『有り難うイルファーン』
それは幸薄き少女の遺言。 彼女は謝辞を託し彼の腕の中で息絶えた。
男にしては華奢な腕、その腕と比べてもまだ痛々しく痩せ細った躰から最後の吐息と共に魂が昇天していくのを見届けたのち、イルファーンは村を発った。
最期を看取り幾日経ったろう。 焼け跡を去り幾日経ったろう。 否ーことによると何か月か。時間の感覚はとうに摩耗し欠け落ちて久しい。
苛烈に照りつける太陽の下、灼熱の砂漠を彷徨い歩く。 あえて実体化を解かぬまま灼けた砂を踏むのは焼き鏝で烙印を捺すに似た自罰行為、裸の足裏には火脹れができている。 精霊の体は喉の渇きとも餓えとも無縁だ。 癒せぬのは魂の餓え、その絶望と渇望だけ。 手にはまだ少女の感触が残っている。 それが一般に錯覚と名付けられる存在の残滓に過ぎなくとも、呵責を実感として引き受けるモノにとっては決して幻痛ではない。
『うそよ、こんな――』
栄養失調気味の薄く貧相な躰、おまけに鉄の足枷という錘を引き摺った状態で苛酷な砂漠を越えられたのは奇跡に等しく、それ以上に彼女自身の不屈の意志力に拠る所が大きい。 物狂おしい望郷の念に駆りたてられ、ろくに呑まず食わずで故郷の村に帰り着いた少女を待ち受けていたのは、皮肉なことに略奪と凌辱にさらされ荒れ果てた焼け跡の情景だった。
希望は人を生かしも殺しもする。 どちらに転ぶか見定めるのは時として骰子の目を読むより難しい。
行きは二人、帰りは一人。 少女と歩いた涯てなき旅路を今度は独り引き返す。 柔らかに崩れ去る砂地に点々と穿たれた足跡だけが流浪の軌跡を留め置くも、それすら一刻もせず儚く埋もれ消えゆく宿命。
『愚者め』 『偽善者め』
嗚呼、知っている。 判っている。 僕を責めるこの声ーよく知っている、嫌というほど聞き覚えがある。 生まれた時から常に傍らにいた片割れの、自分とはまた性質を異にする太く美しい声音。 イルファーンのそれが水琴窟のように清冽に澄んだ美声なら、何処からか波紋を描いて響くこの声は聴衆を平伏させる超俗的な神威に充ちた低音。
声の主が嘲弄する。 イルファーンを侮蔑する。
『お前は愚かだイルファーン。お前の救済は結局のところ誰も救わぬ、お前は己が施す偽善で己を充たしたいだけ、究極の利己主義者だ』
そうだとも。
『お前の奉仕は決して報われぬ。人間を不幸に突き落とすだけ、さらに深い絶望を与え給うだけだ』
自責の念から来る幻聴か、罪悪感の産物か、実際に何処からか見ているのか。 ありえぬ話でもない、精霊の中には千里眼をもつものもざらにいるのだ。 彼方と耳朶から同時に響く声は、那由多の砂漠を越えて流離うイルファーンを執念深く追い立てる。 いや、と漠然と考える。 絶え間なく自分をなじるこの声は呵責に病んだ心の深奥から響くのか、魂の深泉から湧き出ずるのやもしれぬ。
僕はまた過ちを犯した。
見捨てた方が良かったのか。 見殺しにすべきだったのか。 そうすれば彼女は辛い思いをせずにすんだのか、絶望の底で命を絶たずにすんだのか。 盗賊に襲われ壊滅した隊商の唯一の生き残り、鉄の足枷を嵌められ倒れ伏す少女の傍らを何もせず通り過ぎるのが正しかったのか。
万能の精霊とて全能神がしるし給うた運命の書を盗み読む所業は許されぬ。 少女の身に起きる事を、降りかかる悲劇を、どうしてあの時イルファーンが予想できたというのだろう。
僕は人の護り手を志した。 あの国で嘗てそうだったように人の近くに在りたかった、ただそれだけだったのに。
本当にそうだろうか。
『人に拝まれ崇められるのは快いかイルファーン』 『業深な自尊心の疼きは癒されたか』
「僕は、」 続く言葉を呑む。 「私は」
彼は異端にして異質。
精霊は本来人の営みに干渉しない。 稀に強い魔力を生まれ持った人間と契約を結びその権能を揮うことはあれど、それは精霊の価値観において手遊びの施しの域を出ず、無償の奉仕ではありえない。 精霊の多くは人間を流血と闘争を好む野蛮な短命種、下等で卑小な存在と見下している。
そんな中でイルファーンは人に焦がれた。 不変の永遠に倦んで、一瞬きの刹那を生きる人の眩さに恋い焦がれた。 予定調和の永遠を返上してまで市井の人に寄り添い、怒り泣き笑い喜ぶその闊達な生命力を、種蒔き命育むその営みを全身全霊で護りたいと願った。
異端にして異質。 故に愚者の霊と謗られる。
僕が間違っていたのか。 人と精霊は所詮相容れぬ存在なのか。 自分が余計な事をしたせいで彼等彼女らを破壊に巻きこみ死に追いやってしまったのか。
嘗て抱いた赤子のぬくもりが掌に甦る。 イルファーンが名付け親となった稚けない嬰児の無垢なる笑顔が、眼裏にあざやかに甦る。 痛みを伴う記憶の中、天から情け容赦なく降り注ぐ硫黄の火が罪なき赤子の笑顔を焼き尽くす。
「すまない」
護れない。守れない。僕が殺した、殺してしまった。愛していたのに、好きだったのに、愛しかったのに、彼等のそばに在ろうと決めたのに。
「ああ」
五大元素から生じる精霊に死の概念はない。精霊が定義する死は即ち自我の消滅、存在が薄らいで大気に消えゆく一種の自然現象を意味する。
一滴の恩寵さえ望めぬ日照りの砂漠をひとり往くイルファーン。
風が死んだ砂漠を渡る白き孤影。 それはまるで、巡礼の旅。
―終― |