だれかが泣いている。
ゼシカ・ホーエンハイムは廃墟の教会にいた。 時系列は判然としない。前後の脈絡は分裂している。ここがどこか、どうしてここにいるかもわからない。ただ、歩いている。
過ぎし日極彩色の恩寵を与えた給うた壁の高みのステンドグラスは無残に割れて、直接注ぐ日射しが塩の柱のように淡く空間を照らしている。 朝な夕な訪なう敬虔な信者の靴裏に削られた床板は朽ちてささくれ、割れた窓や抜けた屋根から吹き込む雨風に長年晒され、傾いで撓んだ部分も多くある。
左右対称、等間隔に配置された信徒席の中央を真っ直ぐに貫いて、両開きの巨大な扉から三叉の燭台が鎮座まします説教台へと信仰の道が敷かれている。
石灰質の静寂が耳を塞ぐ。
そう、ここはとても静かだ。でも、ゼシカにはわかる。何故だかわかるのだ。 だれかが泣いている。 とても哀しそうに、苦しそうに泣いている。
悲痛な嗚咽。 咆哮のような慟哭。
そして、唐突に気付く。
静寂に満たされた教会の片隅に、繊細な装飾を施した矩形の箱が安置されている。 柩を立て掛けたような不吉な印象にも増してゼシカが怯んでしまったのは、その外観が「鉄の処女」なる中世の拷問具に似ていたから。
『ねえ知ってるゼシカ、悪い魔女は教会に捕まって拷問にかけられるのよ。異端審問ってヤツよ』 『いたんしんもん?』 『中でも凄いのは鉄の処女っていってね、見た目は何の変哲もない等身大の箱だけど中には鉄の棘がいっぱい生えててね、閉じ込めて扉を閉めると棘がぐさっ、ぐさって……そうやって体中の血を搾り取っちゃうのよ』
拷問の本で読んだという知識を得意げに語り聞かせてゼシカをさんざんに脅かしたのは、孤児院にいたちょっと意地悪でおませな女の子。 ゼシカより三つ上のお姉さんで、ゼシカの知らない事をたくさんたくさん知っていた。 あとで先生に見つかってうんと叱られたけど、その夜ゼシカは恐怖のあまり眠れなかったものだ。
即座に回れ右して逃げたくならなかったといえば嘘になる。 辛うじて踏み留まったのは、その柩の中にこそ求めるものがあるという啓示のような直感に導かれたから。
ポシェットの肩紐をぎゅっと握り、きっと顎を引き、なけなしの勇気を振り絞って一歩を踏み出す。
一歩、また一歩。
小刻みに震える足と笑う膝を叱咤し、一歩ずつ近付いていく。 逃げちゃだめ。逃げちゃだめ。逃げちゃだめ。 怖くない。だいじょうぶ、きっとできる。
きつく目をつむり、孤児院の先生や友達の顔、近所のおばさんやおじいさんおばあさんの顔、優しくて大好きな故郷の人達の顔を思い出す。
怖くない。みんないる。 ゼシはひとりぼっちじゃない。
ひとりぼっちなのは……
柩の前で立ち止まり生唾を嚥下、恐怖と混乱に潤んだ瞳で、緊張に強張った顔で、その外観を仔細に検める。 遠目に棺と見えた物は柱時計のような形状をした小部屋で、正面に扉が付いていた。
告解室だわ。
心の中で呟く。 ゼシカ自身はまだ入ったことはないが、その存在は修道女の話で聞いていた。教会に備わる、罪を告白するための小部屋だそうだ。 罪を悔いて赦しを得る為の小部屋。 もし自分なら何を告白するだろう。こないだおねしょしちゃったことかしら。
他愛もない考えで恐怖を紛らわせつつおそるおそる手を伸ばし、少しだけ力を込めて押してみる。
軋りながら開いた扉の向こうを覗きこみ、ゼシカは絶句する。
「ここは……」
扉の向こうにはもう一つ教会があった。 ゼシカがいた教会とよく似た、どころか全く同じ教会。 信徒席の配置も説教台の位置もステンドグラスの割れ方さえ寸分違わず同じだが、唯一にして最大の違いを挙げるなら、左右の信徒席を隔てる床に深々と亀裂が穿たれている事だ。
覗きこめば千尋の闇。 冥府へと誘う暗黒の深淵が待ち受けている。
床の亀裂に怖じて思わずあとじさったゼシカの目が対岸に何かを発見する。
だれかいる。 こっちに背を向けて蹲っている。
胸を押さえ突っ伏した姿を最初苦しみ悶えているものと勘違いした。
どうしたの? 大丈夫?
声をかけたくてもこの距離からでは届かない。 人を呼んで来ようか迷ってきょろきょろあたりを見回すも周囲には誰もおらず、思い詰めて振り返れば柩の扉は固く封印され、元の教会に戻る道さえ絶たれている。
対岸に蹲った人影に目を凝らす。 どうやら猫背の男性のようだ。 漆黒の牧師服に包まれた体躯は薄く貧弱で頼りなく、深く垂れた頭を飾る髪もまた黒い。
牧師さんだ。
次の瞬間、悟る。
男は苦しんでいるのではなく泣いているのだと。 両の手にロザリオを握り締め、額を十字架に伏せ嗚咽しているのだと。
どうしたの? どこか痛いの?
慰めてあげたいのに十字架に縋って嗚咽する姿があまりに痛々しくて、喉の窄まりから上手く声を汲み上げる事ができない。
男はけっして振り向かない。 亀裂を挟んで対峙するゼシカの存在に気付いたふうもなく、細い指に幾重にも指を絡め十字架を揉みしだき、何事か譫言を口走りながら泣き続けている。 底知れぬ絶望と孤独に打ちひしがれ、よすがとした十字架に額を預け、物狂おしく咽び泣く。
ねえ、どうしたの。 なにかできることある?
そっちへ行けたらいいのに。今すぐ男の元へ駆け寄りたい、大丈夫だよと安心させてあげたい、優しく頭をなでてあげたいのにできない、彼はゼシカに気付いてもいない、ただ泣いている、魂を絞るような声で
ねえ神様、どうしてあの人は泣いてるの? どうしてそばにだれもいないの?
ひとりぼっちは可哀想。
誘われるように一歩を踏み出す。一歩、また一歩と床を踏みしめた爪先が断崖の手前で止まる。
男はもうすぐそこにいる。手を伸ばせば届きそうな距離にいる。 その距離まで近付いて、漸くゼシカは気付く。 違う。 牧師服が与えた先入観のせいでまたしても錯覚していたが、よくよく手元に目を凝らしてみれば男が握り締めているのはロザリオではない。
一冊の古い手帳。
革の装丁は擦り切れて手垢に光り、如何に使い込まれているかを物語る。 長く伸びた前髪に沈んで表情は見えないが、男はその手帳を大事そうに胸に抱き、薄く頼りない体全体で包み込んでいる。
生まれてこなかった子供を抱き締めるように、 力及ばず守りきれなかったものを、今度こそ守り抜こうとしているかのように
あの手帳にはきっと、大事なひとの名前が書いてあるのね。 とても大事なことが書いてあるのね。
子供心に身を挺して手帳を死守する切迫した様子からそう察したゼシカは、なんだかたまらなくなって、崖の際に踏み止まった体勢から目一杯に手を伸ばす。
男はゼシカに気付かない、振り向かない、手帳を抱きしめて嗚咽している。ゼシカが一生懸命呼んでもどれだけ必死に手を伸ばしてもこちらを見ようともしない。 涙を吸った手帳が手の中でふやけて撓む、前髪に隠れた顔が悲哀に歪んで胸が大きく波打つ。 ねえこっちを向いて、ゼシを見て、どうしたのどこが痛いの? もう大丈夫だよと言ってあげたい、怖いことなんか何もないよと慰めてあげたい、あともう少しで届きそうなのに深い深い地獄にまで達するような断裂が歩みを阻むのがもどかしい、男は泣いている、あんなに泣いているのに……ゼシまで哀しくなる、目が潤んで視界が霞む、息を吸って吐くだけの簡単な動作に肺腑が焼けるような苦痛が伴う。
「 !!」
声を限りに叫ぶのに、男は気付かない。
「 !!」
声を限りに祈るのに、神はいらえを返さない。
神様、とゼシカは念じる。神様どうかお願い、ゼシいい子になります、お手伝いもたくさんします、お寝坊ももうしませんわがままも言いませんだからお願い神様
あの人をたすけてあげて あの人のもとへ行かせて
涙腺がゆるんで目がじんと疼いて熱い涙が頬を濡らす。胸がひどく苦しい。 こっちを見て、こっちを向いて、お願い顔を上げて。 なのに男は顔を上げない。ゼシカの求めに応じる事なく、断崖越しに差し伸べられた手にも呼びかける声にも一切反応らしき反応を示さず絶望の殻に閉じこもっている。
この崖を飛び越えてあの人のところへ行けたなら。
死と隣り合わせの危険な誘惑に心がぐらつく。 そうでもしなきゃだれがあの人に大丈夫だよって言ってあげるの、もう泣かないでいいのよって教えてあげるの? きつくきつく目をつむり、小さな手を胸の前で一心に組んで祈る。奮い立つ勇気が恐怖に打ち克つ。 再び目を開けた時、青い瞳は一途な使命感と強い意志とに磨き抜かれて冴えた光を放っていた。
神様はなにもしてくれない。 ゼシがなんとかするしかない。
あの人を助けようとそう望むなら、ゼシカ自身が頑張らなきゃいけないの。 どんなに怖くてたまらなくて逃げたくても諦めて引き返すわけにはいかなくて、しんこうしんとかしめいかんとかはくあいせいしんとかきっとぜんぜん関係なくて、こんなに近くに泣いてる人がいるのにほっとけないってただそれだけの理由じゃなくて、上手く言えないけど、そうだ、だって
『ゼシカ』
ママならきっと、こうするでしょう? ゼシカが崖の向こうに行くのを手伝ってくれるでしょう?
いちども会ったことないママ、優しくてキレイなママ。結婚式の写真でパパと一緒に笑ってた幸せそうな花嫁さん、ゼシカを産んで死んじゃったママ、でも生まれてきてごめんなさいなんて言わない、だってそんなのすごくすごく頑張ってゼシカを産んでくれたママに失礼だもの、そんなこといったら産んでくれた人が哀しむもの、きっとがっかりしちゃうもの。
かわりにありがとうって言いたい。
「ママ、」
産んでくれてありがとうって、大好きなママにお礼を言いたい。
「パパ、」
でも、ゼシの誕生を楽しみに待っててくれたパパにはごめんなさいを言いたい。赤ちゃんの時、ゼシが元気なかったせいで哀しい思いをさせてごめんなさい。パパはゼシもママも死んじゃったと思って、それがすごく哀しくて、家族がだぁれもいなくなっちゃったのがすごくすごく寂しくて、それでいなくなっちゃったの。いなくなった家族をさがしにいっちゃったの。
本当はちゃんとここにいるのに、ゼシの事が見えなかったの。
じりじりとにじりさがり重心を低く構えて深呼吸、まっすぐに対岸を見据えて覚悟を決める。 怖くないわけがない。でも、ひとりぼっちのほうがもっと怖い。 「ゼシ、知ってる」 ひとりぼっちとひとりぼっちが一緒になれば、もうひとりぼっちじゃなくなるんだよ。家族が、友達ができるんだよ。 靴裏で床を蹴る。助走、跳躍。軽い体が風に舞いあがる。スカートの裾がふわりと膨らみ、足元に深い深い奈落が口を開ける。
あと少し、もう少しで届く。
対岸に足が掛かろうかという寸前、手帳を抱きしめ泣き崩れていた男が、風に呼ばれたようにふと振り返る。 長い前髪がばらけてほんの一瞬、泣き濡れた素顔が露わになる。縁なし眼鏡をかけた穏やかな顔は、ゼシカがずっと捜し続けていた人物とそっくりで……
パパ。
「!」 目覚めた時、ゼシカは天幕の中にいた。 神託の都、メイム。過去に遡る、あるいは未来を暗示する神秘の夢を見せるという都。
たゆたうシーツの上で陽だまりの仔猫のように丸まっていたゼシカは、眠気の残滓を帯びた極端に緩慢な動作で目をこすり、ぱちぱちと瞬きする。
「パパ………?」 夢見心地に呟き、口惜しげに唇を噛み、どれだけあがいてもがいても何も掴めなかったちっぽけなてのひらを見おろす。
結局、この手は届かなかった。 子供の小さな手では孤独に凍えた背を掴めず、短い足では断崖絶壁を飛び越せず、精一杯張り上げた甲高く澄んだ声は崖底から唸りを上げる風の音に消されてしまった。
あんまりにも無力で非力でちっぽけな。 せっかく覚醒してもただの子供でしかないゼシカ・ホーエンハイム。
だけど、
「………そこにいたのね、パパ」 からっぽの手をきゅっと握り、己の胸へと持っていき、反対の手をそっとこぶしに重ねて温める。
漸く居場所がわかった。パパはあそこにいる。暗く冷たく寂しい廃墟の教会にたった一人、彼が精一杯の願いと祈りを込めた手帳を抱いているのだ。 生まれてくる子供の名前を何十何百と書き留めた手帳……ゼシカが貰うはずだった名前がひそやかに埋葬された手帳を。
「むかえにいくから、待っててね」
その時こそ、ゼシカはにっこり笑ってこう言うのだ。 先生から教えてもらったママの口まねをして、ドジでうっかりさんなパパを脅かしてあげるのだ。
『おねぼうさんなハイド、そろそろ起きる時間よ』と。 |