神様の手は温かかったなぁ。思い出しただけでしっぽがかってに動きだしてしまうや。わふぅん ぼくの名前はさつき、岐阜さつき、明階二級の資格を持つ神学者だ。誇り高い茶柴一門の出身で自由交易都市フォン・ブラウンで研究を続けている。 今日もロストレル号が到着した遺跡をシュリニヴァーサと一緒に探索している。ロストレル号が到着したときは確かに遺跡は稼働していたのだけれども、今は沈黙中。疑神のニュートンの運転するトラックの荷台に乗って、遺跡の斜坑を行ったり来たり。<<街に戻りなさい。あなたの母=岐阜みかんが到着しました>> 『神の声』だ。神の声というのはぼくたち犬族の知性の源で、空中に漂う電子精霊がぼくたちに色々教えてくれるんだ。神様がいなくなったときにぼくたちが寂しくならないように、声だけはいつもぼくたちと一緒にいてくれるんだ。本当はただの電波なんだってわかっているんだけど、いろいろな波長で量子暗号化されて駆け巡って、たくさんの犬族の気持ちを乗せて漂っているんだ。だったら『犬の声』なんじゃないのかとぼくは思うんだけど、お母さまは、この仕組みを作ってくれたのはやっぱり神様だから、と言ってくれた。 ほとんどの犬族は無意識のうちにそれを聞いているだけなんだけど、ぼくは明階の階位なので、もっとはっきりとした声の形で聴き取ることができる。 猫のシュリニヴァーサはいじわるだから、本物の神様としゃべったことがあるぼくらが未だに『神の声』なんて言うのはおかしいと言うんだ。 ともかく、シュリニヴァーサにさようならをして、バイクに飛び乗って遺跡から飛び出した。通廊を登って、フォン・ブラウン市の共有区画に出た。街はいつものように犬猫でごった返している。 お母さまは、神様が顕れたと聞いてこの街まで来ることになったんだ。お母さまは猫族がお嫌いだからこの街には絶対来ないと思ったんだけどね。通信でもなんで神がわざわざこんな汚い街にってぷりぷり怒っていらしたよ。大宮司なんだから仕方がないよね。神様は犬族と猫族は仲良くしろって言うんだ。ぼくは良いことだと思うんだけど、どうなるのかちょっと心配だね。 お母さまの乗ったリニアはもう鈴木市から犬区画に到着していると神の声は言うから、ぼくは犬区画への通廊で待つことにした。通廊の入り口にはコンテナが積み上がっている。フォン・ブラウン市は数少ない犬と猫の交易拠点だからね。† † † † † † † † † † † † †:import 導きの書-> フォン・ブラウン市で核爆発が発生します。:warning-> Radionuclide Polluted !!:message 図書館-> 対放射能装備が貸与されます。 事前に有機ヨード薬を服用してください。 放射能メーターが警告を発したら直ちに汚染区域を離脱してください。:order_4_lostnumbers-> 図書館の協力者「岐阜さつき」を救出してください。 専門科のある病院は鈴木市にあります。 フォン・ブラウン市犬族専住区画からリニアで移動できます。:sub_mission-> 犬族の都市を調査してください。:remarks-> 猫族は非常事態では犬族の都市に立ち入ることができないものと思われます。† † † † † † † † † † † † † 通廊のベルトコンベアで運ばれて来るコンテナと犬猫の群れを眺めながら一息ついたとき、ぼくは立ち並ぶコンテナの向こうから澄んだ青い青い光を見た。 それはほんの一瞬の幻想で ――気がついたらぼくは倒壊したコンテナの下になっていた からだが熱い 目の前まで飛ばされてきた猫は、よく見ると下半身を資材に押しつぶされていて、きれいな毛皮をおなかから飛び出した内蔵で台無しにしていた。彼の疑神が、その猫の上半身を抱えて狂ったようにどこかへ走っていった。 お母さま! 駆け出そうとして足がもつれた。 空調のシャッターが次々と下ろされていき 後ろから分厚い隔壁が下ろされていく絶望が聞こえてくる。 がんばって、立ち上がって、足を踏み出そうとすると、頭がぐぁんぐぁん鳴ってどうしようも無い。前がよく見えない。 逃げだす犬と猫と疑神が何人も横をすり抜けていく さっきの猫の残された内蔵を踏んでまた転んだ。 おっぇぇぇ、朝ご飯と、血と、なにかいけないものを吐き出す。 顔を上げてもベルトコンベアから落っこちたコンテナと、もう動かなくなった犬猫しか見えない。 お母さま お母さま 助けて、 ねぇ、 ……神様、助けて よ
さつきが……。シュリニはましなのかっ!? 自分、小竹卓也は未だかつて無い程焦っている。ロストレイル号の進行が遅すぎる。早くしてくれ。暗視付きのビデオは持ってきた。放射能シールドをしたディスクもある。有機ヨード薬は飲んだ。ライトある。対放射能装備に包まれながらも膝が勝手に震える。犬と猫ののんびりした世界じゃなかったのかよ! 何故そんな場所に核爆弾……いや、今は余分なことは考えるのはよそう。 焦燥感が顔に出たか、超能力戦士、強攻偵察兵ハーデ・ビラールに肩をぐっと抑えられた。 「小竹 ……良ければ記憶を読ませて貰えないか。岐阜さつきの追加情報と周辺状況が掴めれば、それだけ早く現場に到達出来る。岐阜さつきの容姿、声、街路の様子を思い起こしてくれ。小竹の表層意識に上っている事象以外は読まないと約束する」 落ち着け自分。仲間と一緒ならできることはいくらでもあるはずだ。カバンから一枚の紙を取り出す。 「地図はこれだ。仮の駅となっている遺跡から地下都市に通廊がつながっている。爆発の起きる回廊はこの地下都市の先だ。ここまでは自分も行ったことはない。街の雰囲気を思い出すから。天井に気をつけろ。重力が小さい。よし、記憶を読んでくれ」 必死で、さつきの姿を記憶から呼び出す。耳がぴょこっとしていて、茶色にふさふさしていて、いつもしっぽを振っていて…… 小竹が視線を上げると不死者のボルツォーニ・アウグスト、ロボット武者のイフリート・ムラサメが打ち合わせている声が聞こえる。放射線の影響を受けない二人は現場で長期活動できるだろう。他の被爆者は彼らに任せよう。ロストナンバー達は心強い味方だ。 「私のテレポートは走るより速い ……それに構造が分かったので壁は抜けられる。小竹、大丈夫だ。着いたらおまえを抱えて跳ぶぞ」 記憶を読み終わったか、ハーデの手が離れていく、ふと、トラベルギアを握りしめていた手の感覚が無くなっていた。深呼吸をして手を開いたり握ったりして血行を回復させようとする。災害なんて経験してないただの一般人だけど、頑張るしかない。放っておけるか! 「小竹、大丈夫だ。猫族と犬族の和平を望まない者が居たかもしれない。私たちの出現が契機になったかもしれない。私たちに出来ることには限界がある ……それでも私たちは、この世界と共存したくて来たんだ。私たちは、さつきを喪えない」 † † † † † † † † † † † † † その頃、猫のシュリニヴァーサはさつきを見送ってからもいつもどおり観測機器を動かしてデータ収集に励んでいた。すると、いつぞやかの時のように遺跡が輝きだした。ディラックの空をかき分けてロストレイル号があらわれる予兆だ。おや、折角の神降臨に居合わせないとは、さつきも運がありませんね。 そのロストレイル号から緊迫した表情のロストナンバー達が飛び出してきたのをみて、シュリニヴァーサにもただならぬ事態を悟った。前に会ったときはへらへらしていた小竹卓也までもが真剣な表情をしている。 その瞬間である。 地響きが伝わり通り過ぎていった。観測機器が中性子線と電子ニュートリノの突発的上昇を表示する。おや、遺跡からじゃありませんよね。と言うことは近くで核反応ですか ……戦争でも始まりましたか。 と、女性のロストナンバーがさっと小竹を抱きかかえ、残像を残しながら消滅した。そして、男性のロストナンバーが疑神に掴まると、疑神はスラスターを翻し街へと向かう通廊を上昇していった。 まさか、テレポートですか ……ロストレイル号と言いどのような原理なのでしょう。そしてふむ、疑神 ――ROBOTもいましたね。あの異世界から来た方々も疑神を使うのですね。戦闘用疑神とはいよいよさつきの身の上が心配です。 シュリニヴァーサはひとしきり耳を掻いてみてから、観測機器をその場に置いたままトラックに乗り、ROBOTを追いかけて街に向かうことにした。 † † † † † † † † † † † † † 視線の通る限界までジャンプ 目に映る景色が入れ替わり、再び視線の先までジャンプ スライド写真のように街の風景が次々と入れ替わり、状況が把握しにくい。ハーデと彼女に掴まった小竹はテレポートを繰り返しフォンブラウン市の中心市街犬猫共有区画を走る。街に入ってからは人通りが増え始め視線が遮られる分だけジャンプの間隔がどうしても短くなる。 核爆発が起きたという犬区画へ向かう通廊まで後もう少し。サイレンの音が響きはじめ、エアダクトが閉じられていく音も聞こえた。 反射的に視線を遮る看板をトラベルギアの光の刃で切断してしまった。連続テレポートで少し疲労しているのかも知れない。ハーデは自らに活を入れた。彼女の元いた世界ではこのような状況は日常茶飯事である。警報が鳴っても踏みとどまらなければならなかった経験も一度や二度ではない。0世界に来てからどうも調子が悪い。 やがて、短くも長い時間の後に、無情にも降ろされた隔壁に辿り着いた。ここから先は想像を絶する光景が待っているはずだ。息を整えて、掴んでいる小竹の様子をうかがうと、彼は思いの外に強く頷き返してきた。コンクリートと鉄の隔壁の厚みを透視する。問題ない。放射線防護服をチェックし、マスクを装着する。 そして、二人は意を決して地獄の釜の中へと飛び込んでいった。 先行する二人に遅れてイフリートはボルツォーニを伴って通廊を上昇していた。 ボルツォーニを抱えているのもあるが、普段と環境が違うのでなかなか飛びにくい。航空プログラムを調整。 ――気圧 65KPa ――大気粘性 1.8e-5 Pa.s ――重力加速度 1.6 m/s2 ――転向力 微少 イフリートの出身世界の物理法則(壱番世界のそれとほぼ同じ)に当てはめれば、上記数値が示す状況は明白である。イフリートが推論結果をボルツォーニに伝えようとしたところで、ひらけた空間に出た。ようやく街の広間だ。 フォンブラウン市中央広場は、雑多な空間で、数百メートルにわたって空間が広がっていて、天井の高さも10メートルはある。世界図書館の吹き抜けになっているロビーに近い。そこから、四方八方に街道とも言うべき通廊が伸びている。 所々天井に吸い込まれていく階段があったりもし、そのほかにも無数の細かな通廊への口が開いており、壁をしきりられた独立した部屋やバルコニーが無秩序に連なっている。 普段ならば、無数の露店と暇な犬猫にひしめく所であるが、警報音の中、犬猫が逃げ出していくのが見える。犬は犬同士で、猫は猫同士で集まって路地や小部屋に入っては次々とシャッターを下ろしていく。対応が早い。広場にいくつかある巨大なディスプレイも避難情報一色である。 同行しているボルツォーニも死の王に相応しい強靱さを持ち合わせているので、かなり無理のある機動が可能である。イフリートはできるだけ、犬猫の邪魔にならないように天井近くを飛んでいこうとしたが、天井は天井で張り出しや渡り廊下が突き出し、ぶつからないように飛ぶのは一苦労であった。そして、無数に飛び交う電波の中から意味のある情報を取り出そうとも試みたが、高度に暗号化されているようで意味はわからなかった。ただ、それでも電波の流れてくる方向などはおおまかに判別できるので、それをたよりに飛び出してくる犬や、猫を抱えた疑神をうまく避けることができた。 爆心地へ急ごう。 † † † † † † † † † † † † † 汚染区間にテレポートアウトし、速やかに周囲に警戒の目を向ける。 破壊を免れたわずかな光源が遠くまばらに光っており、全体的に暗い。耳鳴りがする。 「小竹、大丈夫か? ここは減圧されているようだ。放射能が外に流れないようにするための処置だろう」 通廊はコンテナがレールを外れて転がっていたり、荷物が散乱していたりした。疑神に抱えられた猫はまだ幸運だ。たまたま、コンテナの影にいた犬も無事だ。それらの動ける者達が逃げてくる。 ここから先は、テレポートでは見落としが多い。二人は互いに頷き合って走り出した。小竹が動けない犬猫に叫ぶ。 「みんな大丈夫だ! 助けは来るぞ! 歩ける奴はがんばれ!」 放射線防護服が動きにくい。それでも倒壊したコンテナやコンベアの天井を蹴って跳ぶ。重力が軽くて助かる。倒れている犬猫が途中、何人も。先に進むにつれて破壊の跡が大きくなっていく。嫌な想像しかできない。 やがて、二人はうずくまるこげ茶の毛皮のかたまりに辿り着いた。 「さつき……」 小竹がさつきを抱き起こした。分厚い防護服を通して暖かみを感じる。錯覚ではない、まで生きている。彼女のこげ茶の毛皮は、血と胃の内容物とドス黒いなにかに汚されていた。それでもさつきは弱々しく小竹にしがみついてきた。何か言おうとしているのか咳き込んでは血をこぼす。 ハーデは擱座した疑神とぺしゃんこになった猫から目をさつきにうつして、つとめて優しく述べた。 「話さなくていい、君の母親が来ているのだな。その人の容姿を思い浮かべろ、さつき ……情報を後から来る2人に転送する」 災害の中心はもっと先の方だろう。早くも小竹とハーデの放射線マーカが灰色に染まってきた。 『聞こえるか。私や小竹には進める限界がある ……頼めるか、ボルツォーニ、ムラサメ? 私達はさつきの搬送を優先する』 テレポートを繰り返し、爆心地を通り過ぎ、通廊を抜けると、そこは混乱の極みのリニア駅であった。一呼吸して放射線防護服のマスクを外す。駅の密閉式フルスクリーンホームドアの向こうには、リニアが停まっており負傷者の到着を待っている。リニアの発進を待つ時間が惜しい。 リニアのレールは、ロストレイル号の到着した遺跡と同じように緩やかな上り坂になっており、恐ろしいほどの直線である。このまま地上に続いているようだ。 掲げられた略図によるとリニアは地上を走行しここから300km先の鈴木市まで続いている。視線はどこまでも通る。 ハーデは意識を集中して長距離テレポートした。 † † † † † † † † † † † † † 分厚い隔壁には小さな通用口があり、飛び出してきた犬猫はその場にへたり込んでいた。心配そうに隔壁の向こうにくーんと振り返るものもいれば、たまらず遠吠えをしてしまうものもいる。 イフリートから手を離し、地面に降り立ったボルツォーニの足元からするりと影が抜け出す。するとその影はそのまま降ろされた隔壁の下を隙間に吸い込まれていき、暗い汚染区画に音もなく、こともなげに侵入した。 隔壁の向こう側には恐怖と絶望に満ちあふれていた。自力で逃げてこれない犬猫が取り残されている。警報音と「救助隊が到着するまでお待ちください」「救助隊が到着するまでお待ちください」と繰り返す放送を背景音にうだるようなうめき声がこもっていた。 「……と言う有様だ」 「救助隊を待つ時間はスーパーないな。ウルトラ急がねば」 猛るイフリートに対して、ボルツォーニは決して感情的にはならない。彼は受けた依頼を最も効率よく達成するための手を、冷徹に考え、述べた。 「私が先行しよう。私と吸血鬼化の仮契約した者は、一時的にだが生命の頚木から自由になる」 犬猫に驚嘆されながら、二人は生身のまま突入した。疑神と見まごうばかりのイフリートはともかく、不死者のボルツォーニはまだ尋常の生物に見えるからだ。 通用口をくぐると、ボルツォーニは使い魔を走らせた。使い魔と視覚を同調させ、生存者の生気を辿る。そして、ボルツォーニ自身をも霧に変えて先へと歩を進めた。 通廊を進みながら、瓦礫でふさがれていれば、ボルツォーニはハンマーに変えた魔術武器で達人の力をしめし、イフリートは左手のガトリングガンを発射した。 そして、ボルツォーニは魔術的に、イフリートは科学的に、残された生命をサーチする。適当に原形を留めているコンテナを見つけて歩けない犬を乗せては、イフリートは引っ張る。逆犬ぞりだ。猫はマークしておく。 ボルツォーニにとっては保護対象が生命の危機に瀕していることはすぐにわかる。燃え尽きる前の香の煙のようにか細く立ち上る生気が呪われた両眼に映るからだ。手首或いは前足を軽く咬み『瀉血』を行う。物理的な『毒』から呪術的な『呪い』までを、少量の血と生気と共に啜りとる能力だ。これによって血液に取り込まれた放射能が排出されたであろう。彼はどす黒いタール状の『淤血』を不味そうに吐き出すと、次いで己の指を喰い破り、血を飲ませることで仮の『従者』契約をした。こうして次々と半不死者となった重傷者は、その時点で衰弱を停止する。このまま本契約をしなければやがて元の犬猫に戻るが、それまでに医療機関に渡せば問題なかろう。 既に失われてしまった命については、気をつかう時間が惜しい。先へと進む。 爆心地だろうか、とりわけ通廊の側面の損傷が激しい一角があった。壁の金属壁は融解し、一部ガラス化した背後の岩盤層と醜く融合している。黒こげになって原形を留めない犬の死体がたくさんあった。身につけていた金属装飾が複雑に変形し死体に突き刺さっている。通廊の中でも人通りの多かった一瞬が狙われたのだろうか。いや、詮索するのは後にしよう。 ボルツォーニはふと思い出して、ハーデに呼びかようとした。先程、イフリートに告げられた推論が気になって仕方がない。このままではハーデ一行は深刻な事態に陥りかねない。しかし、ハーデは聞き耳を立てていないか、テレパシーに応答する余裕がないか、精神反応は返ってこない。しかたがないので、ボルツォーニは知り得たことをトラベラ―ズノートに書き記した。 † † † † † † † † † † † † † 視界が結像すると共に、耳を貫く強烈な衝撃が小竹の意識を襲った。するすると抜けていく。全身が衝撃に軋む。足下に何もない。なんだなんだ! テレポートになれてきたと思ったらなんだよ! 暗い視界の端々に光を感じる。混乱のまま頭を振りかぶると あまりに頭上を埋め尽くす 透明な朱 ―― 所々雲状に黒く抜けた、透き通るような朱が頭上で覆わんとする円盤を形成していた。その朱が、黒が、目を焼く。 あ、あれじゃ ……じゃ ないか 苦痛が意識を身近に引き寄せた。唇も鼻も呼気をつかめない。空気が吸えない。自分、窒息している……。不自然に冷静になると、腕の中のぬくもりが思い出されてきた。 さつき それが今自分にできるわずかで唯一の事と悟り、反射的に小竹は手持ちのマスクを彼女に口に装着した。隙間から盛大に空気が漏れるが何もないよりは幾分かはましであろう。 その行為は確実に弱ったさつきの命を繋ぎ留めたのである。 攻撃を受けている! 最初の衝撃が脳を通り過ぎると同時に、ハーデは記憶から状況を整理することを開始していた。反射的に短距離テレポートをしてもダメージが追加され続ける。似たような攻撃を受けたことがある。空気を操る能力者と相対したとき。それと同じだ。真空攻撃をうけている。だが、なぜっ。殺気はなかった。 ――空に浮いている ――地上へ向かう線路 ――地下都市 ――軽い重力 ――落下している ――高度な空調設備 ――ボルツォーニからの断片的なイメージ ――暗示的な世界の名称 朱い光に照らされた荒涼とした大地、見上げれば巨大な朱い惑星 ここは宇宙だ! 月の上空で落下中だ! 緊張はワンマンアーミーを冷静にさせる。こんな危機は今までに何度もあった。肺から酸素が高速に揮発していく。既に3秒失った。酸欠で意識を失うまで残り7秒。状況整理と対処検討―― 7 抱き合っている小竹とさつきは意識を落としても10分は生存可能 6 宇宙線障害、組織損傷は許容範囲 5 目標鈴木市の座標を誤った理由検証 4 惑星の半径の小ささを見誤った 3 空を仰ぐカタパルト確認 2 地中を透視 1 空洞確認 意識がブラックアウトしていく中、ハーデは決死のテレポートを敢行した。それは極めて危険な行為ながら最良の選択であった。生命を拒絶する宇宙空間は生身で漂うにはあまりに過酷な空間である。いかなる所に辿り着こうとここよりは安全であろう。 † † † † † † † † † † † † † 逆犬ぞりを引いて、ようやく、傷ついた犬たちを犬区間のリニア駅に運ぶことができた。ここから先はボルツォーニに任せてイフリートは通廊を引き返すことにした。 「ここは犬猫の仲をスーパー考えれば猫も助けて恩を売っておくべきだろう。とにかく、目の前の人ひとりよりも全体として被害者を減らすことをウルトラ考えるべきだな」 来る途中にマークしてきた猫をコンテナに乗せながら来た道を戻る。重傷な者はボルツォーニが手当てしてあるので気が楽である。 先程は通り過ぎた爆心地で足が止まった。何もかにも解け合っているこの状況でははっきりしない。この近隣で直接爆風を浴びた者で生き残った者はいない。多少離れていても熱風に肺を焼かれて致命傷を負っている。トンネル内だと爆風は拡散しないからか、前後数1km以内に生存者は見当たらなかった。 「気圧が低めに設定してあるのが幸いしたな。拙者の世界であったら被害はスーパー拡大していたはず」 そして、一カ所に固まって黒こげになった犬たちの集団のなれの果てをセンサーで走査する。ふと、死体に突き刺さっている金属装飾をひっぱり取ってみると、懐中時計のような形状の機器であった。ディスプレイ部は砕けているが、その下の刻印はかろうじて読めた。 『大好きなお母様へ、さつき』 イフリートはそれを腰の収納部にしまって先を急ぐことにした。 やがて、出口が近づくと犬族の救助隊がはぁふはぁふ活動を開始していた。猫族の疑神と思われたのかイフリートは彼らに素通りされ、コンテナ一杯に猫を担いだまま共用区画まで戻ってきた。そこでは猫族のランガナーヤキが待っていた。救助用にか疑神を引き連れた猫も大勢いいる。 駅の方ではようやくリニアの発信準備が整った。リニアは駅から地上までの17kmを電磁加速するマスドライバーからなっている。リニアのペイロードは列車と言うよりはむしろ船で、マスドライバーから離れると目的地まで慣性飛行し、目的地のマスドライバーで減速する。地上が真空だからこそ成り立つ交通手段である。 なにやらリニアに追加のロケットのようなものを取り付けるのに時間がかかったようだ。その間、ボルツォーニは駅の救助隊とくぅんくぅん苦しむ犬たちを一体一体座席に座らせシートベルトをくくりつけて回っていた。 そのせいか、発進のカウントダウン中に同行する犬救助隊に話しかけられた。こんな状況なのに目を輝かせて耳もぴこぴこしている。 「神様とこうしてお会いできて光栄です」 「私は神ではない。貴方がたの言うそれに似ているかも知れないが、遠くかけ離れたものだ。特に私の場合は」 「いえいえ、そんなそんな。神様と会うために岐阜のみかん様もこちらにいらしたわけですし…… あ」 彼はようやく、この状況で岐阜みかんが負傷者に含まれていない事実に思い当たったようだ。悲しげにヒゲを落とすと押し黙って正面を向いた。 ほどなくカウントダウンは終了してリニアは発進した。ジェットコースター等とは比較にならない加速。おおよそ4G、負傷者には荷が重いとも思えるが、犬たちの会話を聞くとこれでも普段よりも緩やかにしているらしい。ボルツォーニもふかぶかとシートに身を沈め、緊張を解いた。 「犬と契約をしたのは初めてだ」 リニアは長いトンネルを30秒ほどで抜け、加速は唐突に終わる。 世界が朱くなった。 天上から光が降り注ぎ、車内がほんのり朱に染まる。一時の間を置いて今度はロケットに点火、軽いGがかかるが先程の暴力的な加速とは比べるべくも無い。緊急用の低加速モードで運行しているとアナウンスが流れる。 ボルツォーニは立ち上がり、世界を睥睨した。ペイロードは荒涼とした大地を飛んでいる。灰色のクレーターが点在する砂漠。生命の息吹は全く感じられない。星そのものが息を止めてから永い。不死の君主よりも遙かに永い刻を刻んできたであろう死の大地。やらわかい光が降り注ぐ中、しずかに瞬きもしない星々が無数に正面を埋め尽くしている。 空を埋めつくすがごとくの巨大な天体は紛れもなく地球にうり二つ。まぶしいくらいに朱に輝いている。奇っ怪とも言うべきは、白い雲があってしかるべきところが黒く塗りつぶされているところだ。それはこの矮小な世界にかけられた呪いであろうか。 今は深く考えるまい。視線を船内に戻す。もう大丈夫だろう。彼らは助かる。ボルツォーニは席で静かに眠っている犬の頭に腕を伸ばした。『神様』に似た姿を持つその手は冷たかったが、しかし、優しかった。 † † † † † † † † † † † † † 病院のICUにさつきを見送って緊張がほぐれると、どっと疲れが押し寄せてきた。さつきの肺には放射能がびっしりこびりついており、目も焼かれ、臓器移植を受けないといけない危険な状態ではあったようだが、犬族はサイバー技術を有しているようで、命には別状はないとのことである。しばらくは、人工心肺につながれた状態で培養槽に沈められるようだ。 そのさつきが入る予定の培養槽を見上げて小竹が咳き込んだ。正直、まだ胸が痛い、肺胞の毛細血管が裂けているのかも知れない、世界図書館に帰ったら医者に診せないと。それにしても ――思ったより被害が小さくて良かった。最初聞いたときは街全体が壊滅したのかと思ったよ。 これまで起こった出来事を反芻し、脳裏に一つの事実を結論する。 ――隔壁、減圧処置、救助隊、あまりに準備が良い。そもそもなぜ都市は地上じゃなくて地下に建造されているんだ。 「なぁ、ハーデ。この都市って核シェルターだよね。この世界は……」 「そうだ。この世界では核、大量破壊兵器の使用が日常茶飯事、あるいはかつて日常茶飯事だったと言うことだ。住民の見た目はかわいいが、この雰囲気は私の元いた世界に近い」 「なぁ、ひょっとして今回の事件は俺らと関係あるのかな」 「無いと考える方が不自然だ。それがこの世界の望みなのだろう。ん、ボルツォーニが鈴木市に到着したようだ。まだまだやることはあるぞ」 † † † † † † † † † † † † † 「貴殿が猫のシュリニヴァーサか。報告はスーパー聞いておる」 イフリートは傷ついた猫達をランガナーヤキの一行に引き渡すと、その場に残ったシュリニヴァーサに向き直った。ランガナーヤキは地下経済の担い手だが、この街の顔役でもある。こういった状況ではしかと役割を果たしてくれた。猫たちは猫区画から猫たちの病院に運ばれるであろう。学者のシュリニヴァーサは救助には加わらないつもりのようだ。 「あなたはサイボーグなのでしょうか? ロボットなのでしょうか? 岐阜さつきは無事だったのでしょうか?」 「さつき殿は鈴木市の病院にウルトラ運ばれたようだ。心配ない」 「ありがとうございます」 「ところで、ここに来てからウルトラ気になっているのだが、この飛び交っている電波は何だ?」 それは空中に漂っているナノマシンを媒介して犬同士が交信するための電波ネットワーク。通称『神の声』。犬族はこれを使って互いに情報のやりとりをしているようだ。とは言ってもほとんどの犬族は断片的なイメージしか受け取れないし、帯域の問題でなんでもかんでも送信できるわけではないのだが、犬族の結束を固めるのに大きく貢献している。そして通信は暗号化されている。 「イフリートさんと言いましたね。猫のことも犬族と同じように気をつかっていただけると思うのです。こちらをどうぞ」 それはシュリニヴァーサが独自に分析した『神の声』の暗号キーだった。遺跡の調査の過程で手に入れたもののようだ。 「これは、他の猫族には教えないでおいてください」 インストールすると、犬たちの声が遠く聞こえてきた。 ――助かった ――怖かった ――うーうーうー ――テロだよね ――何人殺された ――がうがう ――どこの仕業だろう ――猫族だよね ――神様を見た犬がいるって ――うぉーん ――でも猫も死んだ ――大神官が巻き込まれたって ――くーん ――猫は他の猫のことをあまり気にしないし ――まだ核兵器が残っていたなんて ―― イフリートはこの声に耳を傾けながら、残りのロストナンバーが帰ってくるのを待つことにした。 † † † † † † † † † † † † † 「朱い月に見守られて」のどこか 薄暗い空洞であった。 流れる水がコンクリートの隙間を彩り、ほんのりと間接光が壁を照らしている。古い土の臭いがする。神秘的な雰囲気が醸し出されるように良く設計されていた。 本来は植物工場であった場所だ。今では遥かに効率的な工場が建造され、もはやこのような設備は出番がない。その機能は多くから忘れ去られてしまい、代わりの装飾が追加されている。しかし、そう言う場所であるからこそ、行き場を失った犬猫の行き着くところでもあった。 「おいおい、神はもういないんじゃなかったのか?」 「ぐちゃぐちゃになった猫まで助かったんだって!」 「伝説では神は俺たちだけじゃなくて猫にも優しかったことになっているからな」 「俺たち猫の先祖はあんなのを従えていたのかよ」 「こりゃ、お前ら犬が崇めるわけだ!」 「どうしよう。俺たち天罰が下るのかな」 第03植物プラント ――まだ犬と猫が協力し合っていた時代の遺物。 「違う!」 威風堂々とした侵入者の出現に一同に緊張が走る。その犬は典雅な法衣をひるがえして入ってきた。 「アレは神などではない。いかなる神話、法典をひっくり返しても神にあのような能力はない。神は、我々とともに歩み助け合う友であった。あの忌々しい柴犬がどんなトリックを使ったのかはわからんが、アレは断じて神などではない。 そう、神は永遠にこの世界に還ってくることはないのだ」
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