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[8] スケルトン・イン・クローゼット
The Childish Darkness.
ファルファレロ・ロッソ(cntx1799) 2012-01-14(土) 15:03
銃は錆びる。
鉄は錆びる。
錆びて壊れ塵となる。
なら、人間の心臓が錆びないと何故言える?





寝返りが伴うしめやかな衣擦れの気配に薄目を開く。
夜である事をさしひいても視界が暗く狭いのは右瞼が腫れ塞がってるせいだ。
無気力な視線を虚空に投じる。
次第に暗闇に目が慣れて、部屋の輪郭や調度の配置が影の濃淡によって炙りだされていく。

腫れた瞼に圧迫された視界に浮かぶのは、退廃と荒廃に沈んだ部屋。
室内は荒れていた。
掃除はおろか換気もろくにされてないのか、埃舞う床の上に乱雑に衣類が散らかっている。
クローゼットに掛ける手間も惜しんだのか、脱がす手間脱がされる手間双方に焦れたのか、窄まり丸まったストッキングは暗闇の中で脱皮した蛇の抜け殻に見える。
寝室の向こうに垣間見えるキッチンからは、噎せ返るようなアルコールの匂いに乗じ饐えた悪臭が漂いだす。


ヘルズ・キッチン。
地獄の台所とよばれるNYのスラムの一角に建つアパートの一室で少年は夢から覚めた。


夢?
夢なんて見ていたか?
覚えてない。真っ暗だった気がする。


目を閉じても暗闇、開けても暗闇なら両者の境はあるのだろうか。
両者を分け隔てるものは何だろうか。

現実に帰還して最初に感じたのは瞼の違和感。
それはやがて鈍く疼く痛みに変わり全身に広がっていく。
彼自身が苦痛の塊のようなものだ。口の中に鉄錆びた味が充ちる。試しに舌で突けば奥歯がぐらぐらする。瞼の腫れは寝る前にまたヒステリーが始まってベルトで鞭打たれたその名残り。バックル部分の金具が直撃して切れたのだ。
この前はガラスの灰皿、その前はスリッパ、その前は煙草、その前は……覚えてない。覚えていた所で意味がない。意味がないなら忘れた方がいい。


そうして最後には何もなくなる。
目をこじ開けて抉り抜いても変わらず闇が映るにちがいない。


両手で抱えた膝に目を落とせば、そこにも内出血の痣が。
傷の上に傷が、痣の上に痣が、色素の定着を待たず重ねられるせいでもはや瑕疵のない皮膚の方が少ない。

部屋を一巡した視線をゆるゆると手前に戻す。
ベッドで女が寝ていた。
女は全裸だった。
裸の背中に毛布をひっかけ、かすかに寝息を立てている。
サイドテーブルには深酒の証拠の空き瓶と飲み残しのグラス、折れ曲がった錠剤のシートが放置されている。

少年は床で寝ていた。彼にベッドは与えられなかった。
女からできるだけ離れ、壁に寄り添うようにして眠っていたが、深夜に叩き起こされる事や放り出される事もよくあった。
まれに寝室に居るのを許されたが、そういう時は大抵ひとに見られて悦ぶ悪趣味な手合いが一緒なものだからおちおち眠れやしなかった。

ベッドでは女が寝ている。
彼を排泄した女が安らかに眠っている。

今晩咥えこんだ男はとっとと帰ってしまったらしい。用が済めば薄情なものだ。
独り寝にふける背中を見るともなく眺めやり、再び睡魔が襲うまでの暇つぶしに妄想をこねまわす。


今なら殺れる。


怒りはおろか憎しみもなく、乾いた事実としてそう思う。
あの女が油断しきった今ならあっさりととどめをさせるだろう、深酒浴びて眠り込んでる今なら大した抵抗にも遭わないだろう、子供の細腕でも押さえこめるだろう。


銃口のような眼差しで闇を見つめ、思う。


胸の裡に冷えた虚無が広がる。
膝を抱えた両手、膝頭に添えた右手親指を立て、人さし指を真っ直ぐ伸ばし、中指を引きつける。
人差し指は銃身、中指は銃爪。
そうして銃爪を引く動作を虚ろになぞる。


頭を狙って一回、
肩を狙って一回、
親指と人差し指は直角90°、中指は内側に曲げて。
銃口を模した指先を移動させ、背中のど真ん中を撃ち抜く。


『uno』

カチン。

『due』

カチン。

『tre』

カチン。

『quattro』

カチン。
指先に殺意を装填する。

情動は凍り感情は壊死したまま、痛みに錆びた指で惰性のように自慰のように銃爪を引き続ける。
脂染みた黒髪の向こうには無感動を通り越して不感症な銃口の瞳、垢じみた肌着の中で泳ぐのは傷と痣だらけの痩せた体。

闇から直接生まれ落ちたように黒いその髪と瞳。
悲惨なものを見すぎて無感覚に閉じた心と瞳。

繰り返す殺人の真似事、復讐の予行演習。

子どもらしさを置き去りにした倦怠感ただよう無表情のまま、銃に見立てた人差し指を女の背に擬し、機械的に引き金を引き続ける。

『cinque』カチン『sei』カチン『sette』カチン『otto』カチン『nove』カチン………


『dieci』
カチン。終止符。


同時に女がもぞつき、肩から毛布を振り落とす。
外気に晒されたのは呼吸に合わせ波打つなだらかな肩の稜線と肩甲骨の窪み、肉感的に脂の乗った背中。


毛布をはだけて眠り続ける女。
規則正しい寝息に合わせ安らかに上下する背筋。皮膚にくるまれた肩甲骨が儚く震え、独り寝の寒々しさをいっそう引き立てる。



今なら殺れる。



本能的にそう判断し体が動く。
極力物音をたてぬよう、埃でざらつく床に手足をついてベッドに這い寄る。


女は穏やかに眠っている。
無防備に背を向けて眠っている。


裸の背に手をかけようとしたー


その時。
「ん……」
かすかな身じろぎについで女が振り向く。



目が合う。
傍らに立つ人影に焦点が合うやいなや寝起きの呆け顔が凍りつく。


また殴られるのか。
首を絞められるのか。


どっちでもなかった。


天井と壁に跳ね返るヒステリックな悲鳴、続く慟哭。
肩口に迫る手を薙ぎ払い、両手で頭を抱え頑是なく首を振り始める。


「嫌よイヤ、許して来ないでさわらないで、なんでもするから命だけは助けて!」


めちゃくちゃに髪振り乱し口走る命乞いのことば、恐怖と混乱に自閉した瞳を極限まで見開き醜く歪んだ形相で傍らに迫る人影を凝視、全身でもって激しく拒絶する。


「お金ならチェストの一番上の引き出しにあるから、うちにあるものなら何でも持ってっていいから、だから」


シーツを掻き毟り背板に激突、それでも半狂乱で許しを請い続け、ついにはベッドから転落し床でもんどり打ち、四つん這いでできるだけ遠くに逃げようとする。


「出てって!警察をよぶわよ……違う、嘘よ呼ばないそんな事しないお願い怒らないで、わかった私が悪かったわ謝る、だから!」


ころさないで。


床の衣類を手当たり次第に掴んでは投げ、過去と現実が錯綜する眼差しで、涙と洟水に溶け崩れ錯乱しきった表情で、がたがた震えながらひたすらに哀願する。


「う………」

自ら脱ぎ捨てた衣服を掴み、ぶざまに惨めに這いずりながら嗚咽を絞り出す。


ああ、そうか。
暗闇の中で、少年と彼の『父親』を間違えたのか。


彼の手には毛布がある。
床から拾い上げ、母の背に掛けようとした毛布。


「うぅう」


肩が寒そうだったから、


「………」


ただ、それだけ。
それだけのこと。


優しさや思いやり、ましてや親子の情愛などではけしてない。
その時は何故だかそれが自然な事に思えて、テーブルから落ちたものを拾い上げるように、風に舞い上がるカーテンを押さえるように、あの時ははだけた背中に毛布を掛け直す行為が正しいことに思えて




それだけだったのに。




打たれた手がじんと痺れる。
床に蹲った女が再び顔を上げ、ベッドを挟んで醜態を傍観する少年と視線が衝突。
刹那、愕然と剥かれた目がどす黒い憎悪に濁る。

女の腕が撓う。
卓上の酒瓶を物凄い勢いで引っ掴み、振り抜く。


咄嗟の事で避ける暇もない。
深酒が祟ったのか、最初から当てる気がなかったのか。
力一杯投擲された酒瓶はアルコール依存の手元の狂いも相俟って、彼の背後の壁で砕け散る。
鼓膜を破らんばかりの轟音と衝撃。


「う………うぅ………」


女が泣いている。
汚い顔で泣いている。


ヒステリックな罵声と暴力には慣れっこだったが、こんなふうに静かに泣かれるのは初めてだった。


あんたなんか生まなきゃよかった。
嗚咽の合間にその口癖を何度も繰り返す。


何度も。
何度も。
永遠を前借りするように限りなく。


泣き崩れる女に近寄りはせず、片手に掴んだ毛布を持て余し、闇と虚無の水位が刻々と上昇していく部屋に立ち尽くす。





銃は錆びる。
錆びて壊れ塵となる。
なら、人間の心臓が錆びないと何故言える?
心臓が送り出す血が錆びて、錆びた毒が全身に回って、感情さえも錆びて死んで、そうして後に何が残る?



多分、なにも残らない。




手の指の間をすり抜け、毛布がぱさりと床に落ちた。

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