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[13] 虎の身上
「行くぜ楊貴妃」
リエ・フー(cfrd1035) 2012-02-01(水) 18:20
猥雑な活気と喧噪渦巻く謀略と諜報の都、港湾貿易で栄えた人種の坩堝ー上海。
綺麗に区画整備された租界と朱い雪洞を鈴なりに連ね人力車疾駆する歓楽街とが隣り合う混沌の魔都、その底辺をしぶとくしたたかに生き抜く時代の申し子にして落とし子たちーストリートキッズ。

ある者は親に捨てられある者は親を捨て、似たり寄ったりの生い立ちの仲間と徒党を組み、かっぱらいや掏摸を生業として路上で生きる子供達。

年少の身でありながら、彼はその愚連隊の一群を率いていた。

少年の名はリエ・フー。
母譲りの艶やかな黒髪、猫科の猛獣めいて獰猛な黄金の双眸の少年は、行き場を失くした孤児らの寄り合い所帯を仕切り、彼等が口を糊するだけの糧を与えていた。

「はっ、はっ、はっ」

人民服に包まれた薄い胸を喘がせ、息弾ませ駆けるリエを、殺気走った官憲の一群が追い立てる。

「待て小僧、自分が何しでかしたかわかってんのか!」
「牢屋にぶちこんで嬲り殺しにしてやる!」

憤怒の形相で手に手に警棒を振りかざす官憲ども、喧々諤々乱れ飛ぶ怒号と罵声、市場の屋台を引き倒し蹴散らし転々と跳ねた瓜を踏み潰し果汁を散らす。

捕まれば一巻の終わり、私刑に遭ってあの世行き。ここでは人の命は軽い。子供の命はなお軽い。

瞼の裏にちらつく凄惨な光景。
路地裏の血だまりに倒れ込んだ亡骸、その傍らに愕然と立ち尽くす少女の戦慄の表情。

『私、だって私……』

青ざめ震える唇が紡ぎ出すのはひとごろしの自己弁護、せめて自分を見つめるリエにだけはその秘めたる真実をわかってもらいたいとつっかえつっかえ訴える。

『私、わたし』

白い手には血塗れの簪。
確か、客に貰ったのだと言っていた。
少女にとっては売られた娼館での数少ない良い思い出の一つなのだろう、髪に挿した簪の由来を語る時だけは窶れた顔が綻んだ。

名前も知らない。
生まれも知らない。

ただ、貧しさ故に売られたのとだけ語る少女の境涯がけして幸多いものではなかったろう現実は、薄汚れた旗袍越しにもわかる痩せこけた体がいやというほど代弁している。

出会ったのは偶然だった。
少女は街角で客を取っていた。

夜毎違う男に体を開く苦痛に耐えきれず娼館を逃げ出したものの、年端もいかぬ少女が身を立てるにはどのみち売春しかなく、他の街娼の縄張りを冒さぬよう、街燈の明かりさえ届かぬ路地の暗がりでひっそりと身を縮めていたのだ。

そんな少女にまともな客が寄り付くはずもなく、ある夜、しこたま客に殴られていた現場に偶然通りかかったのがリエだった。

その夜、一仕事終えたリエはちょっとばかし懐が温かった。
阿漕な商売で儲けた金持ちから分厚い財布をスッたのだ、腹はくちて胸も痛まぬ痛快な宵だ。

鼻歌まじりにねぐらへ向かう帰途、そんなリエの耳に助けを求める声が飛び込んできた。

劣情に息荒げ、少女にのしかかる男の後ろ襟を引っ掴み、器用に体重を流して投げ飛ばし、敵に起き上がる暇も与えず少女の手を引いて逃げ出した。

『謝呀……あなただれ?』
『どうでもいいじゃねえか、そんなの』
『名前を知らなきゃお礼も言えないわ』
『リエ・フー』
『本名?』
『さあな』
『名前に虎が入ってるのね。強そう』
『どうせ似合わねえって言いてえんだろ。悪かったな、こんなちびで』
『ううん。いい名前。心に虎が棲んでるのね』

ひとの運命はどう回るかわからない。
あの夜助けたのをきっかけに、なんとなく縁ができてしまった。

勘違いするな、気まぐれで助けたのだと放言して憚らぬリエに対しても義理堅く恩を尽くし、街で見かけるたびに小さく手を振って寄越す、ただそれだけの……他人以上知人未満の関係。

リエはそう思っていた。
たとえ彼女が遠慮がちに振って寄越す手に咲き初めの思慕とうぶなはにかみが添えられていたとしても、娼館で生まれ育ち、男女の営みの酸いも甘いも知り尽くし冷めた達観に至った少年は、けして思い上がりはしなかった。

あの夜少女を襲った暴漢が警官だと判明したのは、つい先刻の事。

この界隈では札つきの悪徳警官でゆすりたかりは当たり前、そんな男があの少女に目をつけて、真昼間っから路地の暗がりに引きずりこんだのだ。

なんであの場所を通ってしまったのか。
他にもねぐらに帰る道は多々あるのに、なんで今日よりにもよってあそこを通ってしまったのか。

まさか、と走りながら自嘲する。

まさか、あの女に会いたくて?
たった一度助けたっきりの名前も知らない女が性懲りなく手を振って寄越すもんだから、いつのまにか自分でも気付かぬうちにあの道を選んでしまったとでもいうのか?

馬鹿な。
馬鹿げてやがるぜ、まったく。

そういえば、初恋の女に少しだけ似ていた。
顔の造りはそれほどでもないが、儚げに目を伏せた表情と、はだけた裾を楚々と直す指遣いに既視感を憶えた。


だから俺は、

『リエ!!』

耳を劈く金切り声、薄暗い路地裏に響き渡る悲痛な絶叫。

非力な少女を組み敷き、今まさに事に及ぼうとしていた制服の尻に蹴りを入れ地面に転がす。
少女の顔は真っ赤だった。鼻血だ。警官に殴られたのだ。頭が真っ赤になった。一瞬で沸点を突破した。

『なんだてめえは、あっち行ってろ!これからお楽しみ……』

喚き立てる胸ぐら掴み、渾身の力で拳を振り抜く。
一発、二発、三発。
風切る唸りを上げて拳を振り抜けばぐしゃりと肉が潰れる感触、重く鈍い衝撃に合わせ直に伝わる違和感。五発目で鼻が折れる。

混ざりてえか?
粘着な吐息に乗せた揶揄が耳朶を濡らした刹那、理性が消し飛んだ。
リエの体が吹っ飛ぶ。警官が凶器を使ったのだ。ベルトに挿した警棒を引き抜き、リエの頭髪を鷲掴んで吊るし上げ、顔と言わず肩と言わず胸と言わず殴打する。

所詮大人と子供、体格と膂力の差は圧倒的。
相手は警官、それなりに場数も踏んでる。

警棒の一振りごと体中に衝撃が爆ぜ、焼けるような痛みが四肢に広がる。
額が切れ目に血が流れ込む。
鮮烈な赤が瞬くたび朦朧と意識が遠退いていく。

見上げた空は左右に迫り出す建物に区切られて細く狭く遠く、何もかもが煤けていてー……

『リエを離して!!』

頭髪を束で鷲掴みにする腕からふっと力が抜ける。

尻に衝撃。
地面に尻餅ついたリエは、嬉々として自分をいたぶっていた官憲の背後に寄り添う少女の姿を網膜に焼きつける。

少女の手には簪。
その鋭利な先端が官憲のうなじに深く深く食い込んでいる。

『ぐっ……でめ……』

濁り濁った断末魔が、戦慄く唇から血泡と一緒に滴り落ちる。
簪をそのまま横に引けば断ち切れた頸動脈から血がしぶき、少女の髪を、顔を、手を、服を、全てを赤く禍々しく濡らしていく。

栓が抜けた頸動脈から大量の血を噴き上げ、さしたる抵抗もなく倒れた官憲。
不規則な痙攣が止めば、そこにあるのはただのモノ……脂肪の塊に成り下がった人間のなれのはて。



かちゃん。
血脂でぬめる指を擦り抜け、簪が地面で跳ねる。



それが、先ほど起こった一部始終。
彼が行きずりに関わってしまった喜劇の幕切れ。


「警官を殺したらどうなるかわかってんだろうなあ、クソ餓鬼!!」

背後に殺到する靴音と口汚い罵声がリエを現実に引き戻す。

今は官憲を巻く事にだけ集中しろ、がらにもねえ物思いは後回しだ。

『こいつを殺ったのは俺だ』

咄嗟に出た言葉は、けして正義感から来るものじゃない。

己が作り出した血溜まりに蹲りがたがた震える少女を無関心に一瞥、地面に落ちた簪をひったくる。

『サツを殺ったら箔がつく。仲間にもデカい顔ができる』

ためつすがめつひねくりまわし、べったり指紋を上塗りした簪を投げ捨て、死体の懐を素早く漁ってぱんぱんに膨らんだ財布を没収する。

『思った通り、ためこんでやがるぜ』

最初からそれが狙いだったのだと仄めかし、したたかで不敵な笑みを片頬に刻む。

相変わらず腰を抜かしたまま、呆けたように虚ろな目でこちらに凝視を注ぐ少女を振り返り……


初めて、手を振り返す。
申し訳程度のそっけなさで。

『再見……は、ふさわしくねえか。あばよ小姐。せいぜい達者でな』



それが最後の言葉。
最初で最後の別れの挨拶。


もう二度と会う事もないだろう少女の泣き顔をかぶりを振って追い出し、ひたすらに前だけ見て走り続ける。


後悔はない。悲嘆もない。正義ではない。同情でもない。


では気紛れか?
対(トエ)。


官憲を敵に回して得た収穫と現在進行形の窮状が釣り合わなくても、最終的に嬲り殺され路上で息絶え野犬の餌となる運命が待ち構えていたとしても、後悔はしない。


これは只の気紛れ。
だからこそ、後悔はしない。





『ー……あんたの正義感を満たすのはコリゴリよ?ああ、利用するのはいいかもね!……残念。オレサマは世界樹からのことしか「記憶」はなくてねぇ。きっと食った奴が悪かったんだなぁ、うけけけっ!』


神経に障る甲高く軋んだ哄笑に、およそ八十年余りを遡る追憶に沈んでいたリエ・フーは薄らと目を開く。

剣呑な眼光を点した黄金の瞳が、正面に囚われたシャドウを射貫きー

ふっと、不敵な笑みを片頬に刻む。
容姿を裏切るが如き冷めた達観と底冷えする凄味とが同居する、獰猛な虎の笑み。


「勘違いすんな下郎」


薄く形良い唇をねじり、唾棄するように吐き捨てる。

「正義?偽善?しゃらくせえ。一体そんな戯言にこの俺の魂を売り渡す値打ちがあるってのか?お安く見さらすのも大概にしやがれ」

耳を澄ませば今も聴こえる、今も耳に響く甲高く硬質な軍靴の音。
忘却の彼方から幾重にもこだまする故郷の残響を振り払い、伝法な所作で足を組む。
用意された椅子に踏んぞりかえり、フライトジャケットを羽織った肩をぞんざいに竦め、皮肉な巡り合わせで得た永い余生を持て余し、己の血潮が燃え上がる刹那をこそ貴ぶ仮借なき博打打ちの笑みで。


「アレは只の気紛れだ。こちとら気紛れに悔いを残すようなしみったれた生き方はしてねえんだよ」

『んじゃなんだってあんな質問を?』

高飛車に啖呵を切るリエを二度と会う事はないと思っていた少女の顔で胡乱げに見返し、シャドウが尋ね直す。

「ありゃあ只の皮肉だ」

そんなこともわかんねェのかよ、と、リエは嗤った。


それこそが、虎の身上にして信条。


[50] 追記
「行くぜ楊貴妃」
リエ・フー(cfrd1035) 2012-12-14(金) 18:15
「【世界樹旅団】シャドウ・メモリに尋問」北野東眞WRより。

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