ風の甲冑に身を包み、血の色をした剣を片手に提げた大怒魔アエーシュマと、黒い革でアレンジされたペルシャ風のドレス、露出度の高いそれに身を包んだ虚偽の大魔ドゥルジが、彼の前には佇んでいる。
「……また会ったな、千曲仙蔵。このような間柄とは言え、再会を喜ばしく思うぞ」
屈強な戦士然としたアエーシュマが、先だってと寸分変わらぬ、親しげで魅力的ですらある笑みを見せると、
「そうだな……ヒトに忌み嫌われるしかなかった私たちには、この世界での人々の在りようは、喜ばしいことだ」
ドゥルジもまた、艶やかな笑みを赤い唇に咲かせる。
仙蔵は無言で二柱を見詰めていた。
気持ちを引き締めていないと、アエーシュマとドゥルジの発する神威、威圧感に、膝を折って恭順を示してしまいそうだ。
しかしそれは、実を言うと、不快なものではなかった。
仙蔵は、二柱に、憧憬めいた感情を抱いている。
その感情は、先だって、知の魔王リアティアヴィオラに対して抱いたものと似ていた。
――仙蔵が、対策課から出された依頼に名乗りをあげたのは、彼自身が、アエーシュマとドゥルジにもう一度相見えたい、もう一度言葉を交わし、その真意を質し、彼らの目的を確かめたい……という思いがあったからだ。
命の行き着く果てが見たい、と彼らは言った。
仙蔵は、それが一体どういう意味なのかを確かめたかった。
「貴殿らに、お尋ねしたき由あって、罷り越した」
忍刀を水平に携え、仙蔵は身構える。
「だが……その前に、手合わせを、お願いしたく」
ゾロアスター教も、ペルシャ神話も、仙蔵には馴染みがない。彼らが実体化した映画がどんなものであるかも知らない。だから、本来の、映画の役割におけるアエーシュマとドゥルジがどんな神なのか――どれほどの悪をなす神なのか、仙蔵には判らない。
判らないが、今の彼らが、単純な暴虐を好む無慈悲な存在ではないことは、判る。
恐らく彼らは、仙蔵を傷つけようとは思っていないだろう。
否、本当は、渇望に狂わされ右往左往する人々の誰をも、傷つけようとは思っていないのだろう。
自身が悪だから、悪に属する神だからという理由には拘泥せず、己が大願のために他者を犠牲にする理不尽を理解しつつも、求める何かのために、立ち止まるつもりもないのだろう。
仙蔵は、刀を向けた今この時にすら、彼らから悪意を感じ取ることができなかった。
二柱の双眸は、慈しみすら孕んで、身構える仙蔵を見詰めている。
「……死合う覚悟すら持って、来たか」
アエーシュマの問いに、仙蔵は小さく頷く。
武を司る神に、人間である自分が敵うとも思えないが、それでも仙蔵は確かめたかった。
拳を、刃を合わせることで、彼らの持つ本質を見極めたかったのだ。
「ならば……来い」
猛々しく、どこか晴れやかに笑ったアエーシュマが、血塗れの大剣を掲げる。
仙蔵は、唇を引き結び、地面を蹴った。
堂々たる体躯には不釣合いなほどの速度でアエーシュマに肉薄し、刀を横に薙ぐ。
「……いい太刀筋だ」
どこか楽しげなアエーシュマは、目を細めていた。
無論刀は空を切り、それを予測していた仙蔵はさらに踏み込んで切っ先を突き入れ、下段から跳ね上げるが、大きな身体に似合わぬ俊敏さはアエーシュマも同じで、暴力を司るとされる悪神は、仙蔵の揮う忍刀を舞うような滑らかさで的確に避けていく。
ヂッ、という音は、仙蔵の刀とアエーシュマの大剣が噛み合ったものだ。あまりにも重い一撃に力比べは不利と判断し、仙蔵は後方へ跳びながら手裏剣を三つ、一時に放った。
それらが甲高い音を立てて弾かれるのを目の端に見ながら、更に後方へ跳んで体勢を整える。
どう切り崩すか、算段する暇もなく、気づけば――本当に、それはあまりにも唐突で、速かった――間近にアエーシュマが迫っていた。攻撃のタイミングを計る間もなく、懐へと向かい踏み込んだアエーシュマが、掬い上げるような動作で、無造作に拳を繰り出す。
あまりの速さに回避は不可能と判断し、仙蔵は、呼吸を止めて全身に力を込めながら、アエーシュマの拳が突き出される方向に向けて一緒に跳んだ。
がつ、という鈍い音とともに、下腹部を衝撃が襲う。
「ぐ……!」
さすがは神々と言うべきなのだろうか。一体どれだけの膂力を秘めているのか、全力で衝撃を殺す方法を選択したというのに、自分で跳んだというより吹き飛ばされながら、仙蔵は全身がばらばらになりそうな重苦しい痛みに襲われ、地面に膝をついて呻き声を上げていた。
「……ほう、意識を失わぬか」
次の攻撃に備えるためすぐに飛び起き、心身を緊張させて身構える仙蔵に、アエーシュマがわずかな感嘆を滲ませて言った。
「おまえの馬鹿力にさらされて意志を挫けさせぬ男など、そうそういないというのにな。なるほど……やはり、強い男であるらしいな」
ドゥルジもまた、呼吸を整える仙蔵を、目を細めて見詰めながら、賛辞を口にする。
――それらを見ていると、また、仙蔵の中の、憧憬めいた感情が刺激される。
「悪くない」
大剣を腰に戻し、アエーシュマが笑った。
「まったく悪くないぞ、千曲仙蔵。出来得ることならば、おまえを我が臣に迎え入れたいとすら思うほどだ」
アエーシュマのその言葉に、仙蔵の心臓は大きな音を立てる。
――そう、仙蔵は、先だってのリアティアヴィオラと同じように、この二柱の神に、己の求める主君像のようなものを感じているのだった。
このような主人に仕えてみたい、と思わせる何かを、彼らは持っていた。
悪神の一柱と言いつつ、彼らは理知と誇りによって律されている。
わずかな手合わせからも、それが判る。
畏怖と畏敬、ほんの少しずつ敬愛に変化しつつあるそれを、仙蔵は自覚している。
しかし、同時に、
「お二方にお尋ねしたい。貴殿らの目的が何であるのかを。――命の行き着く果てとは、一体、何であるのかを」
人々を苦しめ、涙させる彼らの行為を、決して許容してはならない、とも思っている。
それゆえに、仙蔵の心は、揺れるのだ。
何もかもを振り捨てて膝を折ってしまえ、すべてを委ねてしまえとそそのかす、あの渇望の声が、今も聞こえるから。
揺らぎそうになる意識を叱咤し、仙蔵は問う。
「貴殿らを邪悪と断じることは、俺には出来ぬ。アエーシュマ殿の言葉に揺れた己を否定もせぬ。しかし俺は、己が願いのために他者を踏みつけにすることも出来ぬ。純粋に、ただ知りたい。貴殿らは、何故、これを? 何が、貴殿らを、そうも駆り立てる?」
狂おしい願いを抱いて、今も立っている。
絶対の君主を得て里に日の目を見せてやりたい、散らばってしまった一族のものたちを再び呼び集め、まだ賑やかで和やかだった頃の里をもう一度見たい、もう一度皆に会いたいというそれは、仙蔵の根本そのものと言ってもいい。
命を懸けて仕えるに足る主人がいれば、仙蔵も里の忍たちも、もう揺らぎはしないだろうから。
その思いは、銀幕市に来てからも変わってはいない。
アエーシュマとドゥルジが主人となり、自分たちを導いてくれたら、自分たちがその絶対の主人を守る栄光を、その晴れがましい責務を負うことが出来たら、と、脳の片隅で空想は展開され、他愛ない方向へと広がろうとする。
しかし、それでも、やはり、相容れぬ部分は、存在するのだ。
「俺の渇望は、絶対の主人を得ることだ。――では、貴殿らは? “業苦の楽土”なる外界の神がもたらす渇望は、貴殿らに何を突きつける?」
「確かに我らにも渇望ならばある」
応えたのはドゥルジだった。
「だが、それは、あの男――“業苦の楽土”がもたらしたものではない」
「私たちとは別の観点で行動する連中だ、彼奴の目的は知らぬ。彼奴もまた、我らを利用しようとしか考えてはいないだろう。それはそれで構わぬのだ、私たちが望むのは、結局、終焉なのだろうとも思うから」
「……終焉? ならば、命の行き着く果てとは」
仙蔵が眉をひそめると、二柱の悪神は穏やかに笑った。
彼らが悪に属する神であるとは、到底思えない笑みだった。
「おまえもまたそうであるように、俺たちはもののふだ。戦うために存在し、戦いによって斃れるために在る。我らの世界において、闘争こそが己が証。我らダエーワ神群も、マズダ神群も、ヤザタ神群も。闘争によるぶつかり合いは、我らにとって終わりなき存在の証明だった」
仙蔵には、彼らの言う意味が判る。
絶対の主人を得て、彼のために戦い、そして斃れる、充足のある最期のために、仙蔵は生きたいと願っている。
安寧だが無意味な生ではなく、苦痛に彩られていようとも息が詰まるような充足と幸いとともに生きたい。それが仙蔵の願いだった。
「命の行き着く果て、とは……満たされた死のことか」
ぽつり、呟くと、アエーシュマが、ドゥルジが、また微笑んだ。
「その者にとっての、悔いのない最期。それがどんなものなのかを、俺は知りたい。そして、俺もまた、己自身のかような最期を見たいのだ。故郷において、戦いという語らいの末に、救世主サオシュヤントが、見事この大怒魔を打ち倒すように」
「それと同時に、私は、戦いという獰悪な場にあってヒトが見せる真実がどんなものなのか知りたい。強さなのか、優しさなのか、狡さなのか、脆さなのか、保身なのか、献身なのか? ――生きることとは戦いだろう。その戦いの中で、命が見せる揺るぎない真実を、私は目にしてみたい」
滔々と語られる彼らの『渇望』。
仙蔵は言葉なく立ち尽くし、二柱を見詰める。
眼前の二柱は、悪神とは思えぬほどに穏やかで真摯だった。
元来そういう神なのか、それとも出身映画での彼らはそういう存在なのか、もしくは銀幕市に実体化したことでその性質を得たのか、仙蔵には判らないが、彼は、二柱にその渇望の答えを見せてやりたい、彼らが答えを見つけ出す手伝いがしたい、彼らの心に寄り添って彼らを守りたい、という、この『場』がもたらす渇望によるものではない、強い強い思いに、胸の奥を焦がされていた。
無論、今のままではそれが叶わぬことも、痛いほどに理解してはいるのだが。
* * * * *
臥龍岡翼姫(ながおか・つばき)が瑕莫と対峙したのは、偶然ではなかった。
翼姫は、渇望に狂わされ暴走した人々のほとんどは一般市民であるという事実を鑑み、統率力はないだろうと判断した。彼女の『家族』である傭兵団が鎮圧に参加していることもあって、誰かから与えられた特殊能力の有無に関わらず収束は早いと予測し、全体的な事態収束のために、『頭』を鎮めることを最優先して瑕莫との接触を図ったのだ。
傭兵団ホワイトドラゴンにおいてハイテク機器を担当する翼姫にとって、街中から一個の存在を見つけ出すということは決して困難な仕事ではない。軍事衛星の端末に侵入して相手の状況確認などを行うことは、銀幕市以外の戦場でも日常茶飯事だからだ。
基本的に後方支援である自分を、最前線で『彼』を守ることの出来ない自分を、翼姫は常々歯痒く思っていたけれど、今日ばかりは、こんな芸当を出来る自分を褒めてやってもいい、と思った。
彼女は、軍事衛星の端末に侵入して全体状況を把握しつつ、街中の監視カメラを使って銀幕市全域を調査、得られた情報を銀幕ジャーナルからピックアップした『囁く者』の身体的特徴と照らし合わせて瑕莫を見つけ出し、現場へと急行したのだった。
瑕莫という名前は、彼に関する情報を集めたところ、神音のコンサートに出かけて渇望を埋め込まれた人物のひとりが、“業苦の楽土”と彼の会話を記憶に残していたために判明したものだったが、ありとあらゆる映画を検索にかけてみても、それを映画の中に見つけ出すことは出来なかった。
つまり、瑕莫という名は、映画の登場人物のものではなく、瑕莫という男自身が、この銀幕市に実体化して名乗ったものなのだろうと推測された。
そして翼姫は今、銀幕市南部に位置するベイエリアの西部、工場が建ち並ぶ工業地帯の一角で、悠然と佇む壮年の男と向かい合っている。
「わたし、あんたに訊きたいことがあって来たの」
翼姫自身は、正直、市民同士が傷つけ合おうと知ったことではない。
渇望に踊らされるのも踏み止まるのも自分自身の在り方だろうと思うから、好きなようにすればいいと切り捨てる。
ただ、そのことで誰かが傷つき、命を落とした時、きっと『彼』は哀しむだろうから、己が存在意義とでも言うべきあの人に憂い顔をさせたくなくて、翼姫はこの依頼に名乗りを上げたのだ。
翼姫は、渇望に飲まれるなんて馬鹿みたい、と思っている。
自分はそんなみっともないことはしない、渇望なんてものはわたしにはない、と、根拠もなく確信して、彼女は瑕莫と対峙している。
――それがどれだけ危ういことか、気づきもせずに。
「ほう。質問とは、何かね?」
瑕莫は理知的な眼差しの壮年男性だった。
唇に浮かぶ穏やかな笑みから、彼が一連の事件の黒幕である事実を伺うことは出来ない。
しかし翼姫は、『彼』と『家族』以外の姿かたちなどというものに興味はなかったので、外見と所業の不釣合いさを訝ることもなく、マニキュアで綺麗に彩られた指先を瑕莫に突きつけ、
「……実は、あんたが“業苦の楽土”なんじゃないの?」
調査の過程で立てた仮定を彼に指し示した。
「……ほう?」
片眉をわずかに動かした瑕莫の眼が、漆黒から黄金へ変わるのを翼姫は見た。
右手の甲を彩る勇壮な獅子頭の刺青と、そのほとんどを黒いスーツとコートに覆われてはいるものの、左腕を全体的に渦巻き巻きついていると思しき蛇の刺青とが、奇妙な神々しさと威圧感を孕んだのが翼姫には判った。
「何故、そう思うのかね」
尋ねる声に変化はない。
だが、何かが違う。
翼姫は挑むような視線を向け、彼の刺青を指差した。
「ライオンと蛇って、神さまを表すモティーフとしてはよくあるでしょ」
「ふむ。では……久我君のことをどうするね」
「彼はフェイクじゃないの? 彼を操って大々的に宣伝して、彼を倒させて、“業苦の楽土”の脅威は取り除かれた、って市民を安心させるための」
「……なるほど」
瑕莫は微苦笑したようだった。
「そもそもなんで彼だったのか、って思うのよね。彼、名士の家柄かもしれないけど、乗っ取るための肉体としてはちょっと半端じゃない。何を利用するために彼を選んだの? お金や人脈……って言えるほどのものでもないし。どうせなら市長でも攫って乗っ取っちゃえばよかったのに。大変だろうけど」
とはいえ、翼姫が立てた仮説、瑕莫=“業苦の楽土”は、それほど強い根拠があるわけではない。久我のことも、“業苦の楽土”のことも、瑕莫のことも、大して詳しく知っているわけでもなく、当たっていても間違っていても、どちらでも構わない。
ただ、それをきっかけに、瑕莫から情報を引き出そう、という試みなのだ。
――しかし、彼の、久我の渇望だけは、理解出来る気がする。
何故彼が瑕莫と知り合ったのかは知らない。
何かを利用するためではなく久我が選ばれたのだとしたら、それは、彼の渇望が人一倍強かったからだろう。
ずっと慕い、憧れてもいた神音が音楽家として成功しているのに、自分は望みながらもその位置には辿り着けず、挫折したという苦しみ、哀しみ、妬みは、ひどく深く暗い渇望をかたちづくるだろうと翼姫は思うのだ。
それゆえに、久我は、放っておいても神音の元へやってくるだろうと予測している。そのことは、対策課で行き逢った、調査・探索メンバーにも伝えてあるから、久我を捜す人々は、神音の動向にも気を配りつつ、足取りを追っていることだろう。
「それで、どうなの? あんたは、結局、なにもの?」
きつい眼差しで見詰めると、瑕莫は静かな笑みを浮かべた。
「さあ……どうかな。――君は、どう思う?」
その言葉は、翼姫に向けられたものではなかった。
瑕莫の視線が、自分の背後に注がれていることに気づいた翼姫が振り向くと、そこには、星の光のような銀眼以外のすべてが漆黒という、見慣れているのに異質な、背の高い青年が佇んでいる。
「……理月(あかつき)」
翼姫の絶対である『彼』とまったく同じ姿をしたこの青年は、『彼』が演じた映画の登場人物が実体化した存在だが、爪の先、髪の毛の一筋、睫毛の一本一本まで『彼』と同じだとしても、『彼』ではない理月に対して、翼姫は特別な気持ちを抱いてはいない。
「あんたも来てたのか……理晨は?」
「他の連中と暴徒の鎮圧に行ってるわ」
「そっか」
素っ気ない翼姫の様子を気にすることもなく理月は頷き、彼女の隣に並んだ。
基本的に『家族』以外の他人が嫌いという態度を隠そうともしていない翼姫だが、そう装っているだけのことで、本当は怖いだけなのだ。近づいて信じたら、裏切られて傷つくのは自分だと思っているから、口では何を言っていても心を預けられる『家族』以外の他人は、怖い。
理月は、それを判っているのかもしれない、彼が『彼』と同じ心を持っていると言うのなら。
「理月君……だったかな。君は、何故ここに?」
「唯瑞貴の」
理月の、邪気なく透き通った銀眼が、瑕莫を映している。
そんなところまで『彼』と一緒だと思ったら、憎らしいような気分にすらなった。
「……唯瑞貴の居場所が知りたくて」
「ほう」
「あいつは一体、どうなったんだ? あんたたちは、一体、何をする気なんだ」
「君は、どう思う。私がなにものであるかも含めて、どう思う? ――見たところ、一定の答えは、用意してあるようだが」
「……俺、か?」
その頃から、だったと思う。
翼姫の内側から、声が聞こえ始めたのは。
理月の横顔があまりにも『彼』と同じで、今は別の場所で事態の収束のために戦っている『彼』が恋しくて恋しくてたまらなくなって、こっそりと拳を握り締めた頃だったと思う。
(ほしい)
熱っぽくかすれた、聞き慣れた声。
それが自分のものだと気づくまで、大した時間はかからなかった。
「あれから、たくさん本を読んだんだ。この世界にはたくさんの神話があって、ちょっと苦労したけど……あんたたちの話も、見つけた」
理月の声が、どこか遠くに聞こえる。
(手に入れたい……手に入れなくては。わたしが壊れてしまう前に)
自分には渇望なんてない、そんなものに飲まれたりしない、と、否定する間もなかった。
否、自分の中にあるそれを否定し続けてきたがゆえに、耐性のないその感覚は、容易く彼女を飲み込んだのだ。
(愛されたい、愛されたい、愛されたい)
自分の奥底に、すとん、と、それが落ちる。
(誰かわたしを抱き締めて。頭を撫でて。怖い夢を見た時には、手をつないでいて。――誰か、わたしを愛して。誰か、わたしを必要だって、言って)
翼姫の脳裏を、罵り合う両親の姿がフラッシュバックする。
口論の後、翼姫に八つ当たりする母親の姿が見える。
(あんたがいなかったらとっくに離婚してる)
(あんたが大人になるまでは我慢する)
(あんたがいなければあたしは自由になれるのに)
(どうして子どもなんて生んだのかしら)
(いい? あたしがここに残るのは、あんたのためなんだからね)
親は親なりに自分を愛していたのかもしれない、と、時折漠然と思いはする。娘のために、と口にすることで、途切れそうになる気持ちを奮い立たせていたのかもしれない、と。
けれど、翼姫は、自分の目の前で繰り返される両親の諍いに耐え切れなかった。
子どもが親に求めることなど、たかが知れている。
愛してほしい、などという難しい言葉ではなく、傍にいて、笑顔を見せて、名前を呼んでほしい、抱き締めて、おまえは大事な子どもなんだと、大切で価値のある存在なんだと、ただ態度で示してほしい、それだけだった。
しかし、その願いは叶えられなかった。
翼姫は結局、自分は不必要な子どもなのだ、という思いから逃れられないまま、両親との永遠の別れを迎えた。
――自分で迎えさせたのだ。
戦乱のどさくさに紛れて、実の親を、自分の手で殺すことで。
憎んでいたはずなのに、大嫌いだったはずなのに、それは今も、ひどい罪悪感となって翼姫の中に在る。
大嫌い。憎い。大嫌い。――だけどもう会えない。
もう、彼らの真実を確かめることも出来ない。
本当は翼姫をどう思っていたのか。
本当は、愛してくれていたのか。
――本当に、翼姫は、不必要な子どもだったのか。
(だけど……本当は、求めたって無駄なんだわ)
愛してほしいなんて言えるはずがない。
こんな自分を誰が愛してくれると言うのだろう。
醜悪で狡猾な、滑稽に捻じ曲がった自分を、一体誰が愛してくれると。
求めて、拒絶されて、傷つくのは自分だ。
そのくせ、誰かの愛情を深く深く望んでいる、そんな自分が憎い。
なんて諦めが悪いのだろう、と、軽蔑すらする。
(でも……愛されたいの! わたしは要らない存在なんかじゃないって、誰かに言ってほしい、必要とされたい、愛したい愛されたい!)
「……翼姫? どうした?」
様子がおかしいことに気づいたのだろう、理月が翼姫を呼ぶ。
それを見て、瑕莫が目を細めた。
「ああ、そうか……君は、そんなにも欲しているのだね」
その言葉を向けられているのは、翼姫だ。
「あの時、それとは知らぬまま両親を永遠に自分のものにしたように、『彼ら』のことも、自分のものにしてしまえばいい、とは思わないかね?」
「待て、あんた、何を言って……」
訝しげな理月の声。
(ああ)
翼姫の中の渇望が、うっとりと溜め息をつく。
(あの人たちを、永遠に自分のものにしてしまえたら、どんなに素敵だろう)
完璧な彫像のように美しい、朴訥で素直な白皙の男と、翼姫より一回り以上年上の癖に、未だ少年めいた闊達さ無邪気さを宿す、表情豊かな青年とが、脳裏を過ぎる。
彼らなら。心底そう思う。
――だからこそ、手に入れたい、と。
(そうだ、手に入れよう……手に入れなくては)
しかし、今、彼らはこの場にはいない。
そのことに失望すると同時に、正常な判断能力を失った翼姫の意識は、自分の隣に立つ青年にその矛先を向ける。
「翼姫、どうした、しっかりし、……う、わッ」
彼女が渇望の『声』に囚われかけていることに気づいたのだろう、自分を励まそうとした理月を、翼姫は一瞬の隙をついて――恐らく、理月自身、予測もしていなかったのだろう――その場に押し倒し、彼の身体に圧し掛かった。
翼姫の手には、いつの間にか、護身用にと持ち込んだ、刃渡り十五センチほどのナイフがある。
「翼姫……?」
理月はナイフを恐れてはいなかった。
翼姫を振り払うことも出来ずにいる彼の声には、困惑と気遣いだけがある。
「わたし」
理月の背後に、大切な大切な『絶対』の姿を見ながら、翼姫は囁く。
「……ほしい」
指先で理月の鼻梁をなぞる。
理月の向こう側に、優しい笑顔で自分の名前を呼ぶ『彼』の姿が見える。
いまや理月は、理月ではなく、『彼』を映す鏡だった。理月を自分のものにすれば、『彼』も自分のものになる、そんな気がしていた。
手に入れたい、ほしい、と、心が叫ぶ。
「名前を呼んで、抱き締めて、わたしだけのために笑顔を見せて。頭を撫でて、手をつないで、ここにいてもいいって言って」
「……」
ほつりほつりと、童女のように言葉をこぼす翼姫を、理月が切ない眼差しで見上げた。
「だけど」
しかし、きっと、どうせ受け入れられないだろうという絶望めいた諦観が翼姫にはある。
暗く寂しい、ままならない幼少時代が創り上げたその冷たい諦観は、ならばもう、いっそ、両親と同じように、自分の手で喪わせることで、永遠に自分のものにしてしまえばいい、と、歪んだ衝動を翼姫に突きつける。
「だから――わたしのものになって。永遠に、ずっとずっと、わたしの傍にいて」
囁くように、啜り泣くように、愛を語るように告げ、ナイフを振りかぶる。
「翼姫……!」
理月の言葉がかたちになるより、翼姫がナイフを振り下ろす方が早かった。
翼姫は正確に首筋を狙ったはずだったが、理月は咄嗟に身を捻ってそれをかわし、刃は理月の左肩に深々とめり込んだ。
理月が息を詰める気配が伝わってくる。
苦しい思いも痛い思いもさせたくなくて、ナイフを引き抜きながら、早くとどめを刺してあげないと、と――歪んだ愛情でそう思った瞬間、翼姫は、伸びてきた理月の腕に絡め取られ、きつく抱きすくめられていた。
「きゃ、」
その衝撃でナイフが手から零れ、地面に乾いた音を立てて転がる。
しかし、翼姫がそのナイフを再度手にすることはなかった。
小柄な翼姫は、理月の腕の中にすっぽりと収まり、彼女は今、彼の心臓の音を聞いている。
翼姫を抱き締める強靭な腕は、『彼』のもののようで、『彼』ではなかった。
温度が違い、匂いが違った。
けれど、それは、温かかった。
「俺は、あんたのものになってやることは出来ねぇし、あんたが見てるのは、きっと、俺じゃねぇ誰かなんだろう、って思う」
翼姫を抱き締めて、傷の痛みも感じさせぬ静かな口調で、理月が囁く。
「だけど……あんたの寂しさが、俺には判る。あんたが苦しんでるのも、判るよ。愛されてぇって、必要とされてぇって、その気持ちは、俺の中にも、たくさんあるから」
ことん、ことん、と、理月の心臓が動いている音が聞こえる。
夢の産物でも何でも、今この時、理月が生きて、翼姫を抱き締めていることに変わりはなかった。理月が翼姫を慈しみ、抱き締めてくれていることに変わりはなかった。
命の音だ、と翼姫は思った。
「わ、たし……」
それとともに、ぼんやりと正気が戻って来る。
自分のしようとしていたことの理不尽さが、今なら判る。
「ごめ、なさ、」
『家族』さえ無事なら、他の誰が傷ついても、傷つけても構わない。
そう思って生きている。
けれど今この時ばかりは、自分を傷つけた翼姫を責めず、ただやさしく抱いていてくれる理月が愛しくて苦しくて、怖くて哀しくて、申し訳なくて、翼姫の声は少し、震える。
どんな顔をすればいいのだろうと思いながら、理月に抱かれたまま見上げると、彼は、『彼』と同じ、邪気のない穏やかな微笑を浮かべていた。不思議な銀眼に共感めいた慈しみを見い出し、翼姫は言葉を失う。
「俺は、あんたの心に踏み込むことは出来ねぇけど。だけど、あんたを、こうして抱き締めてやることくらいは出来る。あんたの頭を撫でてやることも出来る」
伸びてきた黒褐色の手が、翼姫の頭をやさしく撫でる。
振り払うことも出来たのに、翼姫はそれをしなかった。
不覚にも泣きそうになって、ぐっと唇を噛み締めただけだ。
「でも、それ、俺だけじゃねぇと思うんだ。もちろん理晨だけでもなくて、あんたのこと、抱き締めてやりてぇって思ってるの、俺だけじゃねぇと思う」
そんなはずがない、と言おうとしたけれど、思いは言葉にならなかった。
そうだったらいいのに、と、渇望という意味でではなく、思う。
「だから」
翼姫を抱いたまま、理月が身体を起こす。
「渇望と一緒に歩こう、翼姫。それも自分なんだって受け入れて」
「……そんなの」
出来ない、みっともない、往生際が悪い……と首を横に振ったら、理月が苦笑した。
「でも」
「ああ、どうした」
「ちょっとくらいなら……考えてやっても、いいわ」
少し調子が戻って来て、偉そうに言うと、理月は無邪気に、無防備に笑った。
「うん」
『彼』と同じようでいて違う、違うようでいて同一の、理月という青年を不思議に思いながら、今この時、傍にいてくれたのが彼でよかった、とも、漠然と翼姫は思った。
左肩からは、まだ血があふれていたけれど、理月は、翼姫にその血がつかないようにするだけで、怪我を気にしている様子はなかった。我が身を顧みない潔さにまた『彼』を思い出しながら、翼姫は、ホワイトドラゴン隊員ならば皆携帯している簡易医療キットを取り出して、手早く止血をする。
ありがとう、と礼を言い――本当は、礼を言うべきなのは自分なのだが、そこは偉そうに頷いておいた翼姫である――、立ち上がった理月が、翼姫に手を差し伸べ、彼女を立たせてくれる。
それらすべてを、瑕莫は、黙って見詰めていたようだった。
「……それが、君たちの選んだ、結晶なのだね」
深い深い、畏怖すら感じる笑み。
「あんた……本当に、なにものなの」
翼姫は彼を睨み据えながら、結晶の意味を唐突に理解していた。
選択。道筋。自分で選んだ生き方。
恐らくそれを、結晶と言うのだ。
彼らにとっては、それが、何がしかの力を持つのだ.
ならばその結晶を集める彼らは、一体何をするつもりなのだろうか。
そう思いながら、途切れていた問いと答えを再開すべく口を開く理月を見詰める。
だが、瑕莫は、ふと何かに気づいた様子で、空を見上げて苦笑した。
「……そうか」
小さく呟くと、
「すまない、もう少し話をしていたかったのだが……そろそろ時間切れのようだ。お暇させてもらうよ。我が盟友のところへ顔を出さねばならないようだし、ね」
優雅ですらある動作で踵を返す瑕莫。
ゆったりとした動きのはずが、あっという間に遠ざかっていく彼を追って、理月が走り出す。
「駄目よ、傷が……」
翼姫はもちろん制止しようとしたが、聴こえなかったのか、聞く耳を持たなかったのか、理月もまた、あっという間に遠ざかってしまった。
「もう……どいつもこいつも、馬鹿なんだから……!」
毒づき、翼姫は携帯電話を取り出す。
理月は、自分のことは自分で何とでもするだろう。
なら、翼姫は、『家族』と連絡を取り、サポートに徹するだけだ。
事件はまだ、収束していないのだから。
* * * * *
追いついた、そう思った途端、襲われた。
虚ろな目をした唯瑞貴に。
「待て、唯瑞貴……俺だ、守月だ!」
鋭い剣閃を間一髪で避けながら呼ばわるものの、唯瑞貴が志郎の声に反応することはなかった。
恐るべき速さの踏み込み、突き込まれる切っ先、頬をかすめていく刃と、弾ける熱。
唯瑞貴の放つ冷ややかな殺意は本物だ。
一瞬でも気を抜けば、なすすべもなくプレミアフィルムにされてしまうだろう。
けれど、志郎は剣を抜けなかった。
剣の一撃を避けたと思ったら、そこから更に踏み込んできた唯瑞貴が志郎の鳩尾に肘を埋め、尋常ではない膂力に吹っ飛ばされて、激しい嘔吐感に咳き込むことになっても、志郎に唯瑞貴を攻撃することはできなかった。
彼との縁は、去年の、海辺で行われた団体戦から始まる。
思う存分楽しんでいた友人のライオン男はともかく、志郎としてはあちこちに突っ込まざるを得ない催しだったが、そんな中でも、唯瑞貴との出会いは、彼を微笑ましくさせたし、親近感を持たせた。
――志郎には弟がいる。
両親はすでになく、他に身内もいないこともあって、お互いに、自他ともに認めるブラコン、というやつだと思う。
彼がこちらの世界に来ていないことに寂しさを感じつつ、弟は、きっと志郎が頑張っている姿を、賑やかで楽しい日々を送っていることを喜んでくれるだろうと思うから、志郎は、離れているこの時間を悲観はしない。
唯瑞貴は、かの地獄の大公ゲートルードの義弟なのだという。
あの刺激的な祭の中で、義兄の弾けぶりに遠い眼をしながらも、唯瑞貴がゲートルードを慕っていることがよく判ったから、志郎は、兄として唯瑞貴に好意を持っていた。
だから、唯瑞貴を追いかけてきたのも、心配しているであろうゲートルードの元へ、唯瑞貴を連れ帰ってやりたい一心だったのだ。
しかし、唯瑞貴の様子は明らかにおかしい。
『器』云々の話を、志郎は人伝にしか聞いておらず、詳しいことは知らなかったが、何者かに囚われたという唯瑞貴が、『何か』をされ、敵に回ってしまっていることは理解できた。
無論、理解出来たところで、今は敵なのだからと割り切って攻撃に転ずることなど、志郎に出来るはずもないのだが。
「唯瑞貴、しっかりしろ、正気に戻ってくれ! ゲートルードは心配してるだろ、一緒に帰ろう……!」
呼びかけは虚しく行き過ぎるのみだ。
一体どうすれば、と、臍を噛んだ、それが隙になったのかもしれない。
気づいた時には、唯瑞貴の揮った剣が鋭く突き入れられ、志郎の左上腕を、古びたビルの壁に縫い止めていた。
「……ッ!!」
痛みと表現するのも馬鹿馬鹿しいような、灼熱めいた激痛が腕を襲い、志郎は歯を食いしばって絶叫を堪えた。骨ごと貫かれ、ビルの壁に磔にされた所為で、身動きすることも出来ない。
唯瑞貴の、虚ろで冷ややかな赤瞳が志郎を見据える。
伸ばされた手が、首筋に触れる。
――このまま絞められたら死ぬな、と、志郎が妙に冷静に思った時、唯瑞貴ががくりと身体を折った。
「ぅ、……」
低いうめき声が漏れる。
「唯瑞貴、一体どうし、」
「……ろ、して、くれ……」
眉をひそめ、呼ばわる志郎の言葉に重ねるようにして、弱々しい声が零れ落ちる。伸ばされた手が、志郎の武装を、縋るように掴む。
「唯瑞貴、」
「頼む、私を、殺してくれ……!」
「!?」
驚愕に見下ろせば、唯瑞貴の赤瞳から、涙がひとつ、零れ落ちていった。
「手遅れになる前に、この街に虚無が満ちる前に、私を」
「待て、それは何のことなんだ、一体何がどうなってるのか、教えてくれ」
だが、志郎の声が聞こえていないのか、唯瑞貴は答えない。
志郎の武装の裾を握り締めて、震えている。
「嫌だ……」
啜り泣くような声が漏れる。
「滅びの核に、なる、のは……嫌だ……この街に、この街の人たちに、災厄をもたらす、もの、になるのは、嫌だ……ッ」
搾り出すような、途切れ途切れの悲痛な声。
しかし、何をしてやればいいのか、どうすればいいのか、思案するだけの暇はなかった。
「……やれやれ、まだ『洗浄』が完全ではなかったのか」
ばさり、という羽音のあと、唐突に声が響くや否や、唯瑞貴の身体が力を失って、ずるずるとその場に崩れ落ちたのだ。
彼の背後には、大きな翼を背中に生やした少年の姿がある。
「あんたは、一体……」
少年は答えず、ビルの壁につなぎとめられたままの志郎を一瞥すると、ぐったりと意識を失った唯瑞貴を担ぎ上げた。
「待て、そいつをどうするつもりだ!」
志郎が声を荒らげると、彼はうっすらと笑みを浮かべ、
「本人が言っていただろう。そういうものになる、というだけのことだ」
それだけ言って、踵を返した。
「やめろ、そいつを返せ! あんたたちの目的は、そいつを大事に思う人たちの気持ちを全部踏み躙ってまでなすべきことなのか……!」
身動き出来ない自分に歯噛みし、何とかして剣を引き抜こうともがきながら志郎が叫ぶと、ほんのわずか立ち止まり、振り向いた少年は、自嘲のようにも見える笑みをみせて、首を横に振った。
「それを判断すべきは、僕ではない」
ばさり。
大きな翼がはためく。
少年の身体が宙に浮かぶ。
ごう、と、颶風が巻き起こり、あちこちに散らかるゴミの類いを吹き散らかした。
「くそ……ッ!」
志郎は無力感に歯噛みしながら、少年と唯瑞貴が遠ざかるのを見ているしか、なかった。
――街に災厄をもたらすものになどなりたくない、という、唯瑞貴の叫びがリフレインして、狂おしい焦燥に囚われる。
5.業を抱く
その少し前、ブラックウッドは海辺に近いコンサート会場を訪れていた。
彼は銀幕市内の、神音と関わりが深い場所を隈なく捜したのち、ここへ来た。
神音の気配が色濃く伺えるオフィス、スタジオ、神音の住まい、神音が入り浸っていた対策課の一角、神音がよく足を運んでいたカフェ。
それらを入念に調査する中で、ブラックウッドは、その端々に久我の――“業苦の楽土”の匂いを感じ取っていた。
久我の渇望の源が神音だと言うことは明白だ。
その背に憧れて目指したはいいものの、結局は挫折した己の夢を、神音がいとも簡単に叶えてしまったように見えるから、だろうか。
彼の内の渇望を増大させようとするならば、“業苦の楽土”は神音を強く想起させる場所に久我を導くのではないかと予測し、神音に縁の深い場所を探ったのだが、それは正解だったようだった。
そして今、ブラックウッドは、久我が行方不明になった、即ちかれが“業苦の楽土”として目覚めた、意識を乗っ取られた場所でもあるコンサート会場にいる。
それほど長い時間がたったわけではないはずなのに、ここは、ひどく閑散として、寂しい場所になっていた。美しい女ムービースターの死をきっかけにした一連の事件が、この場所から人々を遠ざけてしまったからかもしれない。
「……おや」
周囲の気配を探っていたブラックウッドは、目を細めてステージを見遣った。
そこに、ジャーナルでも見慣れた顔を見い出したからだ。
黒髪に黒目の大柄な青年。
肩には、アッシュグレイのダイモーンが鎮座して、ステージ下を睥睨している。
「久我君。いや……今は、“業苦の楽土”と呼べばいいのかな」
呼びかけると、ステージの中央で預言者のごとく佇んでいた久我は、酷薄な笑みを浮かべてブラックウッドを見下ろした。
今の彼は、久我ではなく、“業苦の楽土”だ。
――ふと空を見遣ると、ワイルドでセクシー、と表現するのがぴったりな、野生的な美貌の青年が、美しい白翼をはためかせて、こちらへと飛んでくるところだった。
彼も、ジャーナルで見たことがある。
確か、名を、フェイファーと言ったはずだ。
「やはり、ここだったのか……」
更に、背後から声がして、ちらと見れば、そこには、中性的な美しさを持った銀髪の青年が、久我を見詰めながら佇んでいるのだった。
彼のことも、ブラックウッドはジャーナルで見たことがあった。
記憶は、彼がベルナールという名の魔術師であることを教える。
「……まだ、もう少し、増えそうだね」
皆、久我の心の在り方に見当をつけて、銘々に事態を収束させるべく動いているようだ。
ばさり、と音を立てて、フェイファーが観客席の片隅に降り立った。
彼の金色の目には、慈しみめいた光がたゆたっている。
「さて……ならば、まず、自己紹介と洒落込もうか」
ブラックウッドが悪戯っぽく言うと同時に、彼の影の中から、華奢で美しい、真紅の姿見が現れた。
銀とルビーで作り上げられたかのような枠と、すべての偽りを見抜くかのように透き通った鏡面の、神秘的に美しい姿見だった。
「リアティアヴィオラ……君の力を、借りるよ」
愛撫するように鏡に触れ、ブラックウッドは囁く。
恋人と睦言を交わすようなやわらかな口調で。
それから、ブラックウッドは、透き通った鏡面を久我へ向ける。
まだ漠然としたことしか判っていない“業苦の楽土”の手がかりを、真実を映すリアティアヴィオラの姿見が映し出してくれはしないかと、照魔鏡としての役割を期待してのことだった。
――と、不意に鏡面が揺らいだ。
鏡面には、醜悪な顔立ちの老人が、赤子を頭から丸呑みにしている旧い絵が映っていた。
「『我が子を喰らうサトゥルヌス』……」
それは、聴力を失った画家が、晩年に描いた『黒い絵』のひとつ。
サトゥルヌスとはローマ神話の神だが、ギリシャ神話の神々であるオネイロスやタナトス、ムネモシュネなどの名が先行していることを考えれば、それは暗示、暗喩であると捕らえるべきだろう。
ギリシャ神話に置き換えれば、
「なるほど、クロノス、だったか……」
それは、父神を追い落として権威を得た、偉大なる農耕の神となる。
ブラックウッドが呟くと、“業苦の楽土”――クロノスが、冷酷な笑みを浮かべてみせた。
それは、神話においてはウラノスとガイアの末弟で、父を追放し、実の姉レアと交わって、オリュンポスの神々を生み出したと言われる農耕と大地の神の名だ。彼らの前に姿を顕したあれが、その神と真実同一であるかどうかは判らないが。
――ヒトに様々な恩寵を垂れる豊饒の大地。
それを司る神であるがゆえに、ほしい、という思いを操ることが出来るのか。
否、そもそも、彼らが伝承のままの神であるとは限らない。“業苦の楽土”が農耕と大地の神であると判ったとして、どんな能力を持っているのかは、判らないのだ。
「人々の渇望を刺激して……何をしようとしているのだね」
ブラックウッドがステージに向かって歩き出すと、久我の――クロノスの肩のダイモーンが、金属が擦れるような音を立てた。威嚇しているのか、嗤ったのか、それとも単なる欠伸のようなものなのか、判然とはしないが、不吉な音であることは確かだ。
「私は何もしない。己が欲望に踊らされた愚かな者たちが、勝手に転がっていくだけだ」
クロノスの唇が侮蔑めいた笑みを孕む。
「おまえの渇望も……根深いな」
シャア、とダイモーンが鳴いた。
ブラックウッドは穏やかに微笑する。
「ああ……そうだね。そもそも、私の存在自体が、渇望によって成り立っているものだから」
実を言うと、今も、己が内側に囁きかける、渇望の声を聞いている。
(ほしい……喰らい尽くしたい。貪り、飲み干して、糧としたい)
その渇望の声を思う時、脳裏をよぎる顔は幾つもあるが、その中でも特に彼の自己保存の欲求を疼かせるのは、今やブラックウッドにとってもなくてはならない存在となりつつある、漆黒の傭兵だ。
たまに年齢が判らなくなるほど幼い、無防備な笑みを見せる彼を、魔物としてのブラックウッドは、魔物の独占欲もあいまって、自分だけのものにして喰らい尽くし、永遠に自分のものにしてしまいたいと思っている。
その食欲は生存への欲求に直結するもので、生への渇望ゆえに生死の理を捻じ曲げてこの世に存在する不死者にとって、渇望とはすなわち、そのまま血への渇きとして表出するものに他ならない。
「まったく……この『声』は厄介だね、ひどく、咽喉が渇くよ」
言いつつもブラックウッドは揺らがない。
何故ならそれは、刺激されるまでもなく、常に彼とともにある欲求で、衝動だからだ。そしてブラックウッドは、その渇望もまた自分自身なのだと、理解し受け入れているからだ。
「……なるほど」
クロノスが嗤う。
背後で、後方で、ベルナールとフェイファーが身構えるのが見えた。
ふたりとも、恐らく、ダイモーンを引き剥がす機会を狙っている。
無論クロノスはそのことに気づいているだろうが、ここで連携しない手はない。だとすると、ブラックウッドの役割は、クロノスの意識を逸らし、ふたりの『仕事』をやりやすくすることだろう。
そう思い、ブラックウッドは、あえて無防備にクロノスへ近づく道を選んだ。
「それは自信の表れか、諦観か……それとも、ただ、愚かなだけなのか」
クロノスが言うと同時に、ブラックウッドは、自分が身動きできなくなっていることに気づいた。脚が、何かに縫いとめられでもしたかのように、動かないのだ。
眼球だけを動かして見下ろせば、クロノスから伸びた影が、ブラックウッドの触れる地面にかかっている。
――彼は、大地に関する事柄を支配出来るのだ。
「埋め尽くせ、アイオーニオン」
その言葉とともに、彼の肩に乗っていたダイモーンが、長い、槍のようなかたちをした尻尾を伸ばし、それをブラックウッドの身体に埋めた。
ごぼり。
渇望の毒が、回ってゆく。
「なるほど……これは、厄介だ」
空転する意識をつなぎとめ、あふれ出さんとする渇望を抑えるため、ブラックウッドは思惟の海に沈む。
ベルナールが、フェイファーが動くのと同時に、モップを携え、肩に金色の鳥を乗せたツナギの男が、コンサート会場に走り込んできたような気がしたが、それも一瞬のことだった。
ごぼり。
渇望の毒に黒く染められた、意識の底へとブラックウッドは沈む。
* * * * *
ミケランジェロがクロノスを探していたのは、植え付けられた渇望の毒を解くためだった。
少し前のジャーナルを読んで、神音の髪が切られたことを知り、久我が神音に、神音の音楽に執着しているのではないか、神音のいる場所にやってくるのではないか、そう思って縁の深い場所を探し回った。
最終的には、久我が神音に何らかの危害を加えるのではないかという懸念も捨てきれず、ミケランジェロは、小さな狸と一緒に動き回っていた神音を捕まえ、倉庫街の一角にある彼の事務所でじっとしているように頼んだ。
事務所は、今、皮肉屋の<天使>と、陽気なトランペッターと、そしてミケランジェロの親友たる修羅の青年とが守っているから、恐らく、銀幕市でも有数の安全地帯となっていることだろう。
「ん、ミケ、おまえも来たのか」
ミケランジェロの姿を目にして飄々と笑ったのは、金の目をした天使だ。
彼の友人である美大生は、ミケランジェロのお気に入りなので、この天使、フェイファーのこともミケランジェロは知っている。
「そういうおまえもな」
「俺は……放っておけねーって思って」
「……そうか」
彫像のように固まったまま動かない壮年の男、名をブラックウッドと言っただろうか、彼の隣で、久我が、冷ややかな、嘲りを含んだ眼差しで三人を見下ろしている。
そこにたゆたう、激烈でありながら薄ら寒い神威を、ミケランジェロは感じ取ることが出来る。
「で、あいつは……何だって?」
「クロノス、だってさ」
「……へェ」
名を聞いて、ミケランジェロの片眉が跳ね上がった。
「親父を追放して、息子に追放された奴か」
世界こそ違えど、アテネの仔神であったミケランジェロは、ティターン神族や、オリュンポスの神々とは親戚のようなものだ。だからこそ彼はリオネを特別な存在だとは思えないし、オリュンポス側に属していたのもあって、ティターン神族を蔑視している。
あの、図体ばっかりでかい、古臭い奴ら、という認識だ。
「そいつが……マネージャーを操ってんのか。いや、乗っ取ってんのかな」
「ああ」
「……どうやって引き剥がす。ダイモーンを狙うのが定石だろうが、そう容易くはやらせちゃくれねェだろう」
「俺はあいつに、久我に呼びかけてーんだ」
「ふん?」
「あいつが神音のこと、どんだけ好きだったのか、って考えるとすごく切ねー気分になる。好きで好きでたまらなくて、だからこそ並んで立ちてーって思って、でも叶わなくて、それでクロノスの声に抗えなくなっちまったのかなって」
「……ああ」
「人間って、それぞれに優れたものを宿して生まれてくるもんだろ。久我には、もしかしたら音楽の才能はなかったのかもしんねーけど、別の何かはあるかもしれねー。それに気づけねーまんまで、大好きな人を傷つけるようなことをしてるあいつが、あんまり可愛くて、可哀想だと思うんだ」
「なるほど、おまえらしいな。だが……確かに、神音のことを軸にすれば、あいつの自我を揺り動かすことはできるかも知れねェ。なら……俺は、クロノスの意識を引き付けるか。――おい、そこの銀髪」
「ベルナール、だ。銀髪というのなら、貴殿も同じだろうが」
「あァ、そりゃすまねぇな。まぁそんなことはどうでもいいんだ、おまえも乗るだろ? 同じ目的でここにいるんだろうしな?」
一刀両断極まりないミケランジェロの言葉に、ベルナールと名乗った青年、魔法や魔術と言った力と非常に近しい気配を感じる彼は、少々不本意そうな顔をしたものの、ミケランジェロの提案そのものに不服はないようで、小さく頷き、二匹の蛇が巻きつく意匠の、身の丈ほどもある杖を静かに握った。
「では、私は、貴殿らの防御を行いながら攻撃しよう。――魔法で障壁を作り出し、ダイモーンの攻撃を防ごう。特に、あの渇望の毒は、厄介な代物であるようだから」
「ああ、厄介だぜありゃァ。俺も身を持って体験してるからな」
「……そうか。ならば、重々気をつけねばな」
「おまえにもあるか? てめぇを狂わせるような渇望が? ――いや、あるだろうな、それが人間ってもんだ。だったら……気をつけるに越したことはねェ」
あの時クロノスのダイモーンによって埋められた渇望の毒は、今もミケランジェロの身体を巡り、彼の魂を引きずり込もうと手ぐすねを引いている。ミケランジェロにはそれが判る。
この場所へ辿り着くまでに、ミケランジェロは数箇所で暴動の鎮圧を行ったが、渇望に満ちた『場』に足を踏み入れることは、すなわち彼の中の毒に力を与えることでもあった。
「……貴殿は、大丈夫なのか」
「ん? あァ……まァ、な」
ミケランジェロの言葉尻から、彼が毒に冒されていることを理解したのだろう、かえって危機を招きはしないのかというニュアンスでベルナールが訊いて来るが、ミケランジェロは肩をすくめてベルナールの危惧を否定した。
その肩には、普段ならば親友の修羅に張り付いているはずの、金色の鳥がとまっていて、時折、ミケランジェロに何かを囁くように囀る。
暴動鎮圧の最中も、『鳥』はずっと鳴き声を上げ続け、ミケランジェロに正気を強いた。『鳥』が鳴くたびに、ミケランジェロは親友の修羅を思い出し、渇望に囚われそうになる意識を、半ば強引に正の位置へと引き戻され続けたのだった。
今も、無論、そうだ。
『鳥』が囀るたびに、親友の修羅を思い出し、ミケランジェロの意識はすとんと静かになる。しつこいほどについてくる『鳥』に呆れながらも、修羅の青年を連想させる存在がいることに、ミケランジェロ自身、安堵を覚えている。
だから彼は、ベルナールの危惧を否定したのだ。
『鳥』がいる限り、ミケランジェロの意識が毒に冒されることはない。そんな確信があったから。
どうやら、ただの鳥類ではないらしい『鳥』の目論見は、ミケランジェロにも何となく伝わっている。
――『鳥』は、かの無垢なる修羅のために、ミケランジェロにいなくなられては困る、と思っているのだ。どうにも危なっかしい彼を守るためなのか、押し留めるためなのか、それともぶん殴ってでも軌道修正させるためなのかは判らないが、ともかく、修羅のために、ミケランジェロの存在が必要だと思っている。
「そう言やァおまえ……あの時、」
先だって、おかしな名前のおかしな兎に、親友を精神世界へと連れ去られた時、奇妙な男と出会ったことを、ミケランジェロは唐突に思い出していた。
“天敵”と同じくマイペースな、ミケランジェロにとってはやりにくいことこの上ない、しかしかの修羅を思う気持ちならば海のごとくに深い、異形の翼を持った男で、その上、目覚めたあとの修羅が、『鳥』を見て、何故か懐かしそうに語りかけていたこともミケランジェロは思い出していたが、
「……まさか、な」
さすがに飛躍し過ぎだ、とかぶりを振り、彼はステージを見上げた。
もう完全に乗っ取られてしまったのか、久我の眼差しに人間的な温度は感じられない。彼は、つまらない、どうでもいいものを見る目つきで、ミケランジェロたちを見下ろしていた。
その傍らの、ぴくりとも動かないブラックウッドも気懸かりではあったが、今は他人の心配ばかりしていられないこともまた事実だ。
「なら……行こうか」
モップを握り直し、ミケランジェロが厳かに告げると、フェイファーが背の四枚翼を広げ、ベルナールはほんのわずかに瞑目した。
――そして彼らは、銘々に動き出す。
ベルナールが呪文の詠唱に入るのを横目に見ながら、ミケランジェロは走り出した。
フェイファーが一瞬遅れて空に舞い上がる。
「……そろそろ、決着をつけようぜ」
余裕の態度を崩さないクロノスを睨み据え、ミケランジェロは独白する。
「俺は、もう二度と、あいつを傷つけるわけには、いかねェんだ」
渇望の毒に狂わされて親友を襲い、不可視の翼を切り落とされた時のことを思い出しながら、ミケランジェロは呟いた。
モップをくるりと回転させ、空中に陣を描く。描かれた陣が光を放ち、力の奔流となってクロノスに――ダイモーンに襲い掛かる。
クロノスがうっすらと嗤うのが見えた。
全身を緊張させ、油断なく彼を伺いながら、ミケランジェロは、『その時』を狙う。
――そう、突き詰めれば、たったひとつの目的のために。
* * * * *
仕事前のことだった。
来栖香介(くるす・きょうすけ)は、スタジオタウン周辺で渇望に狂った暴徒たちの群れに襲われ、騒動に巻き込まれた。
どうやら、狙われているのは香介自身であるらしい。
何故自分が狙われるのか、まったく理解出来なかったものの、残念ながら慈悲や容赦や躊躇とは無縁な香介は、襲い掛かってくる=ぶっ飛ばしていい、という認識で、ひとまず、嬉々として暴徒たちを蹴散らしていた。
スタジオタウン周辺には、ごちゃごちゃと入り組んだ、その場所に精通していないと判り辛い、たくさんのトラップめいた場所がある。
そういう場所を利用して戦うのが、香介の十八番だ。
「ほしい……ほしい!」
髪を金色に染めた青年が、手にしたガラス瓶を振りかぶる。
――彼の顔に、見覚えがあった。
多分、どこかの小さなスタジオで、彼が自費出版のCDを作っているところを通りかかった、それだけの記憶だったと思う。
たったそれだけの、付き合いも何もない人間だったが、相手が音楽に携わっているとなれば、話は別だった。
彼がどんな歌をうたうのか、知らない。
けれど、彼の音楽を失わせるような真似は、香介には出来ない。
彼らの音楽につながる、腕や咽喉に傷をつけるなどということは。
だから香介は、腕を折って顔面を殴りつけ、そのまま蹴倒そうと思っていたのを変更し、速やかに彼の懐へ飛び込むと、青年の鳩尾に、友人からもらった真紅の短剣の柄を埋めていた。
ごふ、と、短い呼気を漏らして青年が崩れ落ちる。
「……」
それをわずかな時間見詰め、顔を上げて、周囲を確認すると、やはり、あちこちに、見知った顔があった。
知っているだけのことで、親交などない顔ばかりだったが、そのどれもが、やはり、音楽に携わる、もしくは携わりたいと願っている人々のものだった。
「ああ、なるほど……?」
周囲を傲然と睥睨し、香介はごちる。
「……そういう、渇望……か?」
香介は、自分が渇望される側の人間だということを知っている。
Soraという名のムービースターやギタリストの青年をはじめとして、音楽に携わり、音楽を愛する人々から、自分が、渇望や嫉妬を向けられていることを漠然と把握してはいるが、実を言うと香介には、今ひとつピンと来ていないのだ。
ほんのわずかに話を聞いただけだが、一連の事件で、その引鉄となったティターン神族の、その依り代となった青年の、神音という歌手への執着、嫉妬、羨望もまた、同じようなものだろうと思う。
香介は、自分の音楽が誰かに真似出来るものだとは思っていないし、その意味があるとも思えないのだ。
彼にとっての音楽は呪いで、どうしようもなく愛しいものであると同時に、どうしようもなく憎く、狂おしいほど彼を縛る枷でもある。
だからこそ、香介は不思議で仕方がない。
「ほしい……その声が、その旋律が!」
泣き叫びながら飛び掛ってきた暴徒のひとり、どこかのレコード会社で見かけた気のする男を、問答無用で蹴倒しながら、香介は首をかしげた。
低い呻き声をもらして地面へと沈んだ男を見下ろし、小さく呟く。
「……なんで?」
呟きは素朴で、無邪気ですらあった。
「なんで望んで、なんでそんなに必死になるんだ?」
生きる意味、意義、意志の希薄な香介に、その渇望の激しさは判らない。
香介の声と、香介の作るメロディを与えたところで、彼は香介にはなれない。香介の声とメロディを持っただけの、ただの彼になるだけのことだ。
香介の音楽は、香介が香介だからこそ絶大な威力を発揮する。
それは呪いだ。
生まれた時から刻み付けられた、逃れられない呪い。
何故そんなものをほしがって、自分を見失うのか、何よりも音楽を愛しながら何よりも音楽を憎む香介には、彼らの胸中を慮ることは、出来ない。
襲い掛かる人々が音楽関係者、もしくは音楽家志望と知ってしまった以上、腕や咽喉を傷つけることだけは出来ないが、ぶん殴って昏倒させる程度のことは香介には日常茶飯事だったので、細心の注意を払いつつも、彼は嬉々として辺りを飛び回り、次々と脱落者を作り出して行った。
「でも……」
首筋に【明熾星】の柄を叩き込み、少年を昏倒させながら、香介は独白する。
「やっぱ、判んねぇよなぁ」
何が彼らをこうまで衝き動かすのか。
己が内に、そこまでの熱を見い出せない香介には、彼らの姿はいっそ眩しくすらあった。
「あんたに、何が判る……!」
泣き叫びながら突っ込んで来た男――香介が審査員を押し付けられたオーディションで、奮闘虚しく落選したのを見たことがある――に、首をかしげ、首を横に振る。
「そうだな、判んねぇよ」
男の、捨て身とも言うべき突進をひらりとかわして、体勢を崩した彼の腹を蹴り上げ、彼が苦痛に動きを止めたところで、首筋に短剣の柄を叩き込んで沈黙させる。
それであらかた鎮圧は――香介の実力を考えれば、一方的な殲滅は――終わっていた。意識を失ってごろごろと転がる人々の、苦悶の表情が、生々しく寒々しい。
もちろん香介は、まったく気にしていなかったが。
抜くこともなかった【明熾星】を、コートの内側に仕舞い込みながら、香介がやれやれとばかりに息を吐いたのと、
「そうか……判らないのかね。それは、興味深い」
低くて穏やかな声が、すぐ背後から響いたのとは、ほぼ同時だった。
「君の奥底にも、渇望はたゆたっているのに……それに気づくことも出来ないか。ヒトとは、面白い生き物だね」
殺意も敵意も感じなかったのに、物凄い悪寒がして、香介は咄嗟に跳び退り、身構えていた。
「いや、違うな……君は、あの『器』と同じで、ひどく虚ろなんだね。そういう風に創られたのか……なるほど」
感嘆と興味を含んだ声は、やはり敵意の欠片も宿してはいなかったが、香介の感覚は、彼を敵だと、危険な存在だと警告する。
「……なにものだ、てめぇ」
理知的な金の瞳と、獅子と蛇の刺青。
全身から静かに漂う、畏怖すら感じさせる威圧感。
こいつが、一連の事件の首謀者だ、と、野生的な勘で香介は察していた。
「さて……なにものだろうね」
「オレを馬鹿にしてんのか」
「まさか。私は誰を侮りもしないよ。誰もが結晶の持ち主と考えれば、敬意すら感じる」
「結晶? 何のことだ」
「――では、君は?」
「あ?」
「君は、なにものなのだろうね? 罪人、呪われた神の楽器よ」
「な、」
何のことだ。
眉をひそめ、問おうとした時には、『それ』が迫っていた。
ごぼり。
何かが不吉な水音を立てる。
「私はクロノスではないけれど……」
ごぼり。
真っ黒なそれが、香介を、足元から飲み込む。
「彼との契約によって、渇望の毒をほんの少し、与えるくらいは、出来る」
真っ暗な何かの中に取り込まれた、そう思った瞬間、四方八方から腕が伸びて来て、香介を掴んだ。
「!?」
声は言葉にならない。
彼を包み込む暗黒が、香介の中にまで浸透していく。
「……巧く行けば、もうひとつ、『器』が出来るかもしれないな、これは」
楽しげな、男の声。
何が、と問う余裕など、もちろんなく。
ごぼごぼごぼ。
魂の奥底にある、未だ思い出せない領域に、それが届く。
「――、……、 、 、 。……!!」
誰を呼んだのか、何を叫んだのかも判らないまま、香介の意識は、『それ』に飲み込まれた。
あっさりと、深く、深く。
6.泥濘に半身を埋め、
戦いが始まって一時間が経っていた。
魔術師と堕ちた神の連携は巧みで、他のダイモーンやアンチファンにはない不可解な力を行使して彼らを屈服させようとするクロノスともほとんど互角だったが、『互角』という言葉は同時に戦いの激しさを意味しており、フェイファーはまだ、久我に、クロノスに近づくことすら出来ていなかった。
「クソッ、何なんだ、あの力は……! 時代遅れの巨人どもは大人しくタルタロスで寝てろっての!」
モップで描いた陣から、闇の色をした茨を創り出し、クロノスへ向かわせながらミケランジェロが毒づく。
闇色の茨はざわざわとざわめいて、クロノスを絡め取らんと彼へ殺到したが、
「……小賢しい」
茨を見据えたクロノスの冷ややかな一言で、粉々に砕けて消え去った。
「ち」
低く舌打ちをするミケランジェロ。
それを見遣ったクロノスが片手を挙げると、彼の周囲から、全身に刃をまとった蜂のようなものが滲み出るように姿を現し、ミケランジェロへと襲い掛かる。
百や二百では利かぬ数の『蜂』の羽音は、渇望の声を持っていた。
にんげんがいとしい
にんげんがいとしいから、いつまでもすくわれぬかれらがかなしい
にんげんがかなしいから、すくってやりたい
すくってやりたい、すくってやりたい
むというなのしゅうえんをあたえ、なにもかもをぬりつぶして
すくってやろう、なにもかもをけしさることで
――あの、いとしいしゅらもまた
羽音が、周囲の空気を震わせるほどのやかましさでわんわんと鳴り響くと、唐突に苦悶の表情を見せ、ミケランジェロが胸を押さえて膝を折った。
そこへ殺到する数多の『蜂』。
あれらに全身にたかられ、切り裂かれたら、例えミケランジェロが堕ちた神であっても、ただでは済まないだろう。
うずくまるミケランジェロに向かい、肩の上の鳥が啼く。
「わ……ァってる、っつーの……!」
ミケランジェロが辛うじて体勢を立て直すと同時に、彼を覆いつくそうとした『蜂』たちが、金色の雷に撃たれて弾き飛ばされ、焼き焦がされて、ぼろぼろに崩れ落ちて消えていった。
後方には、知恵を意味する二匹の蛇が絡みつく、長い杖を構えたベルナールが、厳しい眼差しでミケランジェロを、そしてクロノスを見据えていた。
「……貴様の渇望が見えるぞ」
ベルナールに向かい、荘厳ですらある口調でクロノスが言う。
「主を守り死なせぬための力が欲しいのだろう」
ベルナールの、中性的な面がさっと強張る。
「……主に生きてほしいか。それが叶うのなら何でもする、と断言するほど望むか……千や万の命がそのために潰えようとも構わぬと」
く、とクロノスが嗤った。
渇望の声に囚われてしまったのか、ベルナールが硬直する。
「我らならば、貴様にそれを与えてやることが出来るぞ」
ほざいてんじゃねぇ、と吼えたミケランジェロが、モップに仕込まれた細く鋭い剣を引き抜き、ステージ上へと駆け上がる。彼の紫の視線は、クロノスの――久我の肩に鎮座したダイモーンにのみ、向けられている。
「貴様に何が出来る、オリュンポスの下僕め」
クロノスの眼差しは、侮蔑を宿して火を噴くかのようだ。
「いつもいつも、親友とやらの死を、手をこまねいて見ているしか能のない分際で」
「ッだとこの……!」
――久我は普通の人間であるはずだ。
スポーツに打ち込んだ時期もあったようで、運動神経はよいと聞いていたが、しかしそれは、彼が、ミケランジェロがダイモーンを狙って繰り出す剣閃をすべて軽やかに避け、あまつさえミケランジェロの一瞬の隙をついてその懐に入り込み、鮮やかな動作で彼を蹴り倒すなどという芸当の理由にはならない。
以前にもあちこちで事件を起こした、他のアンチファンたちは、アンチファンになったからといって特別強い身体能力や特殊能力を手にしたわけではなかったはずだが、これはどう考えても、久我がクロノスとなったがゆえの変化であるように思われる。
「なんッなん、だよッ、てめェ……は……っ!」
咳き込みながら飛び起き、クロノスと距離を取ってミケランジェロが毒づく。
クロノスの唇に、うっすらと優越の笑みが浮かんだ。
「あの男の力は……実に便利だな。現世においてはそれほど強い力を行使出来るわけでもない私に、このような能力を与えられるのだから」
「あの男、だ……?」
「『囁く者』の渇望に、私は感謝せねばなるまい」
クロノスの手のひらが赤い光を放つ。
それは同じ色の刃を持つ巨大な鎌となって、クロノスの手に収まった。
びゅ、と風を斬り、鎌がミケランジェロを襲う。
「っとにワケが判んねェ……!」
愚痴りながら、ステージ上を転がるようにして鎌を避けていくミケランジェロだが、クロノスの揮う鎌は速く、彼は段々と追い詰められていく。それなりに広いとは言っても、そこは野外ステージに過ぎないのだ。切った張ったを繰り広げるには、充分とは言えない。
「……おまえの腕を、首を切り落として、おまえの修羅に届けてやろう。その時、あの修羅が見せる結晶は、瑕莫の望みを叶え、私の渇望に光をもたらすだろうからな」
「ふざけ、ん……ッ」
激怒の表情を見せたミケランジェロの声が途中で途切れたのは、赤い鎌の先端が、体勢を崩した彼の脇腹にめり込んだからだ。
ごつり、ざりり、という、生々しい、何かを切り裂き砕く音。
再度振り下ろされる鎌が、ミケランジェロの胸を、脚を貫く。
「ぐ……!」
のたうつミケランジェロの傷口を、クロノスの靴底が踏み躙る。
また、低い呻き声が上がった。
ミケランジェロの身体を踏みつけたまま、クロノスが眼を細めて彼を見下ろす。
「貴様は無力だ」
厳かですらある、断罪めいた言葉。
びくり、とミケランジェロの身体が跳ねたのは、痛みにか、それとも別の要素のためか。ミケランジェロが逃れられないのは、クロノスが大地を通じて彼を縛っているからか。
くくく。
クロノスが嗤う。
フェイファーは、傷つき血を流すミケランジェロに詫びながら、一心に『その時』を待っていた。――つまり、久我に呼びかける、もっとも相応しいタイミングを。
だが、傷口を踏み躙られ、起き上がることも出来ぬまま、弱々しく身体を痙攣させるミケランジェロの上で、堕ちたクロノスが赤い鎌を頭上高くに掲げるに至って、彼を見捨てるわけには行かない、と、フェイファーは咄嗟に言霊を紡いだ。
「風よ斃れたる旅人を包め、抱擁しその血を保て……ホワイトクレイドル」
彼が力を解き放つと、精霊たちが動きを活発化させ、風が渦巻いて、今にも赤い刃に貫かれそうになっていたミケランジェロを包み込む。
高濃度の風の精霊に阻まれて、クロノスの赤い鎌が弾き飛ばされた。
「む」
クロノスが眉をひそめる。
それと同時に、
「往け――灼き焦がせ」
今まで沈黙を保っていたベルナールが、クロノスを見据えて静かにそう命じると、朱色の炎で出来た猛禽が七羽、獲物を狙う狩人の速さでクロノスへと突っ込んで行った。
「小賢し、」
言葉が最後まで続かなかったのは、炎の猛禽たちのあまりの速さに防御が追いつかず、そのうちの一羽に激突されたクロノスが、ステージの向こう側まで吹き飛ばされた所為だ。
受身を取ったらしく、それほど大したダメージを与えることは出来なかったようだが、少し、空気が変わったこともまた事実だ。
クロノスを見据えたベルナールが放つのは、
「……判って、いるのだ……」
地の底から響くかのような陰鬱な声。
透き通った灰色の眼差しは、声と同じく、暗い。
「我々の……ムービースターの、未来は……映画の結末は、不変だと……判って、いる……。だからこそ、私は、貴殿のもたらす渇望に、囚われてやることは、出来ぬ」
くるり、と、ベルナールの手の中で、双蛇の杖が踊った。
「ただ……それでも、望まずには、いられぬだけで」
その言葉とともに、彼の周囲に氷の花が咲く。
花はぱりぱりと解けて薄いナイフとなり、一斉にクロノスの――ダイモーンの元へと殺到した。氷と氷が触れ合って立てる、しゃらしゃらという、この場には不釣合いなほど美しく涼しげな音が響く。
クロノスを見据えるベルナールの目は沈鬱だ。
渇望に操られることはなくとも、その苦しみが消えるわけではないのだ。
フェイファーは唇を引き結んだ。
――誰もが、渇望と、叶わぬ願いへの哀しみという、冷たい泥濘に半身を埋めて生きている。
フェイファーも、ベルナールも、ミケランジェロも、――そして久我も。
「もういい……」
知らず知らず、フェイファーは声を上げていた。
「目ぇ覚ませ、久我!」
羽ばたき、上空からステージ上へ降り立つ。
氷のナイフをすべて叩き落したクロノスが、冷ややかな眼差しで見据えてくるのを、クロノスではなく久我へと視線が届けばいい、と思いながら強く見つめる。
「お前は神音が大好きなんだろ? だから、神音の音楽も大好きで、大好きすぎて、その気持ちが強過ぎて、神音のところに辿り着けねー自分が苦しくて、神音が羨ましくて妬ましくて、だったらいっそ手に入れちまおう、ほしくてたまんねーって思っちまったんだろ?」
「馬鹿な……どれだけ呼びかけたところで、」
フェイファーを嘲笑いかけて、クロノスがふと口元を強張らせた。
表情が、さっと、久我に戻ったのをフェイファーは見た。
――統合、乗っ取りはまだ、完全に済んではいない、と、フェイファーは知った。
ならば、『その時』とは、今以外にありえない。
チャンスをものにすべく、フェイファーはクロノスと真っ向から向き合い、言葉を紡ぐ。
「お前がそれを望むのなら、俺は、お前に神音の声を与えてやれる。俺がここにいる限りでいいなら、神音の声を持ったままでいさせてやる」
渇望を叶えてやることが出来ると告げ、フェイファーは反応を待った。
――久我には、本当に歌の才能があったのか、なかったのか。
それは、フェイファーには判らない。
未だ音楽への愛着を捨てきれない久我に、フェイファーの申し出はどう聴こえるだろうか。願ってもないチャンスと思うのだろうか。
しかし、自ら育んだものでない望みが叶ったとして、それを自分のものにしたと言い得るだろうか。
ヒトは誰も、自分以外のものにはなれない。
誰もが、一度きりの自分と向き合って、与えられたものを使いこなし、それを誇りに思うために生きるのだ。
「だけど……久我。お前には、お前自身が贈られたギフトがあるはずなんだ」
神音の声を、メロディを、力尽くで手に入れて自分のものにしたとしても、それは、真実の意味で彼が、音楽家として成功したことにはならない。神音の音楽は神音にしか紡ぐことが出来ない。久我の人生を紡げるのが、久我しかいないように。
フェイファーは、久我が、その虚しさに気付いてくれることを望む。
自らの過ちに気が付いて欲しいと願う。
「なあ。お前の大好きな人が、お前のこと、心配してんだ。――早く、戻ってやれよ、なあ」
身動きしない久我に向かい、手を差し伸べる。
同時に、彼の思いの強さを微笑ましく、愛しく思うのだ。
その気持ちを、もっと素直に、健やかに表に出すことが出来ていたら、彼は、アンチファンにはならなかったかもしれないと思いながらも。
「それで、お前は……どうするんだ、久我」
言って、フェイファーは応えを待った。
視界の隅で、ベルナールが、ミケランジェロを抱き起こすのが見えた。顔をしかめて咳き込むミケランジェロの、身体のあちこちに空いた穴に、ベルナールが手をかざしている。
その時、
「お、……俺、は、」
弱々しく震える声が、乾いた唇から零れ落ちた。
シャア、と鳴いたダイモーンが、肩から転がり落ち、物陰に消える。
「……久我」
フェイファーは息を殺して言葉を待つ。
「欲し、違……あの人、ついて、行き、た……ッ、巡礼……世界、の、たまし、集う……場、しょ……音楽、いっしょ、……に……」
不明瞭な言葉をこぼしながら、久我の手が、咽喉を掻き毟る仕草をする。
苦悶に満ちた、切なげな表情は、断じてクロノスのものではなかった。
「久我。しっかりしろ……自分を強く保つんだ」
フェイファーは、思わず彼の傍へ駆け寄り、その背を撫でていた。
ヒトを守る天使としての彼の矜持は、クロノスという危険があるのだとしても、苦しんでいる久我を放っておけない、救ってやりたい、という思いをフェイファーの中にかたちづくる。
それはフェイファーの、存在の根幹でもあった。
かの魔王の暴走に巻き込まれた折も、その根幹は、確かにフェイファーを救ったのだ。
「戻って来い……久我。全部、ちゃんと、やり直すんだ」
久我の肩を叩き、フェイファーは祈った。
まだ何も決まってはいない。
まだ何も終わってはいない。
久我は、自分の意志で、人の世界に帰還することが出来る。
だから……目を覚ましてもう一度、と、フェイファーは祈った。
――だが。
数秒の後、久我の唇に浮かんだ、く、という嗤いは、彼のものではなかった。
「無駄だ」
赤い眼を輝かせて跳躍したダイモーンが、久我の――クロノスの肩に飛び乗ると同時に、フェイファーは稲妻のような何かに弾き飛ばされた。
ばちん!
目の前で、特大の風船を叩き割られたかのような衝撃。
「う、わ……ッ」
後方へ吹っ飛ばされ、たたらを踏んでどうにか体勢を立て直したフェイファーは、
「これだけ強く融合しておきながら今更戻れるなどと、思わぬことだ……久我正登」
そこにいるのが、クロノスであることを認め、唇を引き結んだ。
状況は何も変わってはいない。
振り出しに戻った、と、言うことだろう。
「でも、まだ……あいつは、消えちゃいねぇ……!」
久我の心は、まだ、残されている。
ならば、なにか手はあるはずだ、と、フェイファーが身構えると、ベルナールもまた双蛇の杖を握り直し、ミケランジェロは細く鋭い仕込み剣を手に臨戦態勢を取った。
ぴりりとした空気が場に満ちる。
――しかし。
――そして。
――まさに、このとき。
「そうか……では、やはり私は、喰らい尽くし、貪るものであるべきなのだね……」
殷々と響く、美声には、他者を蹂躙する狂悦が含まれている。
「まさか……堕ちた、のか……!?」
ミケランジェロの驚愕の声。
――そう。
彼が目覚めたのだ。
不死者たちの長たるブラックウッドが、最悪のタイミングで……最悪の事態を伴って。
ごおおおぉおぅ、ううぅうぅ。
ブラックウッドを中心に、不可視の嵐が、吹き荒れる。
命を、精を、糧を欲して。
* * * * *
ごぼごぼ。
ごぼり。
水音がする。
ぼんやりと思いながら、香介は暗闇の中を運ばれていた。
否、そんな気がするだけかもしれなかった。
一寸先も見通せない漆黒のビロウドに包まれている。
そんな感覚もあった。
「オレ、は……」
身体に力が入らない。
意識はあやふやで、記憶は朧げだ。
先刻まで自分が何をしていたのか、何を思い何を望み何をなしていたのか、その端っこすら、思い出せない。
(違う、オレは……)
はじめから、何もなかった。
唐突に落ちた言葉に、すとんと納得する。
(オレは……そのために、創られた、んだ……)
暗闇が、見知らぬ光景をつれてくる。
遠い風景の向こう側で、語りかけてくる影が見える。
(……この、彼の贈りものも罪なの。だから、ねぇ、クルスにあげるわ)
(だって、あたしは悪くないもの。これであたしはもっと綺麗だもの)
(なんて綺麗。あたしは、なんて綺麗)
(ねえ、そう思うでしょう、クルス? あたしは、悪くないわよね?)
(じゃあ、悪いのは……誰? 彼……それとも、あなた?)
(クルス、お前は私たちの罪そのものだ)
(私たちの罪の結晶……私の罪の証、私の十字架)
(だからこそ、お前を、クルス、と)
(ならば……私のなすべきことはひとつ)
(これをもって神に償おう。他に並ぶモノのない旋律を捧げることで)
(ただ神のために在る虚ろな楽器を、ただ神のためだけの旋律を奏でる無を、捧げることで)
知らない顔が、香介に向かって何かを言っている。
何を言っているのか、香介には理解出来なかったし、思考はとうに、理解しようとすることすら放棄していた。
ただ、全身を包み込む黒い空間が、ごぼごぼと水音を立てるのを、聞いていた。
(オレは……虚ろな、人の肉のかたちをした、音の坩堝だ)
感情も、思いも、願いも、渇望も、記憶も、正も負も、聖も邪も、善も悪もない、必要すらない、ただ音楽を捧げるためだけに在る、虚ろで神々しい、十全にして完璧なる楽器だ。
このビロウドのような暗闇が、それを教えてくれた。
(オレは)
うつらうつらとまどろみながら、香介は身体を丸める。
外の世界に生まれ出ようとする胎児のように。
(――……オレは、誰だった――……)
誰でもいい、と、誰かが嗤う。
その通りだ、と香介も嗤い、そして意識を暗闇の中に委ねる。
――ここは、母の胎内のようで気持ちがいい、と、母親など知りもしないのに、思った。
「渇望を刺激してやるつもりが、虚ろを掘り進んだだけだったか。……否、何よりも渇望したいという願いこそが、君の渇望なのだね。なんとも空っぽで、虚しい在り方だ。だが……それもまた、興味深い。これならば、『あの方』を注ぎ入れるための『器』を、更に強固なものにすることが出来そうだ……」
誰かが楽しげにつぶやくのが聴こえたが、無論、香介には、どうでもいいことだった。
7.陥落の狂える嵐
おうおうと嵐が轟く。
ブラックウッドの周囲で、渇望の嵐が唸りを上げている。
――彼の渇望は、生への執着そのものだ。
政敵に毒殺され、裏切りへの憎悪と哀しみ、愛したものへの心残りと生への渇望から不死者となった。
追い立てられ、過ち、殺し、憎まれ罵られ、望まぬ涙を流させ、苦悩し流離い、傷つき寒さに震え、――それでも時折投げかけられる温かい言葉に、誰かが寄せてくれる温かい心に救われながらここまで来た。
だからこそブラックウッドは、人の心と魔物の本能の双方を否定せず、どちらもが自分なのだと、その在り方を受け入れて日々を暮らしていた。同じような壁にぶつかって苦しむ人々に、手を差し伸べもした。
その日々が間違っていたとは、ブラックウッドは思わない。
彼は、人であると同時に魔物で、魔物であると同時に人だ。人と魔物、双方の抱く渇望を否定しないし、厭いもしない。受け入れ、宥め、叶えながら、ともに歩むだけだ。
そう思って生きている。
――しかし。
(愛しい人よ、友よ)
脳裏を幾つもの顔が巡っていく。
それは彼がかつて分かたれた家族であったり、優しい目をした聖女であったり、呆れ顔の同胞であったり、彼を不死者と知って怖れない友人であったり、この銀幕市で得た友人たちであったりした。
(私は……喰らおう。喰らって、永遠に私のものにしてしまおう……私の命の糧に。愛しい君たちを喰らって、私は生きよう……私は生きたい、生きなければならない)
轟々と周囲が揺れる。
ブラックウッドの全身から放たれる『嵐』が触れると、ステージをかたちづくる金属の機材が錆び、飾られていた植物は枯れ、プラスティック製品もゴム製品も紙もコンクリートも布も、すべてが朽ち、崩れ落ちていく。
ステージ自体も、徐々に色褪せ、脆くなっていく。
じわじわと『嵐』の範囲が広がるにつけ、ステージ下に転がるパイプ椅子が次々に錆びつき、唐突に耐え切れなくなったとでもいうように脚が折れ、崩れ朽ちていく。
ごぉん、という音を立てて落下し、粉々に砕け散ったのは、かつてはステージを頭上から照らしていたであろう照明器具のひとつだった。
「なるほど……それが、貴様の、渇望か」
アッシュグレイのダイモーンを肩にしがみつかせ、クロノスが眼を細める。
「不死者ゆえの、ありとあらゆる生命に対する渇望……食欲、か。凄まじいものだな」
しかし、数メートル先に佇みながら、クロノスに『嵐』は届いていない。
訝しく思うまでもなく、少し意識を凝らすと、彼の周囲を、薄い膜のようなエネルギーが覆っているのが判った。
「そうとも……私は、生きなくてはならない。君の血も精も生も喰らって、私の糧にしよう。永遠に私とともに……愛しい贄よ」
穏やかに、うっとりと微笑み、ブラックウッドはクロノスに向けて手を差し伸べる。
それだけで、クロノスによって増幅させられ、彼の中を渦巻く渇望が、更なる勢いを得て表出し、ブラックウッド以外のすべてを貪ろうとする。
がぁん、ごぉん……と音を立てて、セットの一角が崩れ落ちた。
「ったく、なんつぅ迷惑な……!?」
口元の血を拭いながら愚痴り、つなぎに身を包んだ青年――確か、ミケランジェロといったと思う――がモップで宙に陣を描くと、空中に描かれた陣が光を放ち、コンサート会場を吹き荒れる『嵐』から彼を守る。
ベルナールやフェイファーも、同じように魔法を発動させて身を守っていた。
ブラックウッドは、金の双眸でちらと彼らを見遣り、クロノスを喰らい尽くしたら、次は彼らだ……と、まるで当然のことのように、食事の順番を算段した。
何かがおかしいことに、ブラックウッドは気づいていたが、気づいたところでそれを止めることは、今の彼には出来なかった。
そう、ブラックウッドに埋められた渇望の毒は、他の生命を欲する不死者としての彼の能力を全開にすると同時に、ブラックウッドから自分を制御する力を奪っていたのだ。
常のブラックウッドならば踏み入れることのないはずの、踏み外すこともないはずの、限界……それ以上は危険だと判断する感覚が、今の彼からは失われている。
もしも今、目の前に、かの漆黒の傭兵が姿を現したら、ブラックウッドは何の躊躇いもなく、むしろ嬉々として――恍惚と、愛しげに彼の血を……命を啜り、そのすべてを自分のものにするだろう。
今のブラックウッドは、そういう、危険な存在と化しているのだった。
そして、その渇望は、とどまるところを知らない。
「旧き神のエネルギーは……美味だろうかね?」
言って、クロノスに向かい、一歩踏み出すと、全開になった『他者の生命を啜って生きる』者としての能力に、クロノスがまとう薄い防護膜が、ぴしりと音を立てるのが判った。
「なんとも……貪欲なことだ」
特に焦りも見せず、クロノスが嗤う。
肩の上のダイモーンがシャアと鳴いた。
「だが……私を喰らうことは、即ち久我正登を殺すことに他ならぬのだぞ」
無論それはブラックウッドにも判っている。
判っているが、だからどうした、とも思っている。
「ならば……君も、久我君も、私のものに」
艶然と微笑み、ブラックウッドはクロノスへと手を差し伸べた。
ぴしり。
クロノスを守る、薄い不可視の防護膜にひびが入る。
クロノスが――久我の肉体が生身をさらしたら、その瞬間に、彼は、ブラックウッドから溢れ出た渇望の嵐に捕らえられ、最後の一滴まで生命を啜られることになるだろう。
そのことで哀しむ誰かがいることは容易に理解出来たが、今のブラックウッドには、他者の哀しみを鑑みて自分を制御するという、ごくごく当然の行為は、まるで別世界のことのように困難だ。
「そうして罪を重ねるか、旧き吸血鬼よ。それが貴様の結晶か」
どこか観察者めいたクロノスの言葉に、ブラックウッドは微笑し、頷く。
「これもまた、私だ。私は、魔物としての貪欲で醜悪な自己保存本能を否定しない。ヒトである私も、魔物である私も、均しく『私』なのだから」
そう断じ、クロノスを貪るべく、更に近づこうとした、その時。
「駄目だ、ブラックウッドさん!」
ひどく聞き覚えのある声が響き、黒い影が飛び込んできた。
影にほんの一瞬気を取られた隙に、クロノスはブラックウッドから距離を取ってしまう。
ブラックウッドはそれを少し残念に思ったけれど、目の前で苦しげな表情をしている人物、星光のような白銀の双眸以外がすべて漆黒の色をした青年がすぐ傍に佇んでいることに満足し、意識をそちらに向けた。
「……理月君」
どこか恍惚と、愛しげに、ブラックウッドが名を呼ぶと、漆黒の傭兵は、泣きそうな顔をした。
「なんであんたが、呑まれちまってるんだよ、ブラックウッドさん……!」
凄腕の傭兵ではあっても特別な力を持たない彼が、ブラックウッドの創り出す渇望の嵐に喰らい尽くされてしまわないのは、恐らく、友人である天人が送った守り刀、理月の中にある、神代の金属で出来たそれのためだろう。
「俺に、救いをくれたあんたが、なんで……!」
揺らぐ白銀に、ほんの少し胸が痛んで、ブラックウッドは苦笑する。
生存本能や自己保存の欲求を超えるほど、自分はこの青年が大切なのか、と、今更のように思う。
しかし、彼を取り巻く『嵐』は、未だ収まりそうもない。
「……済まないね。だが……これもまた、私という存在の一面なのだよ、理月君。君を貪り、喰らい尽くし、すべてを私のものに――私の糧にと渇望する、この私もまた、私なのだ」
「判ってる……判ってる、けど……!」
血を吐くような理月の叫びに、ブラックウッドは眼を細めた。
彼が、どれだけ自分を思ってくれているかが、痛いほどに伝わって来たからだ。
――同時に、愛しさとともに、渇望が募る。
食欲という名の、激しい、歯止めの利かぬそれが。
「私とて、君を哀しませたいわけではないのだよ、理月君。ああ……そうだ。ならば、君をすっかり、綺麗に平らげてしまえばいいのだね。そうして、私の中で、永遠に君を愛せばいいんだ」
睦言のごとくに――事実それは、今のブラックウッドにとって無上の愛の表現だった――言って手を伸ばし、理月の頬を撫でる。
周囲を吹き荒れる『嵐』は身の内に神秘の刃を呑んだ理月を襲いはせず、理月自身は、ブラックウッドが本気であることなど判っているだろうに、逃げる素振りなど見せず、身じろぎすらもしなかった。
ただ、理月は、唇を引き結び、白銀の眩しい双眸に、強い決意の色を載せただけだった。
「ごめん、ブラックウッドさん」
伸びてきた腕が、ブラックウッドを抱き締める。
「俺は、あんたに食われたくねぇ」
それは、拒絶の言葉のようで、
「――……俺は、生きたまんまで、あんたと一緒に、行けるところまで行きてぇよ」
実際には、違った。
「俺は、いつものあんたがいい。いつものあんたの隣がいい」
無上の、愛の言葉のようだ、と、ブラックウッドは思った。
「――……戻って来てくれ、頼むから」
理月の体温と心臓の音が、冷たく、脈も打たぬ死人の身体に伝わってくる。
ブラックウッドは苦笑した。
『嵐』がほんの少し弱まったことにも彼は気づいていた。
無論、今も、毒に冒された渇望は、自分を抱き締める力強い腕を、そのまま我がものにしたいと……永遠に自分の中に閉じ込めてしまいたいと叫ぶ、けれど。
――そして。
「いつものあんたに戻ってくれ――……ルキウス」
静かに、雨だれのようにこぼされる、真実の名前。
それは、ブラックウッドの魔物としての本能に、友愛という名のやわらかなヴェールを被せ、
「……ああ……」
彼に、急速な覚醒を強いた。
「……そうだったね」
失われていたピースがかちりとはまるように、ブラックウッドの中に制御弁が戻って来る。先刻までの自分を否定はしないが、おかしなことだ、と愉快にも思う。
だが――『嵐』を完全に収束させるためには、未だ渇望の毒に燻るブラックウッドの意識そのものを断つしかない。
「まったく……君には、驚かされるよ……」
吐息のような苦笑をこぼし、ブラックウッドはそれを選択する。
躊躇いもなく。
そう、魔物の生存本能を超えた、愛という心の動きのままに。
「すまないが、しばらく……面倒を見てもらえるかな」
「え、何、」
理月がすべて言い終わるよりも、ブラックウッドが自分の意識を強制的に遮断する方が、早かった。
「ブラックウッドさん……!?」
自分の身体が倒れて行くのと、理月の驚愕の声と、そして彼の腕が自分を抱きとめるのと、それだけ確認して、ブラックウッドは、何もない暗い深遠の中へと沈んで行く。
(君が……そう望むのならば、それも悪くは……ない)
――しかしそれは、どこか甘く、やわらかかった。
* * * * *
ぐったりと力を失った身体を抱きとめて、理月はブラックウッドを見下ろした。
不可視の激しい『嵐』は、何ごともなかったかのように収束し、辺りには静けさが戻って来ていた。
「ブラックウッドさん……」
閉じられた瞼の向こう側にある黄金を思い描きながら、小さく名前を呼ぶ。
魔物ゆえの恐るべき膂力にいつも騙されるが、こうして力を失ったブラックウッドの身体は、想像よりもはるかに軽い。
「……なるほど、そういう幕切れか。呆気ないものだな。滑稽ですらある」
いっそ感心したような、久我の――否、“業苦の楽土”の声。
「だが、ヒトのその滑稽さが、私につけいる隙を与えてくれるのだ、感謝もせねばなるまい」
理月は、久我の肩に陣取ったダイモーンを睨み据えた。
「てめぇが――……」
言うな。
理月が口にする前に、ミケランジェロとフェイファー、そしてベルナールが一斉に動いていた。
ここで勝負をつける。
彼らの横顔からは、そんな決意が見て取れる。
「願って、望んで、叶わねぇのを苦しんで、――でも歩き出そうとするから、ヒトってのは面白ェんだろうが」
ミケランジェロのモップが陣を描き、無数の、小鳥の姿をした白い炎を生み出す。
「人間が弱くて何が悪いんだ? 弱いからこそ……自分の弱さが判るからこそ、他の奴らにやさしく出来るんだろ?」
フェイファーが指を打ち鳴らすと同時に、彼の周囲を渦巻いた風が、獰猛に牙を剥く虎のかたちを取った。
「そうだな……私は滑稽だ。道化のごとくに運命とともに踊るしか能がないのだから。だが……私は、それを悔いてはいない。あの方とともに在る己に、いかなる疑問も差し挟みはしない」
ベルナールの杖がくるりと回転すると、薄曇の空の雲間を、金色の光が瞬いた。
「判ってもらおうなんざ思っちゃいねェ」
「でも……だからって、他の奴らの邪魔なんかさせねー」
「我らの十全を、貴殿に否定させはせぬ」
白い炎の小鳥たちが、大きな風の虎が、天空より来(きた)る裁きの雷(いかずち)が。
一斉に“業苦の楽土”に襲い掛かり、
「……何と……!」
彼を包む、不可視の、魔法の壁を、粉々に打ち砕いた。
かしゃあああん、という甲高く澄んだ音を脳裏に聞きながら――もしかしたらそれは錯覚だったのかもしれないが――、理月は掌に意識を集中させる。
――その時を待っていた。
無防備になった“業苦の楽土”の肩で威嚇の声を上げるダイモーン。
“業苦の楽土”の意識は、今、三人に向いている。
理月は、ブラックウッドを抱えた体勢のままで、掌から顕れた美しい守り刀を握り締め、無言でそれを投擲した。
ダイモーン目がけて、何の躊躇いもなく。
玻鋼の守り刀、銘を【雪霞】と言う美しいそれは、隼のように空を斬って飛び、ミケランジェロの脇をすり抜けて、ダイモーンの脇腹辺りに深々と突き刺さった。
ぎゃひっ、と、ダイモーンが鳴いた。
アッシュグレイのダイモーンは、【雪霞】に貫かれたままで勢い余って吹き飛ばされ、倒れて朽ちかけた照明機材に磔にされた。
「な、」
“業苦の楽土”が動きを止める。
ダイモーンがばたばたと脚を動かしてもがいた。
――その時には、もう、モップを携えたミケランジェロが、ダイモーンの元へと辿り着いている
「これで終いにしようや」
引き抜かれ閃く刃。
びょう、という空を裂く音――そして。
ミケランジェロが仕込み剣を揮うと、ダイモーンに、二つの切れ込みが入った。
ばちん! と音がして、半ば千切れかけたダイモーンにとどめを刺そうとしたミケランジェロが弾き飛ばされたのは、ティターン神族の最後の悪足掻きだろうか。
「おのれ、おのれ……おのれおのれおのれおのれおのれ……!」
絶叫したのは、久我の身体だったのか、ダイモーンそのものだったのか。
理月の【雪霞】に貫かれたまま、ダイモーンがびくびくと痙攣し、久我の身体が、がくりとその場に膝をつく。
誰もが、この事件の一定の決着を確信した。
――しかし。
「おやおや……大変なことになっているようだね?」
響いた声は、理月が、つい先ほどまで追いかけていながら見失った人物のものだった。
いつの間にか、久我の傍らに、漆黒のコートとスーツに身を包んだ壮年の男が佇んでいる。
「……瑕莫……それに、来栖……?」
瑕莫の隣には、ゾッとするほど虚ろな目をした来栖香介が立ち尽くしていて、
「クー! どうした、何やってんだ、こっち来い! 宗が心配すんだろーが!」
フェイファーがしきりと彼を手招きしているが、反応はなかった。
寒々しいほど空虚な眼差しに、唯瑞貴を思い出し、理月は背筋が寒くなる。
一体、彼に何があったのだろうか。
「瑕莫、いいところに来た……! 私は最早これまで……ならば最後の盟約において、力を貸せ!」
「少し待ち給えよ、クロノス。君には『保持』の魔法がかけてある、微塵に刻まれてもすぐに消滅はしないよ。――すぐには、だけれども」
瑕莫は、喚き散らすクロノスになどお構いなしに、理月に静かな微笑を向けた。
「そういえば」
「え」
「まだ聞いていなかったね。君が私を誰だと思ったのか」
「……ああ」
「君の答えを聞きたいな。せっかく、こうして再会出来たのだから」
理月は、邪気の欠片もない瑕莫を見遣り、わずかに思案して口を開く。
「たくさん本を読んであんたたちの出てくる神話を見つけた、って言ったっけ、俺」
「ああ」
「俺……最初は、あんたのこと、アフラ・マズダかと思ったんだ。光明の、善の神さま。他の連中が、あんたのことを師匠って呼んでるから、そういう立場の神さまなのかなって」
瑕莫を師と呼ぶ、ペルシャの神々。
善神も悪神も関係なく。
「だけど……実体化したのがアフラ・マズダだったとしたら、こんな事件を起こす必要なんか、なかった」
絶対の善ならば、ただ善行をなすだけで、存在の意義は守られた。深く考えるまでもなく。
「……アンラ・マンユ、違う、きっとあんたは、アーリマンだ」
言うと、瑕莫の笑みが深くなった。
――それは、アフラ・マズダと永遠の闘争を続ける強大な悪神であり、同時に、悪魔に貶められた悲劇の神の名だ。
マズダ教以前のペルシャ神話では、ミトラの第一の従神でありながら、聖牛の供儀を邪悪と断じたマズダ教に悪神とされた獅子神。本来は友愛と歓待、治癒を司り、今でも一部では、善神として……ミトラの友として崇められてもいる、絶対的な悪などでは断じてない神だ。
瑕莫、つまりあやまちがない、という意味の名も、それを暗喩しているのでは、と、理月は思ったし、間違ってはいないだろうという確信もある。
「でも……なんで、こんなことを。アフラ・マズダがいない所為で、絶対悪になれねぇのを歯痒いって思ったのか? 役割を果たせねぇ、って? ……アフラ・マズダはどこにいるんだ……?」
そして……瑕莫、アーリマンがあの方と呼ぶ存在とは。
「アフラ・マズダとアーリマンは対立してるけど、同じ至高神から生まれた兄弟だって本に書いてあった。じゃあ……あんたが呼び出そうとしてる『あの方』っていうのは、万物の根源、ズルワーン、なのか……?」
そこまでの根拠や確信はある。
だが、
「その、ズルワーンっていう神さまを呼び出して、あんたは、何をしようとしてるんだ……?」
そこから先の、彼らの目的が、判らない。
だから、それ以上は何も言えず、ブラックウッドの身体を抱き支えたまま理月が沈黙すると、
「――……素晴らしい」
瑕莫が、穏やかな笑みとともに拍手をした。
「いかにも我が真の名はアーリマン。アンラ・マンユ即ち怒れる霊などとも称される、ペルシャの旧き神だ。異世界からの客人である君が、それを言い当てるとは……驚きだよ」
彼の穏やかな様子からは、悪神らしさなど微塵も感じられないが、彼が一連の事件の中枢をなしていることは確かな事実なのだ。
「なんで、あんたは……」
訊きたいことがたくさんあって、言葉を継ごうとしたら、
「瑕莫! 遊んでいる場合か……早く約定を果たせ! 最後の力で、貴様により多くの結晶をくれてやろうと言うのだぞ……!」
クロノスが――やはり、久我の身体が声を出しているのか、ダイモーンが音を発しているのか判然とはしなかった――忌々しげな声をあげ、瑕莫を苦笑させた。
「やれやれ、せっかちなことだ……と言いたいけれど、まぁ、仕方のないことだろうね。――いいだろう、君の在り方にすら敬意を表し、君に力を与えよう」
くすくすと笑い、瑕莫が、未だ磔にされたままのダイモーンに手をかざした。
ダイモーンの身体が、淡い光を放つ。
同時に、靄のようなものがダイモーンから滲み出し、周囲をぼんやりと霞ませる。
いつの間にか【雪霞】が抜け落ちて、カラン、と地面に転がった。
光と靄に包まれて判り辛いが、ダイモーンの身体が三つに千切れたのが見えた。――そんな気がしただけかもしれないが。
その三つがそれぞれにびくびくと痙攣しながら、むくむくとふくらみ始めたように見えたのも、気の所為かもしれないが。
「くそ、余計なことを……!」
舌打ちとともに仕込み剣を構え直し、再度ダイモーンにとどめを刺すべく走り出そうとしたミケランジェロを、
「待て、ミケランジェロ殿、様子が変だ……!」
ベルナールがその首根っこを引っ掴んで止める。
ごおおぉ………………んんんん………………
低い地鳴りがコンサート会場全体を包み込む。
「なんだ、あれは……!?」
ずしん、という、地響き。
――異様な気配が現れたことに、この場にいる全員が気づいていただろう。
ずぅん。
また、地響き。
ゆっくりと、靄が晴れてゆく。
「あ、あれは……!?」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
それは――それらは、怪物としか言いようのない姿かたちをしていた。
そしてそれらは、銀幕市を睥睨し、咆哮を上げる。
生きとし生けるものすべてが震え上がるような、寒々しく猛々しい声で。
――街が、震える。
8.光遠く、ただ雷が鳴り響き
シャノン・ヴォルムスは、市役所付近で合流した狩納京平とともに、それが咆哮するのを目にした。
――それは、腐った臓物を思わせる気味の悪い赤と、沈鬱な灰色で覆われた、溶けて崩れ、半ばまで腐敗した巨大なドラゴン。
太助は、神音とともに市役所へ向かう途中、志郎を見つけ、彼も加えて市役所へ急ぐ道の最中に、それが空気を震わせて吼えるのを目にした。
――それは、全身を虚ろな青と灰の眼球で覆われた、天をも支えられそうな巨人。
翼姫は、『家族』であるホワイトドラゴン隊員たちとともに暴徒の鎮圧を行っている時に、それが気味の悪い軋みを立てるのを聞き、その姿を目にして全身に鳥肌を立てた。
――それは、悪夢のように巨大な、九つの首を持つ黄灰色の蜈蚣。
どれも、身の丈五十メートルを軽く超える化け物が、三体、海岸沿いに現れ、街を震わせる大音響でもって、自分たちの存在を知らしめた。
その咆哮は、銀幕市の端から端まで届いたという。
* * * * *
「な……んなんだ、ありゃァ……!」
ミケランジェロはいっそ呆気に取られていた。
「どう、と表現するのも難しいな」
ベルナールは厳しく目を眇めながら、冷静に状況を判断する。
「空間がたわんでいる……どうやら、誰かが咄嗟に結界を張ったようだ。迅速に片をつければ、被害は最小限に抑えられるかも知れない」
「殲滅戦、電撃戦ってとこか」
「ああ。……戦力を集めねば、こちらが殲滅されるだけだろうが」
「違いねェ」
フェイファーは、一瞬の隙をついて瑕莫の背後に回りこむと、彼の傍らに佇んでいた香介を担ぎ上げ、急いで瑕莫の傍から離れた。
腕の中に抱え込んだ彼は、いつの間にか意識を失ったようで、ぐったりとして身じろぎひとつしない。
「返してもらうぞ、こいつ。何があったかしんねーけど、こいつのこと、大事に思ってる奴がいるんだ……お前にやるわけにはいかねー」
瑕莫はどこまでも穏やかで、揺らがない。
「おや……それは、残念だよ。彼を『器』の傍に置いて、綺麗な音楽を奏でてもらおうと思ったのだけれども。――そうすれば、きっと、『あの方』も速やかに、円滑においでになるだろうから」
「そりゃすまねーな。悪ぃけど、よそを当たってくれ」
理月は、腕にブラックウッドを抱えたままで、久我を捜していた。
分裂したダイモーンが化け物と化したとして、では依り代である彼はどうなったのかと、それが気になったのだ。
果たして彼は、ステージの一角に倒れていた。
額に汗をびっしりと浮かべ、苦悶の表情で、地面を掻き毟るような仕草をしている。
「久我、」
声をかけ、目を覚まさせようとしたら、
「貴様はこちらだ……久我。今更逃れられるなどと、思うな……」
ぶわり。
黒い、べったりとした、ダイモーンのかたちをしていたようにも思える、汚らしい何かが、呻き声を上げる彼の背中に張りついた。黒いしみが、刺青のように、久我の肌に表れる。
と、
ちゃぽん。
不釣合いなほどに間抜けな水音を立てて、久我の身体が、地面に吸い込まれる。まるで、黒いしみに、どこかへ引きずり込まれでもしたかのように。
ほんの一瞬、覗いていた手が、何かを掴もうともがいたのが見えたが、それもすぐに、地面へと消えた。
「な、」
驚愕する間もなかった。
「クロノスは久我君にご執心だね。……そのくらい、近しい存在だったのかもしれない」
くすくすと笑った瑕莫が、空を見上げ、怪物たちを見やってから、踵を返す。
「さて……では、私は、そろそろお暇しよう。色々と、準備があるからね」
――誰も、身動きが出来ない。
今戦って勝てる相手ではないと本能が告げるから。
そして、まずは化け物たちを何とかしなくてはならないのだと、優先順位が判り切ってしまっているからだ。
「最後の再会を、楽しみにしているよ」
穏やかな笑み、言葉。
その後、彼は、空気に溶けるようにして、消えた。
終焉への不吉な予感だけを残して。
* * * * *
「……“業苦の楽土”が敗北したようだな」
遠くで咆哮する巨大な化け物を見遣り、アエーシュマが言ったので、仙蔵は眉をひそめ、赤灰色の竜と、青灰色の巨人と、黄灰色の蜈蚣とを見遣る。
悪夢のような光景だ、と仙蔵は思った。
あれを斃さねば銀幕市が危うい、それがひしひしと感じられる。
「最終局面、ということか」
かすかに笑い、ドゥルジが踵を返した。
アエーシュマが頷き、彼女に倣う。
「どこへ……」
「決まっている。私たちも、『あの方』をお迎えする準備をせねば」
「そうだ、お前も一緒に来ないか、千曲仙蔵」
「!」
「俺はお前を傍に置きたい。お前が臣として仕えてくれるのなら、これほど嬉しいことはない」
ぐらりと心が揺れる。
揺れるが、往けぬ。
「ならば……何故」
仙蔵は唇を噛み締めた。
ほろり、と、右の目から一粒、零れ落ちたのは、紛れもない涙だった。
哀しかったのか、悔しかったのか、苦しかったのか、本人にもよく判らない涙だった。
「何故、こちら側には、来てくださらぬのか……!」
アエーシュマが、ドゥルジが、きょとんとした表情をする。
それは悪神にあるまじき邪気のなさだった。
「俺は貴殿らにお仕えしたい。だが……そちらには、行けぬ」
「……そうだろうな。そういうお前だからこそ、私たちは、お前を可愛いと思うのだ」
「そう言ってくださるのならば、こちらへ!」
言って、仙蔵は手を差し伸べた。
「……俺たちは既に幾重にも罪を犯しているのだ」
「罪ならば償える……貴殿らがそう思われるのならば。そして、果たすべき責務を果たせるよう、俺がお二方をお守りする。それでは、駄目なのか」
仙蔵は彼らを憎めなかった。
彼らに、罪を償って、赦しを得て、銀幕市という場所で、一市民として生きてほしかった。
そして、そんな彼らに、仙蔵は仕えたかったのだ。
「……」
仙蔵の言葉に、アエーシュマとドゥルジが顔を見合わせ、晴れやかに笑った。
驚くほど嬉しそうな、同時にどこか哀しげな笑顔だった。
「ならば……」
「……?」
「俺たちを止めてくれ、千曲仙蔵」
「最後の戦いで、私たちを打ち倒してくれ。そうすれば……私たちは、お前の望むように、新たな道を模索できる」
「――お前に痛みを強いると承知で、頼む」
仙蔵は唇を引き結んだ。
しばし沈黙し、頷く。
もはや答えなど決まっている。
一連の事件を収束させ、彼らを止めて、彼らの贖罪をその傍らにあって支え、心底信じられる主を得るのだ。
「――……御意」
その言葉に、また、二柱が笑った。
「……待っている……」
囁くように言ったのち、もう振り返ることもなく、二柱が悠然と歩み去るのを、仙蔵は静かに見送った。
ふつふつと滾る闘志と決意、覚悟とを、胸の奥に感じながら。
――街中に咆哮が響く。
戦いは、まだ、終わらない。
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クリエイターコメント | 大変お待たせいたしました! 毎回同じような挨拶文で申し訳ありません。
渇望を軸にした【ツァラトゥストラ】シリーズ第二場をお届けいたします。
プレイングによっては少々偏りが出てしまっていますが、お時間をたくさんいただいたのもあって、PCさんたちがそれぞれに抱いておられる様々な感情や信念、立ち位置を、なるべく丁寧になぞったつもりです。
その機微を、楽しんで――と言うには少々御幣がありますが――いただければ、幸いです。
そして、事態は少々厄介な方向へ向かっています。 どうやら、まだ、一連の事件は収束してはいない様子。
すぐに続報があろうかと思われますので、その際には、どうぞ皆さんのご助力をお願い致します。
それでは、ご参加どうもありがとうございました。 お届けが遅れましたことをお詫びすると同時に、皆さんの素晴らしいプレイングに感謝し、次なるシナリオでもお会いできるよう祈る次第です。 |
公開日時 | 2009-03-05(木) 19:10 |
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