「人殺し!」 「化け物め!」
ここは地獄か煉獄か。 金切り声の悲鳴と罵倒が一方的な殺戮劇の火蓋を切る。
紅蓮に染まる空から絶え間なく硫黄の火が降り注ぐ。 阿鼻叫喚の渦の中、屋台を薙ぎ倒し逃げ惑う人々が地面に落ちた果実を踏み潰す。
殴り合い押しのけ合い我先にと逃げだす住人たち、躓き転んだ我が子と引き離された母親が這い蹲って手を伸ばせばその甲が土足で踏みにじられ蹴飛ばされる。
獣に退化した人間達が命がけで互いを喰らい合う、なんとしても生き延びたいという一念に駆り立てられ狂乱の態で互いを蹴落とし合う。
往日砂漠を渡る隊商に重宝された商都の賑わいは跡形もなく、酸鼻を極めた光景が一面に広がっている。
燠が燻る瓦礫から揺らめき立ち上る陽炎の帳越しに、あたり払う大股で一人の男が歩いてくる。 黄金律を体現するかの如く均整取れた長身。 身に纏うのは砂漠の民の伝統衣装、王侯貴族のような風格ある誂えと仕立ての薄衣。 光沢ある褐色の肌が神話の情景じみて轟々と荒れ狂う炎に照り映える。 何より美しいのはその髪。 砂漠の男には珍しい腰まである長髪が、威風堂々たる歩みに合わせ関節のない生き物さながら妖美にたなびく。
そしてー
「上等だ」
ピジョン・ブラットー最高級の紅玉を嵌め込んだ切れ長の瞳が嘲笑に歪む。
「お前たちはそう言ってアレを虐げたのだろう」
火の粉が舞う。燠が燻る。 腕を大きく振りかぶり、体内で練り上げた魔力の塊を解き放つや方々で火柱が立ち、体液ごと沸騰させられた人間が一瞬で蒸発していく。消し炭すら残さず消滅していく。
破壊の権化。殺戮の担い手。復讐の代理人。 その名は最も高貴なるもの、アシュラフ。
「枯れろ朽ちろ燃え落ちろ。女を殺せ、男を殺せ、羊を殺せ、駱駝を殺せ、老人を殺せ、乳飲み子を殺せ。息あるものただ一人も残さぬぞ」
男が踏み締めた大地がどす黒く変色する。 草が枯れ井戸が涸れ樹が枯れて、彼が歩んだ道筋にある全てが一つ残らず腐り落ちていく。 砂漠の彼方より降臨した美しき異形は、擬人化された疫病の如くただ其処に存在するだけで遍く死を蔓延させ災厄を撒き散らし、ありとあらゆるものを原初の渾沌に帰していく。
「どうか命だけはお助けを!」 「そうだ俺の駱駝をやる、死んだ親父から受け継いだよく働く駱駝だ!コイツがありゃ砂漠で行き倒れる心配なしだ!」 「私が死んだらこの子はどうなるの、こんなに小さいのにどうやって生きていけば」 「お慈悲を!お慈悲を!」 「ああなんだってこんなコツコツ地道に働いてきたってのに、悪い事なんて何もしてねえのにあんまりだ、神様なんぞ信心するだけ無駄だった!」 「家宝のエメラルドをやる!金貨をはたいて宝石商人から買った最高級のエメラルド、売っ払えば一生遊んで暮らせ」 「五月蠅い」
平伏して命乞いするもの、涙と洟水、全身の毛孔という毛穴から汚い体液を垂れ流して慄くもの、股間にどす黒い染みを広げるもの……いずれも極限状態まで追い詰め、人間性の醜悪さを容赦なく暴き立てた上で恐怖のどん底に追い落とし嬲り殺す。
鏖殺に次ぐ鏖殺。 虐殺に次ぐ虐殺。
無秩序状態の街路を遁走する人々を生きながら火柱に変える行為も、男にすれば家畜の屠殺と一緒。 否、それ以下の感慨しか揺り起こさぬ小手先の児戯。 蟻を潰す方がまだ手ごたえがある。
「俺とアレを化け物と罵ったその口で命乞いをするのか?」 「ひっ!」
秀麗な口元が侮蔑に歪み、底知れぬ邪悪さを秘めた紅玉の瞳が底光りする。
後ろ手に這いずり逃げる男の喉笛を掴んで高々吊るし、その口腔を無理矢理こじ開け指をねじこむ。 口腔まさぐる間にも異変が起きる。 哀れな生贄の躰がみるみる干からびて、遂には骨と皮だけの抜け殻となる。 男の四肢が不規則に痙攣し、やがて止む。 余さず精気を搾り取ったなれの果てを無造作に投げ捨て、呟く。
「つまらん。二枚ではなかったか」
あとから投げ捨てられたのは干し肉に似た何かの断片…… 干からびた舌の残骸。
これは断罪だ。 あれが贖罪の徒なら、俺は断罪の徒だ。 あれの報いを受けさせる為にはるばる此処にきた。
「劣等種が」 「助け」 「俺はあれほど慈悲深くはないぞ」
暴君の如き傲慢さで世界を傅かせ、その暴威で周囲をねじ伏せながらあちこちに火を投じる。 行き倒れた駱駝が、屠られた羊が、絞められた鶏が、四肢が千切れた男が、輪切りにされた女が一斉に燃え上がる。炎によって浄化されていく。 瞋恚を縦糸に、忿怒を横糸に織り上げた破壊と混沌のフーガが方々で炸裂するごとそれぞれ声域の違う断末魔が空を切り裂く。 瓦礫の一部が崩落し、瀕死の生存者が四肢を引きずり這い出てくる。 その目が映すのはまじりけない恐怖と戦慄、自分の運命を悟ってしまった者の絶望。
「化け物め……!」 「判っているではないか」
そう、俺は化け物だ。 お前達が憎み呪い石もて迫害したアレと同じ、アレの唯一の同胞にして理解者だ。
「くそっ、くそ……化け物が!!」
警邏隊の生き残りが槍を構え、余力を振り絞り特攻を仕掛けてくる。 その槍を指一本で止め、退屈げに目を眇める。 鏃が砕け、槍がへし折れる。 恐怖に凍り付いた警邏隊の生き残り、思わずあとじさったその額にとぷりと指を沈める。
「ああ、あ」 「……視える。視えるぞ。そうか……相変わらずだな。本当に変わってない……」
くく、とさも可笑しげに喉を鳴らす。 長い睫毛に縁取られた瞼を閉じて瞑想に没入する。
脳裡に指を沈め、過去の記憶を「視る」。
伏せた瞼の裏で眼球が動き、端整な美貌に憂愁の翳りが落ちる。
「……変わってない。全く、腹立たしい程に変わってない。何故抗わぬ?何故殉じる?理解できん。お前に痛みがないと?何も感じぬと?まさか。お前は愚者だ。己の痛みを蔑ろにしてまで人に尽くす、その返礼に人はなにをした、施しに何を報いた?奴等は忘恩の徒だ。お前の血は赤い。受肉している間は我々精霊も赤い血を流しヒトと同じ痛みをうけるというのに……」
瞼の裏の暗闇で、槍に貫かれ血を吐いた同胞が苦痛と悲哀に顔を歪める。
否。 胸を穿つこれは裏切りと絶望の痛み。
嗚呼ー…… 泣きそうじゃないか、お前。
再び目を開いた時、一対のルビーがなおいっそう冴え冴えと輝きを増す。 衣の裾が大きく舞い上がり、それに伴う風圧で艶やかな黒髪が荒々しく踊り狂い、男を中心に生じた颶風が瓦礫も人をも巻き込む巨大な螺旋を描いて天へと駆け上る。 天をも飲み干す竜の顎(あぎと)―イフリートの権能。 豁然と見開かれた切れ長の双眸で緋色の妄執が燃え上がる。
「俺はアレの半身だ」
彼は理解した。 あの時槍に貫かれたのはヒトの模造品にすぎぬ仮初の心臓ではなく、同胞の魂そのものだと。
「アレを傷付けてよいのは俺だけだ。死ね」
殺戮は夜通し行われた。 住人は全滅し、商都は滅亡した。
いや、まだだ。 あと一人、生存者がいる。 あえて最後の最後まで生かしておいたのだ。
「可哀想に……可哀想に……」
払暁が浄暗を駆逐する頃、周りを瓦礫に囲まれながら一か所だけ破壊を免れた広場に足を運ぶ。 炎に炙られ煤けた絞首台の傍ら、地べたに蹲りブツブツと独りごちる老婆。 その腕が搔き抱くのは腐った死体。
嘔吐を催す悪臭も気にならぬかのように、蛆と蠅がたかった死体に頬ずりし、赤子をあやすかのように軽く揺さぶってみせる。
蟻の行列が老婆の膝によじのぼり、蛆に抉り抜かれた骸の頬をよぎっていく。
「あの化け物にさえ出会わなければ……こんな事なら私が死ねばよかった、親が子より先に死ぬのは当たり前じゃないか、アイツが私達親子の人生をめちゃくちゃにしたんだ」
蛆の苗床と化した死体を無造作に蹴り飛ばす。 老婆が悲鳴を上げ追い縋る。 視力が衰え白濁し始めたその目は、悪臭匂う腐肉の塊しか映さない。
「愚かな」
これがお前の選択か、イルファーン。 人の救い手たらんとした心優しき精霊に問わず語りに問いかける。
同胞のいらえはなく、ただただ寂しげに、哀しげに微笑むのみ。 見方によっては諦念の笑みとも解釈できる残像を瞠目で断ち切り、老婆の頭上にゆっくりと手を翳す。
その一瞬、自らの死期を悟って顔を上げた老婆が無表情に呟く。
「お前も化け物の仲間か」 「それが俺の誇りだが」 「呪ってやる」
男、それに答えて曰くー
「面白い」
震える手で槍を掴み、一矢報いんと狙う老婆の企みは成功した。 同胞が傷を受けたのと同じ場所を槍で刺し貫かれた男は、面倒くさそうに顔を顰め、片手でその柄を鷲掴む。
「この程度か」
激痛を克服した口元が嘲りの弧を描く。 老婆が愕然とする。
「お前の呪いとやらは我が心臓にも届かぬぞ」
穂先を掴む手に焔が生じる。 槍を遡った炎が一瞬にして老婆に燃え移り、その足元に侍る蛆が沸いた骸ごと火葬に処す。
ここは地獄か煉獄か。
業火に焼かれ死に逝く老婆に酷薄な一瞥をくれ、緋色の眼の暴君はあっさりと身を翻す。
「本当に愚かなのはどちらか……」
後に残るは廃墟だけ。
終 |