この白樺の森は、いつも冬景色だ。 寒さと深雪で歩くことさえままならぬ、人を拒み続ける地。 それでも奥深くまで歩けば、ほんの少し開けた場所に出る。 そこには、凍てついて久しかろう小さな泉と。 ほとりに数本、突き出ながら半ばで折れた石柱が、雪化粧を帯びていた。ここもすっかり、寂れてしまいましたね しかし、今。 泉は方々が砕かれ、稲妻にも似た亀裂が縦横に伸びている。 傍には、無造作に放られたつるはしと、横たわる少年の姿。 少年の腹部より出でて雪に穴を開け、広がる、おびただしい流血。むごいことを そして。 巨大な影が、四足で一歩一歩圧し掛かるように歩く。 長い体毛で雪上を撫でるように、泉の外周を回っている。 時折、砕けた水面をいたわるように垂れた頭からは、対合わさればその体躯と等しい丈を持つ、つららの如く透き通った枝角が生えている。 滴り伝う血は、横たわる骸のものか。愛しいひと 獣は天を仰ぎ、悲しげな雄叫びをあげた。 慟哭は嵐を喚び、嵐は雪を伴って、森から四方へと噴き出した。私の声は、もう……届かないのですか*****「君達には、その鹿みたいなのをやっつけて欲しいんです」 世界司書のガラが語るのは、ヴォロス北方の辺境で起きた事件。 土地に唯一の村落は今、滅びの危機に瀕していた。 きっかけは、待てど暮らせど止まぬ雪。 寒さのせいで、春来る鳥や獣の姿も、草花が芽吹く気配もない。 蓄えや薪は、もう十日ともつまい。 片道七日もかかる最寄の町に助けを求めるか。 慣れ親しんだ村を捨て、いっそ移住と決め込むか。 そんな話が現実味を帯びてきた折、誰かが言った。 姫神様さえ居てくれれば、と。「ええと、この辺で信仰されてる女神のことみたい。……なんかね。言い伝えでは、昔は人と一緒に暮らしてたんですって。畑とか耕して」 彼女は主に豊穣を司り、農耕や山林について人々に知恵を授け、時には数多の奇跡を以って暮らしを支えていたと伝えられている。 ところが、ある時、姫神は白樺の森の奥深くで、眠りについてしまった。 森が常冬となり、下界と隔絶されたのも、ちょうどその頃だという。 いずれも経緯については諸説あるようだが、正確なところは判らない。 確かなことは、当時の民が森を聖域として定め、立ち入りを禁じたこと。 そして、村人達は信仰と掟を、頑なに守り続けてきたということ。「森がどうなってるのか、姫神は実在するのか、本当のことは誰も知りません」 その場所が、命に関わるということさえも。 しかし、とうとうある少年が姫神を連れてくると息巻いて、村を飛び出した。 温故も畏敬の念も薄い、ただ信心だけは深い少年を止める者は居なかった。 皆、あるいはという気持ちがあったのかも知れない。 姫神が永い眠りから覚め、手を差し伸べてくれるのでは、と。 彼らは、追い詰められていた。「結果は、はじめにお話した通り、ですよう」 ガラは帽子のつばで目元を隠しながら、ぼそっと呟く。 事態は、より深刻化していた。 間を置いて少し落ち着いたのか、ガラは笑顔に改めて、旅人達を見る。「でね、ここからが大事」 直前までの寒波は、あるいはちょっとした異常気象だったのかも知れない。 だが、今起きている暴風雪は、件の獣の所業だ。 力の源は案の定と言うべきか、獣の一部と化した竜刻。 それも、広域に渡り風と冷気を自在に操る、かなり危険な代物。 更に、獣は巨躯に見合った膂力と生命力、高い知性を併せ持つ。「吹雪を止めるには、もう倒すしかないの。でも、今回は君達でも勝てるかどうか判んないです。むしろ…………不利かも」 ガラの言葉通りなら、かなりの強敵ということになる。 まずは何よりも戦いに集中するべきだろう。 他に思うところがあろうと、あれを倒さねば一切が水泡に帰す。 逆に、討伐せしめれば村の脅威は去り、竜刻も回収できるというものだ。 その上で気になることがあるなら、調べてみるのも良い。 とは言え、全ては勝ってこそ、なし得るのである。「はっきり言ってきついお仕事ですよう。それでも行ってくれる人、居ますか?」 旅人達に尋ねたガラは、やはり笑顔のままだった。
● 飛天鴉刃は、木々を見上げる。 広葉樹にしてはすらりと上向きに伸びる幹。そこから幾つも分かれた乾いた枝から、鋭く真っ直ぐなものを見定めて、飛翔し、断つ。 いざという時、投擲に用いる為だ。 威力的には心許ないが、気を逸らす程度には使えるはずだ。 (氷柱でもあればと思っていたが……仕方がないか) たとえば炉を焚いた小屋でもあればそれも叶ったろう。 しかし、この森は不可侵の聖域と定められて久しい。 人の手も日照も等しく及ばぬ。寒中の暖気など望むべくもない。 否。森のみにあらず。 一帯が天地の境すら失われた純白と、痛みさえ覚える極寒の地獄。 歩み寄れば殊更強く、全てを煽って放り出す。 人を、生命を、温もりを、強く拒絶していた。 だが、皮肉にもその中心部では、林立する白樺が、嵐を幾分か遮ってくれる。 だから、進むごとに激しさの増す風の中でも、旅人は前に進むことができた。 「少し前、男の子が来たと言うけれど」 夕篠真千流は髪と白い息を風に流されるまま、かえらぬ少年を思う。 「彼もここを通ったのかしら……」 もし、自分が彼の立場ならどうだったろう、と詮のない仮定が浮かぶ。 とりとめのない思考は、まだ答えを導き出せない。 今、確たるものがあるとするなら、この吹雪を鎮める為に竜刻を持つ者を倒さねばならぬということだけだ。 ところで真千流の決して大きくない声は、なんとか風にかき消されず、傍で足元を嗅いでいたモルティ・ゼグレインにも届く。 今は青年に変態しているが、その姿勢と仕草もあいまって、本来の姿でもある狼のようなしなやかさを感じさせた。 「多分ね。匂い、残ってるぜ」 「へえ。足跡なんかとっくに消えてるだろうに、解るのかい」 大したもんだねと篠宮紗弓が称えれば、モルティは得意げに笑う。 しかし、鷹揚に振舞いながら、紗弓は失われた命に胸を痛めていた。 少年は、希望を抱いていただろうか。 儚い想いを胸に、死出の旅路を急いだのか。 目指すは奥地に潜むもの。 姫神が眠る泉と、それに寄り添う存在。 ロストナンバー達は今、犠牲者と同じ道を往く。 (いや、同じじゃ駄目だ) 呉藍は、怒りに近い情念をもって、ここに居る。 世界は違えど己と等しく山林を守護する、獣の所業に。 彼の者は、おそらく姫神に仕える神使と見受ける。 ならば、咎もなくすがる命を奪うなど、およそ許し難い。 未だ生ける民の為に、志半ばで果てた少年と同じ道を辿るわけにはいかぬ。 今、まさに見えてきた木々の途切れめ。 白く霞むその向こうに、じっと佇む影。 枝分れした角が広がる様は、まるで翼のよう。 あれを――そして、この風を。この雪を。 「俺が、止めてやる」 「それを言うなら俺達が、だろう?」 風鳴る狭間からふっと笑う紗弓にやや面食らった呉藍は、一同を見回す。 面持ちこそ違うが、皆心身ともに備えは済んでいるとみえる。 「……そうだったな」 呉藍は幾分か穏やかに返した。 泉を目前にした為か。 今や突風に等しい中、五人は雪中を突き進んだ。 ……れ以上、近付い…………ん 誰かの言葉が、横殴りの風にかき消された。 美しくも悲嘆に満ちた、制止の声だ。 今……ぐ、お帰り下さ…………死な……いの しかし、それが異界の者達の耳に届くことは、ついになかった。 お願い――…… ● 白色の空間。 凍気が、渦巻いている。 ひらけたその場所は、中央に泉と、そのほとりには柱。 そして、泉とロストナンバー達に挟まれた平地に、みじろがぬ獣が居る。 トナカイに近い体躯は馬よりふた回りは大きく、灰色がかった長く厚い体毛はカモシカにも似ていた。また、透き通った角は、文字通り木の枝の如く広範囲に渡って幾重にも分かれている。 このまま動かなければ、氷の枝を成した一本の白樺のよう。 この森の、さしずめ体現者といったところか。 同時に、一帯を覆う寒波の元凶でもあるが。 鴉刃は対峙する敵の、また、仲間の出方を窺いつつ、身構える。 どう転ぼうとも先手は打たせぬ心算だ。 獣の足元には、先に訪れたと思しき者の亡骸が横たわっていた。 風雪にさらされて長いのか、白く凍り付いている。 件の少年の、成れの果てだ。 「その子供が、森を侵したか」 呉藍が、一歩進み出る。 刺すような眼で獣を見据え、強風の中でも良く通る声で、語りかける。 対する獣は微かにいななくのみ。 ただ、旅人達に向ける目は、明らかな敵意のそれ。 「掟を護る者達に、何故手を差し伸べぬ」 「止しなよ」 「義務を怠りながら神を名乗るか!」 「お止しったら」 尚も問う呉藍を、紗弓が制した。 「しかし!」 「幾ら言ったって通じやしないよ。……知ってるだろう」 「くっ……!」 呉藍とて理解はしている。 話が通じる相手なら、そもそもこんなことにはなっていない。 「じゃ、やるしかないかなー」 「ええ……」 モルティが構え、真千流も柄に手を添える。 続いて紗弓がすぐ詠唱に入れるよう印をきり、終いに呉藍が、自身の首飾りを剥ぎ取った。手の内でそれに炎を宿し、歯噛みしながら宙へと放つ。 刹那。 獣を軸に外へと向かっていた風が、徐々に泉へと内向きへ逆転し始めた。 空気の変化を真っ先に察知した鴉刃は、すかさず尖った白樺の枝を撃つ。枝は届かず吹き飛ばされるが、鴉刃自身は風を貫き、既に獣の側面まで移動していた。 やや遅れて真千流は前屈みに真正面からとん、とん、と距離を詰める。 鴉刃は雪上すれすれを飛び、軌道を変えてやや後方より獣に迫った。 (どう出る) 鴉刃がついに肉迫し、拳を穿たんとする手前、嵐が止み、代わりに獣の周囲のみ力強いつむじ風が取り巻いた。 「……っ」 風は、まず居合一閃を放つ間際の真千流を地より上空へ突き放す。 そこに隙ありと鴉刃が一撃を見舞った。ギアの力で拳撃は剣撃と為す。 身を翻した獣が頭突きのように枝角ごと頭を垂れて応じた。 (浅い!) 断たれたのは氷柱の一片のみで、ほぼ反動のない獣は構わず鴉刃に突進。 鴉刃は拳を振り抜いた向きに飛び、辛くも難を逃れる。 「二人では無理か。――だが」 「当たれえ!」 鴉刃が言葉を切った時には、モルティが丸ごと一本の白樺を獣目掛けて薙ぎ払っていた。二人が距離を縮めていた間に引き抜いたものだ。 白い幹は風で若干持ち上げられるも、獣の横腹に直撃する。 「まだだ!」 苦痛に鳴く獣が持ち直す前に、焔に導かれて呉藍が宙から飛び掛った。 擦れ違い様、やはり腹を狙って爪を振るい、引き裂かれた体毛が舞い上がる。 だが。 「!?」 再び炎の道を駆け抜けた呉藍は、手応えに違和感を覚えた。 硬質で滑らかな――まるで氷を引っ掻いたような感触。 振り向けば、獣の身体からぱらぱらと白い欠片が落ちている。 風雪を自在に操るとはこのことか。 並みの攻め手では大した効果に繋がらない。 誰もが認めた時、獣に向かいまた二つ、翔け、あるいは駆ける。 紗弓が使役する白鷹と銀狼だった。 「ぼさっとしてる場合じゃないよ!」 紗弓は仲間達に檄を飛ばすと同時に、各々の得物が炎を帯びた。 更に、使い魔達の能力で、僅かながら獣の纏う風雪が和らいでいる。 「効かないのなら、効くようにすればいいんだ」 これで、以後の攻撃はある程度の威力が発揮されるはずだ。 とは言え、利は未だ獣の側にあるのだろう。 (頭数はこちらが上。だけど……) 皆は、気付いているだろうか。 強敵に臨む旅人の多くが共有する最大の長所にして、弱点を。 すなわち、仲間がいるということを。 ● 「てぇい!」 モルティは、今や巨大な松明と化した木を、獣の頭上から叩き付ける。 獣は横に跳ねて避けがてら強風を起こし、モルティを後退させる。 すかさず鴉刃が切り込み、不意に弱まったつむじ風に回し蹴りを捻じ込む。 獣はまた避けようとするが、鴉刃はわざと空振りし、そのまま裏拳を顔面目掛けて放った。併せてモルティが吼え、更に回避しようとした獣を一瞬止める。 森の守護者の頬がぱくっと割れ、瞬く間に血が溢れていく。 「ぬ」 しかし大振りで隙の出来た鴉刃に獣は構わず突進し、その傷だらけの黒い身体に新たな傷を与えんと枝角を向ける――! 「危ない……!」 そこに真千流が呪符を放ち、穂先は鴉刃の胸ぎりぎりのところで結界に弾かれた。 「助かる!」 鴉刃は構え直す間もなく前足に手刀を撃つが、命中する直前、獣が呻くと凍気をはらんだ風が放射状に起きた。 周囲に居た鴉刃、モルティ、真千流は痺れるような痛みと共に空中に放り出され、飛ぶ能力の無い二人は5メートルほど離れた雪上に落下した。 「くっ!」 「ふわっ!?」 「……!」 どうにか宙に留まった鴉刃は、節々の感覚が薄れていることに危機感を覚えた。 あれと交えて幾度となく、こんな遣り取りを繰り返している。 手数で勝るロストナンバー達は相互に連携を意識し、絶え間なく仕掛けた。紗弓の付与した炎もあって、とにかく当てさえすれば凍気による防護は比較的砕き易く、事実これまでに誰かしらがかすめた軌跡は獣の体毛を斑に黒ずませ、時には今のように肉まで達する手応えもある。 だが、雪上であるにも関わらず、大柄な獣は軽やかに巧みに退く。熟練の戦士の如く軌道を読み、切り返す。 加えて、この風雪を操る力だ。 今飛ばされた顔ぶれの内、モルティはすぐに身を起したが、真千流は震えを伴い、軽んじることの出来ないダメージが見て取れた。 あの風を幾度も食らえば凍傷は必至。 「……長引けば不利か」 風が起きなければ、せめて今少し弱ければ、上空より首を狙うのだが。 鴉刃は存外に厳しい状況を確かめてから、先程の攻撃の折、手についてきた毛を掌に収め、真千流の元へと降りていった。 獣は尚も追撃せんと、倒れた者へ向かい駆ける。 「させないよ!」 先の風が止んだ頃合で、紗弓が牽制で炎弾を射る。 続け様に呉藍が異なる角度からギアの一部を撃ち込み、自身は焔の道でそれを追う。 「銀月!」 紗弓は銀狼にも突撃を命じた。 獣はまず炎から身をかわし、次いで飛来した燃えさかる刃を角で弾いた。 その衝撃で一部が砕けた角の破片が雪に埋まるより先に、飛び掛る銀狼を振り向き様の体当たりで弾き飛ばす。 銀狼は甲高い悲鳴をあげたが、くるりと翻って猫のように着地した。 「こっちが真打だ!」 丁度背を向けた獣を、呉藍の牙が捕らえ、肉を噛み千切って駆け抜ける。 さしもの獣も激痛にみじろぎ、また吼えれば真上に突き上げる風を起こした。 たちまち頬と背の傷が鋭い音を立てて凍てつき、小振りな真紅の氷柱を成す。 「氷で止血とは恐れ入る」 真千流から離れた鴉刃が低い姿勢を保ったまま、敵との距離を詰める。 「まだまだあ!」 鴉刃の後ろからモルティが白樺の木を投げつける。 それは鴉刃の頭上を追い越し、一直線に獣へと向かっていた。 流石に大回りに避けねば当たると踏んだか、獣は飛来する白樺の軌道から垂直に駆けようと足を踏み出した、その時。 「……っ!」 こおぉん――と、乾いて締まった木が、金属を叩く音が、森に木霊した。 途端、獣は身を強張らせ、同時に別の場所から耳を劈く悲鳴があがる。 真千流のトラベルギアの藁人形が、あらたかなる力を発揮したのだ。 突然鋭い痛みに襲われた獣は硬直し、そこにモルティの投げた木が迫る。 白樺は枝角と直撃し、白塵を撒き散らして勢い良く弾け飛んだ。 否。砕けたのは白樺のみにあらず。 あれの角が半ばほど吹き飛んでいる。 衝撃で朦朧としているのか、獣はよたよたと足踏みをしていた。 ――好機! 鴉刃は速度を上げ、抜き手を構える。 「たたみ掛けるよ!」 紗弓が先のものよりも大きく尾を引く炎を喚びだした。 やがてそれは炎蛇となって、弧を描きながら獲物へと向かう。 「応!」 呉藍は炎蛇と併走する。 彼もまた、焔の刃を取り巻き、自身を火の権化と為していた。 ● 嵐の起点にして中心に迫る波状攻撃。 最初に達したのは紗弓の魔術。 火の粉を散らす紅蓮の蛇は、獣の胴をむさぼり、抉るように焦がす。 続き、一拍も置かず鴉刃が肉迫したので獣は苦しみながらも真っ正直にそちらを退けようと体当たりを試みる。 だが、攻めると見せた鴉刃が地に伏せがてら叩いたのは、足元の雪。 僅かな間、六花が無数に咲き誇り、視界を奪う。 俄かに目標を見失い前後不覚となった獣を襲ったのは、呉藍の突撃だった。 蛇腹状に宙を巡り、火刃が脚を、胸を、頭を切り裂く。 たまらず獣が短く叫びかけたところで、呉藍はとうとうその首筋に牙をむいた。 どぶっと溢れた血は狗賓の顔を染める。 しかし、獣の首は存外に堅く、鹿よりは牡丹を連想させた。 「滅却!」 終の手、鴉刃が本懐の喉元を、穿つ! 水を吸った真綿に近い、鈍い感触が指先を包む。 だが、如何にその肉が密に締まろうと捻じ込み、貫かねばならない。 (ここでとらねば) おそらく、後はない。そんな気がして、更に力を込める。 呉藍の牙は、鴉刃の手は、じわりじわりと急所を求めて深きへ食い込む。 死体のように冷たい、獣の血を伝わせながら。 だが、森の守護者とていつまでもやられたままとはいかぬとみえる。 組み付いた二人の足元より、唐突にぎゅんとつむじ風が起きた。 刺すような痛みをもたらす、張り詰めた風だ。 「白陽!」 紗弓が遠くから叫ぶと、白鷹が風の周囲を幾度が巡る。 その度に、風勢は緩急を繰り返したが、徐々に強力なものに変わっていった。 「少しぐらい抑えられないのかい!?」 ならば、と紗弓は抜刀し、黒龍と狗賓の元へ急ぐ。 「まずいわ。止めないと……」 「間に合えー!」 モルティ、真千流も、先に受けたあの凍てつく風と同系の、しかもより危険なものとみて、仲間を助けるべく走った。 三人が駆ける間にも、つむじ風は成長していく。 獣が、鳴いた。 既に小さな竜巻と呼ぶに足る脅威と化していたそれは、地表の雪をはらんで真っ白な渦となり、手始めに鴉刃と呉藍を巻き込んで、獣から引き剥がした。 二人とも、風に揉みくちゃにされながら上へ横へと吹き飛ばされてしまった。 「迂闊……!」 「く、そ……」 獣は、己を穿った憎き敵を追いやった天を仰ぎ、今一度哀しげに鳴く。 すると、渦は密度が薄まる代わり、外へと広がり、旅人達がこの地を訪れた時より遥かに凍てついた暴風となって、残りの三人に襲い掛かる。 「――……っ」 真千流は、体中が麻痺し始めていた。 (……?) ホワイトアウトの只中、明滅する意識で。 あの獣も、低温にさらされて固まっているように見えた。 (……そう。私と――おんな、じ――――) 真千流はふらりと倒れ込み、そのまま動かなくなった。 「真千流ちゃん!」 最後の瞬間、紗弓の呼び声は届いただろうか。 「……あっ、あいつ逃げるぞ!?」 倒れた仲間の安否を気遣う間もなくモルティの声に紗弓が振り向けば、獣が泉の側へ踵を返していく。 「参ったね」 ひとまず、紗弓は真千流の傍へ行くことにした。 ● 呉藍が目を覚ますと、やはり暴風が吹き荒れたままで。 一緒に飛ばされたはずの鴉刃の姿は周囲になく、見当たるのは少年の遺体と、浅く砕かれた、地に張る氷。 そこは、泉の畔だった。 「……痛っ……」 全身に痺れたような痛みはあるが、一応動けなくはなさそうだ。 そこへ、ずしりぎしりと雪を踏みしだく音が近付いてきた。 無論、あの獣に他ならない。 おそらく、これ以上戦い続けるには厳しい相手だ。 「今のお前はただの魔縁。姫神の愛した人間を、お前が苦しめているんだ」 だが、まだ為すべきことがある。 だから、呉藍は届かぬであろう言葉を、あえて紡いだ。 見れば、獣も満身創痍ではないか。 ならば今をおいて他にあるまい。 「姫神が目覚めないと言うんなら――俺が目覚めさせてやる」 呉藍は腕を上げ、トラベルギア『龍樹』に業火を燈した。 何事かを察知したのか、あるいは只の敵意か。 獣は激しく嘶いて、真っ直ぐ駆けてくる。 「悲憤の叫びで耳を塞ぐな!」 呉藍が泉にギアを仕向けたのと、獣が呉藍を跳ね飛ばすのは同時だった。 「彼女は…………今も、お前を呼んでいる」 呉藍は柱に背を打ちつけ、そのまま崩れ落ちてしまう。 龍樹は泉を広く溶かしながら削ったが、途中で呉藍の意思が途切れたのか、主の元へ戻ってきた。ただ一筋、大きなヒビが増えたのがみとめられた。 「呉藍!」 少し遠くに飛ばされていた鴉刃が、やっとのことで駆けつけた。 鴉刃は獣の前に立ちはだかり、構える。 獣は「どけ」とでも言うように吼えて威嚇した。 もう、おやめ下さい 「……誰だ?」 風に混じり、耳慣れぬ声がしたので、鴉刃は辺りを見回す。 女の声だ――と、獣が突然どさっと倒れ込む。 一方でその額、角の生え際が、寒々しい光を発した。 これ以上続ければ、あなた方も無事ではすみません 風が、和らいだ気がする。 (これは……姫神、か?) やがて鴉刃は泉に視線を定めた。 泉もまた、淡く陽光に似た明かりが漏れている。 獣は、なんとも苦々しげに鳴いた。 ……さあ、今のうちに このひとが立ち上がれば、もう逃れることは叶わないでしょう 鴉刃は構えを解き、呉藍に肩を貸す。 声の示す通りだった。 もし、力押しで倒すことが出来たとしても、誰かの命が失われるようでは。 「…………恩に着る」 鴉刃は泉に短い礼を述べ、呉藍を抱えて翔んだ。 地上を離れてから、鴉刃は一度だけ獣の方を見た。 哀れな存在だった。 ***** 「おっ、戻ってきたぜ」 モルティがこちらに向かって飛ぶ鴉刃と呉藍を感知し、紗弓に知らせる。 紗弓のギアによって一命を取り留めた真千流を背負って。 「負けたね、どうやら」 紗弓は黒髪を煽られるまま、ぽつりと言った。 どこかやつれて見えるのは、癒しの力で魔力を使い果たした為かも知れない。 「ごめん、なさい…………」 意識を取り戻していた真千流は、消え入りそうな声で謝る。 「あんたひとりが背負い込むことじゃないよ。みんな、足らなかったのさ」 微笑んだ紗弓の言葉は気遣いであり、真実だった。 程なく合流した旅人達は、いみじき春さえ訪れぬ、冬の森を後にした。
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