インヤンガイに落ちた世界計の欠片を脳に所持した状態で保護されたキサ・アデルは力のコントロールが出来ると司書から判断されて再帰属が決定した。 ロストレイルが地下にある駅に到着し、地上にあがると太陽の眩しい日差しが出迎える。「キサは、インヤンガイに帰りたい」 駅から一歩出てキサは目を眇める。「キサは、待ってる人がいる」 一歩、また進んでキサは呟く。「……けど私は」 キサは護衛であるロストナンバーたちの和やかな笑顔や呼びかけに突如足を止め、逆方向に走り出した。 誰も彼女を止めることは出来なかった。 どこをどう走ったのかは覚えていない。建物の密集した路地のなかで息を乱したキサは立ち尽くし、胸の上に光る小さな鍵のついたアクセサリーを握りしめた。「私は、まだ消えたくない。みんなといたい。私は……私は、私は……私は、……!」 ――見つけ、タ 不気味な囁きがキサを飲み込んだ。 彼女を探して、ようやく追いついたロストナンバーが見たのは昏い路地に佇む少女だった。その瞳は妖しく輝き、口元ににっと笑みを浮かぶ。「すばらシい、これほどノ力とは! ワタシの所有する記録、すべてヲ使っテ、今度こそ! 星を手に入れヨウ、イヴ! 今度こそ、星にだって手が届ク! 死者だって蘇ル、この落ちてきた星の知識と力を使っテ!」 めきぃと音をたてて少女の内側から出現したのは薄い紫色の化け物――チャイ=ブレ? と誰かが囁くが、こんなところにそんな化け物がいるはずがない。 だが、少女は完全に蚕じみた化け物に飲み込まれ、その姿は見えなくなっていた。 化け物は嘲笑う。それに合わせて空気は響き、割れ、何かが、 ――さぁ、死者の門を開キましょウ?★ ☆ ★ 緊急事態としてロストナンバーを集めた世界司書は深刻な顔で語った。「理由は不明だが再帰属するはずだったキサはインヤンガイにつくなり、逃亡した。その結果、インヤンガイのネット上で記憶を食べると言われるチャイ=ブレに似た化け物に捕まり、利用されている」 インヤンガイでたびたび起こった神隠し事件に関わっているチャイ=ブレに似た化け物は記憶を食らう。それは過去世界樹旅団がインヤンガイに放ったワームのデータを元に強欲な一部のインヤンガイの者たちが術と霊力によって作った劣化コピーだと推測されている。 その飼い主であるイヴという少女は大切な人を失って、死者を蘇らせようとした。霊力をエネルギーとするインヤンガイのサイバーシステムには悪霊が入り込むことからヒントを得て、魂のソフトウェア化を企んだのだ。しかし、それは失敗した。 飼い主であるイヴを亡くした化け物はたった一匹で暴走をはじめた。 己の持つ記憶を正しく使うことのできる世界計の欠片を所有するキサを襲った。 キサの所有する欠片は力を与え、吸収し、生み出すこと。「化け物はキサの欠片から知識と力を得て、自分の所有する死者のデータ……インヤンガイに死者を復活させた。これはすぐに鎮圧する必要がある」☆ ★ ☆ 五大非合法組織・暁闇――死者の暗い瞳よりもなお昏い、すべての狂いを飲み込む蛇が君臨する。 怒声――喝采 銃声――合図 歌声――はじまり、だ。 一見、無秩序だが蜂の巣のように均等のとれた建物群。その屋上のひとつにウィーロウ・ディーは立っていた。 すらりとした背丈をスーツで包んだ一見優男風の彼の深紫色は無慈悲な光を孕んで輝き、街を見下ろしていた。忌み眼のひとつ――魅了眼。その瞳は精神を支配し、狂気を呼ぶ。その力をウィーロウは今までずっと抑えてきたが完全に解放した。 とたんにわきあがる狂いの声。 ウィーロウはその声に無関心でふと顔をあげる。暗闇の先に赤い火の手が上がっているのが見えた。「エバさんかな? ふふ、まるで祭のようだね。この世界が終わってしまう最後の祭……死者が生者を食らう一夜にはもってこいだ。君もそう思わないか? アサギ」 ウィーロウの横に立つ黒スーツに赤髪のアサギは何も言わない。 インヤンガイでも名を轟かせる呪殺師の家の道具として生まれ、近くにいるだけで霊力を増幅と力を封じる特殊能力を持つ彼は静かに目を眇めただけだ。「君のおかげで、やりやすい。僕も、それに彼女も」 雄叫びが轟くそのなかを銀が奔る。片手に握られた折れた刀は恐ろしいほどの切れ味で人の血を吸い上げていく。割れた鬼の面から見える淡い色の唇から零れ落ちる恨みの言葉は禍唄となって耳にする者たちの脳髄を無慈悲に破壊する。銀鬼の周りを漂う銀魚と銀狐は牙を剥いて人間の血肉を貪っていく。 ふいに。黒い軍服めいた衣服の片目を隠した男が女の手を乱暴にとって動きを制する。「やりすぎだ、シロガネ」 唇しか見えない面をつけた銀鬼は何も言わない。「お前が生きている者をすべてを憎んでいるのは知ってるが、少し落ち着け。ここにいるやつは、ほっておいても勝手に死ぬんだぞ。わざわざ殺しまわってどうする?」「さすが! ハオ家の最高の武器と謳われただけあって、鬼すら止めるとは! せっかくの宴なんだ。少しぐらいいじゃないか」 いつの間にか二人の前に現れたウィーロウが笑顔で歩み寄る。その姿を見た瞬間、銀鬼は無名の手を振りほどいて襲い掛かった。 しかし。 鬼の動きは黒い――糸のように細い影が手足を巻き付いて封じられてウィーロウは気が付くと銀鬼の背後に回り込んでいた。「残念。僕は影使い、君たちの動きはある程度読めてしまうんだ。安心しなさい。愛しい君を傷つけたりはしないよ。それに君が殺したいのは旅人たちだろう? 好きなだけ殺しなさい。恨みと憎しみしかもうないんだから。……けど、僕の首がほしいなら、旅人をすべて殺してごらん。ご褒美に、遊んであげるから」 大人しくなった銀鬼にウィーロウは優しく口づけを落とすと無名に近づいた。「鬼っていうのは聞き分けがよくていいね、無名」「ウィーロウ……貴様は言ったな? 俺たちに好きにしろっと。蘇ったとはいえ、俺らは自由だ。一応、大本の目標はこの世界を変えることらしいが、いいのか? 裏切っても」「構わないよ。好きにしていい。僕、というか私の方針かな? もともと暁闇は命令を強制はしないんだ。けどアサギくんは協力的だよ、シロガネも……旅人を嫌って、世界を、自分の希望を潰されて悲しんでいる。無名、君はこの世界にもう一度戻ってきて、なにを望む? 恨みを晴らすこと? 憎しみを貫き通すことかい?」「……。あんたはどっちだ? 忌み眼の所有者は多かれ少なかれ、世界を憎悪すると聞く」「君のそれも忌み眼じゃないのかい? 隠れていても正しく人の場所がわかるのは」「俺の、これは違う。ただ持って生まれた力だ」 ふぅんと気のない返事をして深い紫色の瞳は笑って答えた。「忌み眼はそもそもこの世にあるべきではない、失敗作なのさ。ふふ、僕の両の眼を潰すとね、今までの代価として支配した者たちは本当の意味で発狂し、死ぬしかなくなる。はじめに殺されたときは部下みんなが発狂したが、道ずれがそれだけじゃあ、小さすぎるだろう? なにせ忌み眼は主人を食らうのだから。僕は、私は……俺は、そうだね、この両眼が見えるまで邪魔をする者には狂いを、刃向うならば死の先を与えてあげよう。さぁ、かかっておいでなさい。旅人諸君。英雄になりたいというならば、この心臓を真っ直ぐに、迷わずに、貫くんだ。君たちにそれが出来るものならば、ね?」 ――狂わせてあげよう ――楽しませてあげよう ――食らってあげようじゃないか、この蛇が!!お願い!イベントシナリオ群『星屑の祈り』は同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。
まるで愉快で楽しい祭のようだ。 けれど目を凝らせば人が人を殴り、蹴り、噛みつき、――とにかく傷つけあおうとしているのがヒイラギの千里眼に映し出される狂気をひとつ、ひとつ止めるのは不可能に近い。 原因を倒す必要がある。 鼻につく血と殺意の香りに全身に緊張が走る。 こんな形で、亡くなった人に再び会うとは……ここには、あのとき仕方ないとはいえ魂すら消滅させてしまったシロガネもいる。彼女に会えばまた後悔するだろう、それでも、ここに来てしまった。 「今日は狂うにはぴったりのいい日ね」 白い花びらのようなドレス姿の幸せの魔女が春色のふっくらとした唇に笑みを浮かべ、まるで踊りだすような足取りで。 「幸せの魔女さん」 「あら、なぁに、その顔は! 狂う阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら狂わにゃ損損よ? 最近は平和ボケして現実逃避してばかりだったから、刺激が欲しいのよねぇ」 ぱちん、と手を打ってくすくす。この状況を完璧に魔女は楽しんでいた。本来、魔女にとって人の悪意は甘い果実、狂気はスパイスのようなもの。金色の瞳が機嫌のよい猫のように細まり、笑う。 「私ね、会いたい人がいるの。だからここにわざわざ来てあげたのよ。私の幸せの邪魔をしないでちょうだいな? 邪魔なら、あなたたち一人、一人、私の手で葬ってあげるわよ?」 幸せの剣をまるで杖のようにひらりと動かして魔女は笑う。 「……邪魔はしませんが、御一人で?」 ヒイラギの問いに幸せの魔女は美しい眉を吊り上げた。 「私は幸せなの、そんな私に危険なんてありはしないわ。ふふ」 「魔女さん、ヒイラギくん」 笑顔の道化師であるマスカダイン・F・ 羽空がおずおずと口を開いた。 「ボクは会いたい人がいるんだよね。そのために来たんだ、悪いけど一人で行かせてほしいんだ。ボク自身が行かなくちゃ意味がないから、誰の助けもいらないんだよね! ボク、行かせてもらうよ」 マスカダインは止める間もなく駆けだして行ってしまったのに幸せの魔女はふふっと笑った。 「頼もしいわね。さ、あなたはどうするの?」 「狙うはこの状態の原因でしょう」 千里眼が捕らたのは一番はじめに狙うべき敵であるアサギだ。アサギも見られていることに気が付いたのか、すぐに視界が暗くなり現実の視野に戻される。 自分起点に異能阻害を展開するが、千里眼のように距離があるものは向こうの無効化の能力に負けてしまう。それでもアサギの無効化と増加にも距離などの限界があるらしいことは理解した。 ヒイラギは一呼吸置いて、再び視ると飛んだ。 「あら、熱血な人ばかりね、ねぇそう思わない? 無名さん」 幸せの魔女はくすっと笑い、前を見て進みだす。祭りのような道のなか。震える声をあげて襲い掛かる狂人を銀剣で無感動に刺し殺す。 迷わない、躊躇わない、前へと進む。だって。 「私の幸せはどこかしら?」 また追いかけっこだね。 マスカダインは口元に笑みを浮かべて駆け出し、ギアで生み出したグミを地面に撃って飛躍するとビルの上へと移動、数回同じ行動を繰り返して悲鳴があがる現場に駆け付けた。 銀鬼は仮面をつけていた。 また顔を隠してるんだね。 マスカダインはビルの上から銀鬼を見つめけると、グミ弾で地上へと落ちていくのを銀鬼は魚を使い、察知するとすぐに駆け寄ってきた。 建物の入り組んだ街のなか、マスカダインは距離をとることを優先してグミでの飛躍で、刀の一撃を避ける。 銀鬼の言葉は魔であることも先に言われていたのでそれが届かない距離まで一気に逃げた。地上にいる鬼は動きをとめ、折れた刀を持ちなおすと建物と建物の間の小道のなかに逃げ出していった。 「逃がさないよ!」 マスカダインが追いかける。 ボクの想いを生み出すギアよ 決して切れない飴の糸になれ 銀鬼が小道の奥に逃げたのを走って追いかけたマスカダインはギアを放ち、飴の糸で鬼の片腕を捕えた。鬼は背を向けたままびくりとも動かない。抵抗もしない。マスカダインはさらに銃弾を打って、糸を張り巡らせるとまるで蜘蛛の巣のような状態に追い込んで鬼を捕えた。 そうしてマスカダインは近づいていくと、その手から刃をとる。 「シロガネさん、忘れたなら教えに失ったなら与えに渇くなら満たしにいくよ」 マスカダインは仮面を覗き込む。 「桃花鳥」 鬼は動かない。 「もう言葉も嘘もなくて済むから」 そう口にしてマスカダインが口づけを落とした。 そして願った。銀狐、見せてほしい。ボクの望みを。世界の人々が笑っている。泣いても何度だって涙をぬぐう。光を求める。きっとウィーロウだって泣いている男の子なんだ。だったら慰めてあげなくちゃ―― 鬼が笑った。 そんな夢なら、一人でみてなさいよ! ぐしゃあ! マスカダインの唇が食い千切られた――見ると、けたけたけたと笑う銀狐がいた。 お前、どこから夢かわかっちゃいないだろう? 鬼はマスカダインが追いかけた瞬間から幻を見せていたのだ。マスカダインがあのときと同じだというように。 彼が最も欲しいと思う欲望の夢。 マスカダインの手のなかには確かに撫でたはずの銀髪があった――これは? ダメージを受けた肩にいるはと丸がぐったりしているのに目を向けた次には背中から刺された。 マスカダインの不意打ちを突くために髪を短く斬り落とした鬼がいた。彼女は迷うこともなく刃を引き抜いた。 「なんで」 「真名で縛られるとわかっていて、なにもしないと思ったか!」 悲鳴をあげる暇もなく脳を揺さぶられてマスカダインは両耳を押さえて泡を吹く。 「っ、今度こそ、世界を愛そうよ、ボクたち」 「夫を、組織も、故郷すら滅ぼしてなにが愛だ! なにが救いだ! 貴様たちを許さない! 確かに満たされなかった。それでも諦めながら、失いながらも幸せを得ていた。だのに、お前たちが奪ったんじゃないか!」 その声は世界を震わせるほどの憎悪に満ちていた。 マスカダインは関わった、シロガネの大切な街が滅び、身を寄せていた組織の崩壊に。 ならば、わかるだろう。 失わせた原因をどうして許せようか。 世界を愛するというならばシロガネは自分の生まれたインヤンガイを愛していたのかもしれない。それを傷つけ、失わせた旅人をなぜ許せようか。 「あら、怖いこと、幸せが逃げてしまあわよ?」 路地に顔を出した幸せの魔女が笑って剣を振うのをシロガネが受け止め、流す。 「ここから無名さんの気配がしたんだけども、やだわ。ヒステリー? かわいそうな人」 くすくす。 鬼は刀を構え、大きく震う。飴で拘束された狐を解放して襲い掛かろうとすると、その前に黒い影が飛び出した。 「これは俺の獲物だ!」 黒い影は幸せの魔女に切りかかる。刃とナイフが重なり合い、音をたて、火花を散らす。幸せの魔女は隠していたもう一つの短剣を構えると黒影は距離をとる。 じれったい戦闘に銀鬼が苛立ったように刀を振おうとしたのを黒影が無防備な腹を蹴って牽制し、倒れたマスカダインを片腕に拾い上げ、幸せの魔女の手を掴んでその場から逃亡した。 建物の角を曲がり、黒影はマスカタインを地面に捨て、幸せの魔女の手を離して睨みつけた。 「せっかく楽しんでいたのに邪魔されたわね。今日はお祭り騒ぎでとても賑やかねぇ。うふふ、うふふふふ」 幸せの魔女は甘い蜜のように微笑むのに無名はじっと片目で見つめた。 「私、あなたに会うためにきたのよ? 誰が死のうが、どうなろうが知ったこっちゃないわ。せっかく剣をよく磨いてきたの。……お帰りなさい、無名さん。あの世がどんな所だったのかゆっくりと語り合いたいんだけど、そんな悠長な時間は無さそうね」 月明かりを背にして幸せの魔女は狂う人々のなか、一輪の花が咲いたように微笑む。 「無名さん、いつかは素敵な幸せをありがとう。でも……まだまだ足りないわ。どれだけの大きな幸せを受け取っても、次から次へと欲しくなってしまうの。貴方の幸せ、もっとも~っと欲しいわ」 「俺はもう死んだ身だぞ」 「あら、そんなこと今、貴方はここにいるじゃない。言っておくけど、無名さん。今の私と戦うのはやめた方が良いわ。今の私はとても幸せなの。もし貴方の攻撃が私に不幸を及ぼすならば、貴方の攻撃は決して私には当たらないし、貴方は私の攻撃を避ける事もできない」 無名は目を細めてふぅとため息をついた。 「なによ」 「だから? お前と戦う方法なんていくらでもあるだろう? 殺す方法も」 「あら、そんなもの」 「お前は幸せがほしいっていうなら、攻撃あたることが幸せだと思ったらどうだ? 魔女、お前に俺の幸せをやろうか? 死っていう幸せを」 くっと無名は意地悪く笑った。 「……死が幸せだなんて」 「俺の幸せがほしいんだろう? 気持ちよくしてやるぞ」 「……あなたったら、いつから魔女をたぶらかすようになったのかしら?」 「あいにく俺がたぶらかしたいのはお前だけだ。今夜ぐらい狂ってるなら、素直に言ったらどうだ?」 「……ねぇ、私を幸せにして。私の幸せは貴方の幸せでもあるのよ。幸せなのは当たり前、そうでしょう?」 剣をさげて幸せの魔女は真っ直ぐに、震える唇で紡いだ。プライドの高い魔女にこんなことをさせるなんて出来れば八つ裂きにしたほうが幸せなのかもしれない。けれどそのプライドを賭けた不安定な天秤の上にいるときふわふわと頭と心が揺れて不思議な、濃厚なワインのように頭を酔っている気分だ。 覚醒してから知ったが、誰かに与えるから増えていく幸せがある。それと同じ。失うかもしれない不安と恐怖を乗り越えて、手を伸ばしたとき。 全身が震える。 「まったく、どうしてわがままで傲慢な女に魅力を感じちまうのか」 いつものいじわるな言葉にくすと幸せの魔女は花咲くように笑う。 「……あら、それって褒め言葉」 伸ばされた手をとられて、幸せの魔女は微笑んだ。あなたのために私、笑っているのよ? 転移したビルの屋上に着地してヒイラギは千里眼が使えないことに気が付いた。 ギアを手のなかに仕込むと、爪で手のひらの柔らかな皮膚を引き裂いて血をしみこませる。 出来るだけ仲間には協力をするつもりでいたが、それぞれに抱えている事情を考慮すれば己のするべきことを第一に考えたほうがいい。 仲間を信じ、己のために動く。それもまた大切なことだ。ここにはそれぞれ死者に会いに来たのだから。――死者に、なら自分は? 思考に溺れる寸前で頭を横に振って現実に徹する。ここでアサギを倒せば、多少は状況も変化するはずだ。 息を潜め、不意打ちを警戒して周囲に視線を向けながらゆっくりと進む。 騒がしい祭のような街中だというのに、ヒイラギの心は澄んだ湖のように落ち着いていた。 と、何かが動いたのを感知した。 「!」 咄嗟に加速を使いヒイラギは逃げるとそこに弾丸が降り注ぐ。もし一歩でも動くのが遅れていれば蜂の巣にされていた。 しかし、これでわかった。 アサギの位置を捕えたヒイラギは加速をさらに増して駆ける。出来れば死角を狙いたいが相手に自分の位置がばれた以上、それも不可能ならば、真正面からの戦いを躊躇うことはない。 今度はアサギが驚く番だった。まさか銃弾のなかへと飛び出す者がいるとは思わなかったのだ。 ヒイラギは的確に銃弾を避け、ギアを投げてH&K MG4を捕え、物質劣化で破壊を試みる。それにアサギはすぐに気が付いたらしく、無効化の力がより一層強まり、ギアが悲鳴のようにきぃきぃと鳴く。アサギは乱暴にもギアで拘束された状態にもかかわらず引き金をひき、銃弾を飛ばす。めちゃくちゃな攻撃は予想が難しく、回避は不可能と判断したヒイラギは加速状態のまま前に進むことを選んだ。 流れる弾丸を加速したまま、間一髪で致命傷となる顔、胸などを予期して避ける。と、腕を貫いた一発の弾丸の痛みが熱のように全身にかけまわる。 血の流れる手に握ったナイフに加速をつけたまま投げた。一本目はアサギもすぐに気が付いて避けたが、それに隠して片方の手から放った二本目はまるで予想外だったのか、アサギの片腕を刺した。 弱まった! アサギの意識によって保たれている無効化が弱まった瞬間、ヒイラギは間合いを詰めた。手のなかに隠されていたナイフがアサギの首を貫く。 赤い血が散って、アサギが倒れると片腕を抱えてヒイラギは乱れた息を整えながら、目を伏せる。だがすぐに目を開けて、振り返る。 銀狐がじろりとアサギを見下ろしていた。 「……やりづらいですが、あなたをそのままほってもおけません。シロガネさん。一応、あなたに伝えておきたいこともあります。それに……私にはあなたの歌は通用しませんよ?」 狐がけたけたけたと笑った。 次の瞬間、ヒイラギの世界は暗闇に染まった。 ここは――! 息を飲む。まただ、あのときの、最近、よく見る夢――主がいて、自分がいて、もう一人、いつも笑っている。 ヤナギ それはヒイラギの欲望。 またはヒイラギの失敗。 なくしてしまったもの。失わせてしまったもの。自分はどこで間違えた。どこでこんな道を選んだ? ヤナギが笑って真っ直ぐに自分を見ている。嘲笑っているのか、憐れんでいるのか、それとも…… 「いいえ。もう迷いません」 ヒイラギはギアを握りしめ、投げた。ヤナギの首にギアが絡まる。ヤナギは哀しげにヒイラギを見つめた。 これは自分で潰してしまった未来。 自分の選んだこと。ならば、迷うことはない。 「俺は俺のしたことを後悔したとしても、受け入れると決めたのです。ヤナギはここにはいないことをちゃんと知っている。たとえ欲があったとしても……俺がいるのは、そんな願いがすべて叶ったところではない!」 願いが叶えば幸せだろうか? ――いいや、ちがう。いま、自分はあがいている。夢は叶わないから夢なのだ。 ゆえに願い、見続ける。決して手の届かない、届くことのない幻。 自分はきっとまた夢に見て、苦しもうとも現実の上に自分は立つと決めたのだ。 ギアに力をこめた瞬間、ヤナギが打ち砕かれて闇が消えた。 現実に戻ったヒイラギは迷うことなく加速して狐との距離を詰めた。狐は咄嗟のことに動けないのにギアをその首に巻きつけて、力任せに一気にひいた。きゃああああああああああ。狐が悲鳴をあげるのにヒイラギの片腕も悲鳴をあげ、血を流す。 敵の血に、己の血に、赤く汚れるのにヒイラギは目を眇めたとき 「っ」 ヒイラギの首にそっと冷たい刃が添えられた。見なくてもわかる、シロガネがいる。 彼女が冷たい目で自分を見つめている。なぜと問う。夢は気持ちいいだろうに、欲に溺れればいいだろうに。 刃が落ちる――ヒイラギが覚悟を決めたが ――斬 ヒイラギとシロガネの間に黒と白が割りこんだ。――無名が低く構えるのに魔女はくすっと笑う。 「あら、こんばんは。狂うには素敵な夜ね。あなた、まだ一人ぼっちのままなの? ふふ」 勝ち誇った笑みの幸せの魔女と、それに寄り添う無名をシロガネは口を閉ざしたまま睨みつけた。 「大丈夫? ヒイラギさん」 「ええ。彼は」 ヒイラギの問いに幸せの魔女は誇らしげに胸を張った。 「言ったでしょ、私は幸せをとりにきたの」 刀を振るシロガネに対して無名は一歩も引かず、間合いを詰めて、ナイフで切り返すのを幸せの魔女は本当に幸福そうに見つめる。 無名のナイフがシロガネの刀を力任せに弾き飛ばす。 武器をなくしたシロガネは仮面の奥の瞳を虚ろ色に染めて、唇を開こうとするのを背後から手が伸びて、抑え込んだ。 「だめだよ。まだ、シロガネ」 「……貴様はっ!」 ヒイラギの声に紅蓮の炎のような激しい怒気が宿る。 いつの間にかシロガネの背後に立っていたウィーロウは玩具を与えられてもそれに飽きたこと子どものような目をしていた。 「やっぱり、裏切ったんだね、無名」 「……好きにしていいって言ったのはてめぇだ」 「まぁね。退屈していんだ。ちょっと遊ぼうか?」 ウィーロウが微笑むのに無名が構えるが、次の瞬間にその体が下から貫かれた。 「無名さん!」 幸せの魔女が悲鳴をあげる。 己の影に足が貫かれて崩れる無名を救出すべく、ヒイラギはギアを投げて影を破壊しようとしたが、ぐにゃりと影は揺れてギアを通りぬけた――影は影ゆえに実態もなく捕えることもできない。 影、それも一部だけ具現化している! ヒイラギは一瞬激情にかられてウィーロウを睨みそうになったがすぐに冷静さを取り戻して、目を地面に落とした。目を見れば魅了されかねない。 「私から幸せをとろうとはいい度胸ね! 私は幸せの魔女よ、私から誰ひとりとして幸せは奪えないの!」 幸せの魔女が斬りかかるのにウィーロウは動かない。幸せの剣が突き刺したが――どろっと、その体を包んだのは影だった。 「やぁ、かわいいお嬢さん、君が幸せを求めるというならば、私が与えてあげましょう」 幸せの魔女の腰を抱いてウィーロウは楽しげ笑う。幸せの魔女が逃れようと身動きするが、その瞳をウィーロウは捕えた。 動きを止めてしまった魔女にウィーロウは顔を寄せようと 「人の女に手ぇだしてんじゃねぇ!」 無名が吠え、ナイフを投げたのにウィーロウはさっと顔をひいた。 「おっと、危ない……はは。そんな怒らなくても。さぁ、君の幸せを、とりにいきなさい」 毒蛇の優しく、甘く囁きを耳元に聞いた魔女はゆっくりと歩き出す。 「無名さん。……私、幸せを奪うために生きているのよね?」 幸せを求める笑顔は虚ろに、幸せの魔女は剣を振り上げて、無名に切りかかる。 肩を貫き、もう片方の剣が下腹部を差す。 「そうよ、奪わなくてはいけないのよ。ねぇ、無名さん」 「っ……ああ、そうだな。あのときと同じだ。俺が本当に死んだときと……俺がほしいか? なら、奪ってみろ。俺は口にした。奪えと、俺も奪うと」 「幸せの魔女さん!」 止めるべきかとヒイラギが迷ったのに無名は首を横に振った。 「俺が止める! てめぇはてめぇのしたいことしろ」 「しかし」 「今、まともに戦えるのはてめぇだけだろうが!」 無名の叱咤にヒイラギは拳を握りしめてウィローウと対峙した。 ここにいるだけでじわじわと不愉快な支配を覚えるのに心のなかで主のことを強く思いながら抗い、努めて冷静でいようと試みた。 「以前一度だけお会いしましたが一度亡くなったのにお元気そうですね」 「君はどんな狂気を見せてくれるのかな?」 「あいにくですが、あなたにお見せするものはありません。見せたいとも思いません」 「つれない」 「口説かれても、魅力を感じませんね。あなたには」 加速をつけてナイフを投げる。 ウィローウはすっと後ろに下がって回避するとかわりに――シロガネが飛び出して襲い掛かってきたのに咄嗟のことでヒイラギは動けなかった。 細い腕が首を捕えて、覆いかぶされる。 「っ……シロガネさん」 無駄かもしれない。自分たちは彼女にしてきたことを考えれば、とても会話は出来ないだろう。それでも彼女が自分から声に魔を取り込んで、話すことを放棄しても耳は聞こえている。 「あなたに、茨姫の在処を教えたのはウィーロウではないのですか?」 ずっと疑問だった。 彼女が狂った原因が、けれどここまでくればわかる。 「全て奪った私を、いいえ、旅人を憎んで居るのは良く知っている、だが彼の首、欲しくは無いか?貴方の手の内は彼に把握されているでしょうが。旅人の手の内はまだ伏せられている。未知の札である私達を利用し首、取りませんか?」 締め付ける手の力が緩んだのに、ヒイラギは己の冷たい、血まみれの手を重ねた。 「シロガネ?」 動かないシロガネをウィーロウは訝しむ。 とたんに、シロガネを地面に投げ飛ばしてヒイラギが勢いよく立ち上がった。迷いもなく、まっすぐにギアを放つ。 ウィローウが逃げようとしたのにさらにナイフを影に向けて放ち、影を無効化してウィーロウは捕えた。 「おやおや、それで、君は英雄になりたいのかい?」 ヒイラギは笑った。 「英雄? そんなものには成れませんよ。災いが最もふさわしと思いますね」 ウィローウが問いかけようとしたのにその胸を貫いた刀があった。 「――シロガネ」 ヒイラギに吹き飛ばされたはずのシロガネが、刀を手に持って立っていたのだ。 「シロガネさん」 ヒイラギが視線を向けるのにシロガネは死んだウィーロウの死体を見つめ、面をとった。 唇がゆっくりと動く。 ――お前はもう見つけたのね 「ええ」 ヒイラギは穏やかに頷いた。己を災いといいながらも、それでも己に出来ることをする。その道を自分は選んだ。 「無名さん、」 目覚めた幸せの魔女は血まみれでため息をつく無名の腕のなかで混乱していた。 茫然としている幸せの魔女の稲穂のような金髪の毛を無名はくしゃくしゃと乱暴に撫でて立ち上がった。 「終わったな。この街はもう夢から覚める」 幸せの魔女は黙るのに無名は黙っていたのに両手を広げた。 「来い……これで最後だ、本当に」 切実な声と、迎えの腕。 幸せの魔女はその声に突き動かされたように胸の中に飛び込む。しっかりと抱きしめ、口づけを交わす。 「俺の全部、お前のものだ。お前は俺のものだ。もうなにもない、……お前を愛している。幸せの魔女」 言葉を奪うように、抱擁と、口づけを。言葉で、態度で満たされていく。幸せが 静寂の闇を満たした。狂った祭は終わり、あと残るのは一抹の寂しさを孕んだ風が吹く。
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