イタリアは避暑地としても有名な風光明媚な湖水地方に美しい城がある。
優美な双頭の尖塔を擁したシルエットは両の腕(かいな)に燭台を掲げる貴婦人さながら格調高く、古風なアーチを描く鎧窓が穿たれた石壁の意匠は領主の治世の荘厳さを感じさせる。
5月の薫風に乗って馥郁と薔薇香り立つ古城の中庭にて。 マロニエの木蔭では唄い疲れた小鳥たちが涼みがてら羽の手入れにいそしみ、重なり合う葉に濾された日差しが、蜂蜜を一匙溶かしたミルクのように降り注ぐ。
お抱え庭師が端整に剪定した木立にも増して人目をひくのは、中庭一面を埋め尽くす色とりどりの薔薇。 赤、ピンク、オレンジ、黄、紫、黒、白。 目にも楽しいマーブル模様の遊歩道が巡る花壇では、世界中のありとあらゆる品種の博覧会が開かれている。
『親愛なるおじいさまへ お元気ですか?私はいつもどおり。退屈で息が詰まっちゃう。お母様は勉強勉強うるさくって、お父様はお仕事が忙しくてちっとも相手をしてくれない。おじいさまからもなんとか言ってやって』
かさり。 便箋が触れ合う繊細な音がささやかに響く。
中庭狭しと広がる薔薇を観賞しつつ、白亜の円柱が支える瀟洒な四阿で憩うのは、ロマンスグレーの頭髪を品よく撫でつけた老紳士。山羊のように温和な風貌に片眼鏡がよく似合う。
彼の名はジョヴァンニ・コルレオーネ。 コルレオーネ伯爵家の現当主にして、この城の持ち主である。
元々は病弱な新妻の静養を兼ねて別荘だった城に移住したのだが、妻に先立たれた後もこの地に留まり続けたのには理由がある。
かさり、便箋を捲る。 二枚目に目を通す。
『お父様もお母様もおじい様の言う事ならよく聞くもの。ねえおじいさま、そろそろこちらに来ない?一緒に住みましょうよ。おじい様に話したい事、沢山あるの。こないだなんかね、お友達のジュリエッタが……』
微笑みを一つもらし、まだ読み途中の便箋を静かに伏せる。
離れて暮らす孫娘から月に一・二度の頻度で届く手紙はジョヴァンニの心の慰めだった。 孫娘のヘンリエッタは母親ーつまりはジョヴァンニの娘だーに似ず闊達な性質で、ありていにいえばじゃじゃ馬だ。
礼節を重んじる貴族の家系に生を享け、高貴な血を汲む末裔に相応の厳しい教育を受けた孫娘のそれでも失われ得ぬ活発さを、ジョヴァンニは好ましく思っていた。
今日届いた手紙でも彼の自慢の孫娘は武勇伝と称し、自らのお転婆ぶりとそれが巻き起こした騒動について面白おかしく書き綴っている。 書き手の人柄までも伝わってくるような生き生きした文体に自然と頬が緩む。
そして必ず最後にこう締めくくるのだ。 『ねえおじいさま、一緒に暮らさない?』と。
「……すまんね、ヘンリエッタ」
知らず、呟く。 無論、ジョヴァンニにとっては目に入れても痛くない孫娘だ。 ヘンリエッタもまたジョヴァンニを慕っている。 再三誘われて悪い気はしないが、それを承諾できない理由がある。
「………」
冷めかけた紅茶を一口に含み、庭園を見渡す。 微睡み誘う風が髪を梳いて頬をくすぐる安息のひと時、思い返すは今は亡き人の面影。
『ご覧ください、貴方。薔薇が咲いたわ』
妻の愛した花瓶が罅割れて、妻の愛した絵画の額縁が朽ちてささくれて、その欠片が、棘が、悪戯を企んだ孫の手を傷付けて、苦渋の決断で破棄を命じて。
そこかしこに蟠る痕跡が風化して塵に帰しても、積み嵩む歳月が記憶の澱みを濾して美化しても、永遠と等しく釣り合う奇跡の一瞬に焼き付いた心象だけは色褪せない。
そこにいたのは薔薇愛でる君。 若くして死んだ妻の幻。
鍔広の帽子を軽く押さえ、おくれ毛を梳いて振り返る姿は、逆光の輝きに呑まれてよく見えない。
ただ、儚く美しい微笑みの気配だけを感じとる。
「ルクレツィア」
君はそこにいるのか? まだここにいるのか?
目を閉じて名を呼ぶ。 何度も何度も繰り返し呼ぶ。
瞼の裏の面影と思い出の残像を重ねて。 点字を辿るように、心の指で触れ、撫で、さぐり、炙りだす。
辿っては手繰り、手繰っては辿り、縺れた糸を紐解くようにもどかしく近付いていく。
「ルクレツィア」
甘やかな名を舌に乗せて転がせば、えもいえぬ陶酔が胸の裡に恍惚の余韻を広げる。
彼は夢を見ている。 起きながら夢を見ている。 目を開けながら見る夢はけっして覚めない。 彼女を失くしてからずっと夢の中で生きているような気がする。
勿論、それは感傷が引き起こす錯覚に過ぎず。 妻と彼岸と此岸に引き裂かれてのちもジョヴァンニは現実を生き続けた。妻の喪も明けぬうちから仕事に追われ、感傷に浸る暇などなかった。
何故なら、彼には娘がいたから。 愛おしくいとけない妻の忘れ形見を育て上げねばならなかったから。
美しく聡明に成長した娘を花嫁として送り出し、これと見込んだ婿を鍛え上げて跡目を譲り、晩年を迎えて漸く自らの過去を振り返る時間ができた。
『薔薇が咲いたわ、貴方』
天使の和毛(にこげ)に似た白薔薇の花弁が舞う中、愛しい人が振り返る。
葬送の風。 追想の5月。
だから、これは幻だ。 ジョヴァンニの視る夢……幸せな白昼夢。
何故なら、彼女が実際に庭園を歩いた時間は酷く短かったから。 病がちな妻は寝室で臥せっている事の方が多く、窓越しに眺める薔薇園を心の慰めにしていた。 出産の無理が祟って寝たきりになってからも、薔薇園で蝶と戯れる娘をやつれた顔で微笑ましげに見守っていた。
ルクレツィア。 君と、私と、あの子と。 3人で手を繋いで、この薔薇園を歩きたかった。 ごく普通の家族のように、ありきたりの親子のように。
今も耳に響く妻の声。 幻聴でもいい、この声を聴き続けるためなら追憶という名の優しい悪魔に魂を売り渡しても惜しくはない。
君が薔薇の名前を教えるなら、私は花言葉を教えよう。 私達の娘に沢山の素晴らしい事を教えよう。
『貴方』 「愛してるよ、ルクレツィア。ワシの騎士道を君に捧げよう」
カヴァレリア・ルスティカーナとはイタリアのオペラ。
タイトルの由来は「田舎の騎士道」。 |